幼稚な反撥

問いの立て方を見れば、その人間の問題意識がある程度までわかるものである。

たとえば「お出掛けですか?」などは、疑問文の形になっているが、決して尋ねてなどいない。時代を経て何度も何度も繰り返されて共有化され慣習化された結果、問いの機能を失ってしまったのである。

A お出掛けですか?
B ええ。
A どちらまで?
B ちょっとそこまで。
A よろしいですなあ。

人間関係のための潤滑油効果を持つやりとりである。愛想の問いに神妙に答えてはならない。問い相応の応答でよいのである。
ところで、答え方を見ても、当然その人間の問題意識や真剣度をうかがい知ることができる。大蔵大臣時代だったと記憶しているが、宮沢喜一は「仮に……になれば、どうなるでしょうか?」という記者の問いに、「仮の質問には答えられない」とぬけぬけと言い放った。この種の物言いをしゃれた切り返しと勘違いしている輩がいるが、単なる幼稚な反撥にほかならない。

「リンゴかバナナか?」や「米かパンか?」などの究極の選択は、「もしこの世界でたった一つしか選べないとしたら……」という仮言を前提にしている。条件のついたお遊びと言ってもいい。「仮に」や「もし」は、ともすれば行き詰まりがちな話を進めるための契機であって、決して本意を聞き出そうとしているわけではない。問う者も答える者もそこのところがわかっているから、スムーズなやりとりができるのである。
詭弁家は「選択肢はそれら二つだけではない。他にもある」などと言い放ってかっこいいと思っている。あるいは、問いそのものを否定して「そんな悩みは無用である。現実世界では米もパンも食えるのだから」などと言う。とてもバカげている。いずれも問いに答えていないのである。答え方を見れば、人が素直かひねくれ者かがすぐわかる。相手の問いの形式にケチをつけてはいけないのだ。問いにはいさぎよく答える。ただそれだけ。
なお、「米かパンか?」という問いは仮言的であるばかりでなく、レストランでも現実によく聞かれることがある。以前、インド料理店で「ナンかライスか」と二者択一で尋ねられた。迷った挙句、「両方食べたいなあ」と言ったら、あっさり「わかりました」。たまに問いに逆らってみるのも悪くない。もっとも相手が成熟の共感をしてくれて成り立つ話ではあるが……。
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中学生用に編まれた英国のディベートの演習本。30の討論テーマのすべてが二者択一形式、つまり肯定か否定かになっている。

真贋を見分ける

ロダンにあまりにも有名な『考える人』という作品がある。昨年11月にパリのロダン美術館の庭で「真作」をじっくりと鑑賞してきた。
いま、「真作」と書いた。「本物」でもよい。しかし、粘土で原型を作り、そこにブロンズを流し込む、いわゆる鋳造された作品であるから、世界に28体あると言われている。では、どれがオリジナルでどれがレプリカなのか。実は、28体のブロンズ像すべてがオリジナルであり真作なのである。

彫刻作品は一つでなければならない。たとえば、ぼくがフィレンツェのシニョリーア広場で見つめたミケランジェロ作ダビデ像はレプリカである。本物はアカデミア美術館にある。また、絵画もオリジナルは一つだ。だからこそ、真贋問題がよく持ち上がる。
リトグラフや版画は原型が同じであれば、刷られたものはすべて真作ということになる。紙幣や貨幣も大量に製造されるが、国家という信頼性にも支えられて、すべてが本物とされる。

