断章とあとがき

金曜日に『粗っぽいメモ』について書いた。粗っぽいメモには「気ままな走り書き」も含まれる。息の長い論理の構築を焦らず急がず、テーマの出発点である脈絡のない着眼を忘れぬように書き留める。そこに書き連ねる文章表現や構成は目を覆いたくなるようなお粗末さだ。だが、それでいい、それがいい。気ままな走り書きは「このテーマ、現在さらに考え中」として位置付けることができる。

そこにあるのは、きちんとした章の全体ではなく、アイデアの断片にすぎない。この断片をぴったりと表わす術語が〈断章〉である。断章とは「章を断つ」ことであり、全体を明らかにするのではなく、むしろ全体とは無関係に、取り出した一部のみを意味づける。断章について、哲学者中村雄二郎はその意義を次のように鮮やかに説いている。

同じテーマや素材を扱っても、それをどういう書き方で書くかによって、言えること、言えないことがちがってくる。断章形式で書く場合、比較的長いエッセーで書く場合、書き下ろしの単行本で書く場合、それぞれによって。私の経験では、断章という形式は新しいテーマや素材にとっかかるときか、ある程度展開した考察をまとめるときか、どちらかの場合に概して好都合である。とくに、新しいテーマや素材にとっかかるときがいい。というのは、断章という形式が思考の増殖というか、多方面への自由な展開を促してくれるからである。(『哲学的断章』のあとがきより)


ぼくなりの解釈はこうだ。断章は全体の整合性を先送りし論理の出番を遅らせる、そして、手かせ足かせの負荷のない思考は自由闊達にあちこちへと羽ばたいてくれる。七〇年代の半ばに安部公房の『砂漠の思想』を読んだが、あれも一種の断章だった。その文集を「私の創作手口の公開」と呼び、安部自身、「あまりにも複眼的であり……」、「テーマも、方法も、とにかく拡散的で、時間的にも、空間的にも、おおよそ一貫性を欠いている。どこを目指しているのか、目的地の所在は自分にも釈然としないありさまだ」とあとがきで書いている。先の中村の断章評と大きく隔たった見解ではない。

読みごたえのある断章が章立てされた書物にひけを取らないように、すぐれたあとがきは本編に続く単なる付録などではない。あとがきに目を通してから本文を読むなど邪道のように言われたこともあり、たしかに取るに足らないあとがきも少なくない。しかし、一冊を読了したに値するほどのあとがきも現に存在する。あとがきを書き下ろすために、本文を書いた著者以上の時間とエネルギーを注いだのではないかと思ってしまうことすらある。

最近ではルートウィヒ・ウィトゲンシュタインの『青色本』の野矢茂樹のあとがきが出色の出来栄えであった。同書では「あとがき」などとは書かれておらず、〈解説 『青色本』 の使い方〉という見出しが立っている。もはやあとがき以上の意気込みなのである。野矢は論理学にも造詣の深い哲学者だ。ウィトゲンシュタインを入門書も含むいろんな本で読んだが、なかなか理解の糸口がつかめなかった。この人の『ウィトゲンシュタイン 『論理哲学論考を読む』 』を読んで、やっと原本の『論理哲学論考』がわかった。

あとがきの書き手が本文の著者よりも鋭く本質を衝き、本書よりも洞察に満ちたメッセージをしたためる。あとがきだけで本を読んだふりなどしなくても、実際、本を読んだ以上の成果が上がることもありうるのである。

多様性と多様化

新しい概念であり造語である〈生物多様性(biodiversity)〉を通じて、ごくふつうに使ってきた多様性という表現が別の文脈において変容してきた。生物多様性に思いを馳せておきながら人間多様性をイメージしなければ鈍感に過ぎる。人間多様性とは人類の相貌の多面性のことではない。見た目以上に人間はそれぞれに異質なのである。それゆえ、人間をわずか数種類のパターンに分類できそうもないと思い知る時、そこに個々の考えや欲求や価値観が十人十色であること、すなわち、人間の多様性を実感する。人はみな違う。

他方、人はみな同じだという見方も可能だ。一見多様な見方や思いがあろうとも、共通点を列挙すれば、人は所詮人であることも否めない。これは、個体識別がむずかしそうな蟻を例にあげて「蟻は所詮蟻だ」と言うのとはわけが違う。ぼくたちは、ある種の蟻をすべて個性的であると断定するほど十分に識別などできない。ところが、人間に関しては、肉体的にも精神的にも多様であると認識する一方で、それでもなおかつ人はみな同じであると論じることもできるのだ。裏返せば、「人は似たり寄ったりである」と結論づけるにしても、前提のどこかに人間の多様性をちらりと垣間見ているのである。

