“アイディケーション”という方法

一週間ほど前のブログで対話について少し嘆いてみた。セピア色した弁論スピーチやアジテーションはあるが、対話がない。お気軽なチャットはあるが、対話がない。一方的な報告・連絡は絶えないが、意見を交わす対話がない。会議での議論? ファシリテーターの努力も空しく、だんまりを決めこむ出席者。あるいは、喋れば喋るで喧嘩腰になり、一触即発の人格攻撃の応酬のみ華々しくて、そこに冷静で穏やかでウィットのきいた対話はない。対談集を読んでも、波長合わせの同調中心で、挑発的な知的論争を楽しめる書物にめったに出くわさない。

対話がないと嘆きはするが、日々の隅々の時間を対話三昧で埋め尽くしたいと願っているのではない。少しは対話のシーンがないものだろうかとねだっている次第である。「こんな理不尽なことがあって、とてもけしからん」とか「誰々がこんな話をしたので、おかしいと思った」とか。この類を意見と呼ぶわけにはいかない。事実や経験を左から右へと流して文句を言っているにすぎないのだ。だから、こんな連中の話を聞くたびに、ぼくはちょっぴり意地悪くこうたずねる、「で、あなたの考えは?」と。

ほとんど返答がなく無言である。考えに近い意見を聞けたとしても、「で、なぜそう思うのか?」とさらに理由を問うと、たいていは沈黙するかお茶を濁すようなつぶやきで終わってしまう。良識ある人々はコミュニケーションの重要性をつねに説くが、いったい彼らの言うコミュニケーションとは何だろうか。空理空言をいくら大量に交わしても何事も共有などできない。ラテン語の起源をひも解けば、コミュニケーションには「交通可能性」という意味があり、ひいては意味の共有を目指すもの。”communication“の”com”はラテン語では「公共の」「共通の」「一緒の」などを示す接頭辞。共同体コミュニティ会社・仲間カンパニーなどの英単語も”com-“で始まり、そうしたニュアンスを内包している。


お互いが触発されアイデアを交わす対話を〈アイディケーション(idecation)〉と名付けてみた。アイデアを創成するという意味の〈アイディエーション(ideation)〉と〈コミュニケーション(communication)〉の合成語である。「アイディケーションしようか」と持ち掛ければ、それは単なるお喋りではなく、また儀礼的な辻褄合わせの会話でもなく、事実も意見も論拠も示し、しかもとっておきのアイデアで互いの発想をも誘発していく対話を試みようということになる。

先週久しぶりにプラトンの『プロタゴラス』を再読した。一方的な弁論を巧みにおこなうプロタゴラスに対して、お互いの言い分や問いを短く区切って対話をしようではないかと異議を申し立てたのがソクラテスだ。二千数百年前の古代ギリシアで弁論術の指導を生業としていたプロタゴラスは、将来国家の要人となるべく勉学に励む若者たちにとってはカリスマ的ソフィストであった。同書の前段を読むと、彼がいかにマイペースの弁論術を心得ていたかが手に取るように伝わってくる。

しかし、その彼にあっても、ソクラテスに執拗に一問一答的に質問をたたみかけられるとたじろいでいくのである。そう、誰も口を挟まず、また誰も「ちょっと待った、聞きたいことがある」と問わない状況にあれば、いくらでも弁論に磨きをかけることはできる。一人のカリスマが大衆や取り巻きのファンを酔いしれさせて説得するくらい朝飯前なのである。だが、他者からの問いや意見が加わる対話という方法に置き換わった瞬間、論説の基軸が揺さぶられる。弁論術で飯を食う人間には死活問題になるが、ぼくたちにとってはそれが「気付かざるを考える格好の機会」になってくれるだろう。狭い料簡で反論に腐っている場合ではない。

スイッチが入ったような書き方になってしまった。アイディケーションのような方法は古臭くて面倒なのだろうか。もっと軽やかな、ささやくようなツイッターのほうが時代にマッチしているのだろうか。

「休まない」という生き方

もしかすると近い将来に中国人が食べ尽くしてしまうかもしれないと危惧されるマグロ。中国での日本食ブームが火を付ける格好になり、日本人の専売特許であった海の食材の「蜜の味」を彼らが覚えてしまった。今後も需要が膨らみ続けると見込まれる。苦節三十余年の養殖技術が実り、養殖の可能性が高まってきたとはいえ、孵化してから40日間生存するのは千匹に一匹という。ビジネスベースに乗るにはまだ何年もかかるのだろう。マグロを好物とする人たちにとって深刻な事態であるに違いない。

