三人寄れば……

「三人寄れば」とくれば「文殊の知恵」。なぜ「三」であって「二」ではないのか。三のほうが和するというのは根拠不十分だし、二は対立や背反を感じさせてネガティブであるというのも深読みすぎる。生半可に考察するわけにはいかない。「女三人寄ればかしましい」というのもあるから、三が二よりも優位であるとも言い切れない。二よりも三が座りが良い感じがしないでもないが、これも偏見かもしれない。

三人寄れば

「三人寄れば文殊の知恵」に相当する英語は、“Two heads are better than one.”である。直訳すると「二つの頭は一つよりもすぐれている」。三人ではなくて二つの頭、つまり、二人の頭脳なのである。英英辞典をひも解くと、“Two people working together can solve a problem quicker and better than a person working alone.”と説明されている。「一人でするよりも二人一緒にするほうがより速く上手に問題が解決できる」と言っている。

「一人より二人のほうがいい」と明言する英語に対して、「三人が二人や一人よりも優れている」などと言わずに、ポツンと(あるいはさらりと)三人を持ち出し、それが文殊の知恵になるんだよと言うのは日本的なのだろうか。ちょっと気になるので、他言語ではどういう表現をしているのか調べてみた。


“Deux avis valent mieux qu’un.” フランス語では「二人の意見は一人の意見よりも価値が高い」と言う。英語で頭だったのが意見に変わるが、「2>1」である。“Due teste valgono più di una.” イタリア語は英語と同じで、「二つの頭」であり、これも「21」。ドイツ語はどうか。“Vier Angen sehen mehr als zwei.”  英仏伊と違い、「四つの目が二つの目よりもよく見える」である。意見や思考が眼力に変わる。しかし、お化けでないかぎり、四つの目とは二人のことだから、これもまた「21」だ。

ここで、欧米では「21」というのが一般的と書こうと思ったが、念のためにスペイン語をチェックしてみた。“De un consejo de tres emana la sabiduria.” 調べてよかった。「三人の助言から知恵が生まれる」。「三が二や一よりも優れている」とも言っていない。これは「三人寄れば文殊の知恵」に酷似している。他にも例外があるに違いない。しかし、少なくとも英仏伊独の「二」と日本の「三」は対照的である。東洋思想では「三」が縁起のいい数字であると何かに書いてあった記憶があるが、確証はない。

さて、「三人寄れば文殊の知恵」の三人がどんな人間を想定しているのかが気になる。「全体は部分の総和に勝る」(アリストテレス)に従えば、全体が文殊の知恵であるから、部分は文殊の知恵以下ということになる。おそらくこの三人はどこにでもいる凡人なのに違いない。凡人でも頭を寄せ合って意見を言い合い相談してみたら、文殊菩薩レベルのアイデアが出るということなのだろう。但し、誰もが経験する通り、その確率は高くない。これは一種の励ましと見るのが正しい。一人でできることが三人寄ってたかっておじゃんになることも稀ではないのだから。

告げたつもり

「わらうべしー、わらうべしー」と車掌が次の駅名を告げている。たまにではあるが、この路線を利用しているから、自分が乗車した駅名も降車予定の駅名も、その両駅の間の二つの駅名も、当然すべて知っている。だから「次は、わらうべしー、わらうべしー」と聞こえても、それが「(次の駅で)笑うべしー」と告げられているとは思わない。

「ありがとうございます」が「あざーす」に化けるほどの変態メタモルフォーシスではないが、「わたなべばしー(渡辺橋)」が「わらうべしー(笑うべしー)」に聞こえてしまうのも一種の変態作用である。人によってはお笑い芸人の「笑い飯」に聞こえるかもしれない。もちろん、車掌は「わらうべしー」とか「わらいめし」と発しているのではなく、生真面目に「わたなべばしー」と告げている。ちなみに、「しー」と音引きにするのは駅名を告げる時の車掌の職業的な習慣または癖である。

