概念のコラージュ 2/2

『概念のコラージュ』と題して18のキーワードを選んだ。主観的なラインアップであることは言うまでもない。昨日に続いて残りの9つの術語を考察してみる。

【珈琲】 自分の生活シーンから消えても気づかず、また困るわけでもないものがある一方で、消えてしまうことが想像できないものがある。たとえば珈琲がそれ。珈琲が消えてしまうと、生き方や考え方を大幅に変えなければならなくなる。

【仕事】公的な仕事などと言うが、仕事は個々の役割・分担においてはつねに「私事しごと」である。仕事は、欲しい時には出てこず、もう十分だと思う時に入ってくる。波がある。しかし、仕事が安定するとマンネリズムを覚える。身勝手な話だが、ゆえに私事。

【世界】部屋に閉じこもっても、外国を旅しても、書物で知識を得ても、世界は見えそうで見えず、ありそうでなさそうな、きわめて個人的な都合によって切り取られる概念である。世界は必ずしも大きいとは限らず、きわめて小さな世界も構築できる。

【知性】知性的であろうとなかろうと、人間の差はさほど大きくないと思われる。知性は案外目立たない。しかし、「反知性」という流れに向き合う時、さほど目立たなかった知性の差がはっきりと現れてくる。

【遊び】人類は慰みの遊び、戯れの遊びを十分にやり尽くしてきて、なおも満足していない。しかし、生き方をスムーズかつ緩やかにする余裕のある遊びの境地に到る人は少ない。機械なら人間にできない〈遊び〉を難なくやってのける。

【響き】「打てば響く」という反応的行動は欠くべからざるコモンセンスである。響かないのは責任を――とりわけコミュニケーション上の責任を――果たしていないということになる。声にも出さず動作も伴わない響きなどあるはずがない。

【言語】幸か不幸か、人間だけが唯一言語的な動物である。言語を通さずには何も認識できない。それを捨てて悟るのか、いや、だからこそ言語的に生きるのかを、人それぞれにはっきりと決めるべきなのだ。それが人生観の根幹になる。

【暮らし】どんなにだらだらと仕事をしていても、どんなに活き活きとハレの時間を楽しんでいても、きわめて日常的な暮らしから逃れることはできない。仕事に飽きても、暮らしに飽きることはできない。暮らしは陳腐化しない。

【笑い】元気になったり励まされたりする笑いがあるが、さほどおもしろくもない話に愛想笑いをすることはない。笑いのハードルは泣きのハードルよりも高い。ここぞと言う時の笑いのために、常日頃から大声で高笑いするのは控えるのがいい。

概念のコラージュ 1/2


絵が描かれた板に願い事を書くのが絵馬。首尾よく願いが叶ったら感謝の気持ちを込めてその絵馬を奉納する。

願いとはある種のテーマであり主題である。概念であり紋章的な標語であり、欲張りな関心の方向性を示す。アンテナを立てておけば、テーマについてあれこれと思いが巡り、それが刺激になって雑文の一つも書くようになる。

【考える】物事を知るだけでは役に立たない。誰もがクイズ大会に出場するわけではないのだから。知識を身につけてわかることと考えてわかることの間には埋めようのない隔たりがある。

【観察】観察は客観的か? いや、偏見のない観察などありえない。観察は観察者の主観でまみれている。なぜなら、観察は固有の体験だからである。主観だからと言って、困ることはない。むしろ、客観だと見なすから問題が生じる。

【風景】目の前に広がる光景や景色は、しばらく眺めているうちに風景と化す。風景は人間の想像の産物である。自然は人の存在と無関係に存在するが、風景は人の認識によってはじめて姿を現わす。

【にっぽん】日本史なら「にほん」。日本郵便は「にっぽん」であり、郵便切手にはすべて”NIPPON”と印刷されている。「頑張れ、にほん!」では頼りない。「にっぽん」でなければ励ましにならず、元気も出ない。

【都市】都市は現実であり幻想である。人は都市に生きながら、都市が内包する幻想に振り回される。万華鏡のように都市をくるくると回せば変化する。構築とカオス、希望と絶望、活気と倦怠……形と色が変わる。

【物語】人の生き方、諸々の事柄を語ることによって様々な物語が生まれた。虚構も脚色もいらない。ただ人について、人を取り巻くものについて、手を加えずに語るだけで物語になってくれる。

【食卓】食卓はもはやテーブルを意味しない。テーブルならテーブルと言えば済む。食卓は食事や食文化のことにほかならない。食卓を囲むとは誰かと一緒にありがたく食事をいただくことだ。ただテーブルに着くだけではない。

