イタリア紀行37 「サン・ピエトロづくし」

ペルージャⅡ

初めての土地で一晩だけ過ごすとなると、貧乏性のせいか、見所に迷う。これは、国内でも海外でも同じこと。ホテルでじっとしているだけなら、どこにいても同じだ。旅はその土地限定のものに触れることに意味があり、ホテルは二の次。快適でゴージャスなホテルは世界中のどこにでもある。お金さえ惜しまなければ宿泊するチャンスもあるかもしれない。だが、何々美術館や何々教会や何々広場はホテルよりも固有性が高い。そこに行かなければ見ることができない。

ホテルのチェックアウトは午前11時。荷物は預かってくれるが、とりあえず部屋を出なければならない。午前中自由になるのは23時間。ホテル近くのプリオーリ宮に行き、「公証人の間」の寄せ木細工の天井を見て、国立ウンブリア美術館の名作を鑑賞するか……それとも、市街の外れまで歩いてみるか……前日の夜から悩んでいたが、早朝に晴天の空を見て腹を決めた。屋内ではなく、歩こうと。屋内より屋外がいい。では、どこに向かうか。中心街から一番遠くに位置する――とは言っても2キロメートル程度だが――サン・ピエトロ教会を選んだ。

教会を選んだのに特別の理由はない。サン・ベルナルディーノ、マッテオッティ、サン・セヴェーロ、サンタンジェロ、サン・ドメニコなど他にも教会はいくらでもある。その中からサン・ピエトロ教会を選んだことにも、これという動機はない。地図に視線を落としたら一等最初に目が捕まえたという、ただそれだけの「縁」である。

一つの選択は、その他すべての候補の非選択。だから、行かなかった他の場所と比較するすべはないが、サン・ピエトロ教会という選択は、「ここしかなかったのではないか」と思わせてくれた。こんなにじっくりと教会の敷地で時間を過ごしたことはない。創建されたのが千年前と聞けば、なるほどとうなずける歴史の風合いを感じる。

フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ教会に付属する同名の薬局があるように、その昔、教会と薬には深い関係があった。教会が管理する敷地内にはハーブ園があり、隣接する「化学実験室」で薬効成分の分析や調合をしていたのである。教会と言えば、聖堂の内部見学だけで終わるのが常だが、ここサン・ピエトロ教会では敷地内を散策する初めての体験に恵まれた。

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やわらかな光が射す通り。辻ごとに微妙に表情が変わる。
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カヴール通りの店を覗きながら歩く。
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サン・ピエトロ教会の鐘楼は高さ70メートル。
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六角形の尖塔部。
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中庭を囲む回廊。
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現在も使われているハーブ園。 
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ハーブ園の日時計。
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中世にあった門の跡地。
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ハーブの研究をしていた、牢屋のような化学室。
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教会裏手のハーブ園からの風景。 

イタリア紀行36 「街角に打ち解ける」

ペルージャⅠ

紀元前にエトルリアの由来をもつ古都――ペルージャについての知識はこれと、中田英寿が1998年イタリアデビューを果たした所属クラブの本拠地というくらいだった。それでも、一度は行ってみようと思っていたので、ローマ2泊とフィレンツェ4泊の予定の間に、ペルージャをはさむことにした。

旅程はウィーン~ローマ~ペルージャ~フィレンツェ~ボローニャ~ウィーン。ローマからボローニャへは列車の旅なので、細かくダイヤを調べていた。ローマ~フィレンツェに比べてローマ~ペルージャは少し面倒。ペルージャはローマとフィレンツェのほぼ中間に位置する。にもかかわらず、ローマ~ペルージャのほうがローマ~フィレンツェよりも時間がかかってしまう。これは、路線が逸れるのに加えて、直行便が少ないからだ。午後一番最初の直行便にユーロスター(ES)があったので、それを日本で予約しておいた。

列車時刻情報のみならず、この年は食事の内容やちょっとした日記などおびただしいメモをつけている。訪問した都市が多かったので、「アタマの中で捌いていた」のだろう。ちなみにローマからペルージャに向かった日にはこんなことを記していた。