どんなに発音が本来あるべき音からズレていても、アナウンスする車掌がマイクに向かって面倒臭そうに発音しても、ぼくの聴き取りにはまったく支障がない。正確に言うと、ぼくは聴き取ろうなどと意識すらしていない。ただ聞こえてきた音があり、それがぼくの脳内発音辞書の「わたなべばし」に照合されたのである。仮に車掌が「次は、わーしー」とかなりいい加減だったとしても、聴き取れたはずである。

京阪中之島線

「浪華八百八橋」と言われただけあって、大阪には橋が多い(実際は二百ほどらしい)。この路線は京阪中之島線。堂島川や大川が流れる地下を走るだけに、橋がつく駅名も少なくない。京橋、天満橋、なにわ橋、大江橋、渡辺橋という具合で、橋の駅が五つ連続している。

閑話休題――。正確でない音から正確な音を推理できるのは、すでに知っているからである。母語であれ外国語であれ、ど真ん中のストライク以外にいろんなストライクがあり、大暴投のボールでないかぎり、その言語に通じた受け手は音を聴き取るのである。人はおおむね決まった発音体系で喋るが、認識にあたってはアバウトな発音まで含めていろんな音を聴いて意味付けることができるようになっている。

どんな乗客にもわかるように明瞭な発音で駅名を告げる車掌もいれば、発音など意識せずにただ告げるだけの車掌もいる。ここに、告げて伝わることと告げても伝わらないことが対比される。告げるとはボールを相手に投げることである。伝わるとはボールが相手の構えているミットに入ることである。告げると伝わるは違うのだ。ぼくたちは、使い慣れたことばをいつもの音で発話する。そして、そのことばや音になじみの薄い相手の理解負担を増やしている。告げたからと言ってほっとしてはいけない。たいていの場合、告げたつもりになっている。告げたことが伝わるところまで見届けてこそのコミュニケーションなのである。

タレですか、塩ですか?

ことばの扱い一つが社会の文脈の中で決定的になることがある。軽い発言が思わぬ波紋を広げたり、表現が誤解されて致命傷になったりする。対話では、双方が織り成す文脈において、議論が合意に向かおうが対立に向かおうが、波長を合わせる努力は欠かせない。何についてどう感じているのか、そして何を言うのかに怠慢であってはならないのである。

なにも社会的文脈などと大仰に構えることもない。もっと身近な日々の生活、たわいもないやりとりの中でも実感する。ロジックということばを持ち出したりすると、難しい話だと思われるが、即興の会話の中でも底辺にロジックが横たわる。きみがそう言うからぼくがこう応じ、ぼくがこう応じたからきみが次にこう言う……というのは、最初の発言が前提となってつながる様子そのものではないか。即興とは特殊であり、一回きりのものである。相手が誰であるかに構わずいつでもどこでも同じことを言うのはアルゴリズムであって、そんなものは文脈を読まない音声合成マシーンか、社交辞令好きに任せておけばいい。

もっとわかりやすく言えば、相手のことばを今まさに生まれ出たことばとして取り扱わねば、自分が発することばにも〈いのち〉がこもらないのである。若者に「きみには尊敬する人がいるか?」と尋ねたら、彼は「人生、出合う人はみんな師です」と答えた。そんなことを聞いてはいない。そんな答えを返されると、それ以上ことばを継げないではないか。「尊敬する人ですか。ええ、いますよ」「それは誰?」「吉田兼好です」「へぇ、渋いところに行くねぇ。それは、またどうして?」……という具合にロジックが通ってほしい。


焼鳥屋

二十数年前になるだろうか、大阪の郊外に住んでいた頃の話。地下鉄からJRに電車を乗り継ぐ時に焼鳥屋に寄ることがあった。場末ということばがぴったりの路地裏の店である。一度目は店主の手際のよい仕事ぶりが印象に残った。二度目にはその手際の良さが客とのやりとりの中から生まれていることに気づいた。