生物多様性が論じられるようになったはるか以前、たとえばぼくが学生時代であった1970年前後に人々は今ほど多様ではなかったのか。いや、そんなことはない。あらわに顕在化こそしなかったが、当時の人たちもそれぞれに固有の考えや欲求や価値観を把持していた。ただ、社会に多様性を受容するだけの環境が整っていなかった。仕事もライフスタイルも生き様もいくつかのパターンに嵌め込まれており、いずれのパターンにも色分けされない者はアウトローの烙印を押されてもしかたなかったのである。


いつの時代も人間は多様性の存在であると思う。その多様性の面倒を見切れずに、制限を加えざるをえないのは社会のパラダイムのほうである。今からわずか一世代遡るだけで、「男というものは……」「女というものは……」「仕事というものは……」などに見られる、数少ない型が社会に用意されていた。極端な例が職業で、江戸時代までは大きな概念上の職業には士農工商という四種類しかなく、よほどのことがないかぎり、人間の多様性は無視されて出自という運命的な帰属から逃れることはできなかったのである。

マーケティングの分野では、消費者ニーズの「多様性」とも「多様化」とも言う。ニーズはもともと多様性に満ちているのか、それともますます多様化しているのか……いったいどちらが正しいのだろう。これまでの自論からすれば、ニーズはいつの時代も人の数だけ多様なのである。その多様性の、たとえば60年代・70年代の社会や企業は、十分な受け皿になれなかったのである。コンピュータやテレビや電話へのニーズが実際に多様かつファンタスティックであったことは、子どもたちが描いた絵やサイエンスフィクションが証明している。多様性はあったが、多様化が実現しなかったというのが正しい。

ぼくが若かった時代のアウトローやドロップアウトも、今の時代の多様化システムの中になら収まる程度だったのかもしれない。辛辣な言い方をすれば、昔なら村八分扱いになりそうな異型の個性が今の時代には容認されているのである。とは言え、人間多様性を生かしてくれるこのような社会構造の多様化を原則として歓迎する。但し、ニートにクレーマー、仕事のできない社員に無責任なリーダーたちが無条件に救われていていいはずがない。居場所と棲息方法の多様化は、十人十色の人間多様性を担保しないのである。

届かなくても背伸び

以前『背伸びと踏み台』というタイトルでブログを書いた。背伸びを自力、踏み台を他力としてとらえた話である。よく「お前は背伸びしすぎだ。分をわきまえろ」などとお説教している人がいるが、少し酷ではないか。分をわきまえているからこそ背伸びをしているのである。自分は力不足だ。期待されている「そこ」に手が届かない。だからこそ、不安定になりながらも、爪先を立てて精一杯手を伸ばす。いったいこの努力のどこに問題があるだろうか。何もない。たしかに彼は無理している。だが、たとえ爪先と言えども、自分の足が地に着いているのである。

ぼくは背伸びする人たちをずっと評価し、背伸びのお手伝いができないかと考えてきた。今も変わらない。背伸びは自助努力である。自力を用いようと踏ん張っている様子である。そう、上げ底と取り違えてはいけないのだ。上げ底は見せかけである。そこに実体などない。正味60点の力量に架空の20点をどこかから持ってきてトータル80点の振りをしているにすぎない。背伸びして80点というのは、正味の力量である。たとえ20点分に無理があろうとも20点分が束の間の足し算であろうとも、彼の潜在能力が発揮された結果にほかならない。


マルボロの広告で有名な広告界の巨匠レオ・バーネット(1891~1971)は味わい深い名言をいくつか残している。「商品には固有のドラマがある」ということばから、どんなありふれた商品にも誕生したかぎり隠されたドラマがあり、それを掘り起こし使いこなすのがコンセプト開発者の仕事であることを学んだ。「テーマに没頭し、考え抜き、そして自分の予感を愛し、尊び、それに従うこと」という企画者の姿勢にも大いに共感したものだ。

今もなお、ぼくには「できること」と「できないこと」を分別する合理的精神の趣が強い。「一見できそうもないこと」は場合によっては「一見できそうなこと」でもあるから何とかしようと試みるが、努力が徒労に終わりそうな、「明らかにできないこと」はパスするのである。しかし、二十数年前にレオ・バーネットの一文を知るにおよんで、「できないこと」に向かって背伸びして得られる副次的なメリットにも開眼した。

“When you reach for the stars, you may not quite get one, but you won’t come up with a handful of mud either.”

