顧客――究極の絞り込み

「情報スキマー」に関連した話。つまり、顧客絞り込み論の続編。

顧客が情報をまともに読み取ってくれない。目を向けてもほんの一瞬スキミングするだけ。その情報が個別的でないから、なおさら見過ごしたり見落としたりしてしまう。不特定多数へのメッセージには気づきにくいのである。

それではとばかりにメッセージに個別的な仕掛けをしても、大半の顧客は情報が自分に向けられたものだとはなかなか気づかない。たとえ気づいたとしても、まさか自分向けとは思ってくれない。「そこのあなた! そう、あなたですよ!」と声を掛けてもらってはじめて気づいてくれる。皆さんからあなたへと二人称複数を二人称単数にしなければならない。

当たり前すぎて恐縮するが、「すべての人たちに向けたありとあらゆる食料」は存在する。存在するが、わざわざ「すべての人たちに向けた」と言うまでもないだろう。そう、これは、「総称としての食料」を意味しているにすぎない。存在はするが、特定はできない。つまり、「すべての人たち」は「すべての食料」に吸収されてしまう。

「すべての食料」を売り込むのはむずかしい。「好き嫌いしないように」とか「自然の恵み」くらいしか言えない。「イチゴ」や「ビール」や「焼肉」は、その他すべての食料を敵にまわしても容易に負けない。このことからわかるように、売りたいものを絞り込むのも不可欠。加えて場面も絞り込んでみると、「小学校低学年のおやつにイチゴ」とというポジショニングが完成する。小学校低学年を「お宅の八歳の男の子」に、イチゴを「〇〇県産品」に、それぞれをさらに個別化することができる。


ポジショニングとは、「その商品は誰のために何ができるのかという固有の公式」である。「二十歳から四十代の女性の肌に潤いを与える乳液」などはまだまだ絞り込み不十分。その乳液を二十代の女性が嬉々として使いたがるとは思えない。つまり、「二十歳から四十代」というのは「四十代」に等しい想定になる。数年前にある化粧品会社が「28歳のわたし」をコンセプトにしたが、これなら逆に二十歳から四十代をカバーすることができる。

ここがポジショニングにまつわる不思議なのだ。顧客を広げると広がらない。顧客を絞ると広がってくれる。同様のことは、商品やサービスの特徴の絞り込みにも当てはまる。特徴多くしてコンセプトは埋もれ、特徴一点主義にすればコンセプトが際立つ。

何のことはない、これまでの話のポイントは「手紙を書くこと」と同じ要領なのだ。手紙は原則として私信であり、たった一人の固有名詞に向けられた、個性色の強いメッセージである。ゴミ箱へ直行することが多い、無差別DMや迷惑メールとはわけが違う。あたかも一通の手紙を書くように――これが顧客を絞り込む最大にして唯一のコツである。 

「情報スキマー」としての顧客

十数年前のぼく自身の講義レジュメを繰っていると「情報ハンター」ということばがよく出てくる。色褪せて見え、何だか気恥ずかしい。それもそのはず、情報を探して集めて分析する時代だったのだから。情報コレクター(収集)の時代から情報セレクター(選択)の時代に移り、今は情報スキマーの時代になっている。このことに疎いと道を誤る。

クレジットカード情報を電子的に盗み取るのは「スキミング」。この“skimming”“skim”という動詞から派生している。「すくい取り」という意味だ。ここでは、「情報スキマー(skimmer)」は「情報をすくい読みしたりざっと読んだりする人」という意味で使っている。ラベルだけをちらっと見る。あるいは情報の上澄みだけを掬う――そんな感じである。人は大量情報の「湯葉」だけを食べるようになっている。

ちなみに速読のことをスキミングと呼ぶこともある。よく知られているスキャン(scan)もスキャニング(scanning)とかスキャナー(scanner)として使われるが、これにも「ざっと読む」という意味はある。しかし、もともとは「詳細に念入りに読み取ったり調べたりすること」なので、ぼくの考えるニュアンスを誤解なく伝えてくれるのはスキマーのほうである。


