良識欠乏症にうんざり

塾生のブログに大いに共感したので、「便乗」して書いてみたい。便乗ということばに過剰反応されては困る。このことばにはもともと是も非もない。中庸的な「相乗り」のことである。「街まで行かれるのなら、乗せていってもらえればありがたい」というふうな、ヒッチハイク感覚のことばだ。後で書くが、便乗商法としてセットで使われることが多くなり、便乗単独だけでも悪徳イメージの烙印を押されてしまうようになった。冤罪である。

さて、ブログで特に共感したのは、「『こういう言い方はふさわしくないかもしれないが』などという前置きは、それだけで発言者の意識を疑ったほうがいいように思う」というくだりだ。この種の前置きは、衝撃吸収のためのクッションで使われると言われているが、使い手が必ずしもそんな配慮をしているとは思えない。なぜなら、直後には、前置きと大きな落差のある「衝撃的ホンネ」が吐き出されるからだ。よく耳にするのが、「それはそれでいいのですが……」や「別にダメだと言うわけではないけれど……」や「反論するつもりはまったくないですが……」などの類である。

「それはそれでいいのですが……」は「それはよくない、もっといいのがある」であり、「別にダメだと言うわけではないけれど……」は「ずばりダメだ」であり、「反論するつもりはまったくないですが……」は「反論するぞ」と同義なのだろう。相手を害してはいけないとおもんぱって前置きするのはむしろ少数派である。ほとんどの場合、確信的に反意と挑発の地雷が仕掛けられている。手に取るように狡猾な手の内がわかるから、ぼくは逆撫でされたように「前置きごっこはやめましょう」と機先を制する。


対話と議論のセンスの無さにうんざりする。もっと言えば、なんとまあ良識の本質を知らないのかと失望する。「〈良識(bon sensボン・サンス)〉はこの世でもっとも公平に分け与えられているものである」とデカルトは言った(『方法序説』)。この際デカルト哲学への賛否を棚に上げて、ひとまずこのことばの重みを受け止めてみるべきではないか。人々を安心、安全、安寧へと導くべき地位に就いているリーダーたちは、なぜ良識を失ってしまったのか。驕りと保身と我執がしゅうと引き換えたためである。天与の良識ならば、一度失ってしまうと再び取り戻すのはむずかしい。

冒頭の便乗に話を戻す。便乗は、転じて「機会に乗じて利己的に振る舞うこと」を意味するようになった。しかし、便乗商法のすべてを裁くならば、もう経済発展や市場戦略などを口にしてはなるまい。なぜなら、話題になった商品を他社が真似たり、人気タレントにあやかって町おこしやイベントを開催するのが商売の常だからである。商売の大半はニーズやトレンドに便乗することによって成り立っている。たとえば、すべての携帯電話やスマートフォンは一号機に便乗したのである。小さな文房具店の老夫婦が、雨が急に降り出したのを見て店先に傘を並べるのをけしからんと言いうるか。

大震災の悲劇に乗って我が田のみに水を引くことや、地デジを利用してインチキ商品を売ることを「悪徳便乗商法」と呼ぶのである。被災地の人々に届かぬほど商品を大量に買い占めて高値で売るのが悪徳だ。この連中は金のために良識を売る。他方、一個でいいはずのラーメンをつい二個買ってしまうのは、不安に苛まれるからであって、悪意ゆえではない。この結果品切れが生じることを知れば、ぼくたちは普段通りに一個で済ませる良識を持ち合わせているはずだ。

いま襟を正して良識に大いなる発露を与えなければ、うんざりを通り過ぎて絶望に到る。そうならないように、ぼくたち大勢は良識を働かせるべく振る舞うようになっている。但し、楽観はできない。間に合わせにこしらえた良識の仮面を被る人間も少なくない。そして、彼らの素顔を見破るのは容易ではないのである。

推理にともなう責任

ローマ法に由来して生まれた格言に「立証の責任は、否認する者にではなく、主張する者にかかる」というのがある。ディベートでも、最初に主張する命題を肯定する者が立証責任を負うことになっている。もし証明が十分でなければ、「不確実または明白でないものは存在しない」という取り決めによって却下される。要するに、否認されるまでもなく、証明不十分の時点で責任を果たしていないのである。他方、否認する者はなぜ否定するのかと証明する必要はない。

