短時間と行数制限の負荷

リテラシー能力や思考力を鍛えるために様々な方法があることを知っている。そして、どんな方法にも必ず大量と集中が関わっているのを体験してきた。「ただひたすら」の境地、只管三昧の世界に通じる方法論である。最近社会人を対象とした講義を受け持つ准教授の話を聞く機会があったが、大学院においてさえ徹底的に大量に読ませ、「なぜ」を考え抜かせ、議論を尽くさせることが必須トレーニングであるという趣旨であった。

その昔、日本とアメリカの国語の教科書を比較して何よりも驚いたのは、内容編集などではなく、分厚さの違いであった。アメリカの国語(つまり米語)の教科書のボリュームを見れば、大量インプットが学習コンセプトであることが一目瞭然。学習と言うものの、まさに「習うより慣れろ」なのだ。つべこべ屁理屈をこねずに、何度も何度も繰り返してパターン認識せよ、というわけである。これは、読み・書き・聴く・話すという言語四技能の”オートマチック化”にほかならない。これに対して、ぼくが義務教育であてがわれた国語の教科書のページ数は貧弱であった。名作の数ページを抜いてきて精細に吟味させ、人それぞれの鑑賞であってもいいはずの文学作品の解釈に「しかるべき模範解答」を発見させようとしたのである。

膨大なルーチンワークの積み重ねの末に運よく〈偶察〉があるというのはよく知られた話だ。もちろんルーチンワークの中身は決して穏やかな取り組みの連続ではない。混沌あり失敗あり絶望あり、なのである。天才を除外すれば、発明や発見における競争優位の原理は明らかに分母の量だろう。分母の膨大な量が分子の一粒の実をらせれさせる。しかし、大量集中の鍛錬に耐えることができるのは若い脳ゆえである。残念ながら、齢を重ねるごとにこうした鍛錬はきつくなっていく。


だが、絶望することはない。幸いなことに、大量集中の代替トレーニング法があるのだ。それは、量の代わりに質へ、集中の代わりに分散へと対極にシフトすることではない。大量に伴うのは長時間であるから、それを短時間に変えればいいのである。短時間に変え、しかも難度を上げるのである。これによって集中密度も高まる。長い時間をかけてルーチンをこなす代わりに、短時間で難度の高いトレーニングを積むのだ。

言いたいことが山ほどある時、到底こなせない時間内で要点を説明しようと試みる。取捨選択にともなう負荷は大きい。また、10010にするというのは、抜き出しだけで事足りるものでもないし、単なる要約で片付く話でもない。たとえば、メッセージの本質を簡潔な概念で、しかも30分ではな3分以内で言い表わすのである(なお、ここで言う概念の説明としては、中島義道著『観念的生活』の「言語によって捉えられたものであり、概念的把握とは言語によって捉える把握の仕方である」という一文が適切である)。

書くことにおいても同様である。『企画書は一行』というような本があるが、さすがに極論だとしても、原稿用紙30枚を5枚にしてみるような急進的な削ぎ落としを試みるのもハードルを上げる効果がある。本ブログの行数が長いという意見をいただくが、ぼくにすれば本来二百行くらい書きたいところを三、四十行に制限しているのである。安直に書いているようだが、短時間でそれなりにプレッシャーをかけているつもりだ。ともあれ、中熟年世代には、時間と行数の縮減によって難度の高いテーマを語り書くことをお薦めする。

時間を創る生き方

去年一年間、Kはずっと「忙しい、忙しい」と言っていた。会うごとに、電話で話すごとに、メールをやりとりするごとに。先週会った時も同じことを言っていた。仕事がどんなに多忙なのかつぶさに見る機会はないが、会った時の振る舞いからは普段の慌しさが漂ってこない。話し方も悠然としているし……。にもかかわらず、ご機嫌をうかがうたびに、「時間がない、時間が足りない」とよくこぼす。

Kとは誰か? ぼくの回りにもあなたの周辺にもよくいる人物、それがK。そう、Kはどこにでもいる。もっとはっきり言っておこう。時々誰もがKになってしまうのだ。Kというイニシャルに特別な意味はない。多忙を言い訳にする象徴的な人間を他意なくKと呼んでいる。Kは、K自身が多忙だと思っているほど、仕事に追われてもいないし多忙でもない。Kよりも物理的に仕事の負荷が大きくても、余裕綽々に日々を送っている仕事人も世間には少なからずいる。

