値段がクイズになる会話

K氏が知人からゴルフ会員権を買った話を氏にしている。ぼくはゴルフとは縁のない人生を送ってきたので、会員権が何百万とか何千万とかいう話が飛び交っても感覚がよくわからない。耳を傾けていると、かつてマンションと同じくらいの価格だった会員権を20分の1で買ったと言うのである。それも、ふつうに語るのではなく、安く買ったことを鼻高々に弁じているのである。典型的な大阪オバチャン的キャラのK氏のことだ、おそらく今日に至るまで方々で吹聴してきたに違いない。

「大阪人は変だね。なんで安く買ったことを自慢したがるのかわからない。東京じゃ、むしろ高く買ったことに胸を張るよ」と関東出身のS氏が呆れ返る。大阪人であるぼくも、S氏に同感である。このブログで拙文に目を通していただいている大阪以外の地域の読者が7割。想像してみてほしい。大阪人ならほとんど自らが出題者になり、また回答者にもなった覚えのある日常会話内のクイズが、「これ、なんぼ(いくら)やと思う?」だ。身に着けている商品ならそれを指差して値段を推測させるのである。K氏もまったく同じように、「会員権、なんぼでうたと思う?」と尋ねていた。

「これ、いくらだと思う?」と切り出すのは、驚くほど安い買物をしたことを自慢する前兆である。「いくらかなあ、五千円くらい?」と言わせておいて、にんまりとして首を横に振り、「いや、たったの千円!」とはしゃいで見せる。まるでバナナの叩き売りをするオヤジ側の口調みたいなのである。もちろん、自慢したり自慢されたりの関係にあっては、安い値段を聞いて「へぇ~」と驚く。そのびっくり具合を見て当の出題者は勝ち誇る。


だが、会話がそんなにスムーズに運ぶとはかぎらない。なにしろ値段を当てさせようと出題した時点で、思いのほか安かったというヒントが見えているからだ。的中してしまうと出題者は少し残念そうにする。しかし、実際の値段よりも安く答えられるともっとがっかりし、やがてムッとして「そんなアホな。そんな安い値段で売ってるはずないやん!」と吐き捨てる。気分を害してしまうと、正解も言わずに会話を終える。大阪人に「これ、なんぼやと思う?」と聞かれたら、推定価格の数倍で答えておくのがある種の礼儀かもしれない。高めに回答し、してやったりの顔で正解を言わせ、仰天してみせる。場合によっては「どこに売ってるの?」と興味を示せば、完璧な会話が成立する。

日曜日の昨日昼過ぎ、出張から帰阪した。地下鉄のホームに降りて電車を待つ目の前で七十半ばの老人二人が話している。二人は知り合いで、バッタリ会った様子である。男性のほうが、デパートの地下食料品街でおかずを見つくろって買った話をしている。「あんたは何してたん?」と聞かれて、瞬発力よろしく女性が反応する。「私? 私はお茶をうただけ。お茶、三百円」。出題こそしなかったが、物品購入時にご丁寧に値段も暴露する。これが大阪人のDNAのようである。

必勝法と適用能力

成功法則があるのかないのかは微妙な問いである。「万人に当てはまる絶対的な成功法則」はたぶん存在しない。世間には「成功の何とか法則」とか「何々をダメにする悪しき習慣」などの本があり、そういう類のセミナーも開かれる。かく言うぼくの講座やセミナーにも「成功法則20」と副題のついているものがある。きっちり20という数字になること自体が怪しくて嫌なのだが、主催者側が「このほうがいいですよ」と主張するから逆らわない。「数ある法則のうち主な20」と読んでもらえればありがたい。

江戸時代の剣術の達人だった松浦静山まつらせいざん。そのあまりにも有名な「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」に従えば、おおよそ勝利の方程式は不確実であり、敗北の原因は特定できることになる。ぼくのような凡人は、はっきりしやすい敗因に学び反省するのが一番と割り切っている。一桁も二桁も能力上位の人間が成し遂げた成功に憧れて真似てみても、いったい成功要因のどれを学べばよいのかわからない。いや、もとより不思議な成功に要因があったのかどうかすら定かではない。松浦静山には「一時の勝ちは終身の勝ちにはあらず」という格言もある。勝利や成功には一過性の要素があり、ゆめゆめ美酒体験に安住してはならないと肝に銘じておきたい。

