抜き書き録〈2023年5月〉

「風景」という響きと文字が気に入っている。風景の類語はいろいろあり、意味もニュアンスも微妙に違い、使い分けが難しい。

「情景」と「景観」は人の思いや感情とつながっていて、対象を「すぐれている」とか「きれい」というふうに眺める。自然の眺めは一般的に「景色」という。風景は景色よりも上位の概念で、自然の他に街や人の活動も含めた眺めを含む。「光景」は風景や景色に比べてやや無機的で、目の当たりにしている状況、場面、様子は何でも光景になる。

古来、風景は考察の対象になってきたが、もちろん人が自然を意識してからずっと後に創られた概念である。風景をテーマにした本を3冊、読み比べてみた。

📖 『風景との対話』 東山魁夷(著)(「日月四季」の章より)

太陽や月、雲や山が幾度となく浮動して位置を変えた。それは、金色の幻想となって、夜昼となく私の頭の中にあらわれた。春の山、太陽、夏の虹、秋の山、冬の山、月、それらを連ねる雄大な雲の流れ――  

東山画伯は実際に風景を見たのではない。ある主題に対して風景が浮かんだのだ。浮かんだ風景は自分にしか見えないから、便宜上ことばでスケッチ・・・・する。宮内庁が、1960年代に新築中だった東宮御所の壁画制作を画伯に依頼したエピソードである。

「風景画的な主題」という題材だけが唯一の条件で、あとはお任せだった。画伯は実際の壁を見に行く。その時、「日月じつげつ四季図」の構想がひらめいた。壁の大きさは横22.5メートル、高さ2メートル。一目では目配りできないその長大なスペースに、動く風景があぶり出されるように見えたに違いない。

📖 『風景画論』 ケネス・クラーク /  佐々木英也(訳)(「象徴としての風景」の章より)

われわれの周りには、われわれが造ったものではなく、しかもわれわれと異なった生命や構造をもったもの、木々や花や草、川や丘や雲がとりかこんでいる。幾世紀にもわたって、それらはわれわれに好奇心や畏怖心を吹きこんできた。歓びの対象ともなってきた。われわれはそれらを、自分たちの気分を反映させるよう、想像力の中で再創造してきた。  

地球規模の自然ではなく身近な自然の場合、ぼくたちは雲や樹々、起伏のある山なみ、浜辺などを想起する。人々はこの自然を畏れ多くも自分なりに解釈し、想像上の自然を作り上げたり再構築したりしてきた。それが風景画を生みだしたというのである。「風景画は、人間が辿ったさまざまな自然観の段階をしるす指標である」と著者は言う。

自然の中に風景を見出したのは西洋ルネサンスの頃だという説がある。その話を――まったく偶然だが――次の一冊がリレーしてくれる。

📖 『風景の誕生――イタリアの美しき里』 ピエーロ・カンポレージ/ 中山悦子(訳)  (「土地の姿から風景へ」の章より)

風景を描いた絵画の黄金時代はおそらく、まだ風景というものが自立した形としてもジャンルとしても存在しなかった時代ではなかったか(……)
風景はまだ背景に追いやられる「習作」の段階にあって、観察と解釈の対象に過ぎなかった。(……)
十五世紀また十六世紀初期の美術や論考において、風景はまだ十分な自立に達しておらず、絵画としての美的規律ももたされていない。 

「まだ十分な自立に達しておらず」というのだから、概念としての風景は中世ヨーロッパでは未熟だったのである。当時の人々はあるがままの自然を拒否していた。他方、自分たちの生活に役立つ自然には大いに関心を示した。すなわち、金や銀などの鉱物と農産物を産出し、牧畜を可能にしてくれる利用価値の高い「土地」こそが自然だったのである。

ルネサンス以降、野性の自然(土地)から風景を導き出すのに時間がかかった。今、自然と風景の関係はどうなっているのだろうか? 功利優先の土地や戦場で風景画が描かれるとは思えない。

本の帯文をじっくり読む

稀に帯文が本を買うきっかけになるが、所詮「PRのうたい文句」だと内心思っている。本体の書物以上に真剣に読むことはない。図書館では本の函を捨て表紙カバーも取っ払う。帯文を付けたまま本が棚に並べられることはない。

