定義の「たかが」と「されど」

定義の話、再び。昨日のブログを読み返してみたら、定義に対して批判的とも受け取られかねないトーンが漂っていた。所詮誰かが勝手に決めたもの、「たかが定義」という見方がないわけではない。けれども、仕事柄、定義が使えないと困り果てるのはぼくである。だから、「されど定義」という常套句でもう一方の本意も吐露せねばならない。

仕事中に辞書を引いて遊んでいるように思われるかもしれないが、それも誤解である。実を言うと、来月の私塾の”ラフスケッチ”を描いているのだが、定義がとても重要な出発点になりそうなのだ。講座のテーマは『構想の手法』。構想の手法の構想を練っているというわけである。構想の定義については、週明けまでにはぼくなりの方向性がまとまるはず(まとまらないと、講義の構成が立たない)。今日のところは、もう少し定義一般について考えてみたい。

昨夜と今朝、いくつかの辞典で「ていぎ【定義】」そのものを調べてみた。するとどうだろう、ぼくが昨日大胆に書いた意見を裏付けるかのように、「意味の制限」こそが定義のありようを示しているという確信が得られた。定義とは「ある事物を表わす用語の意味や適用される範囲をこれだけの条件を満たすものだと定めること」とある辞書には載っており、また別の辞書では「ある概念やあることばを他のものと区別できるよう限定すること」と書かれている。いずれにも、範囲指定、条件適合、差異・区別、限定などがうかがえる。


広辞苑は丁寧に――と言うか、ややムキになって哲学っぽく――説明している。箇条書きに分解すると次のようになる。

(1) 概念内容の限定
(2) 概念の内包を構成する本質的属性を明らかにし、他の概念から区別すること
(3) 概念の属するもっとも近い類を挙げたうえで、その概念が体系内で占める位置を明らかにすること、さらに種差を挙げてその概念と同位の概念から区別すること。

「たかが定義だが、やっぱりされど定義なんだなあ」というのが、難解な定義を読みながらの率直な気持である。要するに、あれもこれも言いたいところを欲張らずに我慢しないと定義にならないのだ。「内包」という難解な用語は、内部にもつ共通の性質のことで、たとえば「筆記具」なら「書くもの、手で操るもの、芯をもつもの、先のあるもの」などとなる。これらの属性は、たぶん万年筆、ボールペン、シャープペンシル、筆ペンなどに共通している。ここまでが上記の(1)(2)が言わんとしていることだ。

(3)はさらに難解だが、広辞苑は格好の例を挙げている。「人間とは理性的な動物である」と定義する時、「理性的な」が種差で、「動物」が類概念となる。定義は手間のかかる作業で、あらためて「されど」を感じてしまう。ところが、ちょっと待てよ。「人間とはXXXYYYである」という定義はいくらでも、極端に言えば、人の数だけ創意工夫できるわけだ。「人間とは油断するとすぐに怠ける哺乳類である」でも思い当たるフシがあるから、「理性的な動物」ほどではないが、共通観念にのっとった定義になりえるだろう。気をつけないと、定義の絶対視には偏りがあるのだ。この思いが昨日のブログで「たかが」を醸し出したに違いない。

定義という奇怪な存在

言うまでもなく、一冊の辞書にはおびただしい言語情報が溢れている。表記に始まり、語釈、品詞の別、複合語・慣用語、さらには用語の履歴や出典までを網羅している。ことばの意味を調べるとは、「用語の定義」を知ることである。ことばの意味はいくらでも広がる。人それぞれである。それらすべてを標本のように集めてもキリがない。だから、辞典は意味に制限を加える。意味の頻出度と共通認識の方向からの絞り込みである。辞典は「ことばの意味」を収録したものではなく、「定義を編集したもの」なのである。

定義は辞書編纂者たちの主観によっておこなわれまとめられる。辞典を活用するぼくたちからすれば権威あるその一冊はまるで科学法則で固められた客観的存在に見えているだろうが、作成者側に回れば、紙数と発行日を睨んでの主観のせめぎ合い、主観による取捨選択という作業がおこなわれている。

辞書は、言うまでもなく、「じしょ【辞書】」そのものを定義している。手元の『新明解』では、「ある観点に基づいて選ばれた単語(に準ずる言葉)を、一般の人が検索しやすい順序に並べて、その発音・意義・用法などを書いた本」とある。「いまあなたが見ているこの本」と書いてもいいわけだから、編集が主観的であることがわかるだろう。ご丁寧に「一般の人が検索しやすい」と記されているのがおもしろい。一般の人とは辞典の活用者であり、編纂者のことではない。彼らは専門の人である。