顧客と商品・サービスの間には必ず何らかの情報が介在する。情報は文字とはかぎらない。色・デザインや人の声・顔かもしれないし、状況や空気かもしれない。動機の有無にかかわらず、顧客は何らかの情報を知覚し、その情報を通じて商品やサービスに心理的に反応する。かつて顧客はこうした情報をよく吟味した。今夜のおかずをイワシにするかサンマにするか。そのような、一見どちらでもよさそうなことを決めるのに想像力と時間を使った。そう、購入決定に際して十分に「品定め」をしていたのである。

ところが、すでに大多数の読者がタイトルと帯で本を選ぶように、顧客は自分と商品・サービスの間の情報をスキムする。わずかに一瞥するのみである。にもかかわらず、情報を仕込む売り手のほうは、顧客がじっくり品定めをしてくれるものと信じて情報をふんだんに編集し流している。売り手の発想は、実に何十年も遅れている。

根本的な原因は、すでに古典と形容してもいい「顧客の絞り込み」が未だに十分におこなえていないことだ。顧客は多様化した。老若男女向けや不特定多数向けの情報など、ない! こんなことはみんなわかっている。だが、「どの顧客に対して商品・サービスのどの便益をピンポイントでマッチさせるのか」――このようにポジショニングすることに潔くないのである。やっぱり顧客を広げたがるし、便益をついつい欲張る。その結果、仕掛けた情報が埋もれ認知されない。こんな愚が繰り返されている。  

ないもの探し

頭痛を紛らわせようとして就寝前に読書をしてみた。そんなバカな! 余計にアタマを苦しめてしまうではないか。だが、必ずしもそうなるとはかぎらない。意外だろうが、今朝はすっきり目覚めたのである。頭痛はない。「知の疲れは別の知で癒せ」は、思いのほかしっかりとした経験法則になっている。酒飲みが自分の都合で発明した、二日酔いを酒で治す「迎え酒」よりもずっと信頼性の高い処方箋と言ってもいい。

その本、自宅に置いてきたので正確に引用はできないが、ある章で「幸福は不幸が欠けている状態であり、不幸は幸福が欠けている状態」というようなテーマを扱っていた。あるものが成立している背景には別のものが欠けている。つまり、いま町内の居酒屋で飲んでいるとしたら、車を運転している状況が欠如している。いや、それどころか、会社にいることの欠如でもあるし、自宅で子どもと遊んでいることの欠如でもある。三日月が見えるためには、9割ほどの月の面積が欠けなければならない。

ところで、「彼は幸福ではない」と「彼は不幸である」は同義か? 幸福・不幸という概念は難しいので、わかりやすく、「この弁当はおいしくない」と「この弁当はまずい」は同義か? で考えてみる。おそらく、「まずい弁当→おいしくない」は成り立つだろう。だが、「おいしくない弁当→まずい」はスムーズに導出しにくい。「おいしい」を5点満点の5点とすれば、「おいしくない」は4点かもしれないし、1点かもしれない。

不幸な状況であっても、小さな一つの出来事で幸せになれるかもしれない。一万円を落として嘆いていたら、五千円札を拾った。収支マイナスだけれど、なんだか少しは心も晴れた。不幸に欠けている幸福を探すのはさほど困難ではないかもしれない。問題は、幸福を成立させるために欠落させねばならない不幸のほうだ。数え上げればキリがない。ゆえに、幸福になるよりも不幸になるほうが簡単なのである。


いみじくも、上記のテーマは今週土曜日の私塾で取り上げる一項目と一致している。その項目の見出しは「不足の発見――自分に足りない情報探し」である。

人間においては、「ない(不在・不足)」は「ある(存在・充足)」よりも圧倒的に多い。だから、どんなに「ある」を獲得しても「ない」の壁にぶつかって悩むのである。企画や編集の仕事をするときも、いま見えているもの・存在しているものばかりに気を取られるが、それでは凡人発想の域を出ることはできない。調べもの好きな人のエネルギーには感服するが、導かれるアイデアにはあまり見所がない。

いま見えていないもの、いま自分に足りないものへの意識。あと一つで完成するのにそれがないということに気づく感受性。その足りないものをどこかから安易に調達してくるのではなく、意気軒昂として編み出そうとしてみる。いや、編み出さなくてもいい、「ないもの」が目立つことによって新しいコンセプトが生まれることだってある。

“Sesame Street”というアメリカの子ども向け番組が一時代を画すヒットになった。日本で放送が開始された当時、アメリカ人の番組担当者が語ったことばが印象的である。

“Teachers are conspicuous by absence.”

