変われない方法

ある種の確固たる考えがあって、意識的に今の自分を変えないということがある。この話はそうではない。本当は自ら変わりたいと熱望している。にもかかわらず、変わることができない。つまり、「変えない方法」ではなく、「変われない方法」の話である。

ある対象との関係において、変わりたいのだが変われないのなら、いっそのこと対象のほうを変えてしまえばいい。それで関係はいくらか変容する。関係が変わることによって自分が変わったような気にはなれる。たとえば、読み応えのある本を読みやすい本に変えれば、変われたと錯覚できる。言うまでもないが、自分は変わっていない。

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人は環境に適応して生きていく。環境と適応を天秤にかければ、環境よりも適応のほうが重要なのは言うまでもない。生まれ育つ環境が人に与える影響は大きいとよく言われるが、環境が選べる条件に恵まれているからにほかならない。もし選べないのなら――そしてその環境以外に選択肢がないのなら――適応するしかないではないか。

環境適応には負の側面がある。現在に適応しようしているうちに、観念構造そのものから自発性(もしくは創発性)が失われてしまうという点である。たとえば、自力で考えたり工夫したりする前に、即効的に役立つ情報に飛びつく習性が身につきかねない。ハウツー本などがその最たるものだ。一度ハウツー本に染まってしまうと、考える出番は少なくなる。読みやすい文章と内容は、やめられない止まらない。やがて役に立つかどうかわからない古典などに親しむ時間が惜しくなる。

これではダメだと反省しても、無意識のうちに何年も培われてきた観念構造が変わってくれない。意を決して新しい習慣を始めても、異国の旅に出ても、座禅を組んでも、ちょっとやそっとで変われない。観念構造をそのままにしているかぎり、身についた「変われない方法」はびくともしないのである。

本を読まないという方法

思考の振幅をもう一回りも二回りも広げたい、現状を乗り越えて新たな創意工夫と改革に考える力を生かしたい……この願いに理不尽はない。問題は、それをどう成し遂げるかだ。

考え方が変わった、考えが深まったなど実感はできるだろうが、何が作用したのかを突き止めるのは容易ではない。たとえば、昨日の考えが今日少し深まった、あるいは次の段階に上がったと感じるとする。ぼくの場合、昨日やらなくて今日やってみたことは何かと思い起こす。たとえば、昨日は紙に書かなかったが、今日は書いた……そうそう、自問自答もいくつか試みたなどとビフォー・アフター分析をする。

自問自答を紙に書く行為は思考力強化に即効性を発揮する。とりとめのない思いや考えに「問う」という刺激を与えれば、条件反射的に「答え」を編み出そうとするからだ。腕を組んでぼんやりと思い巡らすよりはよほど脳の働きを後押ししてくれる。行き詰まったら、問うのである。問わずに答えだけが勝手に出てくることはない。

「答えと問いは一体で、答えは問うところにある」(禅語録)、また、「およそ問いが立てられるのであれば、この問いには答えることができる」(ヴィトゲンシュタイン)。禅僧や哲学者でないのなら、しっかりと明文化しておくことだ。

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ぼくたちがもっとも依存するのは経験的思考である。言語を通さずに、身体と精神でからめとる固有の経験が考えることのベースになる。しかし、経験は偏る。また、何でも経験できるわけではない。だから、不足を他人に依存して補う。対話的思考や交流的思考である。他人とのやりとりや関係によって、思考の受容器は大きくなる。自分にない思考パターンを吸収することができる。

一人の人間の経験などたかが知れている。他人との対話や交流にしても、何百人、何千人を相手にできることはめったにない。経験にも人脈にも限度があるのだ。ここに読書的思考の出番がある。本を読めば、経験外の知識や発想、人脈外の頭脳の力を借りることができる。

本を読むのは荷が重いという人がいる。よく考えてみればいい。どこかに出掛けて何かを経験したり、直接他人と会って意見を交わす面倒に比べれば、実に安上がりで手っ取り早い方法ではないか。本を開いて少々辛抱しながら読み進めれば、望外の知やひらめきに出合う。それは実際の経験以上に価値ある疑似体験になることさえある。

