「動体知力」への意識

知力の低下が叫ばれるものの、指標の定め方や統計の取り方次第で、昔に比べて知力がアップしているという説も浮上する。マクロ視点で日本人の知力を世代比較するのではなく、ここは一つ、自分の回りの人間をつぶさに観察してみようではないか。しばし自分を棚上げして問うてみよう、「わたしの回りのみんなの知力、いったいどんな程度でどんな具合?」

過去に比べてどうのこうのと考える必要などない。当面の問題を上手に解決できる知力、想定外の難問に直面してその場で瞬時に対処できる知力、暗記した事柄を再生するだけでなく創意工夫もできる知力――こんな知力の持ち主が自分の回りにいるだろうか? 周囲には、定番のお勉強がよくできたであろう「静止知力型優等生」は五万といるが、変化に柔軟対応できる「動体知力」の持ち主は、いないことはないが、稀有である。絶滅危惧種にならぬことを祈らねばならない。

だが、そこまで絶望するにはおよばない。そういう人たちが顕在化していないだけかもしれない。あるいは、ぼくの見る目がないだけなのかもしれない。いや、実は、どんな人間にも部分的には動体知力が潜在しているのだが、それを発揮する環境に恵まれていないのかもしれない。そう、動態的な舞台とテーマを用意しなければ、動体知力を発揮する必要など芽生えてこないからである。


だいたいにおいて、集団で学びながら身につける知力は、じっとしている亀の頭から尻尾までを定規で測るスキルのようなものだ。テーマも対象も計測器もすべて静止している。他方、入り組みながら飛ぶ鳥の数をすばやくカウンターで数えるようなスキルがある。鳥も動くが指もずっと動き続けている。あるいは別の例として、流れる時間を刻むために動き続ける時計はどうだろう。時が動き、同時に時計がそれを刻んでいく。一時も静止することがない。ぼくのイメージしている「動体知力」とはこんな感じなのである。

大学生になった1970年代始めは、知と言えば、まだまだ“knowledge”(知識)のことで、“information”(情報)は目新しいことばだった。前者が“know”(知る)から、後者が“inform”(知らせる)から、それぞれ派生した名詞だ。この二つの英単語には決定的な差異がある。前者の“know”の主体は自分であって、「私が知る」――これが知識。自分の中にストックするものだ。ここに他人は関わってはいない。対照的に、後者の“inform”は「誰かに知らせる」――つまり、自分から他者へ、あるいは他者から自分へと流れる情報だ。知識が〈ストック知〉であるのに対して、情報は〈フロー知〉なのである。


自分があることを熟考しているうちに、時代は動いている。自分の中で仕事をいったん休止しているあいだも、その仕事に絡むさまざまな要因は変化している。国際化・情報化の時代は24時間社会なのだ。このような時代が動体知力を求めているにもかかわらず、相変わらず日本社会で訓練しているのは静止知力――知識の貯め込み――のほうなのではないか。一人静かに本を読み、読んだ本の話を誰にするともなく悦に入る。転がってきたボールはいったん足で止め、それから狙いを定めて蹴る。期限ゆったりの宿題は大好き、でも予想外の問題のアドリブ解答は苦手。

動体知力の特徴は、スピード、集中力、即興性、対人関係性、複雑系、臨機応変、対話的、観察的、異質性、超越的などである。いずれもマニュアルや指導要領ではいかんともしがたい特徴だ。しかし、基本は動体への反応の速さである。すべての対象、テーマ、問題を止まったものではなく、「ピチピチと動いているもの」と認識すればいい。鮮度を落とさずに手早く捌く経験を積むのだ。何年もかかるものではない。テキパキと何事にも対峙すれば、それまで静止していた知力が勝手に動き始めるのである。  

理屈を超えるひととき

出張が10日間ほどない。この間に研修や講座のコンテンツづくりとテキストの執筆編集をすることになる。先月の中旬から5本同時に取り掛かってきた。完全オリジナルが3本、あとの2本が編集とバージョンアップ。だいぶ仕事がはかどり、残るはオリジナルの2本。テーマは「東洋の古典思想から仕事をメンテナンスする話」と「問題解決の技法と知恵」の二つだ。自分で選んだテーマとはいえ、いずれも難物。もちろんわくわくして楽しんでいるが、理の世界につきものの行き詰まりは当然出てくる。