「不在によって先生が目立つ」。つまり、「先生が登場しない、だから余計に先生が感じられる」ということだ。情報編集の時代、足し算ばかりでなく、「ないことによって感じられる」という引き算価値にも目を向けたい。

古い本と古い教え

休日に近場へ外出するときは、徒歩か自転車かのどちらかである。帰路に荷物になりそうな買物が確定していれば自転車、行き帰りとも本一冊程度の手ぶらなら徒歩。なるべく休日には歩くようにしている。どこに行くにも便利な所に住んでいるのがありがたい。

一昨日の日曜日は、まだ薄ら寒い風を受け、それでも春の気配を少し嗅ぎながら自転車を北へ走らせた。大阪天満宮まで10分少々。最終日となる古本市が目当てだ。ぼくは読書のために本を買わない。本を買うのは一種直感的行為であり、買ってからどの本のどのページをどのように読むかが決まってくる。ページをぺらぺらとめくったり拾い読みをするだけで放っておく本もある。それでも何ヵ月か何年か経ってから、「縁あって」目を通すことになることがある。そのとき、購入時の直感もまんざらではなかったと思う。

幸か不幸か、ぼくは周囲の人たちに読書家と思われている。実はそうではない。正しくは、「買書家」である。本は借りない。まず買う。いきなり買うのはリスクが大きいゆえ、高額な書籍にはまず手を出さない。文庫または新書がほとんどである。何よりも省スペースだし、どこにでも持っていけるから便利でもある。

買った本をどう読むかというと、速読、精読、併読、拾い読み(これは狙い読みに近い)、引き読み(辞書を読むように)、批判読み、書き込み読み(欄外にコメントを書く)などいろいろ。誰もが体験するように、本の内容はさほど記憶に残らない。傍線を引いても付箋紙を貼っても大差はない。だが、これ! と思う箇所は抜き書きしておく。抜き書きしておいて、後日読み返したり人に話したりする。面倒だが、ぼくの経験ではこれが読書をムダにしない唯一の方法である。

古本市で買ったのは福田繁雄のデザインの本、安野光雅の対談集、玉村豊男のパリ雑記の3冊。しめて1900円。天満宮滞在時間は半時間ほど。そう、書店であれ古本屋であれ、ぼくは半時間もいたら飽きてしまう。熱心な「探書家」でもないのだ。「今日は5冊、4000円以内」などと決めて直感で30分以内で買う。


境内を出て喫茶店に入る。朝昼兼用の予定だったので朝を食べていない。午前1055分。「モーニング7:0011:00」とある。「モーニング、まだいけますか?」 滑り込みセーフ。コーヒー、トースト、ゆで卵。ゆで卵が切れてしまっていたので、生卵からつくってくれる。何だか申し訳ない。トーストを食べているうちに、ほどよい半熟が出来上がった。

目の前のカレンダーに今月のことばとあり、見ると「日日是好日(にちにちこれこうじつ)」。日めくりには必ず入っている禅語録の一つである。「毎日が平安で無事でありますように」との願いが込められているが、真意は一期一会に近いとどこかで学んだ。平々凡々な日がいい――そんなヤワな教えではなくて、「何があろうと、今日の一日は二度とないと心得て、懸命に生きなさい。その積み重ねこそが毎日の好日につながる」という意味である。先送り厳禁、今日できることを今日成し遂げよ、思い立ったら即時実行などに通じる。

先週本ブログで『スピードと仕事上手の関係』について書いた。そこでのメッセージにさらに自信を加えてくれる禅語録との再会である。こういうつながりをぼくは運がいいと思うようにしている。古い本を探した後に立ち寄った喫茶店で古い教えに出会う。これも「古い」が重なって縁起がいいと考えておく。こうして気分を調子に乗せておけばストレスがたまらないし、いい一日を送ることができるのである。 

議論できる能力を養う

月曜日火曜日と二日連続で硬派なトーンで「知」について綴った。だが、翌日になって、あのまま幕引きしていていいのかという良心のつぶやきが聞こえた――「もう少し具体的にソリューションを提示すべきではないか」と。

