立ち読み以前

オフィスから歩いて5分のところにコンパクトな都市型モールがあり、その7階に書店が入っている。その書店は洋書に強い老舗書店とコラボして、大阪梅田に日本最大級の、在庫200万冊規模の売場をオープンした。この種の超広大なスペースを誇る店を「ダブルブランド巨艦店舗」と言うそうだ。一度覗いてみようと思う。

なぜ「一度だけ」かと言うと、だだっ広い書店が苦手だから。品揃えの少ない書店も困るが、在庫豊富で書棚が林立すると、森の中で一粒の木の実を探すような気分になってしまう。ぼく自身、読書ジャンルが広く、人が読まないような異本を買い求める傾向がある。それでも珍本奇本を探しているわけではないので、仕事場から近いまずまずの規模の書店で十分なのである(そこにしても大型書店に分類される)。

その書店はどこの店にもテーブルと椅子が置いてあって、好きな本を書棚から引っ張り出して腰掛けて読んでもいいことになっている。まるで図書館。そのありがたいテーブルと椅子、実は一度も利用したことがない。元来、あまり立ち読みもしない。少しペラペラと捲って「買ってみよう」と直感が働けばそれ以上は読まない。もう一度書く。ぼくは、まず「買ってみよう」と思うのであって、「読んでみよう」とは思わないのである。読んでよければ買うのではなく、買って読む。関心があれば読む、のではなく、関心があれば買う。出版文化を支えるのは買う読者である。さっさと買ってしまうのだから、長時間座り読みする必要がない。


表紙と書名は見るし目次にも目を通す。次いで、適当に捲ったページに目を落とし、相性がよさそうなら買うと決める。この間、たぶん30秒もかかからない。世間ではこれを立ち読みとは言わないだろう。このほんのわずかの時間は、同時に不買決定のための儀式でもある。先週、こうして「買わなかった」のが『即答するバカ』という本である。『バカの壁』は例外的に読んだが、あまり下品な書名を好まない。経験上、下品系はタイトルと中身が一致せず、また読後のがっかり度が高い。「即答するバカ」という書名で、よくも200ページも書けるものだと感心はするが……。

『読んでいない本について堂々と語る方法』(ピエール・バイヤール)に倣って、上記の本を寸評してみる。ちらっと読んだページで「考えないで直感的に喋ったり答えたりする若者」に対する批判がある。しかし、よくよく考えてみれば、「浅慮即答するバカ」もいるが、それすらできないバカも大勢いる。しかも、「熟慮してもやっぱりバカ」もいる。同じバカなら「即答するバカ」に軍配をあげたいが、どうだろう。この本に対抗して『即答しないアホ』という本も著せる。こちらはモラトリアム論になりそうだ。

話は簡単である。即答は一種の技であって、頭の良し悪しとは別だろうと思う。むしろ、即答できるかできないか――あるいは「速答 vs 遅答」――には性格が絡んでくる。いや、もしかすると、力関係で上位に立つ者が「安直に即答するバカ」を作っているのかもしれない。ところで、もう一冊、買わなかった本がある。『40才からの知的生産術』がそれ。この本を手に取る40才が、過去に知的生産の方法について何一つ試みもせず、この一冊から出発しようとするなら、おそらく手遅れである。ぼくなら別の本を書く。『40才からの知的消費術』。こっちなら可能性がありそうではないか。

つかみのセンス

劈頭と掉尾という難解語がある。それぞれ「へきとう」、「ちょうび」と読む。始まりと終わりでもいいのだが、なかなか強い語感を備えている。他に、導入と結論、冒頭と末尾などもある。文章なら文頭と文末、お笑いならつかみとオチ。と、ここまで書いて思い出した。玄関と奥座敷というのもある。二年半前にそのことについて書いている。

極力儀礼的に話に入らないようにするなど、つかみの研究には熱心なほうだが、まだまだ芸が浅い。うまくいく時もあるが、初見参の場に臨んで傾向と対策が不十分ゆえ、無難に話に入ってしまう。少数のうるさ型への気兼ねもある。こんなことでは、つかみの焦点がボケる。つかみは何よりも印象的でなければならない。お笑い芸人ではないのだから、必ずしも笑わせるネタでなくてもよい。しかし、印象的とは、ある意味で普通と違うことである。普通と違う出だしには、奇異や緊張という要素もある。


