〈インコンビニエンス〉を生きる

昨日使った「愚者と知者」の対義語関係もしくは二項対立に違和感が残ったかもしれない。ふつう愚者とくれば「賢者」である。ところが、この賢者、人生の摂理や宇宙の哲理を悟りきった隠遁的存在を漂わせてしまう。愚かな者という表現を素朴で軽い気持で使っているから、賢者よりもうんと身近な知者にした次第だ。バカに対して「賢くて知恵のある人」という意味合いである。

本題に入る。愚者と知者を分かつ一線、それは知識・学問でもなければ度量でもない。知識豊富かつ学問に秀でている愚者がありうる。また、度量という懐の深さや大らかさが知者を確約するわけでもない。人は、便利から過剰に受益し安住することによって愚者となり、不便と戦いながら何とか工夫をしようとして知者となるのである。したがって、一人ひとりが、時と場合によって、バカになったり賢くなったりする。

〈コンビニエンス〉を指向すればするほど、ぼくたちは愚かさを増す。この反対に、不便・不都合・不自由の〈インコンビニエンス〉を受容して改善したりマネジメントすることによってぼくたちは知恵を発揮する。コンビニエンスに胡坐をかくよりも、インコンビニエンスと共生するほうが賢くなるということわりである。だが、注意せねばならないのは、インコンビニエンスをコンビニエンスへと変えようとする知は、コンビニエンスの恩恵に浴しようとする魂胆に支えられている。すなわち、知者は愚者へと向かうべく運命づけられているのだ。便利から不便へとシフトする人間がめったにいないのは、愚者から知者への変容がたやすくないことを示している。


ホモ・サピエンスの考古学的歴史を辿れば、不便や欠如が知恵を育んだことは明らかである。困惑が工夫を生む。粗っぽい事例で恐縮だが、獣に襲われたり食糧が腐敗する不都合が「火」を生み、草食動物を巧みに狩猟できないから「犬」を訓練して猟犬とし、農作によって貯えた小麦や米がネズミに食われるので「猫」を飼い始めた。もちろん、諸説いろいろあるが、あることがうまくいけば別のまずいことが発生し、そのつどアタマをうんと使ったに違いない。環境の変化がつらい、だから適応しようとして進化する。つまり、インコンビニエンスが人類を知者へと導いた。

同時に、知恵を絞り苦労して手に入れたコンビニエンスも増大してくる。もちろんさらなるコンビニエンスのために知力が増進することもあるが、不便な環境に汲々として捻り出す知力には及ばないだろう。言うまでもなく、不便だから便利にしようというのは後付けの話である。決して初めに不便ありきではない。たとえば、電話のない時代、不便はなかった。電話に関して不便を感じたのは、町内のどこかの家が電話を設置して隣近所の取り次ぎをしてくれるようになったからだ。取り次ぎするのも面倒、取り次がれる方も気を遣う。というわけで、日本電信電話公社にこぞって加入するようになり、時代が便利になった。

公衆電話や自宅の電話は十分に通信を便利にしてくれた。携帯電話がない時代、不便はなかった。しかし、どこかの誰かが携帯を発明してコンビニエンスをもたらした。するとどうだろう、電池が切れた、携帯を自宅に置いてきたなど、携帯が使えない状況になったとたんに不便が発生してしまう。携帯に慣れ親しんだ人間は立ち往生し、愚者であることを露呈する。携帯のなかった時代、ぼくたちは緻密なことばを交わして時間と場所の約束を取り決めた。携帯を手にした今、「10時に京都駅。着いたら携帯に電話ちょうだい」でおしまい。言語の知だけを見ても衰えているのは明らかだ。

賢くなりたければ、コンビニエンスに依存しないことである。時々意識的にインコンビニエンスを生きてみる。すぐに答えを見ないで、難問を解こうと試みて知を使う。絵文字でメールを送らずに、じかに会って思いを伝えてみる。コンビニエンスへとひた走る現代、愚は知よりも強し。ゆえに、ゆめゆめ油断することなく、知を以て愚を制しなければならない。インコンビニエンスを生きることが、一つの有力な方法である。 

知者と愚者―どちらが生き残る?

