差異は類似によって成り立つ

類似は「よく似ていること」を表わす。「違いがわからないほどとてもよく似ていること」を酷似と言ったりもする。さて、了解しておくべきことがある。類似や酷似ということばを使うかぎり、いくら頑張っても「同一」ではないのである。似ていることは認めるものの、ごくわずかながらも差異があるということだ。

自社の商品が他社の商品と同一視されたり混同されないために、特徴に固有の工夫を凝らしたりマーケティング上の訴求点を変えたりすることを〈差異化〉という。言うまでもないが、誰も好んで短所によって差異化しないだろう。他商品にない優位性によって差異をつけなければならない。

しばし商品から離れて、ことばの差異を考えてみる。ことばの差異はもはや古典的な哲学命題になるのだが、いま存在して使われていることばの間には差異がある。いろいろな概念や事物も、それらが存在しているのは別の何かで代替できないからだ。ことばには同義語や類義語がおびただしいが、たとえ言い換え可能な表現があっても、意味もニュアンスも重なることはない。仮に二つのことばが完全に重なり、いずれかの頻度が異様に高くなれば、もう一方が存在している必要はない。やがて消滅することになるだろう。ことばはこのようにして生成消滅を繰り返してきたはずだ。


商品の差別化に戻る。ある洋菓子店〔A〕のケーキが優位で、同じ町内の別の洋菓子店〔B〕が苦戦しているとする。わざわざ想定しなくても、実際によくある話である。B店がケーキで競合するのをやめて、和洋折衷の新しい菓子を作れば、これは差異化と言うことができる。しかし、この差異化、勝負を避けた差異化である。そして、類似点のきわめて少ない差異化なのだ。これも差異化には違いないのだが、カテゴリー違いの差異化で競合はしないかもしれないが、ケーキでの劣勢は相変わらず続く。

なぜ差異化ということばでなければならないのか。カテゴリーはもちろんのこと、商品もA店とB店で酷似しているからこそ、差異に意味があるはずだ。類似したり共通したりする特徴が多いからこそ、ほんのわずかな差異が優劣を決するのである。

B店が和洋折衷の菓子で地元の市場を創れれば、それはそれでよし。しかし、A店が類似商品でその分野に参入してくるかもしれない。結局は逃げることができないだろう。同じ洋菓子店として、生きるか死ぬかは大げさだとしても、日々一喜一憂の勝ち負けを体験し続けなければならない。

あまり似ていない兄弟だが、たとえば眉毛の形がそっくりという類似を発見したことがあるだろう。但し、こういうのをあまり差異化とは言わない。むしろ、うり二つで見分けのつかない双子の間に、一点決定的な違いを見つけるほうが真性の差異化なのである。   

イタリア紀行47 「雨のヴァチカン市国」

ローマⅤ

ローマで大雨に打たれたことはまったくなかった。大雨どころか、小雨が降った記憶さえなかった。ところが、今回は一週間のうち3日間が「雨のち雨」という天候。しかも、時折り歩けないほどの土砂降りに出くわす始末。もちろん、散歩や観光には晴れた日がいいに決まっている。けれども、古代や中世の建築物は、濡れると「遠過去の色」を見せてくれる。しっかりと陽光を吸収する光景とは違い、雨の日は情緒纏綿てんめんの風景に変化する。

雨の降りしきるヴァチカンはふだんより粛然とした趣を見せた。色とりどりに開く傘の花も邪魔にはならない。ところで、表記はヴァチカン、バチカン、それともヴァティカン? ぼくのイタリア紀行ではヴァチカンと表記している。もっとも“Vatican”に忠実な発音は「ヴァティカン」だろう。観光ガイドの類いはこのように表記している。ほぼこのまま発音すれば通じるので、ガイドブックとしては正しい選択だ。しかし、「バチカン」も見慣れた表記だから悪くない。発音は滅茶苦茶になるが、見た目はわかりやすい。