いま「すべき」と書いた。「~すべし」は英語の“should”、ドイツ語の“sollen”と同じく定言命法と呼ばれる道徳法則だ(哲学者カントの道徳的命法)。これをディベートの論題表現に用いると、その命題はあらゆる状況に無条件に当てはまり、かつ絶対的な拘束力を持たねばならなくなる。たとえば、「わが国は死刑制度を廃止すべきである」という論題は定言的(無条件的)であって、例外を認めてはいけない。「~というケースにおいて」という条件を付けたり含んだりしてはいけないのである。

「わが国はハッピーマンデーを倍増すべきである」。この論題は、「現状の4日間のハッピーマンデー(1月、7月、9月、10月の指定された月曜日)を8日間にするアクションを取りなさい、しかもそのアクションが価値のある目的になるようにしなさい、これは絶対的かつ無条件的な命令です」と言っているのである。

「わが国は定額給付金を支給すべきである」は、ここに明示されていない金額と対象を除けば、「つべこべ言わずに可及的すみやかにこのアクションを取りなさい」と命令している。年齢によって金額を変えるのなら「一律12,000円」を論題に含めてはいけない。また、対象が国民全員ならそう付け加えるべきである。「~すべし」は命題で書かれたことだけに言及し、書かれていないことに関しては論者の裁量に任せる。


「~すべし」という、例外を許さない命題を議論していると、激昂した強硬論争になりそうに思えるだろうが、いやいやまったく逆なのだ。イエス・ノーが極端に鮮明になる議論ほど、不思議なことに論者は潔くなってくる。自分への批判にも耳を傾けるようになるし、やがて度量も大きくなってくる。

ところが、「~ならば、~せよ」という仮言命法になると、ずる賢い論法を使うようになる。たとえば「定額給付金を支給するならば、生活支援とせよ」。すると、「定額給付金の支給には賛成だけれど、生活支援ではなく景気対策でなければダメ」や、「何らかの生活支援は必要だとは思うが、一律方式の定額給付金である必要はない」などと論点が条件的になってくる。議論に慣れていない人にとってはとてもややこしい。こんな「ケースバイケース」のディベートはおもしろくない。

記述する命題の文末が「~すべし」であれ「~である」であれ、ディベート論題の長所は是非を明確にすることであり、それによって論理が明快になる点にある。死刑制度の存続論者であるあなたは、自分の思想に近い立場から「死刑制度廃止」に反論することになるかもしれないし、まったく逆の立場から「死刑制度を廃止すべし」という哲学を構築し論点を証明しなければならないかもしれない。真っ向から対立する両極意見のどちらにも立って議論することにディベートの意義がある。だから、ぼくは抽選によって肯定側か否定側かのどちらかが決まり、一回戦で敗退したらそれでおしまいというトーナメント方式を歓迎しない。


「死刑制度」、「ハッピーマンデー」、「定額給付金」のどれもが、大多数の人々にとってはもともと自分の外部で発生した情報である。これらが自分のところにやってきて、ただのラベルのついた情報として蓄積しているわけではないだろう。推論や思考によって、何らかの価値判断が下されて自分の知になっているはずだ。そして、その知と相反する知が必ず世の中に存在し、自分の周囲にもそんな知の持ち主がいるだろう。自分の知と他人の知を議論というルール上で闘わせるのがディベートだ。一方的な「イエス」を貫く知よりも、「イエスとノー」の両方を見渡せる知のほうが世界の輪郭は広がる。そして鮮明に見えてくる。議論能力が知を高めるソリューションなのである。

スピードと仕事上手の関係

今日は「論争」について書くつもりだった。ところが、昨日のブログ「逆説的『スロー&プアー仕事術』」の十ヵ条のうち、三つ目の「仕事の出発点でじっくり時間を使え」に関して、異議申し立てまではいかないが、「なぜそうしてはいけないのか、よくわからない」という意見が寄せられた。急遽予定を変更して昨日の続編としたい。