気に入らなければ読み始めた本を途中で閉じるという方法も読書体験の内にある。本を開くのだから閉じることもできる。本には読むと読まないという両方の方法がある。読書でなければ得られない経験があると同時に、惰性でも読めてしまうのが本というもの。読書的思考が功を奏さないこともよくある。そんな時、一ヵ月ほど読書をシャットアウトしてみるのだ。本を読まない日々が続くと、経験と他人だけでは思考の振幅が狭まることがわかってくる。読書断食である。これが読書の方法を整え、それまでとは違う世界に目覚めさせてくれる。

ルネサンスの知

ルネサンスの草分けとなったイタリアではルネサンスと言わない。「リナシメント(Rinascimento)」と呼ぶ。ルネサンスという響きに慣れ親しむと、リナシメントには違和感を覚える。諸説あるが、イタリア・ルネサンスが栄えたのは15世紀初頭から16世紀半ばである。

過去に類を見ない知が炸裂した時代だが、ルネサンス期の人々は歴史に詳しかったわけではない。たとえばポンペイがヴェスヴィオ火山の大噴火によって滅んだのは紀元79年だが、ルネサンス人はこのことを知らなかった。

ポンペイに遺跡らしいものがあるとわかったのは16世紀の終わり、発掘が始まって遺跡の全貌がおおよそ明らかになったのがようやく18世紀半ば。レオナルド・ダ・ヴィンチが活躍した1500年前後から250年も後のことである。

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無知だったのはポンペイの遺跡だけではない。ルネサンスに先立つ中世のイタリア人は、祖先が築いたローマ文明についてもさほど知らなかった。古色蒼然とした遺跡を日々あちこちに見ながらも、彼らの知識は現在のぼくたちの足元にも及ばなかった。

ところで、古代ローマはギリシア文明の影響を大きく受けている。ざくっと言うと、紀元前にはイタリアはギリシアの植民地のような存在だったのだ。

実は、ギリシア文明らしきものが存在したとわかったのは、1096年から200年間続いた十字軍の聖地エルサレムの奪還戦争中だ。ギリシアの英知はまずアラビア人に伝えられた。イタリアでギリシア文明が知られたのはアラビア語文献を通じてなのである。

ギリシアのヒューマニズムに触れたのがルネサンスのきっかけになった。決して古代ローマの知と直結していたわけではない。当時の神を絶対信仰するという軸が、ルネサンスという人間復興の軸に置き換わった。ルネサンスにはギリシアから受けたインスピレーションが基底にあり、それが人間と芸術の復興劇をもたらしたのである。

空間の話

空間ということばをわざわざ辞書で調べた記憶はない。ある程度イメージができているし、今さら辞書を引くことなどない。と思ってみたものの、気になるので広辞苑を引っ張り出した。「物体が存在しない、相当に広がりのある部分。あいている所」と書いてある。この「あいている」は、「空いている」であって「開いている」ではない。

この定義は、空間が閉じているか開いているかに言及していない。何もなくて空っぽであれば空間と呼べそうだ。空間とは、そらあいだではなく、いているである。引っ越しの荷物が搬出されて、何もなく空っぽになった部屋の状態。閉じているが、れっきとした空間だ。結構広かったんだなあと述懐する。窓を開けて見慣れた景色に別れを告げる。目の前にはビルに囲まれた更地が見える。天に開いているが、あれも空間。

空間を最初に哲学したのは老子だ。老子は何を哲学したか。「うつわが有用なのはその中が空っぽだからである」と言った。たしかに。そのうつわは空っぽだが、そこにお茶を注げばお茶碗になる。コーヒーカップではない。お茶を飲み干してから、コーヒーを入れたらコーヒーカップ。それも啜り終えたら、空っぽになる。その瞬間、そのうつわは有用度を増す。

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老子は次のようにも言う。「部屋が有用なのもその中が空っぽだからである」。昔の家には「何でも部屋」のような一室があった。普段は片隅に箪笥が置いてある程度で、ほぼ空っぽの和室。そこに卓袱台を持ち込めばにわか応接間になった。それ以外に、その一つの部屋が居間、食堂、書斎、寝室、裁縫室、娯楽部屋に変化した。片付けてしまえば、何にでも化けることができる有用な空っぽの部屋に戻る。