本を買って帯文を付けたまま読むこともあるし、読む前に外すこともある。先日、十数冊溜まった読書に関する本に目を通した折りに、数冊に帯文が付いたままだった。「そうだ、帯文をじっくり読んでみよう」とふと思った。

📘 『本の世界をめぐる冒険』(ナカムラクニオ)

なぜ、本は生き残り続けたか
日本一、詳しい著者が「つながり」でひも解く教養としての本の世界史
2時間で読める! シリーズ累計16万部

本の生き残りを問うのは「本が読まれなくなった危惧」ゆえだろう。本を救済し絶滅させないために世界史や世界観が必要になった。読書論だけでは本を語ることにならない。本は紙であり印刷であり書店であり教養であり世界なのである。なお、2時間で読めるとかシリーズ累計16万部といううたい文句には惹かれない。

📘 『読書からはじまる』(長田弘)

自分のために。次世代のために。
「本を読む」意味をいま、考える。

読書から「何が」はじまるのだろうか? 意味深であり、それゆえに読書の意味を考えるというわけか。アマノジャクなので、ぼくは「本を読まない」意味も考えたことがある。本は読む対象だけではなく、買って棚に入れて読まない存在にもなりうる。読む本にも読まない本にも意味があると思うのだ。

📘 『読書とは何か 知を捉える15の技術』(三中信宏)

本を読む、それは「狩り」だ――

読書は狩猟に似ていると思ったことがある。情報や知識は獲物で、読書をする時に人は狩人になるというわけ。狩猟民族としての読書人は、獲物をさばいて知欲を満たす。読書を狩りとするなら、獲り損ないも少なくない。したがって、上手に読むためのワザは、たぶんあるほうがいい。

📘 『私の本棚』(新潮社編)

私の本棚は、私より私らしい。
23人の愛書家が熱く綴る名エッセイ!

誰が言ったか忘れたが、「きみの読んでいる本を言いたまえ。きみの性格を言い当てよう」というような文言があった。背表紙が見えると、自分の本性が見透かされるような気がするので、外から見えない本箱に格納していた読書家の知人がいた。最近読んだ10冊の書名を聞けば、興味の傾向が見え、ある程度性格がわかるかもしれない。しかし、本棚が自分よりも自分らしいのなら、類推は外れることになる。ぼくの本棚はあまりぼくに似ていないと思うが、似ていると言う人もいる。

📘 『読書会という幸福』(向井和美)

わたしがこれまで人を殺さずにいられたのは、本があったから、そして読書会があったからだと言ってもよいかもしれない。

本を所蔵し読書をしていた殺人者はいくらでもいるはずだから、一般論ではない。本があるがゆえに賢くなった人もいれば、バカになった人もいる。本には功罪があるのだ。ぼくが主宰していた読書会は、メンバーが最近読んだ本の書評をおこない、出席者から質問を受ける。みんなが別々の本を読んでくる。他方、よくある読書会では、みんなが同じ一冊の本を読んできて感想を言い合う。感想が食い違ってケンカにならないかと心配する。大人は読書感想ではなく、本の批評をするべきだというのがぼくの自論である。

抜き書き録〈2023年4月〉

あっと言う間に4月が過ぎようとしている。3月末から4月いっぱいは何かと慌ただしく気忙きぜわしい。未読本に真剣に向き合う時間が取れない。隙間があれば何度か読んだエッセイや創作を拾い読みする。全体の筋を追うわけではない。どちらかと言うと、新聞雑誌の記事をクリッピングするような感じ。

📖 夏目漱石『草枕』

山路やまみちを登りながら、こう考えた。
に働けばかどが立つ。じょうさおさせば流される。意地をとおせば窮屈きゅうくつだ。とかくに人の世は住みにくい。

何度も読んでいるので引用した文の後もそらんじることができる。いつ読んでも簡明で調子のよい名文だと思う。冒頭でいきなり「智(知)、情、意」が対比される。それぞれがアリストテレスの〈ロゴス、パトス、エトス〉に偶然対応しているのがおもしろい(講演のネタとして何度か使った)。
人の資質の3点セットだから、偏ることなくバランスよく用いるのが望ましいが、それができないからみんな苦労するのである。