一方が勝ち他方が負けるという一対一の敵対関係において必勝法は存在しないように思われる。必勝法が発見された瞬間、ゲームであれビジネスであれ、もう誰も負け側に立って戦おうとはしないだろう。ところが、理屈はそうなのだが、現実世界では戦いは続けられる。お互いが必勝法のさらに上を行く絶対必勝法に向かおうとするからである。「意見の相違がなければ競馬は成立しない」と言ったのはマーク・トウェインだ。プレイヤー全員が一頭の馬に賭けたら、その馬が勝っても妙味がなくなるから、もはや馬券を買わなくなる。しかし、必勝法が一着になる馬の予想に限定されているかぎり、プレイヤーは二着馬や三着馬の組み合わせに賭けるから、おそらくゲームは続けられる。


必勝法について考えているとおもしろいことに気づく。どこかのサイトに掲載されていたが、ジャンケンの必勝法を考えている人が少なからずいて驚いた。「最初はグー」と掛け声してからジャンケンをすると、「パー」が出やすくなる。ゆえに「チョキ」にすれば勝ちやすいというのだ。この勝利の確率がパーやグーに比べて高いのならば、必勝とまではいかなくても勝利の方程式の一つにはなりうるかもしれない。但し、この必勝法を公開すれば、みんなが「最初はグー」の後にチョキを出すようになるから、チョキでおあいこになる可能性が高くなる。決着がつかず、やがてはチョキでおあいこの次の法則を見つけなければならなくなる。

宝くじの必勝法はありえない。一等当選の数が限定されているのだから、必勝本を読んだすべての人が当選するわけにはいかない。つまり、宝くじは必勝法以外の、「神のみぞ知る法則」によって支配されている。実際、宝くじのコマーシャルでは神が登場しているではないか。同様のことは、必勝法を伝授するセミナーにも当てはまる。「絶対に成功するプレゼンテーションの秘訣」を学んだ二人がコンペに挑み、いずれか一方のみが採択されるとき、他方は失敗することになる。「絶対に成功する秘訣」は一方で証明され、他方で否定される。これが「矛盾」の由来でもあった(最強の矛と最強の盾は同時成立しない)。

必勝法にすがっても別の要素が入り込んで勝敗を決する。同じ専門知識をもつ二人の人間に差がつくのは、専門知識自体によってではなく、その他の要素との掛け合わせによってである。とりわけ、運用する能力や技術が鍵を握る。そうなのだ、必勝法や絶対成功法則が存在したとしても、すべての学び手が完璧に運用する能力と技術を備えているわけではないのである。必勝法や絶対成功法則と呼べなくとも、世の中には「うまくいくだろうと思われるヒントや事例」はいくらでもある。同じように学んでいても、うまく活用できるかどうかは本人次第。したがって、普遍的な必勝法や絶対成功法則はないが、個別的にはありうるということになるかもしれない。 

テレビという情報源の使い方

論文でもディベートでもいいが、論拠や裏付けに用いる情報源がテレビというのはちょっとまずい。何年か前の経営者ディベート大会での話。証拠に事欠いて、NHKの番組の一こまを紹介した人がいた。彼は記憶を辿って”引用”したが、準備をしていたわけではなかったから、文言が正確であるはずもない。相手に正確な引用を求められ、さらには発言者の氏名・専門性や証言者の権威まで尋ねられて対応に窮して万事休す。

テレビはすべての人々に公開され公共性も高い媒体で、専門筋の権威たちが発言している機会も多い。それにもかかわらず、正確に引用しても公式の証言としては認められにくい。音声ではなく活字になって、しかるべき信頼性の高い出版物として紙に印刷されてはじめて証拠価値が高まる。

最近めっきりテレビを観る回数も時間も減った。原因はよくわからない。ここしばらく腰痛のため、ソファに座るのが苦痛のせいかもしれない。ぼくの書斎はテレビの置いてあるリビングルームのすぐ隣りで、いつもドアは開けっ放し。だから軽い仕事をしている時は、画面を観ずにラジオのように音声だけを聴いている。時々耳がピクピクとする情報が入ってきて、これは雑談のネタになりそうだ、というものもある。ニュース性のある一次情報としては新聞や雑誌と比べても遜色はない。