繰り返すが、辞典を使っても「本質的な意味」などわからない。わかるのはその辞典の編纂者がその用語について解釈して取り決めたことである。あることばがわからないから調べようとしたとする。しかし、定義の説明の中にまったく取っ掛かりがなければどうしようもない。たとえば、「白、黒、反対」の三つの語を知らない人が、ある辞書で「白」を調べたところ「黒の反対」と書いてあったら、もうお手上げだ。日本語を母語としていて、なおかつ白や黒を辞書で引く人は、すでに意味がわかっているはず。調べているのは、意味ではなく、定義のほうなのである。

これまた手元にある古い版の広辞苑で遊んでみた。「こころのこり【心残】」を引いてみたら、「あとに心の残ること。思いきれないこと。未練」などと書いてある。次に「みれん【未練】」に移動してみると、「心の残ること。思いきることができないこと」とある。自分の知識をまさぐって「ざんしん【残心】」という用語にも当たってみたら、「心のこり。みれん」と定義されていた。まるで堂々巡りのしりとりをしているみたいに見えないだろうか。

「思いきれないこと」が別の用語の定義では「思いきることができないこと」となったり、「残る」や「未練」と漢字で表記されたり、「のこり」や「みれん」とひらがなで表記されたり、当該用語の定義を担当する専門家ごとに書き方が変わってくる。こんな些細なことに文句をつけるべきではないだろう。むしろ、定義というものが主観の表現形であるということ、そしてそれがぶれのない絶対存在なのではなく、移ろう奇怪な存在であることを知っておくべきである。ことばの意味はほとんどの場合、体験によって身に沁みこんでいく。

習熟とマンネリズムは表裏一体

テレビの『プロフェッショナル 脳活用法スペシャル』を見た。脳科学で解き明かされるアンチエイジングの方法と、脳科学とは無縁のプロフェッショナルたちが日々実践している脳の使い方がほとんど一致するのがおもしろい。高等なプロフェッショナルまでの域にはほど遠いぼくでさえ、幸いにして考え書き話す仕事をしているお陰か、脳活用要件のほとんどを満たしている。周囲の人たちを観察してきた経験から言うと、脳の不活性の兆しは面倒臭がることに現れ、やがて集中力が持続できず、いますぐにできることを後回しにしてしまう。とりわけ言語活動に手抜きし始めると老化が加速するというのがぼくの持論。たとえば、「そんな難しい話はどうでもいいじゃないか」と言い始めると危険信号だ。

「習慣が脳をつくる」というのが大きなテーマだった。番組を見損ねた読者のためにぼくなりに要約すると、このテーマの前提のもとに脳を劣化させない心掛けとして、次の二つがある。

(1) 適度に身体を動かし、指先を使い、細々こまごまとした作業を人に任せず自分でやる
(2)
新しい課題に挑み、目と目を合わせてよく会話をし、好きなことに精を出す。

ぼくの場合、車を所有していないから、とにかくよく歩く。自動車ならぬ「自動人」である。また、小さな事務所なので雑用も人任せにはできないから、(1) はクリアできている。話が好きで仕事が好きだし、得意先や顧問先の高いハードルの課題も歓迎する口だ。ゆえに(2)も大丈夫なはず。

けれども、それで安心して慣れてしまうと、脳が楽をしようとする。脳を活性化する習慣が身についているからといって、その慣れ親しんだ思考回路や記憶の使い方に安住すれば、エイジングが進む。ある程度できているからこそ、さらなる変化や揺さぶりが難しくなってしまうのだ。昨夜の番組を見ていて感じたのは、できていない人ほど脳の新しい使い方の可能性が広がりやすく、できている人ほどさらなる鍛錬に手を抜けなくなる点だ。まことに脳というのは油断も隙もないと思い知った次第である。