📖 吉田篤弘/フジモトマサル 『という、はなし』

逃月逃日
都会の埃が
――決して誇りにあらず――体の中にしんしんと降り積もって、いまにも警戒水位を超えそうになっている。

黄砂がニュースになる前に書かれた本だから、黄砂のことではないだろう。しかし、黄砂が取り上げられる前から、都会ではいろんな埃が飛び舞い上がり、そして降り注いでいた。「東京砂漠」という歌もあった。先日、NHKの気象予報士が「洗濯物を取り入れる前に三度はたいてください。サンドだけに」と言っていた。
ところで、これがどんな本かを説明するのは難しい。別のページの次の一文がヒントになるかもしれない。

逃月逃日
朝食、菓子パン一個。昼食、菓子パン一個。夕食、菓子パン二個。

……という(ような)、はなしが多い。これではヒントにならないか。

📖 中野孝次 『人生の実りの言葉』

薔薇ばらはなぜという理由なしに咲いている。薔薇はただ咲くべく咲いている。薔薇は自分自身を気にしない、ひとが見ているかどうかも問題にしない。

アンゲルス・シレジウスという17世紀ドイツの詩人のことば。こうして読んでみると、5月頃に訪れるバラ園のバラのすべてがただ咲きたいから咲いているように思えてくる。
続いて、著者は次の北原白秋の「薔薇」と題した詩を紹介する。

薔薇バラノ木ニ
薔薇ノ花サク。

ナニゴトノ不思議ナケレド。

バラの木にバラの花が咲いているのは何百回も目撃している。一度も不思議に思ったことがない。バラの木にバラの花が咲く。これほど完璧な描写はないが、これを写実と呼ぶのかどうか、よく知らない。

抜き書き録〈2023年2月〉

今月の抜き書き録はコーヒーにまつわる既読本から3冊をピックアップ。

☕ 『人生で大切なことはコーヒーが教えてくれる』(テレサ・チャン 著/佐々木雅子 訳)

コーヒーを最も美味しく楽しむ方法は、直前に豆を挽くこと。豆は、挽かずに密閉した容器で保存しておくと、新鮮さが長持ちする。
豆を挽くと、コーヒーの風味である芳香油が、豆から放出される。同時にコーヒーの新鮮さを失わせる最大の敵、酸素にもさらされることになる。

自宅では飲む直前にコーヒー豆を挽くのが以前からの習わし。他方、消費量の多いオフィスでは市販の挽いた粉を使っている。時間に余裕がある時はオフィスでも今年から豆を挽くことにした。直前に挽けば強く香りたつ。粉になるとは、劣化のきっかけになる酸素とふれあうこと。手際よく淹れ、出来上がりをすぐに啜るのが美味しい作法である。

☕ 『バール、コーヒー、イタリア人 グローバル化もなんのその(島村菜津 著)

しっかりと目覚めているように、
日に四〇杯のコーヒーを飲む。
そして、暴君や愚か者どもといかに戦うかを、
考えて、考えて、考えるのである。
(ヴォルテール『コーヒー、神話と現実』)

「暴君や愚か者どもといかに戦うか」という一節が、ロシアの現在進行形の不条理な侵攻を連想させる。それはともかく、ヴォルテールという哲学者/詩人はコーヒー中毒だったようだ。四〇杯とは度を越すにもほどがある。体験的には、コーヒーを飲んでも思考力にはあまり効果がない。ぼくは日に34杯飲むが、眠気覚ましのためではなく、ホッと一息つくためだ。

☕ 『珈琲のことば 木版画で味わう90人の名言(箕輪邦雄 著)

収録されている著名人のコーヒーにまつわる名言を半数ほど紹介したいくらいだが、そこまで一言一句抜き書きするくらいなら、買っていただくほうが手っ取り早い。渋沢栄一の一編も捨てがたかったが、悩んだ挙句、下記の一編を選んだ

すぐそこの角を曲がれば、空に虹が見える。
だから飲もうよ、一杯のコーヒー、そしてパイをもう一切れ。
(アーヴィング・バーリン“Let’s Have Another Cup of Coffee”

この一編にはコーヒーの蘊蓄もなく、作法の小難しさもない。コーヒーを飲む理由や動機はなくてもいい。あるにしても、別に何だっていい。「雨が降っている。だから飲もうよ、一杯のコーヒー」、「春の風の匂いがする。だから飲もうよ、一杯のコーヒー」、今日は喜怒哀楽の一日だった。だから飲もうよ、一杯のコーヒー」……。そして、その一杯のコーヒーのおともだが、それもまたパイでもカステラでもクッキーでもいい。

