空間の話

空間ということばをわざわざ辞書で調べた記憶はない。ある程度イメージができているし、今さら辞書を引くことなどない。と思ってみたものの、気になるので広辞苑を引っ張り出した。「物体が存在しない、相当に広がりのある部分。あいている所」と書いてある。この「あいている」は、「空いている」であって「開いている」ではない。

この定義は、空間が閉じているか開いているかに言及していない。何もなくて空っぽであれば空間と呼べそうだ。空間とは、そらあいだではなく、いているである。引っ越しの荷物が搬出されて、何もなく空っぽになった部屋の状態。閉じているが、れっきとした空間だ。結構広かったんだなあと述懐する。窓を開けて見慣れた景色に別れを告げる。目の前にはビルに囲まれた更地が見える。天に開いているが、あれも空間。

空間を最初に哲学したのは老子だ。老子は何を哲学したか。「うつわが有用なのはその中が空っぽだからである」と言った。たしかに。そのうつわは空っぽだが、そこにお茶を注げばお茶碗になる。コーヒーカップではない。お茶を飲み干してから、コーヒーを入れたらコーヒーカップ。それも啜り終えたら、空っぽになる。その瞬間、そのうつわは有用度を増す。

☆     ☆     ☆

老子は次のようにも言う。「部屋が有用なのもその中が空っぽだからである」。昔の家には「何でも部屋」のような一室があった。普段は片隅に箪笥が置いてある程度で、ほぼ空っぽの和室。そこに卓袱台を持ち込めばにわか応接間になった。それ以外に、その一つの部屋が居間、食堂、書斎、寝室、裁縫室、娯楽部屋に変化した。片付けてしまえば、何にでも化けることができる有用な空っぽの部屋に戻る。

うつわにしても部屋にしても囲まれた有形である。しかし、中空ちゅうくうの構造を持つ。有形のものが使い勝手がよく有用であるためには、無形の構造という条件を満たさねばならない。

ところで、広辞苑の定義には「相当に広がりのある部分」という記述があった。だからと言って、広大な宇宙を想像してはいけない。空間というのは広いから認識しやすいというものでもないのだ。大きい家、大きい部屋だが、空間の広がりを感じない場合もある。一方、まったく狭さを感じさせない小さな家、小さな部屋がある。広がりのある小ささは簡素で洗練された空間の理想形なのだろう。

X and Y ; X or Y

3日前「あれもこれも」と「あれかこれか」について書いた。その折りに、論理学の“and”“or”のことがよぎった。論理的ということについては諸説あるが、基本は文章の明快さのためのルールや法則に適っていることだ。「~は~である」もそうだし、「~は~ではない」もそうである。他に「すべて・・・all)といくつか・・・・some)」や、そして「かつ・・and)とまたは・・・or)」も論理的文章を書く上で欠かせない。

X and YXかつY)は「セット」という感覚。ケーキセットを注文すればケーキとドリンクが出てくる。ケーキが付いていない、あるいはコーヒーが付いていないならandの条件を満たしていない。「印鑑と運転免許証持参のこと」とあれば、両方を持っていかなければならない。

X or YXまたはY)はセットではなく、いずれか一方を満たせばよい。「運転免許証またはパスポート」とあれば、両方持って行く必要はなく、いずれか一つで身分証明の要件を満たせる。当たり前のことだが、「ケーキセットにはコーヒーか紅茶が付きます」とは、コーヒーと紅茶の両方は飲めないという意味である。

☆     ☆     ☆

X and YX or Yに否定が絡んでくると、論理学の初心者には厄介である。「机の上に鉛筆と消しゴムがあった」の否定はどう言えばいいのか。よく間違われるのが「机の上には鉛筆も消しゴムもなかった」である。

あなたは危険な居酒屋に入った。この店では赤と白のグラスワインを差出して一言を添える。ところが、その一言はつねに虚言なのだ。いったん否定して真実を探らねばならない。