うつわにしても部屋にしても囲まれた有形である。しかし、中空ちゅうくうの構造を持つ。有形のものが使い勝手がよく有用であるためには、無形の構造という条件を満たさねばならない。

ところで、広辞苑の定義には「相当に広がりのある部分」という記述があった。だからと言って、広大な宇宙を想像してはいけない。空間というのは広いから認識しやすいというものでもないのだ。大きい家、大きい部屋だが、空間の広がりを感じない場合もある。一方、まったく狭さを感じさせない小さな家、小さな部屋がある。広がりのある小ささは簡素で洗練された空間の理想形なのだろう。

X and Y ; X or Y

3日前「あれもこれも」と「あれかこれか」について書いた。その折りに、論理学の“and”“or”のことがよぎった。論理的ということについては諸説あるが、基本は文章の明快さのためのルールや法則に適っていることだ。「~は~である」もそうだし、「~は~ではない」もそうである。他に「すべて・・・all)といくつか・・・・some)」や、そして「かつ・・and)とまたは・・・or)」も論理的文章を書く上で欠かせない。

X and YXかつY)は「セット」という感覚。ケーキセットを注文すればケーキとドリンクが出てくる。ケーキが付いていない、あるいはコーヒーが付いていないならandの条件を満たしていない。「印鑑と運転免許証持参のこと」とあれば、両方を持っていかなければならない。

X or YXまたはY)はセットではなく、いずれか一方を満たせばよい。「運転免許証またはパスポート」とあれば、両方持って行く必要はなく、いずれか一つで身分証明の要件を満たせる。当たり前のことだが、「ケーキセットにはコーヒーか紅茶が付きます」とは、コーヒーと紅茶の両方は飲めないという意味である。

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X and YX or Yに否定が絡んでくると、論理学の初心者には厄介である。「机の上に鉛筆と消しゴムがあった」の否定はどう言えばいいのか。よく間違われるのが「机の上には鉛筆も消しゴムもなかった」である。

あなたは危険な居酒屋に入った。この店では赤と白のグラスワインを差出して一言を添える。ところが、その一言はつねに虚言なのだ。いったん否定して真実を探らねばならない。

「赤ワインにも白ワインにも毒が入っていないよ」
こう言われたら、「赤ワインには毒が入っていない。かつ、白ワインにも毒が入っていない」と読み替える。そして、この文章を否定する。つまり、「赤ワインに毒が入っている。または、白ワインに毒が入っている」。否定する時、「かつ」を「または」に変えるのがポイント。一方が毒入り、他方が毒入りでないということになる。確率は五分五分だが、安全なのが赤か白かはわからない。

「赤ワインか白ワインのどちらかには毒が入っていないよ」
こうコメントされた。「赤ワインに毒が入っていない。または、白ワインに毒が入っていない」と読み替えて、否定する。「赤ワインに毒が入っている。かつ、白ワインに毒が入っている」となる。「または」を否定すると「かつ」に変わる。両方が毒入りであるから、たとえただでも飲んではいけない。

「赤ワインか白ワインのどちらかに毒が入っているよ」
こうつぶやかれたら、「赤ワインに毒が入っている。または、白ワインに毒が入っている」と読み替える。これを否定すると、「赤ワインに毒が入っていない。かつ、白ワインに毒が入っていない」となり、どちらを選んでも安全ということになる。

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「かつ」と「または」を含む文章の否定形を作るには、次の変換法則を覚えておけばいい。

XYは~である」→3つの要素に分ける→「Xは~である」「かつ」「Yは~である」→(それぞれの要素を否定する)→「Xは~ではない」「または」「Yは~ではない」。

XYのいずれかが~ではない」→3つの要素に分ける→「Xは~ではない」「または」「Yは~ではない」→(それぞれの要素を否定する)→「Xは~である」「かつ」「Yは~である」。

こんな論理図式に出番などなさそうだが、「論点Ⅰ論点Ⅱから結論が導かれる」という主張を覆すのに論点Ⅰと論点Ⅱの両方を検証否定する必要はなく、いずれか一つを否定できればいいことがわかる。

