学び上手と伝え上手

無意識のうちに「知識」ということばを使っている。そして、知識をアタマに入れることを、これまた無意識に「学び」と呼んだりしている。学ぶとはもともと「真似」を基本として習い、教えを受けることだった。プロセスを重視していたはずが、いつの間にか「知識の定着」、つまりインプットに比重が置かれるようになった。現在、一般的には、学びが知識の習得という意味になっているような気がする。

教えを受けるにせよ本を読むにせよ、知は自分のアタマに入る。「知る」という行為はきわめて主体的で個人的だ。ぼくが何かを知り、それを記憶して知識とする過程に他人は介在しないし、とやかく言われることもない。ぼくの得た知識はひとまずぼくのものである。だが、どんなに上手に学んだとしても、知識を誰かと共有しようとしなければ、その知は存在しないに等しい。共有は伝達によって可能になるから、伝えなければ知は不毛に孤立するばかりだ。

高校生だった1960年代の終わりに、情報ということばを初めて知った。知識が「知る」という個人的な行為であるのに対して、情報には「伝え、伝えられる」という前提がある。やがて、情報化の進展にともない、知識ということばの影が薄くなっていった。

ちなみに、「知る」は“know”、その名詞形が“knowledge”(知識)。他方、「伝える」は“inform”、その名詞形が“information”(情報)。動詞“inform”は「inform+人+of+事柄」(人に事柄を伝える)という構文で使われることが多いから、このことばには他者が想定されている。伝達と同時に、共有を目指している。このように解釈して、二十年ほど前から、「知識はストック、情報はフローである」と講演でよく話をしてきた。


情報は空気のようになってしまったのか、調べたわけではないが、情報を含む書名の一般書がめっきり減ってきたような気がする。二十一世紀を前にしてピーター・ドラッカーやダニエル・ベルが知識について語ったとき、それは情報をも取り込んだ、高次の概念として復活した知識だったのだろう。昔の大学教授のように、ノート一冊程度の講義録で一年間持たせるような知識の伝授のしかたでは、おそらく共有化した時点で知は陳腐化しているだろう。

記憶するだけで誰とも知識を共有しようとしない者は「知のマニア」であって、学び上手と呼ぶわけにはいかない。知のマニアとは知の自家消費者のことである。誰にでも薀蓄する者は疎ましい存在と見られるが、学んだきり知らん顔しているよりはうんと上手に学んでいると言えるだろう。学び上手とは、どんなメディアを使ってでも誰かに伝えようとする、お節介な伝道師でもあるのだ。

プラトンが天才的な記憶力の持ち主であったことは明らかだが、彼が利己的な学び手でなかったのは何よりだった。一冊も著さなかった偉大なる師ソクラテスの対話篇や哲学思想は、プラトンなくして人類の知的遺産にはなりえなかった。プラトンはソクラテスに学び、そして学びを広く伝えたのである。イエスと弟子、孔子と弟子の関係にも同様の学習と伝達が機能した。言うまでもなく、誰かに伝えることを目的とした学びは純粋ではない。まず旺盛なる好奇心によって自分のために学ばねばならないだろう。そして、その学びの中に誰かと共有したくなる価値を見い出す。他者に伝えたいという抗しがたい欲求を満たすことによってはじめて、学びは完結するのである。

もしBを望むならAをしなさい

先週、『知はどのように鍛えられるか(1/2)』の中で、「思考が運命を変える」という法則が真理だとしても、思考そのもののありようや鍛え方が難しいという趣旨のことを書いた。また、「グズをなおせば人生はうまくいく」にも両手を挙げて賛成するが、グズを直すのがネックであるという意味のことも付け加えた。

これに対して知人から「反論というわけではないが、全面納得できないので、もう少し説明してもらえればありがたい」という話があった。なるほど、「命題として記述された法則を認めているくせに、その法則には現実味がないぞ」とぼくは言っているのである。

しかし、そんなに変なことだろうか。わかりやすい例を取り上げれば、「丹念に毎日歯の手入れをすれば、虫歯や歯周病は防げる」に対しては、大勢の人々は是の立場を取るだろう。実際ぼくが定期的に通っている歯医者さんもそう言っている。

しかし、この例も、先の二つの例も、実は〈仮言命題〉という類の命題になっている。いずれの命題も、「もしBを望むならAをしなさい」という表現形式に変換できるのである。つまり、「運命を変えたいのなら思考を何とかしなさい」、「人生をうまく送りたいのならグズを直しなさい」、「虫歯や歯周病にかかりたくないのなら、毎日きちんと歯を手入れしなさい」と読み替えることができるのだ。「Aをしなさい、そうすればBが実現する」という文章は、「もしBを望むならAをしなさい」という意味を記述している。


