自問自答という方法

十代でディベートを体験してから、「問いと答え」は最大関心事の一つになっている。8月の私塾でこのテーマを取り上げるので、ここしばらく意識がそこに向かざるをえない。この暑いさなか、決してすがすがしい主題ではないが、仕事である。仕事を前にして不機嫌な顔をしてはいけない。

一般的に問いはクエスチョンマークを伴うが、広く考えれば、前提や条件や原因などにも問いの機能がぶら下がっている。ところで、ぼくは問いが求める答えを自分なりに二つに大別している。じっくりと構想できる、猶予のある答え(a)と、挑発されて即興性を求められる答え(b)である。(a)はスタミナとロングショット。(b)は瞬発力とクローズアップ。他者から問われて答えるときは(b)が、自問自答の場合は(a)が重要になる。

不審に思われて「名前と職業は?」と聞かれ、「ええっと……」と遅疑逡巡していてはますます怪しまれる。考える余地のない、たった一つの答えしかなければ、さっさと言ってしまえばよい。ディベートが難儀なのは、答えが見当たりもせず思い浮かびもせずという状況で、相手のきつい尋問に応じなければならない点である。「そんなことは神に聞いてくれ!」と苛立つのを我慢して、笑みを浮かべて「そうですね、実は」と即時即答しなければならない。しかも、具体的に。「うやむや世界」に逃げ込むのは、政治家を見ていてお分かりの通り、潔くないし、カッコ悪い。


どういうわけか、学校教育は「問答」や「尋問」にあまり関心を寄せない。それどころか、「つまらん質問をするな!」という教師がいたりもする。学生はいつも問われる側にいる。そして、条件反射のように「問われれば答えようとする」(答えないとテストで点数が取れないから)。では、彼らは問われなくても「答えることができるか?」 おそらくノーである。なぜなら、答える前に問わなければならないからだ。この問いは自分への問いにほかならない。実社会では質問すらしてくれないことがある。自問自答できない人間には生きづらい環境だ。

「下線部の意味に近いものを次の中から選べ」というテスト問題がある。また、「次の文章を読んで、考えを四百字以内で書け」という問題もある。これらの設問はタイプが違うとされていて、後者を論文問題と呼んだりする。しかし、ぼくから見れば、これらの問いは同じである。「誰かに問われてから答える」という意味で同じである。もし問いがなければ、あることばに近い意味の用語を考えようとしないだろうし、文章について感想を書こうとしないだろう。外部からの刺激を待つ「反応型人間」はこうして生まれる。

問いを待ってはいけないのである。他者からの問いがあろうがなかろうが、つねにテーマや課題に対して問いかける。問わなければ、ソリューションも工夫も考えつかない。必ずしも明快で満足できる答えが編み出せるとはかぎらないが、「問いが立てられうるのであれば、答えもまた与えられうる」(ウィトゲンシュタイン)を拠り所にしようではないか。但し、自問自答という方法には偏見が宿りやすいので気をつけねばならない。

「役立つ」ということ

あまり時間帯がよくないので視聴できていないが、NHKのテキスト『100de名著』は初学者にはお勧めだ。4月がニーチェ『ツァラトゥストラ』、5月が『論語』、6月がドラッカー『マネジメント』、そして7月は福沢諭吉『學問のすゝめ』。このうち、『マネジメント』を担当していた講師が、ドラッカー学会代表の上田惇生である。本題そのものはうまくまとまっているが、「知識や教育も変化を続けている」という項に気になるくだりがあった。

(……)役に立たない知識を教養と考えている人は、まだ少なからず存在します。たとえばいまだに欧米ではラテン語を必須科目としている学校がある。論理性を養うためだとか、他の外国語を学ぶ基礎になるといった理屈をつけてラテン語を教えていますが、実際にはラテン語教育は今や何の役にも立たなくなっています。

この前段で、知識には役に立つものと立たないものがあり、今という時代は生きた知識、使える知識が求められる時代になってきたと述べている。少々ラテン語を齧った身としては、この意見は勇み足ないしは短絡的と言わざるをえない。最初から知識が役に立つか立たないかなどは勉強してみなければわからない。往々にして、役立つと思って学んだことが役立たず、役立ちそうもないと値踏みしていたら、後日大いに仕事にプラスになったなどということは常である。