何でもかんでも広辞苑で調べるというのも芸がないのを承知の上で引いてみた。「バチカン」の項には「⇒ヴァチカン」と書いてある。ぼくの表記と一致した。それで、「ヴァチカン」の項へ移動すると、三つの定義を挙げている。①ローマ市西端ヴァチカノ丘にある教皇宮殿。②ローマ教皇庁の別称。③ローマ教皇の統治するローマ市内にある小独立国。一九二九年成立。ヴァチカン宮殿・サン・ピエトロ大聖堂を含む。面積〇・四四平方キロメートル。人口八二二(二〇〇六)。ヴァチカン市国。

今日のこの紀行文では、この③の意味でヴァチカンを書いている。さらに詳しく言うと、一般的なテーマパークよりも少し大きめのこの市国の「領土」には、宮殿・大聖堂以外に博物館、システィーナ礼拝堂、広場、法王の謁見ホールなどがある。独自の切手を発行しており、その切手を絵はがきに貼ってここで投函すれば、ヴァチカン市国の消印が押される。広場の左右に土産物店のような郵便局があり、敷地内には印刷所もある。

ヴァチカンもサンピエトロ大聖堂もぼくの中では同義語だ。「ヴァチカン市国」と呼んではじめて、大聖堂を含む大きな概念になる。この国の小ささを語っても、決して小馬鹿にしているのではない。なにしろこのヴァチカン内にある博物館には大小合わせて10以上の美術館や博物館や回廊やがある。八年前、ぼくはこの博物館を見学中 、楽しみにしていたラファエロの間を目前にして忽然と自分自身の居場所を見失った。見学者でごった返す博物館の中の図書館やギャラリーをくぐり抜けてシスティーナ礼拝堂に戻ったものの、結局ラファエロの間を再度目指すも叶わず、疲れ果ててサンピエトロ広場に出てきた。

そのサンピエトロ広場と大聖堂は次回紹介する。しかし、いったいこの紀行文と次回の紀行文の間にどんな違いを描き出すことができるのか自信がない。大聖堂と広場や周辺をカメラで収めたらヴァチカン市国になり、カトリックの総本山だけに向けてシャッターを切れば、それがサンピエトロ大聖堂になる。写真を選んでいたら、何だか写真の見せ方だけの違いのように思えてきた。

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ヴァチカン近くのテヴェレ川。
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右端にサン・ピエトロ大聖堂を望むヴァチカン一帯。
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サン・ピエトロ広場から大聖堂へのアプローチ。ローマ全体がそうだが、晴れでも雨でも観光客の賑わいに差はない。団体ツアーはつねに「雨天決行」だ。
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雨の中、大聖堂に入るのに30分は並んだだろうか。博物館なら時間待ちは当たり前のようである。広場に面した回廊にはドーリア式の円柱が284本建っている。
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サンタンジェロ城の前からコンチリアツィオーネ通りを西へ行くとサン・ピエトロ広場。コンチリアツィオーネは調停や和解という意味。
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雨上がりの広場。噴水は二つあり、対に配置されている。
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ヴァチカン市国正面。
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大聖堂の裏通りから。

選択の向こうにある選択

別に難しい話を書くつもりはないが、難しい話になりそうな予感もある。

出張に行く時、2冊の本のどちらを持っていくか。悩むほどではないが、少し迷う。しかし、そんな迷いに意味がないことがすぐにわかる。文庫本ならどちらも鞄に入れればすむからである。次に店に入る。A定食かB定食か。まったく内容が違っていれば迷うことはない。しかし、焼鳥店のランチで8種類も鶏料理の定食があると選択は容易ではない。それでも、迷わない方法がある。メニューの最上段のみがこの店の定食であって、残りの7種類を「なかったこと」にすればよい。


一昨日松江で講演して、夜遅くに米子に入り深夜まで気心の合う人たちと談笑した。翌日、午前10時前にスコールのような集中豪雨があり、駅に行けば特急が20分遅れているという。岡山で乗り継いで新幹線で新大阪へ帰るつもり。岡山での乗り継ぎ時間が10分ほどなので、手持ちの切符ののぞみには間に合いそうもない。