ディベートの肯定側への点数がからいとよく指摘される。ぼくからすると、そう指摘するあなたがたが甘すぎる、ということになる。立証する側が仕事をしていなければ、極端なことを言うと、否認する側は何もしなくていいのである。自滅している相手に追い討ちをかけることはない。このことは稟議書や企画の提案書を出すことにも通じる。稟議も企画も未来の推理シナリオである。その推理に一点でも曇りがあれば、認証することはできない。少なくとも、提示され承認を求められる意思決定者にとっては、自身が設定している基準をクリアしてもらわねばならない。

論理学における〈推論〉――あるいは〈演繹的導出〉――では、「ある前提をもとにして結論が明るみに推し出されること」をいう。前提の真偽や結論の真偽はさておき、前提から結論を導く「推論という道筋」の信頼性を保証するのが論理の仕事である。これに対して、〈推理〉とは推測であり予測である。いろいろな前提――データや兆候や情報と呼ばれる諸々の与件――から真理を推し量ることだ。推理していることの信頼性は定かではないのである。


「うまくいきますか?」と聞かれて、「わかりません」とぼくは答える。但し、それでは無責任なので、「うまくいくようにシミュレーションしてはいます」と付け加える。マーケティングや販売促進でアイデアを提案するときのぼくの基本スタンスである。推論としてはロジカルに組み立て説明もできる。しかし、このアイデアが成功へと導かれるかどうかは推理の域を出ない。だから、ぼくは正直に言う。極論家だが、案外謙虚なパーソナリティでもあるのだ。

もう一年半になるが、『想定が現実を待っている・・・』というブログを書いた。今回も、マグニチュード9の大地震に対して、専門家は「想定している三陸沖地震」ではないとぬけぬけと言った。想定イコール真理であって、今回の地震は真理ではないと聞こえてくるようではないか。その3日後の静岡県東部の地震に対しても、「想定されている東海地震とは関係ない」と気象庁は言った。ぼくたちが必要とするのは専門家の想定ではない。専門家の来るべき直近の天災予知である。そこに推理を働かせてほしい。そして、推理をするかぎり、その推理がことわりを外したり予見できていない時は、素直に説明責任を果たすべきなのだ。

未来に関わる推理は、拠り所とする前提次第だ。そして、前提をどんなに読み込もうが組み合わせようが、そこから推し量れることが真理とはかぎらないのである。参考にはなるし啓発的でもあるが、彼らは真理を語っているのではない。市場動向も景気動向も、はたまた将来のIT技術動向も、語り手がたとえプロフェッショナルであっても、当てにはならないということを再認識しておこう。本物のプロフェッショナルなら、推理に見合った責任を必ず果たすはずである。

強がらない方法

失調に至るような自覚はなかったが、自律神経がやわな時期があった。もう15年も前のこと。欝や自律神経失調、あるいはストレスなどをあまり気にしない性分なので、これらを想定して現在の症状がどれに当てはまるのかを考えることはない。むしろ、今の自分がどんな状態にあるのかを直視して、疲労感があれば仕事を軽減し脳が働いていないようなら休息しようと思う。即刻そうするのがよく、手立てを先延ばししていいことなどめったにない。

但し、当時は一時的に尋常ではなかった。自律神経が軟弱で十分に機能していないと感じてからは、深刻な病気にかかっているのではないかと案じるようになった。こうなるとセンサーが外部世界に対して働かなくなる。感知不全のまま、意識はいつも自分へ、自分の身体へと向く。観念が固定化し、融通がきかなくなり、おまけに他人のことなどどうでもよくなってくる。誰かの励ましも皮肉っぽく聞こえてくる。やる気というものが滑稽に思え、ただただバーチャルな心へと己を封じ込めていく。

やや誇張して表現しているが、上記の話はおおむね真実である。このような自覚症状は、男女を問わず、早ければ四十歳前後、平均すると五十歳前後にやってくると聞いた。複数の自称「専門家」たちがそう言っていた。景気予測から地震予知、はたまた心理カウンセリングの分析に到るまで当たらないのが相場だから、病状の診断に関しても話半分で扱っておくべきか。


知人には三十代半ばから五十代半ばの働き盛りの経営者が大勢いる。ぼくが一時的に不安に陥った「自律神経失調気味の症候群」に苛まれている者もいるに違いない。しかし、外向きには虚勢を張る。「頑張ります」と自らを鼓舞し、「頑張ろう」と他者を励ます。経営もうまく行っているわけではないのに、各種会合は当然のこととして、どうでもいい飲み会にも顔を出して明るく振る舞い強がってみせる。この対社会的生き様と一人になって悩む姿の落差はとてつもなく大きい。やがて落差は実と虚を混同させ、神経を傷めていく。