「(つかもうと)星に手を差し伸べても、一つだって首尾よく手に入れることなどできそうもない。だが、(そうしているかぎり)一握りの泥にまみれることもないだろう」という意味である。ぼくはここに背伸びの効用を見て取る。背伸びは必ずしも目的への到達だけを目指すのではなく、落ちぶれないための、あるいは能力を減じないための歯止めでもあるのだ。背伸びをしなければ現状維持さえおぼつかない。肉体のみならず知力のアンチエイジングのために自らの心身によって背伸びする。上げ底ではエイジング対策にならないのである。

意地を動かす「てこの原理」

法句経ほっくきょう』は、釈迦の真理のことばとして有名な原始仏典である。その中に次のような一節がある。

まことに、みずから悪をなしてみずから傷つき、みずから悪をなさずしてみずからきよらかである。浄と不浄とはおのれみずからに属し、誰も他人を浄めることはできない。

鈴木大拙師はこの一節に言及して次のように語る。

この詩はあまりにも個人主義的すぎるかもしれない。だが、結局は、人は喉が渇いた時には、みずからの手でコップを傾けなければならない。天国、もしくは地獄では、誰も自分の代理をつとめてくれる者はいないではないか。

ぼくには天国も地獄も想像はつかないが、現世においてもこの謂いは何一つ変わらないと考える。常套句を用いれば、「馬を水辺に連れて行くことはできるが、水を飲ませることはできない」ということだ。たとえば、あなたに誰かが手を差し伸べたとしよう。その手をつかむか無視するかは、あなた次第である。つかまなくても、辛抱強い人ならしばらく手を差し伸べ続けてくれるだろうが、そんな奇特な人はめったにいない。やがて手を引っ込めてあなたのもとを去っていくだろう。

正道と邪道があるとき、「こちらが正道ですよ」と誠意を込めて念押ししても、意固地なまでに邪道に足を踏み出してしまう人たちがいる。冷静な慧眼を少し働かせるだけで邪道であることが明らかになるにもかかわらず、これまでの生活様式や価値観が強く自分を支配しているから、意地はめったなことでは崩れない。意地はいつも偏見の温床になる。意地を「我」と言い換えてもいい。


放置しておくと、偏見は増殖し続け重厚長大化する。強い偏見の持ち主は、親しい人が差し伸べるコップの水に見向きもしない「偏飲家」なのだ。彼らは周囲の好意を拒絶して、ますます邪道へとひた走る。排他的な一つの意地ほど具合の悪いものはないのである。どうすれば、こんな愚に目覚めることができるだろうか。おそらく、己の意見とその対極にある異見・・の間の往復運動によってのみ、ぼくたちは偏見を揺さぶることができるように思う。

しかし、どんなにあがいても、「時代が共有する偏見」から完全に逃れることはできそうもない。そもそもぼくたちが今を生きるうえで身につけてきた知は時代を色濃く反映している。時代の基盤にある知の総体的な枠組み――いわゆる〈エピステーメー〉――はぼくたちをマリオネットよろしく操る見えざる指使いなのである。それでもなお、その枠内にあって頑なな意見の影に異見の光を照射することはできないものか。ぼくはそのように考えて、異種意見間の対話やディベートに一縷の望みをかけてきた。

ある意見に対する異見は「てこ」になってくれる。〈てこの原理〉とは、言うまでもないが、労力少なくして重いものを動かすことだ。残念ながら、てこの役を引き受けてくれる人はおいそれとはいない。しかし、心配無用、個人的な意地も時代の偏見をも動かしてくれる貴重なてこがある。それは時代を遡って出合う古典の知だ。古典は、ぼくたちを縛りつけている意地や偏見を持ち上げて、「一見でかくて重そうに見えるが、張り子の虎さ」と言わんばかりにお手本を示してくれる。お手本はぼくたちの知を整えてくれる。

但し、無条件的・無批判的に古典に迎合するのも考えものだ。時には、己のてこでずっしりと重くのしかかる古典のほうを揺り動かしてみるべきだろう。意見に対する異見、その異見に対する別の異見、そのまた異見……必ずしもジンテーゼを目指す必要はなく、テーゼとアンチテーゼを繰り返すだけでも偏見をある程度封じ込めることができるのである。

