「指差し」と「ことば」

空を仰ぐ。雲は刻々と形状を変えて無限の題材を提供してくれる。ところが、詩にしたり絵に描いたりするには工夫もいるし技術もいる。それどころか、今見ている空と雲の様子を口にすることもままならない。「おもしろい形の雲」と言うだけでは芸がない。雲の形を指で表わすのも一苦労だ。

名前を知らなかったら、モノに人差し指を近づけて「これ」、離れているなら指差して「あれ」と言う。人なら「そこの君」とでも言うだろうか。「そこ」を示す指の方向の精度が問われる。未だ会いもしていない人を特定できるのは名前を知っているからである。名前を知っていれば、ひとまず「あの、この」や指に出番はあまりない。

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教室内の生徒に固有名詞がなければ教師は困る。いくら個人情報保護の時代だと言っても、少なくとも姓名は明かしてもらわねばならない。指名手配犯も同様だ。「50歳前後の丸顔男が逃走中」だけでは手配できないし、市民も情報の提供のしようがない。顔写真と名前が欲しい。「顔文字^o^や「あっちの方向()に逃げた」ではいかんともしがたい。

指が差す対象を特定して相手に意図を伝えるのは、一見わかりやすそうで実は難しい。とりわけ、距離のある対象を「あれ」や「そこ」と言ってもピンポイントで示せない。では、指と対象がうんと近い「これ」なら相手に伝わるか。いや、それはそれで別の多義性がともなうので、すんなり通じるとはかぎらないのである。

りんごに手を近づけて、人差し指をりんごに向ける。この指はいったい何を示し何を伝えようとしているのか。一個のりんご、赤い部分、一点光る箇所、横向きに置かれたりんご、これは何? という問いかけ……。真に伝えたいメッセージを指差しだけに委ねるのは無理がある。結局、きちんとわかってもらうためにことばを添えることになる。指は口ほどにものは言ってくれない。指で示したり手を添えたりするにしても、同時に自分の口で何とかしなければならないのである。

ガラッと変わる

服装や髪形をガラッと変える。その気になればいつでもできる。これに対して、長年の習慣を激変させるのはたやすくない。生活習慣病とは言い得て妙だ。かんばしくない習慣だとわかっちゃいるけどやめられない雰囲気をよく表わしている。

自ら変わる、自分の何かを変える――小さくなら変われても、ガラッと変われるものではない。醤油で、ごま油で、生姜やわさびやネギなどの薬味で料理はガラッと変わる。しかし、自分をそんなふうに変えるきっかけとなる「調味料」はなかなか手に入らない。変わろう、変わりたいと力が入れば入るほど、変身から遠ざかる。

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故事由来のことばに「豹変」がある。豹に斑紋が現れて見た目が変わることだ。この豹変、ゆるやかな変化ではなく、一変でなければならない。行動や態度の、誰の目にも明らかにそれとわかる変わりようである。「まじめな課長が酒の席で豹変した」などのように、今では善行から悪行へ変わる様子を表わすのが一般的になった。

本来は良い方へガラッと変わることだった。大阪のおばちゃんが豹柄好きなのは、たとえ安物であっても、その模様の服を着ればフツーの自分が美しくバージョンアップできると錯覚してのことに違いない。錯覚ではあっても、おばちゃんと豹柄衣装の関係のほうが本来の意味に近い。豹柄服を着ておばちゃん豹変す。

君子豹変す。君子は望ましくないと気づいたおこないや過ちを素直にガラッと変える。潔くない凡人は、頭でわかっていても今の自分に執着する。

ところで、大阪メトロの駅構内に最近ポスターが登場した。「人生、ガラッと変わる」をテーマにしている。悪しき人生をガラッと変えるのは難しいけれど、まずまず幸せに生きてきた人生をガラッと変えるのに苦労はなさそうだ。つい、カッとなればいいのだから。

イタリア語を独習した頃

英語がある程度習得できたら、次はフランス語、その次はイタリア語と決めていた。本気で英語を独習しようと思ったのが19歳。一年も経たないうちに話し聴くことに不自由しなくなり、二十代半ばまでに英語を教えたり書いたりして生計を立てるようになった。

