粋と野暮

粋の世界は難しい。今も昔も、上方の「粋」と江戸の「いき」はおそらく違っている。一般的に上方では漢字で、江戸ではひらがなで表記されることが多かった。人によっても使い方が異なる。九鬼周造のあの本は『「いき」の構造』である。

遠目に粋に見えていたものがクローズアップされたり身近に迫ってきたりした瞬間、野暮に映ることがある。何かしら妙味や面白味に欠けてしまって見える。その逆に、副次的なディテールがうまくいっても、大局を誤っていると話にならず、これもまた粋でなくなる。匙加減が微妙なのだ。

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芥川龍之介に鹿鳴館を舞台にした『舞踏会』という短編がある。話の終わり近く、フランスの海軍将校が舞踏室の外にある星月夜の露台に明子を誘う。それに先立って明子が将校にお国のことを考えていらっしゃるのでしょうと尋ねるシーンがある。将校はフランス語で「ノン」と言い、何を考えているのか当ててごらんと返す。

露台からは赤と青の花火が見える。花火は闇を弾きながらまさに消えようとしていた。将校は明子の顔を見おろしながら言った。

「私は花火の事を考えてゐたのです。我々のヴィのやうな花火の事を」

少年の頃に読んだこの小説の、このくだりが鮮やかに記憶に残っている。気障ではなく、これをこそ粋と言うのだろう。

仕事場から徒歩圏内の天神祭が一週間前に終わった。毎年思うのだが、あの祭りにはギョーカイ的なクロウト臭が漂う。船に乗っている連中が橋の上の人々を見上げて、しかし見下げているような……。偏見かもしれないが、特権的な何か……。表向きは誰にでも開かれているようで、独特の閉鎖性を祭りに感じることがある。花火一つ取っても、ことばと空気が粋と野暮の分岐点になる。

最近耳障りな不粋はあのコマーシャルだ。「文字が小さすぎて読めない!」と怒って企画書を放り投げるのは筋違い。「オレの目のせいで字が読めない……」とうなだれて静かにつぶやくべきところではないか。おとなの粋がない。野暮である。少々どころか、キャストにはかなりがっかりしている。

プラス2円の面倒

たまにページを繰る切り絵のカードブックがある。自宅に置いていたのを今日オフィスの書棚に移した。ポストカード24枚を糊付けした一冊。イラストの図の形がいい。色の組み合わせのセンスも洗練されている。

ポストカードブックとでも言うのだろうか、この種の本を何冊か持っているが、糊で綴じた箇所を切り離すには少々勇気がいる。ばらして書簡として使ったのは日本手ぬぐいの絵柄をあしらったポストカード集一冊のみ。全部使うと表紙と裏表紙だけが残る。痩せ細った憐れな姿に一変しているが、捨て切れない。

オフィスに持ってきたのは、イラストレーター山本祐布子という人の『Home and Form』という本。発行は2003年。すべてのポストカードの裏と奥付に「80円切手を貼って投函してください」という注意書きがある。そのことに今日はじめて気づいた。2018年現在、この注意書きを真に受けると2円不足になる。著者や発行者を批判してもしかたがない。郵便料金の変更にまで気遣えなかったのだろう。

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封書の切手代が10円から15円に変わった。中学時代、当時流行った文通をしていたので記憶の片隅にある。調べたら1966年、当時は高校一年生だった。その6年後に20円に、さらにその4年後に50円に値上げされた。電子メール出現のはるか昔のこと、たまに手紙を書いていたから知っている。

1981年に60円になり、1989年に62円になった。手元に60円切手のシートが何枚もあったので、62円に強い中途半端感を覚えた。そのつど2円切手を足していたのである。言うまでもなく、2円という端数は消費税3パーセント分だ。1994年に80円になった。大幅な値上げだが、端数が消えてほっとしたのを覚えている。

