イタリア紀行28 「傾斜角3.97度の実感」

ピサⅠ

田舎からやってきて都会にたまげるのが「御上おのぼりさん」。だから、御上りさんということばは、大都会の大阪からトスカーナの人口9万人弱の街を訪ねる人間には、本来なら当てはまらない。

しかし、都会度を示す指数は人口だけではない。ぼくの知るかぎり、イタリアの人口10万都市よりも日本の人口5万都市のほうがはるかに都会度が高い。つまり、ほとんどの日本人観光客の目には、イタリアの有名観光地は「こぢんまりとしたアコースティックな街」に映っていなければならない。にもかかわらず、日本人の誰もが小さなイタリアの街にあって御上りさん気分にさせられてしまうのはどういうわけか。

たしかに、絵葉書や書籍などで見慣れた名所旧跡を眼前にして御上りさんに変身していくことがある。その名所旧跡に入ると、魔法にかけられたように中世やルネサンス期にタイムスリップしてしまう。そして、いったん時代を遡ってしまうと、イタリアの街は歴史的に成熟した都会に見えてくる。ピサもそんな街の一つだ。そのうえ、ここには見覚えあるすごいのが建っているのだ。驚嘆の声を発したのち、斜塔を支えるポーズで写真に収まりたくなる御上りさんの気持はよくわかる。

残念ながら、ぼくが撮った写真に人間と斜塔のお茶目なコラージュはない。当時は大ぶりの一眼レフを愛用していたし、おまけにその日は強めの雨が降っていた。数年ぶりにアルバムを見たら、被写体のバリエーションの少ないこと! 撮り収めた写真のうち半分が斜塔ではないか。やっぱり御上りさんと化していたようだ。

バスで10分くらいのところだったらいくらでも歩く。鉄道駅からピサの斜塔までもちょうどバスで10分。だが、バスに乗るともったいないほど、雰囲気のある道すがらの市街地だ。「どこかで見た覚えのある川だ」と思ったら、それがフレンツェを上流にするアルノ川。もう一本、セルキオ川がここに合流して、リグリア海につながる。ピサは海に面した街であり、古来から軍事的・商業的海洋都市としての映えある歴史が長い。

フィレンツェから列車でピサへ向かったその日、イタリア滞在通算20数日目にして初めて経験する雨だった。駅で降りてバスを待った。あいにくの雨、バスもやむをえない。不安そうにぼくの前を行き来する夫婦。夫のほうが「このバス停はタワー行きか?」と英語で尋ねてきた。「タワー」、もちろん「斜塔」のことを言っている(塔はイタリア語では「トーレ」という)。こっちだって、初めて来た街、待っているバス停が正解という確信などない。が、不思議なものだ、自分より不安そうな異国の人が聞いてくると、結構自信が湧いてくる。「ええ、ここです。ぼくも乗ります」と答える。十数分後、無事ドゥオーモ広場前に到着した。

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ピサーノ親子が設計に携わった洗礼堂。少し先の斜塔の影響で撮影の構えが斜めになっている。
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初めて見る実物だが、見慣れた懐かしさがこみ上げる。
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荘厳な大聖堂内部。10世紀のパレルモ海戦の戦利品で装飾されている。
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斜塔に登るつもりも、塔内見学は一回40人ずつ。1時間以上の待ち時間を告げられあきらめた。洗礼堂のドーム上部へ上がり、雨中の大聖堂と斜塔を眺める。
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想像以上に傾いている斜塔。釣られてカメラも傾くので、実際の傾斜角3.97度の倍くらいに思える。脳が錯覚を修正しようとしてざわめき、少し乗り物酔いしたような気分になる。

イタリア紀行27 「歴史が描き出す風景」

ベルガモⅡ

この街を訪れた前年に、ベルガモが生んだガエターノ・ドニゼッティ (1797-1848)の歌劇 “L’Elisir d’amore” (愛の妙薬)を偶然にもCDで聴いた。また同時期にNHKラジオイタリア語講座でも歌詞を読んでいた。少しは親近感があったわけである。CDではアディーナという娘に心を寄せるネモリーノを偉大なテノール歌手ホセ・カレーラスが演じている。このオペラの舞台はバスク地方の村で、北イタリアの都市とは関係がない。さきほど久々に聴いてみた。ベルガモにも合っているような気がしたが、もちろん勝手な連想である。 