メモに関して茂木健一郎がいい話をしていた。出会う人すべてにメモの習慣を薦めるぼくとしては、誤解を避けるためにこの点を付け足さねばと反省した。「メモはその場で書くのではなく、思い出しながら書く」と茂木は言う。そうなのだ。めったに浮かびそうもないひらめきは一語でも一行でも記録するのがいいと思うが、たいていの情報や体験はいったん脳の記憶に放り込むのがいい。基本的には、パソコンやノートに記憶を丸投げするのではなく、脳にひとまず記憶させるのが正しい。そして数時間後でも後日後でも、一次記憶を辿りながら書き出し、あるいは別の情報を加えたりして文章化していく。これによって、ノート上にも脳内の二次記憶ゾーンにも情報が刻まれる。このようにして記録し記憶したものは検索しやすく生かしやすいので、申し分のない知的武装になる。

趣味でも仕事でも上達したいから打ち込むものだろう。そして慣れてくれば、いちいち意識を新たにしなくてもある基準を満たせるようになる。これが習熟という状態だ。かつて高嶺の花だったスキルが精神と身体の一部になってしまえば、ほとんど困難を伴わなくなる。こうして脳もその状態に慣れる。だが、ある日を境にして、習熟がマンネリズムへと転化するリスクが高くなる。習熟はプラス、マンネリズムはマイナス――そんなことは百も承知だが、表情がプラスかマイナスかだけであって、顔そのものは実は同一のものである。

脳にとっては習熟もマンネリズムも同じことなのだ。なぜなら「習慣が脳をつくる」からである。とすれば、脳のアンチエイジング対策は永遠に続けなければならないことになる。では、若い脳を保ちたければ学習し続けねばならないのかと問えば、半分イエスで半分ノーのような気がする。新しい情報の取り込みは最小限必要だとしても、おそらくもっと重要なのは、同じテーマでもいいから思考する回路のほうを変えることだろう。なにしろ脳の神経細胞は千億個もあるそうだ。ほとんど新古品のように出番を待っているに違いない。 

自己都合との闘い

ぼくたちは多かれ少なかれ経験を通じてパターンを認識する。挨拶のパターン、仕事手順のパターン、信号や交通安全のパターン……。よく体験しよく生じるパターンをおおむね定型として認識しているから、そのつど深慮遠謀しなくても日々を過ごしていける。このようなパターンを法則化するのは、一つは省力化のためであり、もう一つはリスク管理のためである。毎度毎度エネルギーを費やしてリスクに怯えながら生活したり仕事をしていては神経も磨り減り身が持たない。

もちろんパターンから外れるケースもある。しかし、ぼくたちは「おおむねこうなるだろう」と想定して現実と向き合っている。電車はおおむねダイヤ通りにホームに入ってくるし、注文した牛丼はおおむね30秒後には出てくるし、よほどのひどい社員でないかぎり遅刻する場合はおおむね事前連絡がある。このように外部環境において一定のパターンを想定できることはいいことである。ライプニッツの神の意志を持ち出すまでもなく、〈予定調和〉によってレール上を決まりきったように走れることはそうでないよりも楽に決まっている。ただ、個人的には予定調和はとてもつまらないと思う。

この予定調和が自己を中心として成り立つと考えてしまうと、ちょっとまずいことになる。言ったことはおおむね伝わっているはず、わからないところは読み飛ばしても大丈夫だろう、会合には申込者全員がほぼ出席するに違いないなど、自分サイドから一方的にしかるべきパターンが起こるだろうと信じてしまう。予定調和に基づいて「そうなるであろう的推論」がいとも簡単に導かれてしまうのだ。


しかし、推論はあくまでも推論である。演繹推理的に言えば、昨日までこういうルールが当てはまったから今日も当てはまるということには何の保障もない。すべての演繹的な原理には「今までのところ」または「今のところ」という見えざる注釈がついている。経験的に繰り返されてきた事柄が今日もまた繰り返されるという蓋然性は決して定まらないのである。蓋然性とは「ありそうなこと、起こりそうなこと」であって、「実際に存在すること、実際に起こること」とイコールではない。

想定や思惑が外れるのは生活世界ではよくあることなのに、想定や思惑通りに事が運ぶ「順風パターン」を中心に経験知が積まれ蓄えられていく。だから逆風が吹くと――つまり、現実と自己都合のすれ違いに直面すると――自己都合に陥った自分を責めるのではなく、自己不都合の原因をつくった現実のほうを咎めるようになる。列車が99パーセント遅れないわが国では、1パーセントの確率で起こる遅延に対して自己都合が怒りを示す。列車の順行が50パーセント程度の某欧州の国では誰も文句を言わない。