「分析を好む人間とは、どんな人間なのだろう。これ自体、なかなか分析しづらいことである。発揮された結果としてしか目に見えない。この才能が抜群であるとしたら、分析の作業は楽しくて仕方ないだろう。(……)」
(エドガー・アラン・ポー『モルグ街の殺人』)

 本題に入るまでに、こんな理屈が4ページにわたって述べられる。

「客が来ていた。そろえた両足をドアのほうに向けて、うつぶせに横たわっていた。死んでいた。もっとも、事態をすぐに飲み込むというわけにはいかなかった。驚愕がおそってくるまでには、数秒の間があった。その数秒には、まるで電気をおびた白紙のような、息づく静けさがこめられていた。」
(安部公房『無関係な死』)

常態ではなく、行き場のないこの気分が最後まで続くが、この書き出しだけで完全につかまれてしまっている。

「その小男はいかにもくたびれていた。彼はのろのろと人ごみを縫いながら、駅の構内を横切ると、出札口へとやってきた。そこで行列に並んで、じっと順番を待っていたが、肩を落とした格好には疲れがにじみ出ており、茶色の背広もかなりくたびれていた。」
(フィリップ・K・ディック『地図にない町』)

数年前までずっと電車通勤していたから、ぼくには見慣れた光景が描写されているにすぎない。だが、その慣れの向こうから異様な匂いが漂ってくる。

「ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変っているのを発見した。彼は鎧のように堅い背を下にして、あおむけに横たわっていた。(……)」
(カフカ『変身』)

あまりにも有名な冒頭である。あまりにもあっけらんかんと書かれているので、クールに真実として受け止めようとしてしまう。

以上掲げた例は若い頃に読んだ小説であり、すべてが不可解のつかみ、不条理のつかみ、不自然なつかみのいずれかから作品を始めている。この類は人前での話向きではないが、凝視させ次を待たせるにはどうすればいいかを示すお手本になってくれる。


大工のサクランボ親方が、子供のように泣いたり笑ったりする棒っきれと、どんなふうに出会ったか、その一部始終。

むかしむかし、あるところに……
「王様だ!」 小さい読者のみんなは、すぐにそういうだろうね。
残念ながら、そうではないんだ。むかし、あるところに一本の棒っきれがあった。(……)

これはよくご存知の『ピノッキオの冒険』(カルロ・コッローディ)の冒頭だ。このパターンは軽快でほほえましい。一工夫すればさらにユーモラスに、あるいは一転してシニカルにも応用できる。なお、つかみばかり読んでいてもつかみのセンスは身につかない。すべて読むからこそ劈頭の効果がわかるのである。

愉しい本、美しい本

書棚のスペースに余裕がなくなってきたので、最近はかさばらない文庫と新書ばかり買っている。昔読んだが手元に残っていない古典の類を再読するためである。お手頃価格で買うハードカバーの古本もあるが、床に積んである状態だ。電子化すればさぞかしすっきりするだろう。電子書籍の是非はさておき、ぼくは紙のページを指で捲るのが好きなのである。しかも、2Bくらいの太い芯のシャープペンシルでマーキングしながら読む。

読んでためになる本よりも、読んで愉しい本がいい。本だから吟味するのはもちろん内容だ。しかし、かつて書物は貴重であり希少であった。そして、読む愉しみだけではなく、蔵書として愛でたり飾ったりすることにも意味があった。一種の芸術品である。グーテンベルクの活版印刷が普及してからも、印刷されたページが製本も装丁もされずに売られていた時期が長かった。わずかな発行部数を求めて、購入者は刷りっ放しのページを自分の好みに応じて装丁し製本していたのである。

以上のような、本にまつわる初耳のエピソードに感嘆しきりだった。実は、広島出張の機会に、ひろしま美術館で開催中の特別展『本を彩る美の歴史』をじっくりと鑑賞してきたのである。わが国の平安時代の経典の前でしばし立ち止まり、ルネサンスから近代までのヨーロッパの本、活字、装丁、挿絵に目を奪われた。『グーテンベルク聖書』(1455年)の文字組みの美しさは圧巻だったし、シャガールの挿絵の斬新さにも感嘆した。


ルネサンス期のお宝本の数々を超至近距離で見れるとは想定外だった。ユークリッド『幾何学原論』(1482年)、トマス・アクィナス『神学大全』(1485年)、ルター『ドイツ語新約聖書』(1522年)、コペルニクス『天体の回転について』(1543年)、デカルト『方法序説』(1637年)、レオナルド・ダ・ヴィンチ『絵画論』(1651年)……すべて初版だ。第2版ではあるが、ダンテの『神曲』(1487年)もあった。14世紀初めに書かれたこの作品は、ラテン語で書かれるのが当たり前の時代に当時のイタリア語(フィレンツェ方言)で書かれた。