今年最初の会読会を来週金曜日に主宰する。年末から昨日までいろんなジャンルにわたって10数冊ほど「軽読」していて、何を書評すべきか迷っている。ちなみに軽読とは、文字通り軽くざっと読むこと(その後、これぞという本をしっかりと再読する)。今年も雑多に読むつもりではあるが、大きなテーマとして「人、人間、人類」を見据えていて、そこから派生する「力、技、術、法」なども絡めていきたいと思っている。

昨年最後の会読会では「宇宙と地球」の本を取り上げた。このテーマを継承するなら、「人類700万年の歴史」を拾える。もちろん「ことばと芸術」も範疇に入る。「日本人がどこから来たか」も興味をそそる主題だし、うんと時代を駆け下りてきて幕末、あるいは流行の「龍馬」を語るのもよい。タイトルに惹かれて古本屋で買った『かたり』(坂部恵)は、「う~ん、難解」と反応されるかもしれないが、知を刺激するだろうし新しい発見も多いはずだ。

この他に、イタリア人ジャーナリストの手になる「バカ」をテーマにした一冊の文庫本がある。書き出しが動物行動学者のコンラート・ローレンツとの出会い。本章に入ると、オーストリアの「ある学者」との往復書簡的論争が繰り広げられ、人類の進化を「知性 vs バカ」の対立で描き出してみる。イタリア語の原題は『愚者礼讃』。どうやらエラスムスの『痴愚神礼讃』の書名をもじっているようだ。アイロニーであり、逆説的に読まねばならないのは言うまでもないが、真に受けたくなる説も多々ある。この本を取り上げるかどうかはまだ決めていないが、愚者と知恵に関して再考する機会を得ることはできた。


愚か者やバカということばの何と強いこと。知恵者などひとたまりもない。ところで、先祖であるホモ・サピエンスの出現以来とても賢くなってきたように思える一方で、ぼくたちはサピエンス(知恵・賢さ)とはほど遠い愚かな行動を繰り返したりする。家庭と暮らし、組織と仕事、社会と文明などによく目を凝らしてみれば、知の進化と同時に、知の退化や劣化という現象をも認めざるをえない。大木がある高さ以上に成長しないように、知性にも成長の限界があって、もしかすると進化が止まって劣化へと向かっているのかもしれない。

ITどころか、紙と筆記具と本を手に入れるのさえ困難な時代に、先人たちはさまざまな命題に挑んだ。彼らの知の足跡を辿ってみると、ここ数百年、いや二千数百年にわたって思考力が飛躍的に高まってきたと証明する勇気が湧いてこない。たしかに現代に近い人々ほど知識は豊富だし、おびただしい難題を解決してきただろう。しかし、解決策には新たな弊害も含まれ、問題は山積するばかりである。

周囲だけでなく、広く社会を見渡してみると、知者もいれば愚者もいる。知者が先導してすぐれたチームを形成していることもあれば、他方、こんな愚か者が大勢の知者を率いていていいのだろうかと泣きたくなる組織も存在している。時代はやや愚者有利に差し掛かったとぼくは見ている。集団化は便利と効率を追求する一方で高度な知を必要としないから、人材はみんなならされてしまう。当然没個性が当たり前になるので、みんな普通になってしまう。集団的普通は、いくら頑張っても歴史上の一人の天才には適わないだろう。知者の敵は集団なのだ。知を生かしたければ、少数精鋭しかない。いや、そもそも精鋭は小集団でしか成り立たないのである。

《続く》

「食域」というアイデンティティ

仕事にもスポーツにもそれぞれに「それらしい本分」が備わっていてほしいと願う。同様に、民族や風土が育んできた食性がやみくもに損なわれるのを目撃するのは忍びない。自然の摂理でそうなるのならまだしも、珍しいレシピや度を過ぎた折衷を求めるあまり、己の食性を乱すことはないだろう。

食性ということばは生存のための本能的行動に密着しているようだ。そこで、生命とは無縁の欲望のほうに少し近づいて「食域」という造語を用いることにしたい。ざくっと食やレシピのレパートリーと想像してもらえればいい。言うまでもなく、食は饗する側と饗される側の協働によって成り立っている。料理するだけで食の儀は終わらず、料理なくして饗宴が始まることはない。長い食文化の歴史を通じて、人類は実にさまざまな食材を組み合わせて料理を完成させ口にしてきた。いつの時代も食域は前時代よりも広がる。この国の食域の広さは間違いなく世界一を誇っている。