新聞紙上で活字として再生されるものは、記事を読めばよい。たとえば百歳以上の高齢者が四万人を超えたニュースなどはテレビを最終情報源とするのではなく、活字で子細を確かめるべきだろう。後日印刷物にならない、たれ流しの情報にこそテレビの価値がある。聞き漏らしたら縁はなし。ふと耳に引っ掛かった情報が「少考」のきっかけになることがある。

サンデーモーニングで国際政治学者の浅井信雄がオランダの新聞に載っていた話を紹介していた。日本の政権交代の記事で、「自由民主党」についてのコメントだ。「〈自由〉もなく、〈民主的〉でもなく、〈党〉でもなかった。それは派閥の集まりに過ぎなかった」というふうな記事だったらしい(英字新聞なんだろうか。調べたけれどわからなかった)。ちなみに自由民主党の英語名は“Liberal Democratic Party”だ。一語一語を否定したのがおもしろい。

月曜日の朝。民主党の新しい国会議員の女性が元風俗ライターであることを隠していたというニュース。いや、これはニュースなんかではない。ただのゴシップだ。経歴詐称ではなくて伏せていたという話だ。別にいいではないか。まったく大した問題ではない。国会議員としては未来形で未知数だが、風俗ライターとして「いい仕事」をしていたのなら、誰かがつべこべ言うべきではない。「現」よりも「元」が気になる体質は民度の低い日本人に染みついているようだ。「いい仕事をした元風俗ライター」よりも、むしろ「やることをやっていない現職の国会議員」に対して難癖をつけるべきだろう。

二次、三次のメタ情報としての価値はさておき、一次情報としてのテレビの役割は捨てたものではないと思っている。 

「嫌いの顔」が立つ

あることにおいて好きと嫌いが同居し拮抗するとき、ほぼ間違いなく「嫌いの顔」が立つ。半分好きで半分嫌いはプラスマイナスゼロ、つまり「どっちでもない」という感情にはならない。それはほとんど嫌いを意味する。たとえば、ちゃんこ鍋に十の具が入っていて、そのうち九つの具は好物または「嫌いではない」。しかし、一つの具だけは許せないほど嫌いである。この時、どんなにわがままな人間でもみんなで鍋を囲むときは耐えるだろうが、自分が一人の時にその一人ちゃんこ鍋を注文することはありえない。

ある何かやある誰かを嫌う人のエネルギーは、別の何かや別の誰かを好むエネルギーよりも強い。同一人物において、嫌悪の情は愛好の情よりもほぼつねに優勢である。食べたくてしかたがない料理を我慢して見送ることはできても、嫌いでしかたがない料理を我慢して口に放り込むことはできない。好きから嫌いへと価値観を変えるのは容易だが、その逆は困難だ。「嫌いだから嫌い」は、「ダメなものはダメ」と同じように、反論する気すら起こらないほど鉄壁の論理なのである。


何年前だったろうか、昼下がりのとある中華料理店での珍事である。食事を終わりかけていたぼくの隣りのテーブルに還暦前後のご婦人が一人。メニューをじっと睨んだまま動かない。固まったのではないかと心配したウェイターがテーブルに近づいて注文を取ろうとする。「これ(エビ天定食)とこれ(麻婆豆腐定食)の二つを頼んだら、多いかしら?」 そりゃ、一人で定食二つは多すぎますよ、というぼくの独言とハーモニーを奏でるようにウェイターが言う、「そうですね、多いですね、お一人だとね……。」

ご婦人、「やっぱりそうかあ。困った……」とつぶやいて、再び悩みの世界に戻っていく。この店にはエビ天と麻婆豆腐が好きな人にターゲットを絞ったような定食がある。別にそこまで困らなくても、その定食にすればいいのに、と内言するぼく。と同時に、やっぱり店の人も同じことを考えるもので、「こちらの定食には少しずつ四品入っています。エビ天と麻婆豆腐が入っていて、他に豚肉炒めと鶏の甘酢も付いています」とフォローした。