こんな時、わざとテーマから外れてみることにしている。完全に外れるということではなく、テーマを意識しながら、敢えて迂回してみるのである。迂回の方法にはいろいろあって、読書で行き詰まったら人間観察に切り替える。構成がうまくいかなかったら、出来上がったところまでを一度分解してみる。文字通りの「遠回り」もしてみる。

オフィスの近くに寺があるのだが、最近は反対方面にランチに行くことが多い。しかし、いったん寺の前まで出てから裏道を通ってお目当ての店に行ってみるとか……。早速効果てきめん、その寺の今月のことばが目に入ってきた。

「善いことも悪いこともしている私。善いことだけをしている顔をする私。」

筆を使って読みやすい楷書体で書いてある。昔からある禅語録もそうだが、現代版になってもうまく人間のさがを言い当てるものである。「これは見栄のことを言っているのか、それとも実体と表象の永遠のギャップを指摘しているのだろうか」などと考えながら、メモ帳に再現しつつ蕎麦を口に運ぶ。蕎麦を食べ終わり、次のようにノートに書き留めた。

見栄というものはよりよい人間になるうえで最強の敵なのかもしれない。ぼくたちは偽善的にふるまおうとし、己を正当化しようとし、非があってもなかなかそれを認めようとしない。人間だから手抜かりあり、怠慢あり、ミスもある。時には、意識しながら、してはいけない悪事にも手を染める。その実体のほうをしっかりと見極め認めること。「自分には善の顔と悪の顔がある」ことを容認する。これこそが人間らしさなのか。

理屈を超えた文言に触れ、理以外の感覚を動かして、それでもなお結局は理屈で考えてしまうのだけれど、そのきっかけをつくる刺激の質がふだんと違っている。ここに意味があるような気がする。


ぼくのオフィスと自宅周辺から南へ地下鉄を二駅分ほど下ると、谷町六丁目、谷町九丁目という界隈があり、何百という寺院が密集している。現代的なビルの装いをした寺もある。それぞれの寺が「今月のことば」を門のそばに掲げている。休みの日、寺内に入らずとも、散歩がてら文章を読むだけでもおもしろい。2か月前には次のようなものを見つけた。

「かけた情けは水に流せ。受けた恩は石に刻め。」
「花を愛で、根を想う。」

前者が「ギブアンドテイクのあるべき姿」、後者が「因への感謝」。こんな具合に自分なりにタイトルをつける。すなわち意味の抽象。

伝えたいことを必死で言語化する「所業」を卑下するつもりはない。専門的僧侶でないぼくが言語から離脱して悟りの境地に到らなくても誰も咎めないだろう。とは言え、言語理性に凝り固まりがちなアタマの柔軟剤として、「意味不足の表現」や「行間判じがたい表現」に触れることには意味がある。「半言語・半イメージ」を特徴とする俳句などもそんな役割を果たしてきたのだろう。俳句に凝った十代の頃を懐かしく思い出す。 

市場主義か商品主義か

京都での私塾の講義が15分程早く終わった。締めくくろうと思ったら、講義で取り上げた「経営主義」について論議が再燃した。決して喧嘩腰ではなく、「それはそうと……」と誰からともなく問題提起があったのだ。みんな熱心な塾生である(大阪の塾生の一人もぼくとのマーケティング談話の翌日、このテーマについてブログで取り上げていた)。

企業が一つの経営主義だけを貫くことはありえない。どの会社も市場、商品、技術、収益、理念に目配りしながら、それぞれの特色を出すために比重を変え調和を図る。だから、正確に言えば、「市場主義か商品主義か」は二者択一ではないし、一方の選択が他方の排他を意味するものでもない。「どっちに重きを置くのか?」という話だ。