ある客が「キモと皮を一本ずつ」と注文する。店主は間髪を入れずに返事しない。絶妙のがあって、「キモはタレですか、塩ですか?」と聞く。客が「タレ!」と発し、次いで「皮はタレですか、塩ですか?」とつなぎ、客が「塩!」と答える。三種類注文すれば、三回聞き返されるのである。

店主は「手羽はタレ? 塩?」などと手抜きせず、相手が常連なのに「手羽は塩ですか、タレですか?」とていねいに聞く。常連もちゃんと心得ている。「塩でお願いします」などと野暮は言わず、まるで合図のように「塩!」と威勢よく答える。「せせりはタレですか、塩ですか?」「塩!」……ト書きを省いて書けばこんな具合になる。これをぼくはロジックと表現したまでである。そう、ロジックにはリズムがあるのだ。

ある日、「ロジック崩し」をしたくてたまらなくなった。タイミングを狂わせたり、ことばをオーバーラップさせたりという程度のお茶目ではない。「ハートとキモ一本ずつ。ハートは塩、キモはタレで」と一人で完結するという暴挙に出たのである。店主はぼくに視線を投げ、うつろなまなざしのままフリーズした。その後の店主の調子はいつもとは違った。ロジックの崩れかたはぼくの想像以上であった。ロジックはたぶん折れたのだった。そして、その日がこの店にお邪魔した最後の日となった。

うんめい【運命】

『広辞苑』は「運命」を次のように定義している。

人間の意志にかかわりなく、身の上にめぐって来る吉凶禍福きっきょうかふく。人生は天のめいによって支配されているという思想に基づく。めぐりあわせ。転じて、将来のなりゆき。

運命とサイコロ

「なあんだ、それならサイコロと一緒じゃないか」とつぶやく向きがあるかもしれないが、これを低次元だと一喝するわけにもいかない。サイコロの目は天の命に支配されていないことを反証するのが厄介だ。とは言え、サイコロを転がそうと思う時点で人間の意志は働いている。そして、2個のサイコロの目の合計は2から12に限定されるから、吉凶禍福と言ってもさほど複雑ではない。しかも、たかがお遊びである。


ぼくたちは運命そのものだけを単独で語りがちだが、西洋では古今を問わず、運命を扱う名言・格言のほとんどは「女神」とセットになっている。紀元前のギリシアの哲学者テオフラストスは「人生を支配するのは運命の女神であり、人間の知恵ではない」と言い、古代ローマの喜劇作家プブリウス・シルスは「運命の女神はガラスでできていて、輝きが頂点に達すると壊れてしまう」と言った。『デカメロン』を書いたボッカチオ(14世紀)にも次の格言がある。

運命の女神はほほえみをたたえて、胸もあらわな姿を見せるが、一度だけのことである。

一度とは残念であるが、いいように解釈すれば、一度は胸をあらわにして微笑んでくれるのである。この歳になるまでお目にかかったことがないので、ボッカチオが正しければ、まだチャンスがあるはずである。

何を今さら運命の話をしているのかと言えば、40年前の古いノートに悪魔の辞典風に運命を綴った断片を見つけたからである。当時、運命については諧謔を弄しており、かなり冷笑的であった。次の通り。

運命。それは……

      • 否定的言辞である。
      • イソップ物語の犬が、川の中に肉を落としてしまった時に、心中ポツリとつぶやいたことばである。
      • 過失による過去の汚点を一瞬にして消し去ることのできる、荘厳にして重厚なる消しゴムである。
      • 歴史上著名なかの音楽家が、それなくしても著名であり得たにもかかわらず、それなくしては自己完結できなかったところの不可解な概念である。
      • 定まらぬ道から抜け出て、意識的に生き方を定めようと喘ぐ男が、命を運ぶことによって自己を定める墓標である。
      • 万能のはさみである。
      • 昨日までの怠惰を肯定するために今日の怠惰を否定し、その結果、明日からの怠惰を肯定し得る魔法の杖である。

