夏のレビュー

埼玉で結婚式があって招かれたのが10年前の7月中旬。記録的な暑さに頭が朦朧とし会話もままならないほど消耗した。披露宴が終わって式場から礼服のまま乗ったタクシーが駅に着く。ドアが開いて降り立った時のあの灼熱と呼吸困難の苦痛が今もよみがえる。

京都伏見の4年前の8月。研修先から駅まで徒歩での帰路。この日もスーツ姿での日帰り出張。上着を着ようが脱ごうがほとんど差がない。容赦のない陽射し、38℃前後の猛烈で残酷な10分間だった。「駅まで車で送りましょうか?」という申し出に甘えておけばよかったと後悔した。

2023912日の今日も32℃超えでまだ夏の真っ只中。ギラギラ太陽の炎天下が7月からずっと続いている。体感的には埼玉や京都のあの暑さには及んでいないかもしれないが、ぼくはあの頃よりも加齢しているのである。50日も真夏にさらされてくたばっているのである。ここ数年、6月~9月の4ヵ月が夏の季節となり、秋の担当は10月と11月だけになった。

 

ローマ字表記すれば“a-tsu”nを付ければ“na-tsu”になる。「なつ」と「あつ」は似ていて、同源説があることにも頷ける。天気や天候の話などは社交辞令の最たるものだと思っているが、こと今夏に限っては常套句の「暑いですね」以外の選択肢が思い浮かばない。

一雨が欲しいと思っていたら強いにわか雨があった。あっという間に止んだ。気象予報士は複雑な気分だろう。雨が欲しいけれど、おぞましいほど降る地域があるのだ。週に一、二度バランスよく降れば言うことないが、ぼくの生活域では雨は少な過ぎる。

「今日も青い空が広がりそうです」という天気予報は、暑さを棚上げして爽やかな天気を強調するかのような言い回し。違和感を覚える。晴天であっても、今夏の空模様の表現を喜ばしく「晴れ」と言ってはいけないのではないか。高温多湿の熱中症を心配しながら、同時に豪雨も恐れるという困った夏が、まだしばらく居座るらしい。

マイナス転じてプラスに

「ピンチの後にチャンスあり」と励まされても、危機は突然好機に変わらない。現実は甘くない。ピンチはピンチであってチャンスではない。ピンチはマイナスであり、プラスではない。マイナスは勝手にプラスにならない。一縷の望みがあるとすれば、マイナス状況をプラスとして解釈しようという心の持ち方である。

どう見ても厄介なことだが、視点や方法を変えて対処すればうまく好転するかもしれない。これを「わざわいを転じて福となす」という。こういう類の諺はいろいろある。「苦は楽の種」もその一つ。冷静に考えれば、苦はさらなる苦の種になる可能性が大きい。リンゴの種がリンゴの木になりリンゴの実をつけるように、苦の種は苦の木になり苦の実をつけるはず。「小苦は大苦の種」のほうがおおむね正しい。

アスファルト化された都会では雨が降って地が固まることはなく、大雨は冠水をもたらす。「雨降って地固まる」は今もなお、結婚式の主賓が雨の日の結婚式をポジティブに演出しようとする常套句。色褪せた諺の唯一の出番は結婚式である。「雨降って地がゆるむが、時間が経って地は乾き、やがて地は固まる」という論理だが、省略して「雨降って地固まる」。

ハレの儀の日の「雨降り」がよくないという前提に立っている。では、今夏のようなカンカン照りでいいのか。そうとも言えない。「日が照って熱こもる」という、プラス転じてマイナスの図はもっと困る。余談になるが、「雨降って空気冷やす」に期待できないから、ついに先週日傘を手に入れた。日傘が灼熱の苦を鎮静するのを期待して。


マイナスを「逆縁」、プラスを「順縁」として表現した仏教哲学者の中村はじめのエピソードには励まされる。

中村は20年の歳月を費やして、3万語を収録した『佛教語大辞典』を200字詰め原稿用紙で4万枚書き上げて出版社に手渡した。ところが、出版社はあいにく引越しの最中で、中村の原稿はゴミと間違えて捨てられてしまったのである。涙を流して謝罪に来た出版社に対して、中村は「怒っても原稿は出てこない」と平然を装って言うしかなかった。そうは言っても、さすがに中村は1ヵ月以上呆然としていたらしい。しかし、妻の「やり直してみたら」の一言に奮起した。そして、この日からさらに8年をかけて完成させた。紛失した原稿に取り掛かってから数えて27年が過ぎていた。中村は言った。