三昧とハードワーク

その昔、集中力のない人がいた。筋金入りの集中力の無さだった。気も心もここにあらず、ではどこかにあるのかと言えば、別のところにもなく、耳目をそばだてているかのように真剣な表情を浮かべるものの、実は何も聞いていない、何も見ていない。彼には、あることに専念没頭して心をとらわれるようなことがないようだった。成人してからは、寝食忘れて何とか三昧に入ったこともなかっただろう。時にがむしゃらさも見えたが、がむしゃらは三昧の対極概念だ。彼は仕事の効率が悪く、苦手が多く、そして疲れやすかった。

三昧は「さんまい」と読む。釣三昧や読書三昧と言うときには「ざんまい」になる。手元の『仏教語小辞典』によると、サンスクリット語の“samadhi”(サマーディ)を音写したという。もともとは不動にして専心する境地を意味したが、仏教語から転移して今では「我を忘れるほど物事に集中している様子」を示す。三昧は立派なことばなのだが、何かにくっつくと意味変化する。たとえば「放蕩三昧」「博打三昧」になれば反社会的なライフスタイルを醸し出す。

突然話を変えるが、勉強や仕事をし過ぎて何が問題になり都合が悪くなるのかよくわからない。昨今ゆとり教育への反省が急激に加速しているが、そもそも何事かを叶えようと思い立ったり好奇心に掻き立てられたりすれば、誰もゆとりのことなど考えないものである。それこそ三昧の場に入るからだ。ゆとりは必ずしもスローライフにつながらない。むしろハードワークゆえにスローライフが約束されることもある。「教育が生活からゆとりを奪う」などという主張は、教育がおもしろくないことを前提にしていた。言い出した連中がさぞかし下手な授業をしていたのだろう。おもしろくて、ついでにためにもなるのなら「~し過ぎ」などということはないのである。


今年の私塾の第2講で「広告の知」を取り上げ、デヴィッド・オグルビーにまつわるエピソードをいくつか紹介した。オグルビーの著書にぼくの気に入っている一節がある。

I believe in the Scottish proverb: “Hard work never killed a man.” Men die of boredom, psychological conflict and disease. They do not die of hard work.
(私は「ハードワークで人が死んだ試しはない」 というスコットランドの諺は正しいと思う。人は、退屈と心理的葛藤と病気が原因で死ぬ。ハードワークで人は死なないのだ。)

ハードワークについての誤解から脱け出さねばならない。ハードワークは、誰かに強制されてがむしゃらに働くことや学ぶことなのではない。嫌なことを強制的にやらされるから過労・疲弊に至るのである。ハードワークは自ら選ぶ三昧の世界なのだ。そのことに「何もかも忘れて、入っている状態」なのだ。「入っている状態」とは分別的でないこと、あるいは相反する二つの概念を超越していることでもある。これと同じようなことを、維摩経では「不二法門ふにほうもんに入る」とも言う。そのような世界には、過度ということなどなく、むしろゆとりが存在する。対象を認識せず、気がつけば対象に一致・同化している。

「愛しているということを、愛しているという認識から区別せよ。わたしはわたしの眼前に愛を見てとるほうではなく、この愛を生きることのほうを選ぶ。それゆえ、わたしが愛しているという事実は、愛を認識していないことの理由になる」
(メルロ=ポンティ)

この愛を生きることが、とても三昧に似通っていると思われる。仕事・学習を生きることが三昧的ハードワークなのである。これに対して、仕事・学習を対象として認識し「仕事を頑張ろう、勉強しなくては」と考えるのは三昧などではない。それどころか、物理的作業の度を過ぎて困憊してしまうのだ。ともあれ、三昧を意識することなどできない。意識できた三昧はもはや三昧ではない。我に返って「あっ、もうこんな時間か。結構はかどったし、いい仕事ができたな」と思えるとき、それが三昧であり疲れを残さないハードワークだったのである。

推論と「正答」について

「正答」という表現が妙に不思議に見えてくる。常識世界では〈11〉には一つの正答が存在する。正答のない問題を学校は出題しないし、また正答が複数あるような問題の採点に教師は苦労するだろう。極端なアマノジャクでないかぎり、〈112〉を認めざるをえない。だから、「11は?」と聞かれて「2」以外の答えを書いたら間違いとされる。

こんなふうにただ一つの答えを覚えたり導いたりする習慣を身につけてしまったのがわが国の大人たちだ。必然、「人生とは何か?」や「世界とは何か?」や「日本と中国の関係はどうあるべきか?」などにも唯一の正解が――自分のアタマで編み出されるのではなく、どこかにすでに――あるように錯覚してしまう。