マグロの通には耐え難いことかもしれないが、マグロが食べられなくなると困るか? と問われれば、ぼくの場合は別段困らない。ちょっと残念ではあるけれど、しかたがないと諦めて代わりの食材へと触手を伸ばせばいいと思う。ちなみに、捕鯨に関しても論争に値するテーマではあると認識しているが、ことぼくに関して言えば、別に食べなくてもいい。鯨のベーコンやハリハリ鍋をずいぶん食したが、なければないでかまわないし、かれこれ56年口にしていないから常食からは程遠い。繰り返すが、わが国の調査捕鯨の是非や鯨肉文化の話は、また別の問題である。

話をマグロに戻す。天然マグロの平均寿命は40年らしい。広い世界の海のどこかで、人間のアラフォーよりも年上のマグロが泳いでいるのである。卵や稚魚の時期にほとんど死ぬので、正しく平均寿命を計算すれば40年になるはずはない。無事に成魚になって人間にも捕獲されなければという仮定での平均寿命だろう。この40年という数字に驚いたが、もっと驚いたのが「マグロは一生休まない」という事実である。なんとマグロは生涯ずっと泳ぎ続けるのである。口を閉じると窒息するので、口を開けておくためにはただひたすら泳ぎ続けるしかないのだそうだ。


世間には一年365日働き続ける人がいる。マグロのように不眠不休という意味ではなく、敢えて言えば「少眠無休」のような生き方。ぼくの周囲にはいない。夜更かしをして朝遅くまで熟睡し、平日の勤務時間に接待と称してゴルフに明け暮れる人は何人かいる。毎日が日曜日のように見えなくもないが、マグロ的生き方とは正反対だ。思うに、まったく休まないのも休みすぎるのも難しい。創業時の一、二年間、ぼくも休日をほとんど返上してよく働いたが、その時期を勤勉の日々だったとは思わない。得意先とのパイプも太くなり仕事も増えていくばくかの蓄財もできたが、失ったものも多かった。

マグロに生まれなくてよかったと安堵しても、マグロであったら「休みたい」などとは思わないだろう。一生懸命に口を開けて猟師の魔手から逃れるべく泳ぎ続けるに違いない。こう考えると、環境と生物の生き様には運命的なものを感じざるをえない。ぼくたち人間も、厳密に言えば、マグロのように行動と生命が直結する生態系に置かれているはずである。しかし、そこに「絶対に口を閉じてはいけない」というような単純な定めはない。ある程度、仕事に関しても休みに関してもぼくたち自身の裁量に委ねることができる。そうならない時、過労死や欝や自殺の問題が出てくる。

サラリーマン時代、休み明けの月曜日はとても重苦しかった。〈月曜日の憂鬱マンデーブルー〉が世界の労働者共通の心理的記号のように思えた。土曜日や日曜日にしっかり休めるようにと、当該週はがむしゃらに働く。金曜日などいつも終電という人たちが未だに大勢いる。彼らにハッピーマンデーが授けられ、大手企業のサラリーマンや行政職員は年に4回、連続3日間休暇を取れるようになった。しかし、気がつけば「火曜日の憂鬱」が待っていた。休みとは不思議なもので、どこかで労働を悪と位置づけないと成り立たないような気がしてくる。

「休まないという生き方」を批判するためには、「休むという生き方」の理論武装が必要だ。肉体か精神かはわからないが、ぼくたちは何のために休むのかをもう一度考えてみるべきだろう。「休ない」には意志があって愚痴がなく、「休ない」には愚痴があって意志がない。身体と精神の両方を緩めながらも、仕事への視線は休まないという生き方が最近やっとできるようになってきた。ちょっと遅きに失したか。  

問題、そして解決

問題と解決が一体化して「問題解決」という四字熟語になってから久しい。心理学の主題として始まりすでに1世紀が過ぎた。ぼくの場合、問題解決というテーマとの付き合いは30年前に遡る。ちょうど広告業界に転職した頃で、製品訴求メッセージにどのように問題解決便益を盛り込むかを思案していた。一番最初に読んだ本が『問題解決の方法』(岡山誠司)。本棚に残っていた。奥付には昭和五十六年十二月二〇日第一刷発行とある。

久々に傍線部のみ目で追ってみた。少しずつ記憶が甦ってきて、数ヵ所ほど現在も拠り所になっている文章に出くわした。たとえば、次の箇所。

「なぜ人間は、問題を解こうとするのか。これについては、『人間とは環境の中で生き残り、うまく機能していこうと努力する生きもの』であると仮定することによって、基本的には理解できるようである。」

あれ、これは最近どこかで使ったぞと思い出す。昨年の私塾の『解決の手法』で紹介している。最初に読んだときにメモしていたカードから引用していたのである。

次の一文も現在のぼくの考えの一部を支えている。

「情報を取りこむのは、保有する知識と多少異なっているばあいであり、取り入れ(同化)られると、その情報は知識の一部を変形し修正(調節)する。こうして知識は、一段と洗練(再構造化)され、よりよく生きるのに役立つものとなる。」