上記の命題が正しいことを論理学的に証明するのはさほど難しくはない。通念に訴える論拠を使えばいいからだ。しかし、現実に実践してみせることは至難の業である。うまく思考すること、グズを直すこと、毎日歯の手入れをすることは、言ってみるほどたやすくはなく、それゆえに目指した願望がなかなか実現しないのである。念のために、もう一つ例を挙げておこう。「NASAの宇宙飛行士になれば、宇宙に行けるチャンスがある」は、「もし宇宙に行きたいのなら、NASAの宇宙飛行士になりなさい」と記述変更できる。望むのは勝手だが、手段が成功する確率が天文学的であることがわかるだろう。

「夢は叶う」などと軽々しく言う教育者がいる。それはそうだろう、「夢なぞ叶わんぞ!」と言ってしまえば、一極集中的な非難を浴びせられるからだ。だが、「夢が叶う」ためには並大抵ではない努力が必要なことを、実はみんなわかっている。具体的な習慣ですら三日坊主になりかねないのに、抽象性の強い努力がほんとうに続けられるのか。教育者たちはこのことについてあまり正直に語らないのである。だから、彼らは努力の部分を安易なハウツーに変えてしまう。「おいしい卵料理を作りたければ、レシピの研究をして毎日挑みなさい」と言わずに、「卵の黄身と卵白を取り出したいのなら、卵を割りなさい」という、ほとんど機械的で努力を要しない命題へとレベルを落として、「できた気」にさせ束の間の満足を与えるのである。

「マナーを向上させたいのなら、マナー教室に通いなさい」などという仮言命題は、ほとんど「トートロジー」という循環論法になっている。マナー教室に通うのにさしたる努力はいらないし、なるほど数回ほど通えば、よほどのバカでもないかぎり、少しはまっとうなマナーを身につけて帰ってくるだろう。「喉が渇いたなら、水を飲みなさい」にかぎりなく近い話だ。これが社会人を対象とした学びの定番になりつつあることを嘆くべきではないか。つまり、本来やさしいことをやさしく学んでいるにすぎないのだ。だから、いつまで経っても一皮剥けるほどの成果を得ることができない。

ぼくの私塾はこうしたトレンドへのアンチテーゼのつもりだ。「もし人間関係を充実させ良き仕事をしたいのなら、思考力と言語力を鍛えなさい」というのがぼくの仮言命題である。そして、思考力と言語力を鍛えるのは他のどんなスキルアップよりもむずかしいことを付け加える。ある意味で、この命題は仮言命題などではなく、「思考力と言語力は人生そのものである」という《定言命題》と言ってもいいだろう。考えもせず対話もしない人間は、地球上の全生命体のうちでもっともひ弱な存在になり果てる。 

「最初はノー」

とてもおもしろい資料が出てきた。B5判用紙が30枚。両面印刷なのでノンブルは60ページまで付いている。各ページの文字数が40字×43行だから合計1,720字。相当な分量の資料になる。文庫本なら一冊に相当するかもしれない。

今から13年前(当時46歳)の講演録だ。タイトルは『ディベートから何を学ぶか』。主催・対象ともに行政の職員組合のメンバーで、12時間半のセミナーを3回シリーズでおこなった講演とディベート実習の模様を収録している。懐かしさも手伝ってざっと目を通した。今でこそ年季の入った緩急自在な話し方をするようになったが、当時は終始早口で、特にディベートをテーマにした話の場合は、初心者が戸惑うほど流暢だったのではないかと思う。

懐かしさ以上にあらためて驚嘆したのは、その講演を収録したテープ起こしを担当したF氏の尋常ならぬ執念である。出版するわけでもなく、学んだ仲間十数名で共有するだけの資料づくりに、よくもこれだけのエネルギーを費やしたものだと感じ入る。ぼくの話は筋が通っているとは思うが、近接領域へとよく脱線するし、話がどんどん膨らむし、しかもテーマがディベートだけに、難解な用語やカタカナも頻出する。再生と巻き戻しを繰り返してテープレコーダーを操作しては一時停止し、一言一句文章化していったF氏の姿が浮かんでくる。


ディベートにつきものの反対尋問、とりわけイエスとノーで問うことの意味については第2 回の講演で説明している。しかし、もう一点、かつてのディベート研修では必ず冒頭のほうで取り上げていた金言が漏れている。今となっては出典がわからないのだが、文言だけはよく覚えている。「あなたの意に反して即断を迫られた時にはノーと答えよ。イエスをノーに変えるよりもノーをイエスに変えるほうがたやすいから」というのがそれだ。「迷ったらノー」が原則で、ノーからイエスへの変更に対して交渉相手は文句は言わないが、イエスと言っておきながら土壇場でノーに変えるのは潔くなく、それどころか、相手の反感を買うという教えである。ジャンケンの掛け合いは「最初はグー」だが、対話や交渉のスタンスでは「最初はノー」ということになる。