「やり直したお陰で収録語は3万から45千に増え、ずっといいものができました。逆縁転じて順縁となりました。人生において遅いとか早いということはございません。思いついた時、気づいた時、その時が常にスタートですよ」。

ストレスが溜まってもストレスと闘ってはいけない。困難な仕事を課されても弱音を吐いてはいけないのだ。もちろん、祈りは通じないし、偶然や他力にも期待できないが、実は逆縁こそが、逆縁そのものを順縁に変える力を貸してくれるのである。

虚心坦懐のこと

一たび勝たんとするに急なる、たちまち頭熱し胸踊り、措置かへつて顚倒てんとうし、進退度を失するのうれいを免れることは出来ない。もし或はのがれて防禦ぼうぎょの地位に立たんと欲す、忽ち退縮たいしゅくの気を生じ来たりて相手に乗ぜられる。こと、大小となくこの規則に支配せらるのだ。

二十代半ばで読んだ『氷川清話』(勝海舟)の一節である。元々は剣術の話だったと記憶している。勝とう勝とうと焦るとうまくいかず、かと言って、守ろう守ろうとすると消極的になり相手に付け込まれる。たいていのことに当てはまるが、論争や議論をしている時の心理がほぼこの通りに作用した経験がある。

じたばたもせず、またぐずぐずもせず、どんな状況にあっても、まずは自力を用いるしかない。己の自力(または地力)がどの程度かよく心得て、それ以上の力に期待しないよう腹を据えておく。望外の力が出たら「まぐれ」だと思いなす。同書で「虚心坦懐」という熟語の意味を正しく知り、その後長く座右の銘としていた。

虚心も坦懐も、つまるところ、素直で平穏な、こだわりもなくわだかまりもない状態である。しかし、こういう心の持ちようが一番難しい。虚心坦懐と口にする時は、はしゃいだり騒いだりしてはいけない。残念なことに、JK元首相が大声で「虚心坦懐!」と張り上げるのをテレビで見、しかも座右の銘にしていたのを知って以来、使わなくなった。

虚心坦懐が陳腐なことばに聞こえそうなので、まず声に出さなくなった。書くこともなくなったが、今日は久しぶりに書いてみた。一時的に座右の銘にしていたほどだから、消しゴム篆刻もした。落款として年賀状で使ったことがある。スキャンした印影データが残っていた。彫ったハンコの行方は不明である消しゴムとして使った覚えがないので、きっとどこかにあるはず。

写真で追う年月日

高津神社裏手の白梅

先日、20201月中旬からの1カ月半を振り返ってみた。振り返りのきっかけは2週間前の大阪城の梅林散策。今年の咲き具合を数年遡って比較していて、2020126日の高津神社の写真に目が止まった。ノートに同じ日付けがないか調べてみると、あった。「2020/01/26  踊る梅、芽吹く梅」と題して走り書きしたページだ。

神社裏の庭に白梅がぽつぽつと小さく咲いていたが、昨年よりもだいぶ早い。今日も温暖だった。ほとんどの枝で蕾が今まさにふくらもうとしていた。すでに芽吹いてこぢんまりと一斉に咲いている枝もある。
梅の特徴はたくましい幹と四方八方に伸びる枝ぶりに出る。枝の伸びるさまとゴツゴツとした曲線は力強い踊りを思わせる。時にその姿態は得体の知れない魔物に化ける。白梅の可憐さとは対照的に、梅の木のシルエットは天候や時間帯によっては不気味な存在に見える。

牧野植物園の冬に咲く花

2020115日、日本初の新型コロナウィルスの感染が発表された。長期出張で高知にいたが、その日はたまたま空き日だったので牧野植物園を訪れていた。植物を自分事として広大な敷地を歩き回る一方で、コロナはまったく他人事だった。冒頭の126日になっても、コロナの行方は定かではなく、世間はまだ恐怖心に怯えていなかった。