その後の20年間はずっと80円。価格安定期に入った。件の本は2003年発行だからそのど真ん中にあたる。長い80円時代にかなりの量の記念切手をシート単位で買った。しかし、2014年に消費税が8パーセントになったため再度の値上げ。そして今の82円になった。また端数である。しかもその端数の2円に例のキモチ悪いウサギの絵の切手を貼り足さねばならない。あまりキモチ悪いので、最近は前島密の1円切手を2枚貼ることにしている。切手3枚になるので宛名面は見た目かなり煩雑である。

身近な誤情報

どちらかと言えば、取るに足らぬ一件である。言い間違いだったのか聞き間違いだったのか、勘違いだったのか、あるいはそれ以外の理由だったのかはわからない。結果的に誤情報だった。

愛用ノート用に書き味のよい水性ボールペンをずっと使っている。色はブルーブラック。大それた理由はない。黒や青よりも落ち着くから。太さは中細の0.5ミリ。太めの0.7や細めの0.38も使ってみたが、インクの出がスムーズで書き味がよいのは中細。紙質を選ばないのも気に入っている。

先日、卸売兼小売業態の、品揃え豊富な大手文具店で替え芯を探したが見当たらない。五万とあるから見落としもある。店員に尋ねたところ、「そのタイプには替え芯がありません」と言う。ブルーブラックはあまり人気がなさそうなので、製造中止になったのか。「本体はそのまま売っているが、替え芯がなくなった。つまり、使い捨て?」と念のために聞いたら、自信満々にうなずいた。

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たしか替え芯が60円で、それを買えば本体はずっと使えていたのである。しかし、それも数ヵ月前の話、品切れのめったにない大手文具店がそう言うのだから間違いないだろうと思い、数日後にインクがなくなったので本体を捨てた。替え芯がなければ本体を持っていてもしかたがないからだ。

別の水性ボールペンを何日間か使ったが、インクは出るが調子が出ない。本屋に行ったついでに同じフロアーの小さな文具店に寄った。本体はすぐに見つかった。レジで差出し、「このペン、替え芯が製造中止になったらしいですね」とつぶやけば、「ありますよ、替え芯」と言うではないか。あの大手、在庫切れと言ったのか……いや、もう替え芯がないというニュアンスだったぞ……。

「じゃあ、替え芯もください」。レジの女性、「私の勘違いだと困りますから、もう一度チェックさせてください」と慎重に型番をもう一度照合してくれた。「間違いありません。替え芯は何本ご入り用ですか?」 商品があるのなら何本もいらない。本体と替え芯一本を買った。考えてみれば、欲しかったのは替え芯である。替え芯を使うために本体を買うという構図になった。

ハイコンテクストな標識

前々から気になっていた標識を取り上げて、その「みなまで言わなくてもわかってますよね文化性」について批評したい。そもそも標識やピクトグラムの類に伝えたいことのすべてを記号や文字で表わそうと期待してはいけない。どんなに頑張っても象徴にすぎない。象徴とはエッセンスを煮詰めたものであると同時に、合理的な省略の形でもある。

「みなまで言わなくてもわかってますよね文化性」という長ったらしい言い回しは、エドワード・T・ホールが《ハイコンテクスト文化》というコンパクトな術語で言い表わした。コンテクストとは、お互いのことばの意味を理解する上で必要な知識や経験、時代性や価値観を示す。コンテクストがハイとは、お互いよくわかっているということだ。つまり、同質のものを多く共有しているので、「みなまで言わなくてもわかってますよね」と、相手の理解力に甘える態度が醸成される。

ハイコンテクスト文化では、伝達者や表現者は意味や意図が通じることに楽観的である。何が何でもとことん言を尽くすという覚悟がない。この対極に位置するのがローコンテクスト文化だが、標識やピクトグラムは、風土の差異を超越して簡素化される傾向がある。ほとんどすべてがハイコンテクスト的なのである。

