ことばについての雑考

雑念ではなく「雑考」のつもり。特に系統立ててはいないが、個々の考察をいい加減にしたわけではない。たまたま「ことば」をテーマにして話す機会があったので、経験したことや経験に基づいて考えたことを断片的に記述した次第。


 ことばが概念を生む。概念はことばをイメージ化したもの、またはイメージ的なことば。この過程を経て具体的な造形が生まれる。造形のみならず、創作と呼ばれるものは何もかもがことばと概念の賜物である。ことばと概念が未成熟のままでは「カタチ」として顕在化することはない。

 「言論の自由」について考えようとする時に、「自由とは何か」の解釈に力を入れて考え抜いても〈自由〉がわかりやすくなることはない。言論の自由で重要なのは〈言論〉のほうだと思う。「言論とは何か?」を棚上げしたままで、やれ自由だ、やれ不自由だなどと論じてもどうにもならないのである。

 「意見を言うのが苦手です」と言い訳する時間があったら、余計なことを考えずにさっさと喋るか何も言わずに黙っていればいい。ある場面で喋るか黙るかを見極めるのは難しい。黙るべき場面なのに一言余計なことを言いかねず、また、喋るべき場面でチャンスを見送って後日悔やむ。喋るべき時に喋り、黙るべき時に黙るという、この自然のおこないがなかなか上手にできないのである。

 「文章を見直して書き直してほしい」という依頼がある。英文から翻訳したけれど、あまりこなれていない、何とかならないか? という相談もある(この場合、英文も見せてもらう)。こういう仕事をいったい何と呼べばいいのか。代書屋ではない。文章を書き替えるが、文字づらだけの直しでは済まず、言わんとする意味を汲んで文案を練ることになる。本業とは別に〈文章工房すいこう〉という屋号を考えた。「推敲」とは苦心して文章表現を工夫すること。原文あっての推敲文だが、原文よりも苦労が多い。

 景色に前景と後景があるように、ことばの概念や配置にも前景と後景がある。「象は鼻が長い」は「は」と「が」の違いによって、大きな概念の象を後景として小さな概念の鼻をクローズアップして前景にしている。俳句にもある。五七五にこだわらない奔放な種田山頭火の句、「藪から鍋へたけのこいっぽん」は藪を後景として、鍋と筍に焦点を当てる。「秋の空をいただいて柿が実る」と「柿が実る、秋の空をいただいて」は同じことを言っているようでも、前景と後景の扱いが違う。文章にも構図がある。

語句の断章(44)「つままれる」

半世紀以上前の話。大阪郊外の国鉄ローカル駅近くに住んでいた伯母おばは踏切を渡るたびに電車の音が聞こえたと言う。それが当たり前ではないかと思って聞き返したら、「それがね、電車が走らない時でも聞こえるのよ」。人を化かすために狸が電車の音を真似ていると伯母は信じていた。

狸の場合は「化かされる」がしっくりくる。「狐に化かされる」もよく見聞きする。実際ぼくも、若かりし頃は狸と狐のどちらにも「かされる」と言うのだと思っていた。ある時、狐には「つままれる」が慣用だと知った。つままれる? 首をひねっても即座に分からず、化かされたような気分になった。

調べてみた。動詞「まむ」は、つまま(ない)、つも(う)、つまみ(ます)、つまむ、つまむ(とき)、つまめ(ば)と活用し、云々……未然形の「つまむ」に受身の助動詞「れる」がくっついて「ままれる」になる、云々……という文法の知識を仕入れた。辞書も調べた。それでもまだ、「狐につままれる」の意味とニュアンスがすっと入ってこなかった。

狸は人を化かしたり騙したりする。狐もそうなのだが、狐の場合は化かされることを「つままれる」と言う。そして、「予期せぬことが起きて、わけが分からなくなってぼんやりとする」という意味をいっそう強く感じさせる。狐は狸よりもしたたかなようなのだ。

狸に化かされるのも狐につままれるのも比喩表現である。ぼくの伯母は実際に狸に化かされたと信じたが、普通は現実にあるはずもないことだと知っていて、「狸に化かされたような」とか「狐につままれたような」とたとえて、ぼんやりとした気分を現わそうとするのである。

なぜ狐には「つままれる」というちょっと手の込んだ言い回しをするのか。調べたが分からなかった。もしかして「狐き」と関係している? 狐には霊があって、それが人にとり憑いて常軌を逸するような言行をさせるという、あの狐憑き。お祓いする祈祷師のばあさんが幼少の頃に同じ町内に住んでいた。さっきあのばあさんを思い浮かべたら、狐には「つままれる」以外の表現はふさわしくないと確信した次第である。

