今時の距離感覚

〈距離〉ということばは、実は思っているほどやさしくはない。小学6年の算数の授業で時間と距離の問題が出てくる。しかし、距離ということばを学ぶのは中学になってから。だから、小学校では距離の代わりに「道のり」が使われる。距離は長さを表すが、道のりは長さとともに時間も意識される。

距離の「距」の意味は「へだたる」。X地点とY地点の隔たりを長さで表わしたもの。二つの地点間に使われる距離は、対人関係――たとえばA君とBさんの隔たりの程度――にも使われる。A君とBさんは仲が良い、さほど親しくない、面識がない、等々。親密度という距離である。

対人または対外関係における距離について、新明解国語辞典は「ある程度以上には親密な関係になるのを拒んで、意図的に設ける隔たり」と説明している。この語釈によれば、人がらみの距離には「親密になり過ぎないように配慮する」という意味があらかじめ備わっていることになる。


当世、老いも若きもすっかりソーシャルディスタンスの制約を受けることになった。場に応じたしかるべき距離を守っているうちに、日常の磁場が異様に動き、場所感覚が落ち着かなくなった。それまで複数あったはずの居場所の数が減り、行動空間がどんどん縮んできているように感じる。

ぼくの仕事部屋の隣りには読書室を設けていて、コーヒーを啜りながら好き勝手に本を読むことができた。勉強会をしたり頻繁に外部の人たちと雑談したりしていた。それが今はどうなったか。あまり使わなくなって読書室が遠ざかったのである。窓を開けて換気し、掃除して観葉植物の世話をするというルーティンは毎朝こなしているものの、その空間に入ると自分がよそ者になったような感覚に陥る。

いいことも悪いことも時間が忘れさせてくれるし、遠く離ればなれになっているとやがて疎遠にも慣れてくる。つまり、時間があいたり一定の距離を置いたりすると、よそよそしさが常態になるのである。コロナ時代の今、誰もがこれまで経験しなかったよそよそしい距離感に面食らっている。そして、いつかコロナが収まるその先では、生じてしまった隔たりをいかに埋めていくかという難問が待ち構えている。

並ぶ、待つ

大都会特有とは言わないが、「並び、待つ」という光景は大都会でよく見られる日常だ。人が大勢いて集合的なイベントが増えれば、並ぶ目的も待つ理由もTPOに応じておびただしく派生する。

人々は一定の秩序を保ちながら指定された場所に位置して並ぶ。並ぶという動作の内には整然とした配列が含まれている。いつまで並ぶかと言えば、順番が回ってきたり何かが現れたりするまでである。つまり、並んでいる間は待っているのである。待つとは時間を過ごすことで、時間を過ごせるのは予期することがあるからだ。

都会生活者としていろいろと便宜を享受している。そのためにはある程度忍耐が求められる。都会度が高くなるほど人々は並び、そして待たねばならないのである。手持ちぶさたの時間も長くなるが、昨今はスマホをいじって時間をやり過ごせばいいので、より長い時間待ちができる人たちが増えたに違いない。


オフィスから数分の所を東から西へ川が流れている。対岸に造幣局があり、全国的にも知られた「桜の通り抜け」というイベントが4月中旬の一週間開催される。写真は2017年に実施された時のもので、ここから造幣局の門までまだ500メートル以上あるのにこんな様子なのだ。人々は列を成して牛歩状態で少しずつ入場門へ向かう。

昨年も一昨年もコロナ禍で中止になった。このイベントに生きがいを見出している中高年たちは悔しがった。今年は3年ぶりに開催された。インターネットでの事前受付のみで、人数も大幅に制限して実施された。並びもせず待ちもせずの通り抜けに、逆にがっかりしたのではないか。

出張のたびに思うが、東京では人々は秩序正しく並び忍耐強く順番を待つ。福袋を求めるデパートの前で、ラーメン店の前で、通勤電車の前で。一極集中の東京では生きる上で並ばねばならず待たねばならない。都会であるから、当然大阪でも並び待つ場面は多い。しかし、東京を「メガ盛り」とすれば大阪は「大盛り」程度である。

