イタリア紀行8 「アルノ川対岸散策」

フィレンツェⅡ

ミラノやローマからフィレンツェに入るには鉄道がいい。列車はサンタ・マリア・ノヴェッラ駅に着く。この中央駅からチェントロと呼ばれる歴史地区内のホテルへは、たとえ大きな荷物を持っていても歩くのがベスト。ミラノやローマと違ってフィレンツェは治安がいいので、見た目に明らかに観光客であっても心配はない。もちろん路線が充実している市内バスなら、たいていの場所に10分以内で行けてしまう。

空路フランクフルトからフィレンツェ空港に降り立ち、アルノ川対岸のサン・フレディアーノのアパートにタクシーで向かった。所要約30分。アパートで受け取った鍵は4種類あり、玄関の門、中門、3階通路の門、部屋の扉の鍵が束になっている。その束の重いことといったら、腕時計5個分と同じくらいだ。宿泊期間中は自己責任で管理する。したがって、外出時は半コートの内ポケットにずっしり忍ばせて歩かねばならない。

午後7時の到着。ちょうどいい時間である。食事処の夕刻の開店はおおむね午後7時から7時半。一番賑わう時間帯は9時から10時だ。アルノ川沿いの通りから一本内側へ入ったサント・スピリト通りへ出て、いかにも老舗っぽいリストランテに入る。サラミと生ハムの盛り合わせにハウスワインの赤を合わせ、パスタでしめた。この一帯は歴史地区ほどの賑わいはなく、ツアー客もほとんどやって来ない。しかし、地元の常連が通うトラットリアやリストランテが点在している。

翌朝。アパートなので朝食がついていない。近くのバールでカプチーノを注文し小さなパンで腹を満たす。さて、散策スタート。アパートから約600メートルの位置にあるポンテ・ヴェッキオの橋から南の丘陵へ。なだらかなサン・ジョルジョの坂を進むと、道すがら丘陵地帯独特の空気が漂ってくる。

かつての要塞跡そばのサン・ジョルジョの門からさらにサン・レオナルド通りへ入り、そこを左折していくと高台にサン・ミニアート・アル・モンテ教会が佇む。アルノ川を挟んで市街地が一望できる絶好の場所である。この教会の下に別のサン・サルヴァトーレ・アル・モンテ教会があり、すぐ眼下にミケランジェロ広場がある。広場まで下れば観光客がたむろしているが、そこからわずか300メートル上の高台は閑散としている。

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ポンテ・ヴェッキオ。向う岸右側の建物が有名なウフィッツィ美術館の一部。
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丘陵へ抜ける小径。瀟洒な住宅が続く。
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中心街のランドマーク「サンタ・マリア・デル・フィオーレ」のクーポラが見える。春間近な緑の濃淡の綾が目にやさしい。
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さらに進むと、左右の大きな木に挟まれて、凝縮された借景のように街が浮かぶ。
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サン・サルヴァトーレ・アル・モンテ教会前に出た。質素な教会という印象のまま通り過ぎた。後日旅行ガイドを見たら、ミケランジェロが「美しい田舎娘」と比喩したというエピソードを見つけた。ミケランジェロ大先生、絵筆やノミさばきだけでなく、ことばのさばき方も超一級である。
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サン・ミニアート・アル・モンテ教会のファサードは雅なロマネスク様式。

イタリア紀行7 「花の都の序章」

フィレンツェⅠ

今回から数回にわたってフィレンツェを振り返る。これまで紹介してきたヴェネツィアやシエナ同様、この街も歴史地区と呼ばれる中心地はおよそ2キロメートル四方に収まっている。

よく知られている通り、フィレンツェはルネサンス発祥の地である。当時を偲ぶゆかりの名所や芸術作品には事欠かない。同時に、ここは「花の都」とも呼ばれている。フィレンツェ(Firenze)はその昔、ラテン語で“Fiorentia”という名前だった。このことばの頭のFiore(フィオーレ)が花を表す。先般日本人観光客の落書きでニュースになった、フィレンツェ歴史地区の象徴であるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂も「花の聖母寺」である。