強引に読むと、持ちネタが足りなければ、ぼくたちは外部の情報を取り込んで問題解決に役立てる、ということだ。新しい問題に対しては、定番の解法では不十分であり、その問題と共時的に発生している人間的・社会的現象に目を向ける必要がある。


問題解決という、こなれた四字熟語を一度解体してみる。それがタイトルの「問題、そして解決」の意図である。問題と解決を切り離してみてはじめて気づくことがある。たとえば、問題がなければ(問題に気づかなければ)、解決の必要性に迫られない……問題が起きたら、解決しようとする、少なくとも解決しなければならないと思う……自分の責任で問題を起こしてしまったら、当然のことながら解決すべきである……未曾有の問題なら解決すべきであると十分に認識しても、うまく解決できるとはかぎらない……。まあ、こんな具合に、「問題と解決」のいろいろな構図が見えてくる。

要するに、四字熟語として問題解決を眺めてばかりいると、問題と解決の間の距離に鈍感になってしまうのである(ぼくはかねてから”ソリューション”という便利なことばにその鈍感さが潜んでいると思っていた)。ところが、上記のように「問題、そして解決」と切り離してみれば、問題を認知し原因を探り当てることと、それを解決することが大きく乖離していることに気づく。前に、ヴィトゲンシュタインのことばを引いて「およそ問いが立てられるのであれば、この問いには答えることができる」と書いた。問いと問題には類似する点もあるから、「問題が見つかれば、解決することができる」と言えなくもない。しかし、問題の大きさと質による。問題を見つけるノウハウと解決するノウハウは、たいていの場合、まったく異質である。

問題解決で手柄を立てるには、放火魔消防士になるのが手っ取り早い。自分で火をつけ(問題を起こし)、第一発見者となって火を消し止める(問題を解決する)。本来問題でも何でもないのに、やたら問題視して処方するのがやぶ医者だけとはかぎらず、あなたの周辺やあなたの会社にもそんな連中がいるかもしれない。しかし、もっと手に負えないのは、自ら問題を引き起こしていながら、そのことに気づかず、解決の手立てを講じない輩だ。まるでお漏らしをしてただ泣いているだけの乳幼児である。

世の中には解決しなくてもいい問題もある。それは単なる現象であって、「問題」と呼ぶこと自体が間違っているのだ。問題を見て、「解決できそうだ」「解決すべきだ」「(何が何でも)解決したい」という三つの知覚が鮮明になる時、鋭利なソリューションへの道が開ける。さもなければ、解決の機が熟していないか、尻に火がつく問題でないかのどちらかである。    

取ることと捨てること

取り上げて用い、捨ててしまって用いない。今さらながらというテーマなのだが、これがなかなか奥深い。「取捨」は選択や択一という表現を随えて四字熟語にもなる。情報編集や企画の仕事にはきまってつきまとう作業である。取るか捨てるかのどちらに頭を悩ますかは人それぞれ。適当に取り適当に捨てるならば、取るのも捨てるのも気楽である。だが、最終段階で何かを取り別の何かを捨てるとなると、取捨の対象を絞る勇断が要求され、この作業は途端にきつくなる。

だいぶニュアンスは違ってくるが、捨てるを“give”の変形だと考えると、取捨は(順番を変えると)“give and take”に通じなくもない。徳の教えによるとギブのほうがむずかしいようである。これまたニュアンスは変わるが、取捨を「保存と処分」としてみれば、大掃除や引っ越しの際の処分へのためらいを思い起こす。取捨選択をしているつもりが、気がつけば何も捨てられなくなっている自分に気づく。捨てようと思ったら、精細な選別などしていてはいけないのかもしれない。

ぼくの場合も同様だ。「2日研修のカリキュラムを1日用にアレンジしてほしい」という要望が時折りある。2日が1日になるから当然報酬は半分になる。依頼する側も2日間のネタを半分に削るのだから朝飯前だと思っている。どっこいそうはいかないのだ。1日研修を2日研修に「希釈したり間延びさせたり」するほうがうんと楽なのである。いや、ぼくが水増しをするということではないが、一般論としてダウンサイズ化は高度な技量と大きなエネルギーを要する。ちょうど真空管からトランジスタ、トランジスタからIC、ICからLSIへとハイテクが進んだように。


ぼく自身にまつわるエピソードをもう一つ紹介しておく。これは2日を1日ではなく、1日内の時間短縮。実施していたのは17時間の研修で、この報酬の指数を10としておく。翌年、同じ内容のテーマでタイムテーブルを午後からの3時間半に設定したいとの申し出があった。そして、報酬も半額でお願いしたいと言うのである。ぼくだって講師歴30年以上のプロの端くれ。時給ベースだけで評価されては困る。なにしろ新幹線を使わねばならない遠方なのである。しかも、講義を計算づくめで縮減するには少なくとも一両日はかかる。捨てる編集は単純引き算などではない。行き帰りも含めて一日を要するという意味では、報酬は7でも8でもなく10に値する。「知の売人」に成り下がらないための必死の抵抗と言えば、ちょっと構え過ぎるか。 