そんなこと承知済みと言わんばかりの顔をして、「私、鶏がダメなのよね~」とご婦人。聞き耳を立てなくてもご婦人の声はよく通る。エビ天と麻婆豆腐は大好物なのである。なにしろ二種類の定食を注文しようと覚悟したくらいだ。しかし、鶏が苦手、嫌いなのである。そう、これこそ嫌いが好きを押さえ込んだ「ワザあり」の瞬間。そして、ご婦人はまたまた選択の迷いに没する。傍観するぼくは、この帰結を見届けないで立ち去るわけにはいかなくなっている。

しばらくして、しびれを切らしたウェイターが提案を持ちかけた。「鶏以外は大丈夫ですか?」「ええ、鶏だけが苦手で……」「わかりました。その四品の定食にしてください。鶏の甘酢の代わりに別の一品を入れますから」。こう言って、ウェイターは厨房の方へ行き注文を通した。もうここまできたら、ぼくも一部始終の顛末を見届けなければならない。数分待つ。例の定食がご婦人の前に出てきた。代品は、ゴージャスな「ふんわり仕立てのカニ玉」だった。「ワザあり」が「一本」になった瞬間である。ご婦人は満面の笑みを湛えていた。「嫌い」の引きは何と強いのだろう。

プロ顔負けの健康談義

会読会が開かれる土曜日の午後、少し自宅を早く出て会場の二駅手前で地下鉄を降りた。古本探しのためである。二駅の区間を歩くというと驚かれるが、さほどでもない。ふだんの休みの日には自宅からこのあたり、さらにはもっと遠方まで歩くことがあるので、45駅分の距離を往復していることになる。古本屋でいい本を二冊見つけた。まだ時間がある。ぶらぶらと会場近くまで歩き、以前何度か来たことのある喫茶店に入った。自家焙煎の豆なので、ここのアイスコーヒーはコクがあって味わい深い。買いたての本を少し読み始めた。

ぼくの左手、テーブルを二つほど置いて一人の女性客がいる。男性が店に入ってきて、先に来てタバコをふかしているその中年女性の前に座った。その後の会話でわかったのだが、夫婦である。いま「その後の会話」と書いたが、別に聞き耳を立てていたわけではない。ぼくが手に取っている本の内容よりも、ご両人の展開のほうがずっとテンポよく、しかも遠慮や抑制もほとんどなく談義を進めていくので、こっちは読書どころではなくなったのである。

夫がコーヒーを注文し、まもなく会話が始まった(妻の前には一冊の本が置かれている。会話の流れから、それは健康に関する本に間違いない)。妻のほうが切り出した。「やっぱり、水。水が決め手」。「水を向ける」とはよくできた表現だとつくづく思った。この妻の一言が「誘い水」になって、健康談義は縦横無尽に広がった。もしかしてこの二人は夫婦などではなく、医師とサプリメントの専門家なのではないかと疑ってしまう始末だった。


塩の話。かつて天然の粗塩を使ってきたのに、日本人が戦後摂取してきた塩はダメ。食塩の主成分である塩化ナトリウムがよくなかった。次いで硬水の話。さらにはマグネシウムの話。死にそうになっている金魚を起死回生で元気にさせる話。やがて「血管学」に至っては、もはや聞きかじりというレベルを超えた専門性を帯びている。この二人はつい最近何かのきっかけで健康に関心を抱いたのではなく、相当年季が入っていると見た。なお、二人ともあまり健康そうには見えない。

そう言えば、昔そんな人が一人いた。ある得意先での企画会議。会議がずっと続き、昼食休憩の時間も惜しいのでコンビニで弁当を買ってきた。ところが、話を続けながらも、一人だけ弁当に箸をつけない人がいる。外部スタッフの彼は、「この弁当の添加物はよくない」と言った。「健康のためですから」とも付け加えた。「健康のためなら死んでもいい」というギャグを思い出す。手段と目的が混同し、本末転倒を招いてしまう何かが「健康問題」には潜んでいる。なお、この彼も健康とはほど遠く、いかにも病的に映った。

さて、喫茶店の談義はさらに熱を帯びる。時々妻がテーブルに置かれた本を手にしてペラペラめくる。同意したり反論したりしながら、どうやら二人が落ち着いた先――健康の決め手――は硬水のようである。こういう会話の流れは何かに似ている。しばらく考えて、わかった。競馬談義にそっくりなのである。あの馬だ、この馬だと議論し、専門的なデータを交換し、やがて二人はある馬を本命に指名する。めでたし、めでたし。ところで、「健康志向の強い人間はユーモア精神に乏しい」というのがぼくの確信である。