「忙しい」を口癖にしたまま定年退職していったK先輩たちをぼくは何人も知っている。同輩にも年下にもKはいる。集まりがあればほとんど確実に遅刻し、約束を直前になってからキャンセルするくらいは朝飯前だ。丁重に謝り「次こそ絶対に先約を守る」と誓っても、急な仕事やトラブルが発生する巡り合わせになっている。冠婚葬祭出席の頻度も高い。ぼくはいつも疑問に思う、Kは仕事ゆえに多忙なのか。Kに「忙しい」と言わせているのは、仕事以外の諸々のゴミ時間なのではないか。


多忙だから趣味に打ち込めない、仕事続きでゆっくり落ち着いて本も読めない。あれもしたいこれもしたいと願いながら、一年を振り返れば雑事に忙殺されてきた。しかも、時間を食った割には仕事の達成感はない。何だか薄っぺらな仕事ばかりしてきた感覚が自分を支配している。このようなワークスタイルとライフサイクルは、放置しておけば生涯続く。そして、K本人は言い訳と口癖の「忙しい」を相変わらず言い続けることになる。どこかでケリをつければいいのだが、環境も態度も変容しそうな気配はない。

多忙感には避難所に似た構造がある。「忙しい」というのは口実でもあり幻想でもある。もちろんK自身はそれが口実であるとか幻想であるなどと思いもしていない。言い訳しているつもりもなければ口癖になっているとも気づいていない。毎日がとても窮屈で自由気ままにならないと確信している。だが、Kは間違っている。Kは仕事で忙しいのではない。時間ののりしろを作れないため、不器用に仕事をしているにすぎない。

電話、来客、会議、トラブル対応、先延ばし、人付き合い、優柔不断。ブライアン・トレーシーはこれらが「ゴミ時間」の要因であると指摘する。多忙解消のための電話ではなく、電話に時間を食われて忙しくなっている。来客との会話、会議、人付き合いの大半は、終わってから後悔の念に苛まれる。トラブル対応はパスできないが、マイナス作業であることを心得ておかねばならない。先延ばしと優柔不断は身から出る錆である。

時間欠乏にからんでくるのは、いつも「人」である。人間関係は微妙であって、ある境界線を越えるとプラスがマイナスに転じる。やりがいにもストレスにも人は関与するのだ。Kよ、多忙が好きなら金輪際「忙しい」と言うなかれ。多忙が嫌なら、愚痴を言う前にゴミ時間を減らしたまえ。時間を創れない人間がいい仕事をやり遂げたためしはないのである。

論を立てるということ

論理、弁論、議論、論説などとよく使っているが、考えてみると「論」を一字単独で用いることは少ない。かつてはおそらく「君の論は」とか「この論によると」などと言っていたと思うが、論は「意見」に座を譲った。ぼくの語感では、「筋のある意見」が論である。だから、論を立てたり張ったりするのは、理にかなった意見構築をおこなうことになる。説明がくどくなるが、「理にかなった」とは第三者が聴いて「一考に値する」と感じること、あるいは「暫定的にオーケー」を出すことだろう。

ネット上に『論を立てる』という番組があると耳にした。ちらと見たかぎりでは、対立的な論戦・激論というよりも意見を交互に述べる談論に近いようだ。論を立てると「立論」になる。ディベートではおなじみの基調弁論の一種だ。立てるのはあくまでも論である。自分の意見で筋を通す。意見を支えるのは、これまた自分で編み出す論拠である。こうして立てた論の信頼性と実証力を高めるために証拠や権威筋の証言を引用する。

ところで、熟年過ぎてから大学院で学んでいる知人がいる。期限が迫ってきた修士論文で困り果て、添削・推敲してくれとねじ込んでくる。不案内のテーマについて書かれた文章など簡単に手直しできるものではない。困っている人を放置できない性分なので、数十枚の論文を読んではみた。各章の書き出しくらいは何とかしたが、その他はどうにもならない。引用文でガチガチに固められて分解修理のしようがないのである。