およそ半月後の211日、京都は平安神宮方面に出掛けて、白川沿いから知恩院あたりを散策した。駐車場にバスは一台も止まっておらず、名所はどこも閑散としていた京都はその日、観光都市ではなく「古都」だった。そのことを――団体から中国語が聞こえてこないことも含めて――幸運だと思った。

その4日後の215日、どうなるかと案じていたが、以前から決まっていた大会が神戸で開催された。大講堂では席の間引きもなく多数が一堂に集まった。マスクは事前告知で推奨もされておらず、当日に強要もされなかった。万が一クラスターが発生していたらと今思うと、綱渡りの開催決行に冷や汗が出そうになる。

その翌週から2月下旬まで、マスクの着用は求められたが、美術館へ映画館へと出掛けたし、週末は普通に外食もしていた。パンデミックや感染の不安が露わになったのはは3月に入ってからだ。特に、志村けんが亡くなったのを機に人々の意識が大きく変化した。329日のことである。

3年は長かったようであっと言う間だった。いや、あっと言う間のようで長かったと言うべきか。以前なら思い出しづらかった年月日を、写真のデジタル記録が教えてくれる。年月日が紐づけられて経験や場面が容易によみがえる。あの年の1月から始まった3年間をさっさと忘れてしまいたいが、なかなか忘れられないし、きれいさっぱり忘れてはいけないのだろう。

季節の移り変わり

今から書こうとしているのは季節の「移り変わり」のつもりだが、それが「移り変わり」とどう違うのか、この時点ではよくわからない。

冬の終わりの兆しから春の気配を感じるのか、それとも春めいてきたから去りゆく冬を思うのか。季節の移り変わり、特に季節の節目をどのように判断するかは人次第。見聞きする風物がきっかけになって「冬の終わり/春の始まり」を感知する。今日はオフィスの窓際の観葉植物に春が兆していた。

フィロデンドロン
シッサスエレンダニカ

風物もそうだが、言語的な分節も季節感覚に大いに関わっている。季節は四つあれば事足りるようなものだが、この国では二十四節気に細かく分けた。立春(新暦24日)、雨水(同219日)、啓蟄(同35日)、春分(同321日)と冬から春にかけて移り変わるが、境目は啓蟄あたりが妥当か。とは言っても、縦に長い日本列島だから、どこかの誰かが勝手に決めつけるわけにはいかない。この国にはフライング気味の春もあり、しつこく粘り続ける冬もある。

二十四節気や季語や歳時記の影響を受けて一度春を感じると、その数日後に寒の戻りがあっても、もう気分は春になっていることがある。冬という文字と語感に寒さを覚えていたが、ある日きっぱりと春を感知して新しいいのちの芽生えに感じ入るようになる。

『美しい日本語の風景』(中西進著)によると、「ふゆ」は冷えるの古語「ひゆ」に由来する。そして季節が移り変わって春になると、のびのびと張り、心地よく晴れやかになる。春と張と晴のことばの源はどうやら同じようなのだ。

観葉植物に季節の移り変わりを目撃した今朝……分節によって移り変わりを感知した陽のさす窓際の午後。今日は寒く、明日も冷えるらしいが、それはそれ。

おすすめ vs イチオシ

20221025日、高知での実話。


高知に入る数日前に知人からメールが入った。「私がお仕事のアテンドをすることになりました。前日の夜に食事をご一緒しませんか。ご希望のお料理はありますか。もしなければ、地元の食材を生かしたフレンチなどはいかが?」というお尋ね。とてもよさそうな提案なのでお受けした。午後6時半の予約。ワインを飲むことになるはずなので、飲む前に飲むという例のドリンクを半時間前に飲んでおいた。

カウンター45席、4人掛けテーブル2卓の小ぢんまりとした瀟洒な店。7時頃までにぼくたちを含めて客は6人に。わずか6人で満員御礼という感じになった。白の発泡酒で乾杯。前菜二品は、シラスをのせたカナッペと、キーウィのジュレで食べる生牡蠣。魚料理は舞茸と梨を添えた鱧の天ぷら。メインの肉料理は四万十豚のソテーでジロール茸と柿が添えてある。赤ワインを合わせた。デザートはモンブラン、紅玉のスライスが山に隠れていた。