日本からイタリアへの直行便はミラノかローマに向かう。だから、個人旅行の本にはこの二つの都市を拠点にした旅指南の記事が目立つ。しかし、世界遺産を含めた遊覧密度の高さで言えば、フィレンツェの立地はミラノやローマより優れている。なにしろシエナ、サンジミニャーノ、ルッカ、ピサ、アレッツォなどの街へ楽々半日旅行できてしまうのだ。

コンパクトな街だが至宝が凝縮している。過去23日、45日で二度訪れていたが、20073月に9日間滞在する機会があった。オルトラルノという、中心街から見ればアルノ川の南岸のサン・フレディアーノ地区のアパートに3泊。その後は、名所シニョリーア広場に面した隠れ家的ホテルが予約できたので、そこに5泊。

フィレンツェに泊まって市中をくまなく歩き、さらにバスと電車で周辺を巡る計画を立てた。計画というと緻密なようだが、天気と相談しつつ気の向くまま、足の向くままが基本。イタリア語で気に入っていることばに“passegiata”(パッセジャータ)がある。散歩という意味なのだが、当てもなく同じところを行ったり来たりというニュアンスが強いから「そぞろ歩き」がぴったりだ。今日は有名どころを概観するが、次回からのフィレンツェ紀行はそぞろ歩きに似て、行き当たりばったり。日によって、あるいは歩いてくる方向によってルネサンスの花の都が変える表情を見ていただこう。

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サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂。2003年には息を切らしながら500段のクーポラに上って街を展望した。
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大聖堂の正面からの光景。イタリア的なゴシック建築の典型を見ることができる。赤屋根のクーポラの右手前に聳えるのがジョットの鐘楼。
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鐘楼から眺めるクーポラと背後に広がるフィレンツェの街並み。
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南岸に位置するミケランジェロ広場から見渡すアルノ川。アルノ川に架かる橋が有名なポンテ・ヴェッキオ(イタリア語で「古い橋」という意味)。
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カメラを右にずらすと対岸の「チェントロ」という歴史地区の街並み。サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のクーポラと鐘楼の位置関係がよくわかる。

イタリア紀行6 「広場はアート空間」

シエナⅢ

鳥瞰、つまり高い所から鳥の目線で地上や景色を眺めるのは非日常的体験である。だから旅行でどこかに出掛けると少しでも天空に近づこうとする。その街に塔や鐘楼があれば、階段がたとえミシミシときしる木製であれ狭い石段であれ、とりあえず上る。イタリアの都市はほぼ間違いなく一つや二つの高所を備えているので、時間さえあれば欠かさず挑戦する。

ところが、実は、軽度だが高所恐怖症気味。階段を上に行くほど足がすくむし、ガラス張りされていない手すりだけの屋上に立つと膝がゆるんでくる。カメラを持つ腕を突き出すと腰が少し引けている。それでも上る。それだけの価値があるからだ。

自分を叱咤してマンジャの塔からの景観を楽しみ、恐々階段を下りた後にはカンポ広場を見渡してエスプレッソを飲む。数百年間にわたって大きく変化していないこの広場に人々がそぞろ集まる。いつも同じところを歩き同じ光景を眺めて何の意味がある? こんな、物事の実用性を前提とした問いに出番はない。習慣化した行いには、本人にしかわからない格別の快楽がある。

広場のある街がうらやましい。とってつけた公園ではなく、広場。貝殻状の形状といいアートな色合いといい、シエナの広場は至宝である。至宝の恵みを享受し続けるために、住民は我慢と禁欲に耐える。コンビニに代表される、無機的な利便性に走らない。窓枠はもちろん、留め金一つでも「修復」と考える。自分の部屋でも勝手なリフォームは許されない。

流行や便利とどう付き合うか? カンポ広場のバールでエスプレッソを飲みながら、行き着いた問いである。「一歩遅れ気味に生活する」というのが答え。 《シエナ完》  

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Bar il Palioのカフェテラスでゆっくりと流れる時間の中で、心ゆくまでマンジャの塔を眺める。

