解決策を講じるのがプロの仕事

すべての職業のすべての仕事に当てはまる話でもないし、少々極論めくかもしれない。来週の金曜日に「仕事の手法」について私塾で講義する。テキストのプロローグで次のような一節を書いておいた。

仕事の振りをする、仕事をした気になる―これほど生産性の悪い態度・空気はない。「原因を分析」してほっと一安心しているから、官僚の仕事はいつまでたってもよくならないのだ。仕事の真価は「解決策を講じること」にある。

かねてから、仕事における本分は、調査よりも解決に、情報よりも提案に、ひいては分析よりも創造にあると考えてきた。もちろん、よく調査をしなければ解決策が出せないことも、情報収集なくして新しい提案ができないことも、分析力に基づかなければ創造もままならぬことはわかっている。わかったうえで敢えて指摘しておきたい。調査、情報収集、分析だけで仕事が終わった気になっている人々がいかに多いことか。

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ずいぶん前にある調査結果が新聞で発表された。「設立10年未満の会社に倒産が多い」という大手銀行の発表である。時間と費用をかけて調べたものだが、「わざわざ調査したのか?」と記事をにらむ自分の目を疑った。

世の中にはこんなことすら調べないとわからない連中がいるのである。昨今企業寿命が縮まっているだの、かつての7年が今では1年というドッグイヤー説だのがはびこっているのは知っている。それでもなお、創業して10年未満の企業と10年以上存続した企業を比較してみれば、後者に安定感があるのは当たり前だろう。ぼくのオフィス近辺の居酒屋やレストランの新陳代謝は驚くべきものだが、店じまい組は開店3年以内に集中し、何とか10年以上続いている店は潰れずに頑張っている。

「設立10年未満の会社に倒産が多い」というありきたりの結論に異論はない。わざわざ調査という、ほぼ無意味な仕事をしたことに呆れ果てているのだ。いや、譲歩して調査したこともオーケーとしよう。だから、どうすればいいのだ? 何でもいいからヒントの一つでも示唆したらどうなんだ? と、言いっ放しを咎めたくもなる。創業してから10年以内に会社を潰さない解決策を示してこそ、仕事が完結するのではないか。

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「競合他社はこういう取り組みをしている」「中間管理職に問題がある」「この街の景観はイマイチだ」「新たな市場にアプローチしてみよう」……このあたりから出発するのを否定はしない。仕事の前段階に調査や情報収集や分析を置くのは常套手段である。だが、ここまでが主たる仕事と化し、解決策を講じる仕事が付け足しになってしまっている。

診断上手の処方下手という医者は困る。設計上手の建築下手も勘弁願いたい。線路抜群で車輌お粗末という鉄道も遠慮する。仕事の真価は、最終顧客の満足、すなわち顧客が自ら解決できないことを見事に解決してあげることにある。それでこそプロの仕事だ。 

前提から結論を導く

「論理的思考(ロジカルシンキング)」と「ロジカルコミュニケーション」という二つの研修はぼくの定番リストに入っている。いずれも研修冒頭で気を遣う。論理は重要なヒューマンスキルであるが、万能薬と理解されては困る。ぼくには「発想(ひらめき)」をテーマにした別の研修もあり、論理的思考と創造的思考のあいだに相反するものがあることもわかっている。

日頃安易に「筋が通っている」という意味で使っているが、「論理的」ということばはなかなかの難物だ。論理はもともと学問用語で、「ある前提から蓋然性十分な結論を導くときの考え方の筋道」である。論理学入門の本を手にしてかじろうとしても、こんな文章に出合って愕然、読むのを放棄したくなるだろう。前提と結論、それに蓋然性をわかりやすく説明してみよう。

コンクリートの床がある。
きみは右手に生卵を持っている。

この二つの文章のどちらにも「論理的」というラベルを貼ることはできない。証明さえできれば、それぞれの文章は事実なり証拠と呼ぶことができる。論理とは無関係という意味で、「無論理的」と呼んでもいい。ちなみに、ややこしい話だが、無論理的と非論理的は違う。

きみが右手に持っている生卵をコンクリートの床に落とせば(前提)、割れるだろう(結論)。

日常感覚ではこれで一応筋が通っていて、「論理的」と言える。前提と結論のあいだに筋道があり、納得できる。「だろう」というのが蓋然性で、「実際におこりうる確率」を表している。「十中八九割れる」でもいいし、自信があれば「間違いなく割れる」と結論づけてもいい。蓋然性とは、前提から結論が導かれる確かさの度合いである。