ここで一つ目の選択の岐路に立つ。どうすればいいか? この米子駅で駅員に尋ねるか(A)、それともそのままにしておくか(B)。特急が遅れているから時間がある。〔A〕を選択した。「岡山発ののぞみには間に合わないが、別の列車の指定に変更してもらえるのか」と尋ねた。若い駅員は「はい」と答え、「特急が何分遅れるかわかりませんから、とにかく岡山に着いてから変更手続きしてください」(C)と付け加えた。そうすることにした。

名物あごの竹輪を2本買ったものの、手持ちぶさたなので改札を通ってホームに入った。ホームの最後列に行くと、遅れている特急にこの駅から交代する車掌が立っていた。念のためにこの人にも聞いてみた(この人に聞くか聞かないかも選択の一つ)。同じような答えならそれでよし。ところが、「支社が違うので連絡や調整に時間がかかる。岡山での乗り継ぎ列車もすぐには決まらない。まだ特急が来ないから、今すぐ「岡山-新大阪間」の切符を変更されたほうがいい」(D)と、まったく別のアドバイスが返ってきた。

ここで二つ目の二者択一の岐路。岡山で手続きするか(C)、それとも今すぐに変更するか(D)。〔C〕だと変更を先送りすることになる。〔D〕なら余計な心配は無用だ。しかも、さらに遅延するようなことがあっても、もう一度岡山で変更することもできる。〔D〕は〔C〕の対策をも含んでいる。ゆえに〔D〕を選択した。改札を出させてもらい、みどりの窓口で変更手続きをした。もちろん、同じ特急に乗車する人たち全員がその選択をしたわけではない。

結論から言うと、どっちの選択でもまったく問題はなかったのである。倉敷あたりで車内放送があり、乗り継ぐ新幹線の列車が告げられた。その列車はぼくが変更したのと同じであった。新大阪には当初予定よりもおよそ30分遅れで到着した。


別に命にかかわるようなことでもないのに、いったい何を選択しようとしていたのかと、ぼくは考えたのである。あることをを選択して別のことを捨てるのは、何か根拠があってのことだ。切符変更を今すぐにするのか、あるいは乗り継ぎの時点でするのか――この選択にあたっての根拠は何だろう。安心? 面倒回避? 時間があるから? いや、そもそもこの二つの選択に対峙するのは、いったい何のためなのか。この選択の結果、ぼくは「どんな未来を選択」しようとしたのか。気恥ずかしくなるような表現だが、ちょっとでも先の未来を考えるからこそ人は選択するのだろう。

実は、「遅れるのはやむをえないが、なるべく早く大阪には戻りたい」という目的をぼくは選んだのだ。そんなことは当たり前のように思えるかもしれないが、「遅れてもいいか。岡山でメシでも食って帰ればいい」という、表に出てこなかった選択だってありえたのである。そして、「なるべく早く大阪に戻りたい」という選択の向こうには、おそらく何らかの思惑なり目的があって、その思惑や目的も別の選択肢を捨てて選ばれたものに違いない。こうして、選択の連鎖は続く。ちょっと先の視点からぼくたちは現在を選んでいるのである。

とても滑稽な台詞

もうギャグとしか言いようがない。どうしようもなく滑稽なのである。あまりにも滑稽なので、もはや笑うことすらできない。油断すると呆れることも忘れる。いや、下手をすると息をするのも忘れてしまいそうだ。何とも言えない感情に襲われて、ただただ冷ややかに「こ、っ、け、い」とつぶやくしかなかった。

政治家という職業人の舌がすべることに関しては、あまり気にならない。勢い余っての失言や無知ゆえの失言や厚顔ゆえの失言は、ギャグにもならず滑稽とも形容できない。気にならないというよりも、強いアテンションの対象にならないというのが当たっている。ある意味で、政治家という職業人に失言はとてもよくお似合いだから、不自然なミスマッチとは思えないのである。

 政治家の〈話しことばパロール〉は独自の体系をもつ。つい昨日まで普段着のことばで喋っていたあの人もこの人も、まさかあなたは絶対に言わないだろうというその人も、政治家になったその日から「~してまいりたいと存じます」と、言語ギアをセピア色した前時代バージョンへと切り替える。そして、誰かの不可解な発言や納得のいかない対応を取り上げて、ついに彼らは、「いかがなものか?」という常套句の常習者になる。


