差異と変化について

えらく硬派なテーマである。本を読んでも人の話を聞いても知り合いのブログに目を通していても「変化」という文字がやたら目につく。ぼくも講義でしょっちゅう使っている。「変化とスピード」をクレド(経営信条)として掲げている得意先もある。他方、格差や差別や分別など、一言で「差異」とくくれる概念も目立つ。先週のマーケティングの講演で「差別化か、さもなくば死か」という、ジャック・トラウトの物騒なテーマも取り上げた。人は差異と変化によって成り立っている―これが、ぼくが導こうとしている主張である。

差異。差異があるから比較したり対立させたり、いずれかを選択したりできる。一番近い本棚に『政策形成の日米比較』という10年前の本があるが、比較するのはそこ(日米間)に差異があるからである。社会の中から自分だけを切り取って語るのは難しい。自分とは他人との差異によってはじめて語るに値する存在である。得は損によって、夢は現実によって、善は悪によって明確になる。二項以上が並立したり対立するのは差異ゆえである。

初めて誰かを見たり接したりする。たとえばRさん。このときあなたがRさんに持つ印象は、Rさん本人だけからやってこない。それはSさんやTさんとの差異に基づくのであったり、あるいは一般的な人間の尺度との差異による印象であったりする。これは人にかぎらない。ふきのとうの天ぷらを苦く感じたのならば、それは苦くない他の食材との差異ゆえである。何かと対比しなければ、苦さすら感じないのだ。これは食材だけにかぎらない。ことばも概念も同じだ。「今日」ということばは「昨日」と「明日」との差異によって成り立っている。「まぐろ」を注文して「はまち」や「よこわ」が出てこないのは、客も寿司職人も差異がわかっているからである。


この差異に加えて、変化ということばをぼくたちはどのように使い分けているのだろうか―こんなことを数日前から考えていた。

列車の旅をしていて、P村からQ町に近づく。切れ目なくアナログ的に窓の外が移ろうので、このときは「風景が変わる」というように「変化」という表現を使う。ところが、飛行機に乗りM国からN国へ向かう。機中で寝ているうちに到着する。ある意味でデジタル的なワープがそこに起こっているので、M国がN国に変化したのではなく、M国とN国との(突然の)差異に気づくのである。

連続するものに「変化」を用い、非連続なものに「差異」を使っているのかもしれない。おたまじゃくしは蛙に「変態」する。メタモルフォーゼは同一固体における外形・性質・状態の変化である。これを「おたまじゃくしから蛙に差異化した」とは言わない。

K君と初対面。「太い」という印象を受ける。このとき、ぼくたちは特定のL君や一般的な尺度との差異を見て太いと感じる。二度目にK君と会う。このときも、たしかに「やっぱり太い」という差異を認めるが、新たにK君における変化をも見る。三日前のK君と今日のK君の体重の変化を感じている(「こいつ、また太った」)。こうしてK君と長く付き合っていく。そうすると、他者との差異には鈍感になっていき、K君自身における変化のみに敏感になってくる。これは体重だけではない。顔つき、服装、能力、立ち居振る舞い、趣味などありとあらゆる面の変化を嗅ぎ取るようになる。

「個性をつくれ」は差異であり、「能力を伸ばせ」は変化である。他人と違う発想をもつ―これは差異だが、標準から逸れるのを恐れる日本人にとっては結構難しい。しかし、もっと難しいのは、昨日の自分の発想から離脱する変化である。「変わりたい、でも変われない自分」がいつもそこにいるからだ。


イチローのTVコマーシャルを思い出す――「RVは変わらなきゃ」。しかし、翌年か翌々年には「変わらなきゃも変わらなきゃ」に変わった。変化してほっとしていてはいけない。変化はエンドレスなのだ。「変化しなければ生き残れない」。その通りである。しかし、このコンセプトを固定させてもいけない。毎度毎度変化を実践している者にとっては、「変化しないでおこう」という選択の変化もありうるのだ。アタマが混乱してしまいそうだが、差異と変化は不思議でおもしろい。

余計なことを考えたり口に出す精神

まったく縁のない話は、いくら想像を働かせてもまったくわからない。まったくわからないことに絡んだりツッコミを入れたりすることは不可能である。その話題や事柄と接点がなければ、批判すらできない。批判精神を高尚なるものと思いがちだが、そんな大それたものではない。すでに知っているか、何らかの関心があることに対して「ちょっと待てよ」というのが批判精神だ。その批判精神が「余計なことを考えさせたり、一言口に出させたり」するのである(言うまでもなく、知らないことや関心のないことは賞賛も批判もできないし、するべきでもない)。