語句の断章(43)情報

すでに十分にわかっているつもり。だから調べようとしない。〈情報〉とはそういう類の術語。調べなくても怠慢とは思わないが、ひとまず『新明解国語辞典』を引いてみた。

じょうほう【情報】 ある事柄に関して知識を得たり判断のよりどころとしたりするために不可欠な、何らかの手段で伝達(入手)された種々の事項(の内容)。〔個別の事項が生のまま未整理の段階にとどまっているというニュアンスで用いられることもあり、知識に比べて不確実性を包含した用語〕

並大抵ではない苦心の跡が窺えるので、短時間で一気に書いたのではないだろう。三日三晩、いやそれ以上、ああでもないこうでもないと費やしたかもしれない。語釈だけで済ませておけばよかったのに、解説という深みに入って逆に荷が重くなったのではないか。

情報は〈知識〉と並べて定義するのがわかりやすい。今も「知識産業」という表現が時々使われているが、陳腐感は否めない。1960年代にすでに知識に代わって情報が優勢になっていたはず。知識は、“know”(知る)から派生したknowledgeナレッジの訳語。あること・・・・を知ってそれを保存するのが知識。知識は「溜める/ストック」を前提とする。「知識を身につける」とはそういうことだった。

一方、情報はinformationインフォメーションで、これは“inform”(伝える)から派生している。主として「inform+(人)+of/about/on+(こと)」という文型で使われる動詞で、誰かが別の誰かにあること・・・・を伝えるという行動を意味する。知識の「溜める/ストック」に対して、情報は人どうしの間での「伝える/フロー」が特徴。

知識も情報もほとんど同じこと・・なのだが、知識が「保存性」を特徴とし、情報が「流動性」を特徴とするのである。溜めて価値を生むのが知識、流してこそ価値を生むのが情報と言い換えてもいい。

「知らせ、通知、便り」という意味のドイツ語、Nachrichtナーハリヒトに森鴎外が〈情報〉ということばを当てた。情報は鴎外の造語である。「なさけしらせる」とはやや古風に響くが、誰かが別の誰かに伝えるという点はしっかりと押さえられている。

自分が知りえたことを他人と分かち合い、社会で他人とつながろうとするのが情報の善用である。しかし、情報は悪用も可能で、自分が知りえたことは秘匿し、他人が知っていることを盗み取れば競争優位に立つこともできる。ともあれ、情報化社会は今に始まったのではなく、有史以来ずっと人間は情報行動に生きてきたと言うべきだろう。

察してもらうか、語り尽くすか

同じテーマで『ハイコンテクストな標識』と題して5年前に書いたことがあり、矢印(⇨)のサインと〈自転車を除く〉という文字の交通標識だけで意味が伝わるのかを検証した。伝わると思うからそれで済ましているのであり、これでは伝わらないと思えばことばで説明するはず。長ったらしい説明をハイコンテクストなビジュアルで置き換えるのが標識やピクトグラムやアイコンの役割である。

さて、「察してもらう」と「語り尽くす」は二項対立の関係にある。暗黙の了解に期待するか、とことん説明するか……英語では前者を「ハイコンテクスト」、後者を「ローコンテクスト」という。コンテクストとは文脈のこと。

同じ文化的背景を持ち、必ずしも言語に頼らなくてもある程度通じ合えるのがハイコンテクスト。お互いに文脈や行間を読んで理解することを期待し合う。他方、前提的な知識や非言語的要素に依存せずに、あくまでも言語で理解し合おうとするのがローコンテクスト。

ハイコンテクスト文化では「みなまで言う」のは野暮である。よく知る者どうしが「あれ」や「それ」で雑談し、わかっているのかわかっていないのかなどはあまり気にとめない。ローコンテクスト文化ではそんなコミュニケーションをもどかしく思うので、意味を明快にしながらとことん語り説明する。

以前は、日本がハイコンテクスト文化の国で欧米がローコンテクスト文化の国々として対比されたが、必ずしもそうとはかぎらない。二つ以上の文化が交わるTPOではハイコンテクスト交流には限界があるため、たとえば英語を共通言語として語り合うのである。しかし、どこの国であっても、特定のコミュニティの人どうしならある程度察し合うものだ。