職業とパロールは密接な位置関係にある。ナニワ商人の「まいど!」やサムライの「拙者」と同じくらい、政治家の「いかがなものか?」が定着してしまった。これほどではないが、政権奪取を目指す側の前党首の「なんとしてでも」というのも、あの人にはよく合っていたような気がする。しかし、真性のどうしようもない滑稽は、似合ってるとか似合ってないという次元を超越する。

ユーモアセンスがあっておもしろい知人の男性が、ある会合の開会の冒頭で大真面目に式次第を読み上げたとしたら、それが、「まさか!?」と同時に湧き起こる「どうしようもない滑稽」である。あるいは、ぼくをよく知る人たちが、ぼくの「ただいまご紹介いただきました岡野と申します」を聞いて、「まさか!?」と耳を疑い、「どうしようもない滑稽」を感じるだろう。残念ながら、この種のパロールがぼくの口からこぼれることは絶対にない!

さて、冒頭の話に戻ろう。政権党の重鎮が発した「男の花道を飾る」というパロールのことだ。一瞬、ぼくは清原だと思ってしまったくらいである。前の前の前の首相時代に「劇場」とよく形容されたが、政治の舞台は時代劇色だとかねてから思っていた。だが、「男の花道を飾る」と聞けば、出し物は時代劇から演歌ショーに変わったと考えざるをえない。いやはや、盛夏を迎えて、連日暑苦しい演歌を聴かねばならないのか。はたして新曲は聴けるのか。音程は大丈夫なのか。えっ、そんなデュエットあり? まさか! どうしようもない滑稽だけは勘弁願いたい。 

学習偏向と免疫の関係

免疫研究の専門企業の広報を手伝ったことがある。研究の様子や試薬製造の現場も見せてもらい、専門家にヒアリングして免疫についていろいろと教わった。詳細はすっかり忘れてしまったが、まったく無知だったぼくには抗原と抗体のメカニズムの話はインパクトがあった。強いインパクトを覚えたポイントは今も記憶に残っている。

外部からウィルスが身体に侵入しようとする。この攻撃に対して人間側ではリンパ球やマクロファージなどの軍隊を編成し外敵をやっつける――おおよそこんなふうに理解している。もう少し正確に言うと、ウィルスという抗原に対して、リンパ球やマクロファージが抗体をつくって、抗原の作用を排除したり抑制するのである。これが免疫システム。「病気にならないように抵抗力をつける」というのが普段の表現だ。もっとも関心を抱いたのが、免疫システムが「自己」と「非自己」を識別するという点だ。

自己を強く守れば守るほど非自己への「沿岸警備」はいっそう厳しくなるんだろうな、と考えたりした。「知」になぞらえたら、自分好みの同種の知を蓄積すればするほど、異種の知への風当たりが強くなり免疫反応を示すようになるのだろうか――とも推論してみた。フロイトの防衛機構論的に言えば、現実を歪曲したり誤解したり否定したりすることにつながりはしないか、と案じたりもした。


やがて知の世界にも強烈な免疫システムがあると確信するに至った。肉体の免疫は低下していくが、こっちの免疫は加齢とともに強化されることもわかった。免疫は学習においてもちゃんと機能する。「偏重して同種の知ばかりを蓄積し、同質思考を繰り返すと、異種の知や異質思考への防衛機能が強く働く」のである。そうなのだ、人は非自己と見なす「ウィルス的知性」を拒絶する。一定の成熟レベルに達すると、多くの人たちは新しい知や異種なる知に目を向けなくなる。やがて知の偏りが生じる。免疫過剰による滞りなのだ。

熟年になっても知のダイナミズムを衰えさせたくなかったら、ものすごくリスキーなことだが、意識的に防衛機能を甘くせねばならない。それは、自己内でほぼ自動的に形成される「知の抗体」を弱めて、新種かつ異種なる――もしかすると危険な――「知の抗原」を迎え入れる勇気である。もちろん勇気とリスクに見合ったご褒美も期待できる。自己と非自己を分別しない、開かれた知の世界である。