「この料理なら許せるが、あれはダメ」というのが人それぞれの食域になる。各地で鰻を食べてきた鰻の薀蓄家である知人でさえ、うな重に振りかけるのは山椒のはずで、決して黒胡椒をかけることはありえない。タレがデミグラスソースのうな丼を食したこともないはずだ。つまり、世間の共通認識として、黒胡椒やデミグラスソースを使ったら、それはもはやうな重やうな丼ではないという「食域のアイデンティティ」があるということである。


その知人にはもう一つの顔があって、ソフトクリーム大好きおじさんなのである。どこに行っても、抜け目なくソフトクリームを見つけては楽しむらしい。彼のブログではこれまでに醍醐桜、伊予柑、山ぶどう、バラ、メロン、白桃、ほうじ茶、柿、マスカット、いちじくなどのソフトクリームが紹介されてきた。驚くばかりである。ぼくなどは本場イタリアで食べるジェラートもバニラか特濃ミルクのいずれかだ。どんなにメニューが揃っていても、ぼくの食域にはバニラかミルク以外のものは入ってこない。こう言い切るのは、好奇心旺盛にしていろんな種類を食べてきたからこそである。その結果、ソフトクリームにおけるいかなる新種もバニラやミルクを越えないことを知った。

知人の最近のブログには次のように書かれている。「メニューを見ると『昔ながらのソフトクリーム』とある。ソフトクリーム好きの私としては即追加注文。しっかりした柔かさで、味も濃厚。去年はいろいろ変わりソフトを食べてきたが、やっぱりソフトクリームの原点はこの味」。ほら、やっぱり。ソフトクリームもジェラートも原点はバニラ味かミルク味なのだ。

フィレステーキや伊勢海老を丸ごと一匹乗せたお好み焼きはお好み焼きではない。別々に食べるほうが旨いのに決まっているからであり、どんなにひいき目に見ても折衷効果に乏しい。フォアグラやトリュフの寿司も、寿司のアイデンティティに反して食域を欲張ってしまっている。ぼくの中ではタラコスパゲッティはぎりぎりオーケーだ。見た目はともかく、味としてはアンチョビに似通っているからである。但し、箸でスパゲティを食べるのは食域侵犯であり、パスタのアイデンティティが崩れてしまっている。

かつてフレンチもイタリアンも箸でいいではないかと思った時期もある。ところが、小鍋にキノコといっしょに煮込んだ牛のほほ肉をパリで食べ、濃厚なミートソースでからめた手打ちの平麺をボローニャで食べたとき、フォークやスプーンなどの西洋食器が旬の料理と不可分の関係にあることを思い知った。以来、箸を置いてある物分かりのいいフレンチやイタリアンの店を敬遠する。そのような店の料理は洋風仕立ての和風創作料理――または和風仕立ての洋風創作料理――と呼ぶべきである。いや、たいてい創作料理ではなく「盗作料理」になっている。レシピの多様化や新作への挑戦は大いに結構だが、堂々としたアイデンティティの強い原点料理を忘れないでほしいものだ。 

アイデンティティという本分領域

インターネットとメールの時間は最大で一日2時間と決めている。これは最大値なので、そんな日は月にほんのわずか。ブログを書くのに半時間以内、お気に入りに10件ほど入っている著名人・塾生・知人のブログに目を通したり気になる情報をチェックするのも半時間以内。PCにはずっと電源は入っていることが多いが、インターネットとメールで1時間を超えることはまずない。なにゆえにこのような自制について書いたかというと、仕事の本分が、ともすればPC的な作業に侵犯されているのではないかと危惧するからである。

ぼくは代表取締役という立場にあるが、企業経営者であることを本分だと考えたことはない。創業以来、ぼくの本分は「企画者」であり続けている(青二才的に言えば、「世のため人のための企画者」)。最近では「アイディエーター(アイデア創成人)」と自称して、知・技・生・業・術などに関する新旧さまざまなテーマについて新しい切り口を見つけ出し、発想し編集し著し提示し語ることを仕事にしている。マーケッターとかコンサルタントとかレクチャラーなどとも呼ばれるが、これらの肩書きはアイディエーターの下位概念にすぎない。つまり、ぼくの仕事におけるアイデンティティ(自分らしさ、自己が自己である証明)は「アイディエーション(アイデア創成)」にあると自覚している。

そのように強く自覚していても、PCによる作業はそれ自体があたかも本分であるかのような顔を見せる。IT技術者でないぼくにとって、キーボードを叩き、キーワードを検索し、メールのやりとりをするのは仕事の本分にとって手段にすぎない。その手段に一日の半分を食われるようであってはならない。すべての仕事が前段で掲げたアイデンティティに接合している自信はない。しかし、自分らしさから大きくかけ離れた仕事とアイデンティティ確立の仕事の間に、ストイックな「節度線」なるものを引いておくべきだと少々肩肘を張っている。