若干ニュアンスは違うのだろうが、敢えて言えば、市場主義が〈マーケットイン〉、商品主義が〈プロダクトアウト〉である。マーケットインは、市場をよく見渡して顧客のニーズを分析精査して、顧客の求める商品を作る考え方。ニーズを満たす商品づくりをするために市場を起点にするわけだ。これに対して、プロダクトアウトでは、企業の強みを生かした商品づくりをして顧客に問うてみる。一種仮説的に商品を形にしてマーケットを掘り起こしていく考え方、と言えるかもしれない。


市場主義の特殊で極端なものが受注型ビジネスになる。商品主義はおおむね見込型の形態になる。そこで、冒頭の論議である。これまで中小企業の多くは大手企業のカスタムニーズを完璧に満たす下請けをおこなってきて、今に至っている。このイメージが強いため、顧客が企業から一般消費者に置き換わっても、ニーズを拾い徹底分析しようとする本能が残っている。これこそが中小企業の弱みだと指摘して、塾生の一人は言った、「中小企業では市場分析に限界がある。中小企業こそ商品主義に拠って立つべきで、ニーズを掘り起こす商品開発に尽力すべきである」。

「いや、そうではない。ニーズを無視して勝手に商品を作っても、そんなものは売れない」という趣旨の反論があった。これに対して、「ニーズの無視などではない。ニーズが読みきれないから、自社にしかできない強い商品を絞り込んで開発すべきなのだ」と再反論があり、さらに「商品を絞り込む時点で、すでに市場ニーズを意識しているわけではないか」と再々反論が起こった。時々口をはさんだが、傍聴しているだけでも白熱したおもしろい議論であった。やや定義論に傾いたところでちょうど時間。後味の悪さもなくピリオド。続く懇親会でも熱が冷めやらず、ぼくも加わって議論は小一時間以上続いた。

業種によって比重は当然変わるから、もとより正解などない。しかし、ぼくは最初の塾生の意見に与する立場をとる。わかりやすさのために極論すれば、市場主義色が強いと、疲弊する、顔がこわばる、笑顔が消える。商品主義色が濃いほうが仕事に遊び心が生まれる。もちろん、遊び心があって仕事が楽しくても収益が悪ければ話にならない。では、市場主義が堅実でより収益が上がるかと問えば、そんな保障はまったくない。ぼくの経験と事例研究に基づけば、いずれにも成功事例と失敗事例があって、甲乙はつけがたい。だからこそ、好きな商品を作って、それを知らせたい使ってほしいというエネルギーで市場へ提案すればいいのではないか。


ぼくが主宰する私塾自体は飲食店にたとえたら「行列のできる人気店」ではない。かと言って、閑古鳥が啼いているのでもない。そこそこの常連さんと時々一見さんがやって来て、ボチボチという感じ。オリジナルなメニューを工夫して出し続けていれば、一気に客足が遠のくことはないと思っている。そのぼくは、あまり学習者のニーズ分析をしない。勝手に「言語力と思考力」がヒューマンスキルの最大公約数だと仮説を立てて、幅広く勉強して自分なりのコンテンツを組み立てる。

「どんな顧客に何ができるのか」というポジショニングの問いはどちらの主義にも不可欠である。だが、顧客のニーズというのはほんとうにわかりうるものなのか。「何が欲しいですか?」と尋ねて、顧客が「答えてくれたもの」がニーズなのか。まさかそんな単純な構図ではないだろう。仮に顧客ニーズが客観的に解析できるとしよう。そうすれば、そんなニーズに応えて作る商品にほとんど差異が生まれなくなってしまう。市場ニーズと連動しないほうが商品の固有色が強まることは明らかである(但し、成否を別として)。

市場主義が「ニーズの分析」をおこない、商品主義では「ニーズの想定」をおこなう。そして、少なくともぼくの場合、ニーズ分析の精度を上げるよりも、ニーズ想定の確からしさを高めるほうが俄然やる気が出る。やる気は集中力を生み、集中力は仕事を軽やかにしてくれる。そうなるとアイデアもよく出るようになるし直観力も高まる。仕事が楽しくてたまらなくなる。これが商品づくりにおいて好循環をもたらしているのは間違いない。