39日(火曜日) ホテルスパーニャ(ローマ)での朝食ビュッフェは果物豊富。ランチはテルミニ駅内のトラットリア。チキンにポテト。ペンネのゴルゴンゾーラ。ローマテルミニ13:48ES。ペルージャ15:53着。駅前バスターミナルから7番でイタリア広場へ。ペルージャでの夕食はスーパーで購入。瓶詰めムール貝、たっぷりサラダ、モツァレラ、カットピザ。

古い建物を改築した、いびつな構造のホテルにチェックイン。なんとバスが着いたイタリア広場裏手の路地に入ったすぐのところだった。夕暮れ前なので、荷解きもそこそこに街に出た。イタリア広場からヴァンヌッチ通りを北へ250メートルほど行くとクアットロ・ノヴェンブレ広場。「114日広場」という意味で、ここにペルージャの象徴的なシンボルである大聖堂、プリオーリ宮、大噴水などがひしめいている。

翌日は15:46発の列車でフィレンツェに向かう。ペルージャ滞在時間は正味一日もない。それでもどういうわけか、まったく急かされる気分にならない。こぢんまりと落ち着いたこの空気は中世色の建物とモノトーンな路地のせいか。団体観光客は見当たらない。店を覗き路地裏へも足を向け、暮れなずむまでの時間を惜しむように歩いてみた。気がつけば空腹感。お目当ての外食は明日のランチの楽しみにして、スーパーで食料を買い込んでホテルへ。すでに日が落ちていたが、暮れた街角にも心は打ち解けた。

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ローマテルミニ駅からペルージャに向う列車の窓外。
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ペルージャ駅からバスは坂をくねくねと上り、丘の上の街へ。海抜500メートル近い。 
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うっかりしていると通り過ぎてしまいそうなホテルエントランス。
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ホテルの裏通りは坂道。この道は迂回して「114日広場」に出る。
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ホテルの窓からの遠景。翌朝に撮ったもので、お気に入りの一枚になっている。 
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南北の中心ヴァンヌッチ通り。国旗のある建物がプリオーリ宮、正面が大聖堂。
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大聖堂前の噴水。
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中世に誘う路地が随所に現れる。カラーで撮ってもモノクロのような味が出る。
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大聖堂の裏あたりを歩いているとテアトロの建物。映画館/劇場である。
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建物と建物を結ぶ空中回廊が出現。いや、これは行き止まりを回避する門なのだろうか。
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日が暮れた直後のとある街角。壁色と独特の青が意外に協調している。

懐かしい世界遺産マテーラ

今日は〈週刊イタリア紀行〉はお休み。次回からはペルージャ、その後にボローニャをそれぞれ3回の予定で書くつもり。まだローマを取り上げていないし、写真が少ないために見送っているヴェローナ、ポンペイ、コモ、ナポリなども残っている。

夕方6時のテレビ番組『世界遺産』はバジリカータ州の洞窟都市マテーラだった。実は、ぼくはマテーラにも行った。行ってはいるが、その想像を絶する光景にカメラを構えるのをつい忘れ、撮影枚数がきわめて少ない。それでも10数枚はあるのだろうか。ただマテーラについて帰国後に次のような走り書きの感想を書いている。

マテーラはまるで映画のセットのようだった。ミニアチュアの模型のようでもある。

おとぎの国アルベロベッロとは異なる圧巻ぶりだ。何でこんなものがこの世に存在するのか。対面の山肌には七千年前の洞窟住居跡が見えている。ピラミッドや万里の長城とは違って、この洞窟群では人間たちが日常的に生活していた。日々ここで暮らしていたというのがすごい。

旅人として一瞬佇めば、かくれんぼ遊びの衝動にかられる。だが、実際に暮らすのは大変だ。ここに一夜でも身を投じてみれば洞窟での営みを少しは理解できるのだろうか……。

鳥が岩穴に巣を作るように、かつて人間もこの岩肌に小さな穴を見つけて、身を寄せた。さらにその後、石を切り出して穴を広げたり奥へ掘ったりして、切り出した石をブロックにして積み上げ住居を作っていった。生きる知恵はとてつもないものを築くものだ。


このマテーラの新市街地のバールで、イタリア初体験のアイスコーヒーを飲んだ。イタリア語で「カフェ・フレッド」と注文したら、氷の入っていない常温のコーヒーだった。わざわざ冷やすのではなく、「冷めた」という感覚である。イタリアではフレッド系のコーヒーを注文してはいけないことを学んだ。

