語彙と意味のつながり

単語を増やせば語彙を増強したことになるか。残念ながらノーである。孤立した単語をいくら集めても活用はできない。言語は単語が集まって運用されるのではなく、「ことばのネットワーク」として初めて機能する。ことばのネットワークとは、正確に言うと「意味のネットワーク」なのだ。

広辞苑にはおよそ20万の見出し語が掲げられている。そのすべてをUSBに取り込むとしよう。そのUSBを脳に埋め込めるとして、はたしてこれで明日から思うままに単語を使いこなせるようになるだろうか。そうはならない。ことばは勝手にネットワークになってくれない。結局、脳に搭載された単語を並べ立てるだけに終わり、意味を形成することはできない。

生半可な覚悟では語彙は増えない。いろんな表現を使ってみたい、もっと思いに近いことばを見つけたいというのは素朴な願いだが、願いを叶えるのは、強い動機と並々ならぬ情熱にほかならない。

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意味のネットワークを構築するように語彙を増やすにはどうすればいいか。まず、ぼんやりとした思いや考えをひとまず書いてみる。拙くてもいいから書く。喋る時に比べて書く時のほうが工夫をするものだ。次に、おそらく書いた文章に満足できないだろうから、表現を言い換えてみる。類語辞典を参考にすればいいが、置き換えてもなおすっきりするとは限らない。

個々の単語単位で置き換えても、依然として単語は文章の中の部品に過ぎない。冒頭で書いたように、ことばは意味のネットワークである。文脈の中で他の単語との関係において適所に収めなければ、なかなかこなれてこないのである。文中において語彙がこなれるためには、コロケーションという連語に精通しなければならない。たとえば、耳ということばとしっくりくる動詞は「耳をつんざく」「耳を傾ける」「耳をすます」という具合。

また、単語はオリジナルの意味から転移して、文章内で比喩的に使われる。たとえば、富士山の山はご存じの山だが、「山を越す」と言うと、比喩的に「仕事のピークを終える」ことを意味する。山にはすでに比喩が埋め込まれているのである。諸々の単語はこのように、他の単語とつながってネットワークの中で多様な意味を持つ。

今使おうとしている単語と、それとつながる別の単語との相性関係に目を凝らす。これができてこその語彙力である。英語の受験勉強の時のようにいたずらに語数を増やすだけではいかんともしがたい。一つの単語を追い掛けるのではなく、単語と単語が織り成す意味を理解して表現オプションを増やさねばならないのである。

抜き書きの意味

こんな拙いブログでも、毎月のべ何十人もの人たちが文章や段落をコピーしてくれている。「してくれている」と書いたのはありがたいと思っているからだ。なぜコピーされているのがわかるのか? “Check Copy Contents”というプラグインを入れていて、誰かがコピーするたびにメールでコピーされた箇所を知らせてくれるのである。

著作権防衛のためのプラグインではない。ぼくが綴るテーマのどんなくだりに食いついてくれるのかを知りたいだけで、別に何かの役に立てようなどと思っていない。ちょっとした好奇心にすぎない。コピーされた文章がどこにペーストされたのかはわからない。追跡する気もまったくない。

活字になっている文章を数行あるいは全文コピーして、そっくりそのままOne NoteDropboxEvernoteなどのアプリに貼り付ければ便利に違いない。電子書籍は利用していないので詳しいことは知らないが、スクリーンショットはできてもコピペはできないと聞いた。コピペのできるブログを重宝する人がいても不思議ではない。

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ぼくはアナログの抜き書き派であり、今も性懲りもなく紙の上にペンを走らせている。プロの読書家には「若い頃に何十冊ものノートに抜き書きしたが、所詮自己満足であった」とか「抜き書きなど何の役にも立たない」と言う人がいる。たしかに、書き写す労力と見返りは比例しない。読みっ放しにしておくのと抜き書きするのとを比較したら、記憶という点で前者が劣っているとは言い切れないのだ。

しかし、もし書いたものを後日繰り返し読み返すのであれば、本を読んだ時点で気づかなかったことに気づける可能性はある。抜き書きした時から数年の歳月が過ぎていれば、少しは理解力や思考力もましにはなっているだろう。幸いにして、自分で書いた文章であれ、本の抜き書きであれ、読み返す習慣が身に付いている。うろ覚えの記憶がよみがえり明快になることもある。今日はヴィーコの『学問の方法』の抜き書きに何度目かの刺激を受けた。