【本棚】読んだ本を並べても、読まない本を蔵書として保管しても、本棚は本棚。一列一段でも五列五段でも本棚は本棚。背表紙をこちらに向けて本棚に並べたくなる本がある。本は本棚にあって本らしくなる。

【生きる】どこまで行っても生きるとは現実であり現在進行形である。この絶対的な現実と〈いま・ここ〉を認識しているかぎり、「生きる」以外の他の概念がそれぞれ固有の意味を醸し始める。

無力を受け入れる時

慢性の腰痛にもめげず、年齢相応以上に重い荷物を持ち運びできる。フィットネス用のスーパーハードの筋トレゴムを何十回も強く左右に引っ張ることができる。まだまだ力がある、もっと力をつけることができると実感している。

なのに、ポテトチップスの袋の裏側の綴じ目を両手の親指と人差し指でつまんで引っ張ってもなかなか袋が開いてくれないのはなぜ? 腕力には自信があって少々の無理もきくのに、手先の非力を痛感する場面によく遭遇する。瓶の金属の蓋をしっかり締めることができたのに、なぜ開ける段になるとスムーズに事を運べないのか?

ほどなく袋は開き、蓋も取り外せる。しかし、ほんの数秒か十数秒の間、尋常でないほどイライラしている。取り掛かっていることが些事であればあるほど苛立ちはつのるが、自分の無力を認めようとしない。情けないのだが、何とかしようとする。対象が些事だから、諦めるわけにはいかないのである。

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諦めていれば苛立つこともない。医師に身を任せ、指示されるままに胃カメラを呑み、空気といっしょに逆流してくる胃液や唾液をだらだら垂らしながら、屈辱的に耐える。脱力しようとして力が入る。闘うことなく、十数分をやり過ごす。根性や気力ではどうにもならない。無力感すらなく耐えようとする。苛立ちもないのは、すでになるようにしかならないと諦めているからである。

胃カメラよりもさらに大事だいじになると、すでに己の無力を受け入れている。諦観という、あの心持ちだ。当事者でない自分が社会の不条理や自然の非情な猛威を傍観する時、もはや苛立ってはいない。仮に当事者でもなく傍観者でなくても、自分は大事の中に投げ出され、同時代の人間としてそこにいる無力な存在であることを自覚する。決して闘わないし、闘えないのである。

「こまめ」のチカラ

「まめ」も「こまめ」もよく似ている。どちらもマジメで几帳面で細かいところに心を配るさまだ。若干ニュアンスは違う。その違いは何となくわかるが、文では示しづらい。「筆まめ」とは言うが「筆こまめ」とは言わないし、「こまめに水分を取る」の少しずつ感・・・・・は「まめに水分を取る」からは消える。この少しずつ感を残したいので「こまめ」を選んだ。

気になることを先送りしたり放置したりせず、面倒臭がらずにこまめに動いてみる。これが案外チカラになる。きわめて小さなチカラなのだが、長い目で見ると仕事のリテラシーを下支えしてくれる。人間関係において、こまめな共有や提供を意識してみる。たとえば、自分がおもしろいと思う話は積極的に披露する。自分がおいしいと思う料理は作ってもてなす。ウケや見返りを期待すると躊躇してしまうが、良かれと思えばすぐにできる。

秋冬の旬である牡蠣を注文する。たいていの白ワインは合う。どれほどマッチしているかまで味覚できる人はそう多くないから、メニューに白と書けば済む。しかし、できれば固有名詞で23の銘柄を挙げるのがこまめ。これはもてなす側がもてなされる側にリスペクトされる一つの条件。プロフェッショナルがアマチュアと差異化できるのは、立ち居振る舞いのみならず、こまめな用語遣いであったりする。

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わからないこと、気になることはその時点で調べる。時事的な情報のチェックならインターネットでもいいだろう。一般的な教養的知識や用語や言い回しなら辞書を引き、しかるべき図書にあたりたい。知らないから調べるのは、何も知識や教養だけのためではない。人前で知りもせず、経験もしていないことを軽はずみに話す、
知ったかぶりのリスクを防ぐためでもある。

わからないことをそのままにしておいて発酵を待つのも稀に功を奏す。ただ、うまく熟成発酵が進むとはかぎらない。たいていの場合、わからないことは先送りせずに、すぐに考えてみて、ひとまずカタチにしておくのがよい。先送りした結果、散々痛い目に合ってきた。他人のルーズな先送りに巻き込まれたこと、数知れずである。