TBSの世界遺産は欠かさず見るようにしているし、DVDにも収めている。マテーラについてもサイトではコンパクトにまとめて紹介してくれているので、ぼくの下手な講釈に物足りない人には一読をお薦めしておく。 

イタリア紀行35 「人間尺度の都市設計」

レッチェⅡ

「人間尺度の都市設計」――もちろんこれはレッチェが専有する表現ではない。いまレッチェにこの表現を用いながらも、以後訪れた20近くの都市に対する同様の印象もあらためて再生している。ここレッチェに特有なのは海洋的南イタリアの開放感。それが人間本位の街路やパラッツォ(貴族の館、大邸宅)の設計に反映されている。

車が走っていないわけではない。庁舎や集合住宅内には駐車スペースがあるし、少し狭い道でも何度か車とすれ違った。それでも、旧市街では「交通」というものを感じない。実際、自動車を規制して歩行空間を少しずつ広げているとのことだ。身体をよじって車をけたりしなくていいのは、生活者にとっても観光客にとっても歓迎材料だ。じっくり街角に視線を投げ掛けられるし、慌てずに撮影の構図を狙い定めることもできる。車の利便性を人生最上位に置く者にとってはこの街で暮していくのはむずかしい。

信号のたびに立ち止まる。目前に迫っているはずの旧跡はまったく見えず、疾駆する色とりどりの車体ばかり見ている。のべつまくなしに背後から近づいてくる車を意識して歩かねばならない。こうして、車尺度の都市づくりは歩行者を主役とする設計とかけ離れていく。歴史遺産を有する人口10万規模の都市なら、レッチェから多くの街づくりのヒントを学べるはずである。

建築の専門家にとって、レッチェは様式・構造・装飾の宝庫と称えられる。詳しいことはわからないが、ぼくのような素人でも外壁の装飾の凝りようには即座に気づく。たとえばレッチェの象徴であり最大の見どころとなっているサンタ・クローチェ聖堂。そのファサードのバロック装飾は見るものを釘付けにする。前回さらっと取り上げただけだが、ドゥオーモの正面もなかなかのディテールを誇っている。

サントロンツォ広場、古代円形闘技場、サンタ・クローチェ聖堂、ドゥオーモ広場とそれを取り囲むバロックの建物――これらがレッチェの主要な見どころで、ミラノやローマの注目スポットの数にはるかに及ばない。ほぼすべてが数百メートル四方に収まっているし、街歩きに要する時間もたかだか2時間。それにもかかわらずと言うべきか、だからこそと言うべきか、街の見学密度はきわめて高い。写真ではその密度の痕跡はあまり表現できていないが、短時間の割には接写的に旧市街を辿った記憶がある。 

ジェノバを筆頭にイタリアだけでもまだ行きそびれている都市が五つ六つある。すんなりと足を運べないこの踵の先端を再訪することはまずないだろう。だが、徹底的に人間本位を追求する街は、気位を保ち続けながらぼくの記憶に刻まれている。レッチェはバロック建築が放つブロンズ色に今日も輝いているに違いない。 《レッチェ完》

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ドゥオーモのファサードの装飾。
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サントロンツォ広場。守護聖人が円柱上から見下ろす。
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サンタ・クローチェ聖堂。
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聖堂につながるチェレスティーニ宮殿は現在県庁舎である。
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サントロンツォ広場近くの円形闘技場跡。2世紀に建造され25,000人が収容できたという。
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ホテルの窓から見る市街の建物。

イタリア紀行34 「イタリア半島の踵にて」

レッチェⅠ

イタリア半島が長靴に比喩されるのはご存知の通り。長靴の代わりにヒールのあるサッカー靴に見立てると、シチリアというサッカーボールを蹴っているかのようだ。前回取り上げたアルベロベッロからさらに南東の方向に下る。ヒールのほぼ先端部はアドリア海に面しており、対岸にはアルバニア共和国、その下にギリシャが控えている。レッチェはまさにそのヒールのところに位置している。七年前、「とうとうこんなところまで来たか」と感慨深く街を歩いた。