ディベートの肯定側と否定側のように、あるテーマを巡って対立している二人が対話を始める時、心の中では「最初はノー」を唱えておくのがいい。ディベートの対立図式は終始変わらないが、日々の対話ではノーから始めて徐々に接合点を見つけ、やがて各論的にイエスにシフトしながら、理想的には少しでもコンセンサス部分を増やしていく。物分かりのいい「最初はイエス」でお互い受容し共感し合っても、検証不十分のツケは後で回ってくる。最初はいいが後々になってもつれてくると事態の収拾がつかなくなる。

意気投合というようなバラ色の出発をしてしまうと、小さな違和感一つが大きなひび割れの要因になってくる。「一週間で納品してくれるか?」と聞かれ、仕事欲しさのあまり「イエス」と慌てて答え、納品のその日になってから「すみません、あと一日いただきたいのですが」と申し出たら、発注者は心中穏やかではない。「君ができると言ったから頼んだのだぞ!」と叱責される。安易にイエスから入ってノーで風呂敷を畳むことはできないのだ。

「結婚してくれる?」と男がプロポーズし、女が「はい、喜んで」と答える。一週間後、「ごめん、やっぱりノー」と変更したら、これは事件である。もしかすると、本物の事件になるかもしれない。反対に、ずっとノーを言い続けた女が最後の最後にイエスに転じたら、もう一生涯男を尻に敷くことができるだろう。ぼくの場合、ノーから入って仕事の機会を失ったこともあるが、最初に「できないことをできない」と明言する誠意によって圧倒的に機会に恵まれた。但し、「最初はノー」はあくまでも原則論であって、昨今は一度のノーで「あ、そうですか」で終わりになることも多々あるから、杓子定規は考えものである。 

知はどのように鍛えられるか(2/2)

言うまでもなく、知とは「既知」である。既知によって「未知」に対処する。たとえば、ぼくたちの知は問題と認知できる問題のみを想定している。そして、問題を解決するべくスタンバイし、これまでに学んだ法則あるいは法則もどきにヒントを求めようとする。このようにして、程度の差こそあれ、ある種の「なじみある問題」は解決を見る。しかし、解決されるのはルーチン系の問題がほとんどで、真に重要な問題は未解決のまま残されることが多い。ぼくたちが遭遇する重要で目新しい問題の大半は、つねに想定外のものであり、法則が当てはまらない特性を備えている。

バリアもハードルもハプニングのいずれもなければ、大概の問題は何事もないかのように解ける。いや、勝手に解けることすらあるほど、苦労なく対処できる。経験の中に類似例があれば、ぼくたちの解決能力は大いに高まる。「この道はいつか来た道」や「この道は前とよく似た道」なら、誰だって既存の法則や解法を水先案内人よろしく活用して、目をつぶって歩いて行くことができる。だが、話はそんなに簡単ではない。現実世界はバリアだらけ、ハードルだらけ、ハプニングだらけなのである。

高齢者住宅や民家型デイケアセンターの設計を手掛ける一級建築士の友人がいる。「あまり大きな声では言えないが……」と断ったうえで彼はこう言った。

「正直な話、バリアフリーの行き届いた住宅というのは万々歳というわけにはいかないのだよ。床も壁も敷居にも凹凸がないから、お年寄りは危険の少ない環境で暮らしている。安心感を持つことはとてもいいことだけれど、長い目で見ると甘やかされた状態に安住することになる。ところが、一歩外に出れば小さな凹凸がそこらじゅうにある。バリアフリーに慣れきった感覚はほんのわずかな起伏にも対応できず、ちょっとつまずいただけで転んでしまうのさ。」


この話を聞いてぼくは思った、「これはまるで知のありようと同じではないか」と。問題解決の知に限定すれば、ぼくたちは認識できる問題だけを対象とし、そのうちでも解けそうなものだけに取り組む。時間に制約があればなおさらそうなってしまう。解けそうにないと判断すれば、問題集の巻末模範解答を覗き見るように、その道の誰かに答えを求めようとする。あるいは類似の先行事例にならおうとする。この状況での知は、バリアフリー環境で甘やかされた「要介護な知」にほかならない。そもそも調べたらわかることをソリューションなどとは呼ばないのである。

〈わからない→考える→まだわからない→さらに考える→それでもわからない→外部にヒントを探す→見つからない→誰かに相談する〉。これだけ手間暇かければ、知はそれなりに鍛えられもしよう。答えが見つかることが重要なのではなく、答えを見つけるべく自力思考することが知的鍛錬につながるのだ。昨今の問題解決は〈わからない→誰かに相談する〉あるいは〈わからない→調べる〉など、工数削減がはなはだしい。思考プロセスの極端な短縮、いや不在そのものと言ってもよい。甘ったれた練習をいくら積んでも、バリアだらけハードルだらけハプニングだらけの現実世界では右往左往するばかりである。