「赤ワインにも白ワインにも毒が入っていないよ」
こう言われたら、「赤ワインには毒が入っていない。かつ、白ワインにも毒が入っていない」と読み替える。そして、この文章を否定する。つまり、「赤ワインに毒が入っている。または、白ワインに毒が入っている」。否定する時、「かつ」を「または」に変えるのがポイント。一方が毒入り、他方が毒入りでないということになる。確率は五分五分だが、安全なのが赤か白かはわからない。

「赤ワインか白ワインのどちらかには毒が入っていないよ」
こうコメントされた。「赤ワインに毒が入っていない。または、白ワインに毒が入っていない」と読み替えて、否定する。「赤ワインに毒が入っている。かつ、白ワインに毒が入っている」となる。「または」を否定すると「かつ」に変わる。両方が毒入りであるから、たとえただでも飲んではいけない。

「赤ワインか白ワインのどちらかに毒が入っているよ」
こうつぶやかれたら、「赤ワインに毒が入っている。または、白ワインに毒が入っている」と読み替える。これを否定すると、「赤ワインに毒が入っていない。かつ、白ワインに毒が入っていない」となり、どちらを選んでも安全ということになる。

☆     ☆     ☆

「かつ」と「または」を含む文章の否定形を作るには、次の変換法則を覚えておけばいい。

XYは~である」→3つの要素に分ける→「Xは~である」「かつ」「Yは~である」→(それぞれの要素を否定する)→「Xは~ではない」「または」「Yは~ではない」。

XYのいずれかが~ではない」→3つの要素に分ける→「Xは~ではない」「または」「Yは~ではない」→(それぞれの要素を否定する)→「Xは~である」「かつ」「Yは~である」。

こんな論理図式に出番などなさそうだが、「論点Ⅰ論点Ⅱから結論が導かれる」という主張を覆すのに論点Ⅰと論点Ⅱの両方を検証否定する必要はなく、いずれか一つを否定できればいいことがわかる。

ジャンルと上位の概念

「音楽はお好きですか?」
「ええ、音楽なしの人生は考えられません」
「音楽鑑賞の会をしているのですが、どうです、覗きに来ませんか?」
「ええ、ぜひ!」

行ってみたらクラシックを聴いて語り合う会だった。ところが、ひいきの音楽はジャズ。どうにも居心地が悪く、最初で最後の参加になった。音楽は音楽でもジャンル違い。音楽という上位の概念は、アート一般において絵画や書道や工芸などと区別するためのものだ。その音楽の中にはジャンルがあり、ほとんどの場合、特定のジャンルやミュージシャンが好みなのであり、音楽なら何でもこいというのは稀だ。音楽論とクラシック音楽論は別のものなのである。

上位の概念で語れば、その下に置かれるおびただしいジャンルも包括したことになる。たとえば「食べることに目がない」と言えば、どんな食材でも料理でも受け入れることを意味する。そんな人はめったにいないから、「今度食事でもいかが?」と誘うのは配慮不足、また安易に「お願いします」と返すのは思慮不足。「鍋料理はどう?」も不十分。誘うなら「すっぽんでもいかが?」でなければいけない。

☆     ☆     ☆

書物にもいろいろなジャンルがある。メンバーがお気に入りの本を読んで書評をしたためて発表する書評会を不定期で主宰している。一般的に書評会や読書会はあまりジャンルにこだわらない。上位の本好きでくくっているからだ。但し、ぼくの書評会では「文学は除く」としている。知り合いには文学、とりわけ詩に絞って鑑賞会や創作研究会をしている人もいる。上位の概念をぽつんと出して済むこともあれば、ジャンルまで示すほうがいい場合がある。

芸術というのは上位の概念である。それだけでは音楽か絵画か文学か工芸か映画かはわからない。すべてひっくるめて芸術と言う場合は、経済ではない、工学ではない、農林水産ではないという排他的意味合いが強い。具体的なジャンルを枚挙する必要がない。すでにお気づきのように、芸術という概念は根であり、音楽や絵画や文学などはそこから派生する枝葉なのである。