昨今流行の、うどんのセルフの店ではすでに揚げた天ぷらを並べている。だが、昔ちょくちょく行っていたうどん店は、天ぷらうどんの注文が通ってから天ぷらを揚げる「通し揚げ」を売りにしていた。だから天ぷらうどんを注文すると、「お時間かかりますが……」と念を押される。注文から出てくるまで時間を要するこの店の主人は「仕事が遅い人」だろうか。そんなことはない。時間はかかるだろうが、最短で手際よく仕事をこなすはずである。スピードと一手間かける仕事は相反さない。言うまでもなく、熟成ハムを作る職人は仕事が遅いのではない。時間と手間をかけているのだ。時間と手間をかけるからと言って、ダラダラと仕事をしているのではない。

昨日も書いたが、「仕事が早い人ほどいい仕事をする」という経験則がぼくには染みついている。この法則に例外を見つけるのはむずかしい。だいたいにおいて、仕事の遅い人の仕事は質が劣るものだ。さらに、仕事の遅い人は必要以上に時間をかける。動きが鈍い。段取りが悪い。「ついで仕事」ができない。複数作業をパラレル処理できない。注意散漫である。未熟である。数え上げるとキリがないので、昨日のブログでは十ヵ条に絞り、三つ目の「仕事の出発点でじっくり時間を使う」のを、遅くて下手な、つまり「オソヘタ」の原因としたのだ。


教育研修時の演習は仕事のシミュレーションみたいなものである。これまで数百回にわたり数万人が演習に勤しみ発表するのを目撃してきた。前工程で時間を食ったグループほど、選択したテーマが陳腐になり企画や発表内容が平凡もしくは劣悪になる。仕事の出発点でどんなに慎重になっても、仕事のゴールには近づいてはいない。他方、「案ずるより産むが易し」を実践するグループほどよい結果を出す。

じっくり、慎重に時間をかけるのは手間をかけることとイコールではない。仕事の出発点で時間をかけても、質がよくなる保障などない。それどころか、後半に追い込まねばならずミス発生の確率も上がる。こうなってしまうグループは、序盤から精度を求める、民主主義的にテーマや方向性を決める、手順確定的(シーケンシャル)に進める、などを特徴としている。どれ一つ取っても、仕事上手を保障するアクションはない。これらはすべて仕事を遅くする要因ではあっても、仕事の質を高めてくれるものではないのだ。

部分の集積が全体になるのではない。「レンガを積んでも家にはならない」(ポアンカレ)。仕事を俯瞰的に見る設計図こそが重要なのだ。その設計図を、ラフでいいから、仕事の前段階で早々にスケッチしておく。テーマや方向性は誰かが提起する仮説的なものでいい。手順はわかりやすい箇所、確定しやすい部分へランダムに飛べばいい。要するに、徹底的にスピード優先で進めるのだ。これは手抜きではない。むしろ、スピードは手間をかけるための手段と言えるだろう。

遅々として進まない仕事をしていると、ゴール間際でへとへとになってしまう。それに対して、スピードを上げれば余裕をもってゴールインできるし、もう一度振り返ることもできる。そう、加速が上質の仕事を生むのだ。一回きりの一プロセスだけでいい仕事をやり遂げることなど無理である。いい仕事は見直し・推敲・検証によってさらにいい仕事になる。その時間を生むのはスピード以外にない。 

逆説的「スロー&プアー仕事術」のすすめ

どちらかと言えば、ぼくはスローライフ主義者である。スローライフと主義は相容れないかもしれないが、便宜上こう書いておく。スローライフ主義を貫くためには、仕事が早くなくてはいけない。ゆえに、ぼくはスピーディビジネス主義者でもある。スピーディビジネスなんて和製英語っぽいが、ファーストビジネスと言うと、ファーストフードからの連想で「早いが安っぽい仕事」のように聞こえてしまう。

時間をゆっくりかけたいスローライフ主義と仕事をできるかぎり早くこなすスピーディビジネス主義は弁証法的である。どちらが手段でどちらが目的かなどという野暮な認識を超越したところで両者はちゃんと成り立つ。なぜこんな主張ができるのか。それは、「仕事がグズな人は生活で苦労する」「仕事が早い人ほどいい仕事をする」「仕事上手は生活上手である」などがおおむね正しいからである。