中年男が愛人のアパートにやって来た。女性が言った、「ちょっと待ってね」。男は笑みを浮かべて言った、「待たせなければならない。しかし、待たせすぎてはいけない」。高校生の頃、テレビで観たくだらない外国映画だが、このワンシーンとセリフだけが記憶に残っている。

ほどよい時間なら並べるという、そんな待ちがいのあることが少なくなった。

簡単そうなのに、うまくいかない

おおってあるものを外し封や蓋を開けて中のものを取り出す。毎日とは言わないが、このように手先を使う場面は少なくない。外して開けて取り出すという一連の動きがスムーズに流れれば気分がいい。逆に、少しでも滞って所作がぎこちなくなるとイライラする。手先は器用なほうだと思うが、些事で時々不器用を演じてしまうことがある。


乾電池が4個または2個、フィルムでパックして売られている。単3電池の4個パックは両手で持って2個ずつ分離するように真ん中で折れば、フィルムが簡単に破れる。ところが、一回り小さい単4電池の、しかも2個パックになると、同じ要領で試みても1個ずつに分離しづらい。力が伝わりにくくフィルムがなかなか破れてくれないのだ。4電池の2個パックのフィルム破り、侮るべからず。爪を当てて切ろうとしてもうまく行かず、結局ハサミを持ち出してくることになる。

かけうどんをテイクアウトする。熱々のダシとうどんだから、オフィスに戻ると発泡スチロールの鉢にプラスチックの蓋がぴったり吸着している。蓋のツメをつまんで持ち上げても鉢もいっしょに付いてくる。不用意に力を入れ過ぎると蓋が思い切り開いて、熱いダシがこぼれ散り、「熱っ!」 年配のバイトのおばさんが手際よく蓋をしたのだから、理屈上はその逆の作業をすれば手際よく開けられるはずなのに。火傷を免れたとしても、うどんといっしょに敗北感も味わう。

古本屋で背表紙を眺め、題名がよさそうなら手に取ってみる。それが函入りの上製本だったりする。本をチェックすべく函から取り出す。たいてい函と本の間にはほどよい「遊び」があるので、背に近い溝をつかんで取り出すことができる。右手で函を持ち左手のてのひらにトントンと当てれば、たいていの本は滑り出してくる。
しかし、函の内寸と本がぴったり合っているものがある。
本が函にキレイに収まるという超絶技巧ゆえに、指先が背表紙のどこにもかからないのである。必死に取り出そうとトントンしてみてもびくともしない。見られたら怪しまれるほど、本との格闘がますます派手な動きになっていく。こんな本を買うと読む前から苦労する。そう自分に言い聞かせて元の本棚に戻す。

スーツが売れない

スーツが売れないのは男性どもがスーツを買わなくなったからである。スーツを買わなくなったのは、スーツを着る出番が以前に比べて激減したからだ。「夏物スーツ在庫一掃セール」とか「秋物ジャケット1万円より」とか「スーツ2着まとめ買いで40%オフ」とかのメルマガのキャッチコピーも店に足を運ぶ動機付けにならない。

これまでに56着買ったことのあるアウトレットのスーツ専門店、2年前に買ったのが最後になる。ランチ処が多く入るビルの一角にあるので、たまに冷やかすが、店長は普通の表情がすでに泣き顔である。何とか売上に貢献してあげたいが、要らないものは要らない。

およそ30にわたって、毎年スーツを34着オーダーしていたほどのヘビーユーザーだった。ここ数年、出張機会が激減し、スーツを着るほうがいいと判断する場面も数えるほどしかなくなった。加えて、異常な高温多湿でクールビズはすっかり浸透し、79月だった適用期間は半年以上に及ぶ。スーツを着なくなった。ぼくだけでなく、みんなが着なくなった。


一年を通じてスーツは苦戦している。とりわけ夏場の紳士服の不調は今に始まったわけではない。新型コロナ感染が収まらないから人流を減らせと言われれば無視するわけにはいかず、在宅テレワーク族が増えた。在宅、クールビズ、ハレの場に出掛けない……高級スーツが大幅値下げになっても着ることがなければ手を出さない。