「才能は言語によって形成されるのであって、言語が才能によって形成されるわけではない」

自分で書く駄文も抜き書きもすべてノートに一元化する。仕事、考えること、語ること、本の一節、日々の衣食住の生活での発見など何でも書く。人生という見えづらい座標には、ハレもケも主観も客観も分け隔てなく、またカテゴリーをまたいで経験が統合されているはずなのに、めったに実感はできない。しかし、ノートという小道具なら、人生経験の出張所として手触りを与えてくれるのである。

固有名詞のリアリティ

イヴ・モンタンが歌ったおなじみの『枯葉』。あの歌のフランス語の原題は“Les Feuilles Mortes”だ。枯れるなどと表現していない。枯れるどころか、すでに生命を失った「死に葉」である。死んだ葉の上を歩くよりは落葉を踏み歩くほうがよほどいい。

パリのあの日から7年が過ぎた。夕闇迫る頃、エッフェル塔を見上げながら、枯葉絨毯の上を歩いていた。歌は口ずさんでいなかった。季節は11月、気温が一気に下がるあちらは秋が早い。シャン・ド・マルス公園の秋も色づいてほどよく深まっていた。

枯れた落葉なのに、過ぎたあの日の思い出は今も色褪せない。イヴ・モンタン、エッフェル、パリ、シャン・ド・マルス……その他もろもろの固有名詞が記憶にリアリティを与えてくれる。

「照明が灯った直後の塔を見上げながら公園の枯葉絨毯の上を歩いたある日……」と書いてしまうと、フィクションのように思えてくる。それはそれで何の問題もないが、ぼくなどは固有名詞という道標を頼りにしなければ、過去という体験地図上を歩けない。匿名ばかりでは方向音痴に陥ってしまう。

ところで、英語ではあの歌を“Autumn Leaves”、つまり「秋葉」と言い換えた。こう呼んでおけば、死のイメージは払拭できる。仕事の帰り道の熊野街道が秋葉で埋め尽くされるのはもうまもなくである。

音の不思議

雨脚の強い朝とは打って変わって日が照り始めた昼過ぎ。湿度が上がり気温も高く、室温24℃設定でエアコンをつけて本を開く。

あまおと(雨音)という音は響きがいい。雨の日に詩を書いたら、一節に入れておきたくなる一語である。「あまおと」にはどんなメロディを合わせればいいだろうか。

「うちゅうにでかけてながめるこうけいはぼくをたかぶらせる」。誰かがこう言えば、十中八九、うちゅうを宇宙と聞いてしまう。宇宙に出掛けて眺める光景はぼくを昂ぶらせる? まさかきみが宇宙に出掛けるはずはない。なのに、うちゅうという音はまず宇宙を想像させる。

うちゅうという音の響きは文脈の外に出て、非現実的な意味になる。きみが宇宙飛行士であるはずは絶対にない。現実世界の経験からすれば、うちゅうは「雨中」に決まっているのに……。

年に百日以上も体験する雨中の外出。雨中に出掛けて眺める光景はぼくを昂ぶらせる。見慣れた街の光景が一変するわけでもないのに、雨音はいつものあの角を曲がると別の光景を予感させる。あまおとという語感とともに。

何もかもコミュニケーション

紙面編集をテーマとする研修の依頼がある。情報誌やリーフレットなどの編集制作や印刷にお金をかけているが、なかなか読んでもらえないというのが発行者の悩みである。どうすれば手に取ってもらえるのか、読んでもらえるのか。媒体もコンテンツも多様化した現在、ペーパー編集物は苦戦している。

「読まれる」の前に「書き表わす」がある。総じて言えば伝える技術なのだが、表現もさることながら、記事の魅力がなければ話にならない。誰にとっても魅力のある記事などそうそうあるものではない。書き表わす前にコンテンツの精査が必要になる。それができた上での表現伝達である。

誰かに伝える前に書き手自身が内容を理解していないという問題もある。本人が書くのだからテーマも記事もわかっているのは当たり前だと思われるが、実はそうではない。意味の明快さとは人それぞれ、理解の程度も違う。時間に追われたりすると、あまりよくわからないままでも書いてしまうものだ。相手に伝わるかどうかなどは二の次になる。