唯一絶対で真似ることもできないものを、本物や真作とは呼ばない。富士山に本物という形容は成されない。本物のヴェルサイユ宮殿などという言い方もない。どこかのコピー大好きな国でそっくり再現しようとしても、真贋などという概念を持ち出すまでもなく、偽物だと見破れる。簡単に贋作だとわかるのであれば、オリジナルをわざわざ本物と呼ぶ必要はないのである。
本物か偽物か……つまり、真作か贋作かが問いになること自体、真贋の識別が難しいことを示している。贋作だと判断するためには、それが真作でないという証明のテコが必要なのである。真作を見たこともなく真作に触れたこともなければ、贋作を見分けることはできない。真作あっての贋作だからである。
ローマ時代に使われたとされるコインを持っている。ローマはコロシアム内の土産物ギャラリーで買ったものだ。あいにく本物を見たこともなく本物に触れたこともないので、ぼくの自宅に置いてある2つのコインの真贋を即断することはできない。ただ、2個で500円くらいだったと思うので、鑑定してもらうには及ばない。おそらくレプリカのコピーの、そのまたコピーに違いない。

何が本質なのか?

古代ギリシアの哲学者にヘラクレイトスがいる。万物流転で名を馳せた紀元前56世紀の人である。万物流転の中心が「火」であると言ったが、何から何まで変化すると主張したわけではない。「魂には自己を増大させるロゴスが備わっている」あるいは「思慮の健全さこそ最大の能力であり知恵である」などとも語り、ロゴスの変わらざる本性へもきちんと目配りしている。

ヘラクレイトスに、「同じ川に二度足を踏み入れることはできない。なぜなら、流れはつねに変わっているから」という、あまりにも有名なことばがある。たとえば、ぼくのオフィスのすぐ近くに「大川」という川がある。天神祭の舞台となる川だ。決して清らかな水ではないので、足を浸す気にはなれないが、もし、ある日この川に足を踏み入れたとしよう。翌日同じ場所に行って足を踏み入れても、もうそれは昨日の川ではないのである。
大川という固有名詞の川に何度も足を踏み入れることはできるじゃないかと思ってしまう。だが、川の本質は大川という名前ではない。「川の流れのように」と言うように、川の本質は流れである。流れであるならば、たしかに昨日足を浸けたあの流れは、今日ここにはない。青年大川太郎は生まれた時から大川太郎だが、何度も生まれ変わった細胞に目を付けると、赤ん坊の時の大川太郎はもはや存在していない。

ぼくたちは昨日の自分と今日の自分は同じだと信じて生きている。しかし、それはぼくたちが変わらない本質を見据えているからにからにほかならない。では、自分を自分たらしめている不変の本質とは何かと問うてみよう。その瞬間、少なくともぼくは戸惑い、自分の考えている本質がいかに漠然としたものかと思い知る。
「お客さん、この年代物の斧を買ってくださいよ」
「なんだい、それは?」
「これは、かのジョージ・ワシントンが桜の木を切った斧です」
「ほう、よくも今まで残っていたもんだな。ほんとうに正真正銘なのかい?」
「そりゃ、もちろん! ただ、270年も経ってますんで、斧を二回、柄を三回ばかり交換したそうな。だから、丈夫なことは請け合いますよ」
さて、この斧はジョージ・ワシントンが悪さをした斧なのだろうか、それとも別物なのだろうか。何度もリフォームした法隆寺は建立された当時の法隆寺なのか、それとも法隆寺的なものなのか。平成の大修理中の姫路城大天守は、ビフォーもアフターも同じものであるのか。ものの本質を考えるとき、必然、名と実の関係に思考が及ぶ。名を以て本質とするのか、実を以て本質とするのか……悩ましいが興味深いテーマである。

「おかしい」と言うなかれ

携帯電話会社のテレビコマーシャルに「おかしいことをおかしいと言う勇気」というのがある。「そうだ、その通り!」と膝を打ちたくなるか……。まったくならない。「勇気」などと頼もしげに言われても、「ふ~ん」と反応するしかない。いや、正確に言うと、少々苛立ちさえ覚える。