一昨日ある格言(諺?)を初めて知った。「碁に負けたら将棋に勝て」がそれだ。ほほう、こんな言い回しがあるのかと淡々と吟味してみた。ぼくは碁は知らない。周囲に碁打ちがおらず、いっさい学ぶ機会がなかった。将棋は二十代の頃に二年間ほど嵌まった。基本は独習したが何度かプロにも教わったし、道場にも通った。実戦機会が少なく「ペーパー四段、手筋三段、実力二段」などとからかわれた。おもしろいことに、道場ナンバーワンのアマチュア四段に勝ったこともあれば、中学一年の三級に惨敗することもあった。波は激しいほうだが、決してヘボではないと自覚している。

さて、「碁に負けたら将棋に勝て」。碁を知らなかったら、そもそも碁を打たないだろうから、碁に負けることはない。その彼が将棋を知っているにしても、「碁に負けたら」という仮定が成り立たない。次に、碁は知っているけれど将棋は知らないという別の彼にも当てはまらない。「碁で負けた。ちくしょう、次は将棋だ」と矛先を変えることができないからである。もうお分かりだろう。これは碁と将棋の両方をたしなむ人に向けられた格言なのである。


ところで、あることで負けたけれど別のことで勝てば相殺できるのだろうか。「幸福度ではお前に負けるが、頭の良さでは勝つぞ」と言ってみたところで、単なる負け惜しみではないか。賢さなどよりも幸福のほうが絶対にいいとぼくは思う。もっと言えば、幸福でありさえすれば、他のすべてが連戦連敗でもいいのかもしれない。

以前NHKの衛星放送で藤山直美と岸部一徳が対談をしていた。一言一句まで正確には覚えていないが、「舞台で失敗して憂さ晴らし云々」と語る岸部に対して、藤山が「舞台で失敗したもんは舞台で取り返さなあかん!」とたしなめていた。10歳以上も年上になかなか飛ばせない檄である。こういうのを最近は「リベンジ」ということばで済ませるのだが、誰か相手がいて仕返しをしているわけではない。ダメだ失敗だと思うたびに対象を変えたりレベルを落としていては、永久にプロフェッショナルにはなれないだろう。

昨日、日本対オーストラリアのサッカーの試合を観戦した。ワールドカップドイツ大会の借りを返すだのリベンジするだの騒いでいたが、舞台違いじゃないかとぼくは思っていた。負けたのはワールドカップの本場所だ。今回はアジア予選だ。「世界で負けたらアジアで勝て」などということは、アジアの偏差値が世界を逆転してから言うべきだ。結果、引き分けだった。「世界で負けてアジアで引き分け」では格好はつかない。


碁と将棋の話に戻る。あなたが完敗に近い形で碁で負けたとする。悔しいあなたは負けた相手に「ようし、今度は将棋だ!」と挑戦する。相手は困惑気味にこう言う――「あのう、私、将棋は指せないんです」。将棋で勝つどころか、将棋で戦えないのだ。さあ、あなたはどうする? 将来彼を倒せるようになるまで碁を猛勉強するか、それとも彼に将棋を教えて早々に勝利の美酒に酔うか。      

大差のようで僅差、僅差のようで大差

今週金曜日に第2回の書評会がある。残念ながら、ぼくが取り上げた本の書名は現時点で公開できない。少しだけ紹介すると、「350万冊の蔵書がある図書館」の話が出てくるくだりがある(ちなみに国会図書館はこの倍数あるそうだ。拙著の二冊も収めてくれているらしい)。今日は、この図書館の話から触発されたぼくの連想を綴ることにする。

この天文学的な蔵書数を分母に見立ててみる。一冊読んだ時点で350万分のの知を得るというわけだ。奇跡的な一日一冊という超人的読書家は想定しない(だいたい超人なら本など読まなくていいだろう)。現実的に考えると、週に一冊読む人は熱心な読書家であり、しかもしっかりと精読している可能性すらある。年に50冊を70年間続けると、生涯読破本は3500冊になる。これは驚嘆してもいい数字だと思う。さて、もう一人想定しておく。読書はあまり好きではないが、年に一冊くらいなら読むという人。読書人生70年として70冊になる。