アイデンティティには「自己同一性」などの訳もあるが、人間ばかりに使うことばではない。たとえば、野球とソフトボールは瓜二つだが、厳密にはそれぞれに「らしさ」があって微妙にDNAが違う。延長になるとソフトボールではノーアウト2塁の状況を設定する。いわゆる「タイブレーク」だが、この方式を北京五輪で野球に用いたのは記憶に新しい。あのような制度を野球で使うのは、小さなルール改正の一つであって野球の本分を汚すものではないと言い切れるのだろうか。

妥協なき質実剛健と思われるかもしれないが、ぼくは野球の本分に「引き分けなし」と「決着がつくまで戦い続ける」があると考えている。日本のプロ野球の引き分け制度は、野球のおもしろさを半減させ本分を歪めているのではないか。延長12回で決着がつかなければ引き分けとするのが現状だ。すると、同点で12回裏開始時点においては「先攻に勝ちがなく後攻に負けがない」が確定する。この引き分けルールもタイブレークも苦肉の策ではあるが、野球というスポーツの遺伝子組み換えになってしまってはいないか。

野球の話をがらりと変える。大学時代、ぼくは英語研究部に所属し二回生の終わりから一年間部長を務めた。部長在任中に数人の部員が「交流機会が少ない」のを理由に辞めたいと言ってきた。副部長は留まるように説得しようとしたが、ぼくは去る者追わずの姿勢を貫いた。「この部の本分は英語研究であって、交流ではない。交流の意義を否定しないが、交流優先で研究お粗末では話にならない。厳しいようだが、君たちの英語力で何が交流か。交流だけを望むなら、根無し草のような他部へ行けばよい」と突っぱねた。それから30数年経つが、今も私塾の運営に関してはこの考え方を崩してはいない。しっかりと学ばない集団に交流などありえないのである。

食のアイデンティティの話を書くのが本意だったが、前置きそのものが一つのテーマになってしまった。ブログを書く制限時間の30分が過ぎようとしているので、食の話は明日以降に綴ることにする。   

やめられないこと、続かないこと

一ヵ月ほど前の日経のコラム記事に、劇作家の別役実が随筆に書いた話が紹介されていた。それによると、別役は毎日186回タバコをやめようと考えるらしい。どんな計算でこの微妙な数字になるのか。一日360本吸うのだそうである。ポケットから箱を出し一本取り出すときに「やめよう」と思い、くわえるときにも「やめよう」と思い、火をつけるときにもう一度「やめよう」と思う。一本につき3回やめようと思うのだ。それが60本だから180回。あとは、店でタバコ代を払うときと品物を受け取るときの2回で、これが3箱なので計6回。

一年で67,890回もやめようと考えるのだからすごい。さらに、それだけ考えるにもかかわらずやめないのがもっとすごい。タバコや酒などの嗜好品の常習性は周知の通りだが、やめようとしてやめられない習慣は誰にもある。やめようとかやめたいと思いながら続けてしまう執着力と言うかエネルギーが、続けたいと思いながら続かない対象にはなぜ働かないのだろう。やるぞと決めたストレッチ体操が続かないのに、かっぱえびせんはなぜ「やめられない、止まらない」のだろうか。不思議である。

「あきらめましたよ どうあきらめた あきらめきれぬとあきらめた」という都都逸がある。未練心をユーモラスに紡いでいるではないか。タバコか酒か博打か忘れたが、「やめました ○○○やめるの やめました」というパロディも何かで読んだことがある。ぼくたちは欲望に満ちていて、新たにチャレンジしたいことがあれこれとありそうなのだが、そっち方面は続きにくく、また最初の第一歩が重くて踏み出せない。他方、悪しき習慣と自認していることがなかなかやめられない。「や~めた、真面目に働くの、や~めた」というのはありそうだが……。


このブログで時々取り上げる読書やノート、さらには語学や音読訓練などの習慣形成について、よくコツを聞かれる。習慣形成全般について語る資格はぼくにはない。続けていることよりも挫折経験のほうが多いからだ。夏場になると毎年ヨガを取り入れた経絡体操を3ヵ月くらい朝夕やってみるのだが、秋が深まると億劫になって挫折する。こんなサイクルが数年続いている。その他いろいろ、うまくいかない。