ユダヤ人は言語と論理で語る典型的な民族とされているが、ユダヤ人どうしのコミュニティでは、日本人どうしと同じく、「省言語」の場面もよく出てくる。宗教と生活習慣と文化・しきたりを共有していればツーカーが当たり前になる。「察する」をテーマにしたユダヤジョークを一つ披露しよう。

わが子の出産に大喜びの夫が妻の両親に電報を打った。単語4つの短いメッセージ。電報を受け取った義父が、後日夫を詰問した。

「なんだ、あの電報は。あれだけの文字数はいらんだろう。わざわざレベッカ? レベッカ以外の他に誰がいるんだ? 他人様の女房が子どもを産んで、お前さんが義父のオレに電報を打つはずがない。しかもメデタクとは何だ⁉ めでたいのに決まってるじゃないか! シュッサン? 出産以外の生み方があるとでも言うのか? コウノトリが連れてきたのか? きわめつけはダンジだ。女の子だったらそんなに大喜びするはずがないぞ」

しょんぼりした娘婿に義父は最後にこう言った。

「お前が白紙の電報を打ちさえすれば、レベッカに男の子が生まれたくらいオレにはわかるんだ!」

ハイコンテクストな単語4つの電報を凌ぐ究極のメッセージは、白紙の電報なのだった。ハイコンテクスト文化にどっぷりと浸かっていると、かぎりなく沈黙に近づいていくことがわかる。

語句の断章(42)ノート

「ノート」は多義語だが、ぼくたちはほぼ「メモする、書きとめる」という意味で使っている。わが国では「キャンパスノート」や懐かしい響きのする「帳面」もノートと呼ぶ。英語で″noteノゥトはメモのこと。キャンパスノートや帳面なら″notebookノゥトブックと言わねばならない。

いま英語のノートはメモのことと書いたが、ノートは文脈によって意味を変える。動詞のnoteには「気づく、注目する」「言及する」「書きとめる」などの意味がある。名詞の場合は「筆記、メモ、覚書、注釈、短い手紙」「紙幣、手形」「語調、調子」「音、音符」「重要性、著名、注目」などとさらに多義を極める。

システム手帳体裁のノートブック(本ブログと同じく”Okano Note”と名付けている)

いろんな体裁のメモ専用の手帳やノートブックを使ってきた。ここ十数年は、買ってあまり使っていなかったシステム手帳を復活させてアイデアや文章を記している。メモをまとまって書いたり編んだりしたものが「手記」や「手稿」。『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』は元のイタリア語では″Scritti di Leonard  da Vinci。英語になると″The Notebooks of Leonardo da VInciで、やっぱりノートブックになる。

メモを取るにしても残すにしても紙片に記すことが多い。紙片はまとめにくいし、まとめたとしても散逸しかねない。一冊のノートブックを使うほうがメモを生かすことができる。

一般的にメモを記す場合は「ノートを取る」という。これは誰かが言ったことを記録しているイメージだ。自ら気づいたことや考えたことを習慣的に記す場合は「ノートをつける」や「ノートに書く」。ノートに書くと言えば「愛用のノートブック」という感じがする。

ノート術についてよく聞かれることがあるが、好きなように書けばいいと思う。大切なことは、なぜ書きとめるかという点。忘れないためではない。後日読み返すことを前提にして書いているのだ。ノートは何度も読み返しては新たな気づきを付け加えて更新することに意味がある。もう一点は、知を一元化して統合しやすくしておくため。つまり、一冊のノートブックに書くことが重要なのである。

交渉のヒントとピント

問題解決や物事の理解の手がかりがヒント。問題や物事の中心に焦点を絞るのがピント。先人たちが残した交渉の鉄則からヒントは得られるが、自分の当面の問題にピントが合うとは限らない。一般的な格言や諺と同じく、上手に意味を汲むべきで、決して軽はずみに信じてはいけない。

「ディベートや交渉の指導はもうしないのかい?」と知人。「大がかりな場ではするつもりはない。個別に手ほどきするのはやぶさかではないけれど」と返答した。議論の勝ち方や交渉の進め方について30年以上講演や研修をしてきたが、学びたい人のための便宜的な手立てに過ぎない。ディベートや交渉で勝負しようとしている二人を相手に同時に手ほどきはできない。

相対する二者のレベルが上がってくるにつれ、基本原則や定跡としての交渉術は徐々に通用しなくなってくる。読み合いと裏のかき合いをすればするほど、上級者の間では戦術が通用しなくなるのだ。交渉術は中級者向けであり、相対する両者に駆け引きの技量の差がある時に有効だと言える。という前提のもとに、いくつかの「術」を紹介しよう。

