何をどう読むか

ぼくが会読会〈Savilnaサビルナを主宰していることはこのブログでも何度か紹介してきた。サビルナとは「錆びるな!」という叱咤激励である。本を読み誰かに評を聞いてもらっているかぎり、アタマは錆びないだろうという仮説に基づく命名だ。登録メンバーは20数名いて、毎回10名前後が参加している。前回などは二人のオブザーバーも含めて14名だったので、発表時間が少なくなった。せっかく読了して仲間に紹介しようとするのだから、最低でも10分の持ち時間は欲しいが、少人数では寂しく、また、賑わうこと必ずしも充実につながるものではないので、少々悩む。

今のところ年に8回をめどにしている。あまり本を読まない人でも、皆勤ならば8冊は読むことになるわけだ。この会読会では書評をレジュメ2枚以内にまとめることを一応義務づけている。そして、新聞雑誌での著名人による書評が当該図書の推薦であるのに対して、この勉強会の書評と発表は「自分が上手に読んだから、話を聞いてレジュメを読んでもらえれば、わざわざこの本を読むまでもない。いや、すでにあなたはこの本を読んだのに等しい」と胸を張ることを特徴としている。なお、ネタバレになるので詩や小説を取り上げないという約束がある。それ以外の書物であれば、時事でも古典でもいいし、洋の東西も問わない。

なぜ書評を書くか。これはぼくの「本は二度読み」という考えを反映している。娯楽や慰みで読む本を別として、読書には何がしかのインプット行為が意図される。そして、インプットというものは一度きりでは記憶として定着しないから、できれば再読するのがいいのである。しかし、一冊読むのに数日を要し、再読に同じ時間を費やすくらいなら、別の本を読むほうがましだと考えてしまう。結果的には、「論語読みの論語知らず」と同じく、「多読家の物知らず」の一丁上がりとなる。本に傍線を引き、欄外メモを書き、付箋紙を貼っておけば、200ページ程度の本なら再読するのに1時間もかからない。読書の後に書評を書くという行為には再読を促す効果があるのだ。


さて、書評で何を書くか。実は、これこそが重要なのである。まず、決して要約で終ってはならない。要約で学んだ知は教養にもならなければ、人に自慢することすらできない。一冊の本を読んで、要約的な知を身につけた人間と、その本の一箇所だけ読んで具体的な一行を開示する人間を比較すれば、後者のほうがその書物を読んだと言いうるかもしれない。そう、具体的な箇所を明らかにせずに読後感想を述べるだけに終始してはいけないのである。したがって、引用すべきはきちんと引用し、読者として評するべきところをきちんと評するのが正しい。誰も他人の漠然とした読後感想文に興味を抱きはしない。

きちんと引用しておけば、書評に耳を傾けてくれる仲間にその書物の「臨場感」を与えることができる。引用には書物の凹凸があるが、感想はすべての凹凸をフラットにならしてしまう。これぞという氷山の一角を学べる前者のほうがすぐれているのだ。何よりも、引用こそが知のインプットの源泉にほかならない。ともあれ、ルールという強い縛りではないが、以上のような目論見があれば、10人集まる会読会では、仲間の9冊の本を読むのと同じ効果がある。少なくとも読んだ気にはなれる。

どんな本をどのように読むか。強制された調べものを除けば、原則は好きな本を楽しく読むのだろう。世には万巻の書があるから、好奇心を広く全開しておくのが望ましい。食わず嫌い的に狭い嗜好範囲で小さな読書世界に閉じこもっているのはもったいない。ぼくの読書はわかりやすい。知識の補給としての書物と、発想や思考を触発する書物の二つに分けている。前者と後者の割合は2:8程度。前者には苦痛の読書も一部あるが、後者は嬉々として著者と対話をする読書である。対話だから真っ向から反論も唱える。今は亡き古今東西の偉人たちとの対話が個別にできるほどの愉快はない。たとえば、『歎異抄』を読むということは、親鸞の知と言について唯円と対話するということなのだ。

これまで、取り上げる書物については、文学作品以外に制限はなかった。次回6月の会読会では、初めての試みとして「読書論、読書術」にまつわる本を読んでくるという課題を設けることにした。会読会メンバーの最年少がたしか37歳なので、今さらハウツーでもないのだが、自分の読み方を客観的な座標軸の上に置いてみるのも悪くないと思った次第。ぼくは二十代半ばまでに50冊以上の読書論、読書術、文章読本の類を読んだ。大いに勉強にはなったが、中年以降になったら読書術の本を読む暇があったら、せっせと読書をすればいいと考えている。ゆえに、今回のハウツーものの課題は一度きりでおしまい。 