メールを送った。「このテーマについて何を書きたいのですか? 読み手に何を伝えたいのですか? 何が自分の意見ですか? 人はわかっていることしか書けません。また、わかっていること以外を書くべきではありません。あなたが考えたり読んだりしたことと、あなたのことばの表現・論理が一致しなくてはいけません。」 すると、「これは文献研究なんです」と言うから、またメールを送った。「では、次のような手順で書き換えなさい。1.この本にはこんなことが書かれている。2.私はそれをこう読んで自分のこれこれの意見と照合し考察した。3.この本の意義を私はこれこれに見い出す。」

文献研究ならば、その著者と文献を選んだ動機はあるだろう。必ずはじめに自分の価値観なり意見なりがあるのだ。このような論文にしてもディベートの立論にしても、ほとんどの人がリサーチから入る。文献を読み新聞を切り抜く。テーマや論題について自力で考察していない。ぼくに言わせれば、設計図なしに部材だけを集めている状態。調べると情報の縛りを受ける。複数の情報を組み合わせて論を立てようとしてもうまく整わないのである。

仮説と呼んでも構想と呼んでもいいが、まず自前で論を立てる。情報不足だから中身は空っぽかもしれない。だが、筋さえ通しておけばいい。簡単なシナリオを一枚の紙にざっと書く。一切の情報を「ないこと」にして自分なりの論拠を捻り出す。こうして出来上がったケースシートに一本筋が通ったと判断したら、その時点から筋を補強してくれる裏付けを取るために証拠・権威の証言を調べるのである。すでに仮説の網を張り軸を決めているから、関連情報も見つけやすくなる。いろんな人に口を酸っぱくして助言するのだが、みんな重度の情報依存症に陥っているせいだろうか、言うことを聞いて実践してくれないのは残念である。

知のバリアフリー化

知のバリアフリー賛歌のつもりで書こうとしているのではない。むしろ「バリアなければすべてよし」の風潮にうんざりしている。物理的にも精神的にも障碍のない状態を表わすことばが、ご存知の「バリアフリー」。もちろんそのことは一般的にはいいことなのだろう。たいていの動物にとって自然環境は、手を加えないままでバリアフリーである。ぼくたちの目にはバリアだらけなのだが、彼らは見事に環境に適応して苦もなく駆けたり飛んだりしているように見える。羨ましいかぎりだ。

人間はと言えば、レアのままの自然環境では生きづらい。それゆえに、登山や航海などがバリアを克服する冒険として成り立っている。文明の所産である様々な人工物は「動物弱者」としての人類が生活しやすくなるようにと編み出したものである。そもそも野獣から身を守り風雪に耐えるべくしつらえた住居は、自然のバリアを極力排除したバリアフリー指向の産物だったに違いない。

長い年月をかけて住みやすくしてきたが、成熟の時代になった今でも家にはまだ段差があり、壁や柱の一部が生活上の障碍として残っている。それらをすべて取っ払えばバリアフリーでアトホームな暮らしができるという目論見がある。床という床をすべてフラットにし、ありとあらゆる突起物をなくせば、生活しやすくなる? そうかもしれない。但し、一歩外へ出れば、どんなにバリアフリー化を進めている街にも大小様々なバリアがそこかしこに存在し、想定外の新種のバリアも蜘蛛の巣のように潜んでいる。


現実問題として、何から何まで平らになった環境で冒険心や挑戦意欲を維持できるのだろうか。いまぼくは、このバリアフリーの話を仕事に当てはめようとしている。仕事にはさまざまな課題がある。もちろん難問奇問もある。それらを解決していくことはその職業に就くプロフェッショナルとしては当然の任務である。にもかかわらず、そんな高度な課題に挑むこともなく、職場はマニュアルで対処できる「まずまず問題」ばかりに躍起になっているように見える。

テーマが容易に解決可能なレベルにならされた職場は、まさに知のバリアフリー状態と呼ぶにふさわしい。考えること、問題を解決することにつきまとう辛苦を遠ざけて、アマチュアがうんざりする程度の知で日々の業務をこなしているのだ。そのような知はハプニングに対して脆弱で、臨機応変力に乏しく、もはや難問を前にしてギブアップしているに等しい。

ここまで書いてきて、ふとあのテレビコマーシャルを思い出す。「三菱東京UFJ銀行カードローン、三菱東京UFJ銀行カードローン」と二度そらんじるだけで、上司の阿部寛が「グッドジョブ!」と褒めてくれるのである。これがバリアフリーの知の行く末である。これなら「この竹垣に竹立て掛けたのは、竹立て掛けたかったから、竹立て掛けたのです」を二度繰り返せれば、「ミラクル!」と叫んでもらえるのだろう。バリアフリーな知に安住したアタマでは難問を解くことはできないのである。