知ると知らぬは紙一重

先週「なかったことにする話」を書いてから、しばらくして「ちょっと待てよ。もしかして誤解されているのではないか」という思いがよぎった。実は、何かをなかったことにする裏側には、何かを重宝がるという状況があることを言いそびれてしまったのである。たとえば、「なかったことにした情報」の対極には「偶然出合った情報」がある。ぼくたちは、日々膨大な量の情報をなかったことにし、ごくわずかな情報だけに巡り合っている。

出張でホテルに泊まる。チェックイン時にフロントで「朝刊をお入れしますが、ご希望の新聞はございますか?」と聞かれることがある。ぼくの場合、自宅やオフィスで購読しているのと違う新聞を指名する。一昨日の夜もそう聞かれたので、ある新聞を指名し、その朝刊が昨日の朝にドアの隙間から室内に届いていた。そこにおもしろい記事を見つけた。そして、ふと思ったのだ、「今日自宅にいたら、この情報に出合わなかったんだなあ」と。

こんな時、情報との縁を感じる。いや、そう感じるように「赤い糸」をってみる。この一期一会の瞬間、大海を成すようなその他の情報はどうでもよくなる。もちろん、こんな感覚は次から次へと読書をしている時には湧き上がってこない。仕事で情報を追いかけねばならないときは知に対して貪欲になっているから、情報の希少性が低くなってしまっている。やや情報枯渇感があるからこそ、一つの情報に縁を感じるのだ。欲張ってはいけない。情報を欲張りすぎても、つまるところ、個々の情報の価値が薄まるだけなのだろう。


一昨日新幹線で読んだ本の一節――「言葉をないがしろにすれば、そのしっぺ返しがくるのは当然 (……) 貧しい仕方でしか言葉と接触しなければ、『ボキャ貧』になるのは当たり前」。これがぼくの持論と波長が合ったので下線を引いておいた。

8月と9月に私塾で「ことば」を取り上げるので、上記の一節は身に沁みる。特別な努力を払わなくても、誰もがことばをそこそこ操れる。これが、まずいことになる。何とか使えてしまうから、ことばをなめてしまうのである。それはともかく、このことをずっと考えながら、昨日の夕方に書店に立ち寄り、ことば論とは無縁の、ふと手に取った一冊の本の、これまたふとめくったページの小見出しに「言葉の不思議な力」を見つけてしまったら、縁の糸が真っ赤に染まるのもやむをえない。立ち読みせずに買って、いま手元にある(縁で巡り合ったが、何度も読み返せるのでもはや一期一会ではないが)。

隣りの一冊を適当に繰ってみたら別の情報が目に飛び込んできたのだろう。もしかすると、そこにも別の縁があったのかもしれない。新聞にせよ本にせよ、ある情報を知るか知らぬかは、文字通り紙一重だ。間違いなく言えることは、知りえた情報は存在したのだが、知りえなかった情報はなかったことにするしかない。なかったことにする潔さが、紙一重で知りえた情報を生かすことになる。個々人における知の集積は、気の遠くなるような無知を後景にした、ほんのささやかな前景にすぎない。縁の情報がその前景に色を添えてくれる。

ファックスと電柱の貼紙

こんなふうにタイトルをつけると、誰もが「ファックス」と「貼紙」の関係を連想しようとする。貼紙ということばからファックスのほうも用紙を想定するかもしれない。種明かしをすれば、他愛もなくことばを並べただけ。ファックスの用紙と貼紙が紙という共通点を持つのは偶然にすぎない。

行き詰まったらというわけではないが、時折り10年、20年前のノートを繰ってみる。ぼくにとっては、沈殿した記憶の脳内攪拌みたいなものである。知新にならないことがほとんど。しかし、時代を遡って温故するのは、懐かしの路地裏散策みたいで眼を見開くこともある。走馬灯のように追いかけにくい幻影ではなく、案外くっきりと記憶の輪郭が見えてきて、一気に当時の臨場感に入ってしまったりもする。