自己都合を中心とした想定は甘い。パターン崩壊という不都合ハプニングと自己都合の対立時点での振る舞いを見れば、その人間の対処能力が露呈する。行き場のない歯ぎしりやもどかしさを自分の目論見に還元せずに、自暴自棄気味に当り散らすのはいかにもお粗末な話である。神が仕組んだかのように予定調和を当てにした自分が悪いのだ。とにかくハプニングは避けられない。だが、よく考えてみれば、ぼくたちが闘わねばならない相手は、ハプニングではなく、自己都合のほうなのである。

値段がクイズになる会話

K氏が知人からゴルフ会員権を買った話を氏にしている。ぼくはゴルフとは縁のない人生を送ってきたので、会員権が何百万とか何千万とかいう話が飛び交っても感覚がよくわからない。耳を傾けていると、かつてマンションと同じくらいの価格だった会員権を20分の1で買ったと言うのである。それも、ふつうに語るのではなく、安く買ったことを鼻高々に弁じているのである。典型的な大阪オバチャン的キャラのK氏のことだ、おそらく今日に至るまで方々で吹聴してきたに違いない。

「大阪人は変だね。なんで安く買ったことを自慢したがるのかわからない。東京じゃ、むしろ高く買ったことに胸を張るよ」と関東出身のS氏が呆れ返る。大阪人であるぼくも、S氏に同感である。このブログで拙文に目を通していただいている大阪以外の地域の読者が7割。想像してみてほしい。大阪人ならほとんど自らが出題者になり、また回答者にもなった覚えのある日常会話内のクイズが、「これ、なんぼ(いくら)やと思う?」だ。身に着けている商品ならそれを指差して値段を推測させるのである。K氏もまったく同じように、「会員権、なんぼでうたと思う?」と尋ねていた。

「これ、いくらだと思う?」と切り出すのは、驚くほど安い買物をしたことを自慢する前兆である。「いくらかなあ、五千円くらい?」と言わせておいて、にんまりとして首を横に振り、「いや、たったの千円!」とはしゃいで見せる。まるでバナナの叩き売りをするオヤジ側の口調みたいなのである。もちろん、自慢したり自慢されたりの関係にあっては、安い値段を聞いて「へぇ~」と驚く。そのびっくり具合を見て当の出題者は勝ち誇る。


だが、会話がそんなにスムーズに運ぶとはかぎらない。なにしろ値段を当てさせようと出題した時点で、思いのほか安かったというヒントが見えているからだ。的中してしまうと出題者は少し残念そうにする。しかし、実際の値段よりも安く答えられるともっとがっかりし、やがてムッとして「そんなアホな。そんな安い値段で売ってるはずないやん!」と吐き捨てる。気分を害してしまうと、正解も言わずに会話を終える。大阪人に「これ、なんぼやと思う?」と聞かれたら、推定価格の数倍で答えておくのがある種の礼儀かもしれない。高めに回答し、してやったりの顔で正解を言わせ、仰天してみせる。場合によっては「どこに売ってるの?」と興味を示せば、完璧な会話が成立する。

日曜日の昨日昼過ぎ、出張から帰阪した。地下鉄のホームに降りて電車を待つ目の前で七十半ばの老人二人が話している。二人は知り合いで、バッタリ会った様子である。男性のほうが、デパートの地下食料品街でおかずを見つくろって買った話をしている。「あんたは何してたん?」と聞かれて、瞬発力よろしく女性が反応する。「私? 私はお茶をうただけ。お茶、三百円」。出題こそしなかったが、物品購入時にご丁寧に値段も暴露する。これが大阪人のDNAのようである。

考えられないことを考える?

時々エッシャーのだまし絵のことを思い出す。高い所から落ちてくる水をずっと辿っていくと、いつの間にか低いところから高いところに上がっていって一回りしてしまう。なぜこうなるのかを考えることはできそうだ。なにしろ絵なのであるから、「もっとも信頼できると勘違いしている視覚」によって確かめられそうなのだ。けれども、だまし絵なのだから、謎解きなどやめてしまって、やすやすとだまされるのが正しい鑑賞方法なのかもしれない。

メビウスの輪または帯にもだまし絵に通じるものを感じる。ある地点から出発して帯を辿っていくと元の地点に戻ってくる。目の前に輪を置かずに頭だけでイメージすると苦労する。しかし、実際に紙で帯を作り、ひとひねりして端どうしをくっつけて輪にすればよくわかる。ボールペンでなぞって確認もできる。ちなみに、ボールペンで記した線の一箇所にハサミを入れて線に沿って切ってみれば、二度ひねられた倍の大きさの輪ができる。