「世界三大美本」も展示されていた。いずれも19世紀終りから20世紀初頭の書物である。解説のプレートには次のように書かれていた。

「産業革命の結果、本の世界も、安価であるが安直なものが多く出回るようになった。その動きに逆らうかのように出てきたのがプライベート・プレスで、営利を目的とせずに、手作りにこだわった本作りをおこなった」

プライベート・プレスは伝統工芸ないしは芸術としての書物への回帰にほかならない。下記がその三大美本。

ケルムスコット・プレス刊『(エリス編)ジェフリー・チョーサー著作集』.jpg
ケルムスコット・プレス刊『(エリス編)ジェフェリー・チョーサー著作集』(1896年)。タイポグラフィに装飾。何という凝りようだろう。
アシュテン・プレス刊『ダンテ著作集』.jpg
アシェンデン・プレス刊『ダンテ著作集』(1909年)。これほど余白の美しさを感じさせる見開きページ構成にはめったにお目にかかれない。
ダブス・プレス刊『聖書』(全5巻).jpg
ダブス・プレス刊『聖書』全5巻(1903-05年)。『創世記』の冒頭”In the beginning God created the heavens and the earth.”(はじめに神は天と地を創造された)の”In the beginning”が赤い大きな文字で見出しになり、しかも、アルファベットの”I”がテキストの頭を揃えるように長く縦に伸びて装飾効果を添えている。

ことばは実体より奇なり

ことばと実体には誤差がある。ことばは個性だから奥ゆかしくなったりはしゃいだりする。実体を見ればすぐわかることが、ことばによってデフォルメされてわかりづらくなることがある。その逆に、わけのわからない実体を、存在以上に明快に言い当ててくれるのもことばである。「事実は小説よりも奇なり」が定説だが、「ことばは実体よりも奇なり」も言い得て妙だ。


【小話一】

夏のある日、某大学の車内吊りポスターに目が止まった。キャンパスコンセプト“Human & Heart”を見てしばし固まった。“H”の頭文字を二つ揃えていて見た目は悪くない。だが、このフレーズは「心臓外科」というニュアンスを漂わせる。ならばと外延的に説明しようとすれば、収拾がつかなくなってしまう。あまりにも多様な要素が含まれてしまうからである。

意地悪な解釈はやめる。それでも、このスローガンではインターナショナルな訴求はおぼつかない。「人類と心臓」ではなく、「人と心」を伝えたいのなら、もっと別の英語を模索してみるべきだが、このようなメッセージを大学の精神としてわざわざ口に出すまでもないだろう。この種の抽象的なコンセプトはもう一段だけ概念レベルを下りるのがいい。〈賢慮良識〉のほうが、古めかしくとも、まだしも学生に浸透させたい価値を背負っている。

【小話二】

本の題名は、著者がつける場合もあれば、編集者に一任あるいは合議して決まる場合もある。ざっと本棚を見たら、ぼくの読んでいる本のタイトルには一般名詞や固有名詞だけのものが多い(『芸術作品の根源』や『モーツァルト』や『古代ポンペイの日常生活』など)。次いで、「~とは何か」が目につく。読書性向と書名には何らかの関係があるのかもしれない。

数年前、いや、もう十年になるかもしれないが、頻繁に登場した書名が「○○する人、しない人」のパターン。「○○のいい人、悪い人」という類もある。これも本棚を見たら、この系統のが二冊あった。『運のいい人、悪い人』と『頭がヤワらかい人 カタい人』がそれ。後者の本を見て思い出した。「発想」についての講演を依頼された際に、「主催者はこの本に書いてあるような話をご希望です」と渡された一冊だ。こんな注文をつけられたら、読む気を失ってしまう。ゆえに、当然読んではいない。

やや下火になったものの、「○○○の力」も肩で風を切るように流行した。書棚を見渡したら、あるある。『ことばの力』『偶然のチカラ』『決断力』『ほんとうの心の力』『コミュニケーション力』『読書力』……。後の二冊は斎藤孝だが、この人の著書には「力」が付くのが多い印象がある。熱心に本棚を探せばたぶんもっとあるだろう。「力」という添え文字が、タイトルにパワーを授けようとする著者の「祈り」に見えてくる。