ヴェネツィアやフィレンツェやローマに比べれば知名度は格段に低い。特別な関心や縁やテーマがあれば別だが、イタリアについて語るときにレッチェが話題にのぼることはまずない。こんな紀行でも書かないかぎり、記憶の底に沈んでしまう存在だろう。だが、昨年、オフィス近くに“Lecce”という、イタリアンバールとカフェレストランを融合したような店がオープンした。エスプレッソとカフェラッテがおいしいので時々足を運ぶ。以来、本場レッチェもぼくの中でクローズアップされるようになり、アルバムを引っ張り出したりバロック都市の本を読んだりしてみた。

だいぶ街のイメージが甦ってきたところだが、一番印象に残っているのは建物でも石畳でも遺跡でもなく、散歩の帰りに寄ったスーパーでの「論争」である。レジで現金を払ってその場を立ち去ろうとした直前に計算間違いに気づいた。品物をすべて見せレシートと照合して合計が間違っていることを説明したが、レジのおばさん、頑として受け付けない。「お前さんはいったんこの場を離れた。その直後に商品をバッグかどこかに隠しただろう。このわたしが間違うはずがない」などとジェスチャーと大声でわめく(こんなときのイタリア人は驚くほど早口)。だが、決してひるまず毅然と対応するべし。少々時間はかかったが言い分を通し、隣のレジのお兄さんや順番待ちするお客さんらの視線を味方にして、計算間違いを認めさせることができた。それでも、おばさんは一言も陳謝せず、札と小銭の混じった不足分のお釣りを無愛想に差し出した。

閑話休題。加工に適した石灰石がこの一帯の「名産」であり、それゆえに石をぜいたくに使った建造物が競い合う。おおむね1718世紀に最盛期を迎えたバロック建築がレッチェの最大特徴になっている。「バロックのフィレンツェ」がレッチェに用いられる比喩だ。古代ローマ時代に起源をもつこの街は中世になって迷路のような都市構造に変容していった。たしかに地図に目を凝らしてみれば、この街は主要な通りは真っ直ぐに伸びていてわかりやすいが、曲がりくねった細い通りや小道が交錯しながら市街空間を形成している。今にして思えば、さほど迷わなかったのは深部にまで足を踏み入れなかったせいだろう。

それでもなお、ぼくが宿泊したホテルが市街地の西の地区にあって、その場所から城門、教会、広場、闘技場跡を位置取りしていた脳内地理が完全に間違っていたことがついさっき判明した。上下左右がほとんど逆だった。それもそのはず、ホテルの位置は西ではなく、街の東のはずれだったのである。

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カルロ5世の城。
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凱旋門様式の城門。
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金色に近い黄土色は、地方特有の石灰岩の色合いである。
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イタリアのどこの街にでもありそうな通りだが、ブルーグレー色に染まる石畳が印象的だった。
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建物のエクステリアにはレリーフの意匠が凝らしてある。
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高さ70メートルの広場の鐘楼。
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カトリック神学校の集会。

イタリア紀行33 「生活の知恵が世界遺産」

アルベロベッロⅡ

プーリア州を含む南イタリアはルネサンス期の後の16世紀頃からスペイン王国に支配される。支配者は大土地荘園制を敷いて痩せた大地に農民を集めた。オリーブ畑だけで生計を立てる貧農生活を強いられたのは言うまでもない。やむなく、掘れば簡単に手に入る石灰岩を使って家を建てる知恵を編み出した。こうして生まれたのがトゥルッリである。

古い家を壊して、そこに新しい家を建てる。費用とエネルギーを要するように思えるが、実は安直な方法なのだ。老朽化して危なっかしい場合はやむをえない。しかし、何でもかんでも壊して建て直せば街が活性化するという筋書きはにわかに信じがたい。ヨーロッパ、特にイタリアの歴史地区からぼくが学んだ一番尊いことは、建造物をはじめすべての人工物をまるで植物のように育て共生していく精神である。古い住居に手を加え続けるのは、生活そのものを真剣勝負としているからだ。