まだある。ヘビが自分の尻尾を噛んでいる様子である。いや、噛んでいるだけではなく、尻尾の先から順番に胴体を飲み込んでいくところを想像してみる。途中まではイメージしていけるのだが、首あたりまで飲み込んだ時点から、まるで追跡していた車が忽然と消えて見失うように、想像停止状態になってしまう。それ以上見えにくくなってしまうと言うか、考えられなくなってしまうのだ。飲み込んでいった尻尾の先から胴体部分はいったいどこに行ってしまったのだろうか。尻尾を噛み始めた時に比べて、ヘビの体長は縮んでしまっているのだろうか。


もちろん素人考えである。どんなジャンルの学問になるのかよく知らないが、その道の専門家ならいくらでもイメージし、なおかつ説明できるに違いない。ところで、素人でも、目の前に絵があったり手で触れたりできれば、想像するのは大いに楽になる。だから仕事中も腕組みをして下手に考えるよりも、いっそのこと紙とボールペンを用意して、とりあえず何かを書いていけば小さな突破口くらいは開けるかもしれない。視覚や聴覚や皮膚などの身体じゅうの諸感覚は考えることを助けてくれる。

ところが、ことばや概念でしか考えられないこともある。時間は過去からずっと流れているのか、それとも瞬間の連続なのか。人類はいつから人類になったのか。カジュアルな哲学命題には「ハゲはどの時点からハゲなのか」というのもある(これは純粋の概念思考ではなく、人体実験が可能かもしれない)。いずれにせよ、ことばや概念の領域だけで抽象命題を考えるのは精神的にも肉体的にも負荷が大きい。要するに、ものすごく疲れるのである。「そんな考えられないことを考えて何になる?」とも思う。ただ、考えられないこと、考えてもしかたのないこと、考えればわかるかもしれないこと――これらの違いを「どう見極めるか、どう考えればいいのか」がわからない。

でも、ぼくは思うのだ。知っている漢字や地名をふと忘れたとき、すぐに辞書やウェブで調べるのではなく、たとえ思い出せなくても、ひとまず自力で思い出してみようとするべきだと。思い出せないことを思い出すことはできないのだろうか。いや、そんなことはない。思い出せないのは今であって、そこに時間経過があれば思い出す可能性は出てくる。結果的に思い出せなくても、思い出そうと努力したことに意味がないとは思えない。ならば考えることにも同じことが言えそうか……残念ながら、そうはいかない。なぜなら、思い出すことと考えることは同じではないからだ。

「考えられないことは必ずある。考えてもしかたのないことも必ずある」――少なくとも今はそうだ。しかし、考える時間と努力が報われるか報われないかも知りえない。そして、「何が何だかよくわからないから考えない」と「何が何だかよくわからないから考える」のどちらにも一理あるように思えてくる。明日の私塾ではこんなテーマも少し扱い、頭を抱えてもらおうという魂胆である。 

聴き取りと文脈再現

誰かが誰かの話を真剣に聴いているとする。この時、二つの「けいちょう」が考えられる。一つは〈敬聴〉で、謹んで聴く状態である。ことさらに容儀を正して真摯に聴いている様子が見た目にわかる。但し、この態度のうわべだけで、よく聴きよく理解していると早とちりしてはいけない。よく目を凝らしてみれば、多くの場合、敬聴が耳を澄ましている振りや儀礼であったりすることがわかる。

もう一つの「けいちょう」、すなわち〈傾聴〉こそが一所懸命に聴くことを意味する。傾聴に関してはこんなエピソードがある。

十年近く前になるが、対話における傾聴の意義をこれでもかとばかりに語った講演終了後、ぼくと同い年くらいの女性が「質問してもいいですか?」と近寄ってきた。快くうなずけば、彼女はこう切り出した。「あのう、私ね、傾聴が苦手なんです。どうすればいいでしょう?」 内心思ったのは「ついさっきまで、その話をしていたつもりです。何を聞いていたんですか!?」だったのだが、「傾聴が苦手な人」にそうたたみかけるのは酷だと感じた。そこで逆にぼくから尋ねてみた。「もう少し詳しく聞かせてください。何が聞けないのか……」 そうすると、彼女はこう言ったのである。「先生、私、少し難聴なのです。相手の言っていることがよく耳に入ってこないのです。」