高校までに学習したという下地があったので、期待以上の運用能力が身についた。当時はCDなどという便利なものがなかったから、機会は少ないがラジオやテレビを活用した。オープンリールのテープレコーダーに録音して何度も聴いた。音読にはそれ以上の時間を費やした。

さて、次はフランス語。と思いきや、まとめて勉強しようと思えば高額なテープセットを買うしかない。そんな余裕はなかったから、英語と同じように音読から入ろうとした。しかし、下地のあった英語のようにはいかない。音読するにもお手本に乏しく、英語に慣れた舌はフランス語の発音をかなり難しく感じてしまうのだ。あっさり諦めた。その次の予定のイタリア語を先にやってみようと一瞬思ったが、仕事も忙しくなり語学どころではなくなった。

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二十年近く前に、ひょんなことからイタリア語を独習しようと思い立った。フランス語に比べれば、少しコツさえ摑めば音読できたからだ。「語学習得には音読」というのが信念であるから、聴くよりも前に文章が読めるというのが絶対条件である。イタリア語は音読にはぴったりだった。当時すでに教本も音声教材も充実していたから大量学習もできた。

英国で出版されたイタリア語教本から始め、手当り次第に音読した。NHKのイタリア語ラジオ講座は気まぐれにしか聞かなかったが、テキストだけは45年間買い続けた。何度もイタリアに出掛け、20数都市を巡ったが、書くことを除けばあまり困ることはなかった。最後にイタリアを訪れてから早や10年になる。イタリア語からすっかり遠ざかってしまった今日この頃である。 蔵書の置き場がなくなった書斎から、ハウツー系の本や、もはや読むことがなさそうな小説、何かのためにと保管していた雑誌類などを引っ張り出し、処分することにした。かなりの量である。そこにお世話になったラジオ講座のテキストが数十冊含まれている。傍線やメモがおびただしい。少し懐かしくページを捲ったが、キリがない。他のことでめげそうになった時の励みになればと思い、学習の足跡だけでも写真で記録しておくことにした。

文章、一字一句

文章推敲の依頼をよく受ける。テーマに応じていろんな程度の推敲がある。手間暇は元の文章の質と出来次第である。今月依頼された文章は日本語も英語もひどいのが多かった。文字面表現だけ触って事足りれば作業も楽だが、理解不能な難儀な文章が多く、流れや筋まで見直さねばならなかった。文の構造まで手を入れたら、もはや推敲ではなく、一からの書き換えに近くなる。整体マッサージのつもりが、メスを手にして外科手術を施すようなものだ。

誰に読んでほしいのかがわからない。いや、そもそもどんな動機と理由で書いたのかがわからない。残念なことに、一音ずつ丁寧に楽譜を作曲するように、あるいは一筆一色ごとに丹念に絵を描くようには、ことばの一字一句が紡がれない。音楽や絵画に比べて、文章はこれほど安直に綴れてしまうのかと愕然とした。作曲はできない、絵は描けない、でも文章なら書けるのだとみんな思っている。

すぐれた音楽や絵画、彫刻や建築に「理」を感知することがある。まるで詰将棋のように、その方法以外に詰ませる手順や手の組み合わせがありえないかのように、作品が代替無き必然の完成型に映る。それに比べたら、ぼくたちのしたためる文章はなんと刹那的でいい加減なことか。

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ことばの出番がもっとも多く、日常身近であるためか、手慣れた表現だと思い込み錯覚している。この文脈でこの概念を捉えるのはこの表現しかありえないという探究などふだんすることはない。いちいちそんなことをしていたら文など編めない。そこまで凝る必要などさらさらない、と思っている。もっとも、よく手を加えたはずの行政文書が魅力的であることなどめったにないが……。

しかし、俳人や歌人や作家でなくとも、この主題ならこう書くしかないと覚悟して仕上げるべきではないか。経験によって巧拙はあるだろう。それでも、最低限の工夫はできるものである。たとえそれが月に一度でもいい、今の自分に書ける最善と思えるような文章や表現を目指して、少々時間をかけて一字一句吟味することは無意味ではない。