上位の概念は時を経るにつれジャンルが細分化していく。つまり、枝葉が増えていく。情報化社会では生まれたてのジャンルもすぐに広まり、好みやひいきの多様性は日々加速していく。どんなマイナーなジャンルでもそこそこのグループが形成されるのである。だから、「音楽は好きですか?」「はい、好きです」というやりとりは今ではほとんど意味を成さない。「コンサートのチケットが余ったけれど、一枚差し上げますよ」と声を掛けられても、熱心な音楽ファンなら軽はずみに「ありがとう」とは言わない。ジャンルは当然のこととして、ミュージシャンの名まで聞く。

上位の概念は認識にとって重要だが、日常生活は具体的なジャンルで営まれている。特化され深掘りされた嗜好性に基づいて語らねば、上っ面のやりとりに終わってしまうのである。

職人とサラリーマン

職人とサラリーマンは根本が違う、いや、そんなことはない、雇われ職人もいれば職人的サラリーマンもいるではないか……など、いろんな所見があってよい。職人とサラリーマンを二項対立で捉えてもよし、併せて一つになるのも一方で他方を兼ねるのもよし。職人がサラリーマンよりも上等であるなどとは微塵も思わない。

三年ほど前だったか、マンション建設にともなう一連の不祥事があった。コンプライアンス(法令遵守)しなかったと言って片付く話ではない。技術や倫理上の現象として生じた問題のゆゆしさもさることながら、仕事人が何を生業とし、何をよい仕事と考え、いかに顧客の期待に応えるかという根本的な問いを怠ることに問題の根深さがあった。職人が品質よりもコストや効率を優先すると困ったことになるのだ。

1970年代の自動車や電気製品に見られた〈計画的陳腐化〉を思い出させる。計画的陳腐化とは故意に劣化しやすい部品を製品に組み込み、寿命を短くしようとするけしからぬ企図だった。作るほうも作るほうだが、製品サイクルが短くなって新しい製品を手に入れたいと願う消費者もその片棒をかついでいたのである。今日、事業は比べものにならないほど超大であり、かつ生命や社会的損失に直結している。経済効率のためについ不正を犯してしまった、申し訳ないでは済まされない。

CSRでキレイごとを並べ立てても企業倫理の襟は正せない。企業に勤めながらプロフェッショナルたる職人がいかに矜持を保ち続けるのか。効率を最優先するあまり、「よい仕事」は二の次。職人とサラリーマンが相容れないのではない。そもそも職人には経済効率やぼろ儲けが似合わないのである。

☆     ☆     ☆

「よい仕事(good work)とは出来のよい仕事である」とC.S.ルイスは言う。分業化社会の仕事には二種類あって、一つは「やる値打ちのある仕事」、もう一つは「金儲けだけを目的とする仕事」。当然、前者が「よい仕事」であり、よい仕事というかぎり出来が問われる。ルイスによれば、自給自足的社会には悪い仕事はなかった。自分が住む家の造りに手を抜くはずがなく、また自分が口にする農畜産物には安全を期した。しかも、よい仕事を自他の分け隔てなくおこなった。職人は人が誰であるかを問わない。仕事の出来のみを問う。

中身を偽るのは顧客を欺くばかりでなく、回り回って自己存在を揺るがすことになる。だから一流の職人は手を抜かないし、依頼人が十分に満足したとしても、そのレベルを超えてもなお手を止めない。

二年前に大阪歴史博物館で『近代大阪職人図鑑』を鑑賞した折り、細部の技巧にどれだけ凝れば気が済むのかと驚嘆した。大胆な全体構想にアート感覚を漲らせ、細部へのこだわりに執拗なまでの時間と手間を施す。アートと技が一つになる。「アルチザン」とはそういう資質に恵まれた職人を意味する。

