ないもの探し

頭痛を紛らわせようとして就寝前に読書をしてみた。そんなバカな! 余計にアタマを苦しめてしまうではないか。だが、必ずしもそうなるとはかぎらない。意外だろうが、今朝はすっきり目覚めたのである。頭痛はない。「知の疲れは別の知で癒せ」は、思いのほかしっかりとした経験法則になっている。酒飲みが自分の都合で発明した、二日酔いを酒で治す「迎え酒」よりもずっと信頼性の高い処方箋と言ってもいい。

その本、自宅に置いてきたので正確に引用はできないが、ある章で「幸福は不幸が欠けている状態であり、不幸は幸福が欠けている状態」というようなテーマを扱っていた。あるものが成立している背景には別のものが欠けている。つまり、いま町内の居酒屋で飲んでいるとしたら、車を運転している状況が欠如している。いや、それどころか、会社にいることの欠如でもあるし、自宅で子どもと遊んでいることの欠如でもある。三日月が見えるためには、9割ほどの月の面積が欠けなければならない。

ところで、「彼は幸福ではない」と「彼は不幸である」は同義か? 幸福・不幸という概念は難しいので、わかりやすく、「この弁当はおいしくない」と「この弁当はまずい」は同義か? で考えてみる。おそらく、「まずい弁当→おいしくない」は成り立つだろう。だが、「おいしくない弁当→まずい」はスムーズに導出しにくい。「おいしい」を5点満点の5点とすれば、「おいしくない」は4点かもしれないし、1点かもしれない。

不幸な状況であっても、小さな一つの出来事で幸せになれるかもしれない。一万円を落として嘆いていたら、五千円札を拾った。収支マイナスだけれど、なんだか少しは心も晴れた。不幸に欠けている幸福を探すのはさほど困難ではないかもしれない。問題は、幸福を成立させるために欠落させねばならない不幸のほうだ。数え上げればキリがない。ゆえに、幸福になるよりも不幸になるほうが簡単なのである。

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いみじくも、上記のテーマは今週土曜日の私塾で取り上げる一項目と一致している。その項目の見出しは「不足の発見――自分に足りない情報探し」である。

人間においては、「ない(不在・不足)」は「ある(存在・充足)」よりも圧倒的に多い。だから、どんなに「ある」を獲得しても「ない」の壁にぶつかって悩むのである。企画や編集の仕事をするときも、いま見えているもの・存在しているものばかりに気を取られるが、それでは凡人発想の域を出ることはできない。調べもの好きな人のエネルギーには感服するが、導かれるアイデアにはあまり見所がない。

いま見えていないもの、いま自分に足りないものへの意識。あと一つで完成するのにそれがないということに気づく感受性。その足りないものをどこかから安易に調達してくるのではなく、意気軒昂として編み出そうとしてみる。いや、編み出さなくてもいい、「ないもの」が目立つことによって新しいコンセプトが生まれることだってある。

“Sesame Street”というアメリカの子ども向け番組が一時代を画すヒットになった。日本で放送が開始された当時、アメリカ人の番組担当者が語ったことばが印象的である。

“Teachers are conspicuous by absence.”

「不在によって先生が目立つ」。つまり、「先生が登場しない、だから余計に先生が感じられる」ということだ。情報編集の時代、足し算ばかりでなく、「ないことによって感じられる」という引き算価値にも目を向けたい。

古い本と古い教え

休日に近場へ外出するときは、徒歩か自転車かのどちらかである。帰路に荷物になりそうな買物が確定していれば自転車、行き帰りとも本一冊程度の手ぶらなら徒歩。なるべく休日には歩くようにしている。どこに行くにも便利な所に住んでいるのがありがたい。

一昨日の日曜日は、まだ薄ら寒い風を受け、それでも春の気配を少し嗅ぎながら自転車を北へ走らせた。大阪天満宮まで10分少々。最終日となる古本市が目当てだ。ぼくは読書のために本を買わない。本を買うのは一種直感的行為であり、買ってからどの本のどのページをどのように読むかが決まってくる。ページをぺらぺらとめくったり拾い読みをするだけで放っておく本もある。それでも何ヵ月か何年か経ってから、「縁あって」目を通すことになることがある。そのとき、購入時の直感もまんざらではなかったと思う。

幸か不幸か、ぼくは周囲の人たちに読書家と思われている。実はそうではない。正しくは、「買書家」である。本は借りない。まず買う。いきなり買うのはリスクが大きいゆえ、高額な書籍にはまず手を出さない。文庫または新書がほとんどである。何よりも省スペースだし、どこにでも持っていけるから便利でもある。