時間の不足、発想の転換

わが国の教育ディベートに旬の時期があったのかどうか知らない。あったとしても、元来がニッチだからピークそのものが聳えるほどであったとは到底考えられない。ぼくの経験では20年程前と10年程前にディベート研修の依頼が多かった。年中全国行脚していた。ニーズも多様化して様々なバージョンのプログラムも準備した。ディベートの本も書いた。だが、最近ではロジカルコミュニケーションやロジカルシンキングがディベートを逆転していた。

昨日の夕刻は久々のディベート講演だった。20名弱の少人数を対象に1時間話をして、即興ディベートを1時間体験。ディベート経験者の知人が二人いてくれたので、ぼくのサポート役として初心者をうまく「その気」にさせてくれた。ありがたい。

依頼があった時点では、聴き手にとってまったく不案内なテーマを60分枠で話すのは難儀だと思った。過去に23時間のディベートセミナーというのは何度か経験したが、さすがに1時間という短時間で話した記憶はない。講師業というのは、当たり前のことだが、経験を踏むにしたがって知識が深まり広がる。独自のノウハウも身につけるから、盛り込みたいことや伝えたいことは年々増える。つまり、おおむねあれもこれもと欲張りになっていく。


ところが、欲張りは資料のページ増と講義の長時間化につながる。これは明らかに時代の要請に逆行している。分厚いテキストと豊富な持ち時間が、決してコンテンツと講義品質の向上につながるわけではないのだ。丸一日の研修を6時間に、6時間を4時間に削られると、講師は不安になるもの。内容と時間の濃縮によって「ネタ漏れ」の不安がよぎってしまう。逆に、水増しならいくらでもできる。

講師心情を吐露したような格好になったが、要するに、潤沢な講義時間が講師の能力や技術を高めるわけではないということだ。むしろ、今回のように1時間だけと過酷なまでに裁量を制限されるほうが、潔く発想を転換できる。半日枠で基本と思っていた内容が、1時間になるとまったく別物として再構築される。

ぼくの中では足りないことだらけ。なにしろ、サービス精神旺盛な足し算発想から、情報のケチケチ引き算発想に変えねばならないのだ。ここまで削ぎ落としていいのだろうか。これをディベート入門と呼んでもいいのだろうか。そんな後ろめたさとは裏腹に、どっこい講演はうまくいく。初心者は好感度で話を聴き、「ディベートはおもしろい」と言ってくれる。不思議である。だが、時間の不足を嘆くことはない。むしろ、短時間が強いてくる創意工夫へのきっかけを喜ぶべきだろう。 

熟年の敵は億劫にあり

面倒臭いに邪魔臭い。仕事が煩雑になればなるほど、あるいは自宅の整頓が乱れるほど、立ち向かおうとする動きが鈍る。億劫。もともと「長時間かかるためすぐにできないこと」を意味する。ご存知の通り、手足を動かすことや頭を働かせることが面倒になり、何もできない、何もしたくないという気分のことだ。

中年や熟年の定義はさておき、50――場合によっては40――を前にして体調異変に陥っている人が最近やたらに目立つ。あまり養生していないからと言えばそれまで。それを差し引いても、ちょっとしたことで風邪を引いたり腰を痛めたりしているのだ。そこまでの体調不良ではないが、ぼくもしっくりいかないことがよくある。だが、そこはまあ、ぼくの場合はあと2年で還暦ということを考えれば、まずまず健康なほうだと思う。

老成した人物の目線のようになるのを恐れずに言えば、億劫にならないことが仕事と生活の要諦をとらえていると思う。年齢相応に仕事や生活を変えるのを厭ってはいけないのだ。たとえば、これまでの食習慣を変えてみる、とりわけ午後8時以降の食事を避ける。やむなくそうするときは腹八分目にする。あるいは若い頃と違う酒の飲み方にシフトする。そのためには人付き合いのパターンも変えねばならない。億劫がらずに、とにかく変化する。


