ナマコを最初に食べた人はえらいか?

チーズケーキ
ある日、あるカフェにて。
「こちらケーキセットのチーズケーキになります。カロリーも甘さも控えめの手作りケーキでございます」
う~ん、おいしさもかなり控えめだった。

ガツとセロリ
めったに手に入らない豚の第一胃、ガツ。すでに茹でてあるものを買う。一口サイズに切って塩・コショウ・酒で下味をつけ、片栗粉を混ぜ合わせて炒める。次いで、適当に切ったセロリを――セロリのみを――加える。おろしにんにくを好みで足すが、他の野菜はガツの邪魔になるので一切入れない。火が通った頃を見計らって、あらかじめ合わせておいたナンプラー・オイスターソース・酒・水を少しずつまぶしながら炒める。調味料はすべて目分量。

ナマコ
「ナマコを最初に食べた人はえらいと思う」という声をよく聞くが、最初に食べた人を特定するのは不可能。何千年か何万年前か知らないが、ネットも新聞もない時代にナマコを最初に食べたのが自分であるという自覚ができたはずがない。

ある者がナマコというものを見つけた。手に取った。食べられるものかどうかはわからないし、他の人間が食べているのかどうかもわからないが――いや、こんなことすら考えもせずに――とにかく腹が減っていたので口に運んでみた。うまいと思ったわけではないが、食って食えないものではない。その者が、その後、誰にも言わずにこっそりナマコを一人で食べ続けたとは考えづらい。おそらく集団とシェアして食ったはずである。こんなことが、ナマコが棲息する各地でシンクロニシティのごとく起こったと思われる。

しかし、ナマコはメジャーにはならなかった。今のわれわれのナマコとの付き合いを見ればわかる。集団でナマコを常食するような食習慣は世界のどこにも見当たらない。小料理屋で旬の季節に、オヤジが一人、ナマコの酢の物を酒のつまみにする程度の消費である。

ともあれ、「ナマコを最初に食べた人」の、食べた勇気をえらいと称えるには及ばない。食べるものに困った人類は、躊躇したり気持ち悪がったりせずに、後先を考えずに貪ったのである。

トウモロコシとパスタ
ぼくの「飲食店応援アクティビティ」のイタリア料理部門で優先上位の店。パスタはリングイーネ。使う具は生トウモロコシのそいだ実だけ。イネ目イネ科の共演である。これで勝負するのは勇気がいる。「なんだ、コーンだけか……」と言われかねないからだ。

しかし、パスタとはパスタという主役を食べる料理であって、パスタの顔を潰すような具沢山の脇役はよろしくない。ランチを注文すると、この店は野菜やハムや魚をふんだんに盛り合わせた前菜を出す。だから、パスタはシンプル。仕上げにチーズと黒胡椒を振る。

鶏のカラアゲ
めったに待たないが、揚がるのを待つことにした。待っている間に脳裏であの曲が流れた。

♪ ジョニーが来たなら伝えてよ 
2時間待ってたと
割と元気よく出て行ったよと
お酒のついでに話してよ
友だちならそこのところうまく伝えて

遅まきながら「ジョニーのからあげ」の初体験。替え歌を作ってみようと思ったが、そんなに時間はかからなかった。

“Eats Journal” 創刊号

食に関する記事カテゴリーがなかったので新規で作ってみた。そして、最初の記事をそのカテゴリー名と同じ、“Eats Journal”イーツ・ジャーナルと題して書くことにした。気ままな「食日記」のことである。


飲食店応援アクティビティ  

店も客も自粛が続いた。店の自粛が解除されても客にはまだ余韻が残っている。どこの店も客の入りはかんばしくない。

と言うわけで、5月に入ってから週末にはランチを――稀に夕食も――外食するようにしている(週末の外食は今に始まったわけではないが……)。手当たり次第に応援するわけにはいかないので、チェーン店ではない、何がしかの所縁ゆかりがある、徒歩圏内の近場という条件で絞り込む。税込み1,500円以上の貢献という条件も考えたが、ランチは千円前後が多いし、980円のうまそうなメニューを見つけてしまうと悔しいのでやめた。