偶然にして暗算可能な数字になったが、念のために電卓ではじいてみる。読書家は当該図書館の蔵書の0.1パーセントの知を獲得した。もう一方のあまり読まない人で0.002パーセントである。少々乱暴だが、小数点以下切り捨てなんてことを適用すると、いずれもゼロになってしまう。図書館をビュッフェスタイルのホテルレストランにたとえれば、世界各国から選りすぐった百種類の料理を出したところ、二人とも一種類の料理の匂いだけを嗅いだだけだった――そんな感じである。二人に歴然とした差はない。森羅万象の知の前では、よく読んでもあまり読まなくても同じようなものなのだ。


すべての人類は、ありとあらゆる書物に対して「ほとんど非読・未読の状態」に置かれている。みんな「読んだ」とは言うが、まさか「読んでいない」とは吹聴しないだろう。生涯、万巻の書など読めやしないのである。知というものは、よく究めても全知のパーセントにも満たない。そういう意味では、人間はみんなそのパーセント未満の知の世界にあって僅差でしのぎ合い折り合っているのだ。格差社会とは無縁の、平等な世界に見えないこともない。

しかしながら、察しの通り、以上は都合のよい推論である。実社会では僅差のような知の格差が大差となって表れる。なぜだかわかるだろうか。上記の3500冊氏と70冊君を比較する時、わざわざ分母を350万冊にする必然性などない。つまり、二人とも読んでいない大多数の書物について両者は知の多寡を競うことなどできないのだ。両者の読んだ本が重複してようがしてまいが、3500冊氏が圧倒的優位に立っていることは容易に想像できる。

神や観音や天才を引き合いに出したら、みんな同じ知力になるだろう。この視点では、「知っていること」と「知らないこと」は大差なようで僅差なのだと謙虚に自覚しておく。しかし、現実は二人なりグループなりの、当面のメンバー間での「知っていると知らない」が尺度になる。そこでは、紙一重が知らず知らずのうちに大差になってくる。小さな知識をゆめゆめバカにしてはいけないと、これも謙虚に自覚しておく。言うまでもなく、無知のままではいずれの謙虚な自覚にも到ることはできないだろう。

知っていることと知らないこと

仲間が七、八人集まっているとする。その席で誰かが「ご飯を食べたり、お酒を飲んだり」まで言いかけて少し間を置いたときに、その中の誰かが「ラジバンダリ」と後を継ぐ確率はどのくらいあるだろうか? 「食べたり」を「タベタリ」、「飲んだり」を「ノンダリ」と、それぞれ外国人または合成音のように発音してみたら、「ラジバンダリ」が出現する確率はアップするだろうか? あるいは、このブログのここまでの書き出しを読んで、必ずしも笑ってもらう必要などないが、何かにピンときた人はどのくらいいるものだろうか?

お笑い好きにとって、自分の周囲で今が旬のお笑いネタが通じるかどうかは気になるテーマらしい。「このメンバーだと、あれは使えそうかな」という具合に場の空気を読んでギャグを使わねばならない。使いたいけれど、通じそうにないときは「こんなギャグを知ってる?」と確かめてから披露することになる。わかってもらうためだけならば、「古い!」とののしられることを覚悟で、二年くらい前に旬を過ぎたネタを使えばよい。

集まりの席に「笑いの波長の合う人間」が一人でもいたら、気分は余裕綽々。一人が反応して爆笑してくれさえすれば、披露したネタなりギャグがかろうじて滑らなかったことを示すからである。場合によっては、笑わなかったその他大勢を「無知ゆえに笑えなかった」とか「センスがないから笑えなかった」と見下すことさえできるだろう。

自分を中心として形成される人の輪にはそれぞれ独自の喜怒哀楽の波長があるように思われる。その自分が別の輪では脇役だったりする。そこではまったく別の波長が支配する。いずれにせよ、一番むずかしい波長が笑いだ。「ぼくの周囲の〈ラジバンダリ度〉はイマイチだけど、〈吟じます度〉は結構高いよ」とか、「うちの仲間うちでは、〈でもそんなの関係ねぇ度)がまだそこそこのテンションを保っている」なんて会話がありうる。ここまでの話、まだ何のことかさっぱりわからない人にわかってもらう術はない。また、わかる必要もないかもしれない。但し、輪の種類が違うことは歴然だろう。もちろん、輪が異なっているからといって村八分にされるわけではないが……。