欧米文化圏の礎であるラテン語が役立たずならば、この島国固有の平安時代の古語など必須教科にする意義などまったくなくなってしまう。ここに、上記の講師とまったく正反対の意見がある。「情報が一過性で狭く不安定である一方で、知識は常に有効であり応用範囲が広く、古くならないという特徴がある」(白取春彦『勉学術』)。そして、ラテン語の意義を次のように説く。

ラテン語は古代に生まれた言語であり、現代世界ではもっぱらカトリック神父たちが共通語として使っているだけである。そんな古色蒼然とした言語が、知識として常に有効であり応用範囲が広い(……)。現代世界に通用している主流言語がラテン語を基礎にしているのである。だから、英語やフランス語やドイツ語がわからなくても、ラテン語の知識があるだけでそういった外国語の意味がだいたいは理解できる(……)。

実際のところ、現代の社会や技術の大半の概念は、ラテン語から用語を借りて成り立っている。役に立たないどころか、なくては困るほどの恩恵を受けているのだ。ラテン語役立たず論を展開するなら、「マネジメント」という術語も概念もありえない。英語の“manage”はイタリア語の“maneggiare”に由来する。この用語の起源は〈ラテン語“manus(手)不定詞語尾“-are”〉に遡る。「手で馬を訓練する」という意味だった。現代イタリア語にも「手で扱う」とか「調教する」という意味がある。英語の“management”にしても、第一義は今もなお「どうにかこうにか(工夫をして)やり遂げること」なのだ。経営や管理という抽象概念に先立って、このニュアンスが強い。

折りを見てラテン語の独習本に目を通すことは、少なくともぼくには役立っている。ことばを軽く流さないで、一歩踏み込んで考えることに役立っている。役立つか役立たないかは時代が決めるものではない。個々人にとっての有用性こそが重要なのである。ある種のご婦人にとって真珠は有用であり、豚にとっては無価値である。役立つことの一般化には誤謬がつきまとうものだ。

食性について

一ヵ月前になるだろうか、ある動物園の飼育員がテレビで冗談抜きの表情で語っていた。「(腹を空かしているときに)この中に入るとやられてしまいます」。この中とはジャガーの檻だ。ジャガーとは猛獣のジャガーである(ジャガー横田ではない)。その飼育員は檻の外にいて箸で生肉をつまみ、鉄格子越しにジャガーに与えている。赤ん坊の時から何年も飼育しているのに、中には入れない。

エサをもらっている姿を見ると、なついているように見える。だが、「ジャガーは懐いているようでも、いつでも(私を)狙っているんです」と飼育員は言う。ジャガーにとって動く標的はすべて獲物。お世話になっている飼育員もジャガーの食性内の食物にすぎない。ジャガーからすれば、人間は食物連鎖的に自分よりも下位なのである。「いつでも狙っている」という表現に、ぼくたちが愛してやまない「健気けなげさ」や「親しみ」や「信頼性」などの感覚が吹っ飛んでしまった。「エサはエサなんだよね」というジャガーの、クールでドスのきいたつぶやきが聞こえてきそうだ。

肉食獣が草食動物を追いつめ首筋を一撃する。次いで、腹を食い破って内臓を頬張るシーンを見て、残酷だと思う。しかし、この光景はリスがクルミの殻を割って実を食べ、クマが蜂蜜を捕って食べ、人が山芋を掘ってトロロ飯を食べるのと何ら変わらない。動物対動物の食物連鎖の血生臭さゆえに、ジャガーが草食動物を「襲っている」という印象を強く抱いてしまう。実は、ジャガーは食材を調達して食事をしているのである(なお、動物園のジャガーは調達しなくてもよいのだが、自力での調達本能を失ってはいない。この本能があるからこそ、飼育員は狙われる)。


食性について考えていくと、必然食物連鎖に辿り着く。絶滅危惧種を案じるものの、食物連鎖に関わる植物・動物の〈食う・食われるの関係〉において、食う側のみが生き残り、食われる側が滅びることはふつうはありえない。経済論理では食う側(捕食者)ばかりが得して食われる側(被食者)が損することになるが、食物連鎖はそんな単純なものではない。そこに損得などはなく、自然の摂理ではめったなことではバランスが崩れることはない。