スローライフの実践方法よりもスピーディビジネスの実践方法のほうが説きやすくわかりやすい。もっと説きやすくわかりやすいのは「仕事が遅い、仕事が下手」の最大公約数的原因である。いろいろな現場で仕事の実態を見てきたし、教育研修においても演習や実習への取り組み姿勢を観察してきた。その結果、ぼくは仕事を、ひいては生活をダメにする「間違いのないコツ」を発見した。題して『スロープアー(遅くて下手な)仕事術』(ほんとうは何十ヵ条にもなるのだが、今日のところは十ヵ条に絞った)。


1 実力以上に強がってみせろ
世の中、ブランドである。正直に「私は50点人間です」などと言っては損だ。上げ底・背伸び・見栄っ張り・虚勢など何でもオーケー。とにかくよく見せないといけない。

2 他人に厳しく自分に甘く
ノルマは軽めに。60点の仕事を上出来だと考えよう(大学でもそれは「可」なのだから)。自分の仕事は一日遅れてもいいように時間を稼ぎ、他人に任せている仕事は一日早めに仕上げさせる。

3 仕事の出発点でじっくり時間を使え
もし5工程の仕事ならば、最初の工程が一番重要。だから、そこをクリアするまでしがみつくこと。仕事は部品の寄せ集め。全体を見通すビジョンなんて役に立たない。

4 行動よりもよく考えろ
下手に動いて下手な結果を出すよりも、まずは考えてみる。たとえそれが「考えているふり」であっても、軽率な行動よりはましである。  

5 日時を明確にするな
ゆめゆめ時刻で期限を設定してはいけない。そんなことをすると、理不尽に追及されてしまう。「来週に」「今日じゅうに」というのが正しく、アポも「いずれ近いうちに」と曖昧にしておくのがいい。  

6 イエスかノーを明言するな
慎重にイエスかノーかを決める。二者択一の岐路では焦らず騒がず判断を急がない。モラトリアムで済ましておけば、後日どちらにでも転ぶことができる。急いては事を仕損じると言うではないか。どんな約束でも守りきるのは不可能なのだから、小さな約束くらい破ってもかまわない。

7 アマチュアとプロを都合よく使い分けろ
相手が格上、かつ仕事に自信がないのなら「まだ勉強途上なので」と言い訳をしておく。相手が格下ならば、堂々とプロフェッショナル顔をすればいい。真のプロにはプロとアマの二面性がある。  

8 「時間はタダ、いくらでもある」と信じろ
無理して今日じゅうに仕上げなくてもいい仕事がある。いったん決めても変更すればいい。明日は必ず来るわけだし、時間は自分の資源でタダみたいなもの。何とかなるものだ。

9 同時に複数の仕事をするな
所詮、自分の情熱、自分の思い以上の仕事なんてできないのだから、自己愛で生きるのが一番。二兎を同時に追ってはいけない。仕事は、優先順位ではなく、受けた順番に一つずつこなすのが正しい。

10  ばれないように手を抜け
「仕事はマメに、きめ細かく、とことん凝れ」と理屈を言うのがいるが、無視すればよろしい。大雑把で手を抜いても顧客がそれで満足ならいいのだ。そもそもずっと手間暇かけていたら心身が持たない。


逆説的にお読みいただいたであろうことを切に願っている。上手く読み取れる人は仕事のできる人だろう。グズで仕事のできない人は誰のことが書かれているのかピンとこないだろう。えっ、このままで終わると、本気で「スロープアー」を薦めているみたい? なるほど、そう理解される可能性なきにしもあらずだ。それはまずいので、「いずれ近いうちに」フォローすることにしよう。     

知を探すな、知をつくれ

昨日に続く話だが、まずは記憶力について。記憶力の問題は、インプット時点とアウトプット時点の二つに分けて考える必要がある。

注意力、好奇心、強制力の三つが働くと情報は取り込みやすい。テストなんて誰も受けたくないから好奇心はゼロ。だが、強制力があるので一夜漬けでも覚える。普段より注意力も高まる。ゆえに覚える。ぼんやり聴いたり読んだりするよりも、傾聴・精読するほうが情報は入ってくる。注意のアンテナが立っているからだ。好奇心の強い対象、つまり好きなことはよく覚えるだろう。なお、言うまでもないが、取り込みもしていない情報を取り出すことはできない。「思い出せない=記憶力が悪い」と思う人が多いが、そもそも思い出すほど記憶してはいないのだ。