以上のことから、本番よりも甘いリハーサルが何の役にも立たないことがはっきりする。こと問題解決の知に関するかぎり、普段から難問に対して自力思考によって対峙しておかねばならないのだ。その鍛え方を通じてのみ、本番で遭遇するであろう「未知の問題」への突破口が開ける可能性がある。ぼくは、この知をつかさどる根底に言語を置く。言語を鍛え、対話と問答を繰り返して形成された知こそが有用になりうる。事変に際して起動しない知、アクセスできない知は、知ではないのである。 

知はどのように鍛えられるか(1/2)

自分では正論だと思っていつも書くのだが、正論を聞かされたり読まされたりする側はさぞかし面倒臭いのだろう。インスタントな学びなどない、学びとは厳しいものであるという趣旨のことをいつぞや書いたら、「そんな硬派なことばかり語っているから、あなたの話はとっつきにくいのです。もっとオブラートに包まないと」と指摘された。「いい歳になってオブラートなんかいらないだろう」と言ったら、「その通りですが、正論は可愛げがないのです」とも言われた。いつの時代も意見はちょっと胡散臭いくらいがちょうどいいのだろうか。

千や万に一つの成功事例を取り上げて、誰もが容易に成し遂げられるかのように「法則」に仕立てる風潮が強くなっている気がする。困ったものだ。たしかに法則そのものは誤っていないのかもしれない。しかし、よく目を凝らせば、そこらじゅうにいる誰もが実践できるような法則ではない。艱難辛苦を要する。しかも、立ちはだかる壁が怠慢という、手に負えない内なる敵であったりする。この際、はっきり認めておこうではないか。簡単にマスターできることは簡単なことであり、なかなか身につかないことはむずかしい。「簡易ハウツーによる高度な知の無努力達成」などありえないのだ。

何年にもわたって学んできたのに、満足できるほど身につかないヒューマンスキル。とりわけ上手に読み書きし、しっかりと考える力などは、左にあるものを右へ動かすような単純学習では手の内に入らない。また、単発知識を記憶するのはさほど難しくはないが、記憶した知を統合したり、別の何かへと連想を逞しくしたり、あるいは臨機応変に応用したりするなどのリテラシー能力は「道なり学習」ではものにならない。

たとえば、『「思考」が運命を変える』という書物でジェームズ・アレンが説く法則を実践できれば見違えるような結果を期待できるだろう。しかし、その肝心の思考は誰かから学べるものではなく、その知の働きは自力に委ねられる。また、『グズをなおせば人生はうまくいく』(斎藤茂太)での話もほぼ絶対の法則だと思う。しかし、人生失敗の根源であるグズそのものがなかなか直らないし、誰にも直してもらうわけにはいかない類いのものだ。なお、この二冊は昨今のトンデモ促成本とは質が違う。誤解があっては困るので申し添えておく。


『英語は音読だ!』(岩村圭南)という本があるらしい。これを紹介するNHK出版のサイトでは、次のように謳っている。

音読なくして英語は話せるようにならない! 音読をくり返すことで、正しく発音するための口の筋肉が鍛えられ、同時に、まとまりのある内容を表現するための会話の引き出しが増えます。さらに、CDをくり返し聞くことで正しい音を聞き取るリスニング力も身につく。『英語を話せるようになりたい』――あなたのその願いは、音読を続ければ必ず叶えられる!」

ぼく自身が手に取りすらしていないから、この本を推薦するわけではない。だが、少なくともここに書かれている紹介文には賛意を示しておきたい。古い拙著の中でぼくも次のように書いた。

ただひたすら読むこと――目が慣れ、口が慣れる。文字と音声が身体の一部になってくる。たいていの人は、この感触がわかるまでにギブアップしてしまうのです。試してみればわかりますが、意味すら十分に理解できていないのに、同じ文章を何度も何度も、それこそ百回以上も声に出して読むのは苦痛以外の何物でもありません。(中略)そう、この只管朗読こそが将来英語が続けられるかどうかのリトマス試験紙になるのです。」(『英語は独習』)

答えははっきりとわかっている。テレビのコマーシャルで「英語は音読」と唱える某予備校の英語教師も正しい(同じコマーシャルで二人目の英語教師が言う「英語はことばだ。ことばは誰でもできる」は励ましとしてはいいが、厳しい鍛錬を前提とせずに言っているのであれば怪しげなメッセージとなる)。英語のみならず、語学一般、最強の学習が音読であることに疑問の余地はない。音読以外の方法としては、現地で生まれて話しことばをどっぷり浴びることくらいだろう(ならば、この国のほとんどすべての人々は人生一度きりの機会をすでに失っている)。語学における音読は、繰り返しの重要性を物語る。 