免疫と学習の構造は、もはや類似という段階ではなく、同一と言ってもいいくらいである。自分を高めようとして学習しているつもりが、実は料簡の狭い防御壁をつくり、安住の閉鎖空間に自身を追い込んでいるかもしれない、というわけだ。防衛機能に保護された学びは、やればやるほど排他的になる。結論を急いではいけないけれど、知の免疫における抗体は「専門自我」と呼ぶべきものだろう。実はその専門、すっかり閉じられた「偏学」に過ぎない。

ファックスと電柱の貼紙

こんなふうにタイトルをつけると、誰もが「ファックス」と「貼紙」の関係を連想しようとする。貼紙ということばからファックスのほうも用紙を想定するかもしれない。種明かしをすれば、他愛もなくことばを並べただけ。ファックスの用紙と貼紙が紙という共通点を持つのは偶然にすぎない。

行き詰まったらというわけではないが、時折り10年、20年前のノートを繰ってみる。ぼくにとっては、沈殿した記憶の脳内攪拌みたいなものである。知新にならないことがほとんど。しかし、時代を遡って温故するのは、懐かしの路地裏散策みたいで眼を見開くこともある。走馬灯のように追いかけにくい幻影ではなく、案外くっきりと記憶の輪郭が見えてきて、一気に当時の臨場感に入ってしまったりもする。

適当に本棚から引っ張り出した一冊のノート。これまた適当に繰って指が止まったページ。そして、その直前のページ。この両ページを足すと「ファックスと電柱の貼紙」になった。統合ではなく、並列のつもりである。それぞれそっくりそのまま転記してみよう。


ちょっとした報告。決して緊急ではないので、電話で相手の時間を拘束するまでもないと考え、まずファックスした。必要ならば、数分後に電話でファックス送付の件を伝え、補足するつもりだった。

ところが、電話しようとした矢先に先方から電話が入った。なんとお叱りのことばである。順序が逆だと言うのである。まず電話で今からファックスを送付すると伝え、それからファックスを送るべきだというのである。こんなビジネスマナー、聞いたことがない。誰がつくったのか? 少なくともファックス発明後のマナーだろ? 

ファックスの前はハガキか手紙を出していた。ぼくの相手のお叱りの趣旨をハガキに置き換えたら、「今からハガキを出します。明後日までには着くと思いますので、よろしく」と言え! ということになる。まったくお粗末なお叱りではある。マナーか何か知らないが、取るに足らない細部に分け入ることしか自分を誇示したり他人を制したりできない輩だ。こんな連中と仕事をするのは一回きりで十分。

それにしても、ビジネスマナーはビジネスとマナーの複合語だが、ビジネスが主ではないか。最近企業研修で、ビジネスを教えずにマナーばかり教えている愚はどうだ。マナービジネス(礼儀を商売にすること)にビジネスマナーを押し売りされてたまるもんか。


電柱に「劇薬散布注意」という貼紙がしてあった。ずいぶん意味深である。

いったい誰が貼ったのか。まず、そのことが気になる。テロリストか、近所の誰かか、農園主か、「当局」か? それぞれに貼る意図があるかもしれないが、電信柱でなければならない理由が思いつかない。しかも、メッセージを伝えたい相手も特定しにくい。

テロリストなら「劇薬を散布した」と犯行声明を出すかもしれないが、ご丁寧に「注意」を呼びかけることはない。また、この町中に農園主はたぶんいない。いるとしても家庭菜園か植木の世話をしているご主人。自分のテリトリーに劇薬を散布したが、公道に飛沫したかもしれないので犬の散歩時に注意? かもしれない。農薬ではなく「劇薬」とした点が気にかかるし、自治会の住民向けにそんな挑発をする動機が見当たらない。「当局」はまずないだろう。ふつう当局は電柱にそんな貼紙をしない。回覧板を使うはずである。

もしかすると、近所の誰かが一番危ないのかもしれない。嫌がらせの始末が悪い。おっと、重要な点を見逃している。貼紙は漢文のように漢字だけで書かれている。この文章、「劇薬ヲ散布シタ。注意セヨ」なのか? それとも、「劇薬ヲ散布スル。注意セヨ」なのか? いずれも気味悪いが、電柱という異色な場所柄を考えると、後者のほうが「ぞっとする感覚」が強い。