今でこそ童話の絵本から飛び出してきたように見ているが、釘もモルタルも使わずに板状の石をただ積み上げただけの家に住むのはおそらく愉快ではなかったはずだ。そんな家だったからこそ、ドームの小尖塔に装飾をつけたりしたのだろう(前回紹介したシンボルには魔除けや呪術的意味合いが込められていたようだ)。眩しいほどの白壁。まさか何百年もそのまま残っているはずがない。外壁保護のために繰り返し繰り返し漆喰(しっくい)を刷毛で塗っているのだ。週に一回ペースで塗るというのだから、その手間は並大抵ではない。「よく生きる」とはこういうことなのだろう。

街の東のアイア・ピッコラ地区から300メートル西の方向に、もう一つのトゥルッリ集落であるモンティ地区がある。入り組んだ構造のアイア・ピッコラとは違って、この地区は整然とした街並みになっている。観光客は断然こちらのほうが多い。もちろん民家としても使われているのだが、ジュゼッペ・マルテッロッタ広場側から入ると、しばらくは土産物店が立ち並ぶ。買物や景観で人気はあるが、土産物店特有のプロモーションをあまり好きになれないから、土産店は一切覗かず、ゆるやかな道をずっと上って折り返してきた。広場をはさんだ向い側のアンティークの店を一軒だけ冷やかした。

トゥルッリもいいが、早朝のエスプレッソも印象的だった。別のバールには黄昏時と翌日午後にも行った。ほとんど儲けのないような店なのに満面笑みをたたえる主人。両替に行った銀行の対応はイタリア随一と言っていいほど「鈍かった」。2万円がユーロになるのに小一時間はかかった。「プルマン(長距離バス)が出るから至急頼む!」と何度急かそうともうなずくだけで焦らない。すべてがアルベロベッロ。誰が何と言おうと、旅は個人的な感応体験なのである。 《アルベロベッロ完》

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バールの隣りの果物店の店先。
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こじんまりとした田舎駅。
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ポポロ広場と市役所。
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高台に上がると、トゥルッリ集落がよく見晴らせた。
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ジュゼッペ・マルテッロッタ広場。壁は白で統一されている。
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民家が壁を共有しているモンティ地区。ドーム屋根には家ごとにシンボルが描かれている。
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スケッチしたシンボル。家紋のような目印は宗教的な意味合いを持っているとも言われる。
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唯一立ち寄ったアンティークの店。
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モンティ地区の道。
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街の外へ出ると風景は一変。やや色褪せたワンルーム仕様のドーム屋根と壁。

イタリア紀行32 「その名も美しい樹木」

アルベロベッロⅠ

アドリア海に面するプーリア州は、イタリア半島のアキレス腱から踵の部分にかけて細長く横たわっている。ここではオリーブ畑とぶどう畑が台地を埋め尽くす。オリーブもワイン用のぶどうも少雨と荒地には強い。このプーリア州にあって一番の観光名所になっているのが世界遺産アルベロベッロだ。アルベロ(Albero)は「木、樹木」、ベッロ(bello)は「美しい、すばらしい」。くっつけると「美しい樹木」という意味になる。

美しいかどうかの感じ方は人それぞれだろうが、たしかに広場や住居の所々に樹木は見える。ところが、地名の由来云々よりも、旅人は独特の形状をした住居群に尋常ではない好奇心を示す。円錐状にとんがった屋根がおびただしく立ち並ぶ光景を遠目に眺めると、まるで樹木が密生する林のように見えてくる。アルベロベッロを紹介する文章のほとんどは「不思議な街」や「お伽の国」という表現を使う。まったくその通りだが、映画やイベントのためにわざわざこしらえたのではないかと錯覚してしまいそうだ。

不思議の屋根をもつ住宅は街中に密集しているが、バスで街に近づく道中もオリーブやぶどう畑の丘陵地に同じ形状の農家が点在している。円錐形ドームを乗せたワンルームの建物はトゥルッロ(trullo)と呼ばれる。部屋が二つ以上になると複数形でトゥルッリ(trulli)という一軒の民家になる。石の建築文化としては特異の存在である。なにしろ良質な石灰岩が豊富に掘り出せるので、住居にもふんだんに石材を使える。しかも、すごいのは、切り出した石をモルタルやセメントを使わず、ただ積み上げるだけの構造なのである。