味にせよ食物にせよ、動物には一定の食性がある。シカは生の草を食べている。塩・コショウやドレッシングを使っている様子はない。コアラは無添加ユーカリ一筋、イワシは動物性プランクトンが主食である。ほとんどの動物は食性的には「挟食」を特徴としている。これに対して、「広食」しているのが人間。日本人はその最右翼だ。一昨日の昼はフレンチ、夜は煮魚、昨日の昼はラーメン、夜は焼肉、今日の昼は鶏の竜田揚げにお惣菜、夜は天ぷらそば……と、まさに日替わり。こんなに手広く何でも食べる雑食人種は他にいない。

ぼくはこれまで出されたものを一度も拒んだことはない。だから、好き嫌いや食わず嫌いをする者の気持ちがわからない。それでもなお、食性のことを考えれば、何でもかんでも食べることなどないと偏食者を擁護しておこう。欧米の子どもたちが納豆やコンニャクを嫌がっても、親が「好き嫌いを言わないの!」などと躾けている話を聞いたことがない。同様に、日本の子どもたちがピーマンやチーズを嫌がっても無理に食べさせることはない。嫌なものを無理に食べるよりも、好きなものをたくましく食べるのがいい。ジャガーのように。

未来をどこに見るか

自分の過ちを正直に認めない子どもに父親が言った。「ワシントンは、お前と同じ歳の時に、桜の木を切ったことを認めて謝ったんだぞ」。これに対して息子が言った。「ケネディはパパと同じ歳の時に、大統領だったんだよ」。

父親が息子を諭したのは、息子に未来の姿を垣間見たからである。ウソをついているようではまともな大人になれない。そこで、ワシントンという例を持ち出して、正直が立派な大人になるための条件であることを示そうとしたのである。ところが、子どもの切り返しはそれ以上だった。

亡くなった井上ひさしが『ボローニャ紀行』の中で書いている。

「日本の未来を考えようとよくいうけれど、日本も未来も抽象名詞にすぎない。こんな抽象的なお題目をいくら唱えても、なにも生まれてこない。だから日本の未来を具体化することが大切だ。では、どう具体化するか。それは、毎日、出会う日本の子どもたちをよく見ることだ。彼ら一人一人が日本の未来なのだ。彼らは日本の未来そのものなのだ。その彼らのために、わたしたち大人は、なにかましなことをしてあげているだろうか……」

この一節を読んで、「ドングリの実にはバーチャルな樫の木がある」を思い出す。「卵は圧縮された鶏のバーチャルリアリティである」という喩えもある。ドングリは未来の樫の木であり、卵は未来の鶏というわけだ。つまり、未来はある日突然降って湧くのではなく、現在にすでに宿っているのである。ピーター・ドラッカー流に言えば、「未来はわからないからこそ、すでに起こった未来を見ればいい」。現在のうちに何がしかの未来の予兆が感知できるはず。


「すでに起こった未来」とは「将来に続くだろう現在・過去」のことである。今夜暴飲暴食すれば、明朝という未来に体調不良に苦しむ。わかりきったことである。おおむね今日の頑張りは明日の成果につながるし、今日の怠惰は明日のツケとなって表面化する。リアリティとしての今日は「バーチャルな明日」と言い換えてもよい。「本を読んだかい?」に対して、「いや、まだ。でも、目の前に積まれた本はバーチャルな知だよ」と言うのは詭弁である。読んでいない本は、熟成させても読んだことにはならない。

企画研修で「構想の中にバーチャルな未来がある。いや、構想しなければ未来などない」と力説する。ぼんやりしていては明日などいっこうに見えてこない。もっと言えば、この瞬間に集中して対象に注力しているからこそ、未来への予感が湧き起こり未来への展望が開けるのである。

実は、現在や過去に自分の未来そのものや未来を創成するヒントを見つける方法がある。

一つは、歴史に温故知新することだ。箴言や格言の中には未来に向けての羅針盤になってくれそうな、おびただしいヒントが溢れている。

もう一つは、人間に自分の未来を見るのである。年長者と自分との間を対照的に見れば、年齢差の分の未来が忽然と現れる。ぼくは最近自分より若い人たちにそのように接するようにしている。ぼくの姿に彼らの10年後、15年後を見据えてもらえればありがたい。そこに情けない未来が見えるのなら、「反面未来」にすればいいのである。