風景というのは地形がつくり出す。しかし、自然に任せた地形だけなら、ぼくたちが目にする風景はさほど変化に富むことはないだろう。塔に登れば地上とは異なるパノラマが広がる。見えざる地形を塔が人為的に演出してくれるのだ。同じように、城塞や城壁跡の遊歩道は歴史が置き忘れていった風景を描き出す。ベルガモがヴェネツィア共和国に支配されていなかったら、城塞は生まれなかったかもしれない。すると、ベルガモの小高いチッタ・アルタの街もきっと別の姿に見えたに違いない。

「ベルガモは偏屈な街である。よそものにひどくよそよそしい。あんまりよそよそしいのでかえって面白い。住むとなると大変だろうが、よそよそしさを味わいに訪れてみるのも見聞を広めるのにいいと思う」(田中千世子『イタリア・都市の歩き方』)。こんなベルガモ人像があるらしい。これはイタリア人全般、とりわけ店舗の女性スタッフには当てはまる気がする。イタリア人には陽気で愛想がいいというイメージがつきまとうが、意外に人見知りをするというのがぼくの印象だ。

しかし、塔に登るまでに会話を交わしたベルガモ人は、フレンドリーで饒舌なまでに親切だった。レストランで給仕をしてくれた女性と、塔の下で切符を売っていたおじいさんだ。さらに塔から下りてきて、コッレオーニ礼拝堂を地上から眺めて以降も何人かのベルガモの人たちと接点があったが、誰一人としてよそよそしくなかった。むしろ街全体が気位の高いよそよそしさを感じさせるのかもしれない。

小高い丘に繰り広げる颯爽とした風景を歴史が刻んだように、ベルガモの凛とした空気も都市国家興亡の歴史の残り香に違いない。 《ベルガモ完》

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博物館で買った4枚綴りの絵はがき。中央のドニゼッティとゆかりの人物が一枚に一人配されている。
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地上から見上げると別の圧倒感で迫るコッレオーニ礼拝堂。白とピンクの大理石をふんだんに使ったファサードが見事。
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建物の玄関や柱の台などに見られる獅子の像。獅子はヴェネツィア共和国の象徴。ベルガモが1428年以来ヴェネツィアに支配されていた証である。
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しばし歩を止めて歴史が描く風景のノスタルジーに浸ってみる。
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地形に沿って蛇が這うようにくねる城壁の曲線。眼下にはベルガモのもう一つの顔、チッタ・バッサの街並みが見える。

イタリア紀行26 「遊歩が似合う小高い丘」

ベルガモⅠ

ミラノの次にどの都市を取り上げるか思案しているうちに二週間が過ぎた。いや、正確に言うと、だいたい決めていたのだが、候補の街に出掛けた当時、ぼくはまだデジカメを使っていなかった。その街について書いて写真を添えるには、まずカラーネガフィルムをスキャナで読み込まねばならない。だが、写真の取り込みに想像以上の時間がかかってしまった。簡単だろうと思っていたが、上下左右反転になったりで手間取った。

ようやく画像変換でき、いざ書き始めようと思ったら気が変わり、ミラノ滞在中に訪れたベルガモを取り上げることにした。ベルガモは2006年に旅したのでデジカメで収めている。実は、この紀行をシリーズで書き始める前に、スローフードというテーマで一度ベルガモを取り上げた。名所の固有名詞も知らず、しかも半日観光しただけなのに、帰国してから妙にイメージが育ち始め、思い出すたびにゆったりした気分になる。写真とメモと現地版のガイドブックを照合させながら回顧しているとつい最近旅したような錯覚に陥ってしまう。

ベルガモはミラノから北東へ列車で約1時間。列車はベルガモ・バッサのエリアに着く。バッサ(Bassa)は「低い」という意味。この丘の麓は近代の風情である。そこからバスとケーブルカーを乗り継げば小高い丘のベルガモ・アルタへ(Altaは「高い」)。ここが中世からルネサンス期にかけて繁栄したエリアだ。時間があれば、バッサとアルタの両方を比較しながら徘徊すれば楽しいに違いない。「多忙な旅人」ゆえ、一目散にアルタへ。着いてしばらくの間はたしかに早足気味だったが、ゆっくりランチの後は刻まれる時間のスピードが減速した。