食欲の秋に思う

食欲の秋、実際に食欲は増進するのだろうか。そして、摂取食事量も他の季節よりも増えるのだろうか。食材が豊富に出回るこの季節、みんなせっせと食べているのだろうか。いや、そうとはかぎらない。食欲の秋に食欲不振に陥る残念な人もいるはずである。

事実をどれだけ反映しているのかわからないが、“Amore, cantare, mangiare”(アモーレ、カンターレ、マンジャーレ)はイタリア人を象徴する三大動詞と言われる。「恋する、歌う、食べる」。彼らが惚れっぽいのは映画を観ていればうなずける。歌うのはゴンドラの漕ぎ手やレストランの流しの歌手を見て知っているが、猫も杓子も歌うカラオケ文化のわが国に比べたらさほどでもないような気がする。

ボンルパわいん家2

食欲旺盛な大食漢ぶりは日本人がイタリア人を凌いでいると断言できる。かつてフルコースという概念に振り回され、日本人観光客はヨーロッパに出掛けると、前菜、スープ、魚料理、肉料理、デザートをまめに注文した。もちろん、イタリアでも前菜、第一の皿(パスタ類)、第二の皿(魚料理・肉料理)、デザートというカテゴリーは今もある。ぼくもそんなふうに生真面目に全品注文したことがある。実際のところ、ハウスワインの安いのとつまみとパスタだけ、またはサラダとピザだけという現地の客が多い。日本人観光客のようにハムとチーズの前菜、パスタ、肉料理、デザートとコーヒーなどは例外と言ってもよい。


閑話休題――。時はまさに天高く馬肥ゆる秋である。食欲旺盛になって体重を増やすのは馬のみにあらず。ぼくたちも、豊富な食材や美酒にそそのかされ、気が緩んでしまうとつい鯨飲馬食しがちである。ぼくのささやかな知識の中には、秋の食欲旺盛ぶりにちなむ外国語の諺や格言はない。但し、食べることと恋することに関しては、イタリア語に次のような常套句がある。

Chi non mangia ha già mangiato, oppure è innamorato.
(食事の進まない者は、今しがた食べた者か、恋する者である)

大食いを除けば連食・・などはできない。したがって、今しがた食べた者の食事が進まないのは当然。では、恋する者は食事が進まないか。これには異論が出るだろう。「恋して、歌って、食べる」がイタリア人の特質ならば、恋と食は仲違なかたがいしない。それどころか、恋心が食を旺盛にすることもありうる。

おそらくここで言う恋とは叶わぬ片想いの恋か、すでに失恋間近の、成就しそうにない恋なのに違いない。フォークとナイフを動かしている割には、口の中に食べ物をあまり運んでいないうわの空状態。そのような恋ならば、食欲どころか勤労意欲も遊興欲も活発にならないだろう。恋以外の何がしかのストレスも食欲減退の要因だと言われるが、この歳になっても未だに食欲不振に陥ったことのないぼくには無縁な話である。しかし、このことは食欲の秋にはかなり大きなリスクを秘めることになる。

さわらぬ神に祟りなし

一昨日のイタリア語の諺に犬は登場しなかったが、意味は「犬も歩けば棒にあたる」であった。今日の諺には犬が登場する。その犬が、わが国の諺では神に変身する。

ところで、ぼくは忌憚なく意見を述べる性格であり、毒舌もよく吐くし、自分の論拠に自信があれば反論や批判も辞さない。とは言え、講師業もなりわいとしているので、綱渡りしながらも落っこちないようにことば遣いには細心の注意を払うようにしている。万が一にも舌禍事件を引き起こしてしまうと後々が大変なのである。

愛犬家の前で迂闊に「犬」などと不用意に言えないご時世である。「ワンちゃん」とぼくは言わないし、言ったほうがよくても言いたくない。代案として「ペット」と言うと、「ペットではなくパートナーなのだ」と飼主に噛みつかれ、言い直しを迫られる。一般的な犬のことを無難に「ドッグ」と呼び、個々の犬については愛称で呼んでおくのがよさそうだ。一番いいのはそういう偏愛グループの輪に入らないことである。