今では年に一度か二度しか行かないが、かつてお世話になった店。不義理にしているのに、店じまいされると一抹の寂しさを覚えてしまいそうな店。どなたかをお連れしたくなる店。今でも交わした会話を覚えている店、等々。料理のジャンルは問わない。


会社を創業した33年前から毎月一度は通った鰻屋。時を経て値段は何度もうなぎのぼりしたので、ここ15年は年に一度か二度という具合。以前の上うな丼は赤だし付きでたしか1,500円だった。それが300円か400円刻みで何度か値上がりし、今は2,800円。ちなみに、上客と一緒の時のみ注文する特上うな重は4,000円。

いつぞや久しぶりに行ったら、すでに先代が退いていて、30年前に出前担当していた若手が店を継いでいた。その若手も白髪交じりで貫録十分。傘寿をとうに過ぎた女将は現役続行中。ぼくはもうすっかり忘れられた存在なので、一見感覚でのれんをくぐる。

汁物には吸い物と赤だしがある。吸い物には肝が入っている。いわゆる「肝吸い」。かつてよく通っている頃に併せ技の裏メニューを知り、以来「キモアカ」を注文する。肝入りの赤だしである。これを注文すると、顔に見覚えはないが、この店に来たことのある客だと古株の店員なら察するはず。

上うな丼を注文すると、女将は誰にでも決まってこう言ったものだ。「半分くらいお食べになったら、身を細かくほぐしてどうぞ」。その日もいつものルーチンをこなした。鰻の並だと小さな身が二切れということがあるが、ほぐして食べるとかさが増して食べ応えを感じる。財布事情が並しか許さない人にはいきなりのほぐしをおすすめしたい。

句読を切る

もう35年程前の話。夜遅くに電話が鳴った。拙宅であることの確認の後に、神戸市の何とか警察署だと名乗った。いまキム・モンタナというアメリカ人がいる、もめごとがあった、夜も更けたので帰らせるわけにはいかない、聞けばあなたが身元保証人だと言う、それは間違いないか……」というような内容だった。

当時のぼくは勤め人で、海外広報の会社の国際部マネジャーをしていた。英文コピーを書くネイティブライターが数人いて、一応ぼくの部下だった。カリフォルニア州出身のキム・モンタナはその一人である。コワモテだが根はやさしい男で、広告文はあまり上手でなかったが、技術系企業のプロフィールになるといい文章を書いた。身元保証人ではなかったが、そういうことにして、翌日にひとまず解放するようにお願いした。

段落パラグラフのことで議論したことを覚えている。第一段落と第二段落は同じテーマを扱っているから一つの段落にすべきだと指摘したところ、彼は「それだと長すぎる」と言った。いやいや、段落は長いとか短いとかの見た目で決めるものではないと言えば、彼は「ちょっと長いぞと思ったら、息継ぎのつもりで変えればいいのさ。それが段落」とすまし顔をした。


あまりよく知らないことを聞かれると、ネイティブはプライドゆえかつい屁理屈を言うものだ。あの時、ピリオドとコンマはどうなんだ? と追い打ちをかけたら、それも息継ぎだと言ったかもしれない。しかし、後日、広辞苑で句読点(マルとテン)の説明を見て驚いた。「句は文の切れ目、読は文中の切れ目で、読みやすいように息を休める所・・・・・・」と書いてあったのだ。まるでキム・モンタナではないか。

あの「。」と「、」を句読点と呼ぶのを知ってからしばらく、どう考えても句点のほうが「、」で読点が「。」と思えてしかたなかった。文章の句だから途中に「、」を付け、読は読み終わりなので「。」を打つ。そのほうが「らしい」のではないか。ところで、句読点と言えば「付ける」か「打つ」だが、単に句読と言うなら「切る」である。句読を切るという言い方をしてみると、単なる息休めではなく、文に対する何らかの意思を感じる。息苦しくなったから、適当に「、」を打っているのではない。