イタリア紀行5 「色で魅せるゴシック都市」

シエナⅡ

シエナを描写する表現に落ち着きがないのを自覚する。実感を的確に表せないもどかしさがあり、どこか空振りしているような気分だ。弁解させていただくならば、シエナに関する紀行や説明は、専門家の手になるものでも少し誇張されたような印象がある。

一観光客ならはしゃぎ気味に思いをしたためるのもやむをえないだろう。しかし、実ははしゃいでなどいない。むしろ神妙な心持ちからくる「詩的高揚」とでも言うべきものである。

お付き合いしてから四半世紀、高松在住のY氏は、平成19年の年賀状でシエナの思い出を綴られていた。その二年前にお会いした折に、ぼくはシエナの話を披露した。Y氏が刺激を受けて60歳半ばの身体に鞭打って出掛けられたのか、まったく別の好奇心だったのかは確かめていない。ぼくの高揚感にどこか似通っているその年賀状の文章を紹介してみたい。

シエナの街並は、中世の面影が色濃く残っている。赤煉瓦の幾何模様が美しいカンポ広場がそれだ。
この広場は貝殻の形をして、放射状に広がっており、しかも中心に向かって低く傾斜しているので、浅い巨大な半円のすり鉢に見える。この奇妙な形の広場の真ん中に立つと、夏の眩しいほどの光の乱舞と広場をとりまく、ドゥオモ・宮殿・塔の幻想的な美しさで酩酊する。そして、ここで毎年行われる、中世から伝わる騎馬競走に巻き込まれる幻想にとらわれた。
人々の歓声、馬のいななきの中で、私は中世の世界にタイムスリップした。
―イタリア・シエナのカンポ広場にて―

シエナの建造物の色合いは赤褐色でもなく茶褐色でもなく黄褐色でもない。それは、シエナブラウンという独特の土色である。現在ではいろんな商品にこのカラーが使われているが、それぞれ微妙に違うように思う。何が正真正銘のシエナ色か? それは写真を見て判断するしかないが、写真でも再現精度にバラツキもがある。いずれにせよ、光と影と色を絶妙に調和させる街と、後景としてその街を包み込むトスカーナの丘陵の趣には見とれてしまう。

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奥に向かってゆるやかに傾斜するカンポ広場には、赤褐色に見える煉瓦が敷き詰められている。
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画面右上の端に大聖堂を配した街並み。細い通りを隔てて建物が密集している。この濃いベージュがシエナの土色。
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少し靄のかかった街の周辺の丘陵地帯。まさに中世の空気そのもので満たされた幻想的な風景だ。
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マンジャの塔から見下ろすカンポ広場。修復を繰り返しながら、魅力ある街、絵になる街を保存する。シエナに「新築」はありえない。すべて”レスタウロ”(リフォーム、リノベーション)である。

イタリア紀行4 「トスカーナに独座する街」

シエナⅠ

諸説いろいろあるが、ぼくの読んだ本には「ヴェネツィアのサンマルコ広場、バチカンのサンピエトロ広場、シエナのカンポ広場がイタリアを代表する三大広場」と書かれてあった。ここにフィレンツェのミケランジェロ広場を付け足してもいいかもしれない。広場そのものはたいしたことはないが、街並みを美しく見せるという点ではひけを取らない。

当たり前のことだが、シエナを取り上げる観光ガイドや紀行文や歴史・文化の本はことごとく「シエナのカンポ広場がイタリア一、いや世界一美しい広場である」と絶賛する。美しさというものは、表現するにしても感知するにしても主観だから、目を見張る美しさ、理性的な美しさ、しっとりした美しさなど、どんな美しさであってもよい。ぼくは「比類なき美しさ」と形容しておきたい。

二度シエナを訪れているが、最初の2004年当時はモノクロのフィルムで光景を収めた。それはそれで間違いではなかったが、なんだかドキュメンタリーな空気を醸し出しすぎていて、シエナの夢想的な空間や上品な街並みが欠けてしまった。フィレンツェに約10日間滞在した20073月に再訪して撮ったのが今回の写真である。