相互参照はキリがない

忙しさにかまけて、インターネットでさっさと調べることがある。インターネットも百科事典のように〈相互参照クロスリファレンス機能〉を備えている。たとえば、ある本で知った専門語を手繰っていけば、そこから蜘蛛の巣のように相互参照のネットワークが広がっていく。両者の違いは、百科事典の場合には全巻の内部で相互参照が成り立っているのに対して、インターネットでは参照や引証がほとんど無限連鎖していくという点である。

この無限連鎖はまずい。本題から逸れてエンドレスサーチャーになってしまうからだ。そこで、ネットの利用に関しては歯止めになりそうな条件をつけるようにしている。まったく何も知らない事柄については、初動手段としてウェブを利用する(辞書は机上に置いてあるので、用語の意味はめったにネットでは調べない)。さらに、ある程度はわかっているが、具体的な事例が欲しいとき、身近にある書物以外に何かないだろうかとネットで調べることもある。もう一つは、いずれは読んでみたいと思っているが、当面のところ時間もないし他の本で手が一杯のとき、ネット上で読める専門家の書評や論評をとりあえず予備的にアタマの片隅に入れておく。松岡正剛の『千夜千冊』などはとてもありがたい無料の公開情報である。

正直に言うと、自分でもどこかで喋り研修のテキストなどでも使っているくせに、ふとした勘違いで間違ってはいないかと思ってインターネットにあたることもある。詠み人知らずの情報ではまずいので、ウィキペディアではなく、極力専門家のシラバスやその人たちが開設しているサイトを読んでみる。手元にどんな本でもあるわけではないから、そういう場合にはほんとうに重宝する。だいたい、気になって調べる時は事実誤認している意識がどこかにあるので、結果として念のために確かめておいてよかったと胸を撫で下ろすケースが多い。


浅学だが論理学を曲りなりに勉強し実践してきたから、〈小概念不当周延の虚偽〉という専門用語について知っているし、それが「小さな情報から大きな結論を導いてしまうことによって犯してしまう誤り」であることくらい承知している。たとえば、「彼は遅刻した。ゆえに信頼できない」などがその一例。一度だけの遅刻によって信頼できない男というレッテルを貼ると虚偽を導出してしまいかねない。他に好例がないかと思ってネットで調べてみたら、その項目で検索された最初のページの上から8番目に「オカノノート」が出てきた。どこかで見たと思ったら、本ブログではないか。思い出した。この用語が登場するブログ記事をぼくは以前書いていたのである。

自分の書いたものをあやうく参照するところだった。いや、ちょっと待てよ。それが仮にぼくではなく別の誰かが書いたものであったとしても、その誰かがもしかするとぼくの書いたものを参照したかもしれないではないか。ソースのわからない情報というのは、こんな具合に相互参照が繰り広げられて雪だるまのように膨らんでいる可能性がある。ふと思い出したが、以前ぼくがM君に話してあげたとっておきのエピソードを彼がある勉強会で披露した。後日、その勉強会に出席していたK君にいみじくも同じエピソードをぼくが語ったら、「先生、Mの話のパクリですね」と言われたことがある。ネット上では情報発信の本家がどこかはわからない。ぼくにしたって、そのエピソードをどこかで知ったのだから。

それにしても、変な尻尾だと思って正体を暴こうとしたら、それが自分に辿り着くなどというのはインターネット特有の現象ではある。ぼくのような人間には、小さく閉じられた世界の中でささやかに調べたり考えたりしているのがお似合いなのだろう。ブログやツイッターに日夜目配りしているのはよほどの暇人である。ふつうの仕事をしてふつうの生活をしていれば、たとえ義理があろうとも知人友人のサイトのことごとくに目は届かない。「岡野さんのブログを読ませてもらっています」と言われても、ほとんどがお愛想だ。そうそう、ネタの仕込みとして、ぼくと会う前日か当日にさっとブログに目を通している人は案外多いかもしれない。

考えることと考えないこと

すでにゴールデンウィーク真っ只中の人たちもいるが、世間一般的には明日からの5日間が大型連休になるのだろう。この時期と秋のそれぞれに5連休を設けようと政府が休日分散化案(あるいは地域別連休案)を練っているのはご承知の通り。スムーズにいけば、2012年度から実施する意向のようである。

ハイシーズンゆえに割高になる旅行費用、それに観光地集中による交通渋滞への対策らしい。観光庁長官によれば、「観光市場の拡大のみならず、国民が心豊かに暮らすための生活の質の変化」(毎日新聞)を睨んでいるそうだ。余計な世話を焼くものである。「生活の質の変化」などは個人が日頃から心掛けるべきであって、政府の政策や環境整備などとは直接的につながるものではない。長蛇の列に並ぶのも渋滞に巻き込まれるのも、絶対に嫌なら避けることができる。そういう状況を覚悟しながらも、(自宅でのんびりせずに)人気観光地へと出向くのは個人の自由裁量である。