田辺聖子のエッセイに「話はえんえんと続く、句読点もないままに」というくだりがあった。悪文ほど句読点が少ない傾向があるが、かつての古文などはそんなもの関係なく延々と書き綴ったのである。西洋の哲学者には数ページにわたって段落を変えずに書くスタミナ思考の猛者がいる。切るに切れないほど一本の線でものを考えているに違いない。

特に息苦しくなって息を継ぎたくなったわけではないが、これ以上続けるだけのネタもないので、ここで句点を打つことにする。

「思う」と「ぼくは思う」

「……と思う」と言うかぎり、他の誰のことでもなく、そう言う者の思いのはず。ふつうはそうだ。しかし、小説では、「……と、彼(彼女)は思っている」とか「……と、きみは思った」などと、思う主体が自分ではなく他人になったりする。案外気楽かつ安易に自分でない誰かが何かを思っていると言えてしまう。

「その時、Sは昼飯に何を食べるか考えながら歩いていた。あの通りには鰻屋とうどん屋がある。鰻はうどんの値段の10倍ほどもするが、たまには昼の贅沢も悪くないと、Sは思った」。

主体である書き手は直接Sから話を聞いたのではなさそうなのに、Sの気持ちをおそらく本人の了解なしに描いている。しかも最後には、そう思ったかどうかもわからないのに、「思った」と勝手に決めつける。他人の心理を首尾よく読めた経験に乏しいぼくには驚きだ。小説世界は他人の気持ちを見事に推し量ってみせる。


ところで、「思う」や「考える」と言う時、英語ではほぼ確実に自分である主体を“I think”というふうに明らかにする。わざわざ主語の「わたし」を明示しなくても、自分の認識を表す動詞「思う」は「わたし」のことであり、「わたし」が今思っていること――過去形なら過去に思っていたこと――に決まっているではないか。

自ら自分の考えていることを伝えるのに「思う」と言えば済むのに、なぜわざわざ「わたしは思う」と言うのか。ちょっと待てよ、これは英語に限ったことではない。特に示さなくてもいいのに、日本語でも「ぼくは思う」と言う時がある。だいたい「……と思う」などとめったに言ったり書いたりしないのに、いざ使うとなると、ご丁寧に「ぼくは思う」と言ったり書いたりすることがある。

「ぼくは思う」は強調なのだろう。あるいは、「他人はいざ知らず、こと自分に関しては」という補足かもしれない。さらにはまた、ずっと主語を省いて書いてきたが、主体としての認識を自ら確かめるために、段落の終わりのほうで念のために、あるいはケジメをつけるために「……とぼくは思う」として書くのではないか。

しかし、懐疑するデカルトの「我思う、ゆえに我あり」に懐疑的なぼくとしては、そもそも「ぼくは思う」という部分がかなり怪しいと思っている・・・・・

数字と気分

お得感と割高感について真剣に考察することがある。たとえば、せこい話だが、モーニングセット360円と単品コーヒー300円の価値をめぐる損得勘定がそれ。

コーヒー1300円に60円プラスするだけでトーストとゆで卵がついてくる。朝飯が済んでいるのでコーヒーだけのつもりだったのに、「60円差ならモーニングにするか……」と安易な路線変更。変えたのは300円のコーヒーが割高に思えたからか、360円セットがお得に見えたからか。しかし、たとえ60円でも、要らないものを注文するのはお得ではない。今なら2本の高枝バサミなどその最たるもの。

n u m b e r s

天気予報で「来週の気温は平年並みか平年を下回るでしょう」と言っている。聞き流しているのだが、少しほっとしていることがある。なぜ?