おかしいことをおかしいと言うのに勇気などいらない。ただそう言えばいいだけの話だ。美しい花を美しいと言い、汚い店を汚いと言い、バカな者をバカと言うのと同じである。この国では未だに「自分が感じることをそのまま言に出してはいけない、もし出そうと思えば勇気を振り絞る必要がある」という暗黙の前提があるのか。
おかしいことをおかしいと言うのに勇気などいらない。だからと言って、好きなように言えばいいと主張しているのでもない。これは〈同語反復トートロジー〉の一つになっている。「ダメなものはダメ」と言って話題になった女性政治家がいたが、こういうものの言い方をしているかぎり、論議が前に進む余地はない。ただ堂々巡りするしかない。ちなみに、「売れるものを作れ」というのも類語反復である。

くどいが繰り返す。おかしいことをおかしいと言うのに勇気などいらない。いや、おかしいことをおかしいと言ってはいけないのである。誰かの意見に異議を唱えるとき「おかしい」という表現などありえないのだ。「おかしい? 何がおかしいのか言ってもらおうじゃないか!」「おかしいものはおかしい!」「おかしいとしか言えないお前のほうがおかしい!」……となって、傍で聞いていると昔の漫才師のボケとツッコミようである。
「おかしい」と感じるのは主観である。その主観を「おかしい」と主観的に表現しているかぎり議論は成立しない。こういう批判は口先だけの、根拠なき反駁であり、人格否定につながってしまう。議論が口論になり果てる。わが国の一流論客と評される人物でも、だいたいこのレベルに止まっている。
「おかしい」と評してはいけないのである。もし「おかしい」と言ってしまったら、理由を述べるべきである。他に、ナンセンス、馬鹿げている、話にならない、矛盾している、意味不明だ、わけがわからん……なども議論におけるタブー表現である。もっと言えば、こうした表現によってコメントしたり批判したりするのは、勇気ではなく、むしろ臆病の表れであり、ほとんどの場合、議論が苦戦に陥っていることの証である。

もう少し議論してみないか

論理思考や議論の技術を指導してきたわりには、日常茶飯事理詰めで考えたり議論したりしているわけではない。そんなことをしていると身が持たない、いや頭が持たない。論理や議論が頭を鍛えてくれるのは間違いないが、同時に感覚的な面白味を奪ってしまう可能性もある。だから、ふだんからユーモアやアートもよくしておかないとバランスが取れなくなる。

ところで、ディベート嫌いの人でも、自分の子どもが意見を主張してきちんと議論できることに異を唱えないだろう。かつてのように「理屈を言うな!」という苦し紛れの説法をしていると、理屈どころか何も喋らなくなってしまう。昨今、若手が仕事でもほとんど理屈を言わなくなったので、ぼくなどは「もっと理屈を!」と言い含めているありさまだ。

老若男女を問わず、物分かりがいい振りをする人が増えたような気がする。心身に負荷のかかる批判をやめて、ストレスを緩和できる褒め・・に向かうようになった。低次元で馴れ合うばかりで相互批評をしない。嫌味を言わず毒舌も吐かない。但し、本人がいない所では言いたい放題なので、結局はイエスとノーの二枚舌を使い分けることになる。こんな生き方をしていては、アイデンティティを喪失する。無口になり、考えるのが億劫になる。


明日、中・高・大学生チームが参加するディベート大会が神戸で開かれる。ぼくとぼくの仲間が組織している関西ディベート交流協会(KDLA)から20名前後の審査員が協力する。橋下徹のディベート能力重視の説に便乗するわけではないが、年に一、二度でいいから、真剣に議論をしてみると、思考のメンテナンスができると思う。たまにでもいいから、イエスとノーしか選択肢がない争点に自分を追い込んで、是非論を闘わせてみればいい。

Aさんは今日も言いたいことがあるのに言えない。その言いたいことは、もしかすると、組織にとっても議論の相手にとってもプラスになるかもしれないのに、黙っている。B君はイエスで妥協してはいけない場面なのに、またノーを言えずにイエスマンになっている。何でもイエスは何でもノーよりもたちが悪い。