ソリューション雑考

問題を解くという素朴な意味でソリューションということばを使っているのに、ぼくの意に反してずいぶん大仰に受け取る人たちがいる。彼ら流ではソリューションビジネスとかソリューションサービスと言うのだろうが、分野によってはソリューションはコンサルティングやシステム構築を含んでしまう。情報機器関連の業界では、もう二十年近く前からアフターサービスやメンテナンスもソリューションの一形態と見なしてきた。

ぼくの使うソリューションには「人力的」で「原始的」という含みがある。英語の辞書を引けばだいたい二番目に出てくる「溶解」または「溶かすこと」に近い。固形の問題を水溶液に入れて跡形もなく消してしまうというイメージ。日本語でも英語でも「ソリューションを見つける」という言い回しをよくするが、たしかに既製の水溶液を見つけてきて、そこに問題を放り込んできれいさっぱり解かせる場合もあるだろう。

しかし、いつもいつも運よくどこかに解法が存在しているとはかぎらない。問題に直面すれば自力で解決策を講じたりソリューションを捻り出したりせねばならない場面が多いのである。つまり、固形物を自ら粉砕せねばならないのだ。粒が残ることもあるだろう。そのときは、手作りの溶液へ投じて攪拌せねばならない。現実に照らしてみると、人力的かつ原始的に試みられるソリューションのほうが頻度が高いと思われる。なお、難度の高い問題が必ずしも高度なシステムとソリューションを必要とするわけではない。ぼくたちが抱える問題の難易度と解法のレベルは、数学や物理学とは違う。仕事や生活上の難問は案外簡単な方法で解けてしまったりすることもある。


誰かの問題であれ組織や社会の問題であれ、人はまず足元の問題を解決しようとする意志と情熱によって様々な方法を実践できなければならない。自分の困りごとやニーズに気づきもせず改善努力をしない者が、他者の困りごとやニーズに気づいたり気遣ったりできるはずがないのである。まず己のソリューション。これが自力という人力である。そして、何が何でも問題を解いてやるぞという意志と情熱。この「何が何でも」が、ぼくの言う原始的方法に呼応する。己のソリューションができてはじめて、他者のソリューションのお手伝いができる。

問題や課題を探すのが上手な人は五万といるが、彼らのほとんどは解決を苦手としている。問題のない状態が一番いいわけで、のべつまくなしに問題が発生するのを歓迎しない。ソリューション大好き人間などめったにいないのである。「好きこそものの上手なれ」と教えても、好きになれないのだからどうしようもない。ならば、「下手こそものの上手なれ」と言い換えてみようではないか。下手だから上手になろうとする習性があることを思い出そう。

たとえば「リヨンド・ガラソとは何か?」という問いは、調べて説明せよという問題なのか、それとも想像せよという問題なのか。この問いは、「売上アップ」や「薄型携帯のデザイン」などと同じ課題なのか。問題の記述文はソリューションの着地点を決定づける。忘れてならないのは、ソリューションとは問題のある現状を理想的な状況に変革する方法という点である。したがって、「リヨンド・ガラソとは何か?」はソリューションを求めているのではなく、意味や由来を図書館かインターネットで調べてこい、もしくは、ラテン系らしい語感を頼りに誰かに聞いてこいと指示しているのである。

残念ながら、リヨンド・ガラソをGoogleで見つけることはできない。なぜなら、ラテン系の表現でもなく地名でもなく、ぼくが窓を開けて空を見上げたときに「そらがどんより」とつぶやき、それを逆から発音して「りよんどがらそ」になっただけの話だからである。しかし、この記事の投稿したので、リヨンド・ガラソを検索すれば、この記事に辿り着くかもしれない。

世の中には、この例のように、ソリューションの対象にならない問題や課題もあるから気をつけよう。

どっちが正しいのか?