熟年になったからこそ、仕事を迅速にこなす。うだうだくどくど御託を並べずにさっさと何事かに着手する。決して慎重さを優先させてはいけない。慎重さが極まると面倒臭くなるものだ。スーツや靴の買物に迷っているうちに、「今日のところは、やめておくか」となることがよくあるはず。ぼくの場合、講演レジュメや研修テキストを書く機会が多いが、下手な考えに没頭するよりもとりあえず一語でも一行でも書き始めるようにしている。タイミングを逸すると億劫虫が這い始めるからだ。

億劫になってスロースタートを切ると時間が切迫してきて、マメさが消えてくる。きめ細やかどころではなくなってくる。もちろん、あと一つ凝ってみようという気も失せる。こうなると、ミスは増えるわ疲れは溜まるわ脳が働かないわと、すべて情けない連鎖を誘発する。

熟年を生物的年齢で示すことなどできない。熟年を表す単位は「億劫度」なのである。「面倒臭い、邪魔臭い」と一日に何回つぶやき、何回そう感じるかが億劫度であり、億劫度が大きいほど加齢が進んでいると考えてよい。「細かいことはどうでもいい」と言い出したら要注意の兆候。そんな連中は20代、30代にして熟年ゾーンに足を踏み入れている。

今日の午後6時、隔月開催ペースの書評会がある。これぞという本を読んでレジュメを作って一人ずつ書評する。根気もいるし神経も使う「面倒臭い勉強会」だ。しかし、メンバーは大いに楽しんでいる。ぼくも含めて生物的熟年世代が何人かいるが、億劫虫という敵の封じ込めに成功しているようである。

ブログ記事とカテゴリ選択

このタイトルの記事をどのカテゴリに収めるか、少し迷った。迷った挙句、とりあえず「ことばカフェ」というカテゴリに入れた。書こうと思っている記事の概略はすでにアタマにある。このテーマは結局「ことば」の問題になるだろうと見立ててのことだ。しかし、最終的には変更することになるかもしれない。今はまだわからない。


みんなどうしているんだろうか。迷ったら「その他」という万能カテゴリに放り込むのだろうか。あるいは、ブログの記事を書き終えてから、そのテーマにふさわしいカテゴリを選ぶのか。それとも、ひとまずカテゴリを決めてから、今日はこんな内容のことを書こうと決めるのか。ぼくの場合は、ある程度書いてカテゴリを選び、また書き続けてからもっともふさわしそうなカテゴリに落ち着く。ただ、ぼくのブログのカテゴリには「その他」はない。便利な「その他」がないのは、正直なところ、悩ましい。

悩ましくないのは「週刊イタリア紀行」のみ。このタイトルで書く記事は自動的に「五感な街・アート・スローライフ」に分類する。思案の余地なしだ。現地からではなく、ふだんの仕事と生活をしながら過去の旅を振り返りつつ綴るので、必然アートや街の話になる。このカテゴリ以外だと「看板に偽りあり」ということになってしまう。


今日から企画研修で出張中。企画研修では便宜上ざくっとしたテーマとタイトルを決めてもらう。それから素材を集め分析しアイデアをふくらませ構成していく。最終的な企画の構成案をもう一度検証し、タイトルを見直す。広告ならどうだろう。見出しづくりにさんざんアタマを捻ってから本文を書くのか。しかるべき本文を書いてから、それに見合ったヘッドラインを仕上げるのか。ぼくの場合は、いつも見出しの試案が最初にあった。

文章を書いて題をつけるのか、題を考えてから文章を書くのか。どっちでもよさそうなものだが、いずれにしても、ふらりと気ままな旅に出るのとはわけが違う。題や文章、タイトルや記事に先立って、必ずテーマというものがあるはず。テーマを「指向性あるコンセプト」とするならば、それを凝縮したメッセージを題名なりタイトルとして仮に定めておくのが筋だと思う。その筋に沿ってのみ文章や記事が書ける。適当に考えて適当に後付けされたタイトルでは無責任というものだ。