食とワインと言えばトスカーナ。トスカーナと言えばフィレンツェ。そのフィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ駅そばのバスターミナルから南へ約1時間、城壁に囲まれた丘にシエナがある。ここは2キロメートル四方のこじんまりした街だ。他のイタリアの都市同様、ここにも目を見張るドゥオーモ(大聖堂)がある。ゴシック建築と床に張り巡らされたモザイクが有名だ。

しかし、シエナを取り上げるのはドゥオーモのためではない。やはりカンポ広場なのだ。そして、そのカンポ広場に聳え立つマンジャの塔からの景観である。そのパノラマ図は次回。

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ヴィーコロという薄暗い小さな街路の一つに入ると光の空間が借景のように姿を現わす。くぐり抜けるとカンポ広場だ。
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市庁舎に隣接するマンジャの塔。この塔の狭くて急な階段を400段上り詰めると、シエナの街の造形とトスカーナ地方の特徴的な山間農村の遠景がパノラマのように見渡せる。
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塔の前から振り返って見るカンポ広場。ゆるやかな傾斜が不思議な広がりを見せる。広場に砂を敷き詰め17地区が対抗して毎年7月と8月に競馬(パリオ)が開かれる。
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絵葉書。シエナの17地区はコントラーダと呼ばれ、すべての地区に動物を意匠したシンボルマークがある。 (上段左から)鷲、芋虫、かたつむり、フクロウ、竜。 (二段目左から)麒麟、ヤマアラシ、一角獣、雌狼、貝殻。 (三段目左から)ガチョウ、イルカ(波)、豹、サイ(森)、亀。 (下段左)象(塔)。(下段右)牡羊。

イタリア紀行3 「歩き尽くせぬ空間」

ヴェネツィアⅢ

日本の大都会の住人からすれば、たかだか2キロメートル四方の街なら一日もあれば見尽くせる。たとえ徒歩であれ、名所はくまなく巡れるはずと自信満々。さらには、4泊もするのだから、観光スポット以外の生活者領域にも足を踏み入れられるだろうと思っていた。

だが、ヴェネツィアほど地図と現実が一致しにくい街も珍しい。東西南北の感覚がズレる。狭い空間にもかかわらず、そこに毛細血管のような狭い通りや小径が複雑に張り巡らされ、おまけに小運河や橋や袋小路が出没して歩行者の感覚を錯綜させる。この街の物理的な狭隘のほどを地図で認識していても、現実に遭遇する迷路設計の空間は途方もなく広がっていく。

サンタ・ルチア駅から逆S字で辿る大運河を何度も水上バスで往来し、そこかしこで下船もして散策してみた。だが、目にしたり通り過ぎたりして記憶に残っているのは、貴族の館や商館、リアルト橋やアカデミア橋、何度も紹介したサンマルコ広場、その寺院と時計塔、総督宮殿……これらはすべて名の知れた観光スポットばかりである。ヴェネツィアは生活感に触れようと思う現代人にはなかなか手強い街だった。

それでもなお、夜にはレアルト橋裏手の飲食通りを徘徊し、朝市にも行ってみた。そこには触手を伸ばしたくなる海の食材も豊富にあったが、ホテル滞在では調理のしようもない。ホテル近くのサンタンジェロ広場とサント・ステファーノ広場には何度も足を運んだ。後者のトラットリアやバールには地元の人々の姿も見られた。「そぞろ歩き」はそこに住む人々の生活を素直に映し出すものである。

「ヴェネツィアにまた行ってみたいか?」とよく尋ねられる。他にも訪れたい都市があるので、優先順位はもはや上位には入らないかもしれない。しかし、もし再訪の機会があれば、次は下手な企てなどせずに、純粋に旅人として『おとぎの国のヴェニス』を堪能すればいいだろう。そして、もっともっとディープな路地に迷い込んでみたいと思う。 《ヴェネツィア完》