ここは中年のご夫婦で経営するビストロだ。シェフは寡黙に仕事をこなし、奥様が料理をサーブする。最後にコーヒーが運ばれてきて、少し会話をした。
「今日の料理だと日本酒でも合いそうですね」
「そうなんですが、めったに注文がないのですよ」
「置いているのはやっぱり土佐のお酒ですか」
「ええ、文佳人です。おすすめ・・・・します」
コーヒーを飲んだ後に日本酒は飲めない。どんな酒でどこに売っているかというような話になり、歩いて5分程の酒店を紹介してくれた。時刻は8時を回っていた。8時半閉店なので「今からうちのお客様が行かれます」と電話をしてくれた。

店を出て右へ、すぐに左へ、橋を渡ってすぐ左へ。50メートルほど先に灯りが見えた。酒店に入るとブルースが流れている。酒屋の雰囲気ではない。酒もおびただしく並んでいるが、レコードもぎっしりと棚に入っている。「かくかくしかじか」と来た理由を話し、おすすめ・・・・の文佳人を指名した。

「今のイチオシ・・・・は安芸虎のひやおろしです」と主人。ひやおろしは何度も見聞きしているが、飲んだことはない。ひやおろしとは何か、イチオシのこの酒はどんな味わいなのかなど、話せば長い解説と蘊蓄を、ご主人はあらかじめ一枚にまとめておられる。その紙をぼくに手渡しながら、「ぜひ飲んでみてください。ええ、文佳人もいいんですよ。いいですけどね、今はこちらがイチオシ・・・・です」

「じゃあ、そのひやおろしと文佳人を一本ずつ。飛行機なので720ml瓶で」と言えば、ご主人はもう一度言った。「文佳人もおいしいですけどね、ひやおろしはこの時期のイチオシ・・・・です」。強く二度繰り返されたから主人の推奨に応じた。「わかりました、ひやおろし2本ください」。

「イチオシ」が「おすすめ」を押し出した。「冷やして飲む」と聞いたので、昨日の朝に冷蔵庫に1本入れておいた。そして昨夜、飲んでみたのである。形容詞を駆使して味を表現しても伝わらないので、「過去に経験したことのない舌ざわりのまろやかさ」とだけ評しておく。なお、ご主人のペーパーには味の蘊蓄が書かれているはずだが、まだ読んでいない。

ベートーベンのTシャツ

20083月、ミラノの「レオナルド・ダ・ヴィンチ記念国立科学技術博物館」にいた。一巡して中庭で休んでいたら、現地の社会見学の少年たち数人が近づいてきて「日本人か?」と聞く。うなずくと、一人の少年が別の少年を後ろ向きにしてTシャツの背中を見せた。

「これは日本語?」と聞くから「そうだ」と答えたら、どんな意味か教えろと言う。イタリア語では小学校高学年以上の少年は“ラガッツォ”という。対して、幼い男の子は“バンビーノ”だ。彼らは145歳なのでラガッツォがふさわしいが、それではおもしろくないので、バンビーノと言ってやった。案の定、Tシャツ少年はみんなに背中を指差され、「バンビーノ! バンビーノ!」としばらくからかわれていた。

胸にベートーベンのイラストが描かれているTシャツを見たことがある。背中を見るとトンカチを手にしたベートーベンの別のイラスト。意味があるのかないのか、あるとすれば解くべき謎があるのか。背中のイラスト、そのココロは「大工=第九」だった。


少年もベートーベンのTシャツも特殊なギャグで、一般汎用的にピンときたり笑えたりするものではない。漢字を読めないイタリア人にとっては「少年」と書かれたTシャツに意味はないが、バンビーノと訳せば少年が坊やになるから冷やかしネタになる。ベートーベンのほうは日本限定のローカルギャグ。しかし、第九を知らない日本人には通用しない。

所詮ローカルなネタなのだから、Tシャツはベートーベンではなく、千利休や幕末人気人物ナンバーワンの坂本龍馬あたりにして、何か工夫をするほうがいいかもしれない。高知では映画『ローマの休日』をもじった「リョーマの休日」という観光キャンペーンが展開されている。

阪神タイガースで活躍したランディ・バースが入浴シーンのコマーシャルに起用されたことがある。バースから「バス=風呂」を思いついたのだ。バースは“Bass”と綴る。風呂のバスは“bath”である。文字でも発音でもまったく類似性のない、別物である。時代が下って、阪神ではマートンが活躍した。マートンは“Murton”と綴り、発音は口を開いた「マー」ではなく、口を閉じ気味に鼻で「ムー」と響かせる感じだ。なのに、応援席ではファミリーマート・・・Family Mart)と絡ませた「ファミリーマートン・・・・」という文字が揺れていた。