大量、集中、高速、反復

重厚長大じゅうこうちょうだい〉が遠い昔の幻影のごとく虚ろに見える。重くて分厚くて長くて大きいものが日本経済を支えた時代があった。造船、鉄鋼、セメント、化学などの産業が重厚長大の代名詞。半世紀前のこの国では「大きいことはいいこと」だったのである。しかし、高度成長時代の終焉とともに、そしてエレクトロニクスやサービス業の台頭もあって、重厚長大産業は急激に人気も業績もかんばしくなくなった。

代わりに主役に躍り出たのが〈軽薄短小けいはくたんしょう〉だ。多分に語呂合わせの要素もあるので、何もかもが軽く薄く短く小さくなったわけではない。省エネルギーや環境負荷の軽減の掛け声には軽薄短小のリズムがよく合ったようである。実際、身近な商品は多分にその方向にデザインされ製造された。とは言え、どれが軽薄短小かと自宅の中を見渡してみても、薄型テレビ、携帯電話、ノートパソコンくらいなものである。冷蔵庫や洗濯機は間違いなく大型化している。思うに、軽薄短小は目に見えない電子部品やソフトウェアを強く象徴したのだろう。

それはともかく、頼もしい雰囲気、語感という点で重厚長大に軍配を上げたい。「きみは軽薄短小な人だね」と形容されては喜べないだろう。環境負荷が大きくてエネルギーを食う重厚長大よりも優れているつもりで命名したはずの軽薄短小。なのに、なぜこんな響きの四字で命名してしまったのか。重↔軽、厚↔薄、長↔短、大↔小と、一文字ずつの漢字の単純反語を並べたのはいいが、もう少し知的に響かせる工夫があってもよかったのではないか。


ノスタルジックに重厚長大を志向する経済社会の復活を願うものではない。資源は希少であるから軽薄短小的に使うほうがいいだろう。ただ、ヒューマンリソースを同じように扱うことはない。個人の知的生産活動にあたっては軽薄短小に落ち着いてしまってはいけないと思う。読書も語学もその他の趣味も、大量かつ集中的に高速でおこなうのがよく、できれば何度も何度も繰り返すのがよい。何かに精通して生産的になるためには、大量、集中、高速、反復の要素が欠かせない。才能の有無にかかわらず、である。

大量、集中、高速、反復は、ムダな資源をダラダラと長時間浪費しないための心得だ。長時間取れないという前提、少なくとも決めた時間内だけの知的活動という前提に立っての条件なのである。大量とは、素材、すなわち情報に関わる条件である。多品種でも少品種でもいい、できるだけ多く扱い触れるようにする。以前3時間かけていたところを1時間でおこなう。これができれば、同時に集中と高速が実現していることになる。ぼくは速読の理解効果に関しては半信半疑の立場にあるが、速読の大量・集中・高速の効果を否定はしない。

しかし、勇ましい大量・集中・高速だけで終われば、バブリーな重厚長大の二の舞を演じてしまいかねない。知的生産活動には忍耐というものが必要だ。忍耐とは飽くことなく繰り返すことにほかならない。反復という単純行為は、大量・集中・高速で触れた素材を確実に記憶庫に落とす最上の方法なのである。記憶媒体や電子機器のなかった時代によく実践されたのは、音読であり紙に書くという身体的トレーニングであった。結局、読書にしても語学にしても、短時間で反復するほうが効果が上がっている。「継続反復は力なり」という格言を作ってもいいと思う。

すべて人次第

レオナルド・ダ・ヴィンチの手記に「鋳物は型次第」のことばがある。これを、完成品に先立って構想や設計図が重要だと読み替えてみる。あるいは、「結果は前提に支配される」と抽象化してみる。「内実は形式に従う」でもいい。鋳物なら型の枠や形状が目に見えるが、型には見えないものもある。そのつど手が型を作る仕事もある。手で作った型がそのまま実になる仕事である。