一つの答えしかないという、学校時代と同じような場面は実社会ではめったに現われない。実社会ではふつう解は複数存在する。いや、解をどこかから探してくるというよりも、解を捻り出さねばならないのである(これは決断の一つ)。ある問いや課題を前に、ぼくたちはありったけの知識によって考え、何らかの答えを導く。このような導出は演繹的推論と呼ばれるが、答えは推論によって編み出される。自分の推論を他者に説得できれば、それがひとまず正解になのである(年初に正解創造について書いた)。

ところで、受講生の興味をくすぐるために、論理講座の冒頭でいくつかのクイズを出題することがある。以前、その一つに競馬の話があった(逢沢明著『論理力が身につく大人のクイズ』を参照してアレンジしたもの)。「アメリカの作家マーク・トウェインは、競馬を成立させているものは『これだ』と喝破した。いったい何が競馬を成立させているのだろうか?」という問いである。三択なのだが、選択肢を見ないでしばし考えていただきたい。


この問いは正解を求めているのではない。もとより正解など誰も決めることはできないし、仮に決めるにしてもたった一つではないだろう。ごく常識的に考えれば、競馬は馬、競馬場、調教師、騎手、厩務員、馬産地、馬主、競馬ファン、血統……など長いリストの複合要因で成り立っている。したがって、上記の問いがぼくたちに期待するのは、マーク・トウェイン自身が想定した競馬成立要因の最たるものを推論することである。では、もったいぶらずに三択を示すことにしよう。

競馬を成立させているのは、意見の相違だ。

競馬を成立させているのは、強欲な人間だ。

競馬を成立させているのは、勤勉な馬だ。

さあ、どれがマーク・トウェインの主張だったのだろうか(ちなみに、「辛辣な皮肉家マーク・トウェイン」と言っておけば、大勢が➁を選ぶようになる)。


まず、➂を検証してみよう。たとえば10頭の馬が走るレースの場合、ごく稀に同着があるものの、1着から10着までの着順が決まる。わが国には馬券の種類がいろいろあるが、いずれも3着までが配当対象。だから、1着、2着、3着さえはっきりすればいい。別に馬が勤勉だろうと怠けようと順位がつくのはほぼ間違いない。馬がまじめである必要などまったくないのである。

次に➁はどうか。これも強欲だろうが少欲だろうが無欲だろうがかまわない。馬券さえ買ってもらえればいいのである。本気か遊びかは問わない。

消去法的には、どうやら➀の「意見の相違」がマーク・トウェインの考えらしい。念のために推論してみよう。あるレースで馬券購入者全員がただ一頭の単勝馬券を買えば、的中しても儲けはなく、買った分だけの金額しか戻ってこない。これを「元返し」と呼ぶが、実際は馬券売上の25パーセントは控除され、残りの75パーセントが配当に振り分けられるので、もし全員的中などということがあれば、100円で的中しても75円しか返ってこないことになる(ぼくはこれ以上詳しくは知らない。そんなことが万が一あれば、主催者側は売上のすべてを還付するのかもしれない)。

もうお分かりだろう。競馬ファンにはそれぞれのお気に入りの馬や狙いの馬がいる。お気に入りと狙いが極端に集中した例としては、ディープインパクトの菊花賞での約80パーセントが記憶に新しいが、こんなケースは例外中の例外。そこそこ人気の馬でもめったに占有率50パーセントには届かないから、競馬ファンの意見は見事に分かれるようになっているのだ。すべてのレースでみんなが同じ馬券を買えば、競馬は破綻する。いや、運営する意味がなくなってしまう。意見の相違こそ競馬成立の要因なのである。

以上がぼくの推論である。三択でなければ、「競馬を成立させているものは、必勝法の不在」とぼくは答える。完全必勝法が誕生すれば、競馬は賭けの対象ではなくなるからだ。ともあれ、ぼくはこの問いを、民主主義と二重写しにして考える。「民主主義は意見の相違によって成り立っている」。

全体と部分の関係

よくある折りたたみ式のヘアドライヤーを使っている。整髪のために使うのではなく、濡れた髪を乾かすためである。そのドライヤーの折りたたみ部のプラスチックが欠けた。小指の爪ほどのかけらだ。「強力瞬間接着剤」で何度もくっつけようと試みたが、100円ショップで買ったその接着剤、まったく強力ではない。くっつくことはくっつくのだが、折りたたみ部を伸縮させるとすぐに剥がれてしまう。それ以上意固地にならず、また、買い替えようとも思わず、機能そのものにまったく支障がないので今もそのまま使っている。

