語句の断章(27)言及

第七版が手元にないので第六版で間に合わせて紐解く。『広辞苑』では【言及】を「(その事柄に)言い及ぼすこと」と定義している。「言及とは言い及ぼすこと」という記述は堂々たる同語反復トートロジー。「悪人は悪い人だ」という類に同じ。言及に言及していない。

パスカルはこういう定義はけしからんと言った。

「用語の定義にあたっては、十分に知られているかすでに説明されている(用語以外の)ことばだけを使うこと」

定義しようとしている用語“W”を、WまたはWの一部で説明してはいけない。【言及】の定義文に言及を使ってはいけないし、「言」や「及」も使ってはいけない。ちなみに、『新明解』は「段段に話を進めて行って、結局その事を話題にすること」と記述している。必ずしも明解ではないが、『広辞苑』よりは良心的だ。パスカルの法則を守ろうとした努力の跡が窺える。


「言及の有無について」という一文を書いたことがある。「あることが言及されたことだけに当てはまり、言及されていないことには当てはまらないなどと都合よく考えてはいけない」という趣旨の話だった。たとえば次の文章。

「部屋にある金魚鉢で二匹の金魚が飼われている」

この文章の書き手は明らかに金魚に言及している。正しい観察であるなら、金魚は二匹である。だからと言って、「金魚鉢にはメダカはいない」と早とちりしてはいけない。この一文からわかることは、メダカがいたかいなかったではなく、書き手がメダカに言及していないということだけである。

何の確証もないのに、金魚鉢も一つだと決めつける(英語では一つか複数かはわかるが、日本語では明示しないことが多い)。金魚鉢も二つかもしれないが、書き手は一つの金魚鉢だけに言及した。その金魚鉢の形状や色などには言及せず、二匹の金魚だけに触れた。そういうことである。

「今、デスクの上には分厚い手帳がある」。こう言うぼくはデスクトップPCやキーボードに言及していない。目に入るもののすべてをことごとく一気に描写することなどできないのである。もっと言えば、デスクの上にないものなど無尽蔵に存在するのだから、いちいち「何々はない」などと言っている暇はない。

214日、午前11時現在、デスクの上にはバレンタインデーのチョコレートはない」。しかし、鞄の中に入っていないとは言っていないのである。

語句の断章(26)問答

問いのないテスト用紙に答えは書けない。生活や仕事で問題があると薄々感じていても、その問題が明らかでなければ解けない。解決の難しさの最大の理由はここにある。裏返せば、問題を記述化して明らかにできた時点で、解決への一歩を踏み出すことができる。「問題は何か」という問いに何がしかの答えができれば、糸口が見つかるのである。

「言い表わすことのできない答えには問いを言い表わすこともできない。謎は存在しない。およそ問いが立てられるのであれば、この問いには答えることができる」
(ヴィトゲンシュタイン)

問題のありかを問いの形で表わすのは、解決を促したり答えを導いたりするうえで有効だ。その問いが的を外したような愚問なら答えもつまらないだろう。アレキサンダー大王がインドの行者に言った、「難解な問いへの答えもまた難解である」と。問いの質と答えの質は響き合う。問いと答えは二つでワンセット。だから〈問答〉という。

物事を理解しているかどうかを判断しようとして問い、その後に答えの中身を評価するのが常套手段。さほどいい方法ではない。むしろ、答えさせるよりも質問させてみるほうが理解度がよくわかることがある。

「旅はいかがでしたか?」などと問われて困ることがある。たいてい「よかったよ」と応じるしかない。こんな問いに答えるのは時間の無駄だ。ほんとうに旅のことを知りたければ、その程度の社交辞令的な聞き方をするはずがない。古代ローマの詩人であり喜劇作家であったプブリリウス・シルスは「どんな問いでも答えるに値するとはかぎらない」と言った。良き問答は良き問いによって成り立つのである。

主張するゴシック、誘う明朝

書体は味わい深い。書体は差異でできている。人間の体つきと同じく、文字にも様々な体つきがある。よくぞ「の身」と表現したものだ。

ことばはそれぞれ固有のイメージとニュアンスを共通感覚的に備えている。ぼくたちは「さて何が書いてあるか」と文字を読むが、読む前に書体の見た目ですでに雰囲気を感じ取っている。