一度書いてそれで満足ということなどまずない。それでこその推敲なのである。何度も何度も書いた文章を読み返さないといけない。たいていの読み手は一度しか読まないが、書き手は何度も読むことになる。たぶん終わりはない。期限というものがなければ、永遠に読み返し書き直すことになるのだろう。そういう過程を経て出来上がった文章とそうでない文章は一目瞭然である。上手であっても見直す。下手なら言うまでもない。下手が下手なりに見直した文章と下手が書きっ放しにした文章にも歴然とした差が現れる。

企画のことば

企画を読み下せば「たくらむ」になる。画とは構想の図であり、大まかなイメージと言ってもよい。樹木そのものであって、枝葉ではない。そのようなアイデアをことばとして編み出し、ことばで紡ぐのが企画案ということになる。

ところで、企画案の大半が現状分析に費やされたり事実の羅列に終始することはよくある。そうなると、もはや企画と呼ぶにふさわしくなく、むしろ作業は調査に限りなく近づく。精度を重んじる調査のような企画は型通りの文章で綴られるのが常だから、きわめて事務的になり、面白味や創意工夫に欠ける。

生活実感のある生身の人間として個性と創意を発揮してこそ企画に味が出る。毎年何十何百という企画に目を通すが、そのほとんどが現状分析から導かれた事実を踏まえている。しかし、妥当かつ論理的に現状の問題を分析したまではいいが、出来上がった企画案は二番煎じであり、見覚えのある陳腐なアイデアの寄せ集めになっている。

現状を見るなと言うつもりはない。現状を観察しすぎるとアイデアが発展しづらくなるから注意を促しているのだ。現状分析はじめにありきの企画は、たいてい現状に産毛が生えた程度に終わる。要するに、構想不足のまま進めた企画には展望がないのである。どんな企画でも、企画者個人の願望が出発点になる。小さいかもしれないその願望を叶えようとする情熱から構想が生まれる。

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現状分析から出発して立案したものの、やっぱりつまらない、ありきたりだと企画者自身が感じる。これまでの時間を無駄にしないために後付けで表現の衣装を着飾るのが常套手段。内容に応じた表現探しである。このような考えの翻訳作業をしているかぎり、企画のことばが力を発揮することはない。すべての作業に先立って、まずコンセプトという、ことばの概念を編み出す必要がある。

不確かで形の定まらないコンセプトを、ひとまずことばとして仮押さえする。そこから可能性をまさぐり、ああでもないこうでもないと考える。その過程で事実を参照し不足する情報を仕入れる。必然、ラフなコンセプトのことばは徐々に論理的に強化され、企画のことばとして完成形に近づく。

コンセプトのことばが論理のことばを触発するのであって、その逆ではない。現状分析から入れば論理のことばが優勢になり、後付けのコンセプトのことばが取って付けたように浮き足立つ。企画とはことばに始まってことばで完結する。便宜上、コンセプトのことばと言い、企画のことばと表現してきたが、企画とはことばそのものであると言っても過言ではないのである。

ハイコンテクストな標識

前々から気になっていた標識を取り上げて、その「みなまで言わなくてもわかってますよね文化性」について批評したい。そもそも標識やピクトグラムの類に伝えたいことのすべてを記号や文字で表わそうと期待してはいけない。どんなに頑張っても象徴にすぎない。象徴とはエッセンスを煮詰めたものであると同時に、合理的な省略の形でもある。

「みなまで言わなくてもわかってますよね文化性」という長ったらしい言い回しは、エドワード・T・ホールが《ハイコンテクスト文化》というコンパクトな術語で言い表わした。コンテクストとは、お互いのことばの意味を理解する上で必要な知識や経験、時代性や価値観を示す。コンテクストがハイとは、お互いよくわかっているということだ。つまり、同質のものを多く共有しているので、「みなまで言わなくてもわかってますよね」と、相手の理解力に甘える態度が醸成される。

ハイコンテクスト文化では、伝達者や表現者は意味や意図が通じることに楽観的である。何が何でもとことん言を尽くすという覚悟がない。この対極に位置するのがローコンテクスト文化だが、標識やピクトグラムは、風土の差異を超越して簡素化される傾向がある。ほとんどすべてがハイコンテクスト的なのである。

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車の免許を持たぬ身である。人生のどこかで更新しなかったのではなく、免許を取得したことがなく、したがって車を所有したこともない。免許取得のための試験の中身も当然知らない。歩行者もしくは自転車利用者側として交通標識を見ている。この標識はこういう意味であると覚える試験対策とは無縁であるから、どんな標識もその標識だけを手掛かりにして読み解く。