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サンマルコ広場から見る運河にはギリシャからエーゲ海、アドリア海をクルーズしてきた豪華客船が停泊している。水際の玄関口の小広場では、翼のある獅子の円柱と聖テオドーロの円柱が人々を出迎える。
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大運河から奥へと分け入っても、行く所どこでも小運河に分岐する。これなどまだ幅が広いほうで、ゴンドラ一艘が通るのが精一杯という水路がある。しっかり目印を焼き付けておかないと、すぐに迷い子になってしまう。
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豪華なゴンドラに乗るセレブ風の乗客。このような狭い水路の橋の下からも乗船できる。
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営業時間前の朝に出番を待つ、サンマルコ運河のラグーナに繋がれたゴンドラ。
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有名なリアルト橋。逆S字型の大運河には橋が三つある。その一つであるリアルト橋は街の中心部にあり、運河のもっとも狭いスポットに架かっている。この近くのリストランテでヴェネツィア名物イカ墨のパスタと海の幸のフリッタを賞味した。美味だったが値段も張った。

イタリア紀行2 「青に浮かぶ都市」 

ヴェネツィアⅡ

観光の中心スポットであるサンマルコ広場まではホテルからほんの数分。カフェや散策目当てに何度も足を運べる。それ以外に何か格別の楽しみ方はないだろうか。前泊地のミラノにいる時からこんなふうに45日をどう過ごそうかと構想を練っていた。持参していた『迷宮都市ヴェネツィアを歩く』(陣内秀信著)がインスピレーションを与えてくれた。世界でもっとも美しいと謳われるサンマルコ広場に海側から近づくという一つの提案がとても気に入った。

この本で固有名詞もしっかり覚えたつもりだった。しかし、イタリア語の名称は、宗教人であれ建物であれ地名であれ、「サンタ」と「サン」を冠するものが多い。実際現地に降り立つと、区別もつかなければ、しょっちゅう言い間違いをする始末だった。

にもかかわらず、サン・ジョルジュ・マッジョーレ島だけはしっかり覚えていた。サンマルコ広場からわずか数百メートル沖合いにあるこの島内に同名の教会があり、その鐘楼のテラスからの眺望を見逃してはいけない。

さて、海側から広場へのアプローチはもちろん船しかない。水上バスの3日券は乗り放題で約3000円。これを使って、リド島へ向かい、そこから折り返して広場へ向かう。リド島はヴェネツィアのみならずイタリア全土における有数のリゾートであり、ヴェネチア映画祭の会場として知られている。滞在中、同じルートで二度そこへ行った。もちろん乗船・下船を繰り返して、その他の路線の大半も遊覧し尽くした。

ご当地に諺がある。ヴェネツィア方言で“A tola no se vien veci.”と言い、「食事の間は歳をとらない」という意味だ。「船に乗っている間は歳をとらない」という新しい諺を作ってもよいくらい、青地に浮かぶ街の佇まいに飽きることはない。

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砂漠に揺らぐ蜃気楼を実体験したことはないが、ヴェネツィアの街は幻かのように海面下に沈んだり海面上に浮かんだりを繰り返す。上下しているのは船のほうなのだが……。
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水上バス”ヴァポレット”でサンマルコ広場にアプローチ。空の面積を大きく撮ってみた。するとどうだろう、青いキャンバス上に落ち着いた街の気配が漂ってくる。10月のこの日、晴朗極まる青の競演が見られた。
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サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会から臨むサンマルコ広場。写真外の左右にも街並みはあるのだが、ここに写っているのがヴェネツィアのほぼ全貌。至るところに小さな運河や水路が網の目のように広がっている。

イタリア紀行1 「セレニッシマの不便」

ヴェネツィアⅠ

ネットからダウンロードした地図のコピーを穴が開くほど見、住所のメモと案内表示を何度確認しても、目指すホテルに辿りつける希望は湧いてこない。これが噂のヴェネツィアの迷路か。ヴァポレットという水上バスで運河を通り抜け、サンマルコ広場手前の船着き場ヴァッラレッソから徒歩にしてわずか56分の所。目と鼻の先のように思えて、これが容易ではない。何人もの通行人に尋ねてようやくホテルに着いた。