主要な書体はおおむねゴシック体と明朝体の二系列に分かれる。ゴシック体は字画の多少に関係なく線の太さが均一だ。これに対して、明朝体の文字は一画一画の線の太さに変化があり、ハネや曲線に特徴がある。読み手が受けるイメージやメッセージ性はゴシックと明朝では大きく異なる。

力強く、注意喚起力のあるゴシック体は「主張する」。ゴシック体は広告や雑誌記事の見出しに使われることが多い。他方、明朝体は線に変化があるのでパターン認識しやすく可読性が高く、長文に向いている。書物の本文にはほぼ明朝体が使われている。明朝体は読み手を「いざなう」。

標識の書体の定番はゴシック体だ。指示に適している。先日、中之島を歩いていた。勝手知ったるエリアだから迷うことはない。じっくり標識を眺めることはなかった。なにげなく飛行機雲を見上げたら標識も目に入った。大阪市役所、バラの小径、北浜駅、天神橋、バラ園の文字。すべて明朝体である。いつから明朝体を使っていたのだろうか。

文字が威張っていない。主張しすぎていない。やさしく場所の方向を指し示している趣が感じられる。なじみの地名が洗練されたように見えて新鮮だった。この標識に誘われるまま歩を進めてしまうオトナがいるに違いない。

アコースティックなことば

音声と文字の言語を習得する前に先験的アプリオリな〈サイレント・ランゲージ〉、つまり、沈黙のことばがある。沈黙のことばの原点を母語とすれば、話しことばが第一外国語、書きことばが第二外国語という見立てができそうだ。

耳に入ることばをサイレント・ランゲージや事物と照合して意味づけし、話し始める。文字を覚えて意味を読むようになり、やがて意味を書くようになる。母語と第一外国語と第二外国語を同時に習得するのだから、言語的生活はもとより気楽にというわけにはいかない。

何を言っているのかさっぱりわからない時、たいていその話者は単語や短文しか使っていない。単語や短文から意味を汲み上げるのは容易でない。カラスの「カァー、カァー」や犬の「ワンワン」とほとんど変わらない。

文が構文になり、構文と構文が相互に結びついてようやく意味が浮かび上がる。にもかかわらず、一語か二語話しては止まり、途中「その、あの、ええっと」を挟んでから次の語が発話される。もともと会話にはこんな側面があるのは否めないが、動詞のない文や単語の羅列では聞き手の負荷が大きすぎる。

思うかぎりを尽くして、その相手にその場で言うべきこと、言いたいことを生の声で語る。生真面目なエトスを静かなロゴスで、奇を衒わず、また迎合もせず、パトスを抑制気味に……。テンションの高いトークや熱弁など意識するには及ばない。こういう語りを、ぼくは〈アコースティック・トーク〉と呼んでいる。自分一人ではいかんともしがたい。このトークは題材と相手を選ぶ。

堂々巡りの語釈

単行本では読んでいたが、古本屋で文庫版を手に入れた。別役実の『虫づくし』。カフェで読み始めた直後、「序にかえて」の文中の次のくだりで考えさせられる。

試みに、広辞苑に拠って「虫とは何か」を調べてみると、次のようになる。
「①古来、本草学で、人類を獣類・鳥類・魚介以外の小動物の総称。昆虫など。」

この本は虚構的なエッセイである。あるいは、ある種の小説として読むこともできる。真の中に偽なるものが、偽の中に真なるものが書かれるので、この著者の文章を読む時は真剣すぎても油断しすぎてもいけない。

上記の引用の真偽のほどはわからない。念のために調べるなどという読み方をすると途端につまらなくなる本なので、書かれるまま読み続けるのがいい。著者は広辞苑から引用し、「虫は、否定形でしか説明されていない」と補足する。


なるほど、辞書の語釈の記述にはたしかに否定形がよく現れる。定義に困ったら見出し語の本質に切り込むのではなく、「~を除くもの」「~ではないもの」「~の反対」などの記述で逃げる。これが辞書編集の常套手段であり苦肉の策である。

「しろ【白】」が「雪のような色。↔黒」という具合。気になって、「くろ【黒】」の項を見ると「墨のような色。↔白」である。白は黒に、黒は白にもたれ掛かっている。まるで二語ワンセットによる意味のあぶり出し。