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上記の文章、正確に言えば、言及不足だ。前提が不十分なのである。日本社会のように、「人はみな同じ」と考える同質性が高い風土では、わざわざ「生卵は壊れやすい」と「コンクリートの床は硬い」という説明をしない傾向がある。しかし、論理が生まれた背景には「人はみな違う」という異質性があるので、誰にでも明快にわかるよう「ことごとく」説明しようと試みる。「わかってる。もういい、みなまで言うな」という発想は、論理思考にとっては致命的な欠点になる。

生卵は壊れやすい(前提)。コンクリートの床は硬い(前提2)。ゆえに、きみが右手に持っている生卵を落とせば、割れるだろう(結論)。

面倒臭いが、このように推論してはじめて結論の蓋然性が十分に定まってくるのである。

類例を紹介しておこう。ある論理学の本に「よく吠える犬は弱虫だ(前提)。うちのポチはよく吠える(前提2)。ゆえにうちのポチは弱虫だ(結論)」という文があった。演繹推理と呼ばれ、三段論法で論証されている。しかし、これでは不十分なのである。なぜか? 前提2で「ポチ」を勝手に「犬」と決めているからである。もし亭主がポチという名前なら、この文は論理的に成立しない。

余談になるが、ことばの省略と論理・非論理は密接な関係にある。「あの店はうまい」と誰かが言うと、「店は食べられないぞ」と誰かがツッコミを入れる。実は、このツッコミはお笑いの専売特許ではなく、非論理をとがめる検証の役割を果たしている。「あの店は(調理して客に出している料理が)うまい」で納得。この例からもわかるように、文章表現というものはおおむね、説明を抜くと創造的になり、説明をはさんでやると論理的になる。

連なりと繋がり

情報・知識・経験などは同類項でつらなる一方で、まったく別の群とつながっている。この「連繋」に対して、あるときは偶然を感じ、またあるときは必然を感じる。

916日に私塾があった。講座の「ことばのゲーム」で出題する難解な漢字を、その数日前に選定していた。食べ物一般や野菜・果物のセクションの問題作成時に、「りんご、ぶどう、そば」を外し、「こんにゃく」は残した。このゲームは6班の対抗でおこない、全体の正答率はだいたい60パーセントだったろうか。

塾の終了後、塾生が経営する焼肉店で有志15名による懇親会を開いた。食事も半ば過ぎた頃からまたまたお遊び演習タイム。一切メモせずに記憶だけで47都道府県を一人一つずつ告げていく。既出のものをダブってはいけない。しかし、1015くらい出てくると、もはやどの都道府県がすでにコールされたのか記憶が薄れてくる。ダブった時点でアウト、また10秒以内に答えられなければアウト。

一人ずつ脱落していき、メンバーは四人、三人にまで減っていったが、3県を残して全員アウトとなった。そこで、ヒントを与えながら敗者復活戦を続行し、どうにかこうにか47都道府県がすべて出揃った。最後にコールされたのは山形県であった。

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翌日からぼくは兵庫県で23日の研修に入った。最近体重が増え気味なので、ここ二、三週間は朝食はジュースだけにしていた。駅近くのコンビニで「りんごジュース」を買ってホテルの冷蔵庫に入れた。出題から外れた「りんご」の「ご」の漢字が気になって紙パックの容器を見つめるも、アップルとは書いてあっても、漢字は見当たらない。

この週、テレビで久々にダニエル・カールを見かけた。流暢な山形弁を喋るタレントである。また、「噛む」というそばの新商品をコマーシャルでも見た。

921日伊丹から山形へ向かった。翌22日は、美容業経営者を対象とした、ひらめき脳をつくるセミナーである。偶然だが、セミナーの演習に「山のつく都道府県をすべて検索しなさい」というのがあり、日本地図の北から順番に、山形、富山、山梨、和歌山、岡山、山口と6つ見つければ正解。さすがにご当地の方々は山形をもらすことはない。

セミナー終了後、お昼に「こんにゃく番所」でこんにゃく懐石をご馳走になった。読めることができても、「こんにゃく」を漢字で書くのはたやすくない。「蒟蒻」をしっかりアタマに叩き込んだ。空港へ送っていただく途中、天童に寄りそばを食べることになった。ここで「蕎麦」という漢字を確認。出てきたざるそばは、十割にもかかわらず、すするのではなく「噛む」がぴったりの歯ごたえであった。