買った本をどう読むかというと、速読、精読、併読、拾い読み(これは狙い読みに近い)、引き読み(辞書を読むように)、批判読み、書き込み読み(欄外にコメントを書く)などいろいろ。誰もが体験するように、本の内容はさほど記憶に残らない。傍線を引いても付箋紙を貼っても大差はない。だが、これ! と思う箇所は抜き書きしておく。抜き書きしておいて、後日読み返したり人に話したりする。面倒だが、ぼくの経験ではこれが読書をムダにしない唯一の方法である。

古本市で買ったのは福田繁雄のデザインの本、安野光雅の対談集、玉村豊男のパリ雑記の3冊。しめて1900円。天満宮滞在時間は半時間ほど。そう、書店であれ古本屋であれ、ぼくは半時間もいたら飽きてしまう。熱心な「探書家」でもないのだ。「今日は5冊、4000円以内」などと決めて直感で30分以内で買う。

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境内を出て喫茶店に入る。朝昼兼用の予定だったので朝を食べていない。午前1055分。「モーニング7:0011:00」とある。「モーニング、まだいけますか?」 滑り込みセーフ。コーヒー、トースト、ゆで卵。ゆで卵が切れてしまっていたので、生卵からつくってくれる。何だか申し訳ない。トーストを食べているうちに、ほどよい半熟が出来上がった。

目の前のカレンダーに今月のことばとあり、見ると「日日是好日(にちにちこれこうじつ)」。日めくりには必ず入っている禅語録の一つである。「毎日が平安で無事でありますように」との願いが込められているが、真意は一期一会に近いとどこかで学んだ。平々凡々な日がいい――そんなヤワな教えではなくて、「何があろうと、今日の一日は二度とないと心得て、懸命に生きなさい。その積み重ねこそが毎日の好日につながる」という意味である。先送り厳禁、今日できることを今日成し遂げよ、思い立ったら即時実行などに通じる。

先週本ブログで『スピードと仕事上手の関係』について書いた。そこでのメッセージにさらに自信を加えてくれる禅語録との再会である。こういうつながりをぼくは運がいいと思うようにしている。古い本を探した後に立ち寄った喫茶店で古い教えに出会う。これも「古い」が重なって縁起がいいと考えておく。こうして気分を調子に乗せておけばストレスがたまらないし、いい一日を送ることができるのである。 

議論できる能力を養う

月曜日火曜日と二日連続で硬派なトーンで「知」について綴った。だが、翌日になって、あのまま幕引きしていていいのかという良心のつぶやきが聞こえた――「もう少し具体的にソリューションを提示すべきではないか」と。

いま「すべき」と書いた。「~すべし」は英語の“should”、ドイツ語の“sollen”と同じく定言命法と呼ばれる道徳法則だ(哲学者カントの道徳的命法)。これをディベートの論題表現に用いると、その命題はあらゆる状況に無条件に当てはまり、かつ絶対的な拘束力を持たねばならなくなる。たとえば、「わが国は死刑制度を廃止すべきである」という論題は定言的(無条件的)であって、例外を認めてはいけない。「~というケースにおいて」という条件を付けたり含んだりしてはいけないのである。

「わが国はハッピーマンデーを倍増すべきである」。この論題は、「現状の4日間のハッピーマンデー(1月、7月、9月、10月の指定された月曜日)を8日間にするアクションを取りなさい、しかもそのアクションが価値のある目的になるようにしなさい、これは絶対的かつ無条件的な命令です」と言っているのである。

「わが国は定額給付金を支給すべきである」は、ここに明示されていない金額と対象を除けば、「つべこべ言わずに可及的すみやかにこのアクションを取りなさい」と命令している。年齢によって金額を変えるのなら「一律12,000円」を論題に含めてはいけない。また、対象が国民全員ならそう付け加えるべきである。「~すべし」は命題で書かれたことだけに言及し、書かれていないことに関しては論者の裁量に任せる。

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「~すべし」という、例外を許さない命題を議論していると、激昂した強硬論争になりそうに思えるだろうが、いやいやまったく逆なのだ。イエス・ノーが極端に鮮明になる議論ほど、不思議なことに論者は潔くなってくる。自分への批判にも耳を傾けるようになるし、やがて度量も大きくなってくる。