議論は戦争ではなく、検証によってソリューション探しをするものなので、回避する理由はどこにもない。商取引で最初に金額を明示するのと同じく、コミュニケーションの冒頭で意見を開示しておくのは当たり前のことなのだ。たまにでいいから、大樹に寄らない姿勢、長いものに巻かれない覚悟、大船に乗らない勇気を。同論なら言わなくてもよく、異論だからこそ言わねばならないのである。

批判精神と自己検証

批判に弱い人間と付き合っていると疲れる。棘を抜き、辛口表現をオブラートで包む必要があるから。いつも顔色をうかがい傷つけまいと差し障りのない寸評でお茶を濁すことになる。疲れるだけならまだ我慢するが、こんなうわべの物分かりの良さを演じていると、こっちの脳が軟化してしまう。付き合いが続くものの、お互いに成長できる見込みはまったくない。

以前アメリカのコミュニケーションの専門家が書いた本を読んで愕然としたことがあった。「部下が出来の悪いレポートを持ってきた。あなたはどうコメントし、対応するか?」というような設問がある。四択。「こんなもの話にならん!」や「もう一度やり直しだ!」の類が最初の三つの選択肢になっており、四番目が「きみは普通この種のレポートは上手だが、今回はちょっと残念なところがある。一緒に考えてみようじゃないか」のようなコメント。著者はこれを正解としている。優しさにもほどがある。

「きみ」という部下がこの種のレポートが普段から下手だったら、どうするのか。「ちょっと残念」も「とても残念」も採択できないという点では同じだ。こんなところに「物は言いよう」などという法則を適用するのは場違いなのである。ぼくも「ダメ! やり直せ!」には与しない。自力でやってダメだった人は、しかるべき助言もなしに再挑戦してもたいていダメである。だから「一緒に問題検証すること」には賛成だ。けれども、プロフェッショナルどうしなら、少しでもダメなものを褒めてはいけないのである。生意気なことを言うようだが、白熱教室のマイケル・サンデルの設問やハーバード大学の学生の答えにも同種の骨の無さを感じて情けなくなる。


共感と賞賛し合うだけの甘い関係を求める人たちが少しずつぼくの回りから減っていく。寂寞感に耐えかねないなどということはないから、去る者を追わない。しかし、よく考えてみよう。評価してもらうことと批判されることは二つの別のことではない。弱点や問題点を指摘され、納得すれば反省して対策を立てればいいだけの話だ。批判精神が横溢する関係に身を置くようにすれば、仮に批判者が不在でも自己チェックする習慣が身についてくる。自己検証能力は希少なヒューマンスキルの一つなのである。

事実認識、知識、意見、価値観、方法、生活習慣・態度、人生観、人間性・人格……批判の対象はいろいろである。事実誤認を指摘され意見を批評されるのはいいが、矛先が人生観や人間性に向けられるとグサッとくる。しかし、対象などどうでもいい。要は、批判者の批判行為が善意か悪意か、助言か非難か、啓発か否定かをよく見極めればいいのだ。空砲と実弾の区別がつかない鈍い感覚こそを大いに自省すべきだろう。

別に硬派を気取っているわけではない。ある人にとって軽いことが、別の人にとって重いことくらい百も承知である。ある人は批判を受け止めるし、別の人は批判を聞き流したり苛立ったりする。プライドなのか別の何かがそうさせるのかわからないが、批判の負荷に耐えられなければ高みに到ることなど望めないだろう。リーダー側に立ち始めたら、誰かからの批判機会は当然減る。ここを境にして裸の王様度が強くなる。だからこそ、その時に備えて日頃から自己検証力を高めておかねばならないのである。自分が自分に一番辛い点数をつけるということだ。最近のリーダーを見ていると、自画自賛が過ぎるとつくづく思う。ちょっとハードワークするたびにマッサージや温泉やご馳走などのご褒美とは、自分に甘すぎるのではないか。