判読不能な読書

いきなりで恐縮だが、少々長い下記の引用文をお読みいただきたい。

一九六二年に『開かれた作品』を出版したとき、私は、どのようにして芸術作品が、一方で、その受信者の側に解釈による自由な参加を要請しながらも、他方で、その解釈の次元を刺激すると同時に統制する構造特性を提示するのかと、自問した。もっと後で知ったのだが、当時私はテクストの実用論を、そうと知らないまま実践していた。いや少なくとも、今日のいわゆるテクストの実用論のひとつの側面、つまり共同作業行為に取り組んでいたわけだ。受信者はこの行為によって、テクストが語らないもの(前提し、約束し、含意し、ほのめかすもの)をテクストから引き出し、空所を埋めるよう仕向けられるのであり、またこの行為こそが、テクストに存在するものをテクスト相互性の織物へと連結するよう仕向けるのである。当のテクストがそこから生まれ、そこへと合流していくテクスト相互性の織物へと。共同作業の動き、のちにバルトが示してくれたように、これこそがテクストの快楽を、そして――特権的な場合には――テクストの悦楽を生みだすものなのだ。

引用は、ウンベルト・エーコの『物語における読者』の序文の第一段落。序の序からしてこの難解さ。と言うか、判読不能の極み。書かれているテクストに読解力が及ばないせいか、イタリア語からの翻訳に問題があるせいかはわからない。これは古本屋で500円ほどで買った一冊だが、すでに数ヵ所に付箋紙が貼ってあった。この本の前の所有者が最初から最後まで読んだのかざっと見ただけなのか、これまたわからないが、付箋紙が貼れたのだから、ぼくの判読能力よりも上と思われる。

文章の判読性が低いと、読者に意味がすっと伝わってこない。しかし、読者がそこに書かれている事柄をある程度読み解く知識があれば、読み続けることができる。古本屋で買うのをためらわず、今ぼくの手元にこの本があるという事実、長編小説『薔薇の名前』で名の知れた著者のウンベルト・エーコはすでに何冊か読んでおり、「テクスト」というテーマにも関心があるという事実を踏まえると、ぼくはこの一冊をある程度読めなければいけないはずである。しかし、さっぱりわからないのだ。

これほどさっぱりわからない読書はかなり久しぶり、と言うか、初めてのことかもしれない。「さあ、ここまで上がってこれるかい? 悪いけれど、こっちからきみの所へは下りていくつもりはない。この本で引用している実在の人物や彼らの著書について、きみが承知しているという前提でこの本を書いた。妥協は一切していない……」。ページをめくりながら、そんなエーコの(あるいは翻訳者の)つぶやきが聞こえてきた。

意味がよくわからないまま本を読み続けることができるかと問われれば、できそうもないと答える。しかし思い起こせば、学生時代に哲学や経済の翻訳書を何冊も読まされた経験がある。何もわからずに読んだふりをした記憶もある。今はどうか。脳はただ朦朧とし目は虚ろに文面を追っている。先週の水曜日から土曜日まで仕事に追われていた。一段落して読書でもと思って手にした本を間違ってしまったようである。

あちこちのページを飛び石伝いに眺めてきて、次の『7 予想と推考散策』という章の冒頭を最後に本を閉じた。

7・1 蓋然性の離接
それをとおして読者がファーブラを顕在化するマクロ命題は、恣意的な決定に依拠するのではない。それらの命題は、テクストが担うファーブラをほとんど顕在化するはずなのだ。生産されたかぎりでのテクストに対するこの「忠実性」の保証は、経験的なテストをとおしても検証できる意味論的な諸規則によって与えられる。(……)

ファーブラがわからない。最後の「テスト」が正しいのかテクストの誤植かどうかすらわからない。ここに到って、声なき笑いが込み上げてきた。わからなさすぎると読者は、パニックに陥るのではなく、諦観するかのように笑う。ある程度読めるが一部だけわからない人は苦しむが、さっぱりわからずに読み続ける人は判読不能の快さを感じ始める。エーコの言う「テクストの悦楽」が生まれてくるのだ。一度目よりも二度目、二度目よりも三度目と、読書の悦楽は増幅する。ぜひ試していただきたい。