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車の免許を持たぬ身である。人生のどこかで更新しなかったのではなく、免許を取得したことがなく、したがって車を所有したこともない。免許取得のための試験の中身も当然知らない。歩行者もしくは自転車利用者側として交通標識を見ている。この標識はこういう意味であると覚える試験対策とは無縁であるから、どんな標識もその標識だけを手掛かりにして読み解く。

運転はしないが、車に乗せてもらっているから、すでにこの標識の意味は承知している。わかっているならつべこべ言わずに済ませばいいが、「標識文法」が無茶苦茶なので黙っているわけにはいかないのだ。まず「⇒」から一方通行が読み取れない。もっと言えば、「一方通行のみ・・」であり、「反対方向がダメ」まで読まねばならない。一つの記号にここまでの意味を含ませるなど、普段の会話では考えられない。

次いで、「自転車を除く」とセットにして読み解いてみる。矢印が自動車運転手へのメッセージで、「ここは一方通行のみ、逆走はできません」という意味であり、「自転車を除く」が自転車利用者へのメッセージで、「但し、自転車は逆方向にも走れます」という意味である。知っているから――理不尽だが約束事だから――そう読むのだが、こんな曲解が成り立ってはいけないだろう。素直に読めば、「車は矢印方向に走ってよろしい、但し、自転車はダメです」という意味ではないか。自転車で走っていて、引き返そうと条件反射する者を嘲笑えるほど、この標識に知恵を絞ったとは思えないのである。

仮の話

「仮定の話にはお答えできない」は政治家の間で常套句になってしまった。「もし……になれば、どのように対処するのか?」と聞かれて、条件反射的に「仮の話には答えられない」と返すワンパターン。考えてみればとても奇妙ではないか。企画書も設計図も、今年の夏の旅の計画もすべて仮定である。答えなかったら話は前に進まない。

問いによっては答えると言うのなら――そして、仮の話に答えられないのなら――確定した話または既定の話なら答えられるということか。「今日は何月何日か?」には答えるが、「もし今夜外食するなら、何を召し上がるのか?」には答えないということか。

では、確定や既定の話ならほんとうに何でも答えるのか。「昨夜は何を食べたか?」と聞かれて、「そんな既定の事実をなぜわざわざきみに言わねばならないのかね」と言ってもいいはずだ。「今夜、もし外食するなら何を食べるつもりか?」……これは仮定の話なのだから、それを食べなければならない義務はない。適当に言っておいて何の問題もない。

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大人になったら何になりたいかと聞かれて、「仮定の話にはお答えしない方針です」と子どもは言わない。よほどひねくれていないかぎり、大人になるという仮定に立って職業や趣味の夢を語る。子どもの頃、「100万円あったら何に使う?」と教師に聞かれた友達は「たこ焼きを好きなだけ食べたい」と答えた。そんな大金を持ったらたこ焼きなど食べないだろう。しかし、仮定だからそれでいいのである。

「もし100万円拾ったら何に使う?」 今度は「拾った」である。しかし、仮定の話なのだから、ネコババするという発想も自由。「交番に届ける」というのは現実に100万円を拾うという確定後の行為だ。まず100万円は拾わないし、誰も自力で空を飛べないし、透明人間にもなれないし、未来や過去にもワープできない。だが、そこらへんを想像したり空想したりするのが創造性への目覚めというものである。

「もし都心で大地震が発生したら……」と聞かれて、仮の話だと片付けてはリーダー失格。だから、「しかるべき分析と調査によって……」云々と答える。しかし、都合の悪い話には答えない。「もし円高がこのまま推移したら……」とか「もし日本製品に25パーセントの関税がかけられたら……」と聞かれて、対策の一つや二つを即答できないなら、都合よく「仮定の話にはお答えできない」で逃げるのである。

繰り返すが、仮定の話だからこそ答えられるのであり、答えるべきなのである。そう考えるほうが理にかなっている。明日納品するという仮定に立つから、今日も仕事に励んでいるのではないか。