これは、部分の欠損が全体に対して特段の影響を及ぼさないケースだ。しかし、さほど重要ではない部分が全体の価値を落としてしまうこともある。たとえば、チャーハンに入っているグリーンピースやカレーライスに添えられた福神漬け。これらの取るに足らない脇役のせいで食事を心から楽しめていない人たちがいる。彼らは、嫌いなグリーンピースを福神漬けを悪戦苦闘して排除しようとする。全体に関わるマイナスの部分に容赦ならないのである。

実は、ことばというものは、ある文脈でたった一語が足りないだけで意味を形成しづらくなる。ことばはお互いにもたれ掛かってネットワークを構築しているので、ある語彙の不足・忘却は既知の語彙全体の使い方にも影響を及ぼす。

では、頭の働きはどうなのだろうか。人の身体には欠損を補おうとする機能がある。アタマも同様で、たとえば左脳に傷害が起こると右の脳が部分的に代役を務めることはよく知られた話だ。だが、精密機械の小さな一部品の故障が機械全体の不具合を招くように、言語と思考は一つの異常や不足によって全体の磁場を狂わせてしまうと考えられる。個がそれ自体で独立しているのなら不都合はないが、おおむね個は全体あっての存在なのである。だからこそ、個の問題はつねに全体に関わるのだ。


「全体は部分の総和以上であり、全体の属性は部分の属性より複雑である」

これはアーサー・ケストラーの言である(『ホロン革命』)。ケストラーによれば、「複雑な現象を分析する過程で必ず何か本質的なものが失われる」。つまり、全体を個々の部分に分解しても全体と部分の総和はイコールではないということである。このことは少し考えてみれば納得できる。レシピの材料の総和以上のものを料理全体は備えているし、住宅はあらゆるコンポーネントを組み立てた以上の存在になっている。

腕時計の完成形という全体構想に合わせて部品が作られ集められるのであり、一軒の家の設計図があって初めて柱や壁や屋根やその他諸々の部材が規定されるのである。決して部分を寄せ集めてから全体が決まるのではない。この話は、総論と各論の関係にも通じる。意見の全体的なネットワークを総論とするなら、各論が勝手に集まって総論を形づくっているのではない。思想や価値観の根幹にかかわる、その人の総論がまずあるべきなのだ。

人の顔色を見てそのつど間に合わせの各論を立て、それらの各論を足し算したら総論になったなどというバカな話はない。総論はさまざまな意見の全体を見晴らしている。それはつねに漠然としながらも、人生や世界や他者に対して変わりにくい価値を湛える。総論という意見のネットワークにはもちろんケースバイケースで各論が入ってくる。それはまるで、時計や家にソリッドな堅強系の部品とデリケートな柔弱系の部品が共存するようなものだ。各論に極論があってもいいが、総論には全体調和論がなければならないのである。

押し入ってくる情報

リチャード・ワーマンの『情報選択の時代』が発行されたのが1990年(翻訳は松岡正剛)。原題“Information Anxiety”は「情報不安」という意味である。同書の第1章には次の記述がある。

毎週発行される一冊の『ニューヨーク・タイムズ』には、十七世紀の英国を生きた平均的な人が、一生のあいだに出会うよりもたくさんの情報がつまっている。

それはそうだろうと思うかもしれない。なにしろ400年前との比較なのだから。しかし、よく考えてみてほしい。ぼくたちが一週間に耳にし目にする情報は週刊の『ニューヨーク・タイムズ』一冊程度ではないのだ。テレビにインターネット、毎日の新聞に会話、雑誌に書籍、それに仕事上の諸々の情報を総合すれば、一週間でかつての英国人の生涯五回分の情報に晒されている計算になる。これは一年で「二百五十回の生涯」、60年でなんと「一万五千回の生涯」に相当する情報量に達する。

IT時代に突入する前、情報にまつわるキーワードが「情報収集」だったことを思い出す。昨今、この四字熟語にはめったにお目にかかれない。情報を集める必要がなくなったのである。情報は勝手に集まってくる。メディアに対して自分を開いておきさえすれば、大多数の人々にほぼ同量で同質の情報が「押し入って」くる。そして、その量たるや、情報洪水などという表現が甘く響くほどの凄まじさなのだ。


前掲書『情報選択の時代』は、20年前に情報不安症の兆候を察知していた。どんなに爆発的な量の情報にまみれても、人は情報が足りない不安にさいなまれる。このような予見をするからこそ「自制的選択」を基軸にした情報行動を強く意識せねばならないのである。情報選択とは、一般人にとっては広範囲から少量ずつ主体的に取り込むことだろうと思う。腹一杯情報を消化せねばならない理由など微塵もない。