勉強と言うと、覚えることだと思っている向きが少なくない。決してそうではない。何を学んでいるか。決して知識ではない。とりわけ、熟年世代になると、将来に備えて実用的な何かを覚える必要などほとんどない。むしろ、これまで学び考えてきたことの整知・・作業のほうが重要になる。身体における整体や整骨と同様に、頭脳を――記憶を――整えるのである。覚えるよりも日々のこまめなメンテナンス。これがチカラになる。

秋のそぞろ歩き

知人の大阪出張の折りに見所を尋ねられて、「強く勧めるわけではないが、ひとまず大阪城」などと無責任に答えることが多かった。「大阪人は大阪城に行かないですけどね」などと、確たる根拠のないことを付け足すこともあった。

他の大阪在住者に当てはまるかどうかは知らないが、自分に関してはそうだった。おそらく半世紀で天守閣には三回しか上っていない。そのうち一回は幼少の頃、もう一回はアメリカ人のアテンド。自分の意思で城へ出掛けたのはわずかに一度きりである。

オフィスの立地は大阪城の大手門まで徒歩約10分。十数年前に職住近接を望んで、オフィスまで歩ける場所に引っ越してきた。オフィスと大阪城と自宅は二等辺三角形の位置関係にある。自宅からはオフィスへも大手門へも123分で歩ける。こんな近くに住めば、いつでも行けるから、余計に行かなくなるだろうと思っていた。しかし、そうはならなかった。

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今年の春から11月下旬まで、重要文化財に指定されている多聞櫓たもんやぐら千貫櫓せんがんやぐら焔硝蔵えんしょうぐらの内部が公開されている。一昨年に公開された折りに、内部をすべてじっくり見学したので、今年は行かない。この他に消失した櫓や蔵がいくつかあるが、六番櫓は今も当時のまま遺っている。この櫓の外観を眺望できる地点は大手門よりもさらに自宅に近く、そぞろ歩きにちょうどよい。気が向けば、そこから大手門に回って天守閣を目指すこともある。ゆっくり歩いて往復小一時間ほど。

今では来訪者に大阪城見学を勧めるが、天守閣ではなく水を湛える堀際がイチオシである。特に六番櫓が建つあたりは、石垣と青緑がかった水と樹々の構図が美しい。ほどよい陽射しの日には石垣が水の上に浮かんで見える時間帯がある。

ロングショットで見ると大阪ビジネスパークのビル群が見えるが、現代が視野に入り込んで邪魔になることはない。むしろ遺産を引き立ててくれて、不思議な視覚的演出効果が生まれる。わざわざ遠くへ出掛けることもない。秋のそぞろ歩きは近場で十分堪能できてしまう。

メモに関するメモ

📝 『新明解』は〈メモ〉を「(後の必要に備えて)手帳・ノート・カードなどに大事なことの要点などを書き記すこと(書き記したもの)」と定義している。若干異論がある。メモは後の必要に備えるばかりではないし、必ずしも大事なことの要点とも限らない。実は、忘れてもいいように書き留めることもあるのだ。すなわち、安心な忘却のための記録行為。

📝 メモ(memo)は覚書メモランダムmemorandum)が省略されたものだが、今ではニュアンスとしては別物になった。二国間交渉の覚書が「メモ」では頼りないし、子どもへの「テーブルの上のおやつ、食べてね」という走り書きを「メモランダム」と呼ぶのは場違いである。

📝 後で読み返すつもりでメモする。後で読み返すつもりがなくてもメモする。何も考えずに、習慣的に――癖のように――メモする。しないよりはしたほうが何となく安心なのでメモする。メモという意識すらなくひたすらメモする。

📝 本には知らない単語が出てくるが、自分で書き記したメモに知らない単語はない。しかし、後日判読できない自分の手書きに出合う。書いたのに、再生できないメモがある。

📝 明確にわかっていないことをひとまずアバウトに書き記す。書いた文字が文章になり、少しずつ思いの輪郭が見えてくる。メモには、書いて考える、書いてわかる、書いて自覚するなどの効用がある。つまり、結果としてではなく、過程としてのメモの効用。

📝 日々の隙間の時間にメモしながらノートと戯れる。終日ひねもすメモなどできないが、木漏れ日射す午後のひと時、コーヒーを啜りながらノートを開く瞬間にちょっとワクワクすることがある。