抜き書き録〈2023年1月〉

最近あまり本が読めていない。正しく言うと、未読の本と新着の本が読めていない。空き時間に拾い読みする本はほとんどが以前読んだものばかり。負け惜しみで言うのではないが、一冊の本を一度だけ完読するよりも同じ本を何度か拾い読みするほうが気づきが多いような気がする。一見よりもリピーターのほうが店の料理の諸々によく気づくように。

📖 『橄欖の小枝 芸術論集』 辻邦生

この種の論集では、本の題名と同じエッセイが本文のどこかで綴られているものだが、見当たらない。最後の最後に見つけた。題はあとがきに付けられていたのである。

私がはじめて橄欖オリーヴの林を見たのは、一九五九年夏にイタリアの南端ブリンディシ港から船でギリシアに渡ったときでした。(……)
橄欖はギリシアでは聖なる樹木であり、その小枝は平和の象徴でした。それは、高貴な古典的な作品を生みだした古代ギリシアの風土に似つかわしい、気品に満ちた、偉大な象徴でした。(……)
橄欖の小枝は(……)二重の意味として考えることができるでしょう。一つは芸術家の内面の闘争の激しさへの暗示として、もう一つは激情を浄化した高らかな歌として。

二十年前、南イタリアの旅行中にブリンディシを経由したことがある。ブリンディシはアドリア海に面し、その先にギリシアがある。港は港でもぼくが経由したのは空港で、ローマ行きだった。ところで、この一文を読んでから、オフィスで育てている鉢植えの小さなオリーブの木に変化が生じた。ギリシアや芸術や歌のイメージが浮かび上がったのではない。他のグリーンと一線を画する存在としのイメージが浮かび上がったのだ。

文章以上に凝っているのが装幀である。本を保護するはこが二つ。ダンボール色の「スルー型」の函が外函。そこから濃いグリーンの「スリップ型」の函が出てくる。箔押しされた白い本がそこに入っている。こんな本を手にしてしまうと、書物の文化性の大半を失っている電子書籍に頼りなさを覚える。一冊の本の部位には何十という専門的な名称が付いている。名称は長年培ってきた文化にほかならない。

📖 『パンセ』 パスカル

『橄欖の小枝』のすぐ上の棚に、これまで折に触れて引用してきた文庫本の『パンセ』がある。あるアイデアを思いついたのに、メモしなかったために記憶から消えたのが数日前。その時の思いとそっくりなことを断章の三七〇番にパスカルがすでに書いている。

(……)逃げてしまった考え、私はそれを書きとめたかったのだ。その代わりに、「それが私から逃げてしまった」と書く。

考えそのものを書かないといけなかったのに、「考えを書けなかった」と書く情けなさ。「さっきまで覚えていたのに、いまこうして書こうとしたらすっかり忘れてしまっている」と書くことにも意味があると思うしかない。日記のその日の天気もそれに近い。何も書くことがないけれど、日記の習慣を続け、そこに意味を持たせるために「○月○日 晴れ」とわざわざ書いたのに違いない。

抜き書き録〈2022/12号〉

相変わらず隙間の時間に特に意図もせず乱読や併読をしている。ここ一カ月のうちに手に取った数冊の本にたまたま「感情(または感性)と理性(または論理)」を取り上げた記述があったので、まとめて抜き書きしてみた。


📖  『世界名言・格言辞典』(モーリス・マル―編)を繰っていたら「感情」の項を見つけた。ついでに「論理」をチェックしたら、その項もあった。いろいろ紹介されている格言から一つずつ選んだ。どちらもスペイン由来の格言。

とっさに心にわく感情は、人間の力ではどうにもならない。

ある物が黒くないからといって、白だと結論はできない。

感情は人の心にわく。しかし、とっさにわくとコントロールできない。人は自分の予期せぬ感情に押されてしまう。だから論理的に考えるべきだということになるが、その論理も生半可に使うと誤謬を犯す。「黒くない⇢白だ」というのもとっさの感情的判断に近い。感情と論理はよく似た間違いをやらかしてしまう。