アイデアというのも同様で、テーマへの指向性が弱ければ浮かぶ頻度が低く、量もわずかで質も落ちる。見当をつけておかないとなかなか湧いてくれないし、湧いたところで意識が薄ければ通り過ぎてしまう。ゆえに、〈タイトル試案→記事作成→カテゴリの仮選択→文章推敲→タイトル見直し→カテゴリ決定〉という流れが妥当なのではないか。これが結論。そして、この記事は「ことば論」ではなく、「構成手順にかかわる発想ないしアイデア」なので、カテゴリは〈ことばカフェ〉ではなく、〈アイディエーターの発想〉がふさわしいということになった。ともあれ、テーマはカテゴリに先立つことは間違いなさそうだ。

少々デフォルメがちょうどいい

四十歳前後の頃に顔面の三分の一くらい髭を生やしていた。二年くらい続いただろうか。ある日剃った。いつもと違う気分で出社した。スタッフの誰も何も言わない。ふだん通りに仕事が始まった。おもしろくないので、女性スタッフの一人をつかまえて、「何か変わったことに気づかないか?」と人差し指を顔に向けて聞いてみた。しげしげとぼくの顔を見たあと彼女は言った。

「メガネ、変えました?」

自分が自分を意識するほどには他人は意識してくれない。自分という存在は、他の誰にとっても光景の中の一対象にほかならない。そこに存在の軽重はあるだろうが、人間も机の上の手帳も路肩の郵便ポストも同列の対象として見えている。ドキドキするくらい派手なピンクのネクタイを締めていったものの、誰からもノーコメントだったというのも毎度のことだ。

無難に常識的に生きようとすれば、無難以下常識以下の人生に終わる。そこそこの仕事、まずまずの品質は、他人の目には「冴えない仕事、粗悪な品質」として映る。インパクトをつけたつもりが、その隣りにそれ以上のインパクトのあるものが並べば、もはや衝撃的な存在ではなくなる。すべての人、物事は別の誰か、別の何かとの比較の上で評価される、相対的関係性における存在なのだ。


他に類を見ないのなら、ことさらデフォルメするには及ばない。それ自体の品質、特徴、便益がすでに「比較優位性」を備えているからだ。意を凝らさなくても、自然体のデフォルメ効果がすでに演出されている、というわけである。力強い事実は誇張を必要としない。無難に常識的に訴求すればよい。ところが、そんな優位性がなければ、印象は客観に委ねられる。たとえば、Aという広告。Aを単独で見る、Aを見てからBを見る、Bを見てからAを見る、ABを同時に見る……同じAであるにもかかわらず、Aが人に訴求するもの、人がAに抱く心象はすべて異なってくる。

優れた特性を備えながらも地味な存在の人やものがある。情報洪水の時代では、いぶし銀と褒められて喜んでばかりはいられない。存在感を意識してアピールしなければ存在そのものが認知されないのである。過度の背伸びや売り込みを好まないぼくでさえ、少々のデフォルメやむなしと考えている。さもなければ、一瞥もくれない、記憶にも残らない存在として闇に消えてしまう。

前例を踏襲するだけの無策に甘んじてはいけない。極論すれば、頑として「非凡」を目指すべきなのだ。非凡を心掛けて実践しても、やっとのことで「平凡よりちょっと上」なのだ。ただ、平凡で地味な存在がいきなり非凡へと方向転換できないだろう。だからこそ、とりあえず「少々デフォルメ」を意識してみる。但し、デフォルメを虚飾や上げ底と勘違いしてはいけない。デフォルメには、品質なり力量なりの裏付けが不可欠なのである。 

考えるきっかけになるネタ

考えるためにはアタマをつねにスタンバイさせておかねばならない。逆説的だが、スタンバイには「何も考えない」状態も含まれる。哲学では、このような思考の空白状態を〈タブラ・ラサtabula rasa〉ということばで表わす。しかし、「この何も考えられない状態がタブラ・ラサなんだ」と高尚ぶって自分を慰めてみても、何も考えられない状況が続くのはやっぱり苦しい。精神力で歯の痛みを軽減できないように、根性を逞しくしてもアイデアは沸々と湧いてはくれないのである。