別に脅しているつもりはない。ぼくは精神分析医でもなければ安定剤を売っているわけでもないから、「りんごを齧ると歯茎から血が出ませんか?」などと古いコマーシャルのような脅し文句を突きつける必要はない。ただ一言。明けても暮れても強がってはいけないと言いたいのである。疲れているなら、悩んでいるなら、黙っていないでそう言えばいいのである。どこかの誰かが「あいつは意気地なしだ、弱音を吐いている」などとケチをつけようと、知らん顔すればいい。そいつが励ましてくれても、ちっともよくならないのである。

「ピンチはチャンス」という経営者の好きな座右の銘にも痩せ我慢を垣間見る。「ピンチはピンチ」であって、それ以外の何物でもないではないか。経済不安に際してピンチはチャンスと自他ともに励ますのであれば、たとえば震災被害者の所へ行って同じことばでエールを送れるか。案に反して、空威張りのように強がる人間は周囲に迷惑をかける。できなければ「できない」と言えばいい。わからなければ「わからない」と言えばいい。心身ともに疲れ果てたら、「困った、助けてくれ」と素直に弱音を吐けばいい。そんな正直なコミュニケーションを起点としてぼくたちは手を差し伸べ合い、処方を一工夫して協働するようになる。強がることと勇気は別のものなのである。

ちっぽけなことでくよくよと落ち込んでいたら、「頑張れ、希望がある」でいいだろう。だが、頑張らなくていい、いや頑張ってはいけない状況というものが厳然とした事実としてある。絶望のどん底にあるときに不可欠なのは方策であり解決手段なのである。「小さな悩みには精神的な励ましを、大きな絶望には具体的な方法を」――これを忘れてはならない。

いつもルネサンス

軽薄は論外だが、ざっくばらんな会話を慎まねばならない雰囲気がそこかしこにある。めったに神妙にならない彼や彼女にとってはいい機会になっている。つねにふざけるのもつねに生真面目であるのも窮屈だ。ぼくたちは笑ったり泣いたりし、はしゃいだりがっかりする。喜怒哀楽とはとてもよくできた熟語である。

悩める「彼」に今朝一番にメールを送った。「自然に突き放され見捨てられ、呆然とするしかない災害の地。復興不可能と思われるこの状況から、人々は自浄し始め、やがて自立する。過去の歴史で、それができなかった時代は一度もない。人間は立ち上がれるようになっている」という書き出し。このあと数十行書いて送信をクリックした。「どんな状況にあっても人はまだまだ救われている」というぼくの信念を届けた。

ふと古代遺跡ポンペイを思い出す。都市構造、政治形態、生活様式などどれを取っても、近代の街とほとんど変わらぬ先進都市だったイタリア南部のポンペイ。紀元6225日、激しい地震が襲った。一般にはこの地震と同時にポンペイが埋もれたと思われているが、そうではない。ポンペイは大打撃を受けたが、着実に再生・復興に尽力していた。ポンペイが消失するのはこの17年後、紀元79824日である。ヴェスヴィオ火山が火柱を吹き上げ、火砕流がまたたく間に街ごと舐め尽くした。千数百年間、ポンペイは後世に知られざる存在となった。9年前のちょうど今頃、ぼくはポンペイの遺跡に佇んでデジャヴのように郷愁を覚えた。


千数百年も経ってしまえば、もはや再建に未練などない。あの遺跡はタイムカプセルから取り出された二千年前の街の姿そのものである。文明の度合いはさておき、人々の文化的生活は古今東西ほとんど変わっていない。いや、むしろ自然との調和的暮らしぶりということになれば、現代人は古代人に大いに学ぶべきだろう。巨大都市を構築するのが文明的進化である。環境にとって人類にとって、その収支決算をしてみるべきではないか。

とても幼稚で単純だが、文明と文化にはぼくなりに意味区分をつけている。前者は公的で土建的、自然利用である。人類と自然の闘いでもある。後者は私的で土壌的で自然共生的である。文明的であるとは超大なまでに発展的に生きることであり、文化的であるとはゆっくりと持続可能的に生きることである。繁栄の上に胡座をかくと人は文明的に生きようとする。時々文化的生活を思い出すのがいい。車に乗らずに歩く――ただこれだけでいい。