閑古鳥の啼く観光地と長蛇の列を成す観光地の格差は休日とは無関係に存在する。分散化しようが地域別にしようが、人気スポットは変わらないから、どんな休日であっても混む場所は混む。もし混まないときに行きたいのであれば、平日に休暇を取って行くのがよい。そう、最上の休暇は個人もしくは家族にカスタマイズされた休暇にほかならない。ところが、政府はこう主張する、「有休取得と声を上げても進まない」と。ところが、「地域分散化によって休暇への意識を高め、これにより有給休暇を取得する動機になりうる」とも言う。ほら、結局有休取得に答えが落ち着くではないか。国の休暇案を動機にするまでもなく、個人が内なる動機にさっさと火をつければ、個性的で「心豊かな」休暇への第一歩を踏み出せばいいのだ。自分の生き方くらい自分で設計すべきではないか。


いかにも彼らは考えているようだが、大企業サラリーマンと公務員の視点に偏っていて、生活と仕事の関係や休暇の本質についてはほとんど熟考できていない。人気観光地は年中割高なのだし、人で混み合っている。休暇を分散化し地域別にしても混雑は緩和しない、いや、そうすればますます集中する可能性だってあるのだ。職場に気遣って有給休暇をまともに取れないような人間が、国にアレンジされた休暇を楽しめるはずもない。繰り返すが、最良の休暇は誰にも気兼ねなく、自分の意思で選択し愉しむ休暇である。昨日オープンしたクリスピードーナツ心斎橋店で最大6時間並ぶのも自由、見向きしないのも自由である。

『考えることと考えないこと』というタイトルでぼくが明らかにしたいのは、考えてわかることと考えないからわからないことの対比、そして考えてもわからないことと考えなくてもわかることの対比である。各界の意見に真摯に耳を傾け幅広くヒアリングを重ねてわかることもあれば、そうすればするほどわからなくなることもあるのだ。ぼくは仕事柄「よく考えること」を鼓舞するのだが、あまりにも純文学的に説くのは誤解を生むのではないかと最近反省している。

「考える」という行為は「考えない」という状態とセットにしなければならない。「よく考えよ」という教えを額面通りに受け取ってもらっては困るのである。「考えない」あるいは「考えなくてもいい」があるからこそ、「考える」ことの意味や出番があるのだ。ちょうど「息を吐け」の文脈に「息を吸え」が暗黙のうちに包含されているように。考えるには、詮無いことを考えない、あるいは考えても仕方のないことを考えないという相反状態がなければならない。国民の心豊かなライフスタイルについて考えに考え抜いた結果が休日の分散化もしくは地域別休日とは、思考エネルギーの注ぐべき方向違いと言わざるをえない。  

好き嫌いのスタンス

日常生活の大小様々な意思決定の主役が理性的判断などと言うつもりはない。もちろん服飾品にしても文房具にしても、どんなものを用いるかにあたって各人それぞれが理に適ったものを使っているはず。しかし、理性そのものが支配的であるわけがない。日々の意思決定には、好き嫌いという、本人にはきわめてわかりやすい感覚のスイッチが働く。オンかオフの行方が決まってから理性による自己説得という手順になるものだ。

とは言え、好き嫌いは不安定である。「何色が好き?」と聞かれて「白」と胸を張って答える人がいないわけではないが、何から何まで白で装うのは非現実的だ。わが国のしきたりに従えば、葬式に白ずくめはまずい。黄色のシャツが好きだからといって、男性で黄色の靴も好きという人を知らない。茶色が嫌いでも、コーヒーが好きなら茶色の液体を口に入れる。

敢えて一色ということになれば、ぼくは青色を好むが、身に着けるときはさほどではない。と言うよりも、芸能人でもあるまいし、青に執着していては日々の衣装や仕事着に困る。青を好む性向はおおむね青を基調とした風景や絵画に対してであって、カーテンや調度品が青いのは願い下げだ。但し、水性ボールペンや万年筆のインクはすべて青色である。まあ、こんなふうに何から何まで好き嫌いを貫き通せるものではない。


広告の仕事をしていた頃、あるスポンサーの部長が「ここのところは赤がいいねぇ。ぼくは赤が好きだから」と洩らした。好き嫌いの尺度である。広告のデザイン要素と絵画は少し違う。好きな絵は好き、嫌いな絵は嫌いでいいが、広告という、複数スタッフが関わって制作される企業の媒体は市場に働きかけて何らかの効果を出さねばならない。この色がいい、このコピーがいいなどと私的嗜好性だけで制作を進めるわけにはいかないのだ。全員一致の科学的根拠を踏まえよなどと言っているのではない。企業として説得や効果に関して何がしかの指標や基準があってはじめて、妥当と思われる色使いなり文章なりが決まるのである。そんな面倒なことが嫌ならば、有名デザイナーやコピーライターに丸投げすればよろしい。