運転はしないが、車に乗せてもらっているから、すでにこの標識の意味は承知している。わかっているならつべこべ言わずに済ませばいいが、「標識文法」が無茶苦茶なので黙っているわけにはいかないのだ。まず「⇒」から一方通行が読み取れない。もっと言えば、「一方通行のみ・・」であり、「反対方向がダメ」まで読まねばならない。一つの記号にここまでの意味を含ませるなど、普段の会話では考えられない。

次いで、「自転車を除く」とセットにして読み解いてみる。矢印が自動車運転手へのメッセージで、「ここは一方通行のみ、逆走はできません」という意味であり、「自転車を除く」が自転車利用者へのメッセージで、「但し、自転車は逆方向にも走れます」という意味である。知っているから――理不尽だが約束事だから――そう読むのだが、こんな曲解が成り立ってはいけないだろう。素直に読めば、「車は矢印方向に走ってよろしい、但し、自転車はダメです」という意味ではないか。自転車で走っていて、引き返そうと条件反射する者を嘲笑えるほど、この標識に知恵を絞ったとは思えないのである。

考えることを再考する

完全オフ予定の昨日、急ぎの依頼があった。日本語から英語への翻訳である。翻訳と一言で片付けられればいいが、原文の完成度が低ければ翻訳以上の作業が求められる。文章量の調整、文体の統一、翻訳不能文の割愛または言い換えなど、作業は編集にまで及ぶ。一から自分で日本語を書いて英語にする、あるいはヒアリングしながら直接英語を書くほうがよほど楽なことか。

テーマの難易度はさておき、考えることの裁量の大きい・小さいが決定的な意味を持つことがある。たとえば、このブログは誰かから強制されて書いているわけではない。主題を気まぐれに拾い、いや、場合によっては、主題などなく書き始めるから、たとえ小難しい話であっても何を考えるかという裁量は大きい。別の言い方をすれば自由度は高い。うまくいかなければ書かなければいいし、話を変えてしまえばいい。

若い頃に従事していた英文コピーライティングは難易度は高いが、裁量は大きい。これに比べて、翻訳は――難易度は様々だが――間違いなく裁量が小さい。つまり、多かれ少なかれ原文のスタイルと意味に縛られる。原文をある程度裏切ることが名訳の条件であるとよく言われるが、そんな高尚な考えが翻訳依頼者の誰にでも通じるわけがない。したがって、泣く泣く訳のわからない原文に分け入って裁量なきありさまで翻訳作業に打ち込むことになる。

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たとえ難しくても裁量の大きい思考作業ではさほど疲れず、易しくても裁量の小さい思考作業はかなり疲れる。翻訳がいかにデリケートであるか、この国ではよく理解されていない。翻訳者への気配りもなく、訳すことなどGoogleでもできるではないか程度に思っている。ゆえに報酬も労力や工夫に見合わない。

仕事で考えようとして考えられない状態の時に突然の依頼があって、そっちに頭を使ってしまう。無事終えて、ああ疲れた、もう考えるのはやめようと決心すると、ふと考え始めたりする。「ふと考えてしまう」……結構なことではないか。考えなければいけないのにまったく考えられなくて困っている人が多いのだから。

問題は、考えなくてもいいこと、考えても仕方のないことばかりに関心が向いてしまうことだ。あるいは、今回の翻訳のように、厳としてそこに変えることのできない原文があって、考えたとしても考えたことがうまく反映できない場合である。日々の仕事や生活を振り返ってみてつくづく思うのだ、まことに考えなければならないことに向く注意はいつも大したことはないと。

比喩と表現と

生命が冬眠から覚めた。いよいよ春本番。年に一度、この時期にルナールの『博物誌』をひも解く。この博物誌は比喩によって動物たちのアイデンティティをあぶり出してくれる。色とりどりの表現で本質を切り取る巧妙さにほとほと感心する。たとえば蛍のことを『博物誌』では次のように描写する。

ほたる
1 何が起こったのだろう? もう夜の九時だというのに、あいつの家にはまだあかりがついている。
2 草に宿った月の光のひとしずく!