〈ルネサンス〉とは過去の単純な再現ではない。物的な意味合いよりも精神性・文化性が強いこのことばは、すぐれたものの進化的な刷新をも意味している。古代ギリシア・ローマの芸術と文芸の精神を引き継ぎながら、その単純再現だけにとどまらず、創生へと向かったのが本家ルネサンスだった。今日は昨日の、そして過去のルネサンスの日である。明日は今日までのルネサンス。日々ルネサンス。こう思うだけで毎日ワクワクする。こんな調子だから、青二才と揶揄されるのも納得がいく。

いっそのこと「何でもあり」にしたら?

こんなジョークがある。

父親が血相を変えて校長室へやってきて、強く抗議した。
「うちの息子が筆記試験で答案をカンニングしたなんて、どうしてそんなことが言えるんです?」 さらに語気を強くして言った、「証拠が全然ないではありませんか!」
校長は冷静に言った。「そうでしょうか。息子さんはクラスで首席の女の子の隣に座っていました。そして、最初の4問にその子とまったく同じ答を書いたのですよ」
「それがどうだっていうんです!」と父親は切れかけた。「校長先生、うちの子も今回ばかりはよく勉強したんですよ!」
「そうかもしれません。でも……」と校長は大きく息を吸って後を続けた。「五つ目の問題に女の子は『分かりません』と書きました。そして息子さんは……『ぼくもです』と書いているのですよ」


入試のネット投稿問題にちなんで、毎日新聞の余録に科挙の時代のカンニングの実態が紹介されていた。いつの時代も、試験実施側が厳重なボディチェックと監視体制を強化すれば、その網の目をくぐろうとする受験生が新たな珍案・奇案をひねり出す。ITによる通信技術がここまで高度化すれば、新手が登場するのもうなずける。今回の事件には「さもありなん」と変な納得をしてしまう。

学内の中間・期末・実力試験の方法に懐疑的なぼくは、従来から、入試においても少なくとも辞書の持ち込みくらいは容認してもいいと思っている。実社会で仕事をこなすときには、時間の許すかぎり、何を調べようが誰に聞こうが自由である。あからさまに特許侵害やパクリをしないなら、仕事の出来さえよければ過程が問われることは少ない。要するに、結果さえ出せばいいのである。学校の試験もいっそのこと「何でもあり」にすればいい。

暴論とのそしりは覚悟している。でも、実力とはいったい何かを考えてみると、答えを導くために記憶した以外の情報源を用いないのは偏っているのではないか。自分の頭はもちろんだが、辞書や書物を参考にしたり、他人の意見を踏まえたり、ありとあらゆることを統合して解答することが、真の能力なのである。何を持ち込んでカンニングしてもかまわないぞ、それでもお前たちの実力をチェックしてやるぞと胸を張れるほどの良問を出題すればいいのだ。

「何でもあり」の代案もある。逆に「手ぶら」にしてしまう。紙も筆記用具も何もなし。くじでテーマを選び、それについて即興スピーチを作らせたり、二人の学生に即興ディベートをさせるのである。時間はかかるが、確実に実力がわかる。但し、ここでの実力もコミュニケーションや議論などの言語スキルに限定される。つまり、どんなテストも能力の部分テストにすぎないのだ。実力などわからない。もっと言えば、実力とは社会で残す結果に集約されるから、いまどれだけのことを知っているかよりも、これからどれだけのことをアウトプットできるかが問われる風土をこそ醸成すべきなのだと思う。

数字に一喜一憂

学力テストの成績順やFIFAランキングが上下しただの、業績がどうのこうのだのと、数字に一喜一憂する根強い国民性。どんなことでもそうだが、頑張って順位を上げようとしているのは自分だけではない。他人も他社も他国も頑張っているのだ。たとえば超一流どうしが最大限の努力をしてぶつかり合っても、一方が上位になり他方が下位になる。同様に、広い世界で様々なジャンルで凌ぎを削れば、ランキングの順位が変動して至極当然なのである。