ところが、「~ならば、~せよ」という仮言命法になると、ずる賢い論法を使うようになる。たとえば「定額給付金を支給するならば、生活支援とせよ」。すると、「定額給付金の支給には賛成だけれど、生活支援ではなく景気対策でなければダメ」や、「何らかの生活支援は必要だとは思うが、一律方式の定額給付金である必要はない」などと論点が条件的になってくる。議論に慣れていない人にとってはとてもややこしい。こんな「ケースバイケース」のディベートはおもしろくない。

記述する命題の文末が「~すべし」であれ「~である」であれ、ディベート論題の長所は是非を明確にすることであり、それによって論理が明快になる点にある。死刑制度の存続論者であるあなたは、自分の思想に近い立場から「死刑制度廃止」に反論することになるかもしれないし、まったく逆の立場から「死刑制度を廃止すべし」という哲学を構築し論点を証明しなければならないかもしれない。真っ向から対立する両極意見のどちらにも立って議論することにディベートの意義がある。だから、ぼくは抽選によって肯定側か否定側かのどちらかが決まり、一回戦で敗退したらそれでおしまいというトーナメント方式を歓迎しない。

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「死刑制度」、「ハッピーマンデー」、「定額給付金」のどれもが、大多数の人々にとってはもともと自分の外部で発生した情報である。これらが自分のところにやってきて、ただのラベルのついた情報として蓄積しているわけではないだろう。推論や思考によって、何らかの価値判断が下されて自分の知になっているはずだ。そして、その知と相反する知が必ず世の中に存在し、自分の周囲にもそんな知の持ち主がいるだろう。自分の知と他人の知を議論というルール上で闘わせるのがディベートだ。一方的な「イエス」を貫く知よりも、「イエスとノー」の両方を見渡せる知のほうが世界の輪郭は広がる。そして鮮明に見えてくる。議論能力が知を高めるソリューションなのである。

逆説的「スロー&プアー仕事術」のすすめ

どちらかと言えば、ぼくはスローライフ主義者である。スローライフと主義は相容れないかもしれないが、便宜上こう書いておく。スローライフ主義を貫くためには、仕事が早くなくてはいけない。ゆえに、ぼくはスピーディビジネス主義者でもある。スピーディビジネスなんて和製英語っぽいが、ファーストビジネスと言うと、ファーストフードからの連想で「早いが安っぽい仕事」のように聞こえてしまう。

時間をゆっくりかけたいスローライフ主義と仕事をできるかぎり早くこなすスピーディビジネス主義は弁証法的である。どちらが手段でどちらが目的かなどという野暮な認識を超越したところで両者はちゃんと成り立つ。なぜこんな主張ができるのか。それは、「仕事がグズな人は生活で苦労する」「仕事が早い人ほどいい仕事をする」「仕事上手は生活上手である」などがおおむね正しいからである。

スローライフの実践方法よりもスピーディビジネスの実践方法のほうが説きやすくわかりやすい。もっと説きやすくわかりやすいのは「仕事が遅い、仕事が下手」の最大公約数的原因である。いろいろな現場で仕事の実態を見てきたし、教育研修においても演習や実習への取り組み姿勢を観察してきた。その結果、ぼくは仕事を、ひいては生活をダメにする「間違いのないコツ」を発見した。題して『スロープアー(遅くて下手な)仕事術』(ほんとうは何十ヵ条にもなるのだが、今日のところは十ヵ条に絞った)。

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1 実力以上に強がってみせろ
世の中、ブランドである。正直に「私は50点人間です」などと言っては損だ。上げ底・背伸び・見栄っ張り・虚勢など何でもオーケー。とにかくよく見せないといけない。

2 他人に厳しく自分に甘く
ノルマは軽めに。60点の仕事を上出来だと考えよう(大学でもそれは「可」なのだから)。自分の仕事は一日遅れてもいいように時間を稼ぎ、他人に任せている仕事は一日早めに仕上げさせる。

3 仕事の出発点でじっくり時間を使え
もし5工程の仕事ならば、最初の工程が一番重要。だから、そこをクリアするまでしがみつくこと。仕事は部品の寄せ集め。全体を見通すビジョンなんて役に立たない。

4 行動よりもよく考えろ
下手に動いて下手な結果を出すよりも、まずは考えてみる。たとえそれが「考えているふり」であっても、軽率な行動よりはましである。  

5 日時を明確にするな
ゆめゆめ時刻で期限を設定してはいけない。そんなことをすると、理不尽に追及されてしまう。「来週に」「今日じゅうに」というのが正しく、アポも「いずれ近いうちに」と曖昧にしておくのがいい。  