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「ちゃんとできているのか?」
「ええ、大丈夫です」
「後は頼んだよ」
「了解です」

上司と部下のこの短いやりとりのうちにコミュニケーションの等閑なおざりと甘さが凝縮している。たしかに会話はそうかもしれないが、書く段になればじっくり腰を落とす、だから精度が高くなる……こう思うのは錯覚である。

紙面づくりはコミュニケーション。マーケティングにしても危機管理にしても、一見事務的な会計もコミュニケーションだ。人間どうしや組織において、曖昧性や多義性を排除してお互いの意味を明快にする。コミュニケーションは人間関係の根だが、幹や枝葉として行動や考えにまで派生する。人と人はそこでしかつながらない。何もかもコミュニケーションなのである。

紙面編集は編集者や書き手が読み手とつながることである。つながりやすさ――伝わりやすさ、読みやすさ、理解しやすさ――には人間工学的な法則が少なくない。最低限の法則に従えば、ある程度効果が生まれるものだ。

デカルトの『方法序説』がわかりにくい、「我思う、ゆえに我あり」って何のことかさっぱりわからないと言う。少しでも興味をもって一考してもらえないものか、コンテンツが難しければいかんともしがたいのか……。紙面編集は読ませるためのあの手この手の創意である。

ポスター風に紙面を編集したデカルトの肖像を背景に、哲学命題の見出しを入れた紙面を自作した。研修で事例として使う。四つの規則を読んでもらう可能性は高まる。但し、理解できるかどうかは別問題。書き表わすにあたっては読む相手を見ないといけない。情報誌が読まれるか読まれないかは、この読者対象の特定に関わっている。

「指差し」と「ことば」

空を仰ぐ。雲は刻々と形状を変えて無限の題材を提供してくれる。ところが、詩にしたり絵に描いたりするには工夫もいるし技術もいる。それどころか、今見ている空と雲の様子を口にすることもままならない。「おもしろい形の雲」と言うだけでは芸がない。雲の形を指で表わすのも一苦労だ。

名前を知らなかったら、モノに人差し指を近づけて「これ」、離れているなら指差して「あれ」と言う。人なら「そこの君」とでも言うだろうか。「そこ」を示す指の方向の精度が問われる。未だ会いもしていない人を特定できるのは名前を知っているからである。名前を知っていれば、ひとまず「あの、この」や指に出番はあまりない。

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教室内の生徒に固有名詞がなければ教師は困る。いくら個人情報保護の時代だと言っても、少なくとも姓名は明かしてもらわねばならない。指名手配犯も同様だ。「50歳前後の丸顔男が逃走中」だけでは手配できないし、市民も情報の提供のしようがない。顔写真と名前が欲しい。「顔文字^o^や「あっちの方向()に逃げた」ではいかんともしがたい。

指が差す対象を特定して相手に意図を伝えるのは、一見わかりやすそうで実は難しい。とりわけ、距離のある対象を「あれ」や「そこ」と言ってもピンポイントで示せない。では、指と対象がうんと近い「これ」なら相手に伝わるか。いや、それはそれで別の多義性がともなうので、すんなり通じるとはかぎらないのである。

りんごに手を近づけて、人差し指をりんごに向ける。この指はいったい何を示し何を伝えようとしているのか。一個のりんご、赤い部分、一点光る箇所、横向きに置かれたりんご、これは何? という問いかけ……。真に伝えたいメッセージを指差しだけに委ねるのは無理がある。結局、きちんとわかってもらうためにことばを添えることになる。指は口ほどにものは言ってくれない。指で示したり手を添えたりするにしても、同時に自分の口で何とかしなければならないのである。

ガラッと変わる

服装や髪形をガラッと変える。その気になればいつでもできる。これに対して、長年の習慣を激変させるのはたやすくない。生活習慣病とは言い得て妙だ。かんばしくない習慣だとわかっちゃいるけどやめられない雰囲気をよく表わしている。

自ら変わる、自分の何かを変える――小さくなら変われても、ガラッと変われるものではない。醤油で、ごま油で、生姜やわさびやネギなどの薬味で料理はガラッと変わる。しかし、自分をそんなふうに変えるきっかけとなる「調味料」はなかなか手に入らない。変わろう、変わりたいと力が入れば入るほど、変身から遠ざかる。