却下する側、される側

仕事柄、企画書をしたためて企業に提案してきた。入札の場合、競合相手がある。競合に勝ち負けは必然。この30年、勝率は8割を超えているから上々の出来である。それでも2割は負けている。勝ち負けが逆になっていたら、たぶんこの仕事の今はなかった。

企画の規模にもよるが、短くても一週間、長ければ一ヵ月近く案を練って準備をする。不幸にして、却下の憂き目に遭うと心中は穏やかではない。しかも、ほとんどの場合、却下の理由は明かされず、またコンペを勝った競合相手の案の優れた点は知らされない。敗因分析しようにも、他の案がわからないので失望をなだめるすべはない。

昨年の今頃、コンペ参加の依頼があった。得意分野の研修テーマの実施計画だったので、余裕綽々、どんな相手でも勝てると踏んでいた。意に反して、結果は負け。間に研修会社が入っており、プレゼンテーションはその会社がおこなった。案は良かったがプレゼンが下手だったと思うことにして、負けを引きずらないようにした。

入札する側を何度も経験し、また入札審査する側にも立ったことがある。審査し合否を決定する側のほうが気楽である。採用案に対しては評価点が最高点だったことを示し、その理由を型通りに告げればいい。しかし、却下された案にはほとんど却下の理由は示されない。数案のうち一案だけが選ばれるわけだから、却下された他の案には「ダメでした」という結果さえ伝えれば済む。

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『まことに残念ですが……』という本がある。「不朽の名作への不採用通知160選」という副題が付いている。現在超名作とされている錚々たる小説が、書かれた当初は出版社に拒絶されていた。その不採用の旨を作家に送った手紙が収録された本だ。

「まことに残念ですが、アメリカの読者は中国のことなど一切興味がありません。」
『大地』を書いたパール・バックはこのように告げられた。本のタイトルとなった、「まことに残念ですが……」とあるだけでもまだましなほうである。

アンネ・フランクの『アンネの日記』の場合はこうだ。
「この少女は、作品を単なる”好奇心”以上のレベルに高めるための、特別な観察力や感受性に欠けているように思われます。」

『タイム・マシン』でH.G.ウェルズは次のようにこき下ろされた。
「(……)たいして将来性のない、マイナーな作家だ。この作品は、一般読者には、おもしろくなく、科学的知識のある者にはもの足りない。」

却下する側の気楽さが窺え、却下された側のやるせない思いが伝わってくる。人が他人を評価するとはこういうことなのである。ある人間の評価と世間一般の評価が同じであるはずもない。諾否を決める評価者が人それぞれの基準を持っているのは当然のことである。

しかし、今から見れば理不尽かつ滑稽な断り状だとしても、これらの不採用通知には理由が書いてあった。理由があれば、それを読んで絶望すると同時に、立ち上がる勇気の種も手に入れることができるかもしれない。“No!”の言いっ放しで済ませている当世コンペ実施側の良識と応募者への敬意はどうなっているのか……切に問う次第である。

書名から考えた

三日前に年賀状をすべて投函した。テーマは《架空図書館》、書いた文章は2,246文字。一度は企画されたものの出版を見送られた本、途中まで書いたが絶筆になった本などを11冊紹介した。もちろん架空である。受け取る方は楽しみにしていただきたい。残念ながら、住所の知らない人にその年賀状は届かない。

配達される年賀状から派生しそうな話を《スピンオフ》として書いてみた。年始の本編に先立つ年末のスピンオフというわけだ。架空ではなく「実在の本」を取り上げた。暮れのこの時期、本腰を入れて批評しようと思い立ったわけではない。ぼくの本への――正確には書名への――常日頃の接し方である。書名を見て考えて、読んだことにしている。