ベルガモ・アルタは城壁に囲まれているが、南北1キロメートル、東西2キロメートルとこじんまりしていて迷うことはない。ローマ時代にできたと伝えられるゴンビト通りをまっすぐ行けばヴェッキア広場。建物一つをはさんでドゥオーモ広場。二つの広場を囲むようにラジョーネ宮、市の塔、図書館、コッレオーニ礼拝堂、サンタ・マリア・マッジョーレ教会が建つ。軽度の高所恐怖症ながら塔を見れば必ず登るのがぼくの習性。塔の入口でチケットを買う。窓口のやさしい老人曰く「セット券になっているから、いろいろ見学できる」と言う。その「いろいろ」がうろ覚えだし、いくら払ったのかも覚えていない。

塔からの景観を眺めたあとは、もうガイドブックには目もくれず足の向くまま遊歩した。オペラの作曲家ガエターノ・ドニゼッティの生まれ故郷であることくらいは知っていたが、それ以外はほとんど知識も持ち合わせず、迷う心配のない城壁沿いを歩き城塞を見たり歴史博物館に入ったり。知名度の高い街に行くと、知識に基づいて名所を追体験的に巡ってしまう。もちろんそれも旅に欠かせないが、知識不十分の状態で視覚的体験から入ると自分なりの「名所」が見えてくるものだ。それらの名所を後日調べてみる。その名所がマイナーであれば追跡調査は不可能であるが、写真の光景と、そこに居合わせた事実はほとんど記憶に残っている。

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ベルガモ・バッサの鉄道駅からバスに乗る。雨上がりのベルガモ・アルタの丘は霞んでいる。バッサの市街地はこのように道幅も広く交通量も多い。
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ケーブルカーでアルタへ。『フニクリ・フニクラ』〈Funiculi funicula〉は19世紀のイタリアで生まれたケーブルカーで山を登るときの歌。
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ゴンビト通りを歩く人はみんなゆっくり。全長300メートル、急ぐこともない。決して賑やかではないが、風情のある店が立ち並ぶ。
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ヴェッキア広場のアンジェロ・マイ図書館。
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塔に登るときにセットで購入した歴史博物館の入場チケット。
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ラジョーネ宮に隣接する塔。耐震性的にはきわめて不安な構造のように思いつつ階段を登った。
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晴れ間が出てきた街の景観。
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ロマネスク様式のサンタ・マリア・マジョーレ教会は12世紀の建築。手前のドームの建物はコッレオーニ礼拝堂。
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礼拝堂の全体像。大理石の嵌め込み模様や彫刻がしっかりと施されている。

イタリア紀行25 「天才の本領ここにあり」

ミラノⅣ

現地の3時間ツアー(50ユーロ)に参加すれば、『最後の晩餐』を見学できることを知ったのは後日のこと。事前予約していれば8ユーロだから、恐ろしいほど割高になる。名画を見そびれたのは残念だが、想定内でもあり、やむなし。とは言え、来た道をそのまま引き返すのも芸がない。サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会から南に数百メートルの『レオナルド・ダ・ヴィンチ記念国立科学技術博物館』に行ってみることにした。これは想定外の行動である。

多才なレオナルドの創案になる機械仕掛けの模型やゆかりの品々が数多く展示されている。モナ・リザや最後の晩餐に見るレオナルドもいいが、マルチタレントにこそレオナルドの本領が発揮されている――そんな印象を強くした。展示品と同程度にわくわくしたのは、博物館の構造。広々とした回廊や地下通路もあり、階上へ階下へ行き来し中庭にも出てみる。見学順もよくわからずまるで迷路のよう。ガイドブックによれば、11世紀の僧院の建物を極力生かす趣向を凝らしているそうだ。

中高生にとってこの博物館は格好の学習教材ゆえ、課外授業の団体が目立つ。さっきまで中庭でタバコをふかしていた男子が、展示を説明する先生に耳を傾けてノートを取っているのは不思議な光景だ。日本ならタバコを吸う高校一年生が社会見学中にノートを取るなどありえないだろう。ちなみに、イタリアでは16歳になれば喫煙はオーケーである。しかし、健康増進法によりレストランや公共の場での禁煙は浸透し、大人の間では一箱800円以上もするタバコ離れが進んでいる。