着いた場所は本館。宿泊するのは別館のほうらしい。本館からは中国人系のボーイが連れて行ってくれた。小柄な彼は大きくて重い旅行カバンを二つ、ひょいと左右の手に一つずつ持つと、一度も地面に置くことなく軽やかに歩を進めた。遠く感じたが、たぶん5分ほどだっただろう。何度も小運河をまたぐ階段を上り下りし、運河沿いの小道を通り抜ける。いわゆるバリアフリーな箇所などどこにもない。やっぱり迷路だ。

二度目のヴェネツィアは5年半ぶりだ。和辻哲郎は『イタリア古寺巡礼』の末尾で、「ヴェネチアには色彩がある」と印象を語っている。1927年にしたためた手紙を編集した紀行文だ。「色彩がある」の解釈は難解だが、”セレニッシマ(Serenissima)”という愛称をもつヴェネツィアの色彩は一にも二にも青だろう。このことばは“sereno”の最上級で「晴朗きわまる」を意味する。

多くのツアー観光客はここか島外のメストレで一泊する。たしかに観光だけならば半日あれば名所を廻れる。それならば前回体験済みだ。同じホテルで四泊すれば、ほんの少しくらい「住民」の視点に立ってセレニッシマを満喫できるかも、と目論んだ。

ここには自動車は一台もない。自動車どころかハイテクめいたものが一切見当たらない。いま「満喫」と言ってみたが、実はそれは、不便と共存する「快適」のことなのである。

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橋の上から俯瞰した典型的な運河の風景。近代化した船以外は、百年どころか16世紀の頃から何も変わっていないのだろう。
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空の色や光の加減、眺める角度によって運河の青は微妙に移ろう。何度見ても同じ運河なのだが、印象はそのつど変わるのだ。
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サンマルコ広場前のラグーナ(潟)は、高潮になると1メートル以上水面が上昇して広場はすっかり水浸しになる。
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黄昏時? この写真を見れば誰しもそう思う。実は、早朝のサンマルコ広場である。夜明けに浮かび上がるシルエットも格別だ。

美術とカフェと街角

今年の32日のパリは格別な日だった。正確に言うと、そんな格別な日は毎月一回やってくる。もともと常時無料の美術館があちこちにあるのだが、加えて、毎月第一日曜日は有名美術館や博物館の多くが無料なのである。美術と歴史のファンにはありがたいサービスだ。

200610月には無料でルーヴル美術館に入場した。奇しくも引退した名馬ディープインパクトがロンシャン競馬場の凱旋門賞に出走した日である。

今年は午前にピカソ美術館、夕方の閉館前にオランジュリー美術館と決めた。ピカソのほうは開館前の930分に並ぶ。ルーヴルとは違い、その時間なら列は10数人程度だ。オランジュリーは一時間近く待たされた。みんな同じ思惑だったのだろうか。モネの睡蓮に人が集まるが、ここはそれ以外にもルノワール、セザンヌ、ユトリロ、モディリアニ、ゴーギャンなどの作品が居並ぶ。日本なら、これだけで十や二十の美術館ができてしまうだろう。

ピカソ美術館の後に予定外だったカルナヴァレ博物館へ。ここは年中無料の歴史資料館だが、もともとは貴族の住んでいた館。浅田次郎『王妃の館』のテーマになったヴォージュ広場は、ここから東へ200メートルのところにある。


閑話休題。長い前置きになってしまった。今日はパリ美術案内ではなく、粋なカフェの話。

昨日も紹介したが、ぼくはエスプレッソびいきだ。「苦くて濃くて少量」をめぐって好き嫌いが分かれる。自宅で淹れるエスプレッソも会社近くの店で飲むエスプレッソもおいしい。それでもやっぱり美術鑑賞の後のパリのエスプレッソは格別な気がする。

 フランスではcafé”と綴り「キャフェ」と発音する。イタリア語では“caffè”となり、fが一つ増えて「カッフェ」と音が変わる。見落としがちだが、eのアクセントの向きも違う。こんな薀蓄はさておき、予定外で訪れたカルナヴァレ博物館近くのカフェの佇まいが気に入った。