いったい何にほっとしているのか。来週の過ごしやすさか。ほっとしたりするほど、わかったようでわからない「平年」への感度は良好か。平年の最低気温が20℃だと聞いて、いったいそれは何を意味するのか。差異の実感など一年前や過去十数年の平均値と比較できるものではない。せいぜい昨日に比べての今日、今日に比べての明日くらいしかわからないのだ。

n u m b e r s

行政の窓口やHPに混雑時間表が掲出されていることがある。さっき郵便局に行ってきた。その種のポスターが貼ってあり、「窓口が混雑する時間帯は10時~11時と15時~17時です」と告げている。午前11時過ぎなのに、いつもより混んでいた。

「この時間帯はいつも混むから、他の時間帯にどうぞ」とすすめられても、こっちにも都合がある。けれども、そんなおすすめに(万が一)みながみな真面目に応じれば、定番混み合い時間帯が別の時間帯になるだけの話ではないか。

いつぞや美術館の混雑情報を事前にチェックして、比較的空いている時間帯を目指して行ったら長蛇の列だった。大勢が情報をチェックしていたのである。車の渋滞回避アプリなども、普及すればするほど役立たずになるだろう。

n u m b e r s

「あの会社とうちが同じ金額とは納得がいかん」と、ある中小企業の社長。持続化給付金の話だ。ジョークを思い出した。

ある日、ある男の家に神が降り立って、男に言った。「汝の望みを何でも叶えてあげよう。遠慮はいらないぞ」
「ほんとですか、シンジラレナ~イ!」
「ほんとうだ。しかも、汝の望むことの倍が隣人にも施されるのだよ」
「ちょっとお待ちを、神様。あっしが100キロの金銀財宝を望めば、隣のあいつが200キロ分を手にするってことですかい?」
「その通りじゃ」
(……)

とにかく男は悔しがった。自分が損するわけでもないし、他人が何を得ようとも、そんなこと我関せずで100キロでも好きなだけ恵んでもらえばよかったのに……。このジョークのオチは想像にお任せするが、人間の業が行き着く悲惨な結末になった。

読書の気まま

「気ままな読書」ではなく、「読書の気まま」。はじめにしかるべき読書の姿があって、それに逆らうように気ままに読み継ぐのではない。読書そのものが本来気ままと相性がいいと考えるのである。


「そろそろ読書の集まりを再開したいですね」というメールがあった。願望か、催促か、それとも単純な問い合わせか……どういう意図だったのだろうか。読書会、会読会、書評輪講会などと名前を変えて小さな勉強会を主宰してきた。休会宣言をしたつもりはないが、気がつけば、最後の会からまもなく3年になる。「また、考えておきます」と返信した。そう答えてから数日、まだ何も考えていない。

本や読書についての私論はいくらあってもいいが、一般論はなくても困らない。本や読書は気ままが許される、珍しくも貴重な知的趣味だ。たとえば「電子書籍についてどう思うか」と聞かれ、その是非の理由を述べるには及ばない。ぼくにとって、電子書籍による読書は、ただ「非である」と言い放つだけで事足りるし、そのことを必死になって説明する必要を覚えない。「電子書籍は本を代替することはできない、少なくとも読書の気ままを失っている」と言えば済む。

どんな本を読むべきか、いかに読むべきかなどについても、他人の尺度を気にしなくてもいいのが、本の――読書の――よいところなのだ。気ままが許される。いや、誰かに許されるのではなく、自分が自分のやり方を認める。違法で捕まる心配はない。この国の今の時代、言論についてはとやかく言われるが、手に取る本と読書の方法についてはめったなことでは文句を言われないのである。


あるテーマに絞り込んだり体系的に関連付けたりして読書するには、おそらく雑多な本を買い過ぎた。生涯一万冊以上手に入れて、おそらくその半数くらいは読んだはずだが、趣旨やあらすじなどは忘却の彼方。しかし、断片的な表現やエピソードについては強く印象に残っている。なぜかと言えば、おもしろいと思ったら抜き書きしておくから。