適当に本棚から引っ張り出した一冊のノート。これまた適当に繰って指が止まったページ。そして、その直前のページ。この両ページを足すと「ファックスと電柱の貼紙」になった。統合ではなく、並列のつもりである。それぞれそっくりそのまま転記してみよう。


ちょっとした報告。決して緊急ではないので、電話で相手の時間を拘束するまでもないと考え、まずファックスした。必要ならば、数分後に電話でファックス送付の件を伝え、補足するつもりだった。

ところが、電話しようとした矢先に先方から電話が入った。なんとお叱りのことばである。順序が逆だと言うのである。まず電話で今からファックスを送付すると伝え、それからファックスを送るべきだというのである。こんなビジネスマナー、聞いたことがない。誰がつくったのか? 少なくともファックス発明後のマナーだろ? 

ファックスの前はハガキか手紙を出していた。ぼくの相手のお叱りの趣旨をハガキに置き換えたら、「今からハガキを出します。明後日までには着くと思いますので、よろしく」と言え! ということになる。まったくお粗末なお叱りではある。マナーか何か知らないが、取るに足らない細部に分け入ることしか自分を誇示したり他人を制したりできない輩だ。こんな連中と仕事をするのは一回きりで十分。

それにしても、ビジネスマナーはビジネスとマナーの複合語だが、ビジネスが主ではないか。最近企業研修で、ビジネスを教えずにマナーばかり教えている愚はどうだ。マナービジネス(礼儀を商売にすること)にビジネスマナーを押し売りされてたまるもんか。


電柱に「劇薬散布注意」という貼紙がしてあった。ずいぶん意味深である。

いったい誰が貼ったのか。まず、そのことが気になる。テロリストか、近所の誰かか、農園主か、「当局」か? それぞれに貼る意図があるかもしれないが、電信柱でなければならない理由が思いつかない。しかも、メッセージを伝えたい相手も特定しにくい。

テロリストなら「劇薬を散布した」と犯行声明を出すかもしれないが、ご丁寧に「注意」を呼びかけることはない。また、この町中に農園主はたぶんいない。いるとしても家庭菜園か植木の世話をしているご主人。自分のテリトリーに劇薬を散布したが、公道に飛沫したかもしれないので犬の散歩時に注意? かもしれない。農薬ではなく「劇薬」とした点が気にかかるし、自治会の住民向けにそんな挑発をする動機が見当たらない。「当局」はまずないだろう。ふつう当局は電柱にそんな貼紙をしない。回覧板を使うはずである。

もしかすると、近所の誰かが一番危ないのかもしれない。嫌がらせの始末が悪い。おっと、重要な点を見逃している。貼紙は漢文のように漢字だけで書かれている。この文章、「劇薬ヲ散布シタ。注意セヨ」なのか? それとも、「劇薬ヲ散布スル。注意セヨ」なのか? いずれも気味悪いが、電柱という異色な場所柄を考えると、後者のほうが「ぞっとする感覚」が強い。

「選択」という名の重荷

そのコマーシャルの完全版を見たような気がするが、あまり覚えていない。だが、新聞記事で見つけた。以前も紹介したが、そのニューバージョンである。

「長持ちキンチョールか、よく飛ぶジェットか。先生。おれは、どっちを選んだらええんや」
「そんなこと、どっちだっていいじゃない」
「そんな……そんな正しいだけの答えなんて、ききたないんや!」

とてもおもしろいではないか。「どっちだっていい」を正しい答えとしているのである。そして、その答えは「正しいだけ」であって、それ以外には何の価値もないと吐き捨てている。

少しニュアンスは変わるかもしれないが、誰かに麺類をご馳走するとする。「うどんにしますか、ソバにしますか?」と尋ねる。ご馳走されるほうが、「お任せします」または「どちらでも結構です」と遠慮気味に言うこともあるだろう。「うどんかソバを選ばずに、どっちでもいい」というのが正しくて、しかも正しいだけにすぎない――こういう感じなのである。


豊川悦司のこの正論にはほとほと感心する。先生といえども、二者択一は面倒なのである。いや、面倒だけではなく、責任も負わねばならないのでプレッシャーがかかるのである。これを〈選択権の負担〉と呼びたい。

二つに一つを選ぶときはもちろん、たくさんの選択肢から自由に選べる、好きなものを選べる、一番にクジを引けるなどの状況に置かれるのは、ありがたいようで、実は重荷になることがある。かつてこういうタイプの青年たちを「モラトリアム人間」と呼んだことがあった。最近ではさしずめ「草食系男子」と言うのだろうか。