📝 言いたいけれど大きな声では言いにくい時、小さな字でメモしておく。

街をこよなく愛する理由

街――ひいては、概念としての都市――を礼賛すると、地方や田園はどうなのかと聞かれたり、場合によっては批判されたりする。短絡的である。肉をこよなく愛するからと言って、野菜嫌いと決めつけられては困る。住まいとして街をこよなく愛するということであって、そういうふうになった外的要因や自己都合などの経緯を今さら打ち消すことはできない。

街や田園にはそれぞれの環境的特性があり、別の場所では感じられない固有の良さがあることを知っている。そういう前提に立って街と都会的な特徴をこよなく愛すると言っている。なぜかと言えば、数年間の郊外を除いて生活場面はずっと街だったし、功罪を体験しながらも、街によって育まれ少なからぬ恩恵を受けてきたからである。

都市のリバーサイド夜景

47都道府県のほとんどに旅やビジネスで出掛けたので、今住む街しか知らないわけではない。偏見も先入観も何もない。行きつけの店をひいきするように、素直に街を――特に生活と仕事の場である街を――ひいきにしてきたという次第である。ひいきとはよく馴染んだ結果である。馴染んだものは愛おしく、何よりも余計な気遣いをせずに済む。十数年前に職住近接の暮しになってから、いっそうそのような趣が強くなった。

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そんなバカなと言われるかもしれないが、つくづく街は人間的だと思う。反自然や自然の対抗概念としての人間ではなく、日常の生活者としての人間という意味である。その人間に必ずしも家族があるわけではない。街での生活者の最小単位は家ではなく、あくまでも一人の人間なのだ。そういう意味でも人間的なのである。

家中心的な考えと対極的な意味での街は、市民という概念と不可分である。市民意識によって生きるから街。家中心に生きると都市は形成されにくく、生きる場は市という単位を飛ばして、いきなり国という大きな舞台に吸収されてしまう。「国」という概念がそれをよく現わしている。

街を愛し誇りに思うことを〈シビックプライド〉という。街をこよなく愛するのはこのプライドと個としての市民意識があるからだ。家の意識はともすれば身内や仲間や地縁に向いてしまうが、市民意識はそれ以外の関係性と街へと広がるのである。

独断的な料理の話

イタリアの米、カルナローリが手に入ったら……
超みじん切りの玉ねぎをオリーブオイルで炒める。イカの切り身を加えて塩少々、完熟トマトでほどよくなじませる。そこにカルナローリを生米のまま投入。すかさず、あらかじめ用意していたイカ墨たっぷりの魚貝スープを米と同じ分量加える。弱火で煮ること15分。焦がさぬように火の用心。火を消して蓋をして蒸すこと5分。バスク風イカ墨めしの出来上がり。うまい。自画自賛すると、さらにうまくなる。

鶏の親と子が丼で再会する諸行無常
親子丼はシンプルで食材も少ないが、出来上がりのうまさには天と地ほどの差が出る。
ところで、親子だからと言って、親と実の子が丼の中で出合うことはない。親子丼における親子は実は他人どうしだ。ゆえに、親子丼こそを他人丼と呼ぶべきなのである。では、現在他人丼と呼ばれているあの一品をどう改名するか。一案として「別人丼」を推奨したい。


食べる茄子、見る茄子、描く茄子

夏が終わって、必然のことわりとして秋になった。茄子がうまい。色も形も扱いにくそうだが、料理人の思惑とレシピの指示に変幻自在に従う。つまり、好きな調理法で好きに食べることができる。
いつぞやテレビ番組で茄子を鰻に見立てて「茄子丼」なるものを作っていた。もどきで偽るのは茄子に失礼だ。茄子は茄子でいい。鰻が食いたければ鰻を食えばいい。
カリフォルニアのメキシカンマーケットには想像力に満ちた形の茄子が並ぶ。しばらく見惚れていた。茄子をモチーフにした日本てぬぐいのポストカードにも飽きない味があった。
いわゆる典型的な形の茄子を描いたことがある。地味にも派手にもなる。あなた好みの茄子になる。

パスタに五目パスタや八宝菜パスタはない!
そもそもご馳走感が出た時点でパスタはパスタでなくなる。パスタはソースをベースにした「かけ」が基本である。しかし、毎日「かけパスタ」ではさびしい。と言うわけで、具を加える。しかし、具は一菜か二菜まで。五目風や八宝菜風にすると主役の麺がかすむ。
ローマ名物のカーチョ・エ・ペペはベーコンのみ。胡椒とチーズで味つけする。野菜不足などという野暮は言わない。パスタの理想形だ。
ソースと調味料以外に具を貪ってはいけない。もし具を増やしたいなら、別皿にしてワインのつまみにすればいい。
パスタの心得
1.パスタは大盛り(但し、麺のみ)
2.具は一種類か二種類(麺がしっかり見えること)
3.つゆだくソースや冷製は亜流