よい仕事や値打ちのある仕事とは社会公共的あるいは芸術文化的になくてはならぬ仕事でもある。つまり、買い手がいなくても国や地方自治体が従事する者の職業と生活を担保するに値する仕事だ。医師や僧職者の仕事もそういう類なのだが、金儲けを目指すけしからん輩がいたりする。他方、一流のアルチザンでありながら恵まれない人々がいる。国家や都市は、自らの品格や気高さを願うのなら、アルチザン指数と言うべきものを高めてしかるべきである。

虚言を弄する

偽るなかれと心しても、人は多少なりとも偽って生きている。「相互信頼が社会の根本、真実まことを語らねばならない」と言うのは簡単だ。しかし、虚偽や虚言と無縁に生きるには修行が足りない。ひとまず自己反省を先に済ませておく。

虚言とは人の口から出る嘘。弄するものであり、吐くものであり、並べるものである。虚言はエネルギーを要する。のべつまくなしに嘘を、それこそ八百も並べられてはたまらない。嘘とは一線を画すようでありながら、「心にないこと」や「適当なでたらめ」も虚言の仲間である。

都合が悪くなるとあっちは黙る。黙られるとこっちが困るから、大人げなく、しないほうがいいとわかりながらも、つい詰問してしまう。詰問されたら今度はあっちが困るので、ないことをあるかのように作り上げ、あることをないかのように見せかける。あっちもこっちもどっこいどっこいだ。悪人でも詐欺師でもない善良なる人たちがなぜ虚言に逃げるのか。

☆     ☆     ☆

仏教学者で哲学者の中村元の『東洋のこころ』にはブッダのおびただしいことばが紹介されている。

会堂にいても、団体のうちにいても、何人も他人に向かって偽りを言ってはならぬ。
汝は甘言で取り入ったり、二枚舌を使ったり、うそをついたりしてはいけない。

単純な道徳論ではない。道遠く険しいのはわかっているが、生き様において虚言は排さねばならない。少なくともそういう生き方を心掛けねばならない。たまには生真面目にそう思う。

嘘つき呼ばわりするのは酷だが、言行不一致も結果として虚言と見なされる。有言不実行もそうだ。言を発する行為の「口業くごう」や「語業ごごう」を以て実行できたと錯覚するのが常。言うだけでおこなわなければ、それも虚言的行為である。

人はなぜ嘘をつくのか? これは核心の問いである。「それは何ものかを貪ろうとする執着しゅうじゃくがあるからです」と中村は言う。ニーズとウォンツなどと区別するが、必要と欲望は交錯する。仕事のため、生活のためと必要を強調しているうちに、貪欲の一線を越えてしまうのが人のさが

普通から普遍へ

結果としての表現の平凡と陳腐に対する失望感など大したことはない。もっと大きい失望は明けても暮れても平凡と陳腐の表現で場を繕う人たちからやって来る。

新しい表現の可能性があり、自分もまた新しい変化に船出できそうなのに、おざなりに平凡と陳腐で済ましてしまうのは不幸である。注意すべきは、このことと「普通」であることは違うという点。普通は当然の成り行きとしてそうなる場合があり、また意識的にそうなることもある。平凡や陳腐が他との差異化によってすぐれて見えることはまずないが、普通には際立ったものや新しいものに負けない優位性が生まれることがある。

複写機が“PPC”と表現されるようになった1970年代、それまで主流だったケミカル特殊紙に代わって普通紙が使えるようになった。その機械は“Plain Paper Copier(PPC)”、つまり「普通紙複写機」と呼ばれた。乾いた紙に印刷されるのは画期的であった。当時、複写機を重宝する職場にいたぼくには普通が輝いて見えたものである。

☆     ☆     ☆

百貨店、大衆食堂などはハードとしても名称としてもずいぶん色褪せた。一世を風靡した事物や概念のさだめであり、一過性の流行に棹差した商品とその名称も同じような運命を辿る。しかし、歴史的に使い込まれたにもかかわらず、ほとんど陳腐化せずに生き残ってきたことばがある。暮らしや街、避暑、旅、風景などがそうだ。これらのことばはイメージと意味を豊かに関連づけてくれる。