「負けられない試合がある!」などと川平慈英がいくら叫んでも、負けるときは負ける。その試合は相手にとっても「負けられない試合」なのであり、相手も必死なのである。企業だって同じだろう。シェアナンバーワンを目指すかどうかはともかく、どんな会社も負け組であってもよいとは考えない。企業努力に応じた成果を期するのは当たり前である。会社は数字に一喜一憂する場ではなく、「よい仕事」を実践する場でなければならない。その結果としての数字であり順位であるはずだ。

にもかかわらず、「中国に抜かれた」だの「43年ぶりに3位に転落」だのとがっかりするのはどういうわけか。時事通信が214日に配信した、「日本の名目GDPが世界2位から3位に転落して、中国に2位の座を明け渡した」というニュースのことである。居直るわけではないが、抜かれて何がまずいのか。真にまずいのは、他国にGDPで抜かれたことではなく、デフレ傾向で経済が長期的に低迷している状況であり、政府も国民も方策を講じる熱気に包まれていないことである。


よく考えてみるいい機会だと思う。世界一の人口133千百万の国が、世界10位の人口127百万の国をGDPで上回ったという事実がそこにあるのみ。よくぞこんな小さな国土の日本が43年間もドイツやフランスや英国よりも上位の2位を維持してきたものだ。驚くべきはむしろこちらのほうである。去る22日に更新されたFIFAランキングで日本は過去最高の17位となったが、この数字を誇らしく思うのなら、GDP世界3位を百倍以上誇っていい。いや、GDPなどどうでもいいと割りきっても別にかまわない。

人口相応に世界の10位くらいの経済力で結構、生活の質や幸福度さえ高ければそれでよし、という価値観もありだ。「2位じゃダメなんですか?」と問うた蓮舫女史は、このGDPの結果に対して「2位でなければいけないんですか? 3位じゃダメなんですか?」と言ってくれるだろうか。与謝野氏が記者会見で「中国経済の躍進は隣国として喜ばしい。地域経済の一体的に発展の礎となる」と語ったが、負け惜しみでないことを希望する。

「数字に強くなれ」とか「数字に弱い経営者は失格」などと説教するコンサルタントがいる。数字信奉者のほとんどは、数字以外の諸要素で価値判断ができないから、明々白々の数字に「逃げている」のである。数学は楽しい学問だが、数学と数字は違う。プロセスなどに見向きもせずに、結果としての数字だけに一喜一憂するのは幼いと言うべきだろう。質の話をするたびに、それを数字で示せと驕り高ぶられるのはやるせない。

時代は重厚長大ではなく軽薄短小と言われて久しい。これは、GDPに象徴される量から、数値化不能な質への転換を意味したはず。わかってはいるけれど、頭の中で数量が依然と支配的なのは、質の指標を示す側の想像力不足にほかならない。世界幸福度ランキングや住みやすい街ランキングのような、質の表現を数字に依存しているようでは話にならない。脱ランキング発想して初めて見えてくるものを探求せねばならないのだ。

検定流行現象

いろんな出版社が読書人に向けた無料の小冊子を発行している。ずっと以前から岩波の『図書』や講談社の『本』や筑摩書房の『ちくま』などを愛読している。書店のPRコーナーなどに置いてあって、お持ち帰り自由だ。先日、いつもの書店で手に取って立ち去ろうとしたら、棚の下段にずらりと並んだ検定の案内パンフレットが目に止まった。適当に持ち帰ったものが手元にある。

日本仏像検定(第1回)
「立ち止まって、仏像を見てみると、新しい発見がありました。」

日本さかな検定(第2回)
「さかなの国、ニッポンの検定」

家庭菜園検定(第3回)
「めざせ! 野菜づくりの達人」

インドネシア検定(第1回、ASEAN検定シリーズの一つ。他に第2回タイ検定、第1回ベトナム検定がある)

会議力検定(第1回、正式名「会議エキスパート認定試験」)
「乗り遅れるな。10万人の会議革命。」

キャッチフレーズらしき文言を付け足しておいた。いやはや、「検定」と入力してツールバーをクリックすれば、現在わが国で実施されている検定が果てしなく登場するに違いない。しかし、敢えて検索しないでおこう。検定流行現象を語るのに上記の5種類もあれば十分である。

なかでも「会議力検定」に注目だ。パンフレットの中面を開けば「会議が変われば、日本が変わる。」と書いてある。そして、本文の末尾には「あなたから、変わりませんか?」の呼び掛け。いったい何から変え始めればいいのか混乱してしまう。「人が変わる→会議が変わる→日本が変わる」という流れだろうか。大仰に日本を変える話にまで発展させることはないと思う。もし「人が変われば会議が変わる」なら「人間力検定」が先だろう。