カウボーイの古い笑い話を思い出すわ。草原を馬で駆けていると、天から声が聞こえてアビリーンへ行けと言う。アビリーンに着くとまた声がして、酒場に入れ、そしてルーレットのところへ行って持ち金すべてを数字の5に賭けろと言う。カウボーイは天の声にそそのかされてその通りにするのだけれど、ルーレットで出た数字は18。するとまた声がしてこう囁くの、「残念、我々の負けだ」って。(ウンベルト・エーコ『ヌメロ・ゼロ』)

こんな断片の一節が妙に響き、そうか、天の声という、一見絶対的なエビデンスも誤るのだ、知識や情報は、神の思し召しのように権威づけられていても信頼性に限度があるし、陳腐化する……。本から気ままに学ぶことがあるとすれば、それは決して記憶すべき筋書きや啓発的な知識ではなく、その場で瞬発的に一考することだと思われる。それが気ままを担保する。

笛吹けども踊らず

商店街の某商店主に聞いた。
「なぜ午後7時に店を閉めるのですか?」
店主は言った。 
「開けていても、その時間になると客が来ないからねぇ」

客にも尋ねてみた。
「午後7時を過ぎると客が来ない。だから店を閉めていると言う商店主がいますが……」
苦笑いしながら客が言った。
「いやいや、その逆。店が閉まっているから行かないのですよ」

売り手と買い手それぞれに思惑があり、取る行動がある。売れるなら店を開けるし、売れそうになければ店を閉める。ぜひとも欲しい商品があるなら行くし、そうでなければ行かない。買い手の〈要不要〉と売り手の〈強み・弱み〉の古典的な関係図式を示している。

別に急ぎではないし、慌てなくてもその商品はどこででも手に入る……行っても閉まっていることが多い商店街だ……デフレ時代、消費者はある程度充足している。欲しくもない多機能なんかいらない。これが「供給>需要」の図である。モノがオーバーフローしたり質がオーバースペックになる。買い手にとっては必要以上に選択肢が増え、逆に面倒になる。急がない客が相手なら、店は午後7時に閉めざるをえない。

急ぎの必要があるか、またはどうしても欲しい……かつその店にしか商品がないのなら、客は午後7時までに行く。必要かつ欲しいと思う消費者が多ければ競うように店に駆けつける。売れれば商品が足りなくなる。かつての高度成長時代とよく似た「需要>供給」の図になる。今時のマスクやアルコール消毒液がそうである。質に疑問符が付いても欲しがる。作れば売れる。


感染対策を取りながら、徐々に経済活動を元に戻していく。とは言うものの、自粛癖がついて外出しない、買い控え癖がついて買わない。需要のテンションが低い状態で、売り手側が笛を吹いても買い手側がすぐに踊り始めるような気分にはなっていない。ここ数年インバウンド市場向け仕様の商売をしてきた供給者ほど状況が厳しい。

市場全体から観光市場――多分にご祝儀市場――を差し引けば、バブル崩壊後のわが国の正体はデフレなのだ。供給したくてうずうずしても、需要のほうがうずうずしてくれない。いつの時代も需要と供給の理想像は経済学的には見えない。需要と供給のバランスが取れればいいという単純な話でもない。

しかし、冒頭の商店街の件のように、客が来ないからと言って店を閉めてはいけない。「供給>需要」なら、客が来なくても店を開けるしかない。そして、笛を吹き続けるしかない。その体力がどこまで持つかが勝負になる。あるいは、いっそのこと供給の内容を変えて「需要>供給」ビジネスにシフトする。これもエネルギーがいる。観光市場も含めて、経済は間違いなく縮減する。元の姿を夢見るよりも縮減経済を覚悟するほうが現実的である。

最近笑っていない

毎日何がしかの仕事があるが、相手の事情により今日はまったく仕事が動かない。新年度になって初めてのことだ。仕事以外にすることがいろいろある。この「いろいろ」がまずい。することが一つか二つなら悩むことはない。