「ことば。それは人間が使うもっとも霊験あらたかな薬だ」(ラドヤード・キプリング)

👉 交渉は「ことばのチェス」である。軽はずみにことばを使う者は交渉事でなかなか勝てない。ことばの重みを知り尽くし、ことばの「薬効」に詳しい者が有利に交渉を進めることができる。

「物事を体系的に扱おうとするなら、まずその定義から始めよ」(マルクス・トゥッリウス・キケロ)

👉 定義が曖昧なら弱者もいい勝負に持ち込める。相手より少しでも力上位だと自覚するのなら、まず重要なことばを明確に定義して交渉をリードするべきである。自分が定めた定義で議論したり交渉を進めたりできていれば、すでに形勢は有利になっているはず。

「敵の手の内を熟読すること。われらの敵はわれらの味方である」(エドモンド・バーグ)

👉 「あの人はこういう人で、こんな考えをする」という他人からの情報を当てにしてはいけない。敵に喋らせて一言一句をフィルターにかけてホンネとタテマエをその場で即興的に見極めるのがいい。いま目の前にいる当面の敵こそが最大の情報源なのだから。

考えを理解してもらうには大言壮語してはいけない。短いセンテンスで小さく言い表せ」(ジョン・パターソン)

👉 争点が分かっておらず理解も不十分な人ほど大言壮語する。すなわち、抽象的なことばを振り回す。たとえば「自由で開かれたインド太平洋」という漠然とした概念を繰り返す相手は恐くないのである。これに対して、争点がよく分かっている人は、ここぞという場面で具体的かつ簡潔に話をする。

「あなたの意に反して即断を迫られた時にはノーと答えよ」(チャールズ・ニールソン)

👉 「さあ、イエスかノーか、どっちなんだ?」と迫る問いに即座に答えられない時、「二者択一では答えられない」などと平凡に返してはいけない。とりあえず「ノー」で凌ぐ。ノーと言っておけば後でイエスに変えることができる。イエスに対して相手は受容しやすい。しかし、イエスと言って、後で「やっぱりノーだ」と変更すると弱みを露呈することになる。

「種蒔きと刈り取りを同時におこなうな」(フランシス・ベーコン)

👉 質疑応答や情報提供は交渉の下地づくりの過程である。たとえば「この情報をご存知か?」と尋ね、相手にイエスかノーかの答えを迫る。ノーと答えた相手にその場で「ノーはおかしいじゃないか!? 」と反論するのではなく、黙ってうなずく。このような種をたくさん蒔いておき、次に「これまでの質疑応答を通じて問題が浮き彫りになった」と切り出して、重要な争点の刈り取りに取り掛かる。いてはいけない。

雨ナントカ

一昨日の夕方近く、我慢の限界に達したかのように豪雨が突然襲ってきた。まるで潜んでいたゲリラがふいに現れたようだった。ゲリラ豪雨とは言い得て妙だ。漢字の「雨」の成り立ちは雲から落ちる粒状の水だが、豪雨にはこんな可愛さは微塵もない。

月や季節の変わり目に何冊かの歳時記を取り出して、バーチャルに季節感を再現する。「雨(あま/あめ)ナントカ」という熟語は結構多い。

雨脚、雨蛙、雨傘、雨雲、雨乞い、雨空、雨垂れ、雨粒、雨戸、雨宿り、雨上がり、雨男、雨風、雨露雨模様……。

取り出した本の目次と索引から「雨(あま/あめ)ナントカ」という文字を探す。「ナントカ雨」は多いが、「雨ナントカ」ということばの歳時記は意外にも少ない。調べ方の問題があったかもしれない。一昨日の雨には情趣も何もなかったので、ひとひねりして「雨男」と「雨乞い」にねらいをつけてもう少し探してみた。

雨男

グループが集まったり出掛けたりする時に雨が降り出す。そのグループの中に雨を降らせる男がいる。それが雨男だ(雨女でもいい)。男が十人集まって雨が降れば、みんなが雨男かもしれないのに、だいたい一人か二人の男が「ぼく、雨男なんです」といち早く名乗りを上げる。「うぬぼれてはいけない。きみごときが神のように空模様をアレンジできるはずがない」と何度か言ってやったことがある。