「傾聴のアドバイスはできますが、難聴のアドバイスはできません。ディベートの先生ではなく、耳鼻科の先生の所に行ってください」と丁重に答えた。この話を誰かにすると、作り話だと言って信用してくれない。ぼく特有のジョークだと思われてしまうのだが、これは正真正銘のノンフィクションである。


彼女の話は教訓的である。難聴でなくても、物理的に音声が聴き取れないことがある。相手の発音の問題や騒音によって音声がかき消される場合などだ。先日、インド人が経営するレストランで連れの男性が「今日の日替わりカレー」を尋ねたら、「ホヘントーチケン」と返ってきた。彼は聴き取れていない。こんな時、何度も聞き返して物理的音声だけをキャッチしようとすればするほど、意味から遠ざかってしまう。

ぼくは即座に理解した。インド人の英語の発音に慣れているからではない。インドカレーのレストランなのである。カレーのメニューの一つなのである。カレー以外のイタリアンやフレンチや中華の品名を喋っているはずがないのである。ゆえに「ほうれん草とチキン」でしかありえないではないか。実際その通りであった。物理的な音声ということになれば、外国語にかぎらず、母語でも慣れない音声だと聴き取り障害が起こる。

幼児の母語習得過程や外国語の初心者に見られるように、語学力不十分な段階では、何を差し置いても音声に注力する。しかし、この先に進むと、ありとあらゆる想像力をかき立てて、音以外のコンテクストを解読せねばならない。文脈や状況に照らして音声をうまく認識できれば聴き取れる。だから、手も足も出ないジャンルの話には勘すら働かない。関心のない話に対しても文脈と連動するように聴覚は機能しない。ことばを聴き取るとは話を追うことだ。話し手側の文脈を聞き手側で再現することなのである。

問いと答えの「真剣な関係」

面接でも会議でも対話でもいい。面接ならインタビューアーが、会議ならメンバーの一人が、対話ならいずれか一方が、相手や別の誰かに質問する。お愛想で、たとえば「元気?」などと尋ねる場合を例外として、それぞれがある意図をもって問いを発していることは間違いない。「なぜ当社を希望したのか?」は理由を聞いている。「問い合わせは何件か?」は事実を聞いている。

おなじみの〈5W1H〉は文章を構成したり企画を起こしたりするときの基本。これらWHOWHATWHENWHEREWHYHOWは質問と応答の関係にも当てはまる。これに「PQか?」というイエスかノーかで答える質問と、「PQのいずれか? 」という二者択一で答える質問を加えれば、すべての質問パターンが出揃う。「その愛犬の名前は?」と尋ねたのに、「わたし? ヨーコで~す」と返してしまったら、聞いた方の意図からそれてしまう。但し、その愛犬に付けられた名前が〈わたし? ヨーコで~す〉ならば的確な答えになっている。

PQか?」という二者択一型で問うているのに、「いろんな考え方があって、たとえばですね……」と切り出した瞬間、もはや答えになっていない。「はい(いいえ)」で即答し、許されるなら理由を述べればよい。「Aランチ? それともBランチ?」とご馳走してくれる相手が希望を聞いてくれたのに、「お任せします」は的確ではない。意図があって尋ねたのに、期待通りの答えが得られない―対話習慣に乏しく、質疑応答を御座なりに済ましているこの国では日常茶飯事の体験である。


今朝のテレビ。民主党の専門家が新型インフルエンザのテーマのもとゲスト出演していた。聞きたいことを街で拾ってきて質問する。「新型インフルエンザのワクチンはどこで・・・打てるのか?」と尋ねる。5W1HのうちのWHEREである。ところが、その議員はWHENを答えたのである――「若干遅れるかもしれませんが、本日から・・・・打てるよう手配をしています」。「いつから」とは聞いていない。場所を聞いているのだ。「場所? 病院に決まっている」とでも思ったのだろうか。「病院で打てるのはわかっているけれど、どこの病院でも、たとえば小さな医院でも打てるのか?」と聞いている意図を汲んであげなければならない。まさか居酒屋や駅の構内で打ってくれると期待して聞くはずがない。