半世紀前、都会と田園の間にはまだ境界はなく、複雑に入り組んでいた。十代まで育った地域は都会だったが、住宅のすぐ隣りにはまだ田んぼがあり草むらがあった。川があり、そこから細い支流が分かれ田んぼのそばに流れ込んでいた。だから幼い頃には蛍を目にした記憶がある。

昨日、商店街で豚の耳を売っていたので一枚買った。細切りにしゴマ油と塩で白ネギと和えて、おいしくいただいた。さて、豚の耳と目をルナールはどう表現したか。


おまえは砂糖大根の葉っぱに似た耳のかげに、黒すぐりの実みたいな小さな目を隠している。

砂糖大根(てんさい)の葉っぱをよくぞ連想したものだ。黒すぐりとはカシスの実である。言われてみると、なるほどと納得する。アタマの中で絵を描いたら豚の顔になってきた。輪切りにした蓮根を鼻に見立ててくっつければ完璧な豚だ。

カエルは姿を消したが、都会ではカラスは昔よりも今のほうが繁殖している。カエルとカラスにもルナールは比喩を使う。

かえる
青銅の文鎮みたいに、すいれんの広い葉の上にのっかっている。

からす
畝溝(うねみぞ)の上の
アクサン・グラーヴ。

子どもの頃、カエルを餌にしてザリガニを釣って遊んだ。地面に叩きつけて気絶させ、皮を剥ぐ。今思えば残酷きわまりない。カエルには、生き物ではなく、人工的な造形を思う。青銅の文鎮?  たしかにそんなカエルもいた。
カラスの比喩もおもしろい。畝溝で餌を探しているカラスを遠目に見れば、à、è、ùなどのアクセント記号「アクサン・グラーヴ」に見えなくもない。

爬虫類の代表はヘビとトカゲ。ルナールが描写したヘビの表現はあまりにも有名である。

へび
1 長すぎる。
2 子午線の四分の一、そのまた千万分の一。

長いヘビなのに「長すぎる」と言葉少なに言い切ってしまう。続いて、どれだけ長すぎるのかを示すために子午線を出してくる。なぜわざわざ子午線なのか。面倒なので確認の計算はしないが、まあそのくらいの長さなんだろうと妙に納得してしまう。

とかげ
壁 「なんだか背筋がぞくぞくするぞ」
とかげ 「ぼくだよ」

青いとかげ
ペンキ塗りたて、ご用心!

バルセロナはガウディ公園でトカゲの作品を見たことがあるが、あれはモザイクだから、ペンキ塗りたてには見えない。しかし、生きた青トカゲを実際に目にすると、あの青がまだ乾いていないように見える。つまむとペンキが指先につきそうになる。

即興の笑いと仕込みの笑い

生真面目な話が生真面目なスタイルで語られ綴られる。それなりに響いてくることもあるし、「なるほど」「そだねー」と納得できることもある。もちろん、退屈させないようにと気配りして、生真面目な話を愉快な調子で伝えることもできる。やり過ぎては逆効果になるが、生真面目なテーマとユーモアの味付けがうまくいくことがある。

安定して笑いを取るには経験と場数が必要だ。笑いの匙加減は微妙なので、大いに注意を払わねばならない。笑ってもらえれば何だっていいというわけにはいかないのだ。爆笑や大笑いもあれば、エスプリ系の抑制のきいた笑いもある。顔色一つ変えずに胸の内だけで微笑みたくなるような笑いがある。そういうセンスのよいユーモアは好みであるが、めったに見聞きできないし、自分でも披露するのに苦労する。

大阪に生まれて暮らしてきたぼくの周辺には「おもしろい人たち」が少なくない。しかし、彼らのほとんどが笑いを取ることに意識過剰である。笑いのテーストにはさほどこだわらず、ひとまずウケようとする。いや、プロの芸人でもないのに、「笑いを取らねばならない」という、変な責任感を持っている。仲間の講師にもつかみとオチを考えるのに熱心なのがいる。

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ジョークなどは地の文と会話文を絶妙に織り交ぜてストーリーを演出する笑いだ。仕込みと計算は欠かせない。何よりもきちんと覚えておかねばならない。ギャグやダジャレは違う。ストーリー性のない瞬発力勝負のことば遊びであり、おおむね即興でその場で生まれる。ウケたからと言って、性懲りもなく繰り返しているとマンネリズムで色褪せる。醤油が出てきたら、決まって「しょうゆうことです」と言うのがいるが、もううんざりである。