世間では軽々と「継続は力なり」と言うが、毎日5分、一日1ページを甘く見てはいけない。そんなに易々と達成できるなら、この格言の発案者は「継続は力なり」などとは言わず、「継続は誰でもできる」と語ったか何も言わなかっただろう。継続にはある日の一頓挫がつきものである。その一日を例外として処理できれば、継続心を「断続的(切れたり続いたりの)状態」に止めることができる。問題は、その一つの例外が二つ、三つとなって常態化してしまうことだ。つまり、「たまたまできなかったという反省」から「やっぱりできそうもないという信念」への変化が起こるのがまずい。

だから、三日坊主は最初から「継続は力なり」などと力まないほうがいい。いきなり晴天を望むのではなく、「晴れ時々曇り」あたりからスタートすればよろしい。「切れたり続けたりは、何もしないよりもまし」という心得である。以上がぼくなりのコツの薀蓄である。いや、実はコツなどではない。マズローの欲求階層的に言えば、最上位である「自己実現の欲求」などを持たないのが賢明だ。むしろ、最下位の「生理的欲求」にしてしまうほうがいい。そう、トイレに行くように続けるのである。 

アイデアの鉱脈はどこにある?

塾生の一人が『アイデアは尽きないのか?』というタイトルでブログを書いていて、しかも記事の最後に「結論。アイデアは尽きない」と締めくくっている(ブログの更新が滞り気味なので、もしかするとアイデアが尽きているのかもしれないが……)。とにかく、師匠筋としてはこれを読んで知らん顔しているわけにはいかない。もちろんイチャモンをつけるために沈黙を破るのではない。その逆で、この種のテーマが常日頃考えていることを整理するいいきっかけになってくれるのだ。なにしろ、ぼくのブログには〈アイディエーターの発想〉というカテゴリがある。当然これから書くこの記事はそこに収まる。

アイデアは尽きないのか? 「アイデアは尽きない」という意見に同意したいものの、正しく言えば、この問いへの答えは不可能なのだろう。アイデアは誰かが何かについて生み出すものである。そのかぎりにおいてアイデアが尽きるか尽きないかは、人とテーマ次第ゆえ結論は定まらない。当たり前だが、アイデアマンはどんどんアイデアを出す。しかし、その人ですら不案内のテーマを与えられたらすぐに降参するかもしれない。

たとえば「世界」についてアイデアを出す。これなら無尽蔵に出せそうな気がする。世界という要素以外にいかなる制約も制限もないからである。時間が許されるかぎりアイデアが出続ける予感がする。但し、ここで言うアイデアには単なる「観念」も多く含まれ、必ずしも「おもしろい」とか「価値ある」という条件を満たすものばかりではない。


世界というテーマはあまりにも大きすぎるので、身近な例を取り上げよう。たとえば「開く」。「開く」からひらめくアイデアは、「開閉する」についてのアイデアよりも出やすいだろう。「ドア」という具体的なテーマになると、「開閉する」にまつわるアイデアよりも少なくなってくるだろう。「ドアのデザイン」まで絞り込むと、アイデアはさらに少なくなることが予想される。「アイデアは尽きないか否か」という命題は質にはこだわっていないようだから、量だけに絞って論じるならば、テーマが具体的であればあるほど、また要素が複合化すればするほど、アイデアは出にくくなると言えそうだ。

10-□=3の□を求めなさい」というテーマで、□に入る答えをアイデアの一種と見なすなら、「7」が唯一のアイデアとなり、これ一つで「尽きてしまう」。極端な例でありアイデアという言い方にも語弊があるが、テーマが小さく具体的になり制約する要素が増えれば増えるほど、アイデアは尽き果てることを意味している。つまり、下流に行けば行くほど、求められるのは「11」のアイデアのように、量でも質でもなく、「正しさ」のみになってしまうのだ。最近の企画術や発想法はかぎりなくこの方向に流れている。つまり、おもしろくない。

テーマを提示する側が、自分が評価しうるレベルに命題表現を設定してしまう。アイデアを出そうと張り切っても、大胆なアイディエーションへの冒険をさせないのである。「何かいいアイデアはないか?」と聞くくせに、尋ねた本人がすでに「正解の方向性」を定めているのである。こういう状況では「アイデアは尽きる」。「アイデアが尽きない」という結論を証明するためには、テーマの上流に遡らねばならない。そこで、時間のみ制限枠にして、ただアイデアの量だけを目指して知恵を蕩尽とうじんしてみるのだ。いいアイデアは、このようにして出し尽くされたおびただしいアイデア群から生まれるものだろう。

根源的なヒューマンスキルとは?