毎日飲むコーヒーもその一つ。珈琲という古めかしい表記にも新鮮味を覚えることがある。毎日手にして読む本も例外ではない。暮らしぶりや旅は日々、さらには年々更新される。コーヒーと本を不可分な関係として愛しむぼくにとって、本を読みながらコーヒーを飲むという日常茶飯事は日々圧倒的に新しく、一杯として一冊として同じ体験は決して繰り返されない。

ごくあたりまえの普通ふつうが、人間と社会に対して揺るがない普遍ふへんを形づくってくれるのである。

ちょっと先のこと

一ヵ月先であれ、一年先であれ、おおむね未来は見えづらい。一ヵ月も一年先も人生の長さからすれば、ちょっと先。ゆえに「一寸先は闇」と形容するのには一理ある。

いつぞや「一寸先は白紙」と自虐した川柳を見た。本家の闇に対してパロディの白。仕事が減り人付き合いも少なくなると、数ヵ月先の手帳のページが白紙状態。それどころか、来週も明日も、いや今日ですら白紙という話も聞く。

一寸は便利なことばだ。「ちょっと」とも読む。元は約3センチメートルという長さのことなのに、時間にも分量にも形にも使える。ちょっと先が白紙、つまり、まったく何もないのは、見方を変えれば、何でもありうるということでもある。白紙ゆえに何かが書かれ何かが刻まれる可能性がある。ふと何かを思い出したり、ふと何かに気づいていれば、その何かが別の何かにつながり、未来が埋まる。

若い頃に比べると、夏場が身体に堪えるようになった。おまけに、夏が長いのである。最近の夏は仕事熱心なサラリーマンのようだ。5月頃から早出して10月頃まで残業する。勤勉にも程がある。秋が11月にならないとやって来なくなった。幸いなことにその月は白紙でない未来になりそうだ。

ふと物思いに耽る。意識して耽ろうなどとは思わない。気づいたら耽っている。ふと、「ふと」という語の不思議に囚われる。わけもなく「ふと」なのである。こんなたわいもない物思いからでも、時の流れを感じる。時の流れの向こうに、おそらく、未来はある。

雨が止んで、ふと空を見上げる。雲が同じ方向に細長く伸びている。まるで尻尾がなびいているかのよう。鉛筆か絵筆を手にした気分になって、脳内キャンバスにささっと薄く線を走らせる。こんな安上がりなバーチャル体験をしてみようと思っているあいだは、たぶん、未来がある。

時間と時計

時計を見る。「今が午後7時」であることを知る。別に何時でもいい。なにげなく見る。癖のように見る。毎日何度も時計を見る。いったい何を確認しているのだろうか。数字を見て時の流れに印を付けているのか。はたして時計は時間の象徴なのだろうか。

今週、時間をテーマにした書物を十数冊オフィスに運びこんだ。並べているうちに、再び「時間とは何か?」という難問に襲われた。脳に何がしかの異変が起こるのを感じる。脳のキャパシティ以上の難しい命題を抱えこまないほうがいいと思うが、若かりし頃はその方面の思考に入れ込むことが少なくなかった。そして、宇宙や人生以上に悩まされたのがこの時間という概念である。しかも、宇宙や人生と違って、時間を意識することなしに日々は過ごせない。

時間は曲者である。歴史上の錚々たる哲学者――カントもフッサールもハイデガーも――時間の不思議を哲学した。さらに遡れば、古代ギリシアのヘラクレイトスが「時間が存在するのではなく、人間が時間的に存在する」と言った。少し似ているが、「人間が存在するから時間が存在する」とアリストテレスも考えた。そして、時間特有の自己矛盾のことを「時間のアポリア」と名づけた。アポリアとは行き詰まりのことで、難題を前に困惑して頭を抱える様子を表わしている。それもそのはず、時間という概念は矛盾を前提にしているかもしれないからだ。