スーツは“suit”から派生して、元は「合う」という意味なのに、夏に合わない、今の時代に合わない、フォーマル色が弱くなったTPOに合わない。

見ないのにテレビを買うことはない。テレビを買えばたいてい毎日見ることになる。他方、使わないのについ買ってしまうものがある。百円で手に入るようになった雑貨がそうだし、着もしないのについ衝動買いしてしまう洋服がそうだ。着る気満々で買ったスーツなのに、所有する10数着のうち常時着るものはたいてい23着だ。

スーツを買ったもののあまり着ない……たしかにそんな時代があったが、もはや過去の話。いまスーツを買うにあたっては合理性が働く。着ないなら買わないというまっとうな判断だ。買わない、すなわち売れない、ゆえに紳士服の店は軒並み大苦戦なのだが、諸々の逆風もさることながら、男性どもがスーツを厳しく合理的に評価するようになったのである。

店じまいの戦術と現実

靴下を買おうと、店じまいと貼り紙してある肌着のディスカウントショップに入った。「店じまい」の文字を目にしてから数年が経つ。アパレルの卸売りや雑貨問屋が多い土地柄なので、閉店セールを年がら年中やっている店が少なくない。閉店と謳いながら閉店しない店ほど目立つ。

店頭で店じまいを通知するが、ほどなく無事に・・・閉店するのはごくわずか。ほとんどの店じまい宣言店は宣言後もずっと続く。これらの店では「店じまい」は「閉店しない」の同義語だ。「閉店を告げ、在庫一掃して安く売る」という恒常的な業態戦術である。これを閉店商法と言うが、万が一本当に閉まってしまうと逆に驚いたりする。

ギャグ①
「この閉店セール、いつまで?」
「うちが潰れるまでやりますよ」
ギャグ②
「閉店セール大好評につき、閉店は延期!」
ギャグ③
「お店、いつ閉めるの?」
「その時が来たらね」
ギャグ④
「毎週土曜日は閉店セール。年中無休」


本気で店じまいしようと安売りしたところ、話題になって客が殺到した。そんな日が毎日続いて、想定外の大きな利益が出た。閉店なんかしている場合ではない。こういう店は閉店を宣言したまま商売を続ける。「やめようと思ったし、今もそう思っているけれど、顧客満足優先です」。

冒頭のディスカウントショップでは、閉店セール中、レジカウンター内で社員がだいぶ先までの仕入れの話をしているのを聞いたことがある。やる気満々だ。

大阪に閉店セールで有名な店があった。何年どころではない。よく知る人によれば十数年ずっと「もうアカン!」という看板を掲げていたらしい。そしてついに閉店商法にピリオドが打たれ、正真正銘の店じまいの日がきた。大きなニュースになった。

コロナが蔓延して止みそうにない昨今、閉店商法はもはやギャグではなくなった。閉店セールの貼り紙は戦術ではなく現実なので、下手にいじることもできない。閉店商法華やかなりし日々は、ある意味でものがよく売れた平和な時代だったのである。

言いがかりや文句ばかり

想像以上に事態が長引いている。コロナである。もはやご丁寧に「新型コロナ」などと言わなくていい。すでに第5波と言うから、長引くという表現は生ぬるい。まだ感染拡大傾向にあるなら「こじれてしまっている」と言うべきか。厄介だが、個人で対処できることは限られている。

現実を受け止めるしかないが、受け止め方や反応はいろいろ、人もいろいろ。淡々と日々を送る人、じっと辛抱している人、開き直っている人、自暴自棄になっている人、ストレスをため込んでいる人、苛々を文句に換える人……。

この人、変わったなあと思う場面が増えた。これまでは温厚だったのに、相手不特定のまま言いがかりをつけたり文句を垂れたりするようになった人。何事にもハハハと笑い飛ばしたり大らかに処していたのに、今はSNSでもメールでも過激に吠えまくる人。わずか23行の言いがかりや文句だから、解決案も理由も特に書かれていない。