ジャンルと上位の概念

「音楽はお好きですか?」
「ええ、音楽なしの人生は考えられません」
「音楽鑑賞の会をしているのですが、どうです、覗きに来ませんか?」
「ええ、ぜひ!」

行ってみたらクラシックを聴いて語り合う会だった。ところが、ひいきの音楽はジャズ。どうにも居心地が悪く、最初で最後の参加になった。音楽は音楽でもジャンル違い。音楽という上位の概念は、アート一般において絵画や書道や工芸などと区別するためのものだ。その音楽の中にはジャンルがあり、ほとんどの場合、特定のジャンルやミュージシャンが好みなのであり、音楽なら何でもこいというのは稀だ。音楽論とクラシック音楽論は別のものなのである。

上位の概念で語れば、その下に置かれるおびただしいジャンルも包括したことになる。たとえば「食べることに目がない」と言えば、どんな食材でも料理でも受け入れることを意味する。そんな人はめったにいないから、「今度食事でもいかが?」と誘うのは配慮不足、また安易に「お願いします」と返すのは思慮不足。「鍋料理はどう?」も不十分。誘うなら「すっぽんでもいかが?」でなければいけない。

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書物にもいろいろなジャンルがある。メンバーがお気に入りの本を読んで書評をしたためて発表する書評会を不定期で主宰している。一般的に書評会や読書会はあまりジャンルにこだわらない。上位の本好きでくくっているからだ。但し、ぼくの書評会では「文学は除く」としている。知り合いには文学、とりわけ詩に絞って鑑賞会や創作研究会をしている人もいる。上位の概念をぽつんと出して済むこともあれば、ジャンルまで示すほうがいい場合がある。

芸術というのは上位の概念である。それだけでは音楽か絵画か文学か工芸か映画かはわからない。すべてひっくるめて芸術と言う場合は、経済ではない、工学ではない、農林水産ではないという排他的意味合いが強い。具体的なジャンルを枚挙する必要がない。すでにお気づきのように、芸術という概念は根であり、音楽や絵画や文学などはそこから派生する枝葉なのである。

上位の概念は時を経るにつれジャンルが細分化していく。つまり、枝葉が増えていく。情報化社会では生まれたてのジャンルもすぐに広まり、好みやひいきの多様性は日々加速していく。どんなマイナーなジャンルでもそこそこのグループが形成されるのである。だから、「音楽は好きですか?」「はい、好きです」というやりとりは今ではほとんど意味を成さない。「コンサートのチケットが余ったけれど、一枚差し上げますよ」と声を掛けられても、熱心な音楽ファンなら軽はずみに「ありがとう」とは言わない。ジャンルは当然のこととして、ミュージシャンの名まで聞く。

上位の概念は認識にとって重要だが、日常生活は具体的なジャンルで営まれている。特化され深掘りされた嗜好性に基づいて語らねば、上っ面のやりとりに終わってしまうのである。

職人とサラリーマン

職人とサラリーマンは根本が違う、いや、そんなことはない、雇われ職人もいれば職人的サラリーマンもいるではないか……など、いろんな所見があってよい。職人とサラリーマンを二項対立で捉えてもよし、併せて一つになるのも一方で他方を兼ねるのもよし。職人がサラリーマンよりも上等であるなどとは微塵も思わない。

三年ほど前だったか、マンション建設にともなう一連の不祥事があった。コンプライアンス(法令遵守)しなかったと言って片付く話ではない。技術や倫理上の現象として生じた問題のゆゆしさもさることながら、仕事人が何を生業とし、何をよい仕事と考え、いかに顧客の期待に応えるかという根本的な問いを怠ることに問題の根深さがあった。職人が品質よりもコストや効率を優先すると困ったことになるのだ。

1970年代の自動車や電気製品に見られた〈計画的陳腐化〉を思い出させる。計画的陳腐化とは故意に劣化しやすい部品を製品に組み込み、寿命を短くしようとするけしからぬ企図だった。作るほうも作るほうだが、製品サイクルが短くなって新しい製品を手に入れたいと願う消費者もその片棒をかついでいたのである。今日、事業は比べものにならないほど超大であり、かつ生命や社会的損失に直結している。経済効率のためについ不正を犯してしまった、申し訳ないでは済まされない。