記憶エリアは「とりあえずファイル」と「刷り込みファイル」に分かれていて、すべての情報はいったんは「とりあえずファイル」に入る。これは記憶の表層に位置していて、しばらくここに置きっぱなしにしているとすぐに揮発してしまう。数時間以内、数日以内に反芻したり考察を加えたり他の情報とくっつけたりするなど、何らかの編集を加えてやると、刷り込みファイルに移行してくれる。ここは記憶の深層なので、ちょっとやそっとでは忘れない。ここにどれだけの知を蓄えるかが重要なのだ。

さて、ここからは刷り込みファイルからどのように取り出して活用するかがテーマになる。工夫をしなければ、蓄えた情報は相互連関せずに点のまま放置される。点のままというのは、「喧しい」という字を見て「かまびすしい」とは読めるが、このことばを使って文章を作れる状態にはないことを意味する。つまり、一問一答の単発的雑学クイズには解答できるが、複雑思考系の問題を解決できる保障はない。一情報が他の複数の情報とつながっておびただしい対角線が引けているなら、一つの刺激や触媒でいもづる式に知をアウトプットできる。


刷り込みファイルで「知の受容器」が蜘蛛の巣のようなネットワークを形成するようになってくると、これが情報を感受し選択し取り込むレセプターとして機能する。一を知って十がスタンバイするようなアタマになってくるのだ。

考えてみてほしい。レセプターが大きくかつ細かな網目状になっていたら、初耳の情報であっても少々高度で複雑な話であっても、バウンドさせながらでも何とか受け止めることができる。蜘蛛の巣に大きな獲物がかかるようなものだ。ところが、レセプターが小さくて柔軟性がなければ、情報をつかみ取るのは難しい。たとえば、スプーンでピンポン玉を受けるようなものだ。ほとんどこぼしてしまうだろうし、あわよくばスプーンに乗ったとしても、そのピンポン玉(情報)は孤立していて知のネットワークの中で機能してくれない。

知っていることならわかるが、知らないことだと類推すらできない。これは知的創造力の終焉を意味する。知らないことでも推論能力で理解し身につける。知のネットワークを形成している人ならこれができる。ネットワークは雪だるま式に大きくなる。

知は外部にはない。知を探す旅に出ても知は見つからないし、知的にもなれない。あなたの外部にあるものはすべて「どう転ぶかわからない情報」にすぎない。それらの情報に推論と思考を加えてはじめて、自分のアタマで知のネットワークがつくられる。知の輪郭こそが、あなたが見る世界の輪郭である。周囲や世界が小さくてぼやっとした輪郭ならば、それこそがあなたの現在の知の姿にほかならない。 

情報はなかなか「知」にならない

数えたことはないが、年間延べ何千人という人たちに話を聞いてもらう。「延べ」だから、ぼくの話を十回近く聴く人もいる。言うまでもなく、同じ話を十回も聴いてくれる落語ファンのような人はあまりいない。つまり、ぼくの話を十回聴く人は、十種類のテーマの話を聴いてくれている。「プロとはいえ、異なったテーマの話を準備して、いろんな対象に話をするのは大変でしょう」とねぎらっていただくことがあるが、聴くことに比べれば話すことなどまったく大変ではないと思っている。

アウトプットの前にインプットがある。記憶力の良し悪しが問われる前に「記憶したかどうか」が問われる。何もせずに表現上手などということはない。どこかで表現を仕入れていなければ上手にはなれない。人が何事かを成している前段階では必ず何事かの仕入れがある。そして、前段階なくして次の段階がありえないように、聴く(あるいは読む)という認知段階は知的創造力に決定的な影響を及ぼす。わかりやすく言えば、学ばなければ使えるようにはならないのである。


だが、インプットとアウトプットのこの法則はなかなか成立しない。なかなか成立しない関係を法則と称すること自体おかしな話だが、必ずしも矛盾ではない。法則というのは「ある一定の条件のもとならば、つねに成り立つ」ものだから、裏返せば、「ある一定の条件を満たさないと、成り立たない」ものであってもよい。「多種多量の情報は知力の源になる」――この法則が成立するためには、(1) 取り込まれた点情報どうしが対角線を結び、かつ(2) 推論という思考の洗礼を受けることが欠かせない。