イタリア紀行46 「パンテオンとナヴォーナ広場」

ローマⅣ

高密度で味わいのある空間。広場と教会が目白押しで、ぶらりと歩くだけでも楽しみの多い地区だ。パンテオンにやって来たのは6年ぶり。世界最大級のこの建築は、約1900年前に14代ローマ皇帝ハドリアヌスによって建造された。初代が焼失したので、現存するパンテオンは二代目になる。セメントと火山灰を成分とするコンクリートでできていて、ドームに代表される高度な建築技術は圧巻だ。

ギリシア語起源のパンテオン(Pantheon)は、“pan+theos”に由来する。「すべての神々」という意味で、パンテオンは「万神殿」と訳される。後世にはキリスト教だけを崇めるようになるが、当時は「神様のデパート」だった。ちなみにインフルエンザがらみで最近よく耳にする「パンデミック(pandemic)」もギリシア起源で、こちらは“pan+demos”。「すべての人々」というのがおもしろい。病は人々の間で蔓延するからか。

手元の資料によれば、パンテオン上部に設けられているクーポラ(円堂)の直径は43.2メートル。そして、おそらく計算の上なのだろうが、床からドームの尖端までの高さが同じく43.2メートルなのである。その尖端には「オクルス」という採光のための天窓があって、パンテオン内部の装飾をいかにも「神々しく」演出している。

パンテオンから西へおよそ300メートル歩けばナヴォーナ広場に出る。古代ローマ時代の競技場跡だけに、特有の細長い形状の空間になっている。晴れた日には、オープンカフェに座って集まってくる人たちや噴水をぼんやりと眺めるのがいい。雨の日には人は少なくなるが、濡れた建造物の壁と広い空間が何とも落ち着いた空気を醸し出してくれる。

広場には三つの噴水がバランスよく配置されている。北に『ネプチューンの噴水(Fontana del Nettuno)』、中央にオベリスクとともに『四大河の噴水(Fontana del Fiumi)』、そして南に『ムーア人の噴水(Fontana del Moro)』。いずれも噴水と呼ぶだけですまないほどの芸術性の高い彫刻で彩られている。肉体をくねらせた力強さと構図は、いくら眺めていても飽きることはない。

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パンテオン前のロトンダ広場。
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パンテノン正面の柱廊。
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巨大な列柱。
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強くもなく弱くもなく、絶妙な採光を可能にしている天窓の明りを見上げる。「オクルス」という名のこの天窓は「目」を意味する。
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パンテオン内部。ルネサンス期の人気画家ラファエロの墓がある。
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雨上がりのナヴォーナ広場。ムーア人の噴水。
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ネプチューンの噴水。
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オベリスクを中央に見る広場。
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昼下がりのカフェ。
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よく晴れた日のナヴォーナ広場の朝。この日は空が澄みわたり絶好の観光日和となった。いずれ紹介するアッピア旧街道に出掛けたのはこの日だった。

考えが先か、ことばが先か

「考えること」と「ことばにすること」の関係についてはテーマとしてずっと追いかけている。「考えている?」と尋ねて「はい」と返ってきたからと言って、安易に「考えている」と信じてはいけないなどの話も2月に一度書いた

「考えていることがうまく表現できない」「想いを伝えられない」などの悩みをよく耳にする。この発言は、間違いなく「考えていること」を前提にしている。私はよく考えている、思考も意見もある、ただ残念なことに「話す」のが下手なんです――ぼくにはそんなふうに聞こえる。皮肉った解釈をすれば、「高等な思考力はあるのだけれど、ペラペラと喋る下等なスキルと表現力が足りない」と言っているかのようだ。