【小話三】

これも車内吊り。雑誌の広告表現だ。「ちょいダサ激カワコーデ」。大写しの女性が本人なのかどうか判別できなかったが、広告中に木村カエラと書いてあったので、読者対象はだいたい見当がつく。オジサンではあるが、この表現が「ちょっとダサいけれど、びっくりするくらい可愛いコーディネート」という意味であろうことは想像できる。「もしチガ平アヤゴーメ」、いや、「もし違っていたら、平謝り、ごめんなさい」。

数字を覚えるためのことば遊びがある。同じ日の新幹線では「0120-576-900」のフリーダイアルのルビを見てよろけそうになった。576を「こんなにロープライス」と読ませ、900を「キミを応援」と読ませる。「こんなにロープライス。キミを応援」と首尾よく覚えても、正しく数字を再現する自信はない。どう見ても、904139である(そのこころは「苦しい策」)。この日、ぼくがネットで購入した切符の受け取り予約番号は41425。講座、懇親会後に二次会があると聞いていたので、「良い夜にゴー」と覚えておいた。うまく再生できた。

メッセージを読む

今日の夕方は、去る87日以来の会読会である。参加予定は12名。全員が発表して少し意見を交えていると、あっという間に2時間やそこらが過ぎてしまう。読書の会だけにかぎらない。普段の会議でも打ち合わせでも、ことばをしっかりと駆使せねばならないときは、時間もエネルギーも大いに消費する。まさに言語行為は肉体的であり精神的だ。真剣に挑んだあとは心身ともに疲れ切っている。

ご存知のように書物には著者紹介欄がある。表紙裏や奥付の上覧や背表紙にプロフィールが載る。著者名もなくプロフィールもない本をぼくは読んだことがないが、少し想像してみよう。誰が書いたかわからない本。和歌では詠み人知らずはあるが、本ではないだろう。いや、無名な人たちが書いた文集を集めたものはある。あるにはあるが、「○○新聞文化部編」とか「□□の会編」などの編者が示されている。実名もなく仮名もなく匿名もない、著者名不在の本。雑誌やインターネット上の記事ならともかく、そんな、たとえば200ページくらいの本をぼくたちは懸命に読めるだろうか。

次の文章を読んであなたはどう感じて、どう評価するだろうか。

旅を楽しもう目的地は最重要ではない。一番たいせつなのは目的地に到達しようとする過程である。『目的地に行ければ幸せになるだろうな』とわたしたちは考える。だが、ふつうそうはならない。ゴールを定めることは重要だが、もっとも重要なのはゴールを達成することではなく、ゴールを目指す過程を楽しむことなのである。


「いいメッセージだ、誰が言ったか知らないが、共感する」、あるいは「つまらん、誰が言ったか知らないが、反対だ」とあなたは言いえるか。発信元不明のまま――権威筋であれ近所のぐうたらオヤジであれ――あなたは共感または拒絶の評価を下せるか。ぼくたちはことばによるメッセージに感動したり説得されたりするが、実はそこに発信者が誰なのかがわかっている状況がある。人の気分を強く支配するのは、メッセージそのものよりもむしろ、たとえば誰がどんな調子でそれを言ったかのほうなのである。そのくせに、発信者が定かでないインターネット上の情報につい信頼を置くという身勝手をしてしまう。

先の文章は、The Only 127 Things You Need―-A Guide to Life’s Essentials”からの引用(ぼくが訳したもの)。昨年渡米した折りに買った。未翻訳本だと思うが、直訳すれば『あなたに必要なたった127のこと――人生のエッセンスガイド』というような題名だ。ドンナ・ウィルキンソンという女性が著した本で、各界の著名人にインタビューし、健康から生き方に至るまでのメッセージを紹介し説明している。著者のキャリアやプロフィールと無関係に、あるいは当該文章がドクター何某という人物の言であることを知らずに、純粋にメッセージの意味と対峙するのは至難の業だ。

読書とはまさにかくのごとし。本の中身だけでなく、発信者のキャリア、権威、人格などを知らず知らずに読み込んでいる。同じメッセージでも、ニーチェが言ったか憎い知人が言ったかで響き方が変わるのだ。これが人間の本性。だからと言って、やむをえないというつもりはない。それはそれとして、付帯状況や背景にとらわれずにメッセージのみをじっくりと読んでやるという意地か抵抗を見せたいと思う。