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自然の緑が織り成す色合いは美しいが、人工的な緑色のコーディネーションで感嘆する場面にはめったに出合わない。このカフェの緑は抑制がきいていた。何よりも「こちらでお召し上がりですか?」「お砂糖は一つでよろしいですか?」などと聞いてこない。ここで注文したのは、言うまでもない、エスプレッソである。店内でも飲める。しかし、少し肌寒いながらも屋外のテーブルに座ることにした。目の前は博物館の裏庭だ。

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グラスに入って運ばれてきた。パリのエスプレッソはイタリアのものより量は多く、ややマイルドだ。めったにないが、このカフェでは水も出してくれた。わが国のお店には、注文から出来上がりに至るまでのつまらぬ質問などやめて、時間と空間と芳醇な味わいを提供するカフェ文化を研究してもらいたい。そっとしておいてほしい珈琲党の願いである。

ゆったりとした時間も食べるスローフード習慣

その時、たしかに時間はゆったりと流れていた。もちろん食事に満足したのは言うまでもない。しかし、時間も至福であった。

20069月の終わりから10月半ばにかけて、フランス、イタリア、スイスを旅した。イタリアでの拠点はミラノ。ある日、北東へ列車で約時間の街、ベルガモへ出掛けてみた。正確に言うと、この街は二つのエリアに分かれている。駅周辺に広がる新市街地のバッサ(Bassa=”低い”という意味)と、中世の面影を残すアルタ(Alta=”高い”という意味)だ。バッサはアルタへ向かうバスから眺めることにし、ケーブルカー駅へと急いだ。ここから標高約336メートルの小高い丘アルタへ。

足早に街を散策する。ランチタイムに地産地消のスローフードを堪能しようと目論んでいるのに、「足早」とは日本人特有の習性か!? ちょっと情けない。何はともあれ、しばらくしてベルガモ名物料理店らしきトラットリアに入る。ハウスワインの赤を頼み、じっくりとメニューから三品。どれも一品千円見当である。

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一品目はお店自慢のご当地チーズの盛り合わせ。なんと78種類が皿に乗っていて驚いた。ベルガモでしか食べられない逸品である。どのチーズを口に入れても、芳醇な風味が鼻に広がり、舌と喉元に滲みていくようだった。

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二品目の前菜は生ハムとサラミの盛り合わせ。これもこの街ならではの一品である。濃い赤身の薄切りは濃厚な猪の肉。猪肉の生ハムは珍しい。脂身のハムは見た目はガツンときそうだが、思いのほか淡泊。

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料理の範疇としてはパスタなので前菜としていただくものである。しかし、この三品目をメインに見立てることにした。餃子のようなラヴィオリの一種。たしかアニョロッティと紹介された記憶がある。挽き肉やチーズなどを詰め込んである。


以上のスローフードにたっぷり2時間。日本では考えられない間延びした時間だ。ちなみに“slow food”はイタリアで造語された英語。イタリア語では“cibo buono, pullito, e giusto”というコンセプトで、「うまくて、安全で、加減のよい食べ物」というニュアンスになるだろうか。

かつてのイタリア料理のように大量の前菜、大量のパスタ、ボリュームたっぷりのメイン料理にデザートとくれば時間がかかるのもわかる。しかし、これもすでに過去の話。一品か二品をじっくりと2時間以上かけて食べるイタリア人カップルやグループが多数派になりつつある。現在、イタリアでもっとも大食なのは日本人ツアー客かもしれない。朝も昼も夜も大食いである。残念ながら、ドカ食いとスローフードは相容れない。大量ゆえに時間がかかってしまうのと、意識的に時間をかけるのとは根本が違うのである。

スローフードは“slow hours”(のろまな時間)であり、ひいてはその一日を“slow day”(ゆっくり曜日)に、さらにはその週を“slow week”(ゆったり週間)に、やがては生き方そのものを“slow life”にしてくれるのだ。

ベルガモの体験以来、ぼくの食習慣は変わっただろうか? 正直なところ、まだまだ道は険しい。でも、少しずつではあるが、毎回の食事に「時間」という名の、極上の一品をゆっくり賞味するよう心掛けるようになった。