人間力検定では、いったい誰が出題して誰が採点することになるのか。「人間力有段者」か。そこらの胡散臭いマナー講師にだけは評価されたくない。冗談はさておき、人間力を検定するような問題作成も採点もできるはずがないのである。同様に、会議力も、それが「コミュニケーション力」の評価であるならば、できそうもないのである。パンフレットの別の箇所にちゃんと「会議力=コミュニケーション力」と書いてある。このイコールが曲者だ。なぜなら、会議は上手だが、コミュニケーションが下手という手合いも大勢いるからである。どう考えても、「コミュニケーション力⊃会議力」という関係が正しいと思うが、どうだろう。

パンフレットに書いてある「人と人が向かい合い、何かを決める、アイデアを出す。」ということを実践しようと思えば、会議のファシリテーション・ノウハウを学ぶ必要などない。ただひたすら、そのように毎日の人間関係を生き仕事に臨めば済むことだ。「あなたから、変わりませんか?」という呼び掛けがホンネなら、会議の上達の前に、行き詰まっている人は自分が真っ先に変わればいい。会議が本番の仕事よりも難しいということなどありえないのだから、ちゃんと仕事をしてコミュニケーションしていれば、会議はうまくいく(それどころか、会議の数を減らすことができる)。

一定の基準さえ設けることができれば、どんな対象も検定として制度化できる。正しい息のしかたを評価する「呼吸検定」や散歩にまつわる薀蓄の力を認定する「散歩検定」もありうる(冗談のつもりが、実在していても何ら不思議がない)。総元締めは「検定力検定」だ。以前、ぼくもディベート検定を手伝わされかけたので、これ以上の主催者批判を控えたい。いや、それどころか、どんな検定でも趣味や学習の動機づけとして試行してみてもいい。

課題はむしろ受験者側にある。そもそも検定というものはことごとく、知識の多寡しか採点できないことを心得ておくべきである。家庭菜園1級や会議力2級が意味するものをよく考えてみるがいい。現実に「できる・できない」とは無関係だ。この国には、無理やり覚えたことを紙の上で再現するのが好きで、それを他者によって採点されることを喜びとする人々が大勢いる。この種の検定が受験勉強の構造と酷似していることを思うだけで、ぼくなどはうんざりしてしまう。社会で重要なのは、自分で出題し自分で白紙に解答を書き自分で評価するという「仕事検定」や「人生検定」である。こちらを忘れてはいけない。

勝って驕らず、負けて倦まず

大学生・社会人のためのディベート団体〈関西ディベート交流協会(KDLA)〉を立ち上げてから20年になる。10年ほど前に後進に運営を譲って名ばかりの顧問に退いていたが、ここ数年間実質的な活動が途絶えていたと知り、それならということで「里帰り」させることになった。任意団体ではあるが、西日本では草分け的存在だし、かつては頻繁にユニークな活動をしていた。この会や研修などでぼくがディベート指導した人たちは千人規模になる。

上級の腕前と認定できるディベーターはそうそう多くはないが、ディベートを審査できる人材を数十人育ててきた。ディベート普及の前に立ちはだかるのは人材難、とりわけ試合経験のある審査員不足だ。審査員さえ揃えば場は作れると考えて、ディベート研修では審査も体験してもらい審査についての話も網羅してきた。こうして、常時20人くらいの審査員が集まる体制を整えている。おもしろいことに、審査員のディベート観や哲学は実に多様である。必然、半数の試合で判定が割れる。

ところで、たいてのスポーツ上達への第一条件は身体能力の高さだろう。けれども、人には好き嫌いがあるので、どんなスポーツでもこなせるという保証はない。同じことがことばについても言える。言語能力が高くても決してオールマイティとはかぎらない。読み書き聴く話すの四つの技能に凸凹があったり、一方通行の弁論は巧みだが、当意即妙を要する議論はお手上げという場合もある。能力以外に適性を配慮する必要があるのだ。つい先週も《向き・不向き》について書いたが、もしかするとこれは能力以上に意味深長な成功要因になるのかもしれない。