学ぶ側からの話。「取る」を「学習」になぞらえると、「捨てる」のほうは「離学」または「脱学」と呼べるだろう。実際、ぼくは何十年も前から脱学という造語を使ってきた。もっとも簡単なのが「不学」。まったく学ばないことである。無学とは少し違う。無学は不学の結果、陥ってしまった状態だ。これに比べれば学習は辛抱を要する。「勉学」という用語などはそれを如実に表している。しかし、である。学びには何がしかの偏見が含まれているもので、組み合わせによっては性悪な固定観念につながる。だから時々「異型性知識」を切除するメンテナンスが必要なのだ。これが脱学で、一番むずかしい。

ちなみに、学習は知識の習得を目指す。習得とは固定化のことなので、すべての学習はある種の固定観念形成であるとも言える。なお、脱学だからと言って、完全忘却するのではない。いったん記憶域に刷り込まれた知識を完全消去することなどできない。脱学とは、固定観念化してにっちもさっちもいかない知から離脱して新しい知へ向かう、学びの再編だ。言うまでもなく、新しい知は未来だけにあるのではなく、遠い過去にもある。それを温故知新と呼ぶ。 

拠り所は出典不詳の知識

出典を承知している知識とそうでない知識を天秤にかける。言うまでもないが、圧倒的に後者の知識のほうが重い。ぼくなど、どこで仕入れてきたかわからない雑学的知識が生命線になっている。学者と呼ばれている友人や知人は20人やそこらいるが、彼らでも同じだろうと推理する。とりわけ知識が格言や名言である場合、手元に書物やノートがなければ、典拠を明らかにしたうえで正確に引用することなどままならないだろう。

しかし、論文を書いたり本を著そうと思えば、精度が問われる。当然どうにかして調べ上げねばならない。「どこで知ったか覚えていないし、正確に引用はできないが……」などという文章を学者が綴ることは許されないのだ。いや、ぼくだって適当であっていいはずはないと自覚しているが、学者のように神経質になる必要はない。不確かな、詠み人知らずの知識を軽いトーク調で紹介することが許される。

もちろん許されるからと言って、平気な顔して事足りるわけではない。ノートにきちんと引用して出典も書いておくべきだった後悔すること、絶えずである。たとえば、とても気に入っている、アイデアに関する古いメモ書き。

「アイデアは小声で話すので、喧騒の中では聞き取りにくい」

「期限が近づくと、つまらないアイデアを使い回ししなければならなくなる」

この二つの文章の出典はわかっている。本ではなく、ジム・ボーグマンのイラストに添えられたものだ。それはあるアメリカの大学の卒業記念に配られたファイル一式のうちの2枚である。ところが、出典である、その肝心のファイルがどこにあるのかわからない。だから、英語の原文と照合できない。上記の文章はぼくが訳してメモしたものだが、きちんと訳したのかどうか、今となってはうろ覚えなのである。


もう一つ。こちらは数年前までは研修のテキストにも使っていた。「発明は頭脳と素材の融合である。頭脳をうんと使えば素材は少なくてすむ」という、チャールズ・ケタリングのことばだ。ケタリングは生涯特許1,300件とも言われるエジソンほど有名ではないが、特許300件を誇る、知る人ぞ知る発明家であった。ここまでは確かだと思うのだが、どこでこの情報を仕入れたのか判然としない。ロボット工学博士の森政弘の著書で読んだような記憶があるがわからない。残念ながら、調べる気力がない。

出典を不確かなままにしながらも、ぼくは「発明は頭脳と素材の融合である」という、方程式のようなこのことばを名言だと思っている。そして、〈創造性=思考×情報〉という公式を勝手に作ってしまった。信憑性のほどはいかに? いろんな人に出会うたびに、その人の創造性指数をひそかにチェックするが、この公式は生きている。但し、「思考×情報」としているが、これら両要素を同時に大きくするのはきわめて難しい。この公式では、情報大のとき思考が小、情報小のとき思考が大になる傾向があるのだ。極論すると、創造性においては〈思考≒1/情報〉が成り立ってしまう。

「頭脳をうんと使えば素材は少なくてすむ」というケタリング。この文脈には、「知識や情報ばかり集めていると頭を使わなくなるぞ」という警鐘が隠れている。考えないから本を読んだりネット検索ばかりしなければならなくなるのだ。もっと言えば、簡単に情報が手に入らない、どこにもヒントがないという状況に追い込まれたら、人は必然的に頭を使うようになる。ろくに考えもしていないくせに、調べているだけで創造的な気分になることもあるから気をつけよう。