6 イエスかノーを明言するな
慎重にイエスかノーかを決める。二者択一の岐路では焦らず騒がず判断を急がない。モラトリアムで済ましておけば、後日どちらにでも転ぶことができる。急いては事を仕損じると言うではないか。どんな約束でも守りきるのは不可能なのだから、小さな約束くらい破ってもかまわない。

7 アマチュアとプロを都合よく使い分けろ
相手が格上、かつ仕事に自信がないのなら「まだ勉強途上なので」と言い訳をしておく。相手が格下ならば、堂々とプロフェッショナル顔をすればいい。真のプロにはプロとアマの二面性がある。  

8 「時間はタダ、いくらでもある」と信じろ
無理して今日じゅうに仕上げなくてもいい仕事がある。いったん決めても変更すればいい。明日は必ず来るわけだし、時間は自分の資源でタダみたいなもの。何とかなるものだ。

9 同時に複数の仕事をするな
所詮、自分の情熱、自分の思い以上の仕事なんてできないのだから、自己愛で生きるのが一番。二兎を同時に追ってはいけない。仕事は、優先順位ではなく、受けた順番に一つずつこなすのが正しい。

10  ばれないように手を抜け
「仕事はマメに、きめ細かく、とことん凝れ」と理屈を言うのがいるが、無視すればよろしい。大雑把で手を抜いても顧客がそれで満足ならいいのだ。そもそもずっと手間暇かけていたら心身が持たない。

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逆説的にお読みいただいたであろうことを切に願っている。上手く読み取れる人は仕事のできる人だろう。グズで仕事のできない人は誰のことが書かれているのかピンとこないだろう。えっ、このままで終わると、本気で「スロープアー」を薦めているみたい? なるほど、そう理解される可能性なきにしもあらずだ。それはまずいので、「いずれ近いうちに」フォローすることにしよう。     

知を探すな、知をつくれ

昨日に続く話だが、まずは記憶力について。記憶力の問題は、インプット時点とアウトプット時点の二つに分けて考える必要がある。

注意力、好奇心、強制力の三つが働くと情報は取り込みやすい。テストなんて誰も受けたくないから好奇心はゼロ。だが、強制力があるので一夜漬けでも覚える。普段より注意力も高まる。ゆえに覚える。ぼんやり聴いたり読んだりするよりも、傾聴・精読するほうが情報は入ってくる。注意のアンテナが立っているからだ。好奇心の強い対象、つまり好きなことはよく覚えるだろう。なお、言うまでもないが、取り込みもしていない情報を取り出すことはできない。「思い出せない=記憶力が悪い」と思う人が多いが、そもそも思い出すほど記憶してはいないのだ。

記憶エリアは「とりあえずファイル」と「刷り込みファイル」に分かれていて、すべての情報はいったんは「とりあえずファイル」に入る。これは記憶の表層に位置していて、しばらくここに置きっぱなしにしているとすぐに揮発してしまう。数時間以内、数日以内に反芻したり考察を加えたり他の情報とくっつけたりするなど、何らかの編集を加えてやると、刷り込みファイルに移行してくれる。ここは記憶の深層なので、ちょっとやそっとでは忘れない。ここにどれだけの知を蓄えるかが重要なのだ。

さて、ここからは刷り込みファイルからどのように取り出して活用するかがテーマになる。工夫をしなければ、蓄えた情報は相互連関せずに点のまま放置される。点のままというのは、「喧しい」という字を見て「かまびすしい」とは読めるが、このことばを使って文章を作れる状態にはないことを意味する。つまり、一問一答の単発的雑学クイズには解答できるが、複雑思考系の問題を解決できる保障はない。一情報が他の複数の情報とつながっておびただしい対角線が引けているなら、一つの刺激や触媒でいもづる式に知をアウトプットできる。

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刷り込みファイルで「知の受容器」が蜘蛛の巣のようなネットワークを形成するようになってくると、これが情報を感受し選択し取り込むレセプターとして機能する。一を知って十がスタンバイするようなアタマになってくるのだ。

考えてみてほしい。レセプターが大きくかつ細かな網目状になっていたら、初耳の情報であっても少々高度で複雑な話であっても、バウンドさせながらでも何とか受け止めることができる。蜘蛛の巣に大きな獲物がかかるようなものだ。ところが、レセプターが小さくて柔軟性がなければ、情報をつかみ取るのは難しい。たとえば、スプーンでピンポン玉を受けるようなものだ。ほとんどこぼしてしまうだろうし、あわよくばスプーンに乗ったとしても、そのピンポン玉(情報)は孤立していて知のネットワークの中で機能してくれない。