この只管法則による習慣形成は知の鍛錬一般においても証明できる。但し、ただひたすら繰り返す日々のノルマはとてもきついのである。昨今の胡散臭いベストセラーには、入口をオブラートに包んで招き入れ、最終ゴールイメージまで「容易であること」を装う傾向がある。書物だけではなく、平然と講演でもそう言ってのける講師がいる。「このやり方なら、誰でもできます!」と幻想を植え付けるのはほとんど詐欺罪に等しい。並大抵ではないことを強調して、学ぶ側に覚悟を決めさせることこそがよき導きではないのか。

インスピレーションと知の統合

世の中にはアイデアマンと呼ばれる人とアイデアがひらめかない人がいる。総合的な能力差がなくても、アイデアの質と量には歴然とした差が見られる場合がある。自ら企画の仕事に30年、また企画の研修や指導に20年携わってきて、なぜそのような差が生れるのかに大いに関心を抱き分析しようとしてきた。「地頭」の違いなどと簡単に片付けるつもりはない。もっと別の何かがあるはずだと思っている。この記事一回きりで結論が出るわけでもないが、ラフスケッチだけ描いておきたい。

「統合失調症」という精神の病については以前から知っていたが、最近ある本を読んでいたらこのことばが出てきた。精神分析の専門書ではないが、常識の喪失との関連で書かれていて興味深く、アイデアとインスピレーションを別角度から考察するきっかけになってくれた。統合失調とは、精神機能のネットワークが不全に陥っている状態である。認知症もその一つのようだ。たとえば、「~しなければならない」とか「~したほうがいい」と強く意識していても、実際はそれができないという状態である。この精神の病は、どこかアイデアが出にくい状態に似ているような気がする。

仮にぼくの弟の名前を「久左衛門」とするとき、誰かと会って「大坂久左衛門です」と自己紹介されたら、「あっ、弟と同じ名前だ!」と思う。時間をかけてわかるのではなく、瞬時にその人と弟の名が照合されて一致していることに気づく。久左衛門という名前の特殊性もあるが、それだけで頭が働いたのではない。それが「たつお」や「しょうじ」や「ゆういち」であっても、何らかの照合作用が起こるものである。しかし、まったく何とも感じない人もいる。


「ここにいる5人の中にあなたの知っている人はいるか?」と尋ねたら、彼(P)は一人ひとりをよく見て「いません」ときっぱりと言った。その数分後、5人のうちの一人()が彼のところへやって来て「こんにちは!」と声を掛けた。そして、「昨日はどうも」と言ったのである。結論から言うと、昨日の夜、PQの二人は他の複数の人たちとともに会話の輪に入っていた。PQと会話したのを覚えていたが、その人の顔を再認識することはできなかった。昨日の今日にもかかわらず。Pにとって、会話とQの顔は別物だったのである。

あることに部分的な強い関心があっても、そのことが本人の知覚全体の中で孤立していたり居場所を持たなかったりすることがある。他の事柄とつながらないからひらめきが起こらない。たとえばスプーンは口に食べ物を運ぶ道具としてフォークや箸と同じ群にあり、同時に相互に差異によって成り立っている。したがって、さほどの努力をしなくても、スプーンというモノまたはことばからフォークや箸は連想されるだろう。この種のネットワークが細かく広がっていれば「意外なつながり」、つまりインスピレーションが起こりやすい。

他人にとって無関係に思える二つのものが、アイデアマンにとっては関係性の事柄どうしに見えている。エドワード・デ・ボノはたしか「無関係な願望」と「目新しさ」の強い関連を指摘していた。また、うろ覚えだが、エドガー・アラン・ポーも「熟考とは深さではなく、広がりである」というようなことを言っていた。一ヵ所の垂直的深堀よりも複数個所の水平的連鎖のほうがひらめきやすいのである。複数の情報をよく取り込んでも、それぞれの情報を相互的に関連づけなければ、知が統合されることはない。これは習慣形成によるところが大で、要するにぼんやりと惰性で生活したり仕事したりしていては、アイデア脳が生まれないということである。 

効率的な仕事――検索を巡って

「思い立ったが吉日」にひとまず凱歌があがった昨日のブログ。そこで話を終えるなら、ぼくは見境のないスピード重視派ということになり、さらには大づかみにさっさと仕事の全貌を見届けては結論を下し、ベルトコンベア上を流れる商品のようにアイデアを扱う作業人、あるいは知の錬金術師、あるいは発想の一発屋、あるいは多種多様なテーマのダイソーなどと皮肉られてしまうだろう。

少しは分別も備えているつもりだ、「思い立ったが吉日」が人生全般の万能訓であるなどと信じてはいない。昨日のブログでは、限られた時間における作業や仕事の成否の見極め方について触れたつもりであり、その限りにおいては早々に着手して何がしかの変化や結果を探るのがいいと主張したのである。つまり、ぼく以上に中長期的なテーマの実験を行なっている研究者にしてからが「思い立ったが吉日」を肝に銘じるくらいだから、日々の作業なり仕事なりにそのつど小刻みな期限が設けられている身であれば、効率を念頭に置くのは当然の成り行きなのである。