知識・論理・言語が三拍子揃っていても、ディベートに向かない人がいる。ディベートは体操やフィギュアスケートなどと同じく、審査員が評価するゲームである。より正確に言えば、一本勝ちのない柔道、ノックアウトのないボクシングに近い。つまり、当事者どうしで決着がつかず勝敗を第三者の判定に委ねるのである。当然、ディベーターはディベートが審査員によって評価され勝敗を判定されることを承知して参加している。

競技後にあの採点は変だとか解せないだとか公言してはいけない。判定を不服とする性向がある人は、ディベート大会に出場すべきではないのだ。また、審査員が同僚の審査員の採点を非難したり異議を申し立てたりするのもご法度である。クレーマーの癖が抜けないようなら、不向きだと悟って出場も審査も諦めるべきである。「審査員の見方がおかしい」と捨てぜりふを言うディベーターがよくいるが、後の祭りの文句を垂れるなら、見方のおかしい審査員から一票でも取る工夫をすべきだろう。

悔しがる敗者を見て勝者の前頭葉にどんな変化が起こるかという実験があった。たしか、自己愛の強い勝者ほど変化が大きい、つまり強い快感を覚えるという結果だったと思う。共感と逆の作用なので「反共感」と呼ばれるらしい。だが、試合が終わり余韻が醒めてからの表彰式で勝者がガッツポーズをしてもさほど気にならない。そのときのガッツポーズを驕り高ぶりと見る向きは少ない。

これとは逆に、惨めな敗者を睨みつけてガッツポーズするのはいただけない。これは何も相撲や「道」としてのスポーツにかぎった話ではなく、すべてのスポーツ、そしてディベートや将棋・チェスのような知の競技にも当てはまる。勝利快感をあらわにする勝者ほど、敗北を喫すれば人一倍の不快感を募らせる。そして、ディベートにおいても、勝利しておごり高ぶるディベーターほど、負けると文句を言う傾向が強い。けれども、文句を言ってどうなるものでもない。負けた時こそまずたゆまずでなければならない。つまらぬ擬似プライドをさっさと捨てればよろしい。

道徳とマニュアルと鞭

堅苦しいことや押し付けがましいことが苦手である。だから、堅苦しい式次第の会合から足が遠のくし、押し付けがましい話ばかりの講演にも行かない。義理があっても立てない。ついでながら、押し付けがましい料理を堅苦しい雰囲気の店で食べるのはものすごく苦手である。それ以上に苦手なのが、堅苦しくて押し付けがましい道徳である。ぼく自身は「控え目な道徳」のよき実践者であると自覚しているが、いくばくかの常識さえ備えていれば、わざわざ道徳に出しゃばってもらう必要はない。

しかし、人間というものは必ずしも性善ではなく、都合によっては性悪的に立ち居振舞う。それゆえに、暴風雨の日に安全心得を強く促すように、非行や非情がはびこる時代には道徳に目を向けさせる動きが強まる。控え目であることが持ち味の道徳に、肩肘張った硬派な役割を担わせるようになるのである。本来常識と道徳は同じものではない。だが、非常識と非道徳はよく似た性質を帯びてくる。

誤解を恐れずに極言すると、道徳が声高に叫ばれるときはだいたい情けない時代になっているものだ。誰もが人間関係のルールを守り組織や社会の規範を常識的に保持していれば、道徳が頻繁に出る幕はない。嘘をつくな、約束を守れとダメな大人が躾けられ、まともな大人も「挨拶と感謝の意」をつねに強要されている。実に情けない光景ではないか。道徳は隠然いんぜん的な存在である時にもっとも効力を発揮していると思う。


たいていのルールや規範は常識や共通感覚で十分に遵守できる。しかし、言わずもがなの道徳訓を垂れなければならない時がある。常識と共通感覚によって理性的に諭しても、うんともすんとも反応せず、相変わらず襟を正さない場合である。いっそのこと反社会的行動にまで至ってくれれば、道徳よりもはるかに強制力のある法によって裁くことができるのだが、そこまで罪が重くも深くもない。

常識不足と法律違反の中間にあり、何度注意しても直らず、かと言って処罰できない所業に対して道徳が出動する。多くの職場でこのような困った所業が当たり前になってきている。たとえば「相手がわかっていると思って、わざわざ確認しなかった」とか、「誰も何も言わなかったので先例に従った」とか……。良識を欠いたというだけで片付けられず、また大失態と烙印も押せないもどかしさが襲ってくる。