知っていることならわかるが、知らないことだと類推すらできない。これは知的創造力の終焉を意味する。知らないことでも推論能力で理解し身につける。知のネットワークを形成している人ならこれができる。ネットワークは雪だるま式に大きくなる。

知は外部にはない。知を探す旅に出ても知は見つからないし、知的にもなれない。あなたの外部にあるものはすべて「どう転ぶかわからない情報」にすぎない。それらの情報に推論と思考を加えてはじめて、自分のアタマで知のネットワークがつくられる。知の輪郭こそが、あなたが見る世界の輪郭である。周囲や世界が小さくてぼやっとした輪郭ならば、それこそがあなたの現在の知の姿にほかならない。 

情報はなかなか「知」にならない

数えたことはないが、年間延べ何千人という人たちに話を聞いてもらう。「延べ」だから、ぼくの話を十回近く聴く人もいる。言うまでもなく、同じ話を十回も聴いてくれる落語ファンのような人はあまりいない。つまり、ぼくの話を十回聴く人は、十種類のテーマの話を聴いてくれている。「プロとはいえ、異なったテーマの話を準備して、いろんな対象に話をするのは大変でしょう」とねぎらっていただくことがあるが、聴くことに比べれば話すことなどまったく大変ではないと思っている。

アウトプットの前にインプットがある。記憶力の良し悪しが問われる前に「記憶したかどうか」が問われる。何もせずに表現上手などということはない。どこかで表現を仕入れていなければ上手にはなれない。人が何事かを成している前段階では必ず何事かの仕入れがある。そして、前段階なくして次の段階がありえないように、聴く(あるいは読む)という認知段階は知的創造力に決定的な影響を及ぼす。わかりやすく言えば、学ばなければ使えるようにはならないのである。

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だが、インプットとアウトプットのこの法則はなかなか成立しない。なかなか成立しない関係を法則と称すること自体おかしな話だが、必ずしも矛盾ではない。法則というのは「ある一定の条件のもとならば、つねに成り立つ」ものだから、裏返せば、「ある一定の条件を満たさないと、成り立たない」ものであってもよい。「多種多量の情報は知力の源になる」――この法則が成立するためには、(1) 取り込まれた点情報どうしが対角線を結び、かつ(2) 推論という思考の洗礼を受けることが欠かせない。

理屈上、知力10の人が取り込める情報は10である。この傾向は加齢とともに色濃くなる。つまり、ぼくたちは自分の知力でわかる範囲の、都合のよい情報だけを選択するようになる。人の話を聴いても知っていることだけを聴く(これを確認と言う)、本を読んでも納得できることだけを読む(これを共感と言う)。つまり、知らないことやわからないことを拒絶しているのだ。

もうお気づきだろう。この論法だと、人は永久に進化できないことになる。情報や知を「ことば」に置き換えてみよう。生を受けた時点でのことばの数はゼロ。知力ゼロだから何を学んでもゼロということになる。しかし、実際、乳幼児はゼロをに、2に、24にというふうに累乗的に語彙を増やしていく。知力が10であっても、その倍の情報をどんどん取り込んでいく。ある年齢までは、情報に接すれば接するほど、よく身につき知になっていく。

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生きることが関係しているから、必死に情報と情報を結びつける。行間を読み文脈を類推する。知っている5つの単語で一つの知らない単語をからめとって理解しようとする。これによって、先の法則が成り立つのである。ところが、こうした対角線を引き未知を推論する努力を怠るようになってくる。自分が出来上がったと錯覚するのだ。

結論から言うと、いい大人になって思考力が身についていないと、いくら学んで情報を取り込んでも知にはならないのである。先ほど年齢と関わると書いたが、ここで言う年齢とは思考年齢である。だから、二十代・三十代であっても、いくら勉強しても知が拡張しない症状は起こりうる。

差異と変化について

えらく硬派なテーマである。本を読んでも人の話を聞いても知り合いのブログに目を通していても「変化」という文字がやたら目につく。ぼくも講義でしょっちゅう使っている。「変化とスピード」をクレド(経営信条)として掲げている得意先もある。他方、格差や差別や分別など、一言で「差異」とくくれる概念も目立つ。先週のマーケティングの講演で「差別化か、さもなくば死か」という、ジャック・トラウトの物騒なテーマも取り上げた。人は差異と変化によって成り立っている―これが、ぼくが導こうとしている主張である。

差異。差異があるから比較したり対立させたり、いずれかを選択したりできる。一番近い本棚に『政策形成の日米比較』という10年前の本があるが、比較するのはそこ(日米間)に差異があるからである。社会の中から自分だけを切り取って語るのは難しい。自分とは他人との差異によってはじめて語るに値する存在である。得は損によって、夢は現実によって、善は悪によって明確になる。二項以上が並立したり対立するのは差異ゆえである。