流行、事件、話題など、毎日空恐ろしいほどの情報が発信され飛び交っている。何をどこまで知っておくことが「常識」であり、話題をどの程度共有しておくことが「輪の構成員」の条件を満たすことができるのか。「やばい」が「犯罪者が使う用語で『危ない』」という意味であることを心得ていても、「このケーキ、マジやばくない?」という輪に入れない中年男性がいる。しかし、あなたはその男性に「やばいというのは若者用語で『うまい』とか『やみつきになる』という意味です」と教えてあげるべきか悩むだろう。「マジやばの輪」に入りたいか無縁でいたいかは、その男性が決めることなのだ。

ある本を読んでいたら、テーマとは無関係にいきなり「ブリトニー・スピアーズ」の話が出てきた。「ハバネロソースは好きか?」と聞かれたりもする。「ご想像におまかせします」は聞いたことがあるけれど、「ご想像力」などという、人を小馬鹿にしたようなコトバは初耳だ。目からも耳からも知らないことがどんどん飛び込んでくる。

知らないことがどんどん増えていく時代に、人間がそれぞれの輪をつくってかろうじて生き延びているのは、お互いにほんのわずかに知っていることを共有し基本にしているからだろう。

検索上手とコジツケ脳

XXXについて調べる」とはどういうことか。たとえば、そのXXXが「ホルモン鍋」だとしたら、「ホルモン鍋について調べる」とはいったいホルモン鍋の何を調べるのかということになってくる。「調査」がリサーチ(research)で、「一般的に広く」という感じがする。これに対して、ホルモン鍋の「レシピ」「旨い店」「由来」などの「検索」がサーチ(search)。リサーチもサーチも何かを探しているのだが、サーチライトということばがあるように、検索のほうが「狙いを絞って具体的に照らし出す」という意味合いが強い。

自分の脳以外の外部データベースに情報を求める場合、有閑族は調べようとし、多忙族は検索しようとする。しかし、多忙族の「速やかに」という思惑とは裏腹に、検索の絞り込みが曖昧だと、知らず知らずのうちに大海原での釣り人と化し、まるで暇人のように時間を費やしてしまうことになる。検索のコツは分母を大きくしないことである。それは欲張らないことを意味する。絞った狙いの中に見つからないものは存在しないと見なすくらいの厚かましさが必要である。

あきらめて、自分で考え始めたら(つまり、自分のアタマを検索し始めたら)、な~んだ、こんなところで見つかったということが大いにありうる。だから、ぼくはいつもくどいほど言うのである――検索は自分のアタマから始めるのが正しい、と。次いで身近にいる他人のアタマを拝借し、その次に手の届く範囲にある本や新聞や百科事典や辞書を繰る。それでダメならインターネットである。この順番がいつもいつも効率的なわけではないが、脳を錆びさせたくなかったらこの手順を守るべきだ。


自分の脳を検索する。それは仕入れた(記憶した)情報を再利用することであり、同時に、あれこれと記憶領域をまさぐっているうちに創造思考をも誘発してくれるという、まさに一石二鳥の効果をもたらす。例を示そう。「もてる男の3条件を見つけよ」。

インターネットから「もてる男」に入っていくと、検索が調査になることに気づく。検索分母が途方もなく大きすぎて、3つの条件に絞れる気などまったくしない。仮に絞れていけたとしても、どうせいろんな人間がああでもないこうでもないと主張しているので、まとまることはありえない。
だから自分のアタマを検索する。ぼくなら3つの条件を、たとえば「お」から始まることばにしてしまう。五十音から探すのではなく、一音からだけ探す。そう、無茶苦茶強引なのである。なぜなら検索というのは急ぎなのだから。すると、「おもしろい」「お金がある」「思いやりがある」「男前」「お利口」などが浮かんでくる。さらにもう一工夫絞り込んで3つにしてしまう。

もっとすごいコジツケがある。「リーダーシップを5つのアクションに分けよ」。これなど「リーダーシップのさしすせそ」と決めてしまうのだ。「察する(気持を)、仕切る(段取りを)、進める(計画を)、攻める(課題を)、注ぐ(意識を)」で一丁上がり。あとでじっくり検討すればよい。考えてみれば、調味料の「さしすせそ」だって強引ではないか。「砂糖、塩、酢、醤油、味噌」だが、塩と醤油が同じ「し」なので醤油のほうを「せうゆ」とは苦しい。味噌も「み」なのに「そ」に当てている。これなど絶対にコジツケで「さしすせそ」にしたに違いない。調味料にみりんが入っていないのも不満である。