気に入っている笑話がある。Cレベルの差別用語が含まれており、「十分に注意」して使う必要があるものの、出版されている本からそのまま引用するので寛容のほどお願いしたい。題して「シェアNo.1を目指して」というジョークだ。

ある乞食の前に神が降り立ち、一つだけ願いを叶えてやろうと言った。乞食は懇願した。「お願いです。最近物乞いの競争が激しくなっています。どうか私をこの町でたった一人の乞食にしてください。」

抱腹絶倒の笑いではないが、人間臭い可笑おかしみが漂う。気がつけば、謙虚さとプロフェッショナル意識に感心してしまっている。生涯たった一度の願い事を叶えるチャンスなのに、「私を億万長者にしてください」と嘆願せずに、「オンリーワンにしてくれ」と頼む。当該市場でのオンリーワンはそのまま占有率ナンバーワンになる(但し、ナンバーワンはオンリーワンとはかぎらない)。競合相手がいなくなって市場独占が実現する。しかし、競合相手の取り分が自分に回ってくる保証はない。もしかすると、それぞれにお得意さんがいたかもしれないからだ。「あいつには恵んだけれど、お前にはやらん」というケースもありうる。したがって、市場でのオンリーワンが確定してもなお、彼はこれからも営業努力を続けることになるだろう。

もちろん大統領やマンションオーナーや宝くじ一等当選を願ってもよかった。しかし、彼は「業界トップ」になることを望んだ。名実ともに現業を究めたいという彼の思いを尊いものと感じるのは異様なのだろうか。どこか彼に共感するのはぼくだけなのか。自分は億万長者などになりたいのではなく、またそうなるために現在の職業を選んだのではない。一番になれるか固有の存在になれるかどうかはわからないが、プロフェッショナルを究めたい――そう考えている職業人は少なくないはずだ。


最高善を幸福としたアリストテレスにしたがえば、「私を幸せな人間にしてください」とお願いすればすべてが叶う(厚かましく「世界一幸せな」などと言うことなかれ)。アリストテレスによると、財産であろうが友人であろうが愛であろうが、何を求めようとも、究極は「幸福のため」なのだそうだ。幸福に対して、「何のための幸福?」とは問えない。いくら幸福以上の価値を探しても、「幸福は幸福のため」という無限連鎖が続くのだ。人は幸福になるために仕事に従事し生活を営んでいる。アマノジャクなぼくは大っぴらに幸福を掲げるのを好まないので、愉快や上機嫌に言い換えている。

ある日、幸運なあなたの前に神が降り立つとしよう。そして「何でも叶えてやる」ではなく、「一つだけお前が望むヒューマンスキルを授けてやろう」と告げるとしよう。あなたはどんなヒューマンスキルを乞うだろうか(物乞いではなく「技乞い」や「能乞い」や「力乞い」)。これまで挑戦し学び続けてきたが、未だ道遠しにあるスキルをお願いする? それとも、ありとあらゆる能力を発揮できる手綱のようなスキルを望むのか? あるいは、もっとも得意とするスキルにさらに磨きをかけるべく、敢えて自信のあるスキルを授けてもらうのか?

もう一度確認しておこう。神が降り立って絶対に叶えてくれるスキルなのである。後にも先にも一度きりの願掛けのチャンスなのである。ぼく自身の願掛けは今日のところは伏せておくが、お節介を承知の上で、ぼくよりも一回り以上若い人々には助言しておきたい。「想像力」または「言語力」のいずれかを乞うのがいい。想像力は経験と合体して他のスキルを起動させる核となり、言語力は他者や世界との関係を深め知を広げてくれるエンジンになる。いずれも人間資質の根源であり、幸福が最高善であるのと同様に、「なぜ想像力と言語力なのか」とは問いようのない、人間固有の最高次なヒューマンスキルだとぼくは考えている。

再々、ノートのことについて

土曜日。朝から一路高松へ。大阪での私塾の翌日に当地でも私塾開催というスケジュールが9月から続いている。大阪と高松の講座はまったく別内容で、前者が全6講、後者が全5講。「すべて違う内容で丸一日というのは大変ですね」と同情してくれる人もちらほらいるが、同じ話を二日連続せねばならない苦痛に比べれば大したことはない。いや、それどころか知的好奇心を煽りながら新しいテーマを語れるのは幸せというものだ。今年は京都でも新作講座を6講終えているので、かなりの数のテーマを「語り下ろした」ことになる。