少しジャンプする。もし「仕事は道具次第」ならどうだろう。仕事を極めてしまえば、後は道具で決まるというプロフェッショナルもいる。実際、「水彩画は紙次第」や「バイオリン演奏は楽器次第」という説がないわけではない。素人が「マイクが悪いからうまく歌えない」と言い訳するのとはわけが違う。そこで、ぼくにとって「それ次第」と言い切れる道具とは何かと考えてみた。しかし、企画をしたり講演したりするうえで、この道具でなければならないものなど思いつかない。筆記用具、紙、手帳、パソコン、マイク、演台……別に上等でなくてもいい。

仕事の出来はいいのに報われない。「講演は聴衆次第」や「企画は評価者次第」などと言いたくなる時もあった。しかし、そんな身の程知らぬ愚痴はもう20年前に卒業した。うまくいかない時はすべて人徳の無さ、実力不足と思いなすしかないのである。いずれにせよ、「ぼくの仕事は何々次第」の何々はぼくの技術・力量以外に見当たらない。ぼくのいる業界では、幸か不幸か、フランスの最高水彩紙アルシュやバイオリンのストラディバリウスに相当するようなものはない。出費が少なくて済むという点では、間違いなく幸いなるかな、である。


しかし、ダ・ヴィンチの原点に戻れば、「仕事は型次第」なら大いにありそうだ。固定した型などないかもしれないが、何がしかの型は仕事に先立ってつねに存在する。構想の型、企画の型、構成の型、手順の型、話しぶりの型、情報の型……探せばいくらでも出てくる。そして、この型を選び決めるのは、仕事をする本人以外に誰もいない。言い換えれば、「型は本人次第」というセオリーも見落とせなくなるのである。

さて、ここまで来れば、昔から繰り返されてきた「道具は使う者次第」にも共感せざるをえない。制度や仕組みや集まりの会を作る。インフラストラクチャでも法律でも何でもいい。明らかなことだが、作るだけで何もかもがうまく機能することなどありえない。機能させるには、意志と行動と能力が欠かせないのだ。道具を買い求める。その瞬間から便益が得られるわけではない。使う者の、善用に向けての良識が働かなければならない。

刃物も車も薬も、期待される通りにまったく同じ使われ方をすることなどない。すべての書物、すべての交通手段、すべての建物が同じ価値をすべての人々に供するわけではない。これらを便宜上すべて道具と呼ぶならば、人それぞれの道具の生かし方が存在する。「道具は使う者次第」とは、人が道具によって試されるということだ。道具を使う者が万物の尺度に値する良識を持ち合わせていることを願うしかない。

利を捨て理を働かせる

喉元過ぎれば熱さを忘れると揶揄される国民性だ。立ち直りの見事さは、そこそこ反省が済めばケロリとしてしまう気質に通じることもある。凶悪犯が手記を書けば、あれだけ煮えくりかえっていた怒りや憎しみをすんなりと鞘に収め、節操もなくその手記を読んで涙する。そして、まさかまさかの「あいつもまんざらではない」という評価への軌道修正。最新の記憶が過去の記憶よりもつねに支配的なのである。楽観主義と油断主義が紙一重であること、寛容の精神が危機を招きかねないことをよくわきまえておきたい。

推理について書いてからまだ二十日ほどしか経っていない。現在遭遇している危機を見るにつけ、真相はどうなのか、いったいどの説を信じればいいのか、ひいてはしかるべき振る舞いはどうあるべきなのかについて、いま再び考えてみる。原発にまつわる事象を、現状分析、対策、権威、専門知識、情報、はては文明と人間、科学、生き方など、ありとあらゆることについて自問する機会にせねばならない。いま考えなければ、二度と真剣に考えることなどないだろう。

推理とは何かをわかりやすく説いている本があり、こう書いてある。

「理のあるところ、つまり真理を、いろいろの前提から推しはかること。(中略)推理の結果でてきた結論は、推しはかりの結果ですから、100パーセントの信頼性をもたないのです」(山下正男『論理的に考えること』)

前提を情報と考え、結論を真実と考えればいい。いったい事実はどうなっているのかと推理する時、ぼくたちは様々な情報を読み解こうとするのである。


一般的には、一つの情報よりも複数の情報から推しはかるほうが、あるいは主観的な情報よりも権威ある客観的な情報から推しはかるほうが、推理の信頼性は高くなると思われている。ぼくもずっとそう思っていた。多分に未熟だったせいもある。だが、現在は違う。毎度権威筋の証言を集めて推理するまでもなく、まずは自分自身の良識を働かせてみるべきだと思うようになった。極力利己を捨て無我の目線で推理してみれば、事態がよくなるか悪くなるか、安全か危険か、場合によってはどんな対策がありうるかなどが素人なりに判断できるのである。