ランチタイムに来客があるのでご馳走するとしよう。オフィスから歩いて数分圏内にしたい。初めての人にお薦めの店が二軒あり、一つは中華、もう一つがフレンチだとしよう。どっちが正解か……。こんなことを真剣に考える人が現実にいて驚いてしまう。しかも、なかなか結論が出ずに心底悩むらしいのである。ランチ接待というテーマに「正しい・間違い」などあるはずもない。結果は「気に召したか召さなかったか」のどちらかで、正しかったか間違いだったかではない。

最初から来客自身に聞けばいいではないかという意見もある。「この辺りにはまずまずの中華料理店とビストロがあるのですが、どちらがいいですか?」と聞く。なるほど、手っ取り早い方法だ。しかし、ぼく自身のもてなす側の経験上、相手はほとんどの場合「お任せします」と言う。また、もてなされる側としての経験に照らし合わせても、「お任せします」と言うほかない。相手に気もお金も遣わせてはいけないと思うからである。したがって、相手の好みを尋ねるのも芸がなく意味もない。

考えて悩んで答えが出るものと、そうでないものがある。そして、大半の考えごとは正否の次元で片付かない。ランチメニューを前にして少考することはある。時に決めあぐねることもあるが、それは悩みなどではなく楽しみの一つだ。書店で本を選ぶ時も同じ。ポケットマネーの範囲内だから、二冊の取捨に迷ったら両方買えばいい。しかし、それでは面白味がない。何も考えずに両方買うのではなく、二者択一という条件を自分に課すのは一種のゲームとして実に楽しいのである。これとは違って、来客をどんなランチでもてなすかはほとんど直感であってよい。来客の嗜好を知らないのならなおさらで、極端な話、自分の食べたいほうを持ちかければよろしい。繰り返すが、そこに正しい判断などないのである。


ラッセルとホワイトヘッドは共著『プリンキピア・マテマティカ』で「1+1=2」を証明するのに700ページを費やした。これだけ念には念を入れたのだから、どうやら「1+1=2は正しい」と言えそうである。しかし、これを正しさの基準にすれば、世の中は正しくないものの集合でできているようにも見えてくる。「我思う、ゆえに我在り」のようなスーパー名言でさえ、1+1=2の正しさの足元にも及ばない。「我語る、ゆえに我在り」というぼくの創作もデカルトの名言も、怪しさにおいてはいい勝負ではないか。

ここで一つ問いかけてみたい。ABのいずれが正しいのだろうか。

A 他人のことはよくわかるのに、自分のことはわからない。
B 自分のことさえわからないのに、他人のことがわかるはずもない。

哲学命題としてはおもしろいが、現実問題としては深く考えるまでもない。ABのどちらが正しいかなど永久にわからないのである。それどころか、正しい・間違いという尺度を持ち込めるのかどうかも疑わしい。ぼくはAを実感することもあれば、誰かに相談されるときに強くBを主張したくなることもある。実感したからと言って、正しいと確信することなどできそうもない。確かなことは、ABも経験したことがあるという点だけである。

先の土曜日に、審査員を対象としたディベートの勉強会を実施した。12月中旬に大学生によるディベート大会が開催されるが、その論題《大学は主として実社会適応力を習得する場である》の解釈と分析、簡単な立論による練習ディベートをおこなった。ここでも、油断するとつい事の正否を問うてしまうのである。このテーマは定義命題であり、大学というものの役割論・ポジションを争点とする。ゆえに、肯定側に立てば「大学を実社会適応力習得の場」と解釈し、否定側に回れば「そうではない」と反論するロールプレイを演じるのである。「どっちが大学の正しい姿?」などと真理のありかを問うても答は出てこない。

「どちらが正しいのだろうか?」という問いは、ぼくたちが想定するほど有効ではなさそうだ。そう尋ねてまじめに答を編み出そうと四苦八苦しても、あまり思考力が高まることもなく、また意思決定や問題解決がうまくいきそうもない。むしろ、どうあるべきかと考えて自分なりに意見を導き、その論拠を組み立てて他者に説明するほうがトレーニングになりそうである。

ユニークさの源泉

タイトルを『ユニークさの源泉』と書いてから、はっと気がついた。『日本人――ユニークさの源泉』という書名を思い出したのである(著者グレゴリー・クラーク)。1970年代、比較文化に興味があったのでその種の本をよく読んでいた。他に『人は城、人は石垣――日本人資質の再評価』(フランク・ギブニー著)なども読んだ。当時、アメリカ人による日本文化論がよく書かれ日本でよく読まれた。昨今も日本人論ブームらしいが、いつの時代も日本人は日本や日本人についてどう見られているかに異様な関心を抱いているような気がする。