明治の文豪、尾崎紅葉は雨男として知られていた。歌人の佐々木信綱も雨男だった。

「ところがいつかこの二人がいっしょに出かけたところ、雨が降らないどころか、カンカン照り。雨性あめしょうと雨性とがぶつかって晴天となったもので、両陰相合して陽となるの原理によるものだと評判だったそうな。」(金田一春彦『ことばの歳時記』より)

この一例しか見つからなかった。そうか、雨男は年中どこでもいるから、歳時記の対象にふさわしくないのだろう。

雨乞い

引っ張り出してきた歳時記のどれにも見当たらなかった。以前何かの本で見つけて、本ブログでも紹介したエピソードを思い出した。

雨が長らく降らずに困ると、アフリカのある部族は雨乞いをする。酋長の指示に従って部族の男たちは雨よ降れとばかりに踊り始める。そして、雨乞いダンスをすれば百発百中でやがて雨が降るのである。不思議でも何でもない。雨が降るまで踊り続ければいいのだから。

現代人は空模様から雨を予知してはいない。気象予報士が「午後から雨」と言うから、雨が降ると思っている。「降水確率は10パーセントでしょう」と言うから、傘を持たずに出掛けている。予報しない時代のほうが、たぶん雨には雰囲気があった。それが証拠に日本人はいろんな表現で雨を命名したのだ。

調べものの最後に『歳時記百話 季を生きる』(高橋睦郎著)の中の「夕立」が目に止まった。一昨日の雨は激しかったが、夕立の一種とも言える。いくつか拾ってみた。

ゆふ立ちやよみがへりたるたおれ馬  几菫
夕立が洗つていつた茄子なすをもぐ   山頭火
さつきから夕立ゆだちはしにゐるらしき  晴子

最後の句は一昨日の雨に通じる。但し、「さつきから」ではなく「とつぜんの」、「夕立」は「豪雨」、ゐるところは「端」ではなく「ど真ん中」。豪雨は人に「我こそが今そのど真ん中にゐる」と恐怖させる。

さっと見てすっと分かる

どんなに時間をかけて読んでも全然分からない本がある。たとえばヘーゲルやハイデッガーの本。しかし、哲学書はそんなものだと割り切っているので、自分の能力不足のせいにしておけばいい。厄介なのはピンとこない俳句や短歌や詩だ。せっかく楽しく味わおうとしても、詠み手や歌い手がことばをいじくっては自己満足して、読者を置き去りにする。ぼくもレトリックに凝って伝わりにくい文章を書くことがあるので、思い当たるフシはある。

さっと見るだけですっと分かってもらえる文や詩はあれもこれもと欲張らない。小事やささやかな思いを脚色し過ぎず、また主題を広げることもない。ところで、旅先で時間があれば名所旧跡を足早に訪れる。どこに行っても碑があり、石に刻まれた句や歌の文字の一部は長い歳月を経て摩耗して判読しづらい。仮に判読可能だとしても、語彙も意味も難しい。碑の横の説明板を読むことになる。

先日、長崎に滞在中、長い階段で有名な諏訪神社に赴いた。無事に息切れもせず階段を上り切り、帰りに通った裏道の途中に一つの歌碑に出合った。

川端に牛と馬とがつながれて牛と馬とが風に吹かるる  三郎

そうそう、これこれ。歌碑とはこうでなくては! と小躍りする。久しぶりに文字が瞬時に判読できた。分かった後に何を想像しようが哲学しようが余韻に浸ろうが自由だが、さっと見てすっと分かるとはこういう歌なのだと思う。気になったので調べた。「歌人中村三郎、明治24年長崎県で出生、大正11年没。享年32歳」。


甲骨文字の「目」

さっと見てすっと分かるには、対象が素朴で平易であること、かつ鑑賞者(または観賞者)の理解能力があること。将棋や囲碁のある局面で、一目ひとめで何十手も一瞬で読めるのは才能である。ちらっと見て何もかも先の先まで分かることを一目瞭然いちもくりょうぜんという。手元の盤面ではなく、それが風景になると一望いちぼうに見渡す視野の広さがいる。

「一」の後に「見る」という意味の単漢字を添えると、さっと見てすっと分かる二字熟語ができる。一目や一望の他に、一見いっけんがある。初見でもちょっと見るだけで分かるのだから「一」なのだろう。一睨いちげいなら、ひとにらみ。目で相手を牽制する様子がうかがえる。

一瞥いちべつなら対象への思いやりが軽い。「まあ、わざわざ気にとめることもないが、ちょっと見ておいてやるか」と上から目線である。一覧いちらんと言うと、今では表の体裁になったリストのことを思い浮かべるが、対象のすべての要素に一通りざっと目を通すことが原意だ。要素が多くなっても、さっと見てすっと分かるのは表がよく出来ていて、かつ一覧する者がよく出来る人だからである。