そばを食べながら聞き耳を立てていると、店主がハングル語を話している……。しばらくそう思っていた。しかし、ご当地ことばであった。地元の人どうしの山形弁がさっぱりわからない。ダニエルがすごいと思った。

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伊丹に着いて帰阪。休日の翌日の昼にテレビをつけたら、みのもんた司会で難解な漢字の覚え方というコーナーがあった。憂鬱を皮切りに、りんご=林檎、ぶどう=葡萄などの書き方を語呂合わせで簡単に覚えられるというのだ。一応マスターした。今は語呂合わせの文言そのものを覚えていない。

さらに昨日の昼。お手頃なフレンチを食べに出掛けた。値段は手頃だが、前菜、スープ、パン、主菜、デザート、コーヒーがちゃんとした味で勢揃い。主菜はなんと山形産三元豚(さんげんとん)であった。

山形づくしや漢字づくしをこじつけているのではない。山形や漢字というアンテナがここ二週間ほど他の情報群よりもピーンと立っていた結果の連なりと繋がりである。情報のネットワークはかくのごとく広がっていくのを身をもって体験した次第だ。こんなおいしい情報の数珠つなぎをしないで放置しておくのはもったいない。

シニフィアンとシニフィエ

難解なソシュール言語学の話をするつもりはない。ただ、マーケティングにおける記号(ひいてはネーミングやブランド)の意味について一考してみようと思う。

シニフィアンとシニフィエ? 響きは、児童文学に出てくる少年少女の名前みたいだ。実は、そうではない。シニフィアンとは記号表現、シニフィエとは記号内容のことであり、それぞれ専門的には「能記」、「所記」と呼ばれる。

ぼくはメガネをかけている。このメガネというものは、(1) 聴覚がとらえる「メ、ガ、ネ」という音(シニフィアン)と、(2) 「眼鏡」という概念(シニフィエ)の二つが一つの記号となって、実際に手に取ったり掛けたりする「👓(メガネ)」を表わしている。

身近なことばに置き換えると、ことばとモノが表裏一体ということ。「」という実体のモノを、日本語では「デ、ン、ワ」と発音することばで、英語では “telephone”(テレフォン)と発音することばで、それぞれ名付けている。元来、モノとしての「」と「デンワ」または「テレフォン」との間には、こうでなければいけないという理由などなかったはずだ。それでも長い歴史の中で繰り返され、さも必然であるかのようにモノに音声が染み渡っている。

御法川みのりかわ法男のりおと聞いて、その人物の顔が浮かばなかったらシニフィアンとシニフィエが表裏一体になっていない。顔をモノと言っては失礼だが、この場合、ことばからモノを参照できないのだ。「この名前の人、だ~あれ? えっ、みのもんた!? な~んだ」。これでやっと表裏一体になる。モノとことば、つまり人と名、場所と地名、商品とネーム、企業と社名などは、シニフィアンとシニフィエが一つの記号を醸し出している。

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もともとは必然ではなかったのに、繰り返し使っているうちに内容と表現がしっくり融合してくる。いま椅子に座っているが、この「イ、ス」という音と物体の一体感はどうだ。とてもよくなじんでいる。「尻置き」でも「腰休め」でも「スワール」でも違和感がある。

使いこんでいるうちに名が体を表わすようになる成功パターンがある一方で、繰り返し使っても何年経ってもしっくりこない場合がある。マーケティング的にはネーミングやブランディングの失敗ということだ。男性かつらに「バレーヌ」や「ズレニクイーノ」はダメだろうし、「ゲリラ特攻隊」という整腸剤は遊びすぎだろうし、「酔ったついでに・・・」という焼酎はいろんな意味でよろしくない。

ユニークな記号が注意を喚起し訴求力をもつのは事実だが、同時にネーミングには共通DNAみたいなものがあって、そこから逸脱すると受け入れてもらえなくなるのだ。

シニフィエに対してこれ以上ないシニフィアンを探し当てる。これがコンセプトの言語化であり、商品のネーミングであり、メッセージのコピー表現なのである。とらわれぬ発想、すぐれた語感、そして膨大な語彙がこの仕事のバックボーンになる。 