展示を見ているぼくのところに数人の男子学生が近づいてきて、「日本人?」と尋ねる。うなずくと、一人の少年が別の少年をくるりと半回転させてTシャツの背中を見せた。「これは日本語? どういう意味?」と聞く。そこには筆文字で「少年」と書いてある。イタリア語で少年は、“bimbo” “bambino” “ragazzo”と三種類くらいの言い方がある。目の前にいる156歳の少年にはragazzo(ラガッツォ)がふさわしいが、わざと幼児っぽいほうを告げてやった。「それはね、bambino(バンビーノ)だよ」。仲間は爆笑し、みんなでTシャツの男子を「バンビーノ、バンビーノ」とからかった。

そのあと迂回して、地下鉄なら一駅ちょっとの距離を歩いてスフォルツァ城へ向かった。スフォルツァ家の居城でありミラノ公国を象徴する要塞である。レオナルドもこの城の建築に関わったという。

ミラノに4泊したものの、丸二日間はベルガモとルガーノへ出掛けたので、見逃した名所・名画は数知れず。初日にとんでもないイタメシを食わされたが、二日目、四日目と夕食で訪れたSabatini(サバティーニ)には大いに満足した。二度とも給仕してくれたのは初老のアンジェロ。二度目に行くと名前も覚えてくれていた。レオナルドの最後の晩餐は拝めなかったが、ミラノ最終日の晩餐は極上の時間となった。 《ミラノ完》

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元僧院というだけあって落ち着いた佇まいの博物館。
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ひっそりとした地下展示通路は人気もまばら。ここならシャッターは切りやすそう。というわけで馬車の実物大模型を撮影。
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近代だが、自転車のセピア感は十分。前輪にもスタンドがついているのがおもしろい。レオナルドゆかりなのか単なる近代技術の紹介かはわからない。
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スフォルツァ城の前門。四方のすべてがしっかりと堅牢な城壁で囲まれている。1466年に完成。 
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スフォルツァ城の北西には広大なセンピオーネ公園が広がる。
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城内から見る壁。人と比較すればその高さがわかる。
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ミラノでの「最後の晩餐」に選んだ前菜。二十種類を越える料理からワンプレート分、好きなだけ盛り付ける。

イタリア紀行24 「レオナルド・ダ・ヴィンチ」

ミラノⅢ

数年前の横綱格ほどではないにしても、ここ十年ほどイタリア観光は人気番付の上位をキープしている。少し下火にはなったが、タレントを起用したイタリア都市を探訪するテレビ番組も相変わらずだ。ちなみに、日本のみならず世界で一番人気の国はフランス、都市はパリである。

そのパリでもいいし、ウィーン、フランクフルト、アムステルダムを経由すれば、主要なイタリアの都市へ行ける。しかし、関西発で直行できるイタリアの都市はミラノのみだ。したがって、ほとんどのパッケージツアーはミラノ→ヴェネツィア→フィレンツェ→ローマという順になり、帰路もミラノ発となる。ところで、ミラノを東京に類比する人がいるが、ぼくにはそうは見えない。やや派手めのファッション、下町のカフェにたむろするヤンキー風のお兄さん、建物や壁の落書き、服飾・繊維産業などから大阪市を連想してしまう。実際、ミラノと大阪市は姉妹都市の関係にある。

ルネサンスの主役であり歴史上の大天才であるレオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)。私生児説もあるが、幼少の頃に実父セル・ピエロ・ダ・ヴィンチに引き取られた事実があるので、正しくは「婚外児」と言うべきだ。わが国ではレオナルド・ダ・ヴィンチのことを「ダ・ヴィンチ」と言うが、イタリアでは苗字での呼称は稀で、ふつうは「レオナルド」と呼ぶ。「ダ・ヴィンチ」はもともと「ヴィンチ村の」を意味し、やがて前置詞と固有名詞が一体化して「ダ・ヴィンチ」という家名になったようである。

レオナルド・ダ・ヴィンチゆかりの街をフィレンツェと決めつけてはいけない。ここミラノも同程度に縁が深い。フィレンツェで思うような活躍ができなかったレオナルドは30歳の頃ミラノへと旅立った。当時のミラノはスフォルツァ公が君臨して活力があった。この地のサンタ・マリア・デッレ・グラティエ教会でレオナルドは1497年の45歳の時に『最後の晩餐』を完成させる。ジェノヴァ出身のイタリア人コロンブスがアメリカ大陸を発見したのがその5年前である。