こんなスタイルの住宅はいったいどこからやって来たのか? 「メソポタミアあるいは北アフリカからクレタ、ギリシアを経て南イタリアに伝わったとする説が有力で、実際、語源的にも〈trullo〉はギリシア語の「ドームをもつ円形の建物」を表わす“tholos”に由来するとされる」(陣内秀信『南イタリアへ!』)。かと言って、起源は古代まで遡るわけではなく、16世紀半ば以降に発展してきたらしい。 

なお、このイタリア紀行はまだ続くが、これまで不十分な描写も多々あったかもしれない。今回のプーリア州について関心があればイタリア政府観光局のサイトをご覧いただきたい。そのついでに、他州にアクセスすれば、これまで取り上げた都市についても詳しく知ることもできる。

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アルベロベッロ市街へのバスからの光景。オリーブ畑が延々と続く。
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やがてトゥルッリの小集落や農家がぽつぽつと見えてくる。
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あちこちに切り石がぶっきらぼうに積んであったりする。
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遠景にアルベロベッロの街が浮かんでくると、まるで玩具の街のような奇妙な印象を受ける。
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人々が生活する地区、アイア・ピッコラ(「小さな麦打ち場」という意味)。
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屋根が積んであるだけとはにわかに信じがたい。
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アイア・ピッコラはおおよそ東西250m、南北200mの地区で400のトゥルッリがある。
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観光ルートにはなっておらず、住宅地を見て歩くという感覚である。
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アイア・ピッコラ地区から見渡す、もう一つのトゥルッリ集落、モンティ地区。
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ドームの屋根の先端にはピナーコロという小尖塔がついている。様々なデザインがあり、それぞれの家を象徴している。

イタリア紀行31 「肩肘張らない世界遺産」

フェッラーラⅡ

「次回のイタリア紀行はどこですか?」 一ヵ月ほど前、この紀行が一週間とんでしまった時にある人に尋ねられた。「フェッラーラのつもりだけど……」と答えた。なぜ「だけど……」かと言うと、フェッラーラのネガフィルムがデジタル変換できておらず、間に合うかどうかわからなかったからだ。案の定、一週間空いてしまった。おまけに、取り上げたのはフェッラーラではなく、ピサのほうであった。

尋ねた彼はフェッラーラの場所をよく知らなかったが、「あ、『フェッラーラ物語』という映画がありましたよね」と、さもぼくがその映画を知っているかのようにことばをつないだ。イタリア紀行などというものを書いているものの、さほどのイタリア情報通ではない。まず映画そのものをあまり見ない。イタリア映画もよく見逃している。1987年の映画で彼自身がストーリーをほとんど覚えていない。調べてみた。『フェラーラ物語 / 金縁の眼鏡』というタイトルである。あらすじだけからの想像だが、この映画を観てからフェッラーラを訪ねていたら、だいぶ印象が変わっていたに違いない。観ていなくてよかったし、今から観たいという気分にもならない。いつも思うことだが、旅の予備知識はあるほうがいいのかなくてもいいのか、あるほうがいいのなら多いほうがいいのか少なくてもいいのか……実に悩ましい。

悩ましいと言えば、海外地名の表記だ。“Ferrara”を「フェラーラ」と表記するか、本ブログのように「フェラーラ」とするかの選択に悩む。上記の映画の邦題もウィキペディアでも「フェラーラ」だが、手元のガイドブックをはじめ専門書や紀行文では「フェッラーラ」が多いのでそれに従った。イタリア語では同じアルファベットが二つ連続するときは、直前の音に「小さなツ」をくっつけて拗音化すると現実の発音に近くなる。“Ferrara”“rr” なので、直前の “Fe” を「フェ」と発音する。“Cavallo” (馬)は「カヴァロ」、“Spaghetti” は「スパゲティ」になる。

この日は月曜日だった。カテドラーレや広場はまずまずの賑わいを見せていた。ここは自転車の街と聞いていたし、駅前でも溢れんばかりの台数を目撃していた通り、歩行と走行が入り混じる。しかし、中心からほんの少し離れてちょっと横道に入ると一気に閑静な趣に変わる。時折り颯爽と通り過ぎていく自転車。身のこなしがかっこよく見えるのは、舞台装置のせいか。