初めて誰かを見たり接したりする。たとえばRさん。このときあなたがRさんに持つ印象は、Rさん本人だけからやってこない。それはSさんやTさんとの差異に基づくのであったり、あるいは一般的な人間の尺度との差異による印象であったりする。これは人にかぎらない。ふきのとうの天ぷらを苦く感じたのならば、それは苦くない他の食材との差異ゆえである。何かと対比しなければ、苦さすら感じないのだ。これは食材だけにかぎらない。ことばも概念も同じだ。「今日」ということばは「昨日」と「明日」との差異によって成り立っている。「まぐろ」を注文して「はまち」や「よこわ」が出てこないのは、客も寿司職人も差異がわかっているからである。

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この差異に加えて、変化ということばをぼくたちはどのように使い分けているのだろうか―こんなことを数日前から考えていた。

列車の旅をしていて、P村からQ町に近づく。切れ目なくアナログ的に窓の外が移ろうので、このときは「風景が変わる」というように「変化」という表現を使う。ところが、飛行機に乗りM国からN国へ向かう。機中で寝ているうちに到着する。ある意味でデジタル的なワープがそこに起こっているので、M国がN国に変化したのではなく、M国とN国との(突然の)差異に気づくのである。

連続するものに「変化」を用い、非連続なものに「差異」を使っているのかもしれない。おたまじゃくしは蛙に「変態」する。メタモルフォーゼは同一固体における外形・性質・状態の変化である。これを「おたまじゃくしから蛙に差異化した」とは言わない。

K君と初対面。「太い」という印象を受ける。このとき、ぼくたちは特定のL君や一般的な尺度との差異を見て太いと感じる。二度目にK君と会う。このときも、たしかに「やっぱり太い」という差異を認めるが、新たにK君における変化をも見る。三日前のK君と今日のK君の体重の変化を感じている(「こいつ、また太った」)。こうしてK君と長く付き合っていく。そうすると、他者との差異には鈍感になっていき、K君自身における変化のみに敏感になってくる。これは体重だけではない。顔つき、服装、能力、立ち居振る舞い、趣味などありとあらゆる面の変化を嗅ぎ取るようになる。

「個性をつくれ」は差異であり、「能力を伸ばせ」は変化である。他人と違う発想をもつ―これは差異だが、標準から逸れるのを恐れる日本人にとっては結構難しい。しかし、もっと難しいのは、昨日の自分の発想から離脱する変化である。「変わりたい、でも変われない自分」がいつもそこにいるからだ。

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イチローのTVコマーシャルを思い出す――「RVは変わらなきゃ」。しかし、翌年か翌々年には「変わらなきゃも変わらなきゃ」に変わった。変化してほっとしていてはいけない。変化はエンドレスなのだ。「変化しなければ生き残れない」。その通りである。しかし、このコンセプトを固定させてもいけない。毎度毎度変化を実践している者にとっては、「変化しないでおこう」という選択の変化もありうるのだ。アタマが混乱してしまいそうだが、差異と変化は不思議でおもしろい。

余計なことを考えたり口に出す精神

まったく縁のない話は、いくら想像を働かせてもまったくわからない。まったくわからないことに絡んだりツッコミを入れたりすることは不可能である。その話題や事柄と接点がなければ、批判すらできない。批判精神を高尚なるものと思いがちだが、そんな大それたものではない。すでに知っているか、何らかの関心があることに対して「ちょっと待てよ」というのが批判精神だ。その批判精神が「余計なことを考えさせたり、一言口に出させたり」するのである(言うまでもなく、知らないことや関心のないことは賞賛も批判もできないし、するべきでもない)。

一昨日ある格言(諺?)を初めて知った。「碁に負けたら将棋に勝て」がそれだ。ほほう、こんな言い回しがあるのかと淡々と吟味してみた。ぼくは碁は知らない。周囲に碁打ちがおらず、いっさい学ぶ機会がなかった。将棋は二十代の頃に二年間ほど嵌まった。基本は独習したが何度かプロにも教わったし、道場にも通った。実戦機会が少なく「ペーパー四段、手筋三段、実力二段」などとからかわれた。おもしろいことに、道場ナンバーワンのアマチュア四段に勝ったこともあれば、中学一年の三級に惨敗することもあった。波は激しいほうだが、決してヘボではないと自覚している。