ステイホームでひきこもるのもストレスがたまる。仕事がキャンセルになる、延期になるのも当たり前。さっき電話があって、再来週の出張が10月以降に延びた。自分の思うようにならない。この機会に暮らしや生き方の見直しをしてみるのも一つの解決策である。一方、一部の人たちは、以前なら見過ごせた些事に不平をこぼし不満を募らせる。不平、不満は「不機嫌」と化し、やがて「不賛成」へと高じ、仮想敵と対立する。公開の場のクレーマーはたちが悪い。


本ブログに『世相批評』というカテゴリーを設けているが、理由付きの批評をしようと思ったら数行では無理で、経験的には少なくとも千字を要する。数行の世相批評ではモラルを欠くし、ことばを選ぶ余裕がない。ストレス解消のための自分勝手な言いがかりだけで終わる。それを主義主張だと思っているから、揚げ足を取っていちゃもんをつけ始めると止まらない。

ある種の素直な諦観がないと現状は曇って見えてしまう。企画研修でも一番難しいのは現状分析だ。企画初心者の分析のほとんどは現象面への文句に近い。現状の原因解明はかなりアバウトである。そんな思いつきのような分析からは解決策が出てくるはずもなく、仮に出てきたとしてもその出来は推して知るべしだ。と言うわけで、言いがかりや文句のメッセージが目に止まった瞬間、脳内シュレッダーで裁断している。

素人の評論は玄人の評論と違うべきであり、違うがゆえに素人の批評が意味を持つ。評論をなりわいとする批評家と違って、ぼくたちアマチュアの世相批評は言う人・書く人も聴く人・読む人も楽しまなくてはならない。言語的に過激になりがちなところをちょっと我慢して、ユーモアや愉快の味付けをしてみるのだ。

知人とのやりとりを元に本稿を書いたが、ユーモアや愉快の味付けができなかった。反省している。千字以上費やしても批評は容易ではない。

私的ニューズペーパー事情

新聞を購読する世帯がどんどん減っている。ここ数年特に顕著だ。購読者が減れば発行部数が減る。ちなみに、2020年の発行部数は2017年に比べて700万部も減少した。部数だけで価値を評価すべきではないが、他のメディアに比べて新聞への情報依存率が低くなったのは明らかである。

今のマンションに引っ越した2006年、一番に訪問してきた販売店の新聞を購読することにした。当時はまだ勧誘が活発で、初月無料や美術館チケットの配付などのサービスがあった。新聞にはよく目を通し、公私に役立ちそうな記事はマメに切り抜いて再読したりもした。しかし、34年前からあまり読まなくなった。そして、ついに20195――記念すべき令和元年早々に――購読をやめた。

新聞がないと情報オンチになるかもしれないと危惧したが、この2年、特に困ったことも不便もない。テレビとネットがあればビッグニュースには事欠かない。新聞ならではの小さなエピソードや夕刊にしか載らないようなローカル事情には疎くなったが、一大事ではない。但し、万事がオーケーでもない。ネットで情報渉猟しているうちに、読みたくもない記事に晒され、つい目を通してしまう。


新聞購読をやめてからテレビの情報ではさすがに物足りないと感じることがあり、そのたびに購読再開をちらっと思うこともある。しかし、購読をやめた直後の状況をもう一度思い起こしてみる。新聞のない朝が考えられないと思っていたのに、やめても何も変わらなかった。毎日読むのも記事をクリッピングするのも必要不可欠なルーチンではないこともわかった。

そうこう考えているうちにあることに気づいた。なぜ今まで気づかなかったのかが不思議である。実はマンションの二軒隣のビルの1階にコンビニのLがあるのだ。購読していた時は、寒い朝も慌ただしい朝も8階から玄関横のポストまで取りに行かねばならなかった。しかし、それを13年続けたのだから問題ない。なにしろわがポストからコンビニはわずか30歩なのだから。

コンビニならその日の気分でそのつど毎日、朝日、日経、読売、産経から選べる。場合によってはスポーツ新聞でもいい。読みたいか別に読まなくていいか、朝に決めればいい。あの話を詳しく読みたいという日に買うのでコスパがいいのである。夕刊が読めないことと購読に比べて一部20円ほど高くなることくらい大したことはない。