最多質問グランプリ

ざくっと数えてみたら、これまで実施した研修・セミナーは1,500回以上、講演や勉強会を含めると2.000回を超えていた。自慢しているのではない。しかし、ささやかな自信にはなっている。これらの体験から導けるぼくなりのセオリーがあるとすれば、たとえそれが世間の標準と異なっていても、少しは真理の一部を照射しているかもしれないという自信である。

二十代から四十代の人々が抱えているヒューマンスキルの悩みはいろいろだ。悩みと直結するかどうかはわからないが、もっともよく耳にした質問。それは、「どうすれば自分の考えていることをうまく伝えることができるのか?である。

この質問は、ここ20年間ぼくが立ててきた仮説――「二大ヒューマンスキルとは思考とコミュニケーション」――と重なる。コミュニケーションにはさまざまな含みがあるが、ここでは「伝える」に重きを置いている。コミュニケーションのラテン語の原義「意味の共有化」(考えていることを他人にもわかってもらうこと)に近い。

よく考えよく伝える。多くの人がこの壁にぶつかっており、なかなか突破口を見つけるに至っていないのである。どうすればいいか? どうしてあげればいいか?

結論から言えば、一生かかっても突破口は見つからない。思考とコミュニケーションに到達点や終着駅などないからである。「昨年よりうまくなった」とか「前回のプレゼンテーション時よりはまし」という実感は持てるだろう。しかし、考えていることを消化不良のまま発話したり、核心部分の言い残しがあったり、適切な表現が見つからないまま思いと裏腹な伝え方をしてしまったり……こんなふうに切歯扼腕するのは常である。いま、勢い余って「せっしやくわん」などという難解な四字熟語を使ったが、あまり適切な伝え方ではないとつくづく思う。

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ともあれ、最高頻度の質問に対して「突破口はない」とは不親切極まりない。そこで、「少しでもうまくなりたい」と言い換えてヒントを示したい。

思考という主観的メッセージをいきなり伝達という客観的表現に変換しようとするから、「考えていることをうまく伝えられない」のだ。したがって、考えていることをいきなり他者に伝える前に、まずもっとも身近なコミュニケーション相手である「自分自身」に伝えてみること。そのためには主観的に考えていることを客観的に再構成して、「思考を明快」にせねばならない。

思考の深さ・浅さではない。明快さである。こっちを押さえれば、それに見合った適切な伝達表現が絞られてくる。あまり上等な比喩でないかもしれないが、「プレゼントの中身と包装・手渡し方」の関係に似ている。プレゼント(=思考)も定まっていないのに、包み紙とリボン(=伝達)の選択に迷うからわけがわからなくなる。贈るべきプレゼントさえ明快に決まれば、大きくはずれた趣向を凝らすことはないだろう。

以上がヒントである。しかしソリューションではない。なぜなら、包み紙とリボンの種類、すなわち表現語彙が少なければ悩みは解消しないからだ。 

遠くの記憶と近くの忘却

五十歳前後になってから記憶が衰えたという話をよく聞く。実は、五十歳という数字に特別な根拠があるわけではなく、これは四十歳前後にも、場合によっては三十歳前後にも当てはまる。どうやら「昔に比べて現在の記憶力が低下してきた」という意味らしい。

考えてみれば当たり前のことである。いつの時代も昨日の情報よりも今日の情報のほうが多く、十年前と現在を比較すれば、情報量の出し入れには天文学的な差がある。仮に記憶力や記憶容量が一定であっても、記憶すべき情報だけは増える。どうしても記憶が情報に追いつかない事態に遭遇する。それゆえに、相対的に衰えた気がするわけだ。

何度も繰り返し見聞したことは記憶域の深いところに入る。だから、十年前や二十年前の思い出はしっかりと刻印されている。ところが、昨日や今日接した初めての情報は記憶域の浅瀬にとどまっている。繰り返しがなければ、すぐに揮発してしまう。

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「昔のことほどよく覚えていて、最近のことはすぐに忘れてしまう」という現象は、どの世代にも共通するものだ。たとえば、時代が「平成」であるとしっかり認識していても、今年が十九年か二十年かをふと失念する。あるいは、何度も通院した医院の名称と場所は覚えているが、何の具合が悪くて今朝この病院へ来たのかを思い出せない。

仕事柄、同年代の友人知人に比較して記憶力はすぐれていると自負するぼくも、数分前に何かしようとしたことをどうしても思い出せないことがよくある。数時間してから、それが「目薬をさす」ことであったと知る。たいていその時点で目薬の必要性はなくなっている。