禅宗に「五観ごかん」という教えがあり、その三つ目に「しんを防ぎ 過貪等とがとんとうを離るる」がある。心を正しく保ち、過った行ないを避けるために貪りの心を持たないという意味である。要するに、くだらぬ好き嫌いに拘泥するなということだ。五観の偈は「食事五観文」とも呼ばれ、特に食事に関する戒めを説く。ここで道徳的な説教を垂れるつもりはない。あれが好きだ、これは嫌いなどと食材に文句を言っているようでは、世の中生きていくうえでさぞかし数々の障害物にぶつかるだろうと思われる。なぜなら、嫌いなことが好きなことを圧倒しているからだ。

幸いにして、たしなみの頻度を別にすれば、ぼくの食の嗜好は偏っていない。出されたものはつべこべ言わずに何でも食べる。同様に、対人関係にも好き嫌いを持ち込まない。ぼくにとっては人物の好き嫌いなどよりも意見の相違のほうが関心事なのである。たとえば議論の際、好き嫌いだけで主張をされては困るが、理性の前段階に感覚というものがあって、そこに好意と嫌悪の情が介在することをぼくも認める。しかし、なぜ好きかなぜ嫌いかを説明するのは容易ではない。説明不可能なことを議論の対象にしても空しいばかりである。 

今日は会読会の日である。みんなそれぞれの気に入った書物を一冊選び読んでくる。ここまでは好き嫌いの判断でいい。しかし、その書評を仲間に公開する段になれば、理性的処理によって解説ないし啓発しなければならない。好き嫌いの次元で講評するような話に熱心に耳を傾ける気はない。好き嫌いにはコメントできぬ。これはぼくの嫌悪感の表明ではない。せっかくの書評にぼくは大いに関わりたいのである。 

策がないと嘆く人々

「アイデアのかけらも出てこない」と嘆く人がいる。嘆くことなかれ。凡庸なぼくたちにそう易々とアイデアは訪れてくれない。いや、アイデアというものは、神仏がどこかから突然降臨するように「やって来る」ものではない。特に、怠け者の空っぽの頭とはまったく無縁だろう。

アイデアは、自分の脳から絞り出すしかない。ある情報が触媒となって既知の何かを刺激し鼓舞してひらめく。あるいは、その情報が既知の何かと結ばれて異種なる価値を生み出す。アイデアはこのようにして生まれるのだが、アイデアの萌芽に気づかなければそれっきりである。実は、アイデアは質さえ問わないのなら、いくらでも浮かんでいるはずなのだ。しかし、呑気に構えるぼくたちはアイデアの大半を見過ごしてしまっている。

「万策尽きた」と生意気なことを言う人もいる。「万策など考え試せるはずがないではないか」と万策ということばに屁理屈を唱えるつもりはない。万策が誇張表現であることくらいはわかっている。人間の考えうるありとあらゆることなどたかが知れているのだ。たいていは、二案や三案考えておしまい。いや、数が多いのがいいと言っているのではない。ぼくが指摘したいのは、脳が悲鳴を上げるほどアイデアを出そうとしたり策を練ろうとしたりしていないという点である。


ここ数年、テーマとソリューションの関係について考え続け、一つの確信を得るようになった。できる人間はテーマが少なくてソリューションが豊富、他方、できない人間ほどテーマを山積させてソリューションが絶対的に不足してしまう。正確に言うと、後者は仕事ができないことを穴埋めするためにどんどん課題を見つけて抱え込むのである。どこか官僚的構造に似通っているように思わないだろうか。とりわけ、掲げる理念に見合った政策が実施できていない。

いつの時代も、マクロ的に社会を展望すれば「テーマ>ソリューション」なのである。問題の数は解決の数よりもつねに多い。クイズは千問用意されるが、千問すべてが正答されることはない。しかし、特定の一問だけに絞ってみれば、そこには複数解答の可能性がある。企画の初心者は、とりあえず当面の一つのテーマについて、できるかぎり多くの策を自力でひねり出す習慣を身につけるべきだろう。二兎を追う者の策は限定され、結果的に一兎をも得ない。しかし、一兎のみを追おうとすればいくつかの方法が見えてくるものである。

アイデアは鰻のようだ。尻尾を掴めたと思ってもするりと逃げる。アイデアは泡沫うたかたのようだ。方丈記をもじれば「アタマに浮かぶアイデアはかつ消えかつ結びて」なのである。油断していると、すぐに消えてしまう。では、どうすればいいか。「ことばのピン」で仮止めするしかない。アイデアはイメージとことばの両方で押さえてはじめて形になってくれる。

最後にまったく正反対のことを記しておく。アイデアは出る時にはいくらでも出る。複数のテーマを抱えていても、出る。何の努力をしなくても、出る。ぼんやりして怠けていても、出る。ふだんから「何かないか」と考え四囲の現象や情報に注視する癖さえつけておけば、出やすくなるのだ。運命を担当する神は気まぐれだが、アイデアを仕切る神は努力に応じた成果配分主義を貫いてくれる。少しは励みになるだろうか。 

その人はどんな人?