風土と食を考えるきっかけ

食への関心がきわめて旺盛なほうである。グルメや貪欲という意味の旺盛ではない。また近代栄養学的な視点からのマニアックな健康志向でもない。きわめて素朴においしいものをゆっくり楽しく食べたいと熱望するのであり、旬という季節感や土地柄という風土への意識が底辺にある。今ではまったく後遺症のかけらもないが、五歳のときに事故で腎臓を患い、その後の一年間、無味な食事生活を強いられた。塩分、糖分、脂肪分がほとんどなく、超薄めに味つけされた野菜とご飯ばかりを食べていた。「余分三兄弟」のない食生活であった。今の食への思い入れは、その反動のせいかもしれない。

世間で言う「飯食い」ではないが、米食民族の一人としての自覚はある。ぼくにとって、ご飯は必要欠くべからざる主食である。玄米や五穀米もいただくが、白飯が多い。但し、風土に忠実なので、本ブログでしばらく紹介していたイタリア紀行の折りには、“Quando siete a Roma, fate come i romani.”を実践する。「郷に入っては郷に従う(ローマではローマ人のように振舞う)」だ。だからパンとパスタとトマトと肉食中心の2週間でもまったく平気である。ミラノ名物リゾット頼みしてまで米を求めない。体調不良を来すこともない。

塾生の一人に米問屋の経営者Tさんがいる。給食業、弁当屋さん、飲食店向けに「おいしい炊飯」の啓発をおこなっている。米を買ってもらうための販売促進の一環ではあるが、情熱家はどこかで「損得抜き」の発想をするもの。彼のプレゼンテーションをお手伝いすることになった。彼いわく「炊飯技術が向上して家庭でのご飯が小量炊飯でも飛躍的においしくなった。米は大量に炊くほうがおいしいという通念があったが、業務炊飯はうかうかしておれない」。正直言って、おかずがおいしいけれど、ご飯が粘ってうまくないという店があって、がっかりする。これなら自宅の炊きたてのほうがうんとうまいと思ったりしていた。先週からこの仕事をきっかけに風土と食をあらためて考察している。


二十歳前後からの愛読書、和辻哲郎の『風土』に次のような一節がある。

食物の生産に最も関係の深いのは風土である。人間は獣肉と魚肉のいずれを欲するかにしたがって牧畜か漁業かのいずれかを選んだというわけではない。風土的に牧畜か漁業かが決定されているゆえに、獣肉か魚肉かが欲せられるに至ったのである。同様に菜食か肉食かを決定したのもまた菜食主義者に見られるようなイデオロギーではなくして風土である。

ぼく流に言い換えれば、主義主張で食材や調理を考えるな、ということになる。過食やバランスの悪い食事は「知識」によるものである。知識がバーチャルグルメを生み出して、わざわざ食べなくてもいいもの、さほどおいしくもないものに向かわせるのである。もう少し切実かつ禁欲的に語れば、その時期に手軽に手に入る食材の恵みに依存するということだろう。ちなみに食材には保存のきくものと鮮度勝負のものがある。米や小麦やイモなどは前者だから年中口に入る。ゆえに主食になりえているに違いない。

今日の話に特別なオチはない。以上でおしまいだが、昨日飛び込んできたキリンとサントリーの企業統合決裂のニュースは、めでたしめでたしである。食品製造業の企業がメガ化する必要などどこにもない。ましてや食と風土を持ち出すならば、キリンにもサントリーにも「飲食と企業風土」の固有の独自性があるだろう。もし統合が実現していれば世界一の規模だが、おもしろくも何ともない巨大企業に映っただろうに違いない。ヴィトンとシャネルが一つになると文化崩壊が想像できるように、食産業にあってももっとも重要な文化性がどちらの企業からも消えてしまうことになっていただろう。   

無策ゆえに精神主義

これまで多種多様な企画を手掛けてきて、自分なりにある種の確信を抱くようになった。目的・願望と手段・方策の関係には、人間の弱さからくる法則があるようなのだ。この法則は仕事だけに限らず、人生全般にも通じるように思われる。

一つのゴールに対して手段が多いとき、人は数ある選択肢を前に決断に悩む。将棋の専門棋士が語っていたが、手が多く、しかもどの手を指しても良さそうな時ほど迷うらしい。アイデアが浮かびすぎて困るというケースが実際にはありうるのだ。これとよく似た経験がぼくにもある。ディベートで相手の論点が脆弱であったりゆゆしき矛盾を抱えている時、「どんな切り口でも論法でも容易に論破できそうだ」と直観する。ところが、豊富な選択肢は最上級思考へと流れて、結果的に決断を遅らせることになってしまう。かの二者択一なら、比較級思考するしかないからそれほど逡巡しない。