《今》はあるのだが、《今》は止まらない。感知し口にした瞬間《今》はすでにここにはない。では、いったい《今》はどこに行ってしまったのか。それは過去になったと言わざるをえない。では、過去とは何なのか、そして未来とは何なのか……という具合に、次から次へと懐疑して苦しむことになる。ぼくたちは途方に暮れるまで考えることなどさらさらない。疲れた時点で思考を停止すればよい。だが、世に名を残した哲学者たちはこの「臨界点」を突き進んだ。思考のプロフェッショナルならではの一種の「意地」ではなかったかと思う。

☆     ☆     ☆

未来に刻まれる時間を感覚的にわかることはできない。未来を見据える時と過去を振り返る時を比べたら、後者のほうが時間を時系列的に鮮明に感知できる。その時、「時間は《今》という一瞬の連続系」だと思われる。《今》という一瞬一瞬が積まれてきたのが現在に至るまでの過去。過去を振り返れば、その時々の《今》を生きてきた自分を俯瞰できるというわけだ。

もちろん、感知できている過去は脳の記憶の中にしかない。記憶の中で再生できるものだけが過去になりえている。記憶の中にある過去に、次から次へと旬の《今》が送られていく。時間の尖端にあるのは現在進行形という《今》。それは一度かぎりの《今》、生まれると同時に過去に蓄積される《今》である。ぼくたちは、過去から現在に至るまでの時間を時系列的に感知しながら生きている。記憶の中にある過去は体験されたものばかりではない。知識もそこに刻まれている。

《人生における今》は一度しかなく、誕生と同時に過去になる――これはまるで《歴史における人生》のアナロジーではないのか。こう考えてみると、月並みだが、「時間の価値」に目覚めることになる。いや、煎じ詰めれば《今》の意味である。つまらない《今》ばかりを迎えていると、記憶の中の過去がつまらない体験や情報でいっぱいになる、ということだ。

時間は時計を通じて体感するものとはかぎらない。時計と時間は切っても切れない関係にあるようだが、もしかすると、似て非なるものどうしなのかもしれない。時間は時計の針のアナログ性あるいは数字のデジタル性では説明できない何かのような気がする。

わかる程度がわからない

《書簡形式のモノローグⅠ》

先日ぼくが取り上げたテーマは決してやさしくなかったと思います。ぼく自身、この数ヵ月、具体的な話の構成と内容についてあれこれと考えて準備してきたけれど、未熟さもあって十分にこなれた講義ができたとは思っていません。

案の定、わかってもらえるだろうかとぼくが気になっていた箇所について、きみはぼくに問いを投げかけました。ぼくのさらなる説明を聞いて、しばらく考え、やがてきみは「ふ~む、やっぱりわからない」とため息をつきました。きみが「わからない」と吐露したことに、正直ぼくはほっとしたのです。

ぼくにはきみの「わからない」がよくわかった。なぜなら、ぼくもあの箇所についてずっとわからない状態の日々を過ごしてきたから。そしてその後、ようやく他者に話せる程度にわかったという確信を得たからです。つまり、ぼく自身がずっと「わからない」状態で苦悶していたからこそ、きみの「わからない」がまるで自分のことのようによくわかるのです。

実に不思議な感覚です。ぼくが「やさしい」と感じていることを誰かが「むずかしい」と感じていることがわかる。誰かの「わからない」がわかる。おそらく「わかる」には「わからないということ」が下地になっているのに違いありません。恵まれて他者に何事かを説こうとする者は、少なくとも理解の難所をよく弁わきまえておくべきだと思うのです。学生時代、「お前たち、こんなやさしいことがわからんのか!? バカものが!」という教師にやり込められたことがあります。ぼくにとって反面的な教訓になっています。自分にとってやさしく理解できることが、他者にとってはそうでないこと、そのことをわかるデリカシーを失うまいと心に誓いました。