これまでの紀行で繰り返し「中世の面影」や「時代の香り」や「文化の名残り」をはじめ、これらに類する表現を多用してきた。そういうことばをこのフェッラーラに流用できないこともない。しかし、「ルネサンス期の市街とポー川デルタ地帯」が世界遺産登録されているフェッラーラに「古色蒼然」は感じられない。ここは古代色や中世色の濃厚な他のイタリア都市とは違って、近世的に洗練されている印象を受ける。そして、それが現代にも連なっていて、肩肘を張らない日常生活光景と上手に共生しているように思われる。いい街――それは“decente”という形容詞が近かった。「ほどよく抑制のきいた」というニュアンスである。 《フェッラーラ完》

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実に落ち着いた街路の遠近感ある構図が気に入った。
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通りごとに道の色合いが微妙に変わる。
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鉄道駅までの帰路で現れた豪邸。かつての貴族の館か。
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しゃれたバール、さりげなくしつらえられた路肩。
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エステンセ城から南へほんの100メートル歩くと、トレント・トリエステ広場に出る。
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市庁舎、大聖堂、ドゥオーモ美術館が建ち並ぶ。
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なんともゆったりした広場の石畳を人が歩き自転車が自由に走る。
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大聖堂のファサードはロマネスクとゴシック様式が混在するデザイン。教会の軒下を利用して商店が並んでいる。

イタリア紀行30 「 ルネサンス期の宮廷都市」

フェッラーラⅠ

2004年の欧州紀行ではややハードな旅程を組んだ。関西空港からオーストリア航空を使い、ウィーンに2泊、空路ローマへ向かい2泊。次いで、ペルージャ(1泊)、フィレンツェ(4泊)、ボローニャ(3泊)へと鉄道の旅。復路はボローニャからウィーン、そして関西空港へ。機内を含めて13泊。フィレンツェ滞在中にシエナとピサへ日帰り旅行した。今回のフェッラーラへはボローニャ滞在中に出掛けた。フェッラーラはボローニャからはとても便利で、ヴェネツィア方面に列車で半時間ちょっとの立地。

当時知人がローマに住んでいた。在住30年の日本人男性である。その彼が親切にも全旅程のホテルを予約してくれた。ローマで彼に会い、お礼にランチをご馳走させてもらった。その後に向かうフィレンツェのお薦めレストランやシエナの情報も教えてくれた。ついでとばかりに、ボローニャ近郊の日帰り旅行について尋ねてみた。「パルマかフェッラーラのどちらかに行くつもりにしている。どちらがいいだろうか?」

生ハムのブランド「クラッテロ」やパルメザンチーズで世界に名を馳せるパルマに以前から心を動かされていた。しかし、機内でガイドブックをめくり読みしているうちに、パルマの知名度の足元に及びもしないフェッラーラに、無知ゆえの好奇心が芽生え始めていた。知人はまったく逡巡することなく、「二択ならフェッラーラですよ。いい街です」と答えた。この即答で行き先は決まった。

「すごい」に類する感嘆とは無縁だったが、知人の言う通りいい街だった。しかし、さらりと「いい街」と言ってのけられる街などそんなに多くはない。ルネサンスはフィレンツェの専売特許のようによく語られる。だが、フィレンツェにメディチ家というパトロンがいたように、当時のイタリアの他の都市にもそれぞれ有力者がいて独自のルネサンス文化の発展を支えていた。フェッラーラにはエステ家が1264年から1597年まで300年以上君臨していた。

「最もルネサンス的な都市と言われているのは、フェッラーラ公国であって、フィレンツェではない」と『イタリア・ルネサンス』(澤井繁男著)には書かれている。さらに、同書はスイスの歴史家ブルクハルトの言も引用して、「フェッラーラがヨーロッパ最初の近代的な都市」とも付け加える。帰国してから知ったことだが、「いい街」は「どえらい街」だったことがわかり、そぞろ歩きと軽めのランチをしてさっさとボローニャに帰ってきたのが惜しくなった。二都を追いかけると必ず心残りのツケが回ってくる。

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何の変哲もない駅前光景。おびただしい自転車が目立つ。
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市街へのカヴール通りは並木道。
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無限回廊を思わせる城内の通路。
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エステ家の居城「エステンセ城」。現在は市庁舎。堀に囲まれ4本の塔が建つ。
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柱の装飾。「ご苦労さま」と声を掛けたくなる。
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レストランでラヴィオリを食べながら騎馬像を見る。
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道幅の広い街の中心街では、人と自転車が忙しく行き交う。