ちなみにぼくは上記の引用文に大いに共感した。実際にそこで書かれている考え方を実践しているから。同時に、たとえば「成功とは旅である。目的地ではない」(ベン・スイートランド)ということばを覚えていて、二重写しのように読めた。このように、メッセージを読むことには、多分に読む側の知の都合が働くものなのである。

速読から「本との対話」へ

速読の話の第三話(最終回)。

前の二話で速読そのものを一度も否定していない。ぼくの批判点はただ一点、速読への安易な姿勢に向けたものである。まず、速読は読書キャリアがなければ無理だと書いた。また、自らの読書習慣を省みずに速読に飛びつくことに対して異議を唱えた。さらに、どんなに熱心な読書家であっても、まったく不案内のジャンルの本を神業のように速読することは不可能だと言っておこう。万に一つのケースが誰にでも当てはまるかのように喧伝したり吹聴したりするのは誤解を与える。

本をいろいろと読むのはいいことである。本は思考機会を増やし知のデータベースを大きくしてくれる。けれども、多種多様にわたって多読をこなそうとし、手っ取り早い方法として速読を選択するのは浅慮もはなはだしい。多種多様な本を多読したというのは結果である。それは何十年にもわたる日々の集積なのだ。知的好奇心に誘われて本を選び、そして読む。読むとは著者との対話にほかならない。形としては著者が一方的に書いた内容に向き合うのだが、一文一文を読みつつ分かったり分からなかったりしながら読者は問い、その問いへの著者の回答を他の文章の中に求めるという点で、読書は問答のある対話なのである。

読んだ本について誰かがぼくに語る。そこで、好奇心からぼくは聞く、「いい話だねぇ。いったい誰が書いたの? 何というタイトル?」 読んだはずのその人は著者名も書名もよく覚えていない。最近読んだはずなのに、覚えているのは結局「本のさわり」だけなのだ。それなら新聞や雑誌で書評を読んでおくほうがよほど時間の節約になる。その人は単に文字を読んだのであって、著者とは対話していなかった。こんな読書は何の役にも立たない。持続不可能な快楽にすぎない。一年や二年もすれば、その読書体験は跡形も残っていないだろう。


先日新聞を読んでいたら、『知の巨人ドラッカー自伝』(日経ビジネス人文庫)が書評で取り上げられていた。関心のある向きは買って読むだろう。なにしろピーター・F・ドラッカー本人の自伝である。この本を読む人は著者も書名も忘れないだろう。おそらくドラッカー目当てに読むからだ。他方、その書評の下か別のページだったか忘れたが、新書の広告が掲載されていた。それは見事に浅知恵を暴露するものだった。書名は忘れたが、ほんの90秒で丸ごと朝刊が読めるというような本だった。これが真ならば、もうぼくたちは読書で悩むことはない。いや、読書以外の情報処理でも苦しまない。理論化できれば、その著者はノーベル賞受賞に値する。ノーベル何賞? みんなハッピーになるから、平和賞だろうか。

朝刊は平均すると2832ページである。文庫本を繰るのとはわけが違って、新聞を広げてめくるのに1ページ1秒はかかる。つまり、30ページなら30秒を要する。残り1分で30ページを読むためには、あの大きな紙面1ページを2秒で読まねばならないのである。さっき試してみたが、一番大きな記事の見出しをスキャンしただけでタイムアップだ。「ろくに本も読まずに極論するな」と著者や取り巻きに叱られそうだが、著者も極論しているだろうし、その本を読まない人に対しては多分にデフォルメになっているはずだ。おあいこである。

現時点で有効なように見えても、一過性の俗書は俗書である。他方、時代が求める即効的ノウハウ面では色褪せていても、良書は良書である。そこで説かれたメッセージは普遍的な知としてぼくたちに響く。長い歴史は書物の内容に対して厳しい検証を繰り返すものだが、どんなに後世の賢人に叩かれようとも、たとえば古代ギリシアの古典もブッダのことばも論語や老荘思想も大いなるヒントを授け続けてきた。そして、間違いなく、本との対話、ひいては著者との対話が溌剌としている。 

速読と大量刷り込み

速読の話の続き。本をまともに読んだキャリアのない人が、一念発起して読書に向かうとする。このとき、誰かに教わって速読を試みても、ほとんど読めないだろう。何もアタマに入ってこない。文字を読んで培った知識の受容器が小さいから、文字情報を高速処理できないのである。これはコンピュータの処理能力によく似ていて、結局は容量に応じた情報量しか処理できないのである。理解と記憶の度合いは、自前の受容器の大きさにほぼ比例する。