批判からの逃避

この話が当てはまる人々に老いも若きも男も女もない。批判からの逃避には二つの意味を込めている。一つは「批判することからの逃避」であり、もう一つは「批判されることからの逃避」である。対話にあって波風を立てないよう、批判することを避けてひたすら共感し同調する。これによって今度は批判されることを回避できる。

以前このテーマについて某所で話したときに、「批判と批評との違い」を尋ねられたことがある。即座に回答しかねる問いだが、ぼくも老獪な一面を持ち合わせているから、「非難と対比すれば、批判と批評は同じ仲間だ。この話に関しては同義と思ってもらっていい」と伝えた。後日辞書をチェックしてみたら、さほど苦し紛れの対応でもないことがわかった。批評がより価値論議に向けられるものの、批判も批評も物事の長所・短所を取り上げるという点では共通している。非難の「欠点や過失を取り上げて責めること」とは根本が違う。

批判でも批評でもいいのだが、とりあえず批判にしておく。この批判がいつの間にか「非難」と同義になってしまったかのようである。ぼくにとっては批判は改善・成長を視野に入れた、問題解決の処方箋である。問題を解決するためには問題を明らかにせねばならない。問題を明らかにするとは原因を探ることである。その原因探しと問題解決に助言をしようとするから批判するのである。どうでもいいことを取り上げて、どうでもいい人間にわざわざ改善や成長のための批判をするはずがないではないか。


批判は非難ではない。ぼくにとっては批判されることも批判することもつねに良薬である。苦くて刺々とげとげしい毒舌であっても毒ではない。ところが、「それって批判ですか?」「そう、批判」「ひどいなあ、いきなり非難するなんて」「非難じゃない、批判。全然違うものだ」「ケチをつけるんだから一緒ですよ」という類のやりとりが、嘆かわしいことに現実味を帯びてきた。

ストレートな話し方をするほうなので、辛辣な毒舌家と受け取られることが多いが、ぼくなどは穏健で温厚な「ゆるキャラ」だ。批判と非難の区別もつかない連中は、批判の中身に耳を傾けず、批判の語り口に神経を尖らせている。彼らにとってきつい表現は非難であって、助言などではないのだろう。

批判は成長の踏み台であり、非難は意見攻撃、ひいては人格否定につながる責めの行為だ。この違いがわからない者に助言しにくくなってしまった。批判から逃避する彼らはどうなるか。結局は差し障りのない関係を保ちながら、甘く低いレベルで折り合ってしまうことになる。切磋琢磨しようと思えば棘の一つや二つは刺さる。だが、そんなものは繰り返し慣れてしまえば、すぐに免疫ができる。批判というのは一種の人間関係ゲームなのである。逃げたらダメ、避けたらダメ。

類型を好む人たち

昨今ほとんど集まりに出ないが、かつてはよく集いを主宰してもいたし、よく招かれもした。義理と形式を絵に描いたような会合に顔を出すこともあった。そんな席でたまたま隣に座った人が「どこどこの誰々と申します」と名乗ることがある。自己紹介してくる人に知らん顔は失礼なので、つられるように名を告げる。但し、明らかに一過性の出会いでぼくは社名や職業名まで紹介しない。

話しかけてきた人がさらなるひと言ふた言続けることが稀にある。「今日出席した理由は何々で……」と言うから、「そうなんですか」と相槌を打つ。それ以外に応対の方法を思いつかない。たった一度きりだが、自己紹介の後に唐突に「ところで、あなたの血液型は何ですか?」と聞いてきた男がいた。会合のテーマは「献血」ではなかったが、赤十字が協賛団体なのかとバナーに目を向けたほどだった。「O型ですが、それが何か?」と言うと、長く深い話にされてしまいそう。かと言って、「初対面のあなたに血液型を明かす筋合いはない!」などと偏屈になることもない。「O型です」とだけ言って、後は黙った。彼もうなずいただけだった。何のために聞いてきたのだろうか。