以上のような内容をグダグダと盛るのはたやすいが、さっと見てすっと分かる文を綴る道は険しい。

語句の断章(41)恣意

恣意しい」は頻出熟語ではないので、前に意味を確認していても、次に出てくるとどうもはっきりしない。そんなことが何度かあったので、一念発起して徹底的にこの熟語をやっつけ・・・・ようとしたことがある。そして、徹底的にやっつけた。しかし、次に出てきた時には、また意味が明瞭でなくなっていた。手強い単語である。

辞書を引くと「そのつどの思いつき」などと書かれている。この程度の説明だけでは不十分だ。恣意は「恣意的」や「恣意性」と変化して現われ、また「恣意が入る」や「恣意に任せる」というふうに使われる。「読者が理解している」という前提で書く著者も多いが、読者の理解力に期待されては困る。

意味を明確にするために対義語を参照するという方法がある。手持ちの辞書には恣意の対義語の記載がない。用法の本を何冊か調べたが出ていない。しかたなく、自前の知識で分析した。恣意は「思いつき」であるから合理的ではなく、規則に縛られない。また、思いつきは「そのつど・・・・」なのでワンパターンに繰り返さない。恣意的とは状況意図的なのである。いつも同じ尺度や法則にしたがう「アルゴリズム」に対峙させるなら「アドリブ」のような位置取りが近い。

さて、ある日、恣意が言語学者ソシュールの用語であることを知った。ソシュールが指摘した要点はおおよそ次の通りである。

犬という動物がいて、猫という動物がいる。犬にはinuイヌという音を割り当て、猫にはnekoネコという音を割り当てた(ちなみに、英語ではそれぞれdogドッグcatキャット、フランス語ではそれぞれchienシャンchatシャ)。犬という内容とイヌという発音/表現の関係は考え抜かれたものではなく、必然性のない思いつきであり、両者の関係は恣意的なのである。猫という内容とネコという発音/表現の関係も同様に恣意的である。つまり、犬を“neko”、猫を“inu”と呼んでも何ら差支えなかった。


それほど難解でもないのに、恣意が分かりにくく使いにくいのは、「意」のせいであり日常語でないせいである。「今夜のメニューは何も考えていない。恣意に任せよう」と一度言ってみればいい。食事相手はポカンとするはずである。

語句の断章(40)古本

古本と書いて「ふるほん」と読む。それ以外の読み方はありそうにない。かつてぼくも知らなかったが、古本は「こほん」とも言うのである。昔はそれが本家だったようだ。

『新明解国語辞典』では「所有者が(読んだあと)、不要として手放した本」を古本ふるほんとしている。ご丁寧に「読んだあと」と補足してあるが、別に読んでなくてもいい。書店で新刊を買ったが、読まずに本棚に置いていた本も処分すれば古本ふるほんである。また、手放した本だけが古本ふるほんなのではない。ぼくの本棚には、所有者であるぼくが読んだあとも置いてある古本ふるほんが全体の半数を占めている。

『新明解』は古本こほんも取り上げていて、「(同種の本の中で)増補・改変される前の原形を比較的多く伝えている本」としている。書かれたり出版されたりしてから時代を経ているので、いわゆる古書である。令和の現在から見て平成の本を、たとえ希少だとしても、古本こほんとは呼びづらい。しかし、新約聖書を遡っていき、マルチン・ルターの最初の聖書の面影を残している時代物に出合ったのなら、それは古本こほんと言えそうだ。

「新古本」という類もある。「しんこほん」または「しんこぼん」と読む。新しいのか古いのかよくわからない。行きつけの古本屋の店頭に時々並ぶ。先日買ったエッセイ集はそこに並んでいた一冊である。

奥付には「2016625日 第1刷発行」と記されている。7年前に発行されたので新刊ではなく、しかも増刷もされていない。書店で売れ残った本が出版社に返品され、通常の再販制度とは違った流通ルートに流れるのが新古本。

かと言って、一度も売られておらず誰の手にも渡っていないので、古本ふるほんではない。実際、この本は完璧な新品。しかし、堂々と胸を張って新刊とは名乗れないワケアリ本である。「新品同様、だいぶ前に出版された売れ残りの本」が新古本。新刊と古本ふるほんのちょうど中間くらいの値付けがされている。