その人が速読の訓練を積み重ねても、見開きページ上での眼球の動きが速くなるだけで、アタマがついていくようにはならない。しかも、理解しなければと焦るほどに読む速度にブレーキがかかってしまう。今さら嘆いてもしかたがないが、結局は「もっと幼少年時代に本を読んでおけばよかった」という述懐に落ち着く。「四十歳からのやり直し読書」のような本がすでに世に出ているに違いないが、四十歳からやり直すなら、「何のために本を読むのか」をしっかりと問い、じっくりと読むしかない。つまり、精読。

ところで、十代前半までの読書習慣はもっぱら環境に左右される。親自身がよく読むとか、親が物語を読んで聞かせるとか、自宅の書棚に本がたくさんあるとかだ。仮に家庭にそんな環境がなくても、友人に本好きがいたり国語の先生が読書を大いに薦めたりしてくれたら、本を読む癖がつきやすい。図書館や町内の書店なども環境要因になる。こうして、幼少年時代の読書は好奇心に突き動かされて、大きな楽しみとなる。楽しいから手当たり次第に読み、速読など意識せずとも、自然と速く読め、かつよく覚えるようになる。これは、ある意味で、脱意識的な大量刷り込みを可能とし、知識や思考の受容器を発達させてくれる。


以上のことは、ことばを覚えるプロセスと同じだ。ぼくたちは人の話を耳から大量に聴き、概念と意味を推理してことばを習得してきた。このような会話における音声と聴覚の関係が、読書では文字と視覚の関係に置き換わる。概念知識と言語体系の中で意味理解が進むのだから、このような習慣を身につけてきた人は、初めて読む内容であっても類推が働く。つまり、アタマの中に理解の手掛かりとなる知と言語がすでに備わっているのだ。密な蜘蛛の巣と疎な蜘蛛の巣とでは、前者のほうが餌となる虫を捕獲しやすいのと同じ理屈である。

読書のスピードは徐々に加速してくるものだ。決してある日突然速読できるようにはならない。幼少時から本に親しんできた人は、速読トレーニングなど積まなくても緩急自在に本を読める。やさしい本なら時速100キロメートルで飛ばすように読み、手強い本なら狭い路地をゆっくり歩くように読む。読書習慣に乏しかった人ほど速読の功を焦る。いきなり高速運転をしてもただ目的地に到着するだけで、理解し楽しむなどの余裕はない。誰もが速読上手な読書人になれるとはかぎらない。

手遅れを自認するのなら、そして義務や見栄で読書をするのではなく、必要や好奇心から読書習慣を身につけようと思うなら、急いで「読後」へと向かうのではなく、「読中」、つまり読むというプロセスそのものにじっくりと浸ることだろう。傍線を引いたり囲んだりとマーキングし、いい話だ、ためになる、おもしろいと思えばそこに付箋紙をくっつけておけばいい。このような精読を続ければ、徐々にスピードが速まっていく。やがて、広角的に文章を拾えるようになり知が起動してアタマが活性化するはずである。きついことはきついが、中年以降の読書習慣の始まりはおそらくこれしかない。

速読は「読み方」なのか

昨年一月に会読会を始めてから、読書について考える機会が増えた。「同じ本を二度読むほうがいいのか」、「読みながら傍線を引き付箋紙を貼るべきか」、あるいはもっと根本的な「どんな本をどのように読むか」などを問うては答え、その答えの理由も考える。とりわけ、古典的な「速読か精読か」という問いを無視できない。今のところ、平均的読書人が本を速く読む必要などないという立場を取る。速読とは本の内容に向けられた行為ではなく、本の冊数をこなす行為にほかならない、と考えるからである。

趣味が多読なら、浅く広く速く読めばよろしい。また、特定テーマにすでに詳しい職業人の場合は、関連図書をいくらでも速読できるに違いない。あるいは、課題として読書を迫られている人は、とりあえず急いで通読しておきたいだろう。速読はこれらの人々の願望やニーズに応えることができそうだ。ここで言う速読とは「速やかに目を通すこと」であって、よく理解することまでは約束しない。まったく知らないことが書かれた本を30分やそこらで読むことはできない。ある程度理解できている内容なら、知識量に応じた速度で読めるのである。

英文ライティングを生業とし始めた二十代の後半に英語上達の方法をいろいろと独学していた。文章スタイルも英文雑誌のエディトリアルも広告コピーの勉強もした。その勉強の一つに速読があった。アルファベットという26の表音文字だけの文章と日本語の文章の速読をまったく同列で語ることはできない。また、外国語と母語という相違も決定的である。しかし、視野を広げてパターンを認識するという点はまったく同じだ。