『苦手な人もスラスラ書ける文章術』
熟読も完読もしていないが、拾い読みしたところとても読みやすい本である。ところで、文章を書くのが苦手なのは、これまで書かなかったからである。そんな人がこの本を読み一念発起して書き始めることができるだろうか。仮にできるとしても、書く習慣をこれからも続けるとは到底思えない。得意としている人でもスラスラ書けないのが文章というものだ。この本は苦手な人のためになるのではなく、書くのが好きな人のためになると思われる。

『企画書は一行』
言いたいことをシンプルかつコンパクトに言い表せという意図だとわかる。一枚ならぼくも実践しているからありえると思うが、どう考えても一行は無理ではないか。企画書の一番上に「○○企画」と書いたら、もうそれで一行だ。いや、表題無しにいきなり骨子に入るとしよう。唐突に一行だけ書いた一枚の紙を誰が企画書だと思ってくれるのか。「いきなりのこの一行、何のことかさっぱりわからん」ということになりかねない。

『困った人たちとの付き合い方』
一番最初に思いつく方法は付き合わないことだが、それでは本として成り立たないから、たぶんあの手この手で指南しているに違いない。「困った人」はおおむね理不尽である。「付き合い方」は理屈である。書名に理不尽と理屈が並んでいる。経験的には、困った人が変わってくれる可能性はきわめて低い。だから、こちらが折れて変わることになる。そんなことまでして、その困った人と付き合う必要があるとは思えない。

『すべてはネーミング』
ネーミングの重要性については大いに共感する。すべてと極言したい気持も理解する。しかし、やっぱりすべてではない。名付ける対象あってこそのネーミングなのだ。商品やサービスやイベントの企画以前に名称が先行することが稀にあるが、名称だけが一人歩きできるわけではない。ネーミングだけして知らん顔できるのなら、それで仕事になるのなら、ぼくなどはとうの昔に楽々億万長者になっていただろう。

おもてなし考

「お・も・て・な・し」は2013年度の流行語大賞であった。以前から使われていた普通のことばが大賞に選ばれて、特別な意味が付加された。意識せずともできていたことが、わざわざ意識しなければならなくなったのである。ことばや道具や行為は、習慣的に用いていれば板に付いてくる。敢えて意識する必要はないから、不自然さを感じない。しかし、あらためてクローズアップされた瞬間、そこにこれまでと違った意味が備わってしまう。

当世、「飲み放題付きコース5,000円」を謳う食事処はどこにでもある。通勤途上のある店は、大衆居酒屋よりもほんの少しグレードを上げたようなコンセプトで営業している。飲み放題の種類はおよそ70種類用意されているが、制限時間は長めの2時間半。「元を取っていただくという考えではなく、ゆっくりとくつろいで飲んでいただきたいから」とメニューに書き添えてある。ゆっくりくつろいで飲むとくれば、料理への期待も高まる。

さて、そのメニューである。いろいろな一品料理、コース料理、ドリンクの種類よりも先に、つまりメニューの最上段に、飲み放題にまつわる五カ条の注意書きが記されている。

一、グラスは交換制。
二、一気飲み禁止。
三、泥酔客への提供お断り。
四、テーブルを汚すと即退席。
五、場合によってはクリーニング費用請求。

メニューの一番目立つ箇所に、よくも思い切った文面を置くものだと呆れたが、よほどたちの悪い客で迷惑した経験があるようだ。グラス交換の件、了解である。客のマナーとして当然だ。しかし、あとの四カ条はどうか。客の全員を性悪説的に見なしている。良識ある客にとっては、言わずもがなの心得ばかりである。一気飲みしないし泥酔しない、きれいに飲食するマナーを心掛けて飲食する者にとっては、こんなメッセージを目にしてから料理を注文する気にはなれない。飲食メニューの前にクリーニング代の弁償などと恫喝するのはどういうつもりなのか。

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テーブルに備えてあるメニューと同じものが店の前に掲げられている。実は、ここに入店したことはないのだが、そのメニューの威嚇的な禁止事項のせいである。メニューの下段には店の方針が書かれている。「あくまでも仕事帰りの軽い飲み」がコンセプトだと言う。先の「ゆっくりとくつろぐ」を併せてみれば、飲み放題と相反していることに気づく。飲み放題などという仕組みは、そもそもおもてなしなどとは縁遠いのである。