『日本人――ユニークさの源泉』という書名も著者名も思い出したが、あいにくどんな内容だったかまったく記憶にない。今からユニークさについて書こうと思うのだが、タイトルが必ずしもユニークでないのは愉快でない。かと言って、『ユニークさの理由』や『ユニークさの背景』に変えても、どこかにこれらのフレーズを含んだ書名があるに違いない。ならば、タイトルはこのままにしておこう。但し、これから書くユニークさの源泉は日本人論とは無関係である。

「差別化か、さもなくば死か」(ジャック・トラウト)はのっぴきならない決意表明である。マーケティング戦略史に残るこの一言は極端に過ぎるかもしれない。だが、自他に差がなく、ひいては自分が他者から識別されないのはやっぱりつまらない。ぼくは教育と実際のサービスの両面で企画を実践してきたが、ありきたりであることや二番煎じであることがブーイングの対象になるのを承知している。いや、批判されることなどどうでもいい。それよりも、自分が他者とは異なる固有の存在でなければおもしろくないではないか。ユニークさは生きがいの大きな要因だと思う。


普通でないことや常識的でないことをユニークさと呼んでいるのではない。ユニークさとは他と何らかの差異があることだ。ちなみに、ぼくたちは「とてもユニーク」などと言って平気だが、英語表現に“very unique”はなく、また比較級も最上級にも変化しない。「A君はB君よりもユニーク」などと言わないし、「この商品は当該ジャンルでもっともユニーク」とも言わないのである。このことは、単に「ユニーク」という一語だけで、形容する対象が固有であることを示している。

たとえちっぽけでも固有になりうる。「鶏口となるも牛後となるなかれ」という有名な諺がある。大きな組織のその他大勢の一人になるくらいなら、小さな組織のリーダーのほうがいいという意味だが、ユニークさと重ね合わせてみると何となく似ている。ユニークさはゴールの大小、組織の大小、テーマの大小とは無関係に発揮できる。そのためには、誰もができそうなことや自分でなくてもいいことに長時間手を染めないことである。

なぜ人はつまらない平凡な存在になったり陳腐な発想をしたりするようになるのか。一言で言えば、現環境における安住である。そして、その裏返しとしての、新環境への適応拒絶。もう少し平易に言えば、流れに掉差す無難主義あるいは等閑なおざりな正解探しの姿勢がユニークさを阻んでいる。ユニークさの源泉とは、この世に生を受けておいて固有でない生き方をしてたまるかという「向こう意気」だろう。そして、時にそのエネルギーは、アマノジャク、アンチテーゼ、エスプリなどに変形する。

大局観と細部観察

残念ながら、すぐれた企画力とは何かを今もなお一言で語ることができずにいる。企画力が特別な訓練によって磨かれる特殊な能力なら、一言で表現することもできるだろう。あるいは、天賦の才であるならば、遠回りせずにそう呼んでおけばいい。だが、企画力に特別な要素など何もないのだ。企画力の成分は、日常茶飯事の良識にかぎりなく近いヒューマンスキルで構成されている。このために、あれもこれもと欲張った定義になってしまうのである。

一般的な企画研修の冒頭、1. 小さなことの繰り返しと積み重ね、2. 時代への目配り、3. コミュニケーション力、4. 迅速な意思決定、5. 新しさへの挑戦という、企画の心得を紹介する。そして、直後に「企画書よりも企画、企画よりも発想。そして、発想に先立つものが、日々の観察と着眼」ということを強調する。ゆえに、研修テキストの第1章を素直に「観察力と着眼力」から始める。その章で「大局観と細部観察」という小見出しをつけて、次の文章をテキストで綴っている。

小部分の集合は必ずしも大部分にならない。森を見る努力が、やがて枝葉・幹を見るクローズアップ能力を育む。但し、道端の石ころの文様に見入るようなものの観察方法も忘れてはいけない。

要するに、全体と部分のいずれにも目配りすることを説いている。ところで、「木を見て森を見ず」はよく知られた慣用句で、細かなことばかりに気を奪われていると全体を見渡せなくなるという教訓を導く。しかし、実際問題として、ぼくたちに森を見る機会などない。ヘリコプターに乗って鳥の目を持たないかぎり無理な話である。森との間に距離を置いても、地上から森を眺めることなどできない。地平線上でぼくたちが見るのは、数本の木が重なり合った、森の断片にほかならない。