📖  『不思議の国の広告』という本がある(尾辻克彦選/日本ペンクラブ編)。広告批評のコラムニストだった天野祐吉が『大急ぎ「広告五千年史」』というコラムを書いている。

ヒットラーの演説は、文字で読んでも、人を感動させるような深いものはありません。それどころか、子供だましみたいなことを言っている。が、彼の演説を録音したものを聞くと、うまいんですねえ、その語りっぷりが。彼は、人を動かすのは論理じゃなくて感情だ、言葉じゃなくて音楽だ、ということを、ちゃんと知っていた。演説の中身を吟味したりするのは、ひとにぎりのインテリだけだということをちゃんとわかっていて、それで見事に大衆操作をやってのけたんだと思います。

あなたは感性派、それとも理性派? などと聞かれて、「あ、感性派です」と答える人がいるが、実際は二択のどちらかに厳格に自分を置いているわけではない。感性も理性も持ち合わせているのが人間である。感性のほうがウケがいいと信じて実践してもうまくいかない。理性は一般を扱うが、感性は個別的である。「感情にはすべて、自分だけが体験する感情と思わせる独特な面がある」とドイツ人のジャン・パウルは言う。感情は自惚うぬぼれが強いのだ。

📖  茨木のり子著『詩のこころを読む』の一節。

詩は感情の領分に属していて、感情の奥底から発したものでなければ他人の心に達することはできません。どんなに上手に作られていても「死んでいる詩」というのがあって、無残なしかばねをさらすのは、感情の耕しかたがたりず、生きた花を咲かせられなかったためでしょう。

このあと著者は感情と理性を比較し、感情的な人よりは理智的な人のほうが一般的に上等と思われるふしがあると言う。しかし、「感性といい、理性といっても、右折左折の交通標識のように、はっきり二分されるものではないようです」と結んで、感情と理智を同時に満足させてくれる詩がありうることを示す。

📖  安斎育郎著『人はなぜ騙されるのか』にも理性と感性の違いについてのくだりがある。

教育には、二つの違う方法がある。第一は「理性」に訴えかける手法、第二は「感性」に訴えかける方法である。とりわけ未知の現象に対する科学的態度、要するに「分からないことは引き続き調べる」ということによって、批判的・客観的な態度を培う必要がある。

著者は超常現象に対する人の取るべき態度について語っている。人は不思議な印象から強い衝撃を受け、理屈よりも心の動きに支配されてしまう。衝撃はずっと続き、目の前で見た「ありえない現象」をありえるのだと信じ、理性よりも感性が優位的になるのである。


抜き書きをしているうちに、十数年前に私塾で話したことを思い出した。カントの『純粋理性批判』の一節がそれ。

人間の認識には二本の幹がある。それらは共通の〈未知の根〉から生じる。感性が素材をもたらし、悟性がこれを思考する。

カントの術語である悟性を大雑把に理性と呼ぶならは、人は感性と理性を動的に協調させたり統合したりして思考力や構想力を築き上げている。別の言い方をすれば、そのつど感性と理性にうまく役割分担させるほど人は器用ではないのである。

値決めと買い方

月に一度か二度ひいきの古本屋に行く。脇目もふらずにそこを目指して行く。目指すのだからすでに買う気満々、たいてい56冊買う。自宅から歩いて20分ほどの所なので、散歩や所用のついでに寄ることもある。その時は手ぶらで店を出ることが多い。

さらに近い、徒歩わずか56分の所に古書店がもう一店ある。日常生活圏の道沿いにあるので、そばを通ると必ずチラ見する。三度に一度は店に入る。前述のひいきの古本屋ほど利用しないが、たまたまセールの日だと品定めする。ある日、セールのPOP広告が目に入り足が止まった。

結論から書くと、セールの仕掛けに見事に釣られてしまった。書名をいちいち紹介しないが、文庫本を10買ってしまったのである。POPには「文庫本1100円(税込)」と書いてあり、これだけならセールと銘打つほどのことはない。ポイントは値決めの方法だった。

1100円、2200円、3300円、4400円、5500円と、ここまでは当たり前の単純掛け算。ところが、6冊買いの値決めが600円ではなく、5冊買いと同じ500円。それどころか、7冊でも8冊でも9冊でも500円。なんと10冊でも500円。つまり、5冊から10冊なら何冊買っても同じ500円なのである(ちなみに11冊なら600円)。