極めつけは「美味しくて手間の掛からない料理」という一文。手間が掛からないというのは客目線ではなく、店の自己都合である。もちろん、手間を掛けずにうまいものは調理できる。有名ミシュラン料理店のシェフがそういうお手軽レシピをテレビで紹介することもある。しかし、それはあくまでも家庭向けであって、実際の客に向かって堂々と「手間の掛からない料理」と宣言するのとはわけが違う。美味しいは当然として、なぜわざわざ手間の掛からないことに胸を張っているのか、まったく解せないのである。

手間を掛けないのなら、ぼくなどはわざわざ店に来ない。自宅でささっと作れるのと同じ料理に、その何倍もの金額を払う気にはならない。缶詰を開けてつまんでいればいいのだから(最近の缶詰は三百円も出せば、かなり美味しくいただける)。

言うは易し行うは難しがおもてなしである。なぜ人は、自宅ではなく、外で料理をつまみ酒を飲むのか。いろんな事情があるだろうが、値段や味とは関係なく、何がしかのおもてなしに期待するからだ。すなわち、自宅での調理者兼実食者ではなく、客としてひと時を過ごすためなのである。当然、料理人の手間にも期待している。

続・賞賛と批判

ぼくの周囲にも「褒め上手」がいる。中には、人間関係のため、ひいてはそのほうが自分が楽だからという理由だけで褒めている人もいる。決して他人の行為や能力、仕事ぶりをつぶさに観察しているわけではない。「いいですねぇ」を機械的に連発したり平凡な成果に過剰反応したりと、かなりいい加減である。賞賛とはほど遠い、形式的な辞令であることがほとんど。ゆえに彼らの賞賛を真に受けてはいけない。

構成メンバーがお互いに褒め合う集団を想定してみればいい。のべつまくなしに褒め合うのだから、暗黙のうちに「合格ライン」が低く仕切られている。甘く点数をつけ、またつけられることに慣れてしまうと、辛い点数がつけにくくなり、また受け入れがたくなってしまう。これではごっこ集団である。ぼくの知るプロフェッショナル集団は点数の水増しをしないし、批判すべきところを賞賛にすり替えるようなことはしない。

賞賛と批判を「信と疑」に置き換えれば、おおむね信が疑よりも受けはいい。信じる者は必ずしも救われないし、懐疑する者がいつも否定的とはかぎらないが、一般的には疑うよりも信じるほうが良さそうな風潮がある。懐疑や批判が出てこない組織や社会はリスクマネジメントに問題を抱える。組織の潤滑性を重視しても問題が解決するわけではない。先送りした批判のツケはいずれ回ってくる。ツケの弁済に追われる頃には、競争力を失うことになる。棘を無視しても棘は残る。棘は早めに抜くに越したことはない。

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褒めるという道理だけではいかんともしがたいのである。賞賛に批判は含まれない。しかし批判の後には賞賛もありうる。大は小を兼ねるに従えば、批判こそが大で賞賛が小ということになる。誤解を招かないように書こう。批判というのは、当面の対象に対して「あるべき姿」を想定してこそ成り立つ。それはあくまでも一つの代案に過ぎないが、その代案によって検証するには真摯さと覚悟が必要なのだ。あるべき姿を思い浮かべながら、対象を検証する。批判は検証であって、非難や破壊ではない。なぜなら、検証をくぐり抜けたら合格の判を押すからである。

問題解決への意欲があるからこそ、批判と検証をおこなうのだ。問題解決を諦めてない証拠である。自己批判と自己検証も同様である。それが甘くなれば、どこかの大企業のようにデータの捏造が平然とおこなわれる。問題を要素に分けて丹念に検証し、厳しく篩(ふるい)をかける。その結果、合否を判定する。十項目のうち七つをクリアして合格とする場合もあれば、全項目クリアしなければ合格にならない場合もある。一つクリアしただけで良しとするのが節操のない褒めまくり体質の特徴だ。