前々回にも書いたが、この年の仏伊紀行では当初ミラノに滞在する予定はなく、『最後の晩餐』鑑賞の予約はしていなかった。団体ツアーなら予約の手配などしなくてもいいが、個人の場合は何から何まで自分で手続きをしなければならない。予約をしていないからたぶんダメだろうと心得ながらも、観光のシーズンオフだし、万に一つの幸運を授かるかもと淡い期待をかけていた。ドゥオーモ前のカフェでエスプレッソを飲み、店のスタッフに聞いてみた。「レオナルドの最後の晩餐を見たい。ここから教会へは歩けるか?」 ご機嫌な顔をして彼は「ああ、レオナルドの絵。歩いても半時間もかからない」と言い、指を示しながら道筋を教えてくれた。

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ドゥオーモ前のカフェで道をたずねたが、教わったほど簡単ではなかった。路面電車に沿い西へと歩く。
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広場をいくつか横目にし、建物を見ながらぶらぶら。
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さほど迷わずに、やがてマジェンタ大通りに入る。
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赤茶色のクーポラ。これがサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会だった。
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この建物が『最後の晩餐』への入口であり受付。「三ヵ月後なら予約できるわ」と呆れ顔で告げられた。 
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心残りながらも、教会の建物と壁色を存分に眺めてから帰る。

イタリア紀行23 「ドゥオーモ――象徴の象徴」

ミラノⅡ

それぞれの都市には本山のようなポジションを占める大聖堂がある。これをドゥオーモ(Duomo)と呼ぶ。イタリア全土にはそう呼ばれる教会が百十いくつかある。スタンプラリーをしたわけではないが、数えてみたら、これまで17カ所の街のドゥオーモを訪れていたことがわかった。

すでに紹介したシエナ、フィレンツェ、オルヴィエートのいずれにもドゥオーモがある。それぞれに荘厳で華麗だ。しかし、スケールにおいて、このミラノのドゥオーモの右に出る大聖堂は他のイタリア都市には見当たらない。いや、それどころではない。これは世界最大のゴシック建築でもあるのだ。1813年に完成するまでに要した年月は気の遠くなるような5世紀! 室町時代の初めから江戸時代末期まで建設していたことになる。

ミラノを象徴するものはいろいろある。前回のヴィットリオ・エマヌエーレⅡ世の名を冠したガッレリアもその一つだが、レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』を擁するサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会やミラノ公国時代から残るスフォルツァ城もある。食ではリゾットとカツレツが有名だ。世界の三大ファッションであるミラノ・コレクションに、サッカーのACミランにインテル。ローマのコンドッティ通りをはるかにしのぐブランド街は数本の通りに集中する。だが、ドゥオーモはこれらの名立たる象徴の上座を占める。ミラノの「イメージ収支」がマイナスのぼくではあるが、ドゥオーモの存在には土下座するしかない。

ドゥオーモは工事中だった。屋上にもエレベータか階段で昇れるが、見送った。2001年には屋上から尖塔を目の当たりにした。ちなみに尖塔の数は135本。次いで、ミラノ市街地からアルプス連峰まで眺望した。ミラノはロンバルディア州の州都で、イタリアではほぼ最北に位置する。スイス国境に近いので、よく晴れた日にはアルプスが見えるわけだ。

ミラノはローマに次ぐ大都市で、人口130万人。地下鉄網はローマよりも充実している。大都市とは言うものの、中心市街地に様々な機能が密集しているので便利だ。たとえばミラノ中央駅からドゥオーモまでは直線距離にして2.5キロメートル。ドゥオーモからサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会までは2キロメートルほどなので、行きも帰りも歩いた。健脚なら有名スポットへは難なく確実に歩ける。ミラノにかぎらず、イタリアの都市はすべて、日本人の感覚からすればコンパクトにできている。

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ファサードは長期修復工事中(200610月当時)。鋭い尖塔がゴシックの特徴。
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モザイクの紋様が床を彩る。
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聖堂内は荘厳な空気で満ちている。
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ドゥオーモは真下から見上げて良し。
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見る場所・角度によって形状を変える巨大なオブジェ。ミラノ随一の象徴だ。
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ミラノ風料理の象徴、巨大なカツレツ。以前ローマで食べた一品とは別物だった。脂身の少ない赤身のビーフなので胃にもたれない。口当たりはまろやか。