と言うわけで、ぼくは10冊買った。読んでみようと思った5冊はすぐに選べたが、その5冊ほど気が進む本がなかなか見つからない。しかし、悩むことはない。10冊買うつもりなら5冊は無料になるのだから。自分は読まないかもしれないが、オフィスの本棚に並べておけば誰かが読むだろうという感じで残りの5冊を選んだ。

こんな値決めをしている古本屋で10冊買ったという話をしたら、知人が「考えられない」と言った。値決めのことではなく、読むか読まないかわからない本を5冊手に入れたぼくのことをそう言ったのである。「読みたい本が5冊しかないなら、あと5冊が無料でも読みそうもない本なら絶対に持ち帰らない」と彼。「いやいや、そのほうが変だろう。たとえば自分が読まなくても、歴史小説を5冊選んで好きな人にあげればいいし」とぼく。

議論を深めると厄介な「要不要論」になりそうなのでやめた。ぼくはミニクロワッサンが5個でも10個でも同じなら10個にする。イタリアに旅行した時、3泊すれば4泊目無料というホテルに4泊した。知人もそうするだろうと思うが、本だとそうはならないようで、たとえ無料でも読まない本はいらないのだ。本にはそういう思いにさせる何かがあることは認める。

あとがきの第一段落

『日本の名随筆』という全集がある。各巻にテーマがあり、3040人ほどの著名な文筆家の手になる随筆が編まれている。全巻100冊、別巻が20冊、すべて揃えていない。書店や古本屋で気に入ったテーマの一冊ずつを買って読んできた。

編者が「あとがき」を書いている。錚々たる顔ぶれが綴った随筆を選んで編集した後に、編者がどんなふうにあとがきで締め括っているのかに興味津々。とりわけ最初の段落の書き出しと「摑み」に注目してみた。


🖋 「色」 大岡信  編 

 私の家には今猫が二匹いる。そのほかにも、去年死んだ犬が残していった犬小屋に住みついている野良猫が、定住者で五匹、場合によっては七、八匹もいて、これらはわが家の準飼猫のような生活を送っている。

猫の毛色からテーマに入るのかと思いきや、そうではなかった。次の段落で「人間と猫とで、物の色彩がどのように異なってみえているのだろうか」と、興味の方向が示される。猫の毛色のバリエーションの話よりはおもしろいのではないかと思わされる。

🖋 「蕎麦」 渡辺文雄  編

 形が似ているから仕方がないと言えるけど、ソバとウドンが対決する。ウドン好きとソバ好きが対決する。世の中ウドン派とソバ派、どちらが多いかわからぬが、目につくのはソバ派である。「麺好きですね。」と言われてウドン派はにっこりうなずいても、ソバ派は「いえ、ソバが好きです。」とこだわる、、、、

テーマが蕎麦だが、ソバ好きの特徴を際立たせるためにウドンと対比してみせた。ソバ職人やソバ好きのこだわりには際限がない。後段で編者は「ウドンのうまさには幅があるが、ソバのそれはまことに狭い」と言い、スリリングな食い物であると付け加える。ウドンは庶民的で付き合いやすいが、ソバ自体もソバ好きもおおむね気難しい。

🖋 「嘘」 筒井康隆  編

 この名随筆シリーズの「嘘」を編集するにあたり、八年間かかって五万冊の随筆集を読破した。「嘘」をテーマとした随筆は数少なかった。さらにまた、読んで面白いと感じたものはもっと少なかった。そのためわたしは鬱病となり、リタリン(鬱病の投薬剤)を八百錠のみ、そのため胃潰瘍となって手術を八回した。

「嘘」がテーマの随筆集のあとがきを嘘まみれにしたところに編者の工夫がある。さすが筒井康隆だ。この先で、純文学作家の書いた随筆がおもしろくなく、自分のようなエンターテインメントの作家の随筆はおもしろく筋金入りだと書いている。テーマをとことん追求する姿勢に感心し苦笑する。

🖋 「古書」 紀田順一郎  編

 学生時代、私の最大の不満は、学校の付近に古本屋の乏しいことであった。荷風、敏、万太郎、瀧太郎、春夫……という三田文士を輩出した土地に、古本屋がたった二軒というのはいかにも物足らない。本郷、早稲田に一籌を輸するのは明かだ。