先月から実践し始め、土、日を含めて週に3回ほど買って読む。先週は土曜日に朝日、日曜日に毎日を買った。早朝にマスクをつけてコンビニに行くのにも慣れた。買うのは新聞だけなので手ぶらで行ってスマホ決済する。毎回「レジ袋はいかがいたしましょうか?」と「レシートはご入用ですか?」と聞かれる。これにはまだ慣れない。

「コード」という線引き

「スーツ2着買うと60%OFF!」
「創業祭につきジャケットとツーパンツが半額!」

こんな値段でいいのだろうかとこっちが心配してしまうA山やA木のような量販店ならよくあるキャンペーンだが、地元密着型の高級服専門店である。何度か利用しているから応援したい気持はあるが、不買癖がついた今、よくスーツを買っていた頃の半額以下と知っても、店に足を運ぶ気にはならない。もうスーツの出番がほとんどないのだ。

クールビズが浸透してネクタイが売れなくなったと紳士服店が嘆いたのもだいぶ前の話。売れ行きが悪くなったのはネクタイだけでない。スーツやジャケットの在庫も増える一方らしい。とりわけ夏スーツは売れない。大手企業でも行政でも4月~10月はノーネクタイは当たり前。年中ノーネクタイを推奨する職場さえある。そして、スーツ姿もどんどん減っている。

年中ノースーツ・ノーネクタイの、いわゆる「業界人」がいた。仕事が欲しいと言うから、ある企業幹部に引き合わせた。相手が客先で初対面という状況であるから、当然スーツ姿と思っていたら、カジュアルジャケットにノーネクタイで現れた。後で一言注意しておいた。「その服装では紹介者のぼくが困る。相手が服装に寛容か厳格かとは関係なく、初対面ではスーツにネクタイだ。大は小を兼ねるというのと同じこと」。


彼にはフォーマルとインフォーマルを分別する独自の〈コード(code)〉があるのだろう。よほどの自信がなければ貫けない。しかし、冠婚葬祭では礼服に白のネクタイを締めていた。やっぱり相手やTPOを気にしているのだ。

コードとは「規則」である。ドレスコードは服装に関する規則。その規則は時間帯、場所、場面、集まる人々に応じて微妙に変わる。規則に従順になるのは保守的だが、規則に逆らって自分流を貫くのも、ある意味で保守的だ。あるコードの否定は別のコードの肯定にほかならない。

二十代半ばの1年間、東京に赴任していた。アフリカのとある国の大使館主催のパーティーがあり、招待されていた上司が直前に参加できなくなったので代わりに出席することになった。わずか1年の滞在だったので身軽に引っ越していた。当然礼服など持っていない。上司は礼服で行けと命じる。月給の半分ほどもする礼服を買わされ渋々パーティーに行った。

会場に着いたら、開始時刻前なのにすでに飲み食いが始まっている。イブニングドレスの女性は何人かいるが、礼服を着ている男性はぼくを除いて誰もいない。主催者側に民族衣装が何人かいるが、出席者はほとんど普段着である。式次第なし、ドレスコードなし、名刺交換なし。誰かがテーブルへ誘ってくれて少し飲んだが、何も食べずにずっと面食らったままだった。1時間半ほど過ぎた頃、大使が現れ「お越しいただきありがとう」の挨拶でお開き。

どこからどこまでをコードとするか……線引きは難しい。

トッピングの作法

日常使われるようになって久しい〈トッピング〉。綴りは“topping”で、おなじみの“top”から派生したことばだ。名詞なら「頂上、先端、最高」などを意味する。動詞から派生しているので、トッピングには「付ける、覆う、乗せる、塗る」のようなニュアンスがある。

トッピングは料理や菓子の上に食材や調味料をふりかけたり乗せたりすることをいう。よく目にするのは、アイスクリームにチョコやナッツをふりかけること、ピザにベーコンやピーマンをあしらうこと、ケーキに粉砂糖をまぶすこと。トッピングが洗練になるか野暮になるかは紙一重。抑制気味にふりかけ、まぶし、あしらうかぎりは料理を下品にしない。しかし、盛り過ぎると残念なことになる。