イタリア紀行29 「揺るぎないブランド」

ピサⅡ

どんなにありきたりな連想であっても、ピサと言えばやはり斜塔なのである。それは、パリと言えばエッフェル塔であり凱旋門であるように、あるいはローマと言えばコロッセオでありトレビの泉であるように、たとえ御上りさんとからかわれようと、やむをえない観念連合なのだ。日光の東照宮、奈良の大仏も同様である。

マルチタレントでありながら、一芸に秀でると他の一流の芸が陰に隠れてしまって機会を損失する。有名観光地にはこんな贅沢な悩みがつきまとう。傾いた一本の塔のせいで、観光客は一時代を画した海洋都市の側面に、あるいはヨーロッパでも名立たる学園都市の側面に目をやるのを忘れる。何を隠そう、このぼくがそんな典型的な旅人だった。フィレンツェ発の列車に乗り遅れて1時間ロスしたとか、雨が強くて歩けなかったとか、いろいろ言い分もあるが、何をさしおいても「斜塔さえ見ておけば」という心理が働いていたのは事実である。

ジェノバやヴェネツィアの海軍に勝利したほどのピサだ。世界最強とまで謳われた海洋都市の名残が街の随所で見られるらしい。それらのことごとくをぼくは見逃している。また、ピサは大学の街でもある。ボローニャ大学(1088年)やパリ大学(1100年代)よりも時代は下るが、1343年にピサ大学は創立されている。ガリレオ・ガリレイは17歳で入学し、25歳の時に母校で数学の教鞭を執り始めた。

トスカーナの都市の写真をふんだんに掲載しているガイドがある。その中のピサのページを見るたびに、鉄道駅と斜塔の往復にバスを使ったのを悔やんでしまう。混みあったバスの車窓から垣間見るだけでわくわくしたのも事実だ。だが、歩くべきだった。旅の記憶は脳だけではなく、足底から身体全身にも刻んでおかなければならない。そう痛切に思う。

最後にミラコリ広場の建造物の話に戻る。あの広場、そして洗礼堂、大聖堂、鐘楼のある斜塔の配置は当時のピサの格と富裕度を如実に示している。これまで取り上げてきたシエナのゴシック建築やフィレンツェのルネサンス建築と並んで、「ピサ様式」は建築の世界に独自の地位を築いた。最先端の建築・土木技術によって傾斜する世界遺産が保たれているが、あと三百年は大丈夫との推定だ。珍しくもピサでは斜塔にも市庁舎の塔にも登らなかった。多種多様な都市の断面に触れていない分、傾く斜塔が目に焼き付いている。 《ピサ完》

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城壁跡が残るミラコリ広場。
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同じく広場の別の一角には土産の屋台が立ち並ぶ。すべての土産物が 斜塔をモチーフにしていることは言うまでもない。
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土産店で買った、手のひらに乗るサイズのミニチュア。どこででも売っているキーホルダーよりましだと思った。この時以来、行く先々でこの種の模型を買うことにしている。もちろん、この模型の距離関係はでたらめである。
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ドゥオーモ(大聖堂)。右後方に斜塔、左側に離れて礼拝堂がある。実物はもっと白っぽいが、雨でグレーに変色して見える。
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斜塔は撮影場所によっては威風堂々、真っ直ぐに立つ。
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小雨の合間に広場周辺の街角を足早に巡る。

pisa (26).JPGバス通りから眺める礼拝堂。後景に歴史、前景に現在というこの構図がとても気に入っていた。後日、その理由の一つが判明した。
「過去=背景」「現在と未来=前面」という関係が成立している。時間と空間の関係が常識に適(かな)っているのである。こうした状況に置かれたとき、私たちは、「美」や「落ち着き」「居心地のよさ」を感じるのではないだろうか。 (民岡順朗著『「絵になる」まちをつくる  イタリアに学ぶ都市再生』)
街が絵になる決め手はキャンバスにあり。「歴史のキャンバス」と「可変の現在」の組み合わせが価値を生むのだ。