「じゆう【自由】」はどうか。「他からの拘束・束縛などを受けないこと」。自由の意味を知らない学生が拘束と束縛を知っているとは思えない。編纂者もそう確信していると見えて、ご丁寧に「拘束こうそく束縛そくばく」とルビを振っている。

自由の見出し語から先へ十数ページ捲ると、「じゅつご【述語】」に出合う。「文の成分の一種。主語について、その動作・状態・性質・作用などを表す。」とある。「主語」を知らなければ、述語の意味がわかるはずもない。

あることがわかっているから、それを手掛かりにして別のことの意味が類推できる。わずかな既知から未知を導く。手掛かりがなければ、いかんともしがたい。定義にはどこか堂々巡り的なところがある。意味を明快にする必殺の一文などないのだ。このことは、言語を学ぶ過程で常に体験することだと思われる。

表現と推敲

専門家はその道のことを知っている。ぼくらよりはよく分かっている。ところが、よく知っていて分かっていても、そのことを表現し他者に説明するとなると話は別。専門家の誰もがみな上手にできるわけではない。

分かっているがうまく言えない、あるいは、ことばにできない。これを〈暗黙知〉という。大人は子どもに自転車の乗り方のお手本を見せたり、漕ごうとしている子どもに手を差し伸べたりできるが、ことばで言い表そうとすると苦労する。できることと、それを表すことは別物だ。

しかし、説明してもらわねば素人にはわからない。手さばきでプロフェッショナル度を判断できる技芸や技能ならいいが、どんなに凄いのかが見えづらい分野のことは専門家その人に説明してもらわねば、チンプンカンプンなのである。


分かっているけれど上手く表現できないという専門家が実に多い。ほんとうに分かっているのだろうかとつい怪しんでしまう。そういう専門家が書いた文章を推敲して欲しいという依頼が多い(ちなみに、彼らは推敲などと言わず「リライト」と言う)。書かれていることの詳細はぼくにはよく分からない。何度も読んで理解しようとする。そして、彼らよりも専門性の低い人でも分かるように書き直す。時には大胆に加筆削除をおこなう。専門家は「とても読みやすくなった」とおおむね喜ばれる。

知っていることと表すこと。同一線上にあるのは間違いないが、必ずしもその二つは同期するものではない。知っているがゆえに、意味もなく一文が長くなったり、二つの異なった事柄を一文で書こうとしたりする。そんな書き方をしているうちに、文法や語用の間違いをおかす。分かりやすさのためには、文法的であることと論理的であることは外せない。

分かりやすさを追求するなら、表現の新鮮味や創造性をある程度諦めなければならない。逆に言えば、文章の妙味は脱文法的で脱論理的なところで生まれる。私事になるが、歌人の長男に「四季が死期にきこえて音が昔に見えて今日は誰にも愛されたかった」という短歌がある。「誰にも」ときたら続くのは否定形、つまり「愛されなかった・・・・」ではないか、と父であるぼくはつぶやいた。

下の句の『今日は誰にも愛されたかった』がこの12月、そのまま本のタイトルなった(谷川俊太郎・岡野大嗣・木下龍也共著、ナナロク社)。文に縛られない文。「法から芸へ」。今日も芸を押し殺して推敲作業するぼくには羨ましい。

翻訳文化考

自由、恋愛、哲学、情報、概念などの二字熟語は、明治維新後に英独語から翻訳された和製漢語と言われている。つまり、江戸時代まではこうした術語は日本語にはなかったのである。

おそらく複数の候補から原語の意味やニュアンスにふさわしいことばを苦心して編み出したに違いない。しかし、いわゆるやまと言葉に置き換えるという選択をせずに、漢語で造語したのはなぜだったのか? たとえば、“concept”は概念ではなく、「おもひ」でもよかったはずである。

その昔、枡に米や小豆などを入れ、枡から盛り上がった部分を棒でならして平らにして量っていた。あの棒は「斗掻とかき」と呼ばれていた。その斗掻きが中国語では「概」。概は「おおむね」とも読む。斗掻きで均して量っても粒の数が正確であるはずがない。その概を使って概念を造語した。「おおよその想い」という見立てであったが、概念という翻訳語は原語のconceptよりも硬くて難しく響く。