対策はただ一つである。新しい事柄に出合ったら、その時点ですぐに記憶域の底辺に刷り込むことだ。思い立ったが吉日、すぐにしっかりと記録し記憶する。できればアクションも同時に起こしておく。後回し・先送りは絶対しない。気に入った新聞記事はその場で切り抜く。後で切り抜こうとサボったら、記事の内容を忘れることはもちろん、切り抜こうと思ったことすら忘れてしまう。

記憶と繰り返しの関係は密接だ。繰り返し、すなわち「習慣形成」こそが末永く精度の高い記憶力を維持する絶対法則である。

ズボンのジッパーの閉め忘れなども習慣形成で防げる。トイレの直後、椅子から立ち上がった直後、歩き始めた直後に反射的にベルトのバックルに手をあてがう癖をつける。そしてジッパーのつまみに接するよう小指の先を伸ばす。そこにつまみがあればオーケー、つまみがなければヤバい。他人には、ジッパーをチェックしているようには見えないから好都合である。

但し、言うまでもないことだが、ベルトに手をあてがうのを忘れてしまってはならない。腹部のあたりに手をあてがうことは忘れなかったが、そこにあるべきベルトがなかったというのは論外である。 

玄関力 vs 奥座敷力

ホンネから言えば、最近はやりの「何々りょく」というのは考えものだと思っている。言語の悪しき造作だとも思う。言葉足らずな時の安易な穴埋めであり、説明責任を果たさずに「どうだ!」と言わんばかりの強引さも感じる。

しかしながら、大いなるためらいと罪悪感を押し殺して言ってしまおう。使ってみると、なんとこれが実に便利なのである。ありとあらゆるものと結びついて、あたかもそうであることが必然であるかのように収まってしまうのだ。

「灼熱の日のポカリスウェット力」 「なめらか水性ボールペンの書き味力」 「手さばき鮮やかなマウス力」 「冗談連発のオモロー力」 「ビュッフェスタイル朝食の大食い力」 「強いユーロに両替するたびに痛感する欧米力」……証明はこんなもんでもういいだろう。とにかく、何にでもくっつく万能瞬間接着剤だ。

あまり好ましくないと言いながら、ぼくもその便利さの甘い誘惑に時々落ちてしまう。いけないと思いながら、最近口走ったのが「玄関力」と「奥座敷力」である。くどいが、入り口力と客間力でもオーケーだし、エントランス力とリビングルーム力でもかまわない。

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何が言いたいのか? 来週末の私塾で取り上げるテーマ『情報編集の達人』で、情報は実体に先立つという話をする。具体的な例を挙げると、商品のデザイン・名称は実際の使い勝手や機能に先立ち、社名は事業ドメインに先立ち、自己紹介のしかたは本人の仕事の説明内容に先立つ。落語のマクラはオチよりも先に耳に入り、土用の丑のポスターは実物のうな重よりも先に目に入り、前菜はメインのステーキよりも先に口に入る。

一番の売りでありもっとも訴えたいことは奥座敷に置いてある。しかし、そこに至るまでに最初に玄関を通過せねばならない。玄関は目玉商品ではない。しかし、下駄箱の評価は床の間の評価よりも先に下される。従来から、こういうことに気づいた人々は、「第一印象」や「つかみ」の重要性を強調した。「はじめよければすべてよし」とも言い伝えてきた。

たしかに玄関よりも奥座敷のほうが実力上位だろう。だが、最初の印象がイマイチだったので、慌てて「実力はこんなものではありません」と弁明しても、その実力を認知するところまで来てくれなかったらそれまでだ。知己の関係ならともかく、初対面ともなれば一事が万事がよく起こる。

ここが情報化社会ならではの見え方なのだ。「情報≧実体」。情報という記号の表現と、それが醸し出すコンセプトの関係は神妙である。敢えて超極論するならば、ネーミングが外れれば製品には見向きもしない、一行目でつかみそこねたら本は読んでもらえない、靴が汚れていたら心も汚いと思われてしまう。

早とちりをして、「それなら玄関だけきれいにしておけばいいではないか」というくだらない反論はしないでほしい。それは論外なのだ。せっかくすばらしい奥座敷力があるのなら、それ相応に玄関力も磨こうという意味である。