そこで、話を検索に置き換えてみたい。考えても考えてもひらめかない、しかも時間が切迫しているとき、ぼくたちはどん詰まりの状況を脱しようとして突破口を外部に求める。ヒント探しのための検索がこれだ。もちろんアタマの中を検索すればいいのだが、それが考えるということにほかならないから、ひらめかないのは自前の記憶の中にヒントを探せないということに等しい。外部データベースの検索は避けて通れないのである。

言うまでもなく、外部データベースは情報技術によって天文学的な広がりを見せている。したがって、期限との闘いが前提となっているかぎり、ぼくたちは検索上手にならなければならない。いかに効率よく迅速に明るみの方角を見つけて袋小路から抜け出すかに工夫を凝らさねばならないのだ。ネットサーフィンなどという悠長なことをしている場合ではない。インターネットを知恵の補助ないし有力情報源としている人たちにとっては、検索技術の巧拙は作業や仕事の成否に直結するのである。


ぼくのやり方は至極簡単だ。考えることに悶々とし始めたら、まずはキーワードのみメモ書きしておいて手元の辞書検索から入る。なぜなら、思考の行き詰まりは大部分が言語回路の閉塞とつながっているからである。続いて、自分がこれまで記録してきた雑多なノートを無作為に捲ってスキャニングし、文字側からの手招きに応じてそのページを読む。場合によっては、書棚の前に行って、関係ありそうな既読の本を手に取る。ここまではまったく検索とは似て非なる動作だ。それどころか、期限意識とは無縁な遠回りに映るだろう。しかし、やがてぼくも、ほんのわずかな時間だが、ねらいを絞って便利なインターネットを覗く。これだけが唯一検索らしい検索になっている。

ぼくの流儀なのでマネは危険である。ぼくの場合、検索にあたっては、つねに非効率から入り最後に効率に向かう。思考時間より多くの時間を調査や検索に使わない。おそらく電子ブックが読書の主流になっても、ぼくは積極的に用いることはなく、相も変わらずに紙で製本され装丁された本を読むはずである。効率が悪いことは百も承知だ。デジタルならキーワードや絞り込みなどの条件を設定して検索すれば、千冊分のデータの中に即刻「ありか」を見つけることができるだろう。しかし、ぼくは千冊の実物の本から記憶に頼って探すほうを選ぶ。

「仕事は効率」と言いながら、ちっとも効率的ではないかと指摘されるかもしれない。しかし、自力で考え、次いで非効率的に調べ、最後に短時間検索するというこの方法が、期限内に仕事を収めるうえでもっとも効率がよいのである。探し物がすぐに見つかることにあまり情熱を感じない性分であり、しかも、すぐに検索できた情報があまり役立たないことをぼくは経験的に熟知している。思考と検索を分離してはいけない。正確に言うと、外部データベースの検索時に脳内検索を絡ませねばならない。だから、一発検索の便利に甘えていたらアタマは決して働かないのである。ぼくにとって非効率的な検索は思考の延長であり、そのプロセスの愉しみがなければ、仕事などまったく無機的なものに化してしまうだろう。 

「思い立ったが吉日」の効用

「定番の『企画技法』に加えて、年に数回ほど『仕事の技術』や『プロフェショナルの条件』について話をすることがある。演習を実施してシミュレーション体験もしてもらうのだけれど、受講生の遅疑逡巡という場面にしょっちゅう出合う。選択の岐路に立って慎重になり、慎重さがためらいになり、ためらいはひらめきの機会を逸し、意思決定を遅らせる。ぼくはスピード重視派なので、見ていてイライラしてしまう。」

「きみがイライラする理由がわからないわけではないよ。しかし、人にはそれぞれのペースというものがあるだろ。たとえば、読書にしても、多読・速続がいいのか、それとも少読・精読がいいのかは一概に決めることはできない。実際、急ぐか急がないかに関してだって諺の主張も分かれている。『急いては事を仕損じる』と『善は急げ』のようにね。」

「う~ん。『急いては事を仕損じる』は短兵急の危うさを説いていてわかるが、『善は急げ』は少し違うなあ。だって、すでに『善いこと』だとわかっているんだろ。善いことを行なうのに躊躇する必要はない。それこそ黙って即刻行動に移せばいいからね。『急いては事を仕損じる』の対抗価値には『思い立ったが吉日』のほうがふさわしい気がするが、どうだろう?」

「たしかに。それで思い出したけれど、半月ほど前にテレビで『夢の扉』という番組を見ていたら、小池英樹という教授が『思い立ったらすぐにやってみる』のが研究者の心得には欠かせないというふうなことを言っていた。」