もっといいのは、一つの目的に一つの手段、一つの願望に一つの手立てだろう。できるできないはともかく、方法が明確な一つの場合、ぼくたちはそこに集中することができる。但し、一つの小さくて具体的な目的・願望が条件である。小さくて具体的だから、講じるべき手段も取るべき行動も明確になって功を奏しやすくなるのだ。「立派な人間になる」とか「幸せになる」などの、茫洋として掴みどころのない願いが、一つの具体的な策で叶うはずもない。


いいのか悪いのかよくわからないが、ぼくたちはおおむね大小様々な目的を定めたがる。あれもこれもしたいという願いはどんどん膨らむ。試みに、これまでしようと思ってできなかったこと、これからやってみたいと思うことをリストアップしてみればいい。あっという間に一枚の紙が埋まってしまうだろう。大はマイホームから小はランチで食べたいものまで、枚挙に暇がないはずだ。同時に、目的や願望を威勢よく掲げるわりには、日々の努力が足りず、先送りしている自分に気づくに違いない。

仮に十ほどの目的や願望を列挙したとして、それぞれに「対症療法」がありうるならば、時間はかかるかもしれないが、早晩達成や実現に近づいていける可能性はある。しかし、そもそも「うわべだけしたつもりやその気になるだけの対症療法」であってみれば、成果はたかが知れている。それに、十の対症療法を小器用に使いこなして日々施していくほどの根気が続くかと問えば、大いに疑問である。

そう、願望が大きくなったり増えたりするのに比べて、それらを叶えていく手段や方策を思いつかないのが人間というものなのだ。「したいけれど怠けてしまう」あるいは「したかったけれど熱が冷めた」という万人共通の性分。言い換えれば、願望にアイデアがついていかないのである。したがって、理想と現実の埋まりそうもない乖離を一気に何とかしようとして、「為せば成る!」と叫んだり「何が何でも頑張るぞ!」と精神主義に走ってしまう。具体策があれば確実に実行する。無策だから実行のしようがない。ゆえに精神主義でごまかす。何ともならないのは、やる気の欠如よりも具体的方策の不在に負うところが大きい。

人それぞれのテーマ

休みの朝だが、少し調べたいことがあって本を読み、ついでに関連項目をネットで拾っていた。電源オフの直前、知り合いのブログをいくつか覗いた。更新頻度はいろいろあるが、みんな頑張って書いている。ぼくはと言えば、ブログを始めてから今年の6月で丸2年になる。ほとんどの読者はぼくを知っている人たちだと思われる。そんな読者のうち、数人の知人もしくは塾生は驚きを示す。驚きは、「感心する」と「呆れる」の二つの意味を含む。

感心してくれる人は褒めてくれている。表現はいろいろだが、おおむね「よくもまあ難しいテーマについて週に45日も書けるものですね」に集約される。呆れる人は必ずしも貶しているわけではないのだが、なぜもっと小さな記事にしたり写真を入れたりしてフレンドリーにしないのかという意味を込めて、「よくもまあ難しいテーマについて週に4日も5日も書けるものですね」と評するのである。そう、いずれの人たちもコメントの内容は変わらない。

ぼくの筆頭読者はぼく自身なのである。まず自分のアタマを整理するために文章化している。文章化の第一義は、あくまでも考えを明快にして筋道を通すためであり、それをメッセージにして第三者に伝えるのはその次の段階だ。「よくもまあ難しいテーマ」と言われるが、難易の感じ方は人それぞれである。また、ぼく自身小さなノートにメモしている事柄を発展させた話が中心なので、自分ではまったく難解なテーマだとは思っていないし、よそ行きにアレンジしているわけでもない。


問い返したい、「よくもまあ、自分のことや身の回りのことなど、どこにでもありそうな話を毎日毎日書けるものですね」と。昨日は誰々と飲食し、会社では何々をして、自宅で子どもや犬と遊んで、風呂に入って寝た、明日から旅行だ、楽しいな……このような体験と感想の羅列だけなら、ぼくなどもう何も書けなくなってしまう。ほとんど毎日がきわめて日常的なの連続で、非日常的な晴れハレなどめったにないから、たちまちネタ切れを起こしてしまうに違いない。

辛辣なアイロニーのつもりはない。若い頃何度も日記に挑戦したが、日々の出来事や思いを徒然なるままには書けなかったのだ。明治の文豪たちの筆致、たとえば「檜屋にて山本と飯を食らふ。日高くして酒を一合ばかりあおる。ほろ酔い気分のまま、外気に触れるや否や小便を催すなり」のような文章が、精細に丹念に筆書きされたのを羨ましく眺めたものである。平凡な日常を観察する習性を持ち合わせてはいるが、そこまで接写的に感想を連ねるのは苦手だった。やむなく、気づいたり考えたり想像したりすることを書くようになったのである。