知らなくてもいいことが次から次へとやってくる。こちらの優先順位などにはお構いなく、ただでさえ情報の扱いに四苦八苦している記憶の領域に闖入し占拠してしまう。手元にあるいくつかの情報だけで十分に仕事に役立てることができるにもかかわらず、押し入ってきた情報をちらっと見たのが運の定めか、もはや手に負えなくなって仕事が遅滞してしまう。そんな連中を最近とみに目撃するようになった。

そうなっては抵抗不可能である。窓越しに覗いたら隣りの垣根のすぐ向こうに情報が迫ってきている……そんな気配を感じた時点で手を打たねばならない。「知らなくてもいい情報がやってきても、知らん顔をして受け流せばいい」と油断していると手遅れだ。なぜなら、それが知らなくてもいい情報だと知ってしまった時点で感染しているからである。対策はただ一つ。週に何度か、自分が持ち合わせている知識で何とかやりくりする、〈情報鎖国主義〉を貫くのだ。決して自知防衛を怠ってはいけない。

理念不履行の人々

何らかの理念を標榜するかぎり、その理念で謳っている目的なり善行なり約束なりを日々実践することが期待される。たとえば、「顧客に最高のおもてなしを」と記述された理念は目的であり善行であり、そして約束であるだろう。目的を遂げること、善行をおこなうこと、ひいては公言した理念の約束を守ることのすべてを平気で怠るのなら、そもそも理念など標榜することはない。理念と現実は完全一致することは稀だが、少なくとも現実がたゆまなく理念に近づくよう仕向けなければ、理念の意義はない。

プラトンのイデア論はさておき、ひとまず強調しておきたいのは、ぼくたちが理想世界と現実世界の両方を同時に生きているという点である。もし理想世界を描かないのなら、現実世界のありようを定めるすべはない。理想と現実の間に横たわる隔たりはつねに現実側から埋めるべく対処せねばならないのである。さもなくば、理想の高みを諦めてかぎりなく現実に落とすしかない。それは理屈抜きに現実を生きることを意味する。

死刑廃止を理念とする論者は、わが国にあっては死刑制度の維持という現実に対峙する。死刑廃止が自身の揺るぎない人生哲学なら、制度廃止への努力を不断に続けなければならない。したがって、ふつうに考えれば、その論者が現実に死刑執行を命じる立場にある法務大臣の任に就くべきではないということになる。しかし、変な喩えだが、ダイエットを理想としながら食を貪ってしまう現実があるように、あるいは、一流のプロフェッショナルを理想としながら一・五流のプロフェッショナルとして当面の仕事をこなさねばならないように、死刑廃止論者にもかかわらず死刑執行の命を下さねばならない現実は当然ありうる。しかも、死刑制度を維持する国家の法務大臣という現実の中にあってさえ、執行命令を下すべき「理想」を回避して、見送るという「現実」を選択したお歴歴も大勢いたことは事実である。


中村元の『東洋のこころ』に次の一節がある。

かれら(アーリヤ人)は民族的自覚が弱かった。今日に至っても宗教が中心になるので、ヒンドゥー教徒であるとか、イスラーム教徒であるとか、宗教的自覚に基づいて行動します。(……) これに対して日本人は宗教意識が弱くて、むしろ人間的結合、組織というものを重んじます。この違いは、遠く民族の原始宗教の時代までさかのぼることができます。
(括弧内および下線は筆者の補足)

少々強引だが、宗教的自覚ないし宗教意識を「理念」に置き換えてみたらどうだろう。新年に寺に参り、神社の夏祭りに興じ、友人の結婚に際して教会で賛美歌を歌う。合格祈願の鉢巻をして祈り、神棚に手を合わせる。無神論者が御守を携え縁起をかつぐ。必要に応じて都合よく神や祈りを使い分けるご都合主義は、国家や経営の理念を掲げながらも現実の人間関係や組織の状況を優先するのに酷似している。皮肉まじりで嘆いているのではない、理念通り哲学通りにまったくぶれないで現実を生きることには覚悟がいると言いたいのである。

かつて「日本人には原理原則がない」と『タテ社会の人間関係』で主張した中根千枝が、世界の人々に大いなる誤解を与えたと一部の識者に批判を浴びたのを思い出す。この四十年余り、とりわけ昨今の政治的リーダーシップや企業倫理を見るにつけ、原理原則の不在に反論する気は起こらない。まったくその通りなのである。タテマエでは理念を崇高な善として祭り上げながら、ついつい現実に流されて都合よく理念を棚上げにする風潮は廃れていない。いや、中村元によれば、「遠く民族の原始宗教の時代までさかのぼる」のだから、もはやDNAレベルと言うほかない。