自動販売機のウーロン茶のボタンを押せばウーロン茶が出てくるが、アイデアはそのようなアルゴリズムに忠実ではない頭という自販機では、お金を入れてボタンを押してもめったに何も出てこないのである。たまに出てきたと思ったら、オレンジジュースを押したはずなのにコーラだったりする。ぼくたちが日々付き合わねばならない首の上の「そいつ」は、まるで詐欺師みたいなのだ。ところが、何ヵ月か何年かに一度、突如として気まぐれな大盤振る舞いをしてくれる。120円しか入れていないのに、缶コーヒーだのお茶だの天然水だのが何本もいっぺんに出てきたりする。


世に数ある発想法というのは、上記のようなアイデアのバーゲンを強制的に可能たらしめるべく開発された。人間誰しも、思考の空白や停止が続くことがある。さっぱり何も考えられない、何も浮かんでこないという時間帯や時期があるものだ。そんな時、ぼくは過去に記したメモを読む。メモが目次の役割を果たして脳内のデータを呼び出してくれることがある。次に、辞書も適当にめくる。ことばとの偶然の遭遇がヒラメキにつながるのを何度も経験している。

過去のメモと辞書に共通するのが、慣用句や諺との出合い――または再会――である。実は、ぼくのノートの3分の1くらいを表現や格言や諺が占めている。諺の、とりわけ比較文化的吟味が、考えるきっかけになってくれることが多い。

たとえば「早起きは三文の徳」。この「徳」を「得」とする俗解もある。いずれにしても、何かいいことがあるという意味。しかし、同時に「三文」はつまらぬものの代名詞でもある。つまり、「早起きしても、メリットはたかが知れている」とも読めるのだ。いや、「早起きしていると、小さいけれど徳が生まれる」と素直に読むのが正解か。

わが国では直截に人間のことを語っているが、英語になると“The early bird catches the worm.”と「鳥」が主役になって、「早起きする鳥は虫を捕まえる」と意味を変える。たいていの鳥は早起きだと思うので、虫を捕まえる鳥とそうでない鳥が出てくるではないかと心配する。三文の徳と虫の値打ちは比べにくい。精神を取るか、虫という朝飯を取るか。前者が「徳」で、後者は「得」になるのだろう。

イタリア語では“Chi non dorme piglia i pesci.”となる。「眠らぬ者は魚を捕まえる」だ。主体が人間になり、虫が魚になる。「早起き程度で何かにありつくなど甘い考えだ」と言われているような気がしないでもない。たしかに「眠らない者」は「早く起きる者」よりも優位に立つに違いない。並大抵の覚悟ではないだろうが、報われれば、虫どころではなく魚にありつける。ちなみに、英語の虫は単数形で一匹だが、イタリア語の魚は複数形で表されている。


ぼくには本題と違うところからネタを探す習性がある。本題にズバリ入ると思考が活性化せず、逆に縁遠そうな情報のほうが考えるきっかけになってくれる。考えに行き詰まったらテーマの足元を去り、ことばの世界を逍遥してみるのがいい。

編集という手間と創造

昨日の午後から始めて、今日は丸一日、おそらく明日の午前まで続く。そんな編集作業をしている。同じテーマについて、これまで書いてきたテキスト3種類(A4判にして45ページ)、パワーポイントのスライド約160枚を、それぞれ1012ページと5060枚に編集する。

編集はさまざまな概念を包括することばだ。再構成あり、加筆訂正あり、取捨選択あり、組み合わせあり、並べ替えあり、項目・見出しの整理あり、情報のアップデート……と数え切れない。松岡正剛の編集工学の本にはさらに延々と編集機能の用語が並ぶ。

結論から言うと、期限に追われず時間があれば、過去に書いたものや作成したものにいつまでも未練を持たぬほうがよい。スピードだけを考慮すれば、最近の思考メモを中心にまとめるほうがうんと速く片付く。通常、白い紙に何かを書いていくほうが創造的で、その分手間もかかると考えるものだ。しかし、たとえ単語を一つだけ書いてあるカードであっても、それが百枚にもなると「編集方針」が必要になってくる。何かの見立てをしないかぎり、にっちもさっちもいかなくなるのが常だ。