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話はここで終わりたいが、終わらない。玄関力と奥座敷力の両方に自信があっても、「いい玄関ですねぇ、最高ですねぇ」とだけ褒めて帰ってしまうのが今時のユーザーだ。加速する情報化社会は想像を絶するほどの選択肢で溢れている。しかし、心配無用、料金無料。ぼくには温めてきた秘策がある。今日のブログを最後までお読みになった人にプレゼントしたい。

それは玄関と奥座敷を最初から一緒にしておくという奇策である。これなら誘導するのにもたつかなくていいし、「玄関開けたらすぐ奥座敷」で話が早い。名づけて「玄関奥座敷力」。ほら、うまくくっついた。  

相手心理を読む交渉ゲーム

二十代前半に将棋に嵌まったことがある。自分がどう指すかという決断よりも、相手がどう指すかという読みが優先することを学んだ。当たり前だけれど、これがなかなか簡単ではない。読みはついつい自分の手を中心に組み立ててしまうからである。

 「彼を知り己を知れば百戦危うからず」はご存知の孫子の兵法だ。相手が先である。「敵の手の内を熟読せよ。敵は私たちの味方である」(エドモンド・バーグ)は、敵が貴重な情報源であることを示唆している。

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628日の私塾金澤講座のテーマは『PR戦略とネゴシエーション』。交渉の基本は敵の読み方。そこで、「ジャンケンのジレンマ」という自作の交渉ゲームを演習に取り上げた。これに似てはいるが、もっと戦略的駆け引きのいる、ぼくが自作したジャンケンゲームを紹介しよう。

1.パーがグーに、グーがチョキに、チョキがパーにそれぞれ勝つのはジャンケンと同じだが、パーで勝つと5点、チョキで勝つと2点、グーで勝つと1点と点数が変わる。これにより、リスクとリターンの含みが生まれ、通常のジャンケン以上に読みが入ることになる。

2.おあいこは引き分けではない。勝ち負けが決着した点数を2倍にする。つまり、おあいこ1回のあとにパーで勝つと10点、チョキで勝つと4点、グーで勝つと2点になるのだ。おあいこが2回になると3倍、3回になると4倍、4回になると5倍の点数になる。なお、これまでにぼくが目撃したおあいこ最高記録は14回である。

3.野球と同じようにイニングから9イニングまでジャンケンする。合計点の多い方が勝ちである。おあいこも含めて勝敗が決着した点数を各イニング欄に書き込む。つねに一方は0点になる。

4.途中のイニングの前に、負けている方が「ダブル」と「トリプル」をそれぞれ1回コールする権利を行使できる。たとえば、6イニング終了時点で、146で負けているとする。チョキ3回で勝利しても6点だから追いつかない。残り3イニングで逆転するには、おあいこを重ねるしかないのだ。この「ダブル」と「トリプル」は、いきなり2倍のおあいこ、3倍のおあいこ状態でジャンケンする権利である。仮に7イニング目にうまく逆転したら、今度は相手側が「ダブル」「トリプル」をコールする権利をもつ。

5.イニング制ではなく、先に合計30点到達で勝利という方法もある。おあいこで何十倍にも点数が膨らむ可能性はあるが、逆転無理と判断したらギブアップしてもよい。

6.「最初はグー」という調子合わせはなし。お互いの呼吸を合わせるのが望ましい。うまくいかないのなら、どちらか一方が調子合わせの権利をもつようにする。

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このゲームでは、イニング目からおもしろい現象が起こる。グーを出して相手にいきなり5点を献上したくないという心理が働く。ゆえに、チョキかパーになるケースが90%以上になるのだ。チョキはリスクなしでリターンが中、パーは中リスクでリターン大。性格が出る。イニング目からおあいこが連続することもある。

1イニング目の結果によってイニング目の戦術が決まる。その時々の点差によってグーの出番も増える。強気だった方が弱気になり、負けている側が窮鼠になって猫に噛みつき大逆転ということも。いつのまにか、自分がどうするかではなく、相手がどう来るかを読んでいる自分に気づくだろう。

さあ、紙とペンと相手を用意して一度試してみよう。 

アイデアを探るツール~入門編

「お客さま、新大阪ですよ。」 乗務員さんの声がよく聞き取れなかった。「えっ、何とおっしゃいました?」 「あのう、新大阪に到着しています。」

駅に停車しているのは、窓の外を見ていたのでわかっている。ぼくはその駅をてっきり京都だと思っていて、微動だにしていなかった。今日の午後、東京からの下りの新幹線のぞみの車中だ。名古屋を出たのは覚えているが、完全に京都が抜けている。熟睡していたのではない。熟考していたのだ。集中していて完全に我を忘れていた。新大阪止まりの列車だったので、乗り過ごさずに済んだ。