さわらぬ神にたたりなし

Non stuzzicare il cane che dorme. (眠っている犬をつついてはいけない。)

犬によりけりだが、眠っている犬をつつくと犬は驚いて逆上するかもしれない。神が犬と同じであるはずもない。だが、神だってふいにつつかれたら気分がよくないだろう。虫の居所が悪いとたたりがくだる。というわけで、「さわらぬ神に祟りなし」なのである。

こういう考え方をリスク管理であると勘違いしてはいけない。その逆で、無難主義をはびこらせることになりかねない。それどころか、一部の人間は禁止されると挑発された気分になり、逆らうことさえある。あるB級本に書いてあったが、「触るな! 触るとヤバいです」などという注意書きを見ると、触りたくなる心理が働くらしい。まんざら極論でもないだろう。禁酒や禁煙や立ち小便が守られないのもこれに近い。

ここぞと言う時――何が「ここぞ」かは人それぞれだが――ぼくたちは犬にちょっかいを出したり神の逆鱗に触れねばならないこともある。犬と神が、たとえば理不尽なクレイマーだとしても、うるさい奴だから、厄介な連中だからと言って放任するわけにもいかない。必要があれば、あるいは意地がおさまらないならば、反動を覚悟してつついたり触ったりすることを決断しなければならないのである。

今日はぼくに、明日はきみに。

「考えることに行き詰ったら、ことばで打開せよ」と、他人に言い、自分にも言い聞かせている。腕を組んでくうを見つめてもアイデアなど湧いてこない。誰かをつかまえて対話するか書くのがいい。話して書いてもうまく行くとはかぎらないけれど、不言よりは有言のほうが突破口が見つかりやすいという実感がある。

頭が働いてくれない経験は誰にもある。ぼくにも不意にやってくる。体調が悪くないのに、昨日まで冴えていた頭が突然アイデアを渋る。こんな時、いったん仕事から離れる。離れて、ノートにメモした文章を再読する。仕事とまったく無関係な過去情報が参照力の刺激になってくれる。勝手な思い込みだが、断片情報から過去へとつながるシナプスが働いて、ひらめきやすい脳内環境が生まれるのだろう。

十数年前、熱心にイタリア語を独学していた。読んだり話したりするのにあまり苦労しなくなったので、もう一段上を目指そうと諺を勉強したことがある。英語や日本語でならどう言うのだろうかと比較したりもした。そうこうするうちに、イタリア語から離れて、諺そのものの自分流の吟味が愉快になってきた。当時のノートには40いくつかの諺と寸評を書いている。不定期に取り上げて書き改めてみようと思い立った。


Oggi a me, domani a te.(今日はぼくに、明日はきみに。)

犬も歩けば棒にあたる

素朴で可愛げのある響きがある。これを日本語に置き換えれば、「犬も歩けば棒にあたる」が近い。

犬は棒を探すために歩くのではない。とりあえず歩くのである。歩くという行為の延長線上に棒があって、その棒を見つけてしまうのである。別にあたらなくてもよい。もっとも、棒が見つかるという保証はない。

人間の場合、棒以外のものにあたり、棒以外のものを見つけるかもしれない。これを「棒外の幸せ」と言ってみるか。毎日を生きていれば、人知を超えた巡り合わせはすべての人に平等にやってくる。犬にも平等である。今日はポチが棒にあたるかもしれないが、明日はラブが棒にあたるかもしれない。しかし、犬小屋にいる犬よりも歩いている犬のほうが棒にあたりやすい。

じっとしているより歩くほうがいい。行動範囲が少しでも広がるほうが巡り合わせも増え変化するはずだ。でも、それはぼくだけの専売特許じゃなくて、きみも歩けば何かいいことに出くわすかもしれない。棒にあたってケガすることもあるけれど、そんなことに不安を募らせてもしかたがないと思う。