冷静に考えてみればわかるが、発話したり書いていない時の頭の中はどんなふうになっているか。考えの輪郭ははっきりしているか、思考はことばとしっかりと結びついているか、筋道や分類や構成は明快か、すべての想いが手に取るように生き生きとしているか……。決してそうではない。断片的なイメージや単語や文節が無秩序にうごめき、浮かび上がったり消えたり、互いに結びついたり離れたりしているものだ。少なくともぼくは、誰かに喋ったり書いたりしないかぎり、自分がいったい今何を考えているのかよくわからない。


もし考えることがことばよりも先に生まれており、明快かつ精度が高いのであれば、わざわざ言語に置き換える必要はないではないか。思考それ自体が何らかの対象を認識して十分に熟成しているのならば、なぜ思考が表現の力を借りなければならないのか、その理由が説明できない。こんなふうに哲学者のメルロ=ポンティは「言語が思考を前提にしていること」に異議を唱える(『知覚の現象学』)。

考えている(つもりの)あなたは、その考えを自分に向かって表現する、あるいは誰かに語ったり紙に書いたりする。その時点で、思考がことばに翻訳されたと思うかもしれない。あるいは、あることばが口をついて出て来ないとき、それが単純に度忘れによることばの問題だと思ってしまうだろう。しかし、実はそうではないのである。話したり書いたりする瞬間こそが、考えを明快にし輪郭をはっきりさせるべく一歩を踏み出した時なのである。話す前と話した後、書く前と書いた後の頭の思考形成の状態を比較すればよくわかるはずだ。

ことばが思考を前提にせず、思考もことばを前提にしているのではないかもしれない。もしそうだとすれば、「想いがことばにならない」という言い訳は成り立たない。敢えて極論すれば、話す・書くことが思考の醸成につながるのである。思考を騎手とすれば言語は馬である。しかし、この人馬一体においては騎手が馬を御しているのではなく、馬のほうが騎手を乗せて運んでいるのかもしれない。そう、思考は言語によって遠くへと走ることができる。だからこそ、馬を強く速く走れるように訓練しておかねばならないのだ。 

「選択」という名の重荷

そのコマーシャルの完全版を見たような気がするが、あまり覚えていない。だが、新聞記事で見つけた。以前も紹介したが、そのニューバージョンである。

「長持ちキンチョールか、よく飛ぶジェットか。先生。おれは、どっちを選んだらええんや」
「そんなこと、どっちだっていいじゃない」
「そんな……そんな正しいだけの答えなんて、ききたないんや!」

とてもおもしろいではないか。「どっちだっていい」を正しい答えとしているのである。そして、その答えは「正しいだけ」であって、それ以外には何の価値もないと吐き捨てている。

少しニュアンスは変わるかもしれないが、誰かに麺類をご馳走するとする。「うどんにしますか、ソバにしますか?」と尋ねる。ご馳走されるほうが、「お任せします」または「どちらでも結構です」と遠慮気味に言うこともあるだろう。「うどんかソバを選ばずに、どっちでもいい」というのが正しくて、しかも正しいだけにすぎない――こういう感じなのである。


豊川悦司のこの正論にはほとほと感心する。先生といえども、二者択一は面倒なのである。いや、面倒だけではなく、責任も負わねばならないのでプレッシャーがかかるのである。これを〈選択権の負担〉と呼びたい。

二つに一つを選ぶときはもちろん、たくさんの選択肢から自由に選べる、好きなものを選べる、一番にクジを引けるなどの状況に置かれるのは、ありがたいようで、実は重荷になることがある。かつてこういうタイプの青年たちを「モラトリアム人間」と呼んだことがあった。最近ではさしずめ「草食系男子」と言うのだろうか。

定食屋に行って注文する場面。店員が先手で「Aランチにしますか、Bランチにしますか?」と聞いてきた。おおむね次のような対応がありうるだろう。

(1)  Aにします
(2)  Bにします
(3)  どちらでもいいです(お任せします)
(4)  AでもなくBでもなく、別のものにします
(5)  AとBの両方にします
(6)  すみません、帰ります

以上の6つ。こうして比較してみると、なるほど(3)が無難で「正しいだけの答え」に見えなくもない。他のすべては何らかの意思決定が働いているが、「どちらでもいいです」は選択の負担から逃げている。いや、「どちらでもいいです」というのもある種の意思決定という見方もできるかもしれない。それでもなお、その選択には保険がかかってはいないか。


提示されたものを選ばない、後で選ぶつもり、何でもいいです、お任せします――実に厄介である。選択権を放棄して逃げ道をつくる。「正しいだけの答え」を選択するくらいなら、間違っていてもいいから自己責任の取れる選択やドキッとする選択をしてみてはどうだろう。  

いったい何が正しいのか?

