偽る座右の銘

信念、拠り所、目標、約束、励まし、時には戒め……これらの思いやイメージをことばに置き換えて、自分の心に刻み込んでおく。これが座右の銘だ。もしぼくたちが著名人になり色紙を頼まれたら、揮毫するような文言である。「努力」や「継続は力なり」という定番から、古今東西の箴言の引用、はては時勢を映し出す「ピンチはチャンス」や「朝の来ない夜はない」という楽観的なものに至るまで、いろいろある。ちなみに、同じ色紙でも、料理屋などに飾ってある芸能人が一筆する「○○さん江」という類は座右の銘とはちょっと違う。

座右の銘にかぎらない。理念でも信条でもスローガンでも広告の見出しでもいい。いや、もっと範疇を広げれば、書名もネーミングも決意表明などもすべて、精神のありよう、行動の方向性、約束やモノの概念などを言語化したものである。そして、見聞きしてきたところでは、これらのフレーズの大半は空回りしている。本来達成されるべき、あるいは