加藤周一は『日本文学史序説 』で次のように語っている。

日本人が日本の歴史や社会を考えるのに、参照の集団として西洋社会を用いる習慣を生んだ。(……)西洋文化に対する強い好奇心と共におこったのは、従来の日本における西洋理解の浅さに対する反省である。反省の内容は、翻訳された概念と原語の概念とのくい違い、輸入された思想的体系と人間とのつながりの弱さ、思想を生みだした西洋社会そのものについての経験の貧しさなどを含んでいた。

おびただしい西洋語が、西洋を手本とした明治時代以降の改革手段として編み出された。翻訳はその必然の手始めの方法であった。西洋語の概念がイコールの存在として和製漢語に置き換えられた。そして、フィロソフィーと哲学が、インダストリーと産業が同じであると信じ切ったのである。

わが国は今も翻訳大国である。しかも、個々に対応する彼我の単語がまったく同じであると錯覚して今日に到っているきらいがある。この単語ベースでの照合を基本としてきたことと外国語習得の苦手意識は決して無関係ではないと思われる。

ソシュール学者の丸山圭三郎の著書にわかりやすい話が載っていた。フランス語の“arbre”(アーブ)は日本語の「木」よりも意味が限定的で、「生えている樹木」のこと。しかし、“bois”(ブ)になると、日本語の「森」以上に意味が広く、林や木材や薪をも包括する。単語が状況や文脈によって意味を変えるのである。

このことから、まずモノが絶対的に存在した後にことばが目録のように一対一で当てはめられたのではないことがわかる。むしろ、ことばが意味を持ったがゆえに、モノがその意味を帯びて変化したと考えるべきだろう。言語間で示されるモノや概念には必ずこのような誤差が生じている。翻訳語の解釈や理解で心に留めておくべき点である。

概念のコラージュ 2/2

『概念のコラージュ』と題して18のキーワードを選んだ。主観的なラインアップであることは言うまでもない。昨日に続いて残りの9つの術語を考察してみる。


【珈琲】
自分の生活シーンから消えても気づかず、また困るわけでもないものがある一方で、消えてしまうことが想像できないものがある。たとえば珈琲がそれ。珈琲が消えてしまうと、生き方や考え方を大幅に変えなければならなくなる。

【仕事】
公的な仕事などと言うが、仕事は個々の役割・分担においてはつねに「私事しごと」である。仕事は、欲しい時には出てこず、もう十分だと思う時に入ってくる。波がある。しかし、仕事が安定するとマンネリズムを覚える。身勝手な話だが、ゆえに私事。

【世界】
部屋に閉じこもっても、外国を旅しても、書物で知識を得ても、世界は見えそうで見えず、ありそうでなさそうな、きわめて個人的な都合によって切り取られる概念である。世界は必ずしも大きいとは限らず、きわめて小さな世界も構築できる。

【知性】
知性的であろうとなかろうと、人間の差はさほど大きくないと思われる。知性は案外目立たない。しかし、「反知性」という流れに向き合う時、さほど目立たなかった知性の差がはっきりと現れてくる。

【遊び】
人類は慰みの遊び、戯れの遊びを十分にやり尽くしてきて、なおも満足していない。しかし、生き方をスムーズかつ緩やかにする余裕のある遊びの境地に到る人は少ない。
機械なら人間にできない〈遊び〉を難なくやってのける。

【響き】
「打てば響く」という反応的行動は欠くべからざるコモンセンスである。響かないのは責任を――とりわけコミュニケーション上の責任を――果たしていないということになる。声にも出さず動作も伴わない響きなどあるはずがない。

【言語】
幸か不幸か、人間だけが唯一言語的な動物である。言語を通さずには何も認識できない。それを捨てて悟るのか、いや、だからこそ言語的に生きるのかを、人それぞれにはっきりと決めるべきなのだ。それが人生観の根幹になる。

【暮らし】
どんなにだらだらと仕事をしていても、どんなに活き活きとハレの時間を楽しんでいても、きわめて日常的な暮らしから逃れることはできない。仕事に飽きても、暮らしに飽きることはできない。暮らしは陳腐化しない。

【笑い】
元気になったり励まされたりする笑いがあるが、さほどおもしろくもない話に愛想笑いをすることはない。笑いのハードルは泣きのハードルよりも高い。ここぞと言う時の笑いのために、常日頃から大声で高笑いするのは控えるのがいい。