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故事由来のことばに「豹変」がある。豹に斑紋が現れて見た目が変わることだ。この豹変、ゆるやかな変化ではなく、一変でなければならない。行動や態度の、誰の目にも明らかにそれとわかる変わりようである。「まじめな課長が酒の席で豹変した」などのように、今では善行から悪行へ変わる様子を表わすのが一般的になった。

本来は良い方へガラッと変わることだった。大阪のおばちゃんが豹柄好きなのは、たとえ安物であっても、その模様の服を着ればフツーの自分が美しくバージョンアップできると錯覚してのことに違いない。錯覚ではあっても、おばちゃんと豹柄衣装の関係のほうが本来の意味に近い。豹柄服を着ておばちゃん豹変す。

君子豹変す。君子は望ましくないと気づいたおこないや過ちを素直にガラッと変える。潔くない凡人は、頭でわかっていても今の自分に執着する。

ところで、大阪メトロの駅構内に最近ポスターが登場した。「人生、ガラッと変わる」をテーマにしている。悪しき人生をガラッと変えるのは難しいけれど、まずまず幸せに生きてきた人生をガラッと変えるのに苦労はなさそうだ。つい、カッとなればいいのだから。

イタリア語を独習した頃

英語がある程度習得できたら、次はフランス語、その次はイタリア語と決めていた。本気で英語を独習しようと思ったのが19歳。一年も経たないうちに話し聴くことに不自由しなくなり、二十代半ばまでに英語を教えたり書いたりして生計を立てるようになった。

高校までに学習したという下地があったので、期待以上の運用能力が身についた。当時はCDなどという便利なものがなかったから、機会は少ないがラジオやテレビを活用した。オープンリールのテープレコーダーに録音して何度も聴いた。音読にはそれ以上の時間を費やした。

さて、次はフランス語。と思いきや、まとめて勉強しようと思えば高額なテープセットを買うしかない。そんな余裕はなかったから、英語と同じように音読から入ろうとした。しかし、下地のあった英語のようにはいかない。音読するにもお手本に乏しく、英語に慣れた舌はフランス語の発音をかなり難しく感じてしまうのだ。あっさり諦めた。その次の予定のイタリア語を先にやってみようと一瞬思ったが、仕事も忙しくなり語学どころではなくなった。

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二十年近く前に、ひょんなことからイタリア語を独習しようと思い立った。フランス語に比べれば、少しコツさえ摑めば音読できたからだ。「語学習得には音読」というのが信念であるから、聴くよりも前に文章が読めるというのが絶対条件である。イタリア語は音読にはぴったりだった。当時すでに教本も音声教材も充実していたから大量学習もできた。

英国で出版されたイタリア語教本から始め、手当り次第に音読した。NHKのイタリア語ラジオ講座は気まぐれにしか聞かなかったが、テキストだけは45年間買い続けた。何度もイタリアに出掛け、20数都市を巡ったが、書くことを除けばあまり困ることはなかった。最後にイタリアを訪れてから早や10年になる。イタリア語からすっかり遠ざかってしまった今日この頃である。 蔵書の置き場がなくなった書斎から、ハウツー系の本や、もはや読むことがなさそうな小説、何かのためにと保管していた雑誌類などを引っ張り出し、処分することにした。かなりの量である。そこにお世話になったラジオ講座のテキストが数十冊含まれている。傍線やメモがおびただしい。少し懐かしくページを捲ったが、キリがない。他のことでめげそうになった時の励みになればと思い、学習の足跡だけでも写真で記録しておくことにした。

文章、一字一句

文章推敲の依頼をよく受ける。テーマに応じていろんな程度の推敲がある。手間暇は元の文章の質と出来次第である。今月依頼された文章は日本語も英語もひどいのが多かった。文字面表現だけ触って事足りれば作業も楽だが、理解不能な難儀な文章が多く、流れや筋まで見直さねばならなかった。文の構造まで手を入れたら、もはや推敲ではなく、一からの書き換えに近くなる。整体マッサージのつもりが、メスを手にして外科手術を施すようなものだ。

誰に読んでほしいのかがわからない。いや、そもそもどんな動機と理由で書いたのかがわからない。残念なことに、一音ずつ丁寧に楽譜を作曲するように、あるいは一筆一色ごとに丹念に絵を描くようには、ことばの一字一句が紡がれない。音楽や絵画に比べて、文章はこれほど安直に綴れてしまうのかと愕然とした。作曲はできない、絵は描けない、でも文章なら書けるのだとみんな思っている。