語呂がいい愛称や略語の類はほぼ以上のような手順で編み出されていると思って間違いない。何カ条の教えや法則も同様である。官民を問わず、大阪人が何かをネーミングするときは、何とかして「まいど」や「~まっせ」を使ってやろうとする。「人工衛星まいど1号」はその最たるものだが、他にも類例はいくつもある。

好き嫌いという究極の評価

偶然だが、3日連続で「プロフェッショナル談義」にお付き合いいただくことになる。一つのテーマを執拗に追いかけているようだが、別の見方をすると、こんなときは実は視野が狭まっていたりする。

教育マーケティングの話で記事を終えた昨日のブログ。指導者側の難点に苦言を呈したが、一年のうち半分ほど講師業を営むぼく自身の勉強と能力はどうなのか。勉強と工夫は人並み以上に研鑽している自信はあるが、能力については口幅ったい言を控えるべきだろう。能力は他者、すなわち講演や研修の主催者と受講生・聴衆が評価するものだからである。

ぼくの小・中学校時代、通信簿は155段階評価だった。社会人教育での講師評価もおおむね5段階になっている。講義終了後に受講生にアンケート用紙が配られる。研修で学んだこと、今後どのように生かしたいかなどの所感に加えて、講師の技術(場合によっては人柄)、配付資料のわかりやすさ、講義内容などについて、受講生に「たいへんよい、よい、ふつう、あまりよくない、よくない」の評価を求める。


もう十年以上も前の話。ある大手の企業では、全受講生の平均評価点が4.0未満だと翌年は声を掛けてもらえなかった。幸いにして、ぼくは三年連続で4.0を無事にクリアすることができた(四年目は研修体系の大幅変更にともない出番はなし)。この4.0、今にして思えば奇跡である。仮に受講生を10人とした場合、57人、21人、1点2だと合計39点となり平均3.9でアウト。研修を受けた人たちの70%が「たいへんよい」と評価しても失格なのである。

したがって、この超有名で超優良の企業の講師であり続けたいならば、「あまりよくない、よくない」にチェックマークを付けさせない工夫が必要になってくる。受講生の中にいち早く要注意人物を見つけ、研修中も休憩時間もあの手この手でケアして、少なくとも「この講師はまあまあだな」という印象を与えねばならないのだ(数日前に書いた「拗ねる受講生」への対応みたいなことを迫られる)。

こうして、どうにかこうにか3点、4点、5点の評価が下るよう工夫をし、あとは3点が4点になるよう上乗せ祈願をする。いずれにしても、半数の受講生から5点を取れなければ、平均4.0は不可能である。迷ったときに「ふつう」を選ぶ日本人の気質を考えてみると、なおさら厳しい数字に見える。繰り返すが、4.0はミラクルなのだ。


4.0の話はさておき、一般的な評価にあたって、ふと次のような疑問が湧く。受講生が10人のとき、(a) 55人・15人、(b) 45人・25人、(c) 310人という三つのケースが起こると、すべて平均3.0になってしまう。これら(a)(b)(c)3人の講師である場合、平均値評価だけでいけば全員「ふつうの講師」であり優劣がつかない。次年度は講師を一人に絞りたい。どの講師と契約を結ぶのか。

(a)の危険なメリハリ先生か、(b)の詰めぎわ甘い先生か、(c)の偉大なる平凡先生か……客観的な評価は功を奏さない。研修を主催する側の理念や教育方針や道徳倫理基準に照らして判断するほかないのである。そして、そのような判断は、契約更改されない講師には「好き嫌い評価」と同義語に映るだろう。

親しくしている研修所長にこの「拮抗する三人の講師評価」の話をした。そして、「あなたならどうしますか?」と聞いてみた。「そりゃ、女性講師にしますよ」と即答された。さもありなん。さらに、「全員が女性だったら?」と意地悪に尋ねた。「そうなったら、もうやっぱり、一番美人の講師でしかたがないでしょう」。所長、好き嫌い評価のホンネをポロリとこぼしてしまった。フィクションのように聞こえるだろうが、実話である。 

セレンディピティがやって来る

辞書の話題から書き始めた1212日のブログ。その中で刑事コロンボの例文を紹介した。昔はテレビのドラマを欠かさずに観ていたが、コロンボの話に触れたのは何年ぶりかである。四日後、コロンボ役男優ピーター・フォークが認知症になっていることをAP通信が報じた。