原子力推進派であろうと反対派であろうと、原発がエアコンのように軽く扱えるものでないことを承知している。また、原発から黒煙が出ていたという事実を目撃した。さらに、つい先日まで放射能の汚染水が海へ流れ出ていたという情報を同じく認知している。放射能基準値の数倍が百倍になり千倍になった。何万倍と聞かされて驚き、数日後には電力スポークスマンが「億」とつぶやいた。「嘘でしょう?」と誰もが思っただろうが、たしかに瞬間そんな数値を記録したようである。やがて七百五十万倍だったかに訂正されたものの、数値が尋常ではないことは明らかだ。

利を捨てて見れば、上記の情報を前提にして好ましい結論を導けるはずはないのである。推理の結果、安全か危険かの二者択一ならば、「危険」と言うのが妥当だ。しかも、高分子ポリマーは権威的で信頼性が高そうに見えるが、おがくずと新聞紙のほうはやむにやまれぬ、自暴自棄の対策に見えてしまう。たとえ専門的に効果的な処理であるにしても、知り合いの銭湯のオヤジさんと同じ材料を使っていてはかなり危ういように思われる。

流言蜚語や噂などと権威筋のコメントが似たり寄ったりだと言う気はない。しかし、推理と伝播の構造にさしたる大差はないようにも思われる。しかるべき情報から信頼性の高い推理をおこなおうとする責任者なら、まず第一に利害や利己から離れてしかるべきである。もし専門家の意見に私利がからむとすれば、これはデマと同種と言わざるをえない。自然のことわりがもたらした惨事に対して、人類がを働かせて方策を打ち立てるべきだろう。

旬感覚で生きる

好物のホタルイカがしゅんである。旬はしばらく続くが、この時期が一番旬なのかもしれない。北陸へ行く機会があれば食い逃さずに帰ってくる。ふつうは酢味噌で食べるが、ご当地へ行けば刺身がいい。昨年はしこたま刺身をいただいた。珍味として少々口に運んでは酒を呑むのがいいのだろうが、腹を空かした少年のように、人目を無視して卑しく頬張った。残念ながら、今年は旬の季節に訪れるチャンスはなさそうだ。

魚介や野菜や果物などがおいしくなる季節、あるいは市場によく出回る時期のことを〈旬〉という。大都市に住んでいると便利なスーパーが年がら年中何でも提供している。いや、これは大都市だけの現実ではなく、日本全国津々浦々の傾向と言ってもさしつかえない。それほど季節感が途絶えつつある現在だ。それでも、四季の風合いに恵まれたこの国では、ちゃんと生態系が機能していて、「今しかない恵み」を授けてくれる。

食材の頃合いを示す旬ということばは、転じて、物事をおこなうのに最も適した時期を意味するようになった。それは、「絶妙のタイミング」のことである。少々早いのは許せるとしても、一分一秒でも遅くなると「旬が外れる」と言わざるをえない状況や場面がある。自然の旬は来年もやってくるだろうが、仕事や人事に関する旬というものは取り戻すことはできない。いまこの瞬間を逃してしまっては二度と巡ってこないのである。


わずか数十秒遅刻しただけなのに、新大阪駅発の予約していた新幹線のぞみに間に合わなかったとしよう。これは、東京駅到着時点で半時間近い遅れになる。そこから乗り換えで、たとえば那須方面へ乗り継ぐとしよう。本数が東海道新幹線よりも減るから、現地到着時点では1時間から2時間遅れるはずである。たった12時間と甘く見てはいけない。ぼくのように講演活動をする者にとっては致命傷になる。飛行機を使わねばならない離発着の少ない地域だと、半日、いや一日遅れになることだってあるのだ。

仕事上の旬に甘い人間が少なからずいる。彼らのほとんどが、期限への目測がいい加減だ。彼らにはふつうの感覚の一週間先が一ヵ月先に見えている。明日が一週間先に見えている。「あと数時間しかない」という良識的感覚を持ち合わせず、「まだたっぷり数時間もあるさ」と鈍感に構える。そして、だいたいにおいて、仕事の旬をわきまえない連中は、食の旬にもめっぽうくらいのである。