英語では速読をスキミング(skimming)とスキャニング(scanning)に大きく分ける。スキミングは要点の読み取りであり、重要な記述とそうでない記述を嗅ぎ分ける作業である。要点や重要な箇所は読者それぞれだから、スキミングという速読の結果、読み取った内容も読者それぞれである(このことは読書行為の特性であって、速読や精読とは無関係だ)。他方、スキャニングは検索型の読み取りである。パソコンのウィルスソフトと同じで、スキャンしてウィルスを探すように、ある特定のキーワードや目当ての用語をさっと見つけ出す。いずれも速読のための技術としてトレーニングも考えられている。


速読は精読よりも理解と記憶にすぐれているという説もある。これには一理ある。たとえば、ゆっくり喋る人の話が分りやすいとはかぎらない。意味はことばのつながりや文脈において成されるので、間が空くと理解に時間を要する。音声を聴き取れさえすれば、早口のほうが理解しやすく記憶に残りやすいという側面もたしかにあるのだ。しかし、他者ペースの話を聞くにせよ自分ペースで本を読むにせよ、結局はスピードの遅速ではなく、頭がついていくかどうかの問題になってくる。

功罪という点では、速読そのものに「罪」などない。過ちは人に起こる。それまでの自分の読書体験の貧しさを顧みず、ただひたすら速読すれば本の内容がよく理解できるという早とちりである。「功」については、先にも書いた、見える文章群の範囲を広げるという点が最大だろう。しかし、広角認識ができるから速読できるのか、それとも速読するから広角認識が得られるのかのどちらが真なのか判然としない。まるでニワトリとタマゴの関係に思えてくる。

速読するために別の訓練があるのか、あるいは速読そのものが何かの訓練なのかという問い方もできる。ぼくにとっては、広角認識もスキミングも、速読がらみのスキルはすべてトレーニングに思えてくる。しかも読書のためではなく、スピード思考のためのトレーニングなのである。速読は本の読み方の一つのメソッドと言うよりも、思考や言語の活性化に役立つのではないか。本の理解と記憶を保証はできないが、頭を働かせる功ならありそうなのである。

速読は「読み飛ばし」の技術でもある。読み飛ばせるのは、内容をある程度分かっているからだ。ある方面の本を何冊も読んでいれば、類似の本ならば要点も分かるだろうし読み飛ばしもできる。しかし、断言してもいいが、まったく知らないことをハイスピードで読むことはできない。仮に速読できたとしても、理解はいい加減、後日記憶にも残っていない。いや、理解も記憶も完璧だと言うのなら、その御仁はモーツァルト級の天才に違いないのである。

日付のない紙片

百円だった、その本は。古本屋で。百円とは驚きだ。気づけば買っていた。手に取ってペラペラ捲ると、あの古本独特の日陰の干草のような匂いが少し鼻をついた。初版が昭和262月。誰かさんとほとんど誕生年月日が同じ。但し、今手元にあるそれは昭和43年8月の改訂重版だけど。

やれやれ、昭和で時を語るには無理がある。西暦に「翻訳」できない連中が増えてきたから。知っての通り、いや、知らないかな、昭和○○年の○○に25を足すと、西暦19□□年の□□になるんだね。東京オリンピックは昭和39年で、3925を足すと64だから、西暦1964年というわけ。

その本を書いたのは、1960年代に日本でも哲学ブームを巻き起こしたあの人。そう、サルトル。猫も杓子もサルトル。なんて言われたかどうか知らないが、とにかくサルトル。ぼくの尊敬するY氏が嵌まった哲学者サルトル。実存主義をもっとも有名にした、パリ生まれのジャン-ポール・サルトル。少しくどいか。

屁理屈をこねるとキリがない。大雑把に言えば、実存主義というのは「人間存在の独自のあり方」だ。そこらにある道具や事物と同じように人は存在していないぞ、というわけ。で、その本の題名? そうそう、その話。それは、サルトル33歳のときの長編小説『嘔吐』だ。


小説は日記風になっている。詳しくは書けない。なぜかって、途中で読むのをやめたから。サルトルの哲学書を読んだ知り合いはそこそこいるけれど、この『嘔吐』の最終行まで辿り着いた奇特な読者は回りにいない。未来の読者のためにあらすじは書かない。いや、書きたくても書けないし。