これなど、点と点の同種情報が結ばれた例である。ブログの記事は自発性の情報、AP通信は外部からやってきた情報。後者を見落としていたら、ブログでのコロンボは孤立した一つの点情報で終わる。たまたま新聞記事を見つけたので、四日前のブログと結びつく。但し、このように情報どうしが偶然のごとく対角線で結ばれることのほうが稀だ。情報でもテーマでも強く意識していないと、関連する情報をいとも簡単に見過ごしてしまう。情報行動は点で終わることが圧倒的に多く、めったに線にはなってくれない。対角線がどんどんできるとき、アタマはよくひらめき冴えを増す。

同種情報のほうが異種情報よりもくっつきやすいのは当然だ。「類は友を呼ぶ」の諺通り。しかし、しっかりと意識のアンテナを立てていると、アタマは「不在なもの、欠落しているもの」にも注意を払うようになる。本来ワンセットになるべきなのに、片割れがない場合などがそうだ。たとえば、ネクタイの情報に出会うと、その直後にワイシャツの情報に目配りしやすくなる。見えているのは山椒だけだが、この時点で「うな重」への無意識がスタンバイする。

さらに、ひらめき脳が全開してくると、まったく無関係な情報どうしの間に新しい脈絡や関係性が見い出せ、両者を強引に結び付けてみると想像以上にすんなりまとまったりする。


もっとすごいのは、特に探していたわけでもないのに、ふと思いがけないアイデアや発見に辿り着く不思議の作用である。これが、最近よく耳にするようになった〈セレンディピティ〉だ。いろんな日本語訳があるが、偶然と察知力を包括する「偶察力」が定着しつつある。このことばを知ってから最初に読んだのが、『偶然からモノを見つけだす能力――「セレンディピティ」の活かし方』(澤泉重一著)だ。

この本の随所で、自分自身の潜在的な知識がむくむくと目を覚ます体験をする。たとえば、ノートにメモしたもののすでに忘れてしまっていた「シンクロニシティ(共時性)」に出会う。そして、「時を同じくして因果関係のない複数の意味あることが発生する現象」についての知識が顕在化した。さらに、たとえばイタリアの作家ウンベルト・エーコの見解「異なる文化のところにセレンディピティが育ちやすい」が紹介されている箇所。ぼくはその一週間前に当時独習していたイタリア語の教本の中で、このウンベルト・エーコを紹介するコラムを読んでいた。


ある点に別の点が重なろうとしている偶然に気づくのは、意識が鋭敏になっている証。点と点が同質であれ異質であれ、頻繁にこんな体験をするときは自惚れ気味に波に乗っていくのがいい。願ってもみなかった予期せぬご褒美とまではいかなくとも、僥倖に巡り合うための初期条件にはなってくれるかもしれない。まもなくクリスマス。プレゼント選びに疲れきった大人たちに、セレンディピティという贈り物が届くことを切に願う。

「誰にとって」という基本的な視点

私塾の最終講で「マーケティングの古典」を紹介し、現在にも生かせる普遍的な考え方や有効性を探ってみた。一時間ちょっとの講義のあと、三人の塾生に自社のマーケティング戦略について発表してもらった。一事例につき、発表15分、他塾生からの質疑応答10分、5班に分かれての事例討議が10分、各班からのコメント発表2分、ぼくの総括講評が5分という流れである。

事例の発表や意見交換を通じて、アタマではわかっていても、なかなか実践できない事柄がいかに多いかということに気づく。それは、ぼく自身にとっても歯がゆくも困難なハードルである。しかし、みっちり5時間半の中で、成功図式とまでは言えないまでも、成功するために踏まえるべきパターンらしきものがシンプルに浮かび上がってきた。


市場にはいろいろなニーズやウォンツが渦巻いている。なくては困るモノやサービスへのニーズから、なくてもまったく困らない贅沢なモノやサービスへの欲望に至るまで、消費のステージが何段階もある。そして、すべての段階において、消費行動の多様化と高度化は著しい。消費行動の多様化は「顧客の絞り込み」を求め、高度化は「イノベーション」を求める。したがって、企業のプロフェッショナルにとっては「誰のために、どのような新しいモノ・サービスを提供できるか」が命題になってくる。これが、よく知られた「ポジショニング発想」である。