なぞなぞ風に考えていただこう。

「その人はゆっくり喋る。時には寡黙を決め込む。決して慌てず、急がない。そう、マイペースを保つ。仕事を欲張って抱え込まない。仕事が増えてくると断ることさえある。場合によっては、自分の仕事を同僚や部下に回してあげる。休暇をきっちりと取る。趣味の時間をたっぷり取る。さらに、ここまで挙げたことと打って変わるようだが、その人はお任せ的な生き方・働き方が好きで、自ら意思決定をすることはめったにない」

さあ、どんな人なんだろうか? 十数年前にぼくは複数の人々をよく観察し、その人たちに共通する特性を以上のように絞り込んだのである。一体どんな人なのか? 答えは「ストレスの溜まらない人」である。えっ? と思った方がいるかもしれない。ストレスを溜め込まない人には、明朗でアバウトで嫌なことをすぐに忘れて……などのイメージがつきまとうようだが、それは誤った通念である。にわかに信じがたいなら、試みに上記の段落の個々の文章を打ち消し文にするか、表現を対義語に変換すればいい。「その人は早口で喋る。いつも慌てていて、急いでいる……」というように。そこに描き出される人物が「ストレスを溜めてしまうタイプ」であることが明らかになるだろう。


「彼は強烈なリーダーシップを発揮する。仕事も趣味も愛し、いつも元気に高笑いしている。わがままで好き放題に生きているわりには、人から信頼されていて、いつも取り巻きに愛されている」。一見すると豪傑タイプに見えるこの彼が、実は神経質でストレスに苦しんでいたりする。逆に、気が小さくてナイーブ、人の顔色ばかり見ておどおどしているようなタイプが、ストレスにはまったく動じていなかったりする。人とストレスの関係は不可思議である。

ストレスの心理や科学についてはまったく不案内である。ぼくのストレス観は、英和辞典の意味に忠実で、「圧力、抑圧、緊張」。仕事や人間などの対象から解放されているとき、人は圧力、抑圧、緊張を軽減することができる。但し、対象の中には内なる完璧主義や理念のようなものがあって、これらがストレス要因になったりすることもある。脱ストレス的生き方をしようとすれば、対象へのこだわりを少なくし、対象を軽く流すことが不可欠になる。これが冒頭で描写した生き方に通じてくるのだ。

対人関係におけるストレス。人間が二人以上集まり、そこに一人とは異なる関係が生まれる時、何らかのストレスが生まれる。ストレス量が10で、二人が5ずつ分け合えばまずまずだろう。実際は、ストレスの溜まり具合は偏る。だから自分が楽なときは相手がしんどいのだろうとおもんぱかってみる。だいたいにおいて、ストレスを溜めない人間がいれば、その周りの人間にストレスが溜まっているものである。最悪は、本来のストレス量が両者に分散されず、それどころか、それぞれが倍のストレスを受け取ってしまうケース。こうなると関係修復はむずかしい。  

対話のための条件

昨夜『対話からのプレゼント』と題して文章を書いた。但し、ただでプレゼントにあずかろうとするのは勝手が過ぎる。プレゼントを貰おうと思えば、それなりの条件を満たさねばならないのだ。対話を「論争」という激しい表現に変えても同じこと。少なくとも意見を異にする二者が何事かについて賛否を交えるためには、いくつかの条件が揃う必要がある。

見解の相違は人間社会の常態である。満場一致やコンセンサスのほうに無理や不自然さを感じる。十人十色とは言い得て妙で、人の意見は同じであるよりも異なっていることのほうが常。同種意見で成り立つ同質性の高い集団は脆弱であり、異種意見を容認できる異質性の高い集団は柔軟にして変化に強い。もちろん例外もあるが、安易に意見を同じくしようとする努力の前に、双方の異種意見に耳を傾けて大いに議論を戦わせるべきだろう。ぼくたちの風土は、反論や批判にあまりにも弱すぎる。