100de名著』というNHKの番組がある。一冊の名著を4講にわたって各回25分で解説する。取り上げられる名著そのものを読まなくても、テキストをじっくり読んで講座を見れば「読んだふり」はできる。講座が始まって以来、毎月テキストを買って拾い読みしているが、視聴したのは二、三度のみ。

来月の名著はカントの『純粋理性批判』である。気温と湿度が上がり、集中力が続きづらい梅雨の季節向きの本ではない。本棚に新訳――と言っても78年前発行の――文庫本がある。全7巻である。小難しく訳された同書に若い頃に挑戦したが、途中で挫折した。悔しいので、解説書の類を参照してこの稀代の哲学書を「読んだことにして」今に到っている。超難解な重い本が100分でわかるなら儲けものではないか。


文字以外に適宜図解が入るのが『100de名著』のいいところだ。哲学の名著を文字だけで追いかけて理解するには、時間と頭脳もさることながら、スタミナがいる。省エネの図解があるだけで少しはわかった気になる。経典や経論などの文字のみで深奥な密教の教えは伝えきれない……絵画や彫刻などの「ビジュアル」の助けが必要だ……というようなことを空海が言ったらしい。絵図や仏像、書の類のオーラのお陰で理性も少しは研ぎ澄まされるような気がする。

とは言うものの、自粛や在宅疲れで小難しい本を忍耐強く読める人は多くないだろう。わが身を振り返っても、ここ23ヵ月、他人と仕事をしていないし、雑談もほとんどないから、笑う場面がない。YouTubeで大笑いなどしてしまうと、その後に仕事に戻るのが大変である。軽い本で軽く笑う程度なら軽い息抜きになるし、軽やかに仕事に戻れる。

本棚の『純粋理性批判』を押し戻す。右手の本棚に顔を向ければ、ずいぶん前に古本屋で買った、宇野信夫の『昔も今も笑いのタネ本』が目に入る。さほど笑わせてもらった記憶はない。適当にページをめくる。「あわて女房」という小話。記憶にない。

あわて者の女房が、伊勢屋のお内儀さんに出合って、
「旦那さまは、おかわりなく――」と言いかけて、三月みつき前、旦那の死んだことに気がついて、
「やっぱり、お亡くなりになったまんまでござんすか」

わかりやすくて微笑みやすい。こういうのがいい。純粋に理性の批判になっている。

ぬけぬけと棒読み

今に始まったていたらくではない。国会や委員会の棒読み答弁、報道解説委員の棒読み説明、スライドの棒読み講義……。一昨年だったか、スライドがタイトルだけの一枚で、講演者が手元の原稿を棒読みするだけの講演に居合わせた。義理で聞かされたのだが、名の通った先生が一切聴衆の反応をうかがわず、アドリブもなく小一時間を消化した。

いくらか期待もしていたが、がっかりだった。いや、怒りに近い感情すら覚えた。よくぞ小一時間もぬけぬけと原稿を棒読みしたものである。原稿を作った時点では考えもしただろう。しかし、人前に出てからあの先生、まったく考えてなどいなかった。考えないで喋るという厚かましい態度の恥さらし。

目を見開いて聴衆や相手に語りかけず、ひたすら演台に置いた原稿に視線を落として読むなら、ライブの必要はない。それこそ自宅でリモートで読み上げれば済む。映像もいらない。講義や講演でスライドを使うのが標準仕様になった現在、なければないで喋れる講師でも、掲示資料を棒読みする傾向が強くなった。


その場で何もかもアドリブで喋るのがベストだとは言わない。しかし、よく考えてきたのなら、一言一句を原稿にして棒読みせずとも、話の順番や用語をチラ見する程度の小さなメモさえあれば、人前でも「自分のことば」で喋ることができる。少々流暢さを欠いてもいいではないか。パスカルも言う通り、「立てつづけの雄弁は、退屈させる」のだから。

棒読みでいいのなら、もはや講演者の個性などいらない。声がよくてもっとスムーズに語れる代弁者を起用すればいい。優秀な人がなぜ棒読みに甘んじるのか、まったく考えずに文字だけを追えるのか、不思議でならない。棒読みするために大臣や解説委員になったわけではあるまい。