作家の阿刀田高も講演で同じようなことをユーモラスに語っていた。正確には再生できないが、「自分はミステリーなどの創作ばかりを手掛けている。創作は大変だろうと同情されるが、そんなことはない。自分からすれば私小説なるものを書く人間のほうがずっと大変だと思う」という話があった。まったく同感なのである。「私」の視点から日々のおこないや小さな事件や思いつきを真面目に書き綴ることはぼくにはできない。

自分のこと、身の回りのことを諄々と書く私小説家には、マンネリズムにびくともしない逞しさを感じてしまう。「朝六時半に起きた。寒い朝だ。トイレに立って小便をする。洗面で髭を剃り顔を洗い髪をセットして着替え、妻とトーストを食べた。昨日はイチゴジャム、今朝は黒ゴマペーストであった」。仮に一度こう書いたら、別のページで二度と同じことを書けない。また、この程度のことを文飾豊かに言い換えようとも思わない。ゆえに、ぼくは体験や知識から触発された考えや意見を主として書く。それならいくらでも書けるからだ。決して偉ぶっているのでもなければ、私の日々を徒然記す作者を馬鹿にしているわけでもない。「テーマは人それぞれだ」と思いなしている次第である。

正解は創り出すもの

悩ましいテーマを取り上げる。時代も市場もいっこうに晴れ間を見せず、みんな迷っている、みんな困っている。講師仲間は言う、「講演も研修も半減した」と。ぼく自身もそうだ。減りこそすれ、増えてはいない。東京のメーカー系中小企業の社長が語っていた、「昨年は一昨年より20パーセントダウン、今年は昨年の20パーセントダウンだ」と。つまり、この下降ぶりでは、3年で売上が半減することになる。ゆゆしき死活問題である。環境を変える力のない個人は己の身の処し方によって生き延びるしかない。動物界ではそれが常。

「ピンチはチャンスなんだ」という自己暗示も「ピンチをチャンスに変えよ!」という叱咤激励も、なんだか気休めのように聞こえてくる。気だけ急いても精神力を逞しくしても、人には自力(=地力)というものがある。火事場の何とか力が発揮されることはあるだろうが、いかにも心細い可能性に賭けるわけにもいくまい。つまり、できることとできないことの分別なくしては、どんなに何かを信じてもどんなに気合を入れても限界があるのだ。

講師業の先輩にA先生がいる。この人のポリシーは単純明快で、古典的な「入りを量りて出ずるを制す」を実践している。収入であれ資源であれ、持ち分の範囲で生活設計を立てることだ。単なるケチではない。身の程を知って、分相応に自力を発揮するような意味である。ただ、この先生は少々極端で、「出ずる」要因すら徹底的に排除する。行き着くところは自給自足になってしまうだろう。実際、都会から田舎に転じてそれに近い生活をしておられると聞く。入りを量ることはするけれども、入りを促す策すらいっさい講じない主義である。


塾生のTさんが「今年はアグレッシブ」を宣言し、最近のブログでは「攻撃は最大の防御」をうたっていた。同じく塾生のMさんは「景気の悪い年は、遠慮をするな、金を使え」と書いていた。これまでやらなかったことをするのだから多少の勇気はいる、宣伝広告や接待、研究開発に投資しておけば、景気回復さえすれば生きてくる、という論拠だ。二人ともぼくよりも経営に精通した経営トップである。だから、単純に「ピンチはチャンス」と考えたうえでの主張などではない。賢明だから「ピンチはピンチ」という腹積もりもあるだろう。

どんな事態を前にしても、リーダーの進む道には、自分で事態を解釈して決断を下す以外の選択肢はない。正解があってそれを探しに行ったり誰かに教わるのではなく、正解を自ら創り出すのがリーダーの本分である。うまくいくかどうかはわからない。だから企業経営にはプロフィットもあればロスもあるのだ。ただ、ぼくは思うのである、攻めるか守るかの二者択一などではないと。Tさんには、アグレッシブ(攻撃的)でもなくディフェンシブ(防御的)でもない、プログレッシブ(進歩的)という道があると伝えた。守りながら攻めの手を睨む、着実な一歩一歩という方法だ。Mさんには、攻めの広告でもなく守りの無広告でもなく、累積的な広報(パブリックリレーションズ)があると伝えたい。

攻めるか守るかという決断は、一対一という戦いでの話なのだ。そこにはすでに地力の力関係がある。守勢に立った弱者には勝ち目はなく、逆転の目があるとすれば強者がミスをする場合に限る。ところが、ぼくたちが現在置かれている市場環境は決してマッチプレーなのではない。それどころか、誰かと戦っているわけでもない。不確実な市場環境にいる顧客との関係づくりをどうしていくかというテーマなのである。


一対一の関係はもとより、ありとあらゆる状況に対処する正解創造の法則は、おそらくジタバタもせずグズグズもせず、腹を据えて自力をきっちりと用いることなのだろう。二十代半ばの頃、このことをぼくは勝海舟の『氷川清話』の一節から学んだ。