「月曜日と火曜日にどれだけ仕事がはかどったのか?」と尋ねてみた。仕事については暗黙の了解があるので、これはHOWの問いである。しかし返ってきた答えは「水曜日に○○をやるつもりです」だった。この応答は質問に対する二重の「背信行為」になっている。月曜日と火曜日から別の曜日にWHENを転化し、おまけに聞かれもしていないWHATで答えたのである。「最近、社会の動きであなたが特に気づいたことは?」に対して、「先週□□という本を読みまして、社会現象としての△△が書かれていました」と答えてしまう無神経。WHATの意図に答えてはいるが、「あなたが気づいたこと」を知りたいのであって、「本に書かれていたこと」を聞いたのではない。

アタマの悪さも若干影響しているのだろうが、的外れの最大の理由は、(1)集中して質問を聞いていないこと、(2)不都合から逃げることの二つである。つまり、「いい加減」と「ずるさ」なのだ。こんなふうに対話を右から左へと流す習慣がすっかり身についてしまっている。講演会なら適当に話を聞き流してもいいだろうが、少人数の集まりや一対一のコミュニケーションでこんなていたらくでは能力と姿勢を疑われてしまう。質問一つで、答える人間がある程度わかってしまうのだ。質疑応答を真剣勝負だと見なしている硬派なぼくの回りから、厳しい質問を毛嫌いする「ゆるキャラ人間」がどんどん消えていく。それで別に困ったり寂しくなったりしているわけではないが……。

必勝法と適用能力

成功法則があるのかないのかは微妙な問いである。「万人に当てはまる絶対的な成功法則」はたぶん存在しない。世間には「成功の何とか法則」とか「何々をダメにする悪しき習慣」などの本があり、そういう類のセミナーも開かれる。かく言うぼくの講座やセミナーにも「成功法則20」と副題のついているものがある。きっちり20という数字になること自体が怪しくて嫌なのだが、主催者側が「このほうがいいですよ」と主張するから逆らわない。「数ある法則のうち主な20」と読んでもらえればありがたい。

江戸時代の剣術の達人だった松浦静山まつらせいざん。そのあまりにも有名な「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」に従えば、おおよそ勝利の方程式は不確実であり、敗北の原因は特定できることになる。ぼくのような凡人は、はっきりしやすい敗因に学び反省するのが一番と割り切っている。一桁も二桁も能力上位の人間が成し遂げた成功に憧れて真似てみても、いったい成功要因のどれを学べばよいのかわからない。いや、もとより不思議な成功に要因があったのかどうかすら定かではない。松浦静山には「一時の勝ちは終身の勝ちにはあらず」という格言もある。勝利や成功には一過性の要素があり、ゆめゆめ美酒体験に安住してはならないと肝に銘じておきたい。

一方が勝ち他方が負けるという一対一の敵対関係において必勝法は存在しないように思われる。必勝法が発見された瞬間、ゲームであれビジネスであれ、もう誰も負け側に立って戦おうとはしないだろう。ところが、理屈はそうなのだが、現実世界では戦いは続けられる。お互いが必勝法のさらに上を行く絶対必勝法に向かおうとするからである。「意見の相違がなければ競馬は成立しない」と言ったのはマーク・トウェインだ。プレイヤー全員が一頭の馬に賭けたら、その馬が勝っても妙味がなくなるから、もはや馬券を買わなくなる。しかし、必勝法が一着になる馬の予想に限定されているかぎり、プレイヤーは二着馬や三着馬の組み合わせに賭けるから、おそらくゲームは続けられる。


必勝法について考えているとおもしろいことに気づく。どこかのサイトに掲載されていたが、ジャンケンの必勝法を考えている人が少なからずいて驚いた。「最初はグー」と掛け声してからジャンケンをすると、「パー」が出やすくなる。ゆえに「チョキ」にすれば勝ちやすいというのだ。この勝利の確率がパーやグーに比べて高いのならば、必勝とまではいかなくても勝利の方程式の一つにはなりうるかもしれない。但し、この必勝法を公開すれば、みんなが「最初はグー」の後にチョキを出すようになるから、チョキでおあいこになる可能性が高くなる。決着がつかず、やがてはチョキでおあいこの次の法則を見つけなければならなくなる。