今まさに作られた場当たりのギャグやダジャレは少々出来がお粗末でも、即興性に値打ちを見い出してあげたいと思う。おもしろくてもおもしろくなくても、場を和ませ会話を滞らせたくないという思いは理解できる。即興なら少しくらいすべってもいい。しかし、計算をして仕込み、ウケようとした笑いはすべってはいけない。大阪ではポスターの標語などに笑いを仕掛ける傾向がある。「笑いを取らねばならない」という意識は、生真面目で公共性の強いテーマにも滲み出てくる。

ダメのことを大阪弁で「アカン」と言うが、ダジャレとしてよく公的なスローガンでも使われる。「痴漢はアカン」や「捨てたら、あ缶」などだ。そしてついに、練りに練ったと思われるポスターが登場した。「迷惑たばこは アカンずきん。」 初めて見た時も今も一度も笑わせてもらっていない。かと言って、呆れ果てているわけでもない。「笑いを取らねばならない」という制作者の思いが汲めるからだ。しかし、練りに練った割には……うーん、これしかなかったのか……という気分である。

ヒューマンスキルとリテラシー

「ノリヒビ」ということばを聞いたり読んだりしたことがあるだろうか。「海苔ひび」。海中に立てる竹や粗朶そだという木の棒のことである。この棒に胞子を付着させて海苔を養殖する。最初は遅々として目立たないが、やがてしっかり定着すればみるみるうちに海苔が繁殖していく。

何かが大きく成長するためには、この棒のような核が必要で、学びにも当てはまる。学んだことは核となるスキルにまつわりついて増殖させていかなければならない。ノリヒビはそんなたとえにも使われることがある。ヒューマンスキルにとって、ひびや胞子に相当するものが必要なのである。

学び手と学習メニューの関係は、身体とサプリメントの関係に似ている。毎日の食事さえバランスよくきちんと摂り、ほどよく運動して筋肉を鍛えていればおおむね問題無しとは、良識ある専門家が異口同音に唱えている。しかし、栄養に過多や偏りがあると体力に不安を覚え体調異変を感じる。そうなると、中高年は手っ取り早くサプリメントに依存するようになる。

ぼくも例に漏れなかった。ウコンに卵黄ニンニク、納豆キナーゼにノコギリヤシ、マルチビタミンや各種ミネラルを試してみた。通販で買ったためにしつこくフォローの電話攻めにも遭った。やがて主客転倒していることに気がついたのである。栄養源は水で流し込むのではなく、よく噛まねばならないのではないか。きちんと食事をして年齢相応に身体を動かし、歩き、ストレッチをする。そういうふうに生活スタイルをシフトして現在に到っている。

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さて、ヒューマンスキルのサプリメントには何がいいのか、いや、そもそもサプリメントでいいのだろうか。世間には学習コンテンツが目白押しだ。その中から選んだものを摂取すれば、必ず身につくのか。意に反して、いくら摂取しても効き目を実感していない人たちも多いのだ。摂取直後は何らかの効果を実感できたとしても、効き目が持続するとはかぎらない。何日かすれば元の木阿弥状態になりかねない。学習メニュー提供側のぼくとしても、大いに反省しなければならないと思っている。

食事同様、学習サプリメントはあくまでも副である。サプリメントとはもともと「補足」という意味だ。やむをえず不足を補うものであって、主たる存在ではない。毎日の食事が主であるように、もっともよく使うスキルこそが主ではないか。そう、ヒューマンスキルの主食はことばというリテラシーなのだ。リテラシーこそがノリヒビであり、ぼくたちは幼少の頃から「ことばの胞子」をずっと養殖してきたはず。

日々を振り返れば、生活も仕事も「読み・聴き・話し・書く」で成り立っている。これら言語の四技能というリテラシーを駆使して一日を過ごしている。いかなる専門スキルも言語の核にまつわりついてこそである。肝心要の言語力が乏しければ、知識や情報を大量に取り込んでも定着しないのだ。そして、レベルアップするにつれて、とりわけ読むことと書くことの重要性が高まってくるのである。