ノートがはかどらない、と言うよりも、何をどう書けばいいかわからないと、ややおとなしい塾生のMさんが尋ねてきた。「何でもいいんです。とにかく気づいたこと、見たこと、学んだことを一行でもいいから書く。気分がよければそのまま二行目を書けばいいし、そこでぷつんと切れたらそれはそれでよし。たとえば……」と、ぼくが新大阪から高松までの2時間弱の間に書いた数ページのノートを見せながら少々助言した。

帰路は大阪まで高速バスにした。所要3時間。いろいろ考えたり本を読んだり。しかし、最後部のせいかどうか、少し風邪気味・腰痛気味のせいか、頭痛がしてくる。眠るのもままならない。ぼうっと窓外を見ていると、Mさんの「書けない悩み」のことを思い出す。「いや、ぼくだって書けないよなあ。こんな調子のときは絶対無理。いろいろと刺激もあり、こうして考えたりもしているのだけれども、そうは簡単にメモは取れないものだろうな」と初心者心理に感情移入していた。


今朝も体調がすぐれているわけではないが、一晩明けたら気分だけは引きずらないようにしている。そして、昨日のことを思い出したりしていた。振り返ってみたら、一日のうちにはいろんなことが起こったりさまざまなシーンを感知していることがわかる。岡山で800円の弁当を買ってマリンライナー車中で食べようとしたら、中身がついさっき購入時に見たサンプルと違っている。少し豪華なのである。表示を見れば1000円。レシートを確かめたら800円。店のおばさん、どうやら取り間違えたらしい。

文化人類学の山口昌男の『学問の春』を車中で少し読み始めたら、テーマがホイジンガの『ホモ・ルーデンス』。日本語で「遊ぶ人」。この本はカイヨワの『遊びと人間』よりうんと難解で、二十代初めに読んだのだがあまり覚えていない。山口昌男が興味をそそるように取り上げているので、再読候補にしようと本棚を見るも、ない。誰もいない日曜日の今日の昼下がり、オフィスに行ってみたら見つかった。持って帰る。以上、たわいもないことだが、こんなふうにノートに書けばいいのである。日記のようになることもあるだろうが、ノートにはそんな制約はない。基本的には周辺観察と発想。

考えること、問い答えること

大阪での私塾第5講で「構想」をじっくり6時間。うち半時間弱の演習を4題。企画や構想についてのここ数年間の考えのうち、ぼくがある程度確信を抱きつつある内容を「一番搾り」感覚で語った。構想する主体としての覚醒体験がうまくできただろうか。

メディアが進化し多様化した。ここ30年の加速ぶりには驚愕する。情報インフラも激変した。ぼくたちのITがらみの情報リテラシーも大いにスキルアップした。たしかに原稿のマス目を埋めるよりも、今こうしてキーボードを叩いて文章を作成するほうがうんと楽な気はする。だが、そのことを認めたうえで、楽だとか効率がいいなどとは別次元のところにある「手の抜けない能力」はどうなのか。「生身の人間」としてのリテラシー能力のことなのだが、むしろ著しくひ弱になったのではないか。

何が便利に簡単になろうと、考えること、ことばを使うこと、他者と関わることをITで代用はできない。とりわけ「考えること」の手抜きはありえないし、あってはならない。最近こんな危機感がつのってきている。生き急ぐという表現にならえば、「考え急ぎ」している。答を出すこと見つけることに手間暇をかけず、慌てているように見えてしかたがない。


自分で考えた結果、辿り着いたアイデアや結論がすでに誰かが導き出している可能性はきわめて大きい。ぼくたち個人の人生に比べれば歴史はうんと長いのだから、誰ともかぶらないオリジナリティを容易に生み出せるはずもない。いや、それで何がまずいのか。自分は人マネをせずに自分で考えたという自負を持てばいいのではないか。調べたり誰かに教わったりする前に考える――これを〈構想主体〉とぼくは呼ぶ。

今日の講座では、話を複雑にしないために構想だけに絞り、「問うこと」までは欲張らなかった。実は、あるテーマを構想するとき、ぼくたちは経験や知識と脳内対話をするのだが、その対話には「問い」が含まれるのである。問いが「答え」を導く。答えと言っても、正解や不正解で評価されるものではない。志向する方向のような意味合いである。禅に「答えと問いは一体である。答えは問うところにある」という示唆がある。問わなければ何も見えてこない、とぼくは解釈している。