五大にみな響きあり、十界に言語を具す、六じんことごとく文字なり、法身ほっしんはこれ実相なり。

空海のことばである。旬と関係があるのかといぶかってしまいそうだが、実は、五大(地、水、火、風、空)のすべてに響きがあって、響きは生命のすべてに現れ文字やことばにもリズムがあることを語っている。上旬、中旬、下旬という区切りで言えば、一年は10日単位で36の旬から成り立っている。そう、旬とはリズムのことなのである。宇宙や世界は大きすぎるとしても、社会や人間関係や生活・仕事の調和的なリズムが、旬への感度を鋭敏に保ってくれている。旬感覚の喪失は、生活オンチ・仕事オンチ、ひいては良識オンチを招くことになる。旬を侮ってはいけない。

自然の摂理に思うこと

世の中の事件や動きに同期して書くことはあまりないけれども、今回ばかりは無言で居続けるわけにはいかない。

311日午後246分、大阪のオフィス。座っている椅子が誰かにゆっくりと揺さぶられるように動いた。次いでビルそのものが横に揺れ始めた。立ち上がって別室へ行く。立っているだけで、脳が眩暈めまいの症状を訴え始めている。大阪にいても感じるその後の余震は数回。ぼくは少々の揺れにも過敏な体質なので、日曜日の今も目の奥が重く、船酔いしたような感覚が残っている。

しばらくしてからテレビをつけると、大津波が大小の船をまるでプラモデルを扱うように岸壁に放り上げていた。怒涛の海水が街を襲っている。その凄まじさをしのぐような猛スピードで今度は水が引いていく。おぞましい、戦慄すべき光景。偶然だが、『方丈記』を再読しようと思って一週間前にダンボールから出したところだった。

行く川の流れは絶えずして、しかも もとの水にあらず。淀みに浮ぶ うたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく止まる事なし。世の中にある人と住家と、またかくの如し。

この有名な出だしから数段後に次の文章が現れる。

おびただしき大地震おおないふること侍りき。そのさま世の常ならず。山崩れて、川をうずみ、海はかたぶきて、陸地くがちをひたせり。土さけて、水湧き出で、いはお割れて、谷にまろび入る。渚こぐ船は、浪にたゞよひ、道行く馬は、足の立處をまどはす。都のほとりには、在々所々ざいざいしょしょ、堂舍塔廟たふべう、一つとして全からず。或は崩れ、或は倒れぬ。ちり灰立ち上りて、盛んなる煙の如し。地の動き、家の破るゝ音、いかづちに異ならず。家の中に居れば、忽ちにひしげんとなす。走り出づれば、地割れ裂く。翼なければ空をも飛ぶべからず。龍ならばや雲にも登らむ。おそれの中におそるべかりけるは、たゞ地震ないなりけりとこそ覺え侍りしか。

元暦の大地震(1185年)の様子である。山紫水明の四季折々の風情に旬の食材の恵みと、ぼくたちはこの風土に育まれてきた。同時に、この国土特有の自然の振る舞い――人から見れば災害――を、いつの時代も覚悟せねばならない。八百年前の鴨長明の文体は古めかしいが、描写された自然の猛威は今もまったく同じである。


11日に帰宅すると自宅の電話に留守電が入っていた。安否を気遣うアメリカからの声だった。彼らにすれば、カリフォルニア州と同じ面積の日本だから、東北地方と大阪の距離感などあまりない。実際、その通りで、この国の地震を都道府県別に色分けしている場合ではない。すべての災害は自分の災害と認識すべきだ。一つの自治体や行政機関がまるごと壊滅する現実を突きつけられたかぎり、市町村主体の災害対策を再考せねばならない。

昨晩からずっと考えている。誰かが言った、「この世に神も仏もいないのか!?」 どうやらいないようだ。醒めた口調で言っているのではない。鹿児島に向かった一月末のあの日、直前に噴火した新燃岳の巨大な噴煙の真横を飛行機で飛んだ。あのとき、46億年前に誕生した地球の中でマグマがまだ燃え続けているエネルギーをあらためて思い知った。神仏さえも抗えない自然の力。