少し抜き書きすると、こんな調子。

きのうどうして私はつぎのような愚劣で得意気な文章を書くことができたのか。「私はひとりぼっちだ、しかし空から街へおりてくる一群のように歩いている」と。文章を飾ることは必要ではない。私はある種の情況を明瞭にするために筆をとっている。文学を警戒すべきである。ことばを捜すことをせず、筆の走るままにすべてを書くことだ。

さらに読み進んだ別の箇所には次の一行がある。

記すことなし。存在した。

不条理で不思議な空気が充満してくる。異様なほどの精細な描写もあるし……。小説の冒頭で、どんなふうに記すべきかを書いている。プロローグと言えばいいのだろうか、それが「日付のない紙片」という見出し。出だしはこうだ。

いちばんよいことは、その日その日の出来事を書き止めておくことであろう。はっきり知るために日記をつけること。取るに足りぬことのようでも、そのニュアンスを、小さな事実を、見逃さないこと。そして特に分類してみること。どういう風に私が、このテーブルを、通りを、ひとびとを、刻みタバコ入れを見ているかを記すべきだ。なぜなら、変ったのは〈それ〉だからである。この変化の範囲と性質を、明確に決定しなければならない。

この書き出しだけでも、読んだ意味があった気がしないでもない。いつか辛抱して完読しようとは思うけれど……。いや、その時間があれば別の本を読むほうがいいか。どうだろう、『嘔吐』。よければ、読んでみる? えっ、読む前から吐き気がするって? それは正しい感覚かもしれないね。

押し入ってくる情報

リチャード・ワーマンの『情報選択の時代』が発行されたのが1990年(翻訳は松岡正剛)。原題“Information Anxiety”は「情報不安」という意味である。同書の第1章には次の記述がある。

毎週発行される一冊の『ニューヨーク・タイムズ』には、十七世紀の英国を生きた平均的な人が、一生のあいだに出会うよりもたくさんの情報がつまっている。

それはそうだろうと思うかもしれない。なにしろ400年前との比較なのだから。しかし、よく考えてみてほしい。ぼくたちが一週間に耳にし目にする情報は週刊の『ニューヨーク・タイムズ』一冊程度ではないのだ。テレビにインターネット、毎日の新聞に会話、雑誌に書籍、それに仕事上の諸々の情報を総合すれば、一週間でかつての英国人の生涯五回分の情報に晒されている計算になる。これは一年で「二百五十回の生涯」、60年でなんと「一万五千回の生涯」に相当する情報量に達する。

IT時代に突入する前、情報にまつわるキーワードが「情報収集」だったことを思い出す。昨今、この四字熟語にはめったにお目にかかれない。情報を集める必要がなくなったのである。情報は勝手に集まってくる。メディアに対して自分を開いておきさえすれば、大多数の人々にほぼ同量で同質の情報が「押し入って」くる。そして、その量たるや、情報洪水などという表現が甘く響くほどの凄まじさなのだ。


前掲書『情報選択の時代』は、20年前に情報不安症の兆候を察知していた。どんなに爆発的な量の情報にまみれても、人は情報が足りない不安にさいなまれる。このような予見をするからこそ「自制的選択」を基軸にした情報行動を強く意識せねばならないのである。情報選択とは、一般人にとっては広範囲から少量ずつ主体的に取り込むことだろうと思う。腹一杯情報を消化せねばならない理由など微塵もない。

知らなくてもいいことが次から次へとやってくる。こちらの優先順位などにはお構いなく、ただでさえ情報の扱いに四苦八苦している記憶の領域に闖入し占拠してしまう。手元にあるいくつかの情報だけで十分に仕事に役立てることができるにもかかわらず、押し入ってきた情報をちらっと見たのが運の定めか、もはや手に負えなくなって仕事が遅滞してしまう。そんな連中を最近とみに目撃するようになった。

そうなっては抵抗不可能である。窓越しに覗いたら隣りの垣根のすぐ向こうに情報が迫ってきている……そんな気配を感じた時点で手を打たねばならない。「知らなくてもいい情報がやってきても、知らん顔をして受け流せばいい」と油断していると手遅れだ。なぜなら、それが知らなくてもいい情報だと知ってしまった時点で感染しているからである。対策はただ一つ。週に何度か、自分が持ち合わせている知識で何とかやりくりする、〈情報鎖国主義〉を貫くのだ。決して自知防衛を怠ってはいけない。