CSRでキレイごとを並べ立てても企業倫理の襟は正せない。企業に勤めながらプロフェッショナルたる職人がいかに矜持を保ち続けるのか。効率を最優先するあまり、「よい仕事」は二の次。職人とサラリーマンが相容れないのではない。そもそも職人には経済効率やぼろ儲けが似合わないのである。

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「よい仕事(good work)とは出来のよい仕事である」とC.S.ルイスは言う。分業化社会の仕事には二種類あって、一つは「やる値打ちのある仕事」、もう一つは「金儲けだけを目的とする仕事」。当然、前者が「よい仕事」であり、よい仕事というかぎり出来が問われる。ルイスによれば、自給自足的社会には悪い仕事はなかった。自分が住む家の造りに手を抜くはずがなく、また自分が口にする農畜産物には安全を期した。しかも、よい仕事を自他の分け隔てなくおこなった。職人は人が誰であるかを問わない。仕事の出来のみを問う。

中身を偽るのは顧客を欺くばかりでなく、回り回って自己存在を揺るがすことになる。だから一流の職人は手を抜かないし、依頼人が十分に満足したとしても、そのレベルを超えてもなお手を止めない。

二年前に大阪歴史博物館で『近代大阪職人図鑑』を鑑賞した折り、細部の技巧にどれだけ凝れば気が済むのかと驚嘆した。大胆な全体構想にアート感覚を漲らせ、細部へのこだわりに執拗なまでの時間と手間を施す。アートと技が一つになる。「アルチザン」とはそういう資質に恵まれた職人を意味する。

よい仕事や値打ちのある仕事とは社会公共的あるいは芸術文化的になくてはならぬ仕事でもある。つまり、買い手がいなくても国や地方自治体が従事する者の職業と生活を担保するに値する仕事だ。医師や僧職者の仕事もそういう類なのだが、金儲けを目指すけしからん輩がいたりする。他方、一流のアルチザンでありながら恵まれない人々がいる。国家や都市は、自らの品格や気高さを願うのなら、アルチザン指数と言うべきものを高めてしかるべきである。

虚言を弄する

偽るなかれと心しても、人は多少なりとも偽って生きている。「相互信頼が社会の根本、真実まことを語らねばならない」と言うのは簡単だ。しかし、虚偽や虚言と無縁に生きるには修行が足りない。ひとまず自己反省を先に済ませておく。

虚言とは人の口から出る嘘。弄するものであり、吐くものであり、並べるものである。虚言はエネルギーを要する。のべつまくなしに嘘を、それこそ八百も並べられてはたまらない。嘘とは一線を画すようでありながら、「心にないこと」や「適当なでたらめ」も虚言の仲間である。

都合が悪くなるとあっちは黙る。黙られるとこっちが困るから、大人げなく、しないほうがいいとわかりながらも、つい詰問してしまう。詰問されたら今度はあっちが困るので、ないことをあるかのように作り上げ、あることをないかのように見せかける。あっちもこっちもどっこいどっこいだ。悪人でも詐欺師でもない善良なる人たちがなぜ虚言に逃げるのか。

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仏教学者で哲学者の中村元の『東洋のこころ』にはブッダのおびただしいことばが紹介されている。

会堂にいても、団体のうちにいても、何人も他人に向かって偽りを言ってはならぬ。
汝は甘言で取り入ったり、二枚舌を使ったり、うそをついたりしてはいけない。

単純な道徳論ではない。道遠く険しいのはわかっているが、生き様において虚言は排さねばならない。少なくともそういう生き方を心掛けねばならない。たまには生真面目にそう思う。

嘘つき呼ばわりするのは酷だが、言行不一致も結果として虚言と見なされる。有言不実行もそうだ。言を発する行為の「口業くごう」や「語業ごごう」を以て実行できたと錯覚するのが常。言うだけでおこなわなければ、それも虚言的行為である。