きみの「わからない」が「わかる」に変わるべく、ぼくはあの手この手を工夫してさらなる研鑽をしてみようと思います。

☆     ☆     ☆

《書簡形式のモノローグⅡ》

ぼくがきみに伝えようとした事柄は少々むずかしかったかもしれません。なにしろ自分でもよく咀嚼できていたとは言えず、それゆえにぼく自身がよくわかったうえで伝えたと断言する自信がありません。にもかかわらず、物憂げになるどころか、きみは表情一つ変えずに「よくわかりました!」と言ってのけました。

仮にぼくもわかっていたとしましょう。そして、きみもわかった。要するに、ぼくたちはあの事柄について一定の理解に達したというわけです。ところで、「わかる」ということは「わからない」ということよりも多義的ですね。「わからない」はどこまで行っても「わからない」だけど、「わかる」には程度があると思うのです。いったいぼくはきみの「わかる程度」の寸法をどのように測ればいいのでしょうか。

ぼくときみは同じようにわかっているのでしょうか。そこに理解程度の一致はあるのでしょうか。ぼくはきみの「わからない」はわかるのですが、きみの「わかる」がわからないのです。きみの「わかる」はぼくの「わかる」と同程度であり同質であるとはたして言い切れるのでしょうか。誤解しないでください。きみに詰問しているわけではありません。ぼく自身への本質的な問いなのです。人に物事を説こうとする立場にあって、ぼくは「他者がわかる」ということを突き詰めずにパスすることはできません。

他者の「わからない」ことをわかる自分が、他者の「わかる」ことをわかってはいないのです。いったい「わかる」とは何なのか、それは懐疑の余地すらない「わかる」なのか。どうやら、このテーマは、ぼくが話し続けるかぎり、ついて回ってくる難題になりそうです。いや、滅入っているのではありません。むしろ、ぼくにとって追い求めがいのあるテーマに気づいたことを喜びとしている次第です。

事に仕える

毎年そうだが、特に今年はゴールデンウィークとはまったく無関係な日々を過ごしている。半日すら休みがない。休みがないからと言って、ずっと仕事をしているわけではない。多忙なわけでもない。オフィスのリニューアル工事に立ち会って進捗状況を注視しているだけだ。仕事とは違って、慣れない状況に置かれている。ふと、仕事って何だろうと考えたりする。

古代建築では柱頭の上にエンタブラチュアという構造物が水平に置かれている。いかにも重そうなそれを支えるのがカリアティードなる女性の立像である。乙女たちは柱の役割を果たし、頭で構造を支えるのだ。女神を祀る神殿建築を支えるのであるから、のっぴきならない使命を負っている。

☆     ☆     ☆

日本にもこれによく似たのがある。先日もとある寺の境内で見た。石で造られた、おそらく防火用の大きな水槽の四隅を台座彫刻が支えている。 彫刻の正体は四人(四匹?)の邪鬼のようである。それぞれの台座での姿勢は異なっていて、両手と頭、片手と頭、肩と頭、頭のみで支える四体だ。女神同様に、頭のみで支える姿勢はいかにもきつそうである。

さて、日本語で仕事と言えばたいていどんな内容でも表わせるが、英語では肉体と精神を絡ませて以下のように四分類することが多い。

“Labor”は労働と訳されるが、目的は賃金を得ることだ。かなりきつい肉体的な仕事で、精神的な喜びは小さいとされる。

“Toil”には強制される意味合いがあり、苦役に近い。賃金のためでも喜びのためでもない。ただ働かされるという感じである。

“Work”がもっとも標準的な意味だ。プレッシャーもストレスもあるけれど、肉体的であれ精神的であれ、何らかの喜びややりがいが前提にある。

“Play”という仕事もある。演戯に近い。芸術やスポーツなど、好きだからその道を選んだという背景がある。きつくても喜びも大きい。

ともあれ、楽な仕事はなさそうである。ハードワークの人生と退屈な仕事人生なら、前者を選ぶ。実際そうしてきた。理想は「できること」「したいこと」「すべきこと」が無理なく一致する仕事である。だいたいそのような仕事に恵まれてきたが、十分ではない。この歳になってもう一丁という気持ちを駆り立ててオフィスのリフォームに踏み切った次第である。