宝くじの必勝法はありえない。一等当選の数が限定されているのだから、必勝本を読んだすべての人が当選するわけにはいかない。つまり、宝くじは必勝法以外の、「神のみぞ知る法則」によって支配されている。実際、宝くじのコマーシャルでは神が登場しているではないか。同様のことは、必勝法を伝授するセミナーにも当てはまる。「絶対に成功するプレゼンテーションの秘訣」を学んだ二人がコンペに挑み、いずれか一方のみが採択されるとき、他方は失敗することになる。「絶対に成功する秘訣」は一方で証明され、他方で否定される。これが「矛盾」の由来でもあった(最強の矛と最強の盾は同時成立しない)。

必勝法にすがっても別の要素が入り込んで勝敗を決する。同じ専門知識をもつ二人の人間に差がつくのは、専門知識自体によってではなく、その他の要素との掛け合わせによってである。とりわけ、運用する能力や技術が鍵を握る。そうなのだ、必勝法や絶対成功法則が存在したとしても、すべての学び手が完璧に運用する能力と技術を備えているわけではないのである。必勝法や絶対成功法則と呼べなくとも、世の中には「うまくいくだろうと思われるヒントや事例」はいくらでもある。同じように学んでいても、うまく活用できるかどうかは本人次第。したがって、普遍的な必勝法や絶対成功法則はないが、個別的にはありうるということになるかもしれない。 

総意誤認する人々

「地下街を歩いている時に地震。そのとっさの状況で「あなたは◎◎◎◎どういう行動をとるでしょうか?」 こう質問されると、ほとんどの人は「たぶん落ち着いて行動すると思う」と答える。周囲を見渡し冷静に判断したのちに非常階段を探すのだろうか。それとも、地下街にいてシェルターになりそうな場所に身を潜めるのだろうか。いずれにしても「慌てふためくと思います」と回答する人はまずいない。

ところが、同じ質問の主語を変えて尋ねてみる。「地下街を歩いている時に地震。そのとっさの状況で、他の人たちは◎◎◎◎◎◎どういう行動をとると思いますか?」 この問いに対して、尋ねられた個人は「慌てて非常出口に向かうだろう」と答える傾向が強いというのだ。「この私を除くみんな」がパニックに陥るのである。自分だけがすました顔をして集団心理の外にいる。

詳しいことは知らないが、この種の話はその分野のいろんな本で取り上げられているに違いない。書名は忘れたが、ぼくもだいぶ前にパニックか心理学かの本で上記の事例を読んだ。コメントをする。総意はこうだろう、但し私は例外――というのはよくあることだ。「ユダヤ人差別を論じる著者のほとんどが、自分だけは差別とは無縁だと決めてかかっている」(オーウェル)ということばもそれを示している。「われわれみんな」という一人称複数で誰かが何かを語る時、当の本人を含めているか除外しているかを聴き分けてみれば、話に違った含みが感知できる。


おもしろいことに、この逆もあるのだ。そして、そこにも人間のエゴイストぶり、我田引水の生き様が見え隠れする。それは他人の態度分析における〈総意誤認〉である。「ある大阪のオバチャンが自分の着ている服の豹柄が全国区であると信じ、それが誤まった認識であることに気づいていないこと」と言えばわかるだろうか。「デパートで午後3時にタイムサービス。奥さん、あなたは行かれますか?」と尋ねたら、「もちろん! みんな大勢行かれますよ」と、先の地下街とは違う答えが返ってくる。「私の思いは総意を反映している」という確信がそこにある。

あることについて感想を述べる時、人は自分の感想をコメントする。「私は〇〇だと思う」というように。同時に、その個人的感想なり意見は、暗黙のうちに「他の人たちも自分と同じように考えている」と推論している。一般的に、自分の考えは総意に近いと思っている。自分の常識は世間でも常識だと信じる傾向が強いのだ。個人の見方が総意と重なれば常識人なのだろうが、周囲を見渡すかぎり、そんなに常識人が大勢いるとも思えない。むしろ総意誤認している人だらけである。ぼくが総意誤認グループの一員かどうかは自己診断しにくい。そういう類のものなのだろう。

「私が考えること」と「他人が考えること」が同じなのか違うのか――当てずっぽうでは困る。ここはちゃんと冷静に弁別しておく必要がある。つまり、持論が少数派なのか多数派なのかを知っておくことは、人間関係や組織力学のバランスをとるために欠かせない。フランソワ・ラブレーの「汝の欲することを成せ」を鵜呑みにしていると、総意誤認が起こってしまうから気をつけよう。他人はあなたの善行を迷惑がっているかもしれないからだ。