さて、「碁に負けたら将棋に勝て」。碁を知らなかったら、そもそも碁を打たないだろうから、碁に負けることはない。その彼が将棋を知っているにしても、「碁に負けたら」という仮定が成り立たない。次に、碁は知っているけれど将棋は知らないという別の彼にも当てはまらない。「碁で負けた。ちくしょう、次は将棋だ」と矛先を変えることができないからである。もうお分かりだろう。これは碁と将棋の両方をたしなむ人に向けられた格言なのである。

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ところで、あることで負けたけれど別のことで勝てば相殺できるのだろうか。「幸福度ではお前に負けるが、頭の良さでは勝つぞ」と言ってみたところで、単なる負け惜しみではないか。賢さなどよりも幸福のほうが絶対にいいとぼくは思う。もっと言えば、幸福でありさえすれば、他のすべてが連戦連敗でもいいのかもしれない。

以前NHKの衛星放送で藤山直美と岸部一徳が対談をしていた。一言一句まで正確には覚えていないが、「舞台で失敗して憂さ晴らし云々」と語る岸部に対して、藤山が「舞台で失敗したもんは舞台で取り返さなあかん!」とたしなめていた。10歳以上も年上になかなか飛ばせない檄である。こういうのを最近は「リベンジ」ということばで済ませるのだが、誰か相手がいて仕返しをしているわけではない。ダメだ失敗だと思うたびに対象を変えたりレベルを落としていては、永久にプロフェッショナルにはなれないだろう。

昨日、日本対オーストラリアのサッカーの試合を観戦した。ワールドカップドイツ大会の借りを返すだのリベンジするだの騒いでいたが、舞台違いじゃないかとぼくは思っていた。負けたのはワールドカップの本場所だ。今回はアジア予選だ。「世界で負けたらアジアで勝て」などということは、アジアの偏差値が世界を逆転してから言うべきだ。結果、引き分けだった。「世界で負けてアジアで引き分け」では格好はつかない。

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碁と将棋の話に戻る。あなたが完敗に近い形で碁で負けたとする。悔しいあなたは負けた相手に「ようし、今度は将棋だ!」と挑戦する。相手は困惑気味にこう言う――「あのう、私、将棋は指せないんです」。将棋で勝つどころか、将棋で戦えないのだ。さあ、あなたはどうする? 将来彼を倒せるようになるまで碁を猛勉強するか、それとも彼に将棋を教えて早々に勝利の美酒に酔うか。      

大差のようで僅差、僅差のようで大差

今週金曜日に第2回の書評会がある。残念ながら、ぼくが取り上げた本の書名は現時点で公開できない。少しだけ紹介すると、「350万冊の蔵書がある図書館」の話が出てくるくだりがある(ちなみに国会図書館はこの倍数あるそうだ。拙著の二冊も収めてくれているらしい)。今日は、この図書館の話から触発されたぼくの連想を綴ることにする。

この天文学的な蔵書数を分母に見立ててみる。一冊読んだ時点で350万分のの知を得るというわけだ。奇跡的な一日一冊という超人的読書家は想定しない(だいたい超人なら本など読まなくていいだろう)。現実的に考えると、週に一冊読む人は熱心な読書家であり、しかもしっかりと精読している可能性すらある。年に50冊を70年間続けると、生涯読破本は3500冊になる。これは驚嘆してもいい数字だと思う。さて、もう一人想定しておく。読書はあまり好きではないが、年に一冊くらいなら読むという人。読書人生70年として70冊になる。

偶然にして暗算可能な数字になったが、念のために電卓ではじいてみる。読書家は当該図書館の蔵書の0.1パーセントの知を獲得した。もう一方のあまり読まない人で0.002パーセントである。少々乱暴だが、小数点以下切り捨てなんてことを適用すると、いずれもゼロになってしまう。図書館をビュッフェスタイルのホテルレストランにたとえれば、世界各国から選りすぐった百種類の料理を出したところ、二人とも一種類の料理の匂いだけを嗅いだだけだった――そんな感じである。二人に歴然とした差はない。森羅万象の知の前では、よく読んでもあまり読まなくても同じようなものなのだ。

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すべての人類は、ありとあらゆる書物に対して「ほとんど非読・未読の状態」に置かれている。みんな「読んだ」とは言うが、まさか「読んでいない」とは吹聴しないだろう。生涯、万巻の書など読めやしないのである。知というものは、よく究めても全知のパーセントにも満たない。そういう意味では、人間はみんなそのパーセント未満の知の世界にあって僅差でしのぎ合い折り合っているのだ。格差社会とは無縁の、平等な世界に見えないこともない。