二十代の頃によく対談集を読んだ。わが国で出版される対談集のほとんどは、座談会形式によって編み出される。めったに挑発的なくだりに出くわさないし、スリリングな論争も見受けない。対談する両者の仲が良すぎるのである。もっとも、仲が良いから是非の対話ができないわけではない。仲が良いからこそ、激論しながら「親しき仲にも礼儀あり」を尊べるとも言える。逆に、見も知らずの相手になると、無難な会話で済ますか、あるいは一触即発の交渉的論争になってしまう可能性が高くなる。


さて、本題。ある命題を巡って主張し反論する対話やディベートにおいて、否定は不可欠な条件である。しかし、通りすがりに誰かを殴りつけるように否定できるわけではない。否定や反論は「何か」に対しておこなわれる。その何かがなければ否定や反論に出番はないのだ。その何かとは、いずれか一方による最初の意見である。サーブがなければ打ち返せない。先手に最初の一手を指してもらわねば、後手はいかんともしがたいのである。

まず、いずれか一方が基調となる意見を述べる。ディベートでは、肯定側による論題支持がこれに当たる。わかりやすさのために一例を挙げる。テーマは「和食の後は日本茶にかぎる」。

「ぼくは和食の後は日本茶にかぎると思うね」と一方が意見を述べる。対話術の訓練を積んだ人間は、この意見に続いて必ず理由を述べるし、必要ならば事例や権威を引く。しかし、相当な知識人でも、対話に親しんでいない者はぽつんと一行語っておしまいだ。この意見に対して、ぼくの常識・経験センサーが反応して「意見の異種性」を検知する。けれども、論拠も証拠もない主張だから、「いや、和食の後は日本茶とはかぎらないだろう」という否定で十分。わざわざ紅茶でもコーヒーでもいいなどとこちらから証明することはない。

もうこれで勝負ありなのだ。そう、後手(ディベートの否定側)の勝ち。後手(否定側)は、先手(肯定側)の説明の程度にお付き合いすればいいのである。このように、端緒を開く側が対話成立の第一条件を満たさねばならない。質も議論の領域も方向性もすべて、この第一条件によって決まる。「和食の後は日本茶にかぎる」という主張を支える理由を示すという条件である。否定する側は、命題を否定するのではなく、この理由に反論するのだ。理由を崩すことができれば主張が揺らぐ。

最初に主張する者(肯定側)の負担は大きいということがわかるだろう。「主張する者が立証の責任を負う」と言われる所以だ。反論する側は立証されもしていない主張を崩すことはできない。そこに何もなければ否定はできないのである。初級教育ディベートでは肯定側を大目に見ることがあるが、限度がある。「和食の後は日本茶にかぎる」と言いながら、烏龍茶の話ばかりしていたら命題に充当した議論になっていない。これでは救いようがない。

すぐれた主張がすぐれた反論を生み、それがすぐれた再反論をもたらし、ひいてはすぐれた意見交換と啓発の機会をもたらす。すぐれた対話術ディアレクティケーへの道はひとえに最初の話者が鍵を握っている。対話やディベートの初心者はここを目指さなければ上達は望めない。

「知のメンテナンス」とは何か

すっかり日本語になったメンテナンス(maintenance<動詞maintain)。今ではほとんどの場合、「保守」を意味する。原義は「維持」に近く、しかも”main+tain“と分解すると「手+持つ、支える」となって、「手入れ」に近いような、アナログ的ニュアンスが浮き彫りになる。

ずいぶん前の話になるが、コピー機がよくトラブルを起こしたものである。メーカーは定期的に保守点検をしてはいたが、突発の故障発生にしょっちゅう顧客に呼び出された。故障からの回復を容易にすべく、各社は競ってコピー機に〈自己診断セルフ・ダイアグノシス〉の機能を付加した。機械そのものが、「この箇所がトラブル発生源」とか「修復するにはこの手順」などと自己診断して、ユーザーに知らせるのである。機械は「調子が悪い」と告げて原因も明らかにするのだが、残念ながら修復には他力を必要とする。

機械を人間に置き換えてみよう。「体調が悪い」と自覚しなければ、人間は治療したり改善したりしようとはしない。正確な診断と処方を医者がおこなうにしても、まずは「何か変」に本人自身が気づかなければ、医者のもとを訪れることはないだろう。プロスポーツの選手などは必ずどこかが悪いものなので、自覚するしないにかかわらず、習慣的な身体の手入れを怠らない。この「手入れ」というのが、メンテナンスの本来的な姿だと思う。


そこで、知のメンテナンスとは何か、である。「アタマが悪い」と気づき、良くなるように保守点検することか。いや、成人なら、自分のアタマの良し悪しの値踏みはしているだろう。少なくとも他者と比較しての相対的な判断ぐらいは、とうの昔に下しているはずだ。知のメンテナンスではアタマを良くすることはできない。もう一度、機械のメンテナンスを思い出してほしい。それは機械の質を高めることではなかった。その機械に付与されている機能を十全に働かせることであった。機能そのものが、高機能であれ低機能であれ、うまく働いていないときに迅速に手入れをすることがメンテナンスなのである。