血液型や何月生まれや星座が話題になることがよくあるが、別に不快にならない。好きな人はどんどん話題にすればよろしい。ぼくは輪に入らない。人間を4種類や12種類に分けてみたところで、何かがわかるわけでもないと思っている。かと言って、分けることに批判的でもない。どうぞご自由に、というわけだ。


広辞苑などでは類型の定義を「一定種類に属するものごとに共通する形式」としているが、そうではないだろう。最初からそんな種類に属しているのではなく、いろんなサンプルから共通特徴を少々強引に抽出して型を作りラベルを貼ったのである。だから、「私は水瓶座なので……」とか「B型のあなたは……」という、はじめに類型ありきのプロファイリングは手順前後である。まあ、星座や血液型ならいいだろう。だが、「私は慌て者。だから……」などと自ら看板を立てる連中は、それに続けて己の欠点を見事に正当化する。一見ダメそうな慌て者に理があるような論法を組み立てる。

「オレは根っからの感性派なので……」の類には辟易する。「感性派なので、理性のことはよくわからん。腹が立てば怒るし、共感すれば涙を流す。理屈を超えたところで人間どうしは心を通わせるのだと思うんだよな」と一、二行のコピーで一本筋を通すように話をまとめ上げる。ぼくは心中つぶやく、「あんた、それって仮説の論法で、結構理屈っぽいと思うけど」。

誰かにどこかで感性派という類型を教わったのか、あるいは「お前は感性派だ」という天啓があったのか知らないが、十人十色の人間に一言で済ませられるようなラベルが先験的に貼られるわけがない。おびただしいサンプルのことごとくに言及できないから、類型という方便を編み出したにすぎないのである。ともあれ、感性派と理性派などという二元論的類型など不器用極まりない。そんな単細胞的に自分をブランディングする必要はない。類型はつねに変わるのだ。

愚者と賢者

十日前に自宅近くの寺の前を通りかかった。ふと貼り出されている今月のことばに目が止まった。「愚者は教えたがり、賢者は学びたがる」と筆書きされている。法句経の「もしも愚者が愚かであると知れば、すなわち賢者である。愚者であって、しかも自ら賢者と思う者こそ、愚者と名付けられる」を思い出した。この種の「命題」を見ると是非を考えてみたくなる。まさか本能の仕業ではない。後天的に獲得した職業的習癖のせいだと思う。

問いにせよ命題にせよ、何事かについて議論しようと思えば、定義に知らん顔はできない。弁論術が生まれた古代ギリシアの時代から議論の出発点に定義が置かれるのは当たり前であったし、定義を巡る解釈は議論を闘わせる随所で争点になるものだ。堂々巡りになったり退屈になったりもするが、定義論争を避けて通ることはできない。定義をおざなりにしてしまうと、行き場のない「ケースバイケース論」や「人それぞれ論」の応酬に終始し、挙句の果ては泥沼でもがいて責任をなすり合うことになる。

話を戻すと、愚者と賢者の定義をおろそかにしたままで「愚者は教えたがり、賢者は学びたがる」の是非に判断を下せない。この命題、冷静に考えると、教えたがるのであるから教える何かを有しているに違いない。愚者ではあるが無知ではないのだろう。また、知は無限であるから、どんな賢者にしても学びに終止符を打つことはできそうもない。賢者だからこそ、おそらく学ぶ(そして、学べば学ぶほど無知を痛感する)。賢者はつねに知的好奇心を旺盛にしている。


命題の「教える」と「学ぶ」は辞書の定義通りでいい。やはり焦点は愚者と賢者の定義に落ち着くしかないのか。いや、ぼくは保留したい。愚者も賢者も辞書通りでいい。むしろ注目すべきは「~したがる」という表現のほうである。これは強い願望を表すが、さらりとした願望ではなく、意固地でわがままで病みつきのニュアンスが強い。では、教える、学ぶ、愚者、賢者などの用語をそのままにしておいて、命題を読み替えてみようではないか。