デザートのケーキとフルーツにミントの葉をあしらい、粉砂糖をまぶす。

具だくさんになって主役の料理がぼんやりしたり、場合によっては台無しになることがある。麺類は昔はシンプルだったが、今は盛るのがはやりのようだ。麺が見えなくなるほどトッピングしたら野暮である。具を多くしたいのなら別皿にして食べればいい。麺類の主役はあくまでも麺である。但し、トッピングを特徴とする海鮮丼やピザはこの限りにはあらず。

有名なお好み焼き店がある。一度行ってみようと思っていた矢先、テレビ番組で紹介され、見ただけで嫌になった。お好み焼きに高級なイセエビやステーキを乗せるのである。お好み焼きは豚肉かイカか、せいぜい二つ三つの小さな具の組み合わせでいい。高級食材をトッピングするコンセプトはたいてい気まぐれだ。そんなことでお好み焼きが進化するわけではない。贅沢にして値段を吊り上げる店側のメリット以外にいいことは何もない。

食のみならず、暮らしや仕事にもトッピングの加減がありそうな気がして、暮らしや仕事のあり方についていろいろ試行錯誤してきた。何かにつけてまずシンプルを目指すのがよさそうだと思うようになった。過剰と不足の見極めが難しく、何事にもシンプルを徹底できているとは言えないが、迷ったら、ひとまず下手なトッピングや過剰を回避するようにしている。

メモと衣食住

大阪で3度目の緊急事態宣言が発出される前日の土曜日。もう少し先まで開催されるはずの小さなコレクション展は急遽その日が最終日になった。若い女性画家の展覧会である。入場料が無料の上に、小冊子と呼ぶには立派過ぎる、画家がセレクトした60ページの作品評集、それに画家自身のポートフォリオまでいただいた。

小冊子をめくる。図録から引用されたある画家の一文に目が止まる。

「美術がなくても、衣食住にはさほど影響はないと錯覚してしまったところに盲点があった」

世の中、アヴァンギャルドな青少年ばかりではない。普通の少年なら衣食住優先の生き方がたいせつだと知らず知らずのうちに刷り込まれる。「美術がなくても、衣食住にはさほど影響はないと錯覚……」という一文の「美術」の箇所には、衣食住に直接関わらないモノやコトなら何でも入る。思い当たることがいろいろある。

もう40年以上、何かにつけてメモを取ってきた。忘れないためだけでなく、メモにはペンを手にしてノートに向き合えば知恵を絞りだす効能があるからだ。長く習慣にしてきた者にとって、メモを取るのは苦痛でも何でもない。それは、ヘッドホンでいつも音楽を聴いている人と同じで、楽しい、なくては困る、生活の一部……と言うべき存在になっている。


このところよく言われる不要不急論と衣食住優先論はよく似ている。衣食住以外のたいていのことは、極論的に言えば不要不急なのかもしれない。いや、衣食住のうちにも不要不急扱いできるモノやコトが少なくない。しかし、生活は――つまるところ人生は――要か不要か、急ぎか不急かで線引きできるほど単純でないことは誰もが百も承知している。

ぼくが中高生の頃、「芸術なんぞでは食っていけない」という大人たちのことばをよく耳にした。衣食住では食が最優先されていた証だ。食っていくことを抜きにして、文化だの芸術だのとほざくわけにはいかんぞということだったのだろう。

文化芸術にしてそうなら、散歩も雑談も読書も当然衣食住に優先することはなく、ましてやメモを取るような行為がその上にあるはずがない。メモを熱心に取りながらも、まあ、なければないで困ることはないだろうと最初の頃は思っていた。ところが、そういう物分かりの良さ、大人の常識になびく事なかれ主義が、大変な錯誤だということにまもなく気づいたのである。

衣食住満たされてこそのメモと言えるなら、メモ取りができてこその衣食住とも言え、それで何の不思議もないではないか。「メモが取れなければ、生活も人生もなく、衣食住を考えるどころではない」という思いを、何を大げさななどと自ら言ってはいけないのである。

文化や芸術がなく、散歩も雑談もせず、その他諸々の不要不急を抜きにして、現代人はギリギリの必要条件を満たそうとするだけの衣食住生活を送ることができるのだろうか。