「優秀な研究者はだいたいそう思っているよ。それは何とか賞を取るとか、一番にならねばならないとかの世俗的な下心から来るのではなくて、研究や実験の分母を増やすという純粋な思いゆえだろうね。成功確率が高いと人は逆に身構えるけれど、当たらない確率のほうが高い分野にあっては、試行錯誤は当たり前だし、山のような失敗分母がごくわずかな成功分子をもたらすのだからね。で、その小池教授の『思い立ったらすぐにやってみる』の話、もう少し詳しく聞かせてよ。」


「アイデアというのは、いいなあと思ってみて実際にやってみたら、さほどでもなかったということがよくある。その逆に、大したことがないと値踏みしていたのに、実際にやってみると驚嘆するような結果をもたらすことがある、というわけ。ダメだと見切るにしても、すごいと発見するにしても、やりもせずに判断しているよりも、即刻やってみたほうがいいということだな。」

「アタマだけで判断するのと実際の行動による見極めは違うということだね。うまくいくかどうかを遅疑している暇があったら、とりあえずアイデアを現実化してみる。そこにスピード感があれば、失敗もチャンスも素早く発見できる。なるほど、やっぱり『思い立ったが吉日』は正しいな。正確に言うと、思い立った日は吉日だけれど、結果は吉か凶かはわからないということだね。しかも『急いて事を仕損じようではないか』という呼びかけにも聞こえてくる。」

「まったくその通りだよ。演習指導をするときに、きみは胸を張って『思い立ったが吉日』を受講生に強調すればいいようだな。ついでに、『急いては事を仕損じる』のもまんざら悪いことではないとね。ところで、年金の記録漏れがあって未納扱いされていると文句を言っていたようだけど、ケリはついた?」

「いや、まだ日本年金機構の事務所には行けていないんだ。いろいろあってね。」

「おやおや、思い立ったが吉日を唱えるのなら、かいより始めるべきじゃないか。せっかくこんな話が出たのだから、今すぐ思い立てばいい。」

「わかった。あいにく今日は思い立たなかったので、どうやら今日は吉日ではなさそう。来週のいつか、思い立つように仕向けて、その思い立った日に行ってみるとしよう。」

「やれやれ。やっぱり『言うは易し行なうは難し』か。」

「あっ、大切なことに気づいた。」

「何?」

「二人して『思い立ったが吉日』の効用を褒めそやしたのはいいが、核心的な問題は『思い立たない』ことにあるのだった。思い立たないからこそ、大半の研修生たちは前に進めないのだよ。この諺の正当化の前に、どうすれば思い立つかという、宿命とも言うべき命題をぼくは片付けなければならないんだ。」

「疲れる仕事だね。同情するよ。」 

幼さと情報依存

企画の勉強の際にいつも注意することがある。これは先に言っておかないと、ほとんどの受講生が誤ってしまうことであり、企画の終盤になってから指南しても手遅れになるのだ。「企画の出発点において調べるな!」というのがそれである。昨今、企画らしい企画にお目にかからないのは、企画に占める調査の比重が大きくなっているからだろう。いや、実は、大きくなどなっているのではなく、企画者自身が勝手に重要視してしまっているのである。

企画が調査の同義語になってしまった。最重要な企画コンセプトをろくに煮詰めもせずに、せっせと情報で外堀を埋めてしまう。気がつけば先行企画事例やデータでがんじがらめになり、企画者の独自の視点、アイデア、思考が従属的もしくはお情け程度の付け足しになっているのである。誰もが企画の仕事に従事するわけではないだろう。だから、部分的には調査偏重の企画技法で事足りる人たちがいる。しかし、企画にはもう一つ見過ごせない学びがある。もう一つというどころか、それは根幹的命題にかかわるものだ。すなわち、「自分で考える」という能力である。

「自分で考えることは重要である」という、いかにもぼくたちの共通感覚であると思われる命題を、上滑りせずにいざ証明しようとすれば、事のほかむずかしいのである。たとえば、「考えなくっても、どこかの先行事例をちょいちょいとアレンジすればいい。どんなにあがいても、創造的な企画を考え抜くなど凡人には不可能なんだから」という、アンチテーゼになっていないお粗末な反論で自力思考の尊さが崩されてしまうのである。


企画には思考力が不可欠である。自分で考えなければ、誰かが考えたことを用いるしかない。つまり、思考を外部に依存するしかない。そして、それは情報を自分のアタマ以外のところで検索することを意味する。ろくに考えもせずに「考えてもわからない」とあきらめて、情報を取り込もうとするのは精神的幼さにほかならない。但し、幼児の場合は知性も教養も不十分であるから、それもやむをえない。そもそもそうして学習することによって彼らは自ら思考する習慣を身につけていくのである。いま問題にしているのは大人の話である。