編者は慶應付近の古書店の少なさに文句を言いながらも、後に書誌研究に秀でた評論家になったくらいの根っからの本好きであったから、神田神保町の古書街に入り浸るようになった。そこからテーマ「古書」にふさわしい話が綴られる。

🖋 「道」 藤原新也  編

 大人になってむかし通っていた小学校を訪ねてみると、校舎や運動場やそれに到る道筋などがこんなにも小さく短かったか、という驚きをもたらされた、という話をよく聞く。私自身にもそのような経験がある。

子どもの頃の記憶の中の道と大人になってから通る道は同じであって、しかし相対的に別物だ。実際に歩いてみると、かつての体躯の大きさと歩く速度に見合った道のイメージが一変してしまう。勝手知った街歩きの最中でも、道の意味の多義性と道のイメージの多様性によく気づかされる。

回文、その愉快と苦悶

回文のテーマで出版されている本は少ないし、周辺から話が出て盛り上がるなんてこともほとんどない。本ブログでは2014年に『眠れなくなる回文創作』と題して書いている。

昨日のことである。道すがら大手古本チェーン店が入るビル前を通りかかった。別の店は時々利用するが、そこは初めてだった。いつもの店に比べるとかなり広い。広い店は苦手だ。入るには入ったが長居をするつもりはなく、入口に近い棚あたりの背表紙を適当に眺め始めた。そして、いきなり見つけてしまったのである。

おお、ぼくが回文を始めるきっかけになった土屋耕一、あの「軽い機敏な仔猫何匹いるか(かるいきびんなこねこなんびきいるか)」の作者ではないか。函入り2冊セットの新品同様、1冊が『回文の愉しみ』でイラストが和田誠なら手に入れるしかない。


おびただしい作品が紹介されていて、喜び勇んで読み始めたのはいいが、読む愉快の後にほぼ確実に創作してみたくなる衝動に駆られる。そして、間違いなく、取り掛かかった直後の愉快はやがて苦悶と化し、脳裏に文字群のストレスを抱え込んで半ノイローゼ状態に陥るのである。

それでもなお、手に入れた本の冒頭に出てくる作品、「力士手で塩なめなおし出て仕切り(りきしてでしおなめなおしでてしきり)」を見たりすると、またしても創作意欲がふつふつと湧いてくるのだ。土屋はこの回文を色紙に書いて掲げていたのだが、この一文に無反応な友人たちもこれが逆から読んでも同じ文になるのを知って驚嘆する。

ところで、回文は通常の文案や文章のようにスムーズに出来上がることはめったにない。そのまま読んでも逆から読んでも(または、上から読んでも下から読んでも)同じ音にしようとすれば、不自然にならざるをえない。しかし、それを不自然と呼んではいけない。回文には回文独自の文法と語法があり、意表を突く表現を生み出してくれる。

慣れてくると、20音前後の作品はできやすく、工夫の過程も愉しく感じられる(下記、筆者の作品)。

🔄 酸か燐か薬か、リスク管理監査。(さんかりんかくすりか りすくかんりかんさ)
🔄 頼んでも金積む常がモテんのだ。(たのんでもかねつむつねがもてんのだ)
(㊟清音、濁音、半濁音、拗音、直音、現代仮名遣いと旧仮名遣いは互換性ありと見なす)

わずか510音増えて30音前後になるだけで、数倍の時間がかかるようになる。できたと思って逆に読むと不完全作だとわかり愕然とする。脳がへとへとになる。それでも途中でギブアップできず朦朧としながらも続けてしまう。そんなふうにして何とかできた作品。

🔄 居並ばドレミ、師が讃美歌うたう。花瓶探し見れど薔薇ない。(いならばどれみ しがさんびかうたう かびんさがしみれどばらない)
🔄 村からピンチの使い、どけた竹刀でいなしたけど、威喝のチンピラ絡む。(むらからぴんちのつかい どけたしないでいなしたけど いかつのちんぴらからむ)

たった1音で不完全作になり、その修正に何日もかかったりする。諦めて一から作り直すこともあった。根を詰めた50音以上の自作がいくつかあるが、思い出すだけで疲れが出そうなので、掲載はいずれまた。