知のメンテナンスにおいては、アタマが悪い人でも知が精一杯働いていれば、機能不全に陥ったアタマの良い人よりも、手入れが行き届いているという考え方をする。アタマの悪い人には励みになるだろう(ならないか!?) ぼくは軽はずみに冗談を言っているのではない。世の中がアタマの良し悪しで動いてはおらず、人間力や成功がアタマの良し悪しだけで決定しないのを見ればわかる。IQの高低や知識の多寡よりも重要なのは、自分自身の知が健全に働いていることなのだ。

同じ仕事を続け同じ発想ばかりする。情報をやたらに取り込みはするが知が働かない。逆に、アタマは混沌としてにっちもさっちもいかない。放置していると、現代人は知の迷い子になってしまうのだ。ことばの使い方、アタマの働かせ方には「理に適う」ことが必要なのである。アタマを良くするコツがないとは言わないが、持てる知の最適稼動が先なのだ。機械が己の機能を知っているほどに、ぼくたちは己の知のありよう、言わば〈知図〉に精通していない。

知のメンテナンスとは、知の方向音痴に手入れをすることにほかならない。ひとまず大まかな東西南北の位置関係をきちっと見極めれば、やがて南南東や西北西などの精細な方向感覚が鋭くなってくる。以上のような視点を、ぼくは今年の私塾のテーマにしている。人物論を触媒にして、一工夫凝ったつもりである。  

「見当をつける」という知の働き

「さっぱり見当がつかないので、やってみるしかない」という決意を耳にする。一か八かのようでもあり、決死の覚悟のようでもある。負け戦になってもやむなしという諦めも前提にありそうだ。見当がつかないことを「イメージが湧かない」と言い換えることができる。状況不明、方位方角不明、どんな結末になるかもわからない。「どう転ぶかわからないが、できるだけ頑張ろう」という、一見頼もしそうな心理に危うさを感じる。時間に急かされてやむをえずそうなってしまったのか、状況判断のしようがないのでやるしかなくなってしまったのか。いずれにしても、あまり歓迎したくない切迫感が張り詰める。

見当とはいろんな材料によっておおよその方向性や好ましい結果に向けての判断をおこなうことだ。ここで重要なのは、いろんな材料をわざわざ集めるのではなく、日頃から身につけてきた知識を生かすという点である。そうでなければ「見当をつける」ことにならない。テーマが与えられてから情報を収集し分析して、しかるべき結果やソリューションを導くことを見当をつけるとは言わない。その作業は見当がつかなかった者が選ばざるをえない苦肉の次善策にほかならない。

ありとあらゆる材料を集めて、それらの総和によって正解への方向性が見えてくるのではない。たとえば、「急いては事を仕損じる」という諺を命題に見立ててみるとき、手に入るだけの証拠を集め考えうるかぎりの論拠を編み出して真偽や是非を論じても答が浮かび上がってこない。むしろ、おびただしい証拠と論拠によって真偽・是非が拮抗して判断がつかなくなり、茫然と立ちつくしてしまう結果となる。状況の把握ができなくなる、こういう事態は「見当識失調」と呼ばれる。ちなみに「急いては事を仕損じる」という命題に対するぼくの見当は「非」である。下手な遅疑よりは何かにつけてまず急いでみることが寛容だと思っている。この見当の次に、現実的な是非の吟味をおこなうことになる。


微妙な表現遣いで恐縮だが、「見当がつく」と「見当をつける」は違う。見当がつくときは、あらかじめ仕事や命題そのものに判断材料が備わっている。その場合は、誰にとっても見当がつくわけで、特別な誰かを必要とするわけではない。つまり、「次の一手」は自明である。ところが、見当をつけるほうは、自分の知とイメージを進んで働かせるという意味だ。人によって次の一手が変わる。それゆえに、たとえば将棋のプロはぼくのようなアマチュアよりも状況の読みが深く、かつ蓄えてきた手筋や定跡の知と想定イメージが質量ともに膨大だから、高い確率で最善の手の見当をつけることができるのだ。

情報が簡単に集まるようになった現在、ぼくたちは能率のよい時代に生きている。しかし、この能率性が曲者だ。いつでも材料が集まるとなれば、ふだんの品定めがおろそかになるし目配りや取り込みの真剣みが甘くなる。実際、企画の指導をしていると、テーマの見当をまったくつけることなく、テーマに関連する情報をやみくもに集めることを作業の出発点にしてしまう人たちばかりである。絵具と筆とスケッチ帳を用意しても、主題の見当をつけなければ絵は描けない。筆に随って文章を書くことを随筆と言うが、筆のおもむくまま小文を綴ることなど不可能で、実際は体験や見聞の題材の見当をつけてから書き始めるものだ。