この世界に存在するもの・存在関係があるものは、自然、自然と生命、人間どうしの三つなのだろう。そして、忘れてならないのは、人間がこの世界を支配などしていないという真理である。人間は自然の摂理に従って生きる諸々の生命体の一つにすぎない。そして、自然はほとんどの場合、人間にありとあらゆるものを与えてよく面倒を見てくれるのである。しかし、摂理の一つとして「自然は振る舞う」。振る舞いは天罰でもなければ、人を裁くものでもない。ただ摂理である。自然のルールの中では、人間どうしが知恵を出し合って生きていくほかない。

一面だけでなく、新聞のほぼ全紙面には凝視するのがつらい大きな見出しが並ぶ。テレビの災害報道もしばらく続くだろう。知人はみな無事だったが、それとは別に、さっき耳にした万人単位の行方不明の報道に気も力も抜けてしまった。それでもなお、アメリカの新聞が見出しに書いた“sturdy”の一語に救われ励まされる。厳しい自然の振る舞いをも受容してきたぼくたちを「不屈」と形容しているのである。

幸せに形はあるか、ないか(3/3)

幸せを人に見せることはできないと書いた。幸福は見えたり見えなかったりするものではないとも書いた。つまり、「幸福に形などない」と大胆に宣言したのである。誕生日のプレゼントも豪邸もデートも幸せの形ではない。少なくとも、プレゼントや豪邸やデートの属性として幸福は存在しない。幸せを感じる時が幸せで、幸せを感じない時は幸せではない。幸せは、それを感じる時間そのものであると考える。

ところが、不幸に形はある。不幸は現象として目に飛び込んでくる。不完全な幸福をぼくたちは見てしまう。理想と現実もそうだ。アタマに思い描く理想は形として見えないが、現実は形として見えてしまう。理想にほど遠い現実を見てがっかりしたりもする。秩序と混沌、完全と不完全も同じような関係にある。秩序と完全は見えず、混沌と不完全ばかりが見える。プラトン流に言えば、〈イデアとしての点〉は位置を示すだけで目には見えない。しかし、実際にぼくたちが紙の上に書く点は面積のある、偽物の点なのだ。

すべての不幸は幸福を対抗概念としている。幸福という形を掲げるから、その形と異なる形を不幸と考えてしまうのだろう。冷静に考えれば、幸福に形を求めなければ、不幸にも形はないはずなのだ。百点満点をアタマに描くから70点が不完全になってしまう。幸福をそのような尺度という形でとらえなければ、不幸も形になどなりえない。


学習に関してぼくは安易な促成を嫌う。迂回することも覚悟して極力時間をかけるべきだと思う。しかし、こと幸福に関しては、そんな遠回りの必要などさらさらない。不幸や混沌や不完全の内にあっても、幸せを感じるようにすればいいのである。「どうすれば幸せになれますか?」と聞かれれば、「今すぐ幸せを感じなさい」と躊躇なく答える。

誰かの本に載っていた話。うろ覚えなのでいくぶん脚色することになるが、趣旨だけは間違わないように紹介しよう。

ある日本人の商社マンが南太平洋かどこかの島に駐在させられた。高度成長時代の日本の商社は、どんなものでも商材やビジネスチャンスになりそうなら、極端に言えば、草木も生えない場所に社員を派遣したものである。社命に忠誠を誓い、休みもなく朝から晩まで、島じゅうを駆け巡る商社マン。島民たちは浜辺に寝そべって、そのハードワークぶりを呆れるように毎日眺めていた。

ある日、島民の一人が商社マンに尋ねた。「なぜそんなに働くのか?」「業績を上げるためだ」「何のために?」「給料が上がるからだ」「それでどうなる?」「暮らしが豊かになる」「それで?」「別荘の一つも建てて、のんびり優雅に暮らせるようになる」「たとえば、どこで?」「ええっと、たとえば、そう、この島で」「あんたね、おれたちはろくに働きもしないが、すでにそうして暮らしているぜ」

他人との比較や客観的尺度や形などというものに影響されなければ、誰もが今すぐに幸せになれる。幸せに形などない。幸せを感じる時間を持つことが、どんな名誉や財力にも勝るのである。

《完》