そう言えば、ヴィトゲンシュタインにも禅語録の一節のようなことばがあった。

言い表わすことのできない答えには問いを言い表わすこともできない。謎は存在しない。およそ問いが立てられるのであれば、この問いには答えることができる。

「答えることができる」ということを正答であると短絡的に考えてはいけない。妥当とか有効だとか、その答えが何かを解決できることでもない。「問いが見つかれば答えられる」ということだ。当たり前のようにさらりと言ってのけているが、すごい着眼だ。

考えること、そして問い、その問いに答えること。誰でもできそうだけれど、自分にしかできないこと。自分の経験と知識の中から見つけ出そうと努めること。これは尊いことだし、何よりも愉快だし幸福感に浸れる時間なのである。

アナログ記録が記憶にいい

7月に鳥取へ講演に行った。テーマは「マーケティング」と「プロフェッショナル」の二本立て。レトロな昭和三十年代の場末の映画館みたいだが、ぼく生来のサービスマインドのつもりである。「せっかくの機会だから」という思いだった。ついでに発想やエピソードや読書の印象などを書き込むノート習慣についても披露した。私塾の塾生にもずっと推奨してきているが、継続実行できる人はおそらく一割にも満たない。

その一割に入った、あるいは今後脱落しないだろうと思われる旧知のTさんから昨日メールをもらった。本ブログでもいつぞや取り上げた「鰻の薀蓄家」である。メールの内容は次の通り(原文のまま)。

718日(土)に147円で購入し、「特になし」のページも3枚ぐらいありますが、めでたく1冊目完了。先週末に2冊目を購入済ですから、今から2冊目です。
今日の天気は大荒れですが、結構さわやかな気持ちになっています。
ノートをつけるようになって特に感じたことは、「本を読んでもほとんど頭に残っていない」です。マーカーで線を引いても、ほとんど記憶に残っていませんでした。
岡野先生がおっしゃるように、二度読んで、ノートにつけると内容の理解や受け取り方が全く違ってきます。と、思うようになると、ノートにつけることが楽しくなってきました。まだ、4ヵ月の1冊目ですので、今後の気づきが楽しみです。


ぼくより三つばかり年下(つまり五十代半ば)なのだが、とても偉いと思う。ノートの習慣というのは、ぼくのように二十代から始めていないとなかなか続くものではない。「衰脳」にムチ打って五十を過ぎてから一念発起するのは大変なのだ。しかも、動機づけが「ついでの話」。ぼく自身しっかりと効能や手法を開示したわけではなかった。

ご本人が爽やかさを感じたように、ノート仲間が増えたことにぼくも久々に爽やかな気分である。ノリがよくて純朴なTさんゆえに4ヵ月続いたのだろう。おそらく生涯続くような予感がある。Tさんもメールに書いているが、手頃な文庫本サイズのメモ帳がいい。別に147円にこだわることはなく、無印良品ならアクリルの表紙がついた結構いいものを250円くらいでも売っている。ずっと同じメモ帳を使えばいいが、ぼくには飽き性な面もあるので、サイズは変えずとも体裁の違うメモ帳をつねに物色している。メリットがあって、表紙が変われば直近の6ヵ月のメモ帳(たとえば34冊)の新旧がわかりやすい。また、紙質も微妙に変わるから、万年筆にしたり水性ボールペンにしたりと変化も生まれる。

しかし、そんなことは瑣末なことである。何よりもメモ帳には、四囲の情報環境へのまなざしを強化してくれる効能がある。それが発想の源になる。見えていなかった変化に気づき、変わらざる普遍にも気づく。エピソードを発見して自分なりに薀蓄を傾けるうちに、アイデアの一つや二つが生まれてくる。大袈裟に言えば、〈いま・ここ〉にしかない知との真剣な出会いに幸せになるのである。一日の時間が濃密になる。何をしても自分の存在と他者・世界との関わりを強く意識するようになる。だらしないぼくが、辛くも自分の好きな仕事に恵まれているのは三十年間のノート習慣の賜物だ。

Tさん、そして、これまでぼくのノート論を聞いてくれた皆さん、一緒に続けて行こう。途中半ばで意志が折れたりサボっている人、リセットして早速今日から再出発しようではないか。