一たび勝たんとするに急なる、たちまち頭熱し胸踊り、措置かへつて鬘囀てんとうし、進退度を失するのうれいを免れることは出来ない。もし或はのがれて防禦ぼうぎょの地位に立たんと欲す、忽ち退縮たいしゅくの気を生じ来たりて相手に乗ぜられる。事、大小となくこの規則に支配せらるのだ。

平易に解釈してみよう。一丁やってやろうと気張ってアグレッシブになると冷静さを失い、やること成すことが裏目に出てしまい、にっちもさっちもいかなくなる危険に陥る。かと言って、綱渡りは御免とばかりに守り一辺倒になると、今度は意気がしぼんでしまって、相手(もしくは環境)のペースに嵌まってしまう。世の中はだいたいこんなふうになっている。

攻めか守りかではなく、攻めと守りの両方を臨機応変に行ったり来たり、時には併用する策こそが正解なのだろう。そして、表現を変えて繰り返すならば、その正解を創り出すのは、強がりな可能思考なのではなく、不可能をあらかじめ潔く認めておく「沈着冷静な可逆思考」なのだろう。

「してはいけない」という方法

幼児教育に詳しいわけではないが、「~したらダメ!」と躾けるよりも「~しようね」とおだてるほうがよさそうに思える。ぼく自身は当事者として一顧だにしなかったが、他所の親を見ていると、明けても暮れても禁止文ばかり使っていると子どもが萎縮してしまうのではないか、などと感じたものである。躾けの効果についてはムチとアメは拮抗すると察するが、「廊下で走ってはいけません」や「そんなふうに食べてはいけません」などの否定表現に対して、たしなめられたほうが微笑み返すことはむずかしい。つまり、空気が翳る。

ところが、道徳規範にまつわる何ヵ条かの教えなどが未だに功を奏していないのを見ると、呼びかけを「何々しよう」とポジティブにするくらいでは人は決して変わらないのだろう。「お客さまに笑顔で接しよう」「大きな声で挨拶しよう」「感謝の気持で日々を過ごそう」など、今さら成人にオルグしてもしかたがないではないか。いや、言わぬよりはましだとしても、陰気な表情でぶつくさ喋ってきた大人に効き目をもたらすとは到底思えない。墨で直筆した《食事の五観文》を自宅の台所に貼ってあるが、あの種の偈文げぶんは、だいたいが気休めにすぎない(もちろん、気休めも何がしかの功ではある)。

昨日、一昨日と二日連続で「愚かなこと」について書いてみると、愚者には「してはいけない」という禁止もやむをえないという気になってきた。別に性悪説に乗り換えるつもりはないが、差し障りのない道徳的教訓の香りを充満させるよりも、 “Don’t” を突きつけるほうが身に沁みるかもしれない。他人はともかく、まずは己に「してはいけない」を自覚させる。アリストテレスの愛弟子であるテオプラストスは古代ギリシアの人々を三十もの辛辣な形容詞で揶揄しているが、こういうタッチのほうがぼくなどは大いに反省を促される。


博愛・慈善・孝行などを呼びかける何ヵ条かの徳目はたしかにポジティブである。しかし、あれもこれもそれもと箇条書きが増えるにしたがい、一つひとつの教えの可動力が弱まるのではないか。論理学でもそうだが、「かつ(AND)」で概念を結んでいくと矛盾発生の可能性が高まるのだ。第一に、第二に、第三に……と励行すべきことを並列に置くと、ドサクサにまぎれて個々の教えをないがしろにしてしまう危険がある。いろんなことを前向きにやろうというワンパターンだけではなく、もっとも悪しきことのみを戒めて一意専心の思いで正す方法が再考されてよい。

よき資質があるのに、悪しき一つの習慣や性向が資質の開花を妨げる。多才であってもグズは才を潰す。大人物も保身過剰によって小さな俗物と化す。ぼくは事業にあってはかたくなに長所強化の立場を貫くが、人間においてはまず悪しき欠点を退治すべきだと思う。一芸に秀でていれば、どんな奇人変人でも許されるというのは特殊な業界の話であって、日常生活や仕事ではとりあえず足を引っ張っている愚劣を「してはいけない」と心得るべきだろう。

ちなみに、論理的に書こうと思えば、否定文が増えてくるものだ。「あれかこれか」の岐路でどちらかを消し去らなければ、限定的領域内で論理的展開ができないからである。「あれもこれも」と足し算して書き連ねていくと、いったい何を言いたいのかわからなくなる。つまり、どんどん概念が拡散していくのである。したがって、意見を明快に述べようとすれば、要所要所で無意識的に否定文を用いることになる。Aではなく、またBでもなくというふうに積荷を下ろしていき、結局残るのはCという具合に。自分が書いたり話したりしているのを振り返ってみると、「してはいけない」という方法が目立ってきたと気づく。