イタリア紀行22 「文脈が見づらい都市」

ミラノⅠ

パリからミラノのマルペンサ空港に着いたのは2006104日。その四年半前、この空港で退屈な時間を過ごした。その時はナポリへの乗り継ぎのため、便を待つこと4時間。もちろん、空港からは一歩も外に出ていない。だから、ミラノの市街へ入るのは五年半ぶりだった。

初めてミラノに滞在した2001年、置引きに遭った。宿泊したホテルは貧弱、行く先々での食事はまずかった。街のそこかしこに目立つ大胆な落書き。これが新旧アートの誉れ高きミラノか……と溜息をつき落胆した。そんなマイナスの印象が依然残っていたので、ミラノはパスして、パリからヴェネツィアに直行する計画だった。しかし、ミラノに滞在しようと心変わりし、インターネットでホテルを4連泊予約した。ミラノを拠点にすればジェノバ、トリノ、ベルガモへの一日旅行が楽になるという思惑ゆえである。しかし、ベルガモとスイスのルガーノには足を運んだが、ジェノバとトリノへのチャンスはなかった。

七年前の芳しくない思い出の続編を目の当たりにした。マルペンサ空港からリムジンバスでミラノ中央駅に着いた。乗客が全員まだ席についているのに、バスの側面の扉が早々と開く。突然、バスの停車場で待機していた不審な男が走り気味に近づき、旅行鞄の一つを持ち逃げしたのだ。そのラゲージが自分のものだと気づいた乗客が「あいつを捕まえてくれ!」と叫ぶ。運転手の遅々とした反応(泥棒と仲間だと思われてもしかたがない)。乗客が追い通行人も加勢したかに見えたが、視界から消えた。うかうかしていると自分のラゲージも危ない。ミラノはいきなり旅人を疲れさせる。

中央駅そばの地下鉄駅から三つ目がホテルへの最寄り駅だ。嫌な予感がしたので地下鉄をやめて路面電車でブエノスアイレス大通りへ向かった。そこで降り、地図を頼りに夕闇迫る見知らぬエリアをホテルに向かった。ホテルにチェックインして荷物をほどいてやっと動悸が治まる。気が付けば、異様なほどの空腹。服も着替えずに外に出た。ホテルの目の前にグレードの高そうなレストラン。ここは明日の楽しみにしておこうと思い、とりあえず下町の裏道を歩くことにした。

いくつかの店を品定めしたあと、家族経営っぽい庶民的なピザ屋を見つけた。大阪の庶民的なお好み焼店の雰囲気だ。その店の食事、数え切れないほど食べてきたイタリアン食事史上で最低だった。半焼けのような分厚い生地のピザ。作り置きしていて温めなおしたスパゲティ。ミラノの隠れた名物であるはずのライスコロッケは大味。呆れるほどの雑な味だったが、懐かしいモノクロのイタリア映画のシーンと登場人物で重ね合わせて、愉快がることにした。そうでもしないと、これからの45日が呪われるような気がしたのである。

ゴシックの最高傑作ドゥオーモと最後の晩餐に象徴される歴史的遺産。ミラノ・ファッションに代表されるトレンディーな流行発信基地。そこにぼくの体験を織り込んでみると、街の文脈がまったく見えなくなってしまう。ミラノとはいったい何なのか? 奇をてらわず、凡庸な旅人になって定番観光に徹しようと決意した。その出発点に選んだのが、ヴィットリオ・エマヌエーレⅡ世のガッレリアである。ホテルから地下鉄1号線で4駅目にドゥオーモがある。

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広場北側の入口からスカラ座までが「ガッレリア」。カフェ、レストラン、商店が立ち並ぶ観光客に人気のアーケード。
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ガッレリアからスタートしたこの日、方々を散策してドゥオーモ広場に戻ると大勢の若者で異様な賑わい。建物のバルコニーに現れたイケメンのタレントがお目当てだった。
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アーケードは1877年に完成。ガラス天井の広い空間。
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手の込んだタイルとモザイクを贅沢に使ったアーケードの舗道。
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華麗なモザイク床を土足で歩き放題。ショッピングせずに、歩くだけで贅沢な気分になれる。
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高級ブランド店は少し離れた通りにおびただしいが、ここにはプラダ本店が鎮座。
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ガッレリアを出るとオペラの殿堂「スカラ座」。第二次世界大戦後に建て直されたので新しい。パリのオペラ座に比べてみると、かなり質素な印象を受ける。