しかしながら、察しの通り、以上は都合のよい推論である。実社会では僅差のような知の格差が大差となって表れる。なぜだかわかるだろうか。上記の3500冊氏と70冊君を比較する時、わざわざ分母を350万冊にする必然性などない。つまり、二人とも読んでいない大多数の書物について両者は知の多寡を競うことなどできないのだ。両者の読んだ本が重複してようがしてまいが、3500冊氏が圧倒的優位に立っていることは容易に想像できる。

神や観音や天才を引き合いに出したら、みんな同じ知力になるだろう。この視点では、「知っていること」と「知らないこと」は大差なようで僅差なのだと謙虚に自覚しておく。しかし、現実は二人なりグループなりの、当面のメンバー間での「知っていると知らない」が尺度になる。そこでは、紙一重が知らず知らずのうちに大差になってくる。小さな知識をゆめゆめバカにしてはいけないと、これも謙虚に自覚しておく。言うまでもなく、無知のままではいずれの謙虚な自覚にも到ることはできないだろう。

知っていることと知らないこと

仲間が七、八人集まっているとする。その席で誰かが「ご飯を食べたり、お酒を飲んだり」まで言いかけて少し間を置いたときに、その中の誰かが「ラジバンダリ」と後を継ぐ確率はどのくらいあるだろうか? 「食べたり」を「タベタリ」、「飲んだり」を「ノンダリ」と、それぞれ外国人または合成音のように発音してみたら、「ラジバンダリ」が出現する確率はアップするだろうか? あるいは、このブログのここまでの書き出しを読んで、必ずしも笑ってもらう必要などないが、何かにピンときた人はどのくらいいるものだろうか?

お笑い好きにとって、自分の周囲で今が旬のお笑いネタが通じるかどうかは気になるテーマらしい。「このメンバーだと、あれは使えそうかな」という具合に場の空気を読んでギャグを使わねばならない。使いたいけれど、通じそうにないときは「こんなギャグを知ってる?」と確かめてから披露することになる。わかってもらうためだけならば、「古い!」とののしられることを覚悟で、二年くらい前に旬を過ぎたネタを使えばよい。

集まりの席に「笑いの波長の合う人間」が一人でもいたら、気分は余裕綽々。一人が反応して爆笑してくれさえすれば、披露したネタなりギャグがかろうじて滑らなかったことを示すからである。場合によっては、笑わなかったその他大勢を「無知ゆえに笑えなかった」とか「センスがないから笑えなかった」と見下すことさえできるだろう。

自分を中心として形成される人の輪にはそれぞれ独自の喜怒哀楽の波長があるように思われる。その自分が別の輪では脇役だったりする。そこではまったく別の波長が支配する。いずれにせよ、一番むずかしい波長が笑いだ。「ぼくの周囲の〈ラジバンダリ度〉はイマイチだけど、〈吟じます度〉は結構高いよ」とか、「うちの仲間うちでは、〈でもそんなの関係ねぇ度)がまだそこそこのテンションを保っている」なんて会話がありうる。ここまでの話、まだ何のことかさっぱりわからない人にわかってもらう術はない。また、わかる必要もないかもしれない。但し、輪の種類が違うことは歴然だろう。もちろん、輪が異なっているからといって村八分にされるわけではないが……。

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流行、事件、話題など、毎日空恐ろしいほどの情報が発信され飛び交っている。何をどこまで知っておくことが「常識」であり、話題をどの程度共有しておくことが「輪の構成員」の条件を満たすことができるのか。「やばい」が「犯罪者が使う用語で『危ない』」という意味であることを心得ていても、「このケーキ、マジやばくない?」という輪に入れない中年男性がいる。しかし、あなたはその男性に「やばいというのは若者用語で『うまい』とか『やみつきになる』という意味です」と教えてあげるべきか悩むだろう。「マジやばの輪」に入りたいか無縁でいたいかは、その男性が決めることなのだ。

ある本を読んでいたら、テーマとは無関係にいきなり「ブリトニー・スピアーズ」の話が出てきた。「ハバネロソースは好きか?」と聞かれたりもする。「ご想像におまかせします」は聞いたことがあるけれど、「ご想像力」などという、人を小馬鹿にしたようなコトバは初耳だ。目からも耳からも知らないことがどんどん飛び込んでくる。

知らないことがどんどん増えていく時代に、人間がそれぞれの輪をつくってかろうじて生き延びているのは、お互いにほんのわずかに知っていることを共有し基本にしているからだろう。