ことばのあれこれ


書名を見て、目次だけを一瞥して本を買う。買った本のうち、全ページ読むのが3冊に1冊なら上等。残りは拾い読みか読まずの本。
本編に目を通さないことはあっても、買う時点で絶対に読んでいる箇所がある。帯文がそれ。帯文でそそのかされて衝動買いした本は数え切れないが、帯文に負けない本文の本にはめったに出合えない。帯文だけの本を書いてみたい。

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「空気を読む」には強い意識が働いているが、「気配を感じる」はセンスかもしれない。空気ばかり読んで、気配をまったく感じない鈍感に気をつけたい。ちなみに、春は予感・・なのに、なぜ秋は気配・・なのだろう。台風の進路を読み・・ながら、考えている。

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長く情報誌の編集をしてきて、ここ数年はそのテーマで研修する機会がある。事例を集めているうちに、デザインと文章の型についてよく考える。
デザインには理があり、ある程度まで定型化は可能だ。文章も理を扱うが、日本語に型を定めるのは容易ではない。コンセプトという「想い」とのつながりからして、人それぞれに型はあるのだろうが、一般的な型というものはない。
保守的かもしれないが、文章あってのデザインであることは間違いない。デザインあっての文章ではない。これが情報誌づくりの基本。

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どなたかがテープから起こした原稿を読んで書き直す仕事がある。音声は聴かずに文字になったものだけを読む。
たとえば座談会。話者らはほとんど断定しない。「……とか」や「……と言える」や「……と思う」で言い終えることが多い。文末の動詞で意味を明瞭にしてくれない。ぼかしている、いや、ぼけている。照れているのか、自信がないのか、伝える気がないのか……。参加した人たちの文字になったことば遣いを推敲しながら、最近の発言はやわなつぶやきばかりだと、ひとりつぶやいている。

オリジナルと修復


「お客さん、この年代物の斧を買ってくださいよ」

「なんだい、それは?」
「これは、かのジョージ・ワシントンが桜の木を切った斧です」
「ほう、よくも今まで残っていたもんだな。ほんとうに正真正銘なのかい?」
「そりゃ、もちろん! ただ、270年も経ってますんで、斧を2回、3回ばかり交換したそうです。だから、丈夫なことは請け合いますよ」

哲学の本質論に通じるエピソードである。アンティーク価値云々はさておき、この斧はワシントンの斧なのか、それとも別の斧なのか? もはやオリジナルの部材は残っていない。だから、ワシントンの斧と呼ぶには躊躇するむきもあるだろうが、もし話が真実なら、偽物やコピーとは一線を画しているし、ワシントンの斧というブランドが差異化されている。ブッシュやトランプの斧ではないのだ。

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伊勢神宮では遷宮せんぐうがおこなわれる。正殿や社殿が20年毎に造り替えられる。1300年にわたって数十回やり替えて今に到っている。見た目の原形は同じだが、当初の建築資材は微塵も残っていない。あれは伊勢神宮なのか? 物的にはそうではない。しかし、偽物ではない。鎮座するのは伊勢神宮というブランドではないか。

継ぎ足して使っている鰻のたれやおでんの出汁。何十年か知らないが、創業時のたれの一匙も出汁の一滴も残っていない。にもかかわらず、「代々継ぎ足して、創業時と変わらぬ味を守っています。店主敬白」。

フィレンツェのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の壁画と言えば、あの有名な『最後の晩餐』。レオナルド・ダ・ヴィンチが描いて1498年に完成した。ところが、壁画の定番技法であるフレスコではなく、テンペラ画だったため、想定外の劣化が進んでしまった。完成後わずか十数年でひどい状態になったという。何度も小さな修復を重ねてきたが、いかんともしがたく、ついに20年以上の歳月をかけて大修復をおこなう。現在の最後の晩餐は20世紀の終わりに仕上がった。

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生まれた時のオリジナルな細胞は人体のどこにも残っていない。しかし、人はずっと昨日の自分と今日の自分は同じだと信じて生きている。では、自分を自分たらしめている不変の本質とは何かと問うてみよう。その瞬間戸惑い、自分の考えている本質がいかに漠然としたものかを思い知る。本質とは、体ではなく、名であるという主張もあながち誤りではない。