上記でパスカルを引いたので『パンセ』の当該箇所の前後を再読してみた。第六章の哲学者について綴る断章である。

三三九  (……)私は、考えない人間を思ってみることができない。そんなものは、石か、獣であろう。

ちなみに、この八つ後の断章が、あのあまりにも有名な「人間は考える葦」である。なお、パスカルは「思考万歳!」とばかり言っているわけではない。三六五では、考えることの偉大と尊厳性と同時に、考えの愚かしさと卑しさについても指摘する。つまり、考えに潜む二律背反性を踏まえている。

ともあれ、考えた末に書いたのが手元原稿だと言うのなら、人前で読み上げるその手元原稿はすでに「死に体しにたい」であり、原稿以上の上積みはない。そうそう、その丸読みの原稿を事前に配付する場合もある。話者も聴衆も資料の文字を追うばかり。誰も顔を見ない。棒読みは厚かましいが、何よりもけしからんのは他人に対して開かれていないことだ。

入るを量りて出ずるを制す

二十数年前のこと。年配の飲食店経営者がつぶやいた。「この歳になるまで経営やマーケティングのいろんなセミナーを受講して小難しい勉強をしてきましたがね、あまり役に立たなかった。さほど儲からないけど易々と潰れないしぶとさ――経営はここに尽きると思っているんです」。そして、ぽつんとあの金言を持ち出した。「るをはかりてずるを制す」。

素人でもみんな知っていること。子どもが小遣いを貯めておもちゃを買った後に残金をチェックするのも、主婦が家計簿をつけながら大きくため息をつくのも、小さな会社を創業したビギナー経営者が収入と支出に目配りするのも、すべて「入ってくるお金と出ていくお金」への関心ゆえである。みんなわかっている、「出ずる・・・入る・・を上回らないようにしよう」と。創業してから30余年、未だ経営オンチのぼくでも、このことは――このことだけは――わきまえている。

現在の自分の収入や自社の売上はわかっている。現在から寸法を測ればある程度将来の伸び率も予測できる。しかし、お金は出ていくし、収入や売上が予測通りに順調に推移するとはかぎらない。ただ、入ってくるお金に比べると、毎月出ていく固定費を含む支出は大きく変化しない。だから「るをはかりてずるを制す」、つまり、支出は収入に釣り合うか収入の範囲内にとどめておくのが安定の基本になる。


しかし、いくら支出を制していても、予測できない危機に見舞われて収入のほうがどうにもならなくなることがある。今の新型コロナ禍はおそらく今世紀に入って最大の危機だ。このリスク状況がいつまで続くのか、資金注入でどの程度急場をしのげるのか、誰にもわからない。1兆円超の赤字を出しても潰れない企業がある一方で、わずか100万円の資金繰りがどうにもならず、社員を解雇したり廃業したりし、最悪、命を絶つ零細企業経営者がいる。これが社会の現実。

事業者への給付金は、一定条件を満たせば一律に支払われる制度である。この制度の公平性や不公平性については黙して語らないのがいい。どんな泣き言や不満を吐き捨ててもどうにもならないからである。立地の良くない場所で細々と一軒の店を営んできたオーナーと、好立地に数店舗を経営してきたオーナーが受けるダメージは違う。前者は100万円で持ち堪えられるが、後者にとっては100万円は焼け石に水である。

何もかもウィルスのせいではないし、給付金申請の手続きの煩わしさや対応遅延のせいではない。経営者はいろいろな選択肢から今に到る道を選んだのであり、自分なりの経営哲学によって戦略を立ててきたのである。テレビのインタビューに対して、複数店舗を経営する美容院経営者とラーメン店経営者が絶望的に語るシーンを見た。その二人は危機に対して自らが脆弱な体質だった点については触れなかった。有事と平時とにかかわらず、経営の根底には自己責任があることを忘れてはいけない。