もう一つ、基本の基本となるのが、「ユニーク・セリング・プロポジション(Unique Selling Proposition=USP)」。「固有の売りのうたい文句」というニュアンスになるだろうか。もう半世紀も前に生まれた、「この商品を買えば、こんな利点がある」というマーケティングのコンセプトだ。この考え方は後々に「自他の差別化戦略」につながってくる。

たとえば、二店の焼鳥屋がいずれも「ジューシーで歯ごたえのよい肉質」をアピールしたら、もちろんそのことは利点ではあるけれども、どちらの店を選ぶかという決定要因にはならない。雰囲気の良さを想像させる店名、店構え、旨さを際立たせるタレや塩、価格など、他店にない固有の利点を認知してもらわねばならない。「この店に入れば、ここが違う」という差異化のためには、どの顧客にとっての利点なのかというポジショニングも絡める必要がある。


カフェのRサイズ200円、Mサイズ250円、Lサイズ300円。サイズの呼び方や値段はそれぞれ。これは端的に三種類のニーズに対応している(つもり)。価格とサイズ案内のMサイズのところには「Rよりお得なサイズ」と書いてあり、サイズのところには「さらにたっぷりサイズ」とある。いずれの文言も「利点」を訴求している(つもり)。

だが、人間心理の研究不足である。コーヒーは嗜好品である。だから50円払ってRにして「お得なサイズ」という思いにはならない。「どうせなら多めに」という顧客もいるが、最初からRに決めている客には店側が訴えるMLの利点は伝わりにくい。嗜好品は、量が多ければ多いほどいいというものではないからだ。これは、昼にざる蕎麦を食べに行って、50円アップで大盛にするのとはちょっと違う。一般的に「増量または減額」が得の理論だが、商品によって変化する。エステやマッサージは「時間延長」が得、交通機関は「時間短縮」が得。とはいえ、顧客次第で絶対ではない。

私塾の塾生は、配付資料を2枚増量しても誰も感涙極まらない。枚数が少々減っても、あるページに目からウロコのすごいことが書いてあれば、そこに利点を見い出す。「本日は特別に講義2時間延長のおまけ!」と利点を売り込んでも、「定時に終わって、メシにでも行きましょう」という塾生が大半だろう。平凡な帰結になるが、時代の、特定の人間の、心理と具体的なニーズ・欲求に正確にマッチする利点探しを大いなる想像力で極めるしかない。「誰にとって」という視点から始めることは、証明済みの法則と考えてよさそうだ。  

組み合わせと配置の妙

G・ミケシュが著した『没落のすすめ』に、「虚栄心、好奇心、サディズム、冷静さ――これらを組み合わせれば、立派な外科医が出来上がる」という記述がある。医者に関して下手にコメントすると総理大臣すら批判を浴びるご時世だ。30年前に書かれた英国人の本でなかったら、「サディズム」はちょっとまずいかもしれない。

ところが、話はここで終わらない。著者はこう続ける――「と同時に、同じ組み合わせが性犯罪者をも作り上げる」。著者でないぼくだが、引用するだけでもドキドキしてしまう。外科医と性犯罪者を対比して類似性もしくは共通点を論うのは度胸を要する。しかし、これしきのことで目くじらを立てていてはいけない。例には事欠かないのだ。「無学歴、貧乏、病弱、苦労、一途」が稀に立派な人物の養分になる一方、これまた稀にテロリストをたくましく育て上げてしまうこともある。

驚くに値しない、当たり前のことなのだ。確率論からすれば、この国にあなたと同じ誕生月日の人間は35万人ほどいる。その中には医者も犯罪者も善人も悪人も必ずいる。血液型O型、四緑木星、みずがめ座というぼくと同じ組み合わせにも多種多様な人間が存在しているに違いない。「えっ、こいつと同じ!?」と、不幸な偶然にショックを隠せないかもしれぬ。もちろん、お互いさまだが……。


身長と体重がまったく同じでも、人間にも「鋳型」というものがあるから、見た目のスタイルはまったく違って見える。同じ顔のパーツを使うのだが、出来上がりの配置のおかしさに笑い転げるのが福笑い。部品の良し悪しが重要なのは十分承知しているが、実のところは組み合わせや配置の妙のほうが決定的なのである。綺麗な瞳、筋の通った鼻、魅力的な唇、すっきりした小顔に恵まれてもレイアウトがまずいと台無しだ。