どんなに力量を備えても、考える材料の不足はいつまでも付きまとう。だから、どこかで勇気を奮い「不足→調査」という流れを断ち切らねばならないのだ。さもなければ、「考えない」あるいは「考えなくてもいい」という習慣が繰り返され、やがて「考える」という習慣よりも強く形成されてしまうからである。これは親離れできない精神構造によく似ていて、努力しないかぎりひとりでに依存症が解消することはない。集めても集めても情報は尽きることはない。小さな池だと思って泳いでいたら知らないうちに大海で溺れていたということになる。

自力で考えるのはたやすくない。誰もが考え抜くために突破口を求める。その突破口が調べれば簡単に手に入るようになった。たいがいのことは検索すれば見つかるし、実際のところヒントにもなってくれるだろう。しかし、企画に唯一絶対の正解などないのに、調べれば答えらしきものに出合える、この「検索即解答」という便利さが、企画に不可欠な「勘」を奪ってしまう。勘とは、言い換えれば、自分で考えて蓋然性の高い方向で仮説を立てる力である。誤解なきよう。調べてもいいのだ。考えて苦悶し、勇気をもってひとまず自分なりの決断を下したあとに、ねらいを絞って情報を参照すればいい。

情報依存は親依存、友達依存、先輩依存に酷似している。その姿は独立独歩できない未熟な青少年そっくりだ。ここまで書き綴ってきて、ある書物を思い出した。カントの『啓蒙とは何か』である。機会を見つけて近いうちに続編をしたためたい。 

多忙と多忙感の違い

今さら指摘するまでもなく、実態が「忙しい」ということと「気ぜわしい」ということは同じではない。後者は「多忙感」にすぎない。たとえば、師走を迎え、日々やるべきことが山積しているわけでもないのに、だいぶ先の年末年始の漠然とした予定を睨んで何となく落ち着かなくなっている。誰かに「どう、忙しい?」と聞かれれば、「うん、何だかんだあってね」とケロリと答えるかもしれないが、傍から見れば、多忙どころか時間を持て余していたりする。

数年前までは年に百数十の研修や講演をこなし、出張宿泊も月間で10泊になることもあった。しかも、合間には準備をせねばならないし、企画の仕事も手掛けていた。それでも精神的圧迫感はなかった。一日24時間というキャンバスを描かねばならないというよりも、すでに絵具が塗りたくられたキャンバスに向かうような印象であった。多忙には違いなかったが、意志を自在に貫く余地がないから、ある種の諦観の境地に入っていたのかもしれない。

多忙であることを選んでいるかぎり、精神的にも肉体的にもさほど問題は起こらない。ハードワークとノーワークを天秤にかけてみれば明らかだろう。仕事がなくて退屈極まりないほど辛いことはない。二十代後半に職場を数ヵ所変えたことがあったが、望む仕事にありつけず半年ほど無職を体験した。職を探しながらもなかなか叶わず、やむなく読書三昧の日々を過ごしていた。その時期の独学が財産になっていることは間違いないが、思い出すたびに過剰な有閑にはぞっとする。時間を潰さねばならない苦痛に比べれば、時間が埋まっている忙しさなど大したことはない。多忙はぼくにスローライフの意味を教えてくれた。


「忙」という漢字が「心を亡くす」という意であるのは広く知られている。仕事を追い、仕事に追われていれば、たしかに精神的にまいるだろう。しかし、好きな仕事に集中しているときの状態は心を亡くしているのではなく、心を意識していないと言うべきである。ほんとうに心を亡くしてしまっている人に仕事がやってくるわけがないではないか。実は、多忙よりも危なっかしいのが、仕事の量とは無関係に多忙感を漂わせることなのだ。こっちのほうが心を亡くしている状態に近い。

ふと、かの有名なパーキンソンの法則を思い出した。支出額が収入額を優に超えたり、金持ちほどケチが多いという現実があるので、第二法則の「支出額は収入額に達するまで膨張する」には首を傾げる。しかし、第一法則の「仕事量は、完成までに与えられる時間をすべて使い果たすまで膨張する」はほぼ正しい。官僚の仕事ぶりを観察・研究して導かれた法則だが、おおむねすべての組織や仕事に当てはまるように思われる。

組織における個人の仕事は、仕事の難易度や重要度とは無関係に、許容された時間をすべて食い潰す。わかりやすく言えば、仕事量ではなく時間量のほうが仕事ぶりを決定しているのである。効率よくやれば一時間でできる仕事も、半日与えられていれば半日かけてしまうのだ。したがって、当人はいつも仕事をしている気になっている。まったく多忙ではないのに、当人は多忙感を抱いている。新しい仕事を頼もうとしても、いっぱいいっぱいという状態なのである。多忙感はやがて「仕事のふり」へと変貌する。実際の仕事が減っているのに、忙しそうに見える職場が目立つのは気のせいではないだろう。