「愚者は意地になって教えようとし、賢者は意地になって学ぼうとする」

どうだろう。ぼくがひねくれているせいかもしれないが、命題の前段にはうなずけるが、後段には首をかしげてしまう。この命題の書き手は、学ぶことを教えることの優位という前提に立っているのだ。学ぶことと教えることのいずれかが他方の上位であるはずがない。対象が何であれ、やみくもに意地を張らないのが賢者であり、対象が何であれ、いつも意地を張るのが愚者ではないか。賢者は素直で淡々としており、愚者は色めき立つのである。というわけで、もう一度読み替えてみる。

「賢者は学び教え、愚者は学びたがり教えたがる」

これはこれで行間を読まねばならない一文になってしまった。愚者と賢者の本質や相違を語るとき、一文でスマートに表現しようなどと思わないほうがよさそうだ。最近名言集の類がもてはやされているが、格言や箴言は「点」である。「点」は読み損なうことが多いから、時々「線」にも親しむべきなのだろう、愚者だからこそ。こう自覚したぼくは、いったい愚者なのか賢者なのか。

過剰と不足

需要と供給の経済学ではなく、サービスを施す人々の接遇や態度や表情などにまつわる過剰と不足の話。

守破離に見る型の心得とは似て非なる要領がある。「そんな守るためだけのマニュアルなど解体してしまえばいい」と常々考えてきたし発言もしてきた。案の定、「過激だ」とよく批判された。批判されて困ったわけではなかったが、わざわざ下手に世渡りすることもないだろうと考えて、あっさりと言い換えることにした。「くだらないマニュアルなど解体してしまえばいい」と。くだらないマニュアルとしたら、一気に賛同者が増え始めた。要するに、マニュアル必要論者にしても、くだらないマニュアルにはブーイングしているのだ。

くだらないマニュアルが、まっとうな人たちにくだらない所作やことば遣いを強いる。そして、強いられて日々繰り返しているうちに、臨機応変や融通がサービスの原点にあることをすっかり忘れてしまう。マニュアルを遵守しようとすれば、下手に気など利かせてはいけない。応用的な思考を完全に停止させて、ひたすらアルゴリズムに従う必要がある。やがてまっとうな人が音声合成機能付きの自販機みたいになってしまう。


今日の午後、博多方面ののぞみの切符を新大阪駅で変更したら、車両の最前列、ドアのすぐ前の席になってしまった。昼寝するつもりもなく、別にその場所に不満はなかった。乗客の出入りは頻繁であるが、読書の妨げにはならない。新神戸駅の手前、ドアが開いてワゴンサービスの女性の声が耳をつんざいた。職業柄、彼女たちの声はメタリックで車両の後方までよく響く。すぐそばで突然発声されるとびっくりする。顔もメークアップしているが、笑顔も声もメークアップしている。そして丸暗記された定番のセリフ。

心理学を学んだことは一度もないが、他人の言動をつぶさに観察すれば、したくてしているのか、やむなくしているのかの違いくらいはわかる。疲れていて笑顔を浮かべるのもつらい時があるだろう。それでも、サービスのプロフェッショナルたるもの、マニュアルがあろうとなかろうと、仕事への情熱をごく自然に言動に現してしかるべきである。

ぼくもそうだが、客の立場になると人はわがままに振る舞う。かまってくれないと文句を言い、かまわれすぎると放っておいてくれと言う。しかし、難しいことを突きつけているのではない。「良い加減」でいいのである。ワゴンサービスも車掌もドアから出入りする時に一礼などいらない。このバカ丁寧な所作、作り笑い、ノイズに近い呼び声は過剰である。くだらないマニュアルが垂範する数々の不自然な造作を見るにつけ、プロフェッショナル精神の不足に気づく今日この頃だ。