期限に間に合う自信があったので、冒険をしてみた。約5時間用のセミナーに改造しているので、まず使えそうなパワーポイントのスライドを60枚に絞った。選ぶというよりも、賞味期限に「?」がつくものを捨てる感覚である。次いで6つのカテゴリーを「仮設」して、そこにパワーポイントのスライドを割り振りしていった。ここまではまずまずうまくいったように思われた。

だが、本来ぼくはテキストを執筆してから、その内容をパワーポイント上の事例なりエピソードによって解説するスタイルを取っている。これと逆の試みをしてしまったわけである。これが難儀なことになってしまった。それぞれのスライドと連動するテキストの行や段落探しが大変なのだ。かと言って、スライドを一枚一枚見ながら、それと関連するテキストを書くのも妙な話である。それは、まるで出来上がった一杯のコーヒーを豆と熱湯に戻していくような、上位概念の逆抽出作業なのだ。

半時間ほど思案。思案している時間がもったいないので、ブログを書くことにした。ブログを書きながら気づいた。一枚のスライドにすべてのテキストなどいらないではないかと。これまでもテキストのすべての内容にスライドを付随させたわけではなかった。だから、その逆もたぶんオーケーである。ほんのちょっぴり、明るい気持ちになって仕事に戻れる。

小さな創造性が役に立つ

幸か不幸か、野心的な商品開発や歴史に残る大発明を目指している人が周りにはいない。少々変わっている人はいるが、たかが知れている。過去もそうだった。したがって、ぼくは狂気と紙一重のようなクリエーターを間近に見たことはないのである。

ヒット商品、大いに結構である。画期的な技術革新、これまた何のケチもつけられぬ。けれども、「千三せんみつ」への飽くなき挑戦のための創造性は、発明発見を職業にしていないぼくたちとは無縁である。一般的な社会人が千回の仕事や作業のうち997回も失敗していたらたちまちクビになる。つまり、ぼくたちが求める創造性というのは、少し段取をよくしたり、小さなアイデアをどんどん出したり、以前よくミスしていたことをうまくできるようになるなど、総じて仕事を一工夫できることに役立つものなのだ。

「企画技法」の研修の中で、ぼくは発想についても言及する。もちろん大発明や偉大なる創造のための発想の話ではない。これまでいろんな発想法を学び試してきたが、だいたいにおいて「固定観念崩し」か「異種情報結び」のいずれかを基本とする。もし小さな創造性だけでも身につけたいのなら、ほとんど正解はこの二つで決まり、と言っても過言ではない。


「固定観念崩し」とは、新しい発想を妨げている「内なる法則」を取り除くこと。長年使ってきた思考回路は多かれ少なかれ、一定の法則でパターン化されている。パターン化されているから、ある意味では便利なのである。いちいち立ち止まらなくても自動的に考えることができるからだ。しかし、これでは再生的思考止まりで、新しい工夫への扉は開かない。

内なる法則は、「一対一」 だけを許容する窮屈な法則だ。一つの刺激に対して決まりきった一つの反応をすることで、「山」に対していつも「川」と反応するようなもの。さらに、二つの概念が密接にくっついて、たとえば「朝食―トースト」、「式次第の冒頭―来賓挨拶」、「外国人―アメリカ人」のように習慣や連想が固定してしまうのもこの法則の仕業だ。概念、連想などが固定するから「固定観念」。

特別な訓練は必要ではない。「一対一」を「一対多」に変えるよう意識すればいいのだ。情報やことばの一つの刺激から複数のことを導くようにする。情報なら少なくとも二通りに解釈し、ことばなら三つ以上に言い換えてみるなど。複数解釈や言い換えは「かくあらねばならない」と強迫されているマインドを「かくありたい」にシフトしてくれる。

本来なら無関係であったり別ジャンルに属している情報どうしを無理やりくっつけてみる。これが「異種情報結び」だ。遊び半分から偶然おもしろいアイデアが浮かんだりする。その昔、おにぎりの中に入っている具は昆布、かつお、梅干が定番だった。今ではバリエーションは豊富である。おにぎりをメシ、ライス、白ご飯、おむすびと呼び換えてみると、お見合い相手の情報も広がる。