イタリア紀行21 「エトルリア文明の名残」

オルヴィエートⅡ

エトルリアについてよく知らなかったし、今もさほどわかっていない。『エトルリア文明』というえらく難しい本にざっと目を通したが、受け売りするレベルにも達しない。ローマ時代を読むだけでも精一杯、さらにその前の紀元前の時代にまでは手が回らないのだ。エトルリア時代とのきっかけは2004年。ペルージャ滞在にあたって調べていたら、紀元前4世紀のエトルリア時代に遡る古代都市であることを知った(目の当たりにしたペルージャに残るエトルリア門は「歴史の貫禄」そのものだった)。

オルヴィエートもエトルリア国家の一つで、ペルージャよりさらに23世紀遡ると言われている。エトルリア(Etruria)はエトルリア人(etrusco)たちの居住地で、主として現在のトスカーナ(Toscana)地方を中心とした地域である。“Toscana”はこの“etrusco”に由来するらしい。生兵法は大怪我、いや大恥の基ゆえ、塩野七生の『ローマから日本が見える』に拠って「エトルリア人」を紹介しておく。

エトルリア人の起源については、いまだ謎とされているのだが、早くから鉄器の製造法を知っていて、イタリア半島に彼らが定着したのも、半島中部にある鉱山が目当てであったと考えられている。古代エトルリアには十二の都市国家があったが、突出した力を持つ国家はなかったので、エトルリア全体で協調行動を取ることがなかった。このことが、のちにエトルリアが衰亡する致命傷になったのである。

話をオルヴィエートに戻す。この日、アパートで前夜調理して食べ残したイカのリゾットをカップに入れて持参していた。それとゆで卵でランチを済まそうと思っていたので、レストランに入る予定はなかった。初めて訪問するイタリアの街で地元の料理とワインを賞味しないのはあまり賢明ではない。それは重々承知しているのだが、ローマで予約していたホテルを急遽キャンセルしたため想定外の出費があり、財布の紐を締めにかかった矢先だったのだ。

「ここはエトルリア文明の街だ」と自覚するだけで、視線は古びた煉瓦や街路にも延びてくれる。街の中心であるレップブリカ広場では市が立っていた。名物の白ワインを買わない手はない。二本がセットになったご当地の定番を買う。広場から旧市街あたりへ出て、地図に名前も載っていない小道をぶらぶら辿ってみた。

旧市街やドゥオーモへ引き返す別ルートの道すがらにエトルリア時代の遺産はほとんど残っていないのだろう。おそらく現存する面影は中世の佇まいなのだ。にもかかわらず、エトルリアの名残を時空間的に錯視している。そのように感じざるをえない舞台装置がここには巧妙に仕組まれていた。 《オルヴィエート完》

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レップブリカ広場の市場。店の数は多くないが、結構賑わっていた。
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広場に面して建つサンタンドレア教会と市庁舎。
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心惹かれたレストラン。メニューの値段を見て引き返した。
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サングラスを掛けたイノシシの剥製のディスプレイ。
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土産に買った白ワイン。一本400円。賞味した某氏は超高級ワインだと絶賛。
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ドゥオーモに向かう裏通り。エトルリア料理のトラットリア。
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通りから姿を現すドゥオーモ。繊細で眩しい光を放つゴシック建築の華である。
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「バラ窓」と呼ばれる丸いデザイン。まるでレース模様を編み込んだかのよう。

イタリア紀行20 「ゴシック建築と白ワイン 」

オルヴィエートⅠ

20083月のとある日、ローマのヴァチカン近くのアパートを午前8時に出発。地下鉄レパント駅まで10分ほど歩き、ローマの終着駅テルミニへ。鉄道に乗り換えて普通列車で1時間20分のオルヴィエート (Orvieto)を目指した。

オルヴィエート。ワイン好きなら知っているか聞いたことがあるに違いない。ローマから近いにもかかわらず、たとえば『地球の歩き方 ローマ版』にこの街の情報はない。掲載されているのは『フィレンツェとトスカーナ版』のほうだ(フィレンツェからオルヴィエートは倍以上時間がかかる)。ローマ版ではティヴォリやヴィテルボ、フラスカーティは紹介されているいる。オルヴィエートをわざわざフィレンツェ版のほうに編集した理由がわからない。