見当をつけることを別の言い方をすれば、予想する、推測する、想像するなどになる。さらに軽く言えば、大体の方向性の察しをつけるということだ。この知の働きなくしては、どんなに質のいい情報をどれだけ多く手元に置いても、仕事は遅々として進展しない。情報の選別や分析をしたり組み合わせたりして答が見つかるのではなく、答らしきものの見当をつけておかねばどうにもならない。もちろん、見当をつけた方向性に答が見つかる保証はないが、そうする者はそうしない者よりも直観やひらめきのトレーニングを積んでいることになる。 

できる人の想像力

まだ一ヵ月ほど先の仕事だが、二部構成の講演がある。第一部と第二部の講師は別、というのが通常だが、どちらもぼくが担当する。第一部がプロフェッショナル論で、第二部がマーケティング論。同一講師が別のテーマを語るケースは少ないが、これがぼくの馴染んだ欲張りパターンだ。聞く方も話す方も一テーマ4時間よりは二つのテーマを各2時間のほうが集中しやすい。別にテーマ領域の広さを自慢しているわけではない。一見異なった二つのテーマには共通のコンセプトや考え方が横たわっているものである。同日ゆえ学習の相乗効果も高い。何よりも、同額報酬で二本立てだからお得だ。

第一部のプロフェッショナル論については、ここ数年、仕事の作法やプロの仕事術、あるいは発想の達人などの名称で講演と研修をしてきた。動機はいたって素朴だ。その道の専門家はどのようにして一人前になっていくのか、ひいてはどのように学べばそのようになれるのか、その学び方にぼくごときが少しでも関与して自己訓練を手伝えないかという思いがある。NHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』を見て感心することが多いが、特に番組に大きく影響を受けた結果ではない。

当然のことながら、仕事ごとにプロフェッショナルの極意や流儀は異なる。これまでに同番組が取り上げた専門家で言えば、たとえばマグロの仲買人と遭難救援隊員とでは技も道も精神も大いに違っている。おそらく一人前になるのに要する歳月も長短あるだろう。にもかかわらず、プロフェッショナルの誰もが等しく達している境地を窺い知ることはできる。共通の感覚や精神や頭脳の働きなどが一つの型として浮かび上がってくるのだ。いろんなプロフェッショナルと出会い観察し雑多に本も読んだ。そして未だ行く手に険しい道があることを自覚しつつも、少しずつ成長している自分自身の体験をもなぞっているうちに、数年前から「鍵を握っているのは想像力だ」という確信を得るようになった。


「いやいや、年季や経験や場数こそがものを言うのではないのか」という異論が立つかもしれない。しかし、よく考えてみれば、その類が高度な専門性の証になるとはかぎらない。天与の才を論うとキリがないから、同等の能力でその道に入った二人を仮定しよう。同年数で同経験を重ね同じ場数を踏んだとしても、そこにプロフェッショナル度の差が出るのはなぜか。固有の経験は、確実な積み重ねであるだけに基礎固めに力を貸すが、他方、偏ることもあるし融通性を欠くこともある。経験が未知の領域で応用力を発揮するためには、基礎的な技術が想像力と出合わねばならないだろう。

ここまでかたくなに難しく考えなくてもいい。ぼくたちは、その人のキャリアによって専門家や名人を感じることは少ないのだ。いたずらにキャリアだけを積みながら、プロフェッショナルからは程遠い凡俗はいくらでもいる。協力会社の新人が何度もミスを重ねるので一言、二言意見したら、「今後は御社にはベテランを起用しますのでご容赦ください」と謝罪されたとしよう。それであなたは諸手を挙げて小躍りするか。否である。そのベテランが「できる人」という信憑性は、年季と経験によるだけでは確約されない。

ぼくの知るプロフェッショナルたちは、決して経験に安住しないし、技量そのものにもこだわらない。彼らはほぼ共通して機転が働く。みんなよく先を読んでいる。先を読むが、ありとあらゆるシミュレーションを立てるわけではない。そんなムダをするのはアマチュアだ。プロフェッショナルは暗黙知によって要所だけを読む。結果の両極を読み、その間に起りうる状況をつぶさに想定せずとも、ものの見事に対応してみせる。それこそ想像力の手並みなのだ。プロフェッショナルはつねに期待される以上の成果を生み出す。その能力の拠り所を信念や使命感ととらえてもいいが、もっとも具体的でぼくたちが自己研鑽できそうなのが想像力だと思うのである。