続・翻訳よもやま話

『言語は(…以下略…)』というタイトルの本が書棚にある。興味深いテーマを拾っていることはわかる。翻訳の苦労もわかる。にもかかわらず、目次と第一章しか読んでいない。ひどい日本語に耐えられないのである。

英語には少し知識があるので、話を英語と日本語に限定する。動詞を動詞に、名詞を名詞に、形容詞を形容詞にと一対一で翻訳すると、ぎこちなくなってしまう。原文の文章構造に支配されてしまうため、英語のような日本語が出来上がる。スケルトンな構造物の中に部品が露骨に埋め込まれている異物に見えてくる。意味どころではなくなる。それが冒頭の翻訳書の問題であった。

たとえば英語の“have”を「持つ」と訳すと、たいてい日本語がしっくり行かなくなる。ぼくたちはさほど「持つ」と言わないのだ。“Before you can have a share of market, you must have a share of mind.”という文がある。最初の“have”は訳さない。二つ目の“have”を訳すが「持つ」と表現しない。すると、「マーケットシェアの前に、顧客の心を摑まないといけない」となる。「マーケットシェアを持ちうる前に、マインドシェアを持たなければならない」という日本文は英文構造の生き写しにほかならない。


英英同義語辞典

外国語の読み解きとは別に、日本語をこなすという作業がいるのである。語彙力と文章構造のバリエーションもさることながら、言い換えるための類語の知識に精通しなければならない。ぼくの場合、国語の類語辞典をよく使った。そして、それ以上に類語の英英辞典も手垢にまみれページがはがれるほど活用したものである。

もう一点、典型的な悪文翻訳は、“of ~”を「~の」や「~という」へとワンパターンに置き換える時に起こる。「現代ビジネスのいくつかの要素のもっとも重要な一つは……」などの文章を読むと、原文の“of”に縛られている様子がうかがえる。「現代ビジネスでもっとも重要とされる要素は……」でいいはずである。『言語は……』という冒頭の本の翻訳者も型通りに訳した日本文を、読者視点で読み直し、こなれた文章に推敲すればよかった。

外国語を翻訳するという作業は意味の解釈であり、それを被翻訳語でふつうに書かれるように表現することである。文章構造や個々の単語にがんじがらめになる必要などないのだ。自分ならどう言いどう書くかという母語の感覚にもっと重きを置いてよい。“You’re asking the impossible.”という英文。「あなたは不可能をお願いしている」などと日本語で言うのだろうか。言わない。ぼくなら「きみ、ないものねだりだよ」と言う。当然、他にもいろいろな言い方がある。

翻訳よもやま話

国際広報に従事していた二十代後半からの10年間はよく英文を書いていた。日本語で文案を考えてから書くこともあったし、日本語を一切介さずに直接書くこともあった。いずれにしても、与えられた日本文を英文に訳すのではなく、自ら内容を考えて書いていたのである。

合間に翻訳の仕事もした。当然ながら元の日本文がある。その与えられた文章を英文に変換する。この翻訳という作業、実に摩訶不思議な行為である。直訳だの意訳だのということばは定義も曖昧であるし、両者の境界も明確でない。学校英語では構文と単語に忠実な和文英訳を求められた。他方、実社会では文章のメッセージの意味を汲み取らねばならない。これを意訳と言うのだが、意訳ということばも奇妙である。

日本が翻訳大国であることをご存じだろうか。現地の人もあまりよく知らないような物語や文学、しかも世界のありとあらゆる言語で書かれたものが日本語で読めるのだ。ペルシャの陶器やアフリカの小さな部族の民話だって翻訳されている。もちろん難解な哲学書などは古代ギリシアから現代に至るまで見事なラインアップぶりである。ほぼ世界の文学が全集になっている。かつてアメリカのある大学教授が冗談めかしてアメリカ人学生に語った、「諸君、世界の文学に精通したければ、日本語を学びたまえ」。