定食屋に行って注文する場面。店員が先手で「Aランチにしますか、Bランチにしますか?」と聞いてきた。おおむね次のような対応がありうるだろう。

(1)  Aにします
(2)  Bにします
(3)  どちらでもいいです(お任せします)
(4)  AでもなくBでもなく、別のものにします
(5)  AとBの両方にします
(6)  すみません、帰ります

以上の6つ。こうして比較してみると、なるほど(3)が無難で「正しいだけの答え」に見えなくもない。他のすべては何らかの意思決定が働いているが、「どちらでもいいです」は選択の負担から逃げている。いや、「どちらでもいいです」というのもある種の意思決定という見方もできるかもしれない。それでもなお、その選択には保険がかかってはいないか。


提示されたものを選ばない、後で選ぶつもり、何でもいいです、お任せします――実に厄介である。選択権を放棄して逃げ道をつくる。「正しいだけの答え」を選択するくらいなら、間違っていてもいいから自己責任の取れる選択やドキッとする選択をしてみてはどうだろう。  

コマーシャルの変化(へんげ)

制作意図は大まじめなのだろうが、ついつい笑ったり呆れたりするテレビコマーシャルがある。なかでも「変化物へんげもの」には失笑してしまう。いや、失笑が失礼なら、徒然なるままにアップするブログのネタを提供してくれる、と言い直そう。

変化物は、最初に人物が実体とは違う化身として登場し、30秒後に本性を現わすという構造をもつ。最近では武富士のコマーシャルで内田有紀が化身の役を演じている。内田は、誰がどう見たってフローリストである。そう、花屋さんなのである。男性客に対して笑顔で「いらっしゃいませ」と言ってるのだから、花を買いに来た人ではなく、花屋にいて花を売る人なのだ。とても他の職業に就いているという設定ではない。お客である男性は「彼女の部屋を花でいっぱいにしたい」とか何とか言って、花が所狭しと咲き誇る部屋をイメージする。

内田は「かしこまりました」と応じる(ほら、やっぱり花屋だ)。大まじめなコマーシャルなので、お笑い芸人のように「かしこ、かしこまりました、かしこ~」などとふざけない。だが、相手のニーズに「かしこまりました」とイエスの返事をしておきながら、内田が差し出すのはサッカーボールくらいの大きさに揃えた花。男性客が「部屋じゅういっぱい」と希望を伝え、なおかつ内田も「かしこまりました」と返事したにもかかわらず、いっぱいとは程遠い両手サイズの花を手向けたのだ。もちろん彼はそのギャップに「えっ?」と驚く。いや、彼だけでなく、視聴者も驚く。「これって、顧客不満足じゃないの!?」


ここで終われば「変化物コマーシャル」とは呼べないが、話は続く。彼の「えっ?」という反応にまったく動じる様子もなく、内田は続ける。「この花、確かな計画性という花言葉があります。ムリしすぎちゃダメですよ。自分に合った計画を立ててくださいね」てなことを平然と言ってのける。「確かな計画性」――いやはや、現実味を帯びた、夢のない花言葉ではある。それにしても、失礼なフローリストではないか。「ムリしすぎちゃダメ」は上からの目線。おまけに「自分に合った計画」は安月給のサラリーマンと決めかかっているようでもある。男性は、もしかすると、大富豪の息子かもしれないのに……。

しかし、そうではなさそうで、内田は眼力のある美人フローリストのようである。そして彼は「このほうが彼女も喜ぶかも……」と内田の提案を受け入れる(ものすごく素直な男性だ)。彼の彼女は「確かな計画性」という花言葉に小躍りするタイプなのだろう。まあ、それもあるかもしれない。

いよいよコマーシャルのクロージングだ。冒頭の「いらっしゃいませ」を発したときと同じ笑みをたたえて、内田は「ありがとうございました」と客を見送る。そして、最後の最後に(たぶん客が次の角を曲がって消えた頃に)、「 た、け、ふ、じ~」と口ずさむのだ。この瞬間、「花屋と違うんかい!」というツッコミが入ってしまいそう。そうなのだ、ここにきて内田の実体が、武富士の社員か身内か、あるいは何らかの利害関係者ステークホルダーだということが判明する。フローリストは化身だったのである。