人はなぜ嘘をつくのか? これは核心の問いである。「それは何ものかを貪ろうとする執着しゅうじゃくがあるからです」と中村は言う。ニーズとウォンツなどと区別するが、必要と欲望は交錯する。仕事のため、生活のためと必要を強調しているうちに、貪欲の一線を越えてしまうのが人のさが

普通から普遍へ

結果としての表現の平凡と陳腐に対する失望感など大したことはない。もっと大きい失望は明けても暮れても平凡と陳腐の表現で場を繕う人たちからやって来る。

新しい表現の可能性があり、自分もまた新しい変化に船出できそうなのに、おざなりに平凡と陳腐で済ましてしまうのは不幸である。注意すべきは、このことと「普通」であることは違うという点。普通は当然の成り行きとしてそうなる場合があり、また意識的にそうなることもある。平凡や陳腐が他との差異化によってすぐれて見えることはまずないが、普通には際立ったものや新しいものに負けない優位性が生まれることがある。

複写機が“PPC”と表現されるようになった1970年代、それまで主流だったケミカル特殊紙に代わって普通紙が使えるようになった。その機械は“Plain Paper Copier(PPC)”、つまり「普通紙複写機」と呼ばれた。乾いた紙に印刷されるのは画期的であった。当時、複写機を重宝する職場にいたぼくには普通が輝いて見えたものである。

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百貨店、大衆食堂などはハードとしても名称としてもずいぶん色褪せた。一世を風靡した事物や概念のさだめであり、一過性の流行に棹差した商品とその名称も同じような運命を辿る。しかし、歴史的に使い込まれたにもかかわらず、ほとんど陳腐化せずに生き残ってきたことばがある。暮らしや街、避暑、旅、風景などがそうだ。これらのことばはイメージと意味を豊かに関連づけてくれる。

毎日飲むコーヒーもその一つ。珈琲という古めかしい表記にも新鮮味を覚えることがある。毎日手にして読む本も例外ではない。暮らしぶりや旅は日々、さらには年々更新される。コーヒーと本を不可分な関係として愛しむぼくにとって、本を読みながらコーヒーを飲むという日常茶飯事は日々圧倒的に新しく、一杯として一冊として同じ体験は決して繰り返されない。

ごくあたりまえの普通ふつうが、人間と社会に対して揺るがない普遍ふへんを形づくってくれるのである。

ちょっと先のこと

一ヵ月先であれ、一年先であれ、おおむね未来は見えづらい。一ヵ月も一年先も人生の長さからすれば、ちょっと先。ゆえに「一寸先は闇」と形容するのには一理ある。

いつぞや「一寸先は白紙」と自虐した川柳を見た。本家の闇に対してパロディの白。仕事が減り人付き合いも少なくなると、数ヵ月先の手帳のページが白紙状態。それどころか、来週も明日も、いや今日ですら白紙という話も聞く。

一寸は便利なことばだ。「ちょっと」とも読む。元は約3センチメートルという長さのことなのに、時間にも分量にも形にも使える。ちょっと先が白紙、つまり、まったく何もないのは、見方を変えれば、何でもありうるということでもある。白紙ゆえに何かが書かれ何かが刻まれる可能性がある。ふと何かを思い出したり、ふと何かに気づいていれば、その何かが別の何かにつながり、未来が埋まる。

若い頃に比べると、夏場が身体に堪えるようになった。おまけに、夏が長いのである。最近の夏は仕事熱心なサラリーマンのようだ。5月頃から早出して10月頃まで残業する。勤勉にも程がある。秋が11月にならないとやって来なくなった。幸いなことにその月は白紙でない未来になりそうだ。

ふと物思いに耽る。意識して耽ろうなどとは思わない。気づいたら耽っている。ふと、「ふと」という語の不思議に囚われる。わけもなく「ふと」なのである。こんなたわいもない物思いからでも、時の流れを感じる。時の流れの向こうに、おそらく、未来はある。

雨が止んで、ふと空を見上げる。雲が同じ方向に細長く伸びている。まるで尻尾がなびいているかのよう。鉛筆か絵筆を手にした気分になって、脳内キャンバスにささっと薄く線を走らせる。こんな安上がりなバーチャル体験をしてみようと思っているあいだは、たぶん、未来がある。