「人が事実を用いて科学をつくるのは、石を用いて家をつくるようなものである。事実の集積が科学でないことは、石の集積が家でないのと同様である」(ポアンカレ)

多くを示唆する名言である。情報の集積は知恵ではない、読書の集積は創造ではない、計画の集積は行動ではない……。学問の集積は必ずしも偉人をつくらなかったし、生真面目の集積も成功と程遠い結果をもたらすことが多かった。組み合わせと配置の妙――これこそがバランスなのだろう。

今年わが国が輩出したノーベル賞受賞者。お茶目な人あり、ワイン好きあり、シャイな人あり、テレビゲームに興じる人あり、風呂好きあり、とてつもないことを考える人あり……。自己評価すると、ぼくはほとんどこれらすべてに該当する。おそらくバランスが悪いに違いない。

なお、この組み合わせと配置にさまざまな問題の原因を求めていくと、けっこうすっきりすることが多い。たとえば、企画がなかなか通らないのは、内容の問題ではない。企画書のパーツはいいのだが、目次の構成と章立ての比重が悪いだけなのだ、など。但し、「個々の才能やスキルには問題がないのだが、組み合わせと配置がまずい」――これは言い訳にはならない。なぜなら、そのことを別名「バカ」と呼ぶからだ。 

アイデアが浮かぶ時

「アイデアはいつどこからやって来るかわからない」と教えられたジャックは、その夜アパートのドアも窓も全開にして眠った。アイデアはやって来なかったが、泥棒に侵入されて家財道具一式を持ち出された。ジャックは悟った。「いつどこからやって来るかわからないのはアイデアではなく泥棒だ。アイデアはどこからもやって来ない。アイデアは自分のアタマの中で生まれるんだ。」

アイデアは誰かに授けられたり教えられたりするものではない。アイデアの種になるヒントや情報は外部にあるかもしれないが、実を結ぶのはアタマの中である。アイデアと相性のよい動詞に「ひらめく、浮かぶ、生まれる、湧く」などがある。いずれも、自分のアタマの中で起こることを想定している。アイデアを「天啓」と見る人もいるが、そんな他力本願ではジャックの二の舞を踏んでしまう。


デスクに向かい深呼吸をして「さあ、今日は考えるぞ!」 あるいは、ノートと筆記具を携えてカフェに入り「ようし、ゆっくり構想を練るぞ!」 時と場所を変え、ノートや紙の種類を変え、筆記具をいくつか揃え、ポストイットまで備えても、アイデアは出ないときには出ない。準備万端、「さあ」とか「ようし」と気合いを入れれば入れるほど、ひらめかない。出てくるのはすでに承知している凡庸な事柄ばかりで、何度も何度も同じことを反芻して数時間が経ってしまう。

ところが、本をニ、三冊買ったあとぶらぶら歩いていると、どんどんアイデアが浮かんできたりする。まったく構えずにコーヒーを飲んでいるときにも同じような体験をする。だが、そんなときにかぎって手元にはペンもメモ帳もない。必死になってアイデアを記憶にとどめるが、記録までに時間差があると大半のアイデアはすでに揮発している。

意識を強くすると浮かばず、意識をしないと浮かぶ。なるほどアイデアは「気まぐれ」だ。しかし、気まぐれなのはアイデアではなく自分のアタマのほうなのである。

ノートと筆記具を用意して身構えた時点で、既存の発想回路と情報群がスタンバイする。アタマは情報どうしを組み合わせようと働き始めるが、意識できる範囲内の「必然や収束」に向かってしまう。これとは逆に、特にねらいもなくぼんやりしているときには、ふだん気にとめない情報が入ってきたりアタマの検索も知らず知らずのうちに広範囲に及んだりする。つまり、「偶然と拡散」の機会が増える。

アイデアは情報の組み合わせだ。その組み合わせが目新しくて従来の着眼・着想と異なっていれば、「いいアイデア」ということになる。考えても考えてもアイデアが出ないのは、同種情報群の中をまさぐっているからである。新しさのためには異種情報との出会いが不可欠。だから場を変えたり、自分のテーマのジャンル外に目配りすることが意味をもつ。

ぼくはノートにいろんなことを書くが、アイデアの原始メモはカフェのナプキンであったり箸袋であったり本のカバーであったりすることが多い。つまり、身構えていないときほどアイデアが湧く。というわけで、最近はノートを持たずに外出する。ボールペン一本さえあれば、紙は行く先々で何とかなるものだ。