このような状況で顔を出す道徳は、ただ堅苦しくて押し付けがましいだけのお説教にすぎない。「相手の立場に立とう」や「そのつど臨機応変に考えよう」などのステレオタイプな道徳訓で鼓舞しておしまいになってしまうのである。常識を働かせよとか道徳心を持てとか言っても、問題は解決しない。方法なくして問題解決はありえない。しかも、精神的なものではなく、具体的で誰が試みてもうまくいく方法が望ましい。それって、結局マニュアル? いかにも! ああ、情けない。常識の範囲でできることを怠ると、職場はマニュアル化を加速させ、それでもうまくいかなくなるとステレオタイプな道徳、それでもまだダメなら法という鞭が唸る。当たり前のことを当たり前のようにしていれば、マニュアルも道徳も鞭もいらない。

ディベートセンスのない困った人たち

「どっちもどっちだ」という言い回しをあまり好まないが、こう表現するしかないという結論に達した。嘆かわしい失言とそれに対する季節外れのような攻撃、どっちもどっちである。

柳田稔は「法相は二つのフレーズさえ覚えておけばいい」と支持者を前にして言い放った。二つのフレーズで国会での答弁を切り抜けることができると種明かしをしたものだ。その二つのフレーズは、政策論争の場には似つかわしくなく稚拙であった。おそらく学生たちが練習する教育ディベートの議論としても成り立たないレベルである。答えが分からくても切り抜けられると彼が言ったフレーズは次の二つである。

 個別の事案については答えを差し控える。
2   法と証拠に基づいて適切にやっている。

この話を聞いて、ぼくは冗談だろうと思ったが、実際に過去のビデオを見たら、更迭された元法相はこれらのフレーズを答弁で用いて切り抜けていた。この二つが答弁必勝法だとは呆れるばかり。と同時に、この逃げ口上を追い詰めることもできない尋問者も情けないかぎりである。失言・無責任・国会冒涜を非難する前に、尋問の甘さを悔い自戒すべきである。

ディベートの反対尋問にも、相手の質問を切り抜けるいくつかのテクニックがある。たとえば初心者向けの一例として、イエスかノーかの返答に困ったら、ひとまずノーと答えよというのがある。これに対して初心者の相手が「なぜノーか」と尋ねてきたら、「ノーに論拠などない」と答えておく。さらに相手が「それはおかしい」と反発してきたら、「何がおかしいのか教えてほしい」と攻守逆転させる。うまくいくかどうかは別として、初心者どうしならたいていペースを握れる。


上記のテクニックはれっきとした詭弁術である。こんなテクニックをぼくは決して本気で教えているのではなく、半分ギャグのつもり。けれども、意表を衝かれた質問に対して苦しまぎれの振る舞いを見せるわけにはいかない。プロフェッショナルと言えども、どんな質問にでも臨機応変に即答できるわけではないのである。ゆえに、答弁者にとって何らかの遁辞とんじは不可避である。その遁辞を尋問者は即時にその場で捉えて弁明させねばならない。後日になってから後援会での暴露に怒り心頭に発しているのはタイミング外れと言わざるをえない。

もう一度二つのフレーズを見てみよう。「個別の事案」について語らなくていったい何を語ると言うのだ。個別の代わりに、一般的で複合的な事案なら答えを出すのか。一般的で複合的とは普遍的ということか、それとも抽象的ということか。たとえば国防の場合、「尖閣」そのものは語らないが、「領土問題」については答えてもいいということか。こんなふうに詰めていけば、いくらでも尻尾をつかめたが、尋問者はまんまと逃がしてしまったようだ。二つ目の「法と証拠に基づいて適切にやっている」については、「適切に」を争点にして掘り下げる。法と証拠を追いかけるといくらでもはぐらかしが効きそうである。

個人的には国民がなめられたとぼくは思わない。なめられたのは野党の論争能力と反対尋問技術である。ゆえに野党は激怒するのだが、ならばあの程度の答弁なら百発百中で崩してもらわねば困る。ところで、元法相は政界引退後しばらくして自伝の中で告白しておけば笑い話で済んだだろう。現役中にギャグっぽく言ってのけては引責辞任も免れない。ぼくなら問責されないが、大臣には立場というものがある。お偉い方々は「人間は地位が高くなるほど、足元が滑りやすくなる」というタキトゥスのことばを噛みしめておくべきだろう。ついでに「口が滑ると足元が滑る」も覚えておくのがいい。