「なぜおまえはこんなに苦心するのか」

表題は手記に書かれたレオナルド・ダ・ヴィンチのことばである。正確に記すと、「可哀想に、レオナルドよ、なぜおまえはこんなに苦心するのか」だ。前後の文脈からは意図がよくつかめない。ここから先はぼくの類推である。

ダ・ヴィンチが生を受け天才ぶりをいかんなく発揮したのは15世紀半ばから終わりにかけての時代。コロンブスのアメリカ大陸発見(1492年)は、13世紀から続いてきた東方レヴァント貿易の集大成であった。ダ・ヴィンチが一世を風靡した時代、画家や彫刻家のほとんどは十代の頃に工房に属していた。親方の指導のもと教会や有力パトロン(たとえばメディチ家やスフォルツァ家)からの依頼に応じて作品を制作していた。

当時はみんな職人で、まだアーティストという概念などなかった。ダ・ヴィンチは生涯十数作の絵画しか残していない。この数字は、天才にしては寡作と言わざるをえない。ボッティチェリ(7歳年長)やミケランジェロ(23歳年下)は仕事が早かったらしいが、ダ・ヴィンチは絵画以外のマルチタレントのせいか、あるいは生来の凝り性のせいか、筆が遅かった。筆が遅いため納期を守れなくなる。実際、納期をめぐって訴訟も起こされた記録が残っている。世界一の名画『モナ・リザ』も、元を辿れば納品されずに手元に残ってフランスに携えていった作品だ。だから、経緯はいろいろあるが、パリのルーヴル博物館が所蔵しているのである。


手記の冒頭をぼくなりに要約してみる。

私より先に生まれた人たちは、有益で重要な主題を占有してしまった。私に残された題材は限られている。市場に着いたのが遅かったため、値打ちのない残り物を買い取るしかない。まるで貧乏くじを引いた客みたいだ。だが、私は敢えてそうした品々を引き取ることにする。その品々(テーマ)を大都会ではなく、貧しい村々に持って行って相応の報酬をもらって生活するとしよう。

天才はルネサンスの時代に遅くやってきた自分を嘆いているようだ。明らかにねている。しかし、これでくすぶったのではなく、前人未到の「ニッチのテーマ」――解剖学、絵画技法、機械設計、軍事や建築技術など――を切り開いていく。天才をもってしても「苦心」の連続だったに違いない。それにしても、自身の苦心を可哀想にと嘆くのはどうしてなのか。おそらくこれはダ・ヴィンチの生活者としての、報われない悶々たる感情であり、同時に「まともに苦心すらしない愚劣な人たち」への皮肉を込めたものなのだろう。

孤独な姿が浮かんでくる。だが、他方、ダ・ヴィンチは「孤独であることは救われることである」とも語る。ひねくれて吐露したように響く「なぜこんなに苦心するのか」ということばも、「執拗な努力よ。宿命の努力よ」という手記の別の箇所を見ると、多分に肯定的な思いのようにも受け取れる。


ダ・ヴィンチほどの天才ですら、好き勝手に絵を描いたのではなかった。注文を受けて困難な条件をクリアせねばならなかったのである。

誰からも指示されずに、自由に好きなことをしたいというのは自己実現の頂点欲求だろう。しかし、もしかすると、こんな考え方は甘いのではないか。いくつもの条件が付いた高度な課題を突きつけられ、何かにつけてクレームをつけられたり値切られたり……案外、そんな仕事だからこそ工夫をするようになり技術も磨かれるのではないか。どことなく、フィレンツェの工房がハイテクに強い下町中小企業とダブって見えてきた。近世以降、画家たちのステータスが職人から芸術家へと進化したのは、間違いなくダ・ヴィンチの功績である。最大の賛辞を送ろう。但し、天才の納期遅延癖を見習ってはいけない。現代ビジネスでは命取りになる。

来週の月曜日、京都の私塾で以上のような話を切り口に、今という時代のビジネスとアートの価値統合のあり方を語る。塾生がどう反応しどんなインスピレーションを得てくれるのか。ダ・ヴィンチ魂を伝道するぼくの力量が問われる。