二ヵ月前のゴールデンウィークの話。高速道路の渋滞の様子をテレビで見ていた。まるで静止画面を見ているようだった。いや、対向車線が流れていたので、かろうじてそれが生中継であることがわかった。車を運転しない、というか所有していないぼくから見れば、渋滞することを100パーセント想定しながら、なぜそこに入ってしまうのか、不思議でならない。もしかすると、ドライバーにとっては行列のできるラーメン屋に並ぶ程度の覚悟で済ませることができることなのか。

どちらかと言うと、世相を批判的に見る傾向があるぼくだ。「この高速道路を走る、いや歩くように動く自動車のドライバーたちは、みんな間違っているのではないか。正しいのは渋滞する高速道路以外の道を走っている人たちであり、もっと正しいのは車に乗っていない人たちであり、さらにもっと正しいのはどこにも出掛けずにじっとしている人たちなのではないか、そしてもっとも正しいのはこのようなことを考えているぼくなのではないか」と、気がつけば、とても危険な独我的思考に陥りそうになっている。

自惚れ過剰に注意しながら冷静に考えてみる。「55日が帰省のUターンラッシュと聞いていたので、今日(54日)に帰ることにしたんです。そうしたら、この状態で……」と、家族連れの三十代後半らしき男性がテレビのインタビューに答えていた。これは、やっぱり愚かしくはないだろうか。呆れ返るほどの愚かしさなのではないだろうか。


彼の推論を推論してみよう。「5日に混む」と誰が言ったのか知らないが、たぶんテレビのニュースでそんなふうに報道したのだろう。それで、彼は「5日を避けるのが賢明だ」と考えた。彼だけがひそかにこの情報を小耳に挟んだのならばこれでいい。だが、情報源は公器たるテレビであった。大勢がこの情報を入手したに違いない。彼のみならず、その他大勢が「5日を避けて、4日に戻ったほうがいい」と判断するのは当然だ(6日も休日だったが、7日から仕事が始まるので、6日にずらすよりは4日に変更するのがノーマルな決定だろう)。

しかし、ここで推論をやめずに、もう少し続けてみればどうなるか。「ちょっと待てよ、みんなオレと同じように4日に早めようと思うから、4日が混むのじゃないか。それなら当初の予定通りに5日に戻ればいい」――こういう演繹的導出もできたはずである。55日で正解!? 残念ながら、これも正解とは言い切れない。

なぜなら、その他大勢もここまで考えるかもしれないからだ。逆説的に事態を読み続けることはできる。しかし、どこかで読みをやめないかぎり意思決定などできなくなる。結果から言えば、4日が大渋滞になり5日はさほどではなかった。彼は予定していた5日を変える必要はなかった。だが、実際は変えた。他の大勢も(おそらく彼と同じような推論パターンを経て)変えた。変えなければよかったのに変えたしまったのが不特定多数の心理だったのか。真相は絶対にわからない。


確実に言えることが二つある。一つは、上記のような推論ゲームにぼくが参加しなかったという事実。もう一つは、ゲーム理論では何をどこまで読むかを自分が決めなければならないこと。ジャンケンで相手が「グーを出すよ」と言い、それを素直に信じてパーを出したらあなたが勝つかもしれない。いや、そんなの信じられないと考えて、パーを出すあなたに対して相手がチョキに変えると予想し、ならばとあなたはグーに変化……この読みは無限に続く。「相手がグーを出すよという情報」があってもなくても同じだということがわかる。グー、チョキ、パーで勝敗が決まる閉じたゲームにもかかわらず、永遠に踏ん切りがつかない。どこまで読むかもさることながら、読むのか読まないのかに関してもいずれが正しいかはわからないのである。