概念のコラージュ 1/2


絵が描かれた板に願い事を書くのが絵馬。首尾よく願いが叶ったら感謝の気持ちを込めてその絵馬を奉納する。

願いとはある種のテーマであり主題である。概念であり紋章的な標語であり、欲張りな関心の方向性を示す。アンテナを立てておけば、テーマについてあれこれと思いが巡り、それが刺激になって雑文の一つも書くようになる。


【考える】
物事を知るだけでは役に立たない。誰もがクイズ大会に出場するわけではないのだから。知識を身につけてわかることと考えてわかることの間には埋めようのない隔たりがある。

【観察】
観察は客観的か? いや、偏見のない観察などありえない。観察は観察者の主観でまみれている。なぜなら、観察は固有の体験だからである。主観だからと言って、困ることはない。むしろ、客観だと見なすから問題が生じる。

【風景】
目の前に広がる光景や景色は、しばらく眺めているうちに風景と化す。風景は人間の想像の産物である。自然は人の存在と無関係に存在するが、風景は人の認識によってはじめて姿を現わす。

【にっぽん
日本史なら「にほん」。日本郵便は「にっぽん」であり、郵便切手にはすべて“NIPPON”と印刷されている。「頑張れ、にほん!」では頼りない。「にっぽん」でなければ励ましにならず、元気も出ない。

【都市】
都市は現実であり幻想である。人は都市に生きながら、都市が内包する幻想に振り回される。万華鏡のように都市をくるくると回せば変化する。構築とカオス、希望と絶望、活気と倦怠……形と色が変わる。

【物語】
人の生き方、諸々の事柄を語ることによって様々な物語が生まれた。虚構も脚色もいらない。ただ人について、人を取り巻くものについて、手を加えずに語るだけで物語になってくれる。

【食卓】
食卓はもはやテーブルを意味しない。テーブルならテーブルと言えば済む。食卓は食事や食文化のことにほかならない。食卓を囲むとは誰かと一緒にありがたく食事をいただくことだ。ただテーブルに着くだけではない。

【本棚】
読んだ本を並べても、読まない本を蔵書として保管しても、本棚は本棚。一列一段でも五列五段でも本棚は本棚。背表紙をこちらに向けて本棚に並べたくなる本がある。本は本棚にあって本らしくなる。

【生きる】
どこまで行っても生きるとは現実であり現在進行形である。この絶対的な現実と〈いま・ここ〉を認識しているかぎり、「生きる」以外の他の概念がそれぞれ固有の意味を醸し始める。

ことばのあれこれ


書名を見て、目次だけを一瞥して本を買う。買った本のうち、全ページ読むのが3冊に1冊なら上等。残りは拾い読みか読まずの本。

本編に目を通さないことはあっても、買う時点で絶対に読んでいる箇所がある。帯文がそれ。帯文でそそのかされて衝動買いした本は数え切れないが、帯文に負けない本文の本にはめったに出合えない。帯文だけの本を書いてみたい。

📝

「空気を読む」には強い意識が働いているが、「気配を感じる」はセンスかもしれない。空気ばかり読んで、気配をまったく感じない鈍感に気をつけたい。ちなみに、春は予感・・なのに、なぜ秋は気配・・なのだろう。台風の進路を読み・・ながら、考えている。

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長く情報誌の編集をしてきて、ここ数年はそのテーマで研修する機会がある。事例を集めているうちに、デザインと文章の型についてよく考える。

デザインには理があり、ある程度まで定型化は可能だ。文章も理を扱うが、日本語に型を定めるのは容易ではない。コンセプトという「想い」とのつながりからして、人それぞれに型はあるのだろうが、一般的な型というものはない。

保守的かもしれないが、文章あってのデザインであることは間違いない。デザインあっての文章ではない。これが情報誌づくりの基本。

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どなたかがテープから起こした原稿を読んで書き直す仕事がある。音声は聴かずに文字になったものだけを読む。

たとえば座談会。話者らはほとんど断定しない。「……とか」や「……と言える」や「……と思う」で言い終えることが多い。文末の動詞で意味を明瞭にしてくれない。ぼかしている、いや、ぼけている。照れているのか、自信がないのか、伝える気がないのか……。参加した人たちの文字になったことば遣いを推敲しながら、最近の発言は、勝負を避ける、やわなつぶやきばかりだと、ひとりつぶやいている。