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こんなことはめったにない。複雑思考のときほど起こらない。複雑すぎると意識が散漫になって集中できなくなる。ネタが少なくて単純思考しているときほど案外のめり込む。今日は「座標軸思考」をしていた。AとBという二項対立、XとYという別の二項対立を単純に組み合わせるだけだ。

A→有言」とすると「B→不言」。「X→実行」とすると「Y→不実行」。AB軸をタテに、XY軸をヨコに十字を描けば、4つの組み合わせができる。すなわち、有言実行、有言不実行、不言実行、不言不実行。それぞれについて、真面目にかつ不真面目に思いを巡らしていたら、京都駅が抜けるほど深いところに入っていたのである。ざっと次のように……。

ちょっとひねってみたい気はするけれど、やっぱり有言実行が一番でしかたがないか。道徳論者みたいかな? でも、ことばというシナリオにしたがってアクションを起こしているのだから、他者は理解しやすいだろう。午前11時にうかがいますと約束して、その時間に来るなら、ひとまずいい人と評価できる……。

有言不実行はよくやり玉にあがる。「口ばっかり」と呆れられる。周囲にも結構いるもんだ。みんな6時に来てくれよと言っておきながら、自分だけ来ないヤツ、いるなあ。でも、評論家のほとんどはこれで生計を立てているのだからおいしい生き方かもしれん……。

不言実行。「男は黙って何々」という逞しさがあるが、思いつきやデタラメの可能性もある。約束もしていないのに、突然やって来られては困る。無断拝借というのもこの部類か。何も言わずに事を運ぶのだから、危ない匂いもする……。

約束もしないし、やって来ることもない。可否の判断とは無縁か。ちょっと待てよ、何も言わず何もしないという不言不実行は、ミスをすると罰せられる職業においては完璧な方法論ではないか。いや、死人だって何も言わず何もしないぞ。あ、そうか、不言不実行な仕事ぶりの連中は「生けるしかばね」なんだ……。

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とまあ、こんなふうに考えたわけである。アイデアが出るとはかぎらないが、アイデアマンを志願するビギナーにとっては思考習慣につながるはずだ。ABXYのそれぞれに対立または並立するキーワードを入れるだけ。就寝前にこれをやると眠れなくなるので注意していただきたい。それと、列車の終着駅周辺に住んでいない人は乗り過ごすことがあるので気をつけたほうがよい。    

「どちらとも言えない」と「わからない」

明日から二日間、行政での「ロジカルシンキング研修」を担当する。研修で使用するテキストの小演習の一つをご紹介しよう。効果的な設問に書き換えるのがこの演習のねらいである。

「あなたはコーヒーをよく飲みますか?」という問いがあり、回答欄が「はい」「いいえ」「どちらとも言えない」の三択になっている。アンケートにはよく「どちらとも言えない」とか「わからない」という、第三の選択肢が設けられているのはご存知の通り。これが問題で、極端な話、半分以上の回答者がこのボックスにチェックを入れたら、集計しても参考材料にならないのだ。

麦焼酎「二階堂」は、ぼくが気に入っているコマーシャルだ。「イエスとノー。その間にはなにもないのだろうか?」 この語りを耳にするたびに、「そんなことはない。何でもあるでしょう」と内言語でつぶやくぼくだ。しかし、こと上記のアンケートに関するかぎり、「はい」と「いいえ」の二者択一にしないと意味がない。もっと言えば、設問も「あなたはコーヒーを一日に3杯以上飲みますか?」と具体的にしたほうがよい。論理思考というのは、現実的には少々ありえなくても、あるいは少々ぎこちなくなっても、「どちらかと言えばイエス」「どちらかと言えばノー」と極論しないと成り立たないことがある。

イエスと答えたら「なぜ?」と、ノーと答えても「なぜ?」と、それぞれ説明を求められる。それが嫌だからイエス・ノーを避ける。「どちらとも言えない」なら説明を免れる。説明の責任から逃げたければ「わからない」がいい。だから、みんな「わからない」で済ませる。

「甲乙つけがたく、五分五分」――実は、この意見こそ、もっとも説明を要するものなのだ。そういう組織風土や社会的風潮をつくらないと、ロジカルシンキングに出番はない。