イタリアを代表するゴシック建築のドゥオーモと安価で上質の白ワイン。オルヴィエートが自慢できる目ぼしいものはこの二つだけ。しかし、この二つ以外に何も望まなくてもいい。下手に何でもかんでも揃っていたり中途半端な特徴を備えているよりは、「これしかない」と言い切れるほうが「地ブランド」に秀でることができる。欧米人観光客は美しいファサードのドゥオーモ前広場にたむろしワインショップを訪れる。やはりその二つがお目当てなのだ。

当初からローマ滞在中にオルヴィエートに出掛けるつもりではあった。しかし、ぼくの動機は大それたものではなく、白ワインの里を見てみようという程度だった。オルヴィエートの駅からケーブルカーを乗り継いで到着したのはカーエン広場。先を急ぐならバスか徒歩でドゥオーモへ行く。しかし、広場の少し先の展望スポットに寄って眼下に広がる景色を楽しんだ。崖っぷち状の丘陵地の街なので眺望がとてもいい。

ドゥオーモに着いた。キリスト教にも教会の建築様式にも知識や教養を持ち合わせていないが、あちこちの街で見てきたデザインとの違いは一目でわかる。金色とピンク色を織り束ねたような模様と繊細かつおごそかなファサードのデザインに目を奪われる。座り込んでうっとりと眺めている人たちもいる。ぼくもしばし足をとどめた。ゆっくり歩きながらメインのカヴール通りに入り市庁舎のあるレプッブリカ広場へ。道すがら、あるわあるわ、名産の白ワインを所狭しと展示しているエノテカ (enoteca)。イタリア語でワインショップやワイン庫を意味する。ワインが23本単位で箱にセットされているのも珍しいが、もっと驚いたのは値札の数字であった。

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ケーブルカーのターミナル駅。
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はるか遠方まで見渡せるパノラマの図。
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着工1290年。300年以上の歳月を経て完成したドゥオーモ。
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ディテールを見事に描き出す浮き彫り。
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定番ワインは1300~500円。驚嘆に値する価格で、うまさも申し分なし。
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              落ち着きのあるドゥオーモ広場ではしばし佇んでみたくなる。

イタリア紀行19 「一期一会が似合う」

サン・ジミニャーノⅢ

滞在時間は3時間と少し。フィレンツェ⇔ポッジボンシ⇔サン・ジミニャーノ往復に要した時間とほぼ同じ。街が小さいのに加えて自慢できる知識などまったくないから、何が見所なのかもよくわかっていない。おまけにシーズンオフだ。正直言って、3回にわたって書くだけの話題を持ち合わせていない。

四十いくつの数の世界遺産を誇るイタリアにあって、サン・ジミニャーノは1990年に7番目の早さで登録されている。城壁に囲まれた街。石畳と古色蒼然とした壁の間から中世以来生き延びてきた塔が背伸びをしてみせる。よく目を見張ると、石畳や壁が修復されているのがわかる。石の文化は強靭だが、それでもなお数百年の年月は街を劣化させる。

錆びたような黄土色の建物、時には寒々しいグレーの石畳や赤っぽい石畳、くすんだこげ茶色の屋根、窮屈そうで人影もまばらな通り。この街に決してマイナスイメージを抱いたわけではないが、見るもの感じるものすべてが寂寥の色合いに染まる。ルチアーノ・パヴァロッティが歌いあげるイタリア民謡、たとえば『はるかなるサンタ・ルチア』が流れてきたりすると、哀愁がただよい感傷的な気分になること間違いない。

世界中から観光客がやってきてこの小さな街がにぎわう季節なら、哀愁や寂寞に襲われることはないだろう。ガイドブックの教えにしたがって名物の白ワイン“Vernaccia di San Gimignano”も楽しみ、土産物もしこたま買い込んでほろ酔い気分で帰路につくかもしれない。しかし、それはそれ。旅は季節によって街の顔を変える。それを一期一会の縁と受け止めるのが潔い。 《サン・ジミニャーノ完》

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足の向くまま街外れへ。
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城壁の外はさらに閑静な風情。
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城壁外の田園風景。
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塔の上からの風景。
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一戸建て住宅。ホテルが少なく、民家が部屋を貸す、いわゆる民泊が多い。
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聳える塔を後景に置く住宅地。街に絵になる躍動感を与えている。