上記の引用で「森を見る努力」と書いているのは、森を現実的に俯瞰することではない。森をイメージするということ、つまり、大まかな構想というほどの意味である。木をいくら集めても、ぼくたちに森は見えない。むしろ、森をイメージするからこそ個々の木々や幹や枝葉が見えてくるのである。他方、「森を見て木を見ず」も起こりうる。したがって、構想とは別に、石の文様をじっくり眺めるような視点も軽視してはいけないという但し書きが必要になる。

企画のステージは「拡散的な構想」と「立案内容の収束」に分けられる。おおむね「あれもこれも(AND)」から「あれかこれか(OR)」に向かうが、ORからANDへと一時的に可逆させねばならない場合もある。そう、あるテーマの企画のみならず思考一般に関して、大局か細部か、マクロかミクロか、ロングショットかクローズアップかの岐路でつねに迷う。だが、いずれかが他方の優位に立つのではない。柔軟に双方を行き来できる人もいれば、いずれもできない人もいる。いずれもできないからと言って、何も見えていないわけではない。森を意識した瞬間木が見えず、木に目を凝らした瞬間森から目線が逸れてしまうのだ。要するに、拡散と収束を二者択一的に作業化することが問題なのである。

間違いなく言えることは、精細に枝葉を論理的に分析することから始めてはいけないということだ。枝葉を知り、幹や根を知り、一本の木を知り尽くしてもなお森を見晴らしよく眺望することはできないし、細部観察を条件とした構想などそもそもありえないだろう。部分的にどんなにラフなスケッチであってもよい、大局観に立脚してはじめて企画も思考も起動するのである。大局観と細部観察に優劣はない、しかし、初動は大局観でなければならない。

アイディエーティングという位置どり

最近、企業コンセプトや広告コンセプトの〈アイディエーティング〉の機会がとみに増えてきた。ぼくが発案したこのアイディエーティングとは、企画のためのアイデアを提供するコンサルティングの一種である。依頼主の企業規模も業種も問わない。念入りな調査もおこなわない。依頼されてから一週間か半月以内に顔合わせをし、事前に提示された課題について半日をかけて集中的議論と二次記憶の棚卸しをおこない、その場でアイデアとアイデアを触発させる。深慮遠謀せず、少々軽薄気味であっても量を求めることを主眼とする。意思決定を急ぎ、いちはやく全体構想を俯瞰する。このプロセスでは日常生活感覚、雑学、賢慮、良識、想像力、それにほどほどの企画ノウハウが求められる。

時間をかけて調査をおこない論理的に精度を高めたつもりが、肝心のアイデアが出なければ話にならない。また、アイデアというものは必ずしもそのようなプロセスを経て醸成されるものでもない。むしろ、集中と脱線、統合と分解、論理とアバウト、ことばとイメージ、ねらいとハプニングなど、相反する作業や精神作用によってアイデアはおびただしく頻繁に生まれる。ある程度の知識と経験にたくましい想像力を融合させれば、〈偶察力セレンディピティ〉のご褒美にあずかることができるのだ。

依頼者の業界についてどれほど詳しいかはあまり重要ではない。常識的に少々知っておかねば箸にも棒にもかからないが、敢えてにわか知識を仕入れるには及ばない。こんなことをあけっぴろげに言うと、「餅は餅屋じゃないか。素人に餅はわからないだろう」と反発を食らう。これに対して「紺屋こうやの白袴」とか「医者の不養生」などと切り返す? いや、それには及ばない。実際のところ、業界を知るために当該業界の専門家である必然性などないのだ。マックス・ウェーバーが言うように、「シーザーを理解するのにシーザーである必要はない」のである(『経験の差は優位性とはかぎらない』参照)。


専門家が専門分野を因数分解するときの危うさを嫌というほど見てきた。餅は餅屋と過信しているかぎり、理解幻想の枠から抜け出すことができないのである。専門家が経験によって理解することと門外漢が想像によって認知することは本質的に異なっている。両者を優劣で計るのは適切ではないが、敢えて想像側から優位性を一点取り上げるなら、対象を対象のエリアだけで捉える経験に対して、対象をより広範な文脈で捉える可能性が大きいという点である。この一点において、いや、まさにこの一点においてのみ、業界の専門家はぼくのアイディエーティングに期待を寄せてくれる。