上記の例は英語のダジャレではなく、ローカルなカタカナ遊びにすぎない。ダジャレの国際化は実に難しいのである。世界に通じるユーモアを目指すなら、地域文化を脱してユニバーサルな価値をネタにする必要がある。

「かつら」の話

昨年末にイタリア映画『ほんとうのピノッキオ』を観た。その後、本棚から『ピノッキオの冒険』を取り出してもう一度読んでみた。ある日、大工のアントーニオ親方とジェッペットじいさんが「言った、言ってない」の口ゲンカを始め、ついにほんもののケンカになってしまった。そして……

つかみあい、ひっかきあい、かみつきあい、もみくちゃの大騒動。やっとおさまった時には、アントーニオ親方の手にはジェッペットじいさんの黄色いかつらがにぎられ、ジェッペットじいさんの口には、大工の白髪混じりのかつらがくわえられていた。

その後二人はお互いのかつらを返し、握手をして、以後仲良くやっていこうと誓い合う。男のかつらはハゲを暗示する。ハゲどうしは、仮にもめたとしても関係がこじれないようになっているのだろうか。根拠はないが、ハゲたちは仲が良いような印象がある。

ところで、ウィキペディアは「ハゲ」の解説を次のように始めている。

ハゲ(禿、禿げ)とは、加齢、疾病および投薬の副作用、火傷、遺伝的要因などにより髪の毛が薄い、もしくは全くない頭部などを指す。またハゲた場合頭皮に艶が出やすい。頭部がつるつるに禿げている様を指し、つるっぱげ(つるっ禿げ)もしくはツルハゲ(つる禿げ)とも呼ぶ。頻繁に動詞化するが、その際「禿」の字が使われることは稀である。

上記引用でぼくが引いた下線部に注目。いきなり冒頭からウィキペディアにしては少々はしゃいでいるではないか。おそらく、ハゲと言ったり書いたりした瞬間、人の心理には何らかの異化作用が生じるようである。


かつらについて語ることがハゲの話に発展する必然性はない。しかし、ウィキペディアの記述である「髪の毛が薄い」とか「頭部がつるつるに禿げている様」とか「つるっぱげ」とかの話とかつらは、中年以降の男性の場合にはワンセットになる傾向が強い。ここでひとつ、かつらとハゲに関する持論を問題提起してみたい。

ハゲの市場は大きいにもかかわらず、商品が毛髪剤と植毛とかつらに限られるのは発想力不足だ。ぼくの親しい友人知人にハゲが数人いる。彼らを見て、以前からハゲに似合うメガネ、ネクタイ、スーツがあり、さらにはハゲならではの話し方や立ち居振る舞いがあると考えていた。誰もやらないのなら、どこかのメーカーの新事業部門に話を持ちかけて商品とサービスのコラボ企画をしてもいいとさえ思っている。

劇作家の別役実に『日々の暮らし方』という本気か冗談か判断しづらいエッセイ集がある。その中に「正しい禿げ方」という本気か冗談かわかりかねる一編が収められている。冗談ぽく書かれているが、正しい挨拶のしかたと間違った挨拶のしかたがあるように、禿げ方にも正しい・間違いがあっても何の不思議もない。別役は次のように話を展開する。

ひとまず、これは多くの「禿」が間違えていることなのであるが、テッペン・・・・から禿げてはならない。(……)テッペンから禿げはじめた場合、残存頭髪をドーナツ状に周囲に配置することになる。つまり、「禿」が中央で、独立して異彩を放つことになる。(……)このことが理解出来れば、前頭部、後頭部、側頭部の内でも、前頭部から「禿」を始めるのが最も理想的なことは、誰にでもわかるであろう。

「たかがハゲ」ではない。つねに「されどハゲ」なのである。テッペンから足元まで、一個の人間としてハゲの全体構想が必要なのだ。ハゲを頭部の現象として何とかしようとするからかつらに目が向いてしまう。安易にかつらで何とかしようしてはいけない。かつらはムレるしズレる。そして、ほぼ間違いなくバレることは無数の事例が証明している。かつらであることがバレた瞬間、毛髪に続いて紳士の資格も失うことになるのである。