それにしても、学校時代のあの直訳とは何だったのだろう。“I have an uncle who lives in  a very large house.”のような英文を与えられたら、「わたしは非常に大きな家に住んでいるところの一人のおじを持っています」とするのが直訳。「ぼくにはおじがいるんだけど、住んでいる家はかなり大きいよ」などとこなれた訳だと、下手をすれば間違いとされたものである。

jack & betty

中学や高校時代にどんな英語の教科書で学んでいたのか、ほとんど記憶にない。“New Horizen”“New Crown”“English Readers”だったかと思う。かの伝説的な教科書“Jack & Betty”でなかったことだけは確かである。清水義範の『永遠のジャックベティ』を読めば、単語単位で英語を日本語に直訳的に変換した懐かしい時代がよみがえってくる。

“As soon as ~”を「~するやいなや」と平気で訳していたが、中学生にしてはかなり古風な文体である。「今日のような暑い日には、私は家に帰り着くやいなや上着を脱ぐでしょう」という具合。“Which”などの関係代名詞を含む文章は必ず後ろから訳した上で「~するところの」としなければならなかった。「あなたが今住むところの家はどこにありますか?」が模範解答だったのである。

文化とことば

最初に聞いた「ぶんか」という音は、おそらく「文化住宅」ということばとしてだった。ぼくが子どもの頃に町内のあちこちで建ち始めた簡易な集合住宅である。文化住宅と文化が違うらしいことは、しばらく後になってわかった。文化住宅とは、実は「文明の産物」だったのである。

一語の辞典 文化

さて、ここに『一語の辞典 文化』(柳父章著)という本がある。文化ということばだけを字義的にあれこれと考察している本だ。久しぶりにページを繰っているうちに、いろんなことが脳裡に思い浮かんだので書いてみようと思う。

「哲学」「科学」「時間」などの術語は幕末以降に生まれた和製漢語であり、「文化」もその一つであった。英語やドイツ語を「やまとことば」に置き換える代わりに、二字の漢字で言い表そうとしたのである。他に、“concept”は「概念」とされたし、“information”は「情報」になった。いずれも「おもひ」、「しらせ」とはならなかった。


明治40年(1907年)発行の『辞林』に【ぶん-くゎ】という見出しで文化が収載されている。「世の中のひらけすゝむこと」とある。ついでに、英語も併せて数冊の辞書に目を通してみた。定義はいろいろである。「文明が進んで生活が便利になること」というのがあった。文化の説明に文明が持ち出されるのも妙な気がする。他に「真理を求め、つねに進歩・向上をはかる、人間の精神的活動」というのもある。これはわかりやすい。

英語の“culture”には、まず「耕作」や「栽培」という訳語が当てられ、次いで、抽象概念の「教養」や「文化」が続いた。なるほど、植物を土と光と水によって培い養うのと、人の精神を育むことに大きな違いはなさそうだ。農業を意味する“agriculture”にはちゃんと“culture”が含まれている。

さっき「文化の説明に文明が持ち出されるのも妙」と書いたが、「文明>文化」という視点を感じるからである。文化(≒culture)と文明(≒civilization)の間には一線を引くべきだ。二つの概念はまったく違うのだから。文明開化という時の文明にぼくなどはテクノロジーやエンジニアリングを感知してしまう。ゼネコン的で公共的で巨大インフラ的なものをである。河川を工事したり巨大都市を建設したりするのが文明なのだ。

文明に比べれば、たしかに文化などみみっちくて卑小に見える。だが、芸術や工芸や芸道をピラミッドの前景に配して強弱や優劣を語ることにほとんど意味はない。文明はハードウェアであり文化はソフトウェアである。ハードとソフトはコンピュータにおいては一体的な協同関係にあるが、生活世界においては文明と文化は二項対立的な共存関係にある。どんな関係か……たとえば、スカイツリーやあべのハルカスを背景にして一句をひねってみれば、そのことが実感できるかもしれない。