理念不履行の人々が最大派閥を形成するこの社会。時には理念に反する現実にやむなく迎合せねばならないという都合――よく言えば、柔軟性――は、ぼくたちの行動や約束ぶりに内蔵されている。理念は形式であって、現実が内容なのである。理念と現実を天秤にかけること自体がもはや理念主義ではないのだが、その天秤はいつも現実のほうが重くなるようにしつらえられているようだ。理念不履行の人々を糾弾する気はないが、切羽詰まった挙句に理念を軽く扱うのなら、最初から現実主義で生きればいいのである。この国の風土で形成される理念はきわめてもろい。「できもしない、やる気もないことをつべこべ言う前に、さっさと仕事をしろ!」と乱暴にぶち上げた昔気質のオヤジの一理は渋くて強い。

けちをつける愉しみ

「人は忘れる。だから生きていける。」 

缶コーヒーの車内広告である。缶コーヒーの宣伝に「忘却と人生」? なかなか凝ったものだ。商品写真横のキャプションには「強く、香る。強く、生きる。」とあって、このコピーライターが「生」をコンセプトにしたのは間違いない。生きることに強くこだわるような事情があったのだろうかと勘繰ってしまう。コーヒーとはいえ、ちょっと焙煎過剰な表現に場違い感を受けた。

たかが広告ではないか。こんな些細なことにけちをつけることはあるまい。けれども、ぼくはけちをつけ毒舌を吐くことを愛情もしくは関心の一表現または一変形だと思っている。そもそも人はどうでもいいことに対して肯定も否定もしないだろう。また、眼中にすらないことをわざわざ話題として拾わないだろう。それゆえ、言いがかりやイチャモンをつけるのは、対象を批評に値すると承認している証にほかならない。反証されることは自慢すべきことなのである。

(……)役所に猛烈な苦情や文句をぶつけるばかりで、みずから解決のために奔走することを考えもしない「クレーマー」たち。(……)「クレーマー」は他者の責任を問いつめるが、そのクレームが「もっと安心してシステムにぶら下がれるようにしてほしい」という受け身の要求であることに気づいていない。(鷲田清一著『わかりやすいはわかりにくい?――臨床哲学講座』)

ぼくは上記の引用にあるようなクレーマーではない。広告の文章にけちをつけはするが、苦情や文句をメーカーにぶつけてはいないし、責任を問いつめもしていない。ぼくは真摯かつ臨床哲学的かつ愉快に広告コピーを検証しようとしているのだから。


クレーマーがつけるけちは理不尽であり、相手が弱いと見るや際限なく垂れ流され増長し続ける。ぼくは、消費者があまり見向きもしない車内の小さな広告を気に留めて、「ダメだ!」などと声を荒げもせずに、静かにけちをつける。このコピーライターは、そしてゴーサインを出した広告主は、なぜ「人は忘れる。だから生きていける。」などという大胆な命題を見出しにしたのか、いったいその真意はどこにあるのだろうか……というふうに。この広告のヘッドラインになっている命題の真偽を、あるいは蓋然性を問うてみるのはおもしろいと直感した。

生きていくうえで忘れることが時々たいせつであることを認める。しかし、「忘れるから生きていける」は論理の飛躍だ。前提が少なくとも一つ足りない。よろしい。論理の飛躍をオーケーとしよう。たしかに、忘れるそいつは平気で厚かましく生きていけるだろう。しかし、忘れる当人の周囲がどれだけ迷惑していることか。ぐいっと缶コーヒーを飲んで何もかも忘れて、そいつは今日も明日も生きていくだろう。だが、やっぱりそんな記憶力の乏しい者は仕事ができるはずもないから、また人さまに迷惑をかける。

「人は忘れる。だから生きていける。」は、「人は忘れる。だから生きていけない。」という反対命題によって揺らぐだろう。もしかすると、命題は崩されてしまうかもしれない。また、「人は忘れない。だから生きていける。」という思い出重視派からの反論も有効になるだろう。いずれにしても、缶コーヒー一本で嫌なことを忘れて生きていこうというのがメッセージなら、そこで消し去ろうとしている記憶そのものが取るに足りないものであることは間違いない。

現在日本社会が抱えている大半の問題が、人々が忘れることによって繰り返されているのを見るにつけ、とりあえず安易な忘却に異議申し立てしておく。「ぼくは忘れない。だから生きていける。」