理屈上、知力10の人が取り込める情報は10である。この傾向は加齢とともに色濃くなる。つまり、ぼくたちは自分の知力でわかる範囲の、都合のよい情報だけを選択するようになる。人の話を聴いても知っていることだけを聴く(これを確認と言う)、本を読んでも納得できることだけを読む(これを共感と言う)。つまり、知らないことやわからないことを拒絶しているのだ。

もうお気づきだろう。この論法だと、人は永久に進化できないことになる。情報や知を「ことば」に置き換えてみよう。生を受けた時点でのことばの数はゼロ。知力ゼロだから何を学んでもゼロということになる。しかし、実際、乳幼児はゼロをに、2に、24にというふうに累乗的に語彙を増やしていく。知力が10であっても、その倍の情報をどんどん取り込んでいく。ある年齢までは、情報に接すれば接するほど、よく身につき知になっていく。


生きることが関係しているから、必死に情報と情報を結びつける。行間を読み文脈を類推する。知っている5つの単語で一つの知らない単語をからめとって理解しようとする。これによって、先の法則が成り立つのである。ところが、こうした対角線を引き未知を推論する努力を怠るようになってくる。自分が出来上がったと錯覚するのだ。

結論から言うと、いい大人になって思考力が身についていないと、いくら学んで情報を取り込んでも知にはならないのである。先ほど年齢と関わると書いたが、ここで言う年齢とは思考年齢である。だから、二十代・三十代であっても、いくら勉強しても知が拡張しない症状は起こりうる。

「絵になる話」のための演出

初めての試みだったそうである。ぼくにとっても初めての体験だった。昨日の講演は美術館。場所は栃木県の文化の森に建つ宇都宮美術館だ。階段状の講義室が会場で、演台の置かれたステージが一番低い構造になっている。上目線ではないので、話しやすく聴いてもらいやすいしつらえになっている。

美術品を蒐集する美術愛好家ではない。だが、なまくら四つではあるものの美術一般に惹かれて生きてきたぼくである。館内に足を踏み入れた瞬間、わくわくし始めた。十年ほど前、研修が明けた翌日にこの美術館に連れてきてもらった。都会の雑踏を完全に遠ざけているので、アート鑑賞とちょっとした散策にはもってこいの立地である。

講演が終わって、講演内容に後悔はしていないし大きな失点もなかったと自己採点している。しかし、いつものように「もっと工夫する余地はなかったか?」と自分に詰め寄れば、ないことはない。環境、アプローチ、ファサードと近代美術館にふさわしい舞台だったのだから、もう少し絵になる演出ができたのではないか。いや、ハードウェア的には無理。だが、「絵になる話、話し方」ができたかもしれないと振り返っている。


演題は『マーケティングセンスを磨く』。愉快ネタや美学的タッチも仕掛けてあるのだが、やっぱり実学的テーマである。ノウハウ系の話は、どちらかと言うと、ドキュメンタリー写真のような構成になりがちで、なかなか「絵になる構図の話」にするのが難しい。会場が美術館らしいということは承知していたが、駅まで迎えに来てもらえるので、さほど意識がそこに向いていなかった。これからはTPOをもっとよくチェックする必要がありそうだ。

絵を描くための材料とマーケティングツールの対比、絵画技法とマーケティングの方法論、キャンバスと市場、構図と戦略、額縁と囲い込み、作品と広告、鑑賞と価値創造……100パーセント即興では無理かもしれないが、一週間前にこのような類比をしておけば、もっと色彩感が横溢する空気を醸し出せただろう。実学マーケティングもアートとのコラボレーションによって親しみやすくなる可能性はある。

「話が絵になる」。これには二通りの意味がある。話の中身・話し手・立ち居振る舞いや小道具・照明など演劇的印象を与えるというのが一つ。もう一つは、音の組み合わせであることばが文になりストーリーになり、やがて絵になって見えてくるという効果。講演における来場者を、聴講者、聴衆、受講者などと呼ぶが、「講演を観てもらう」という「観客」としてもポジショニングしてみたいと思う。