英国の宰相チャーチルは玄人はだしの絵筆の使い手であった。絵の達人チャーチルならわかってくれるだろうと、ある人物がこう切り出した。「一度も絵を描いたこともないくせに、ただ有名人というだけで美術展の審査員におさまっている連中がいます。これはおかしいですよね」。てっきり「もちろん」という返事をもらえると思っていたが、チャーチルは次のように言ってのけた。

「いや、別にかまわんじゃないか。私はまだタマゴを生んだことはないが、タマゴが腐っているかどうかくらいはちゃんとわかるからね」

ぼくの仕事はまさにこれなのである。依頼主とぼくが共同して考え抜いても、何が最善かはわからない。有力なアイデアや方向性を絞るところまでは到達できるが、その先は決断あるのみだ。しかし、依頼主が従来から独自で実施してきた企画案が功を奏していないこと、少なくともその案よりもすぐれたアイデアがありそうなことは即座にわかるのである。「あなたの業界に一歩も足を踏み入れたことはないし、商品を売ったこともないけれども、ぼくは現状よりも有効なアイデアを捻り出す自信があります。但し、それがベストであると自惚れているわけではありません」――これがアイディエーティングの根底にある姿勢である。対象と距離を置き、依頼主と消費者の中間に立つコンサルティングと言ってもよい。

腕組みよりもペン

諺にはさまざまな含みがあるから、どんな場合にでも「その通り!」と納得するわけにはいかない。たとえば「下手な鉄砲も数打てば当たる」。このセオリーに一理を認めるものの、下手は何度やってもダメだろうとも思う。下手を少しでも改善してから場数を踏むほうがいいような気がする。

同じく「下手」を含む諺に「下手の考え休むに似たり」がある。これにも頷く時と首を傾げる時がある。大した知恵のない者が考えても時間ばかり経つだけだという意味だが、たしかに思い当たることが多い。しかし、それなら下手な者に思考は無用ということになってしまう。よく考えるよう努めれば下手が上手になることもあるのではないか。

ほとんどの諺に対して共感と反発が相半ばする。だが、一種の法則のように容認できる諺も、数は少ないが存在する。その一つが「案ずるより産むが易い」だ。あれこれと想像して心配するくらいなら、さっさと実際にやってみるほうが簡単だというこの教えは、他人を見ていてもぼく自身の経験を踏まえても、かなり信頼性の高い鉄則である。ただ残念なことに、とりとめのない時間が無駄に過ぎてしまった後に、この諺を思い出すことが多い。その時はたいてい手遅れになっている。


案ずると産む。案ずるがビフォーで産むがアフター。失敗したらどうしようと遅疑逡巡していても時間だけは過ぎていく。失敗しようが成功しようが決断を迫られた状況にあれば動くしかない。下手も上手も関係ない。考えてもしかたのない対象に執着せずに、その対象そのものを体験してみる。これは、〈莫妄想まくもうぞう〉に通じる教訓である。

ニュアンスは若干変わるが、案ずると産むを「幻想と現実」や「計画と実行」などと読み替えてもよいだろう。ぼくは「腕組みとペン」に置き換えている。物事は考えてからおこなうものと思っている人が大勢いる。考えてから書くのもその一つだ。アイデアが浮かんでからそのアイデアを書き留めるというわけだ。しかし、考えたからといってアイデアは易々と浮かばない。ほとんどの場合、腕を組んだまま時間が過ぎていく。

一本のペンをハンマーのように重く感じることがある。いや、ペンを手に持つ気さえしないことがある。すぐ目の前の机の上の一枚の紙への距離がはるか彼方の遠景に見えることもある。そこへ辿り着こうとしても足腰が動いてくれない。やむなく腕を組んで、ひとまず考えようとする。しかし、実は、これが逆効果で、苦しさから逃れても重苦しさがやってくるだけ。産むよりも案ずるほうに逆流してしまうのだ。産むとは、軽やかにペンを握り颯爽と紙に向かうことである。そこに諄々と文字を書き連ね付箋紙の一片でも貼れば、脳が刺激を受ける。行き詰まったら「腕組みよりもペン」なのである。