褒めることを過剰に推奨する風潮に批判を加えてきたが、褒められて有頂天にならず、さらなる努力につなげる人もいるが、褒められるとひとまず自己満足してしまうのが常だ。「絶望的な仕事に見えても、いきなり批判せずに、まずは褒める」と言った大企業の部長がいたが、褒めた後に、いつどのタイミングで批判に転じるというのか。何とかハラスメントにならぬようにと自己保身する無責任もはなはだしい。面倒を見るという責任が負えるからこそ批判ができる。そして、批判の毒気をやわらげるためにユーモア精神を忘れてはいけない。

賞賛と批判

プレゼンテーション、ディベート、企画コンペなどの審査員として年に何度か出番がある。公的な性格のイベントもあれば、私的な会合の場もある。利害関係があろうとなかろうと、一切忖度や贔屓をせず、また先入観にもとらわれず、内容と説明だけを勘案するように努める。忖度や贔屓、先入観を抜きにして評価をするのは難しい。だから、強く意識して「努める」。

異業種交流会などの企業プレゼンテーションでは、仲間が発表者の準備努力を知っているので、心情を汲み取って辛口コメントを控えがちだ。実際は内容にも大した見所がなく発表も拙いのだが、主催者や同志が表立って批判することはめったにない。異口同音にねぎらい褒めるのである。歯に衣着せず批判するのはゲストとして招聘されているぼく一人ということがよくある。よほどのことがないかぎり、出来が良くなければぼくはお世辞で褒めない。まずい箇所を指摘し、今後の改善努力を促す。とことん硬派である。

褒めるの対義語は「謗(そし)る」や「貶(けな)す」。響きはよろしくない。褒めないからと言って、別に謗ったり貶したりするわけではない。そんな否定的な責めをしても、成長は望めないからだ。褒めるを「賞賛」と言い換えれば「批判」という対義語が浮かび上がる。良ければ賞賛し、かんばしくなければ批判する。ここに何の問題もないはずだが、人間関係だの言いづらさだのがあって、批判の場面はめっぽう少ない。賞賛と批判。賞賛のほうが批判よりも上手な人間関係を築くという考えがあるが、説得力のある根拠はない。

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上司や周囲の人たちがあなたを褒める。あなたは別にファインプレーをしたわけではない。ふつうに仕事をして、その出来も目を見張るほどのこともない。それを自覚していても、褒められて気分が悪いはずがない。こうして60点程度なのに、あたかも80点くらいの過分な評価を受ける。これにすっかり馴染んでしまったあなたはよほどのことがないかぎり、現状に甘んじる。

さて、そんなあなたが、出向いた顧客先でこっぴどく叱られるとする。理不尽な仕打ちではなく、あなたの仕事ぶりが期待外れだったことに対する当然の指摘である。しかし、批判されることへの免疫をすっかり失ってしまったあなたは、批判される辛さに耐えられない。褒めることを推奨し、自らも他人を褒めることを実践している人たちは、こんなに落ち込んだあなたの面倒まで見てくれない。彼らは当事者ではないから、深く関与できないのである。あなたの落胆ぶりを見て、彼らができること。それは、励まして再び褒めることでしかない。

褒められることに慣れたあなた。先輩や仲間内に信じられ面倒をよく見てもらっているあなた。早晩、あなたは褒めが「褒め殺し」の一変形でもあることに気づく。褒める人たちの誰もが誠意の人とはかぎらない。楽だから褒めている人もいるのだ。褒める人たちが賞賛の責任をどこまで負ってくれるのか、はなはだ疑わしい。むしろ、批判の内に見落としてしまいがちな思いやりと寛容に目を向けるべきだろう。