部分的な符合の不思議

ばったり会った。「奇遇ですねぇ」と知人。いやいや、同じエリアで事務所を構えているのだから、たとえ久しぶりでも奇遇などとは言わない。「やあ、しばらく」でいいと思う。

ぼくらが、たとえば東京下町の、あまり観光客が踏み入れない居酒屋でばったり会ったら、その時は「奇遇」である。そして、会ったのは偶然だが、「もしかして周到に準備されていた出来事ではないか」などと思えば、出会いが〈符合〉めいてくる。

ABという事実や話が、まるでセットだったかのようにぴったり合うことが符合である。しかし、事実にしても話にしても、何から何まですべてが一致してしまうと逆に怪しい。むしろ、いくつかの要素がたまたま共通したり一致したりしている時に偶然が脳裏をよぎる。本来の符号よりも「部分的な符合」のほうが不思議なのだ。


映画『孤独のススメ』

6年前の423日に映画『孤独のススメ』を観た。翌24日に国立国際美術館で『森村泰昌 自画像の美術史』を鑑賞した。森村は名画の登場人物や歴史上の人物に扮してセルフポートレート作品を制作する先駆的アーティストである。別に驚いたわけではないが、まったく接点のない映画と展覧会にいくつもの符合があった。

森村泰昌扮するゴッホの自画像

森村の自画像にはレンブラントとゴッホに扮した作品がある。いずれもオランダ人だ。映画『孤独のススメ』はオランダ映画で、舞台もオランダ。オランダつながりということなど、いくらでもある。

ゴッホを生涯支えたのは弟のテオ。テオという名の人物が映画でホームレスの居候として登場する。このひげ面の居候が女装するからおかしい。ところで、女装の自画像も森村作品の特徴である。いや、独壇場と言ってもいい。

森村の展覧会では美術展としては珍しい70分の映像が上映された。その中で森村は羊の群れに囲まれる。そして『孤独のススメ』では、テオが羊の鳴き声のマネが得意で、羊の扱いに手慣れたシーンが出てくるのだ。

映画を観て、一晩寝て、次の日に認知した部分的な符合。何もかもが似ているのではなく、オランダ、テオ、女装、羊という部分的な共通性にたまたまぼくが気づいただけの話である。大いに驚いたわけではない。しかし、このほどよさが偶然と符号の不思議を余計に感じさせる。

「同一ラベルです」

スーパーのレジ係が商品のバーコードをスキャンする。時々「同一ラベルです」の音声が流れる。その日、これまでの連続最多回数を耳にした。中年男性が買った特価のざるそば用麵つゆの小袋。「同一ラベルです、同一ラベルです、同一ラベルです……」。正確に数えていないが、優に20回を超えたと思う。

一昨日、「いろはす」の2リットルペットボトルを2本レジに差し出した。2本目のスキャン時に「同一ラベルです」。けだるくもなく張り上げるでもなく、いつもの事務的な女性の合成音。たまに同じものを2個買う。もっと買う客はいくらでもいる。何十回、いや何百回も聞いてきた「同一ラベルです」。けれども、まだ慣れない。慣れないとは、つまり、今も新鮮に感じるということだ。

「ねぇ、あなたたち二人は双子?」
一人「はい」
もう一人「同一ラベルです」

声を揃えて「はい、双子です」などと言うよりも、よほど刺激的ではないか。

類義語・・・は同一ラベルではないが、同義語・・・なら同一ラベルと言えるのだろうか?

「何と言いますか、『ラーニング』ですかね。いわゆる一つの『学習』と言えるでしょうか」
「長嶋さん、学習はラーニングの『同一ラベル』ですね」

長嶋流では、「鯖」は「魚へんにブルー」の同一ラベルになるらしい。

教授「きみの論文のこの数行のくだりだけど、参考文献の一冊のコピペだな」
学生「いいえ、たまたまの同一ラベルです」

いやいや、数行の偶然はない。明らかに故意である。しかし、知らず知らずのうちに同一ラベル化することもありうる。たとえば、洗脳した者の脳をスキャンした後に、洗脳された者の脳をスキャンする。「同一ラベルです」と音声が流れたら不気味である。