すぐれた音楽や絵画、彫刻や建築に「理」を感知することがある。まるで詰将棋のように、その方法以外に詰ませる手順や手の組み合わせがありえないかのように、作品が代替無き必然の完成型に映る。それに比べたら、ぼくたちのしたためる文章はなんと刹那的でいい加減なことか。

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ことばの出番がもっとも多く、日常身近であるためか、手慣れた表現だと思い込み錯覚している。この文脈でこの概念を捉えるのはこの表現しかありえないという探究などふだんすることはない。いちいちそんなことをしていたら文など編めない。そこまで凝る必要などさらさらない、と思っている。もっとも、よく手を加えたはずの行政文書が魅力的であることなどめったにないが……。

しかし、俳人や歌人や作家でなくとも、この主題ならこう書くしかないと覚悟して仕上げるべきではないか。経験によって巧拙はあるだろう。それでも、最低限の工夫はできるものである。たとえそれが月に一度でもいい、今の自分に書ける最善と思えるような文章や表現を目指して、少々時間をかけて一字一句吟味することは無意味ではない。

一度書いてそれで満足ということなどまずない。それでこその推敲なのである。何度も何度も書いた文章を読み返さないといけない。たいていの読み手は一度しか読まないが、書き手は何度も読むことになる。たぶん終わりはない。期限というものがなければ、永遠に読み返し書き直すことになるのだろう。そういう過程を経て出来上がった文章とそうでない文章は一目瞭然である。上手であっても見直す。下手なら言うまでもない。下手が下手なりに見直した文章と下手が書きっ放しにした文章にも歴然とした差が現れる。

企画のことば

企画を読み下せば「たくらむ」になる。画とは構想の図であり、大まかなイメージと言ってもよい。樹木そのものであって、枝葉ではない。そのようなアイデアをことばとして編み出し、ことばで紡ぐのが企画案ということになる。

ところで、企画案の大半が現状分析に費やされたり事実の羅列に終始することはよくある。そうなると、もはや企画と呼ぶにふさわしくなく、むしろ作業は調査に限りなく近づく。精度を重んじる調査のような企画は型通りの文章で綴られるのが常だから、きわめて事務的になり、面白味や創意工夫に欠ける。

生活実感のある生身の人間として個性と創意を発揮してこそ企画に味が出る。毎年何十何百という企画に目を通すが、そのほとんどが現状分析から導かれた事実を踏まえている。しかし、妥当かつ論理的に現状の問題を分析したまではいいが、出来上がった企画案は二番煎じであり、見覚えのある陳腐なアイデアの寄せ集めになっている。

現状を見るなと言うつもりはない。現状を観察しすぎるとアイデアが発展しづらくなるから注意を促しているのだ。現状分析はじめにありきの企画は、たいてい現状に産毛が生えた程度に終わる。要するに、構想不足のまま進めた企画には展望がないのである。どんな企画でも、企画者個人の願望が出発点になる。小さいかもしれないその願望を叶えようとする情熱から構想が生まれる。

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現状分析から出発して立案したものの、やっぱりつまらない、ありきたりだと企画者自身が感じる。これまでの時間を無駄にしないために後付けで表現の衣装を着飾るのが常套手段。内容に応じた表現探しである。このような考えの翻訳作業をしているかぎり、企画のことばが力を発揮することはない。すべての作業に先立って、まずコンセプトという、ことばの概念を編み出す必要がある。

不確かで形の定まらないコンセプトを、ひとまずことばとして仮押さえする。そこから可能性をまさぐり、ああでもないこうでもないと考える。その過程で事実を参照し不足する情報を仕入れる。必然、ラフなコンセプトのことばは徐々に論理的に強化され、企画のことばとして完成形に近づく。

コンセプトのことばが論理のことばを触発するのであって、その逆ではない。現状分析から入れば論理のことばが優勢になり、後付けのコンセプトのことばが取って付けたように浮き足立つ。企画とはことばに始まってことばで完結する。便宜上、コンセプトのことばと言い、企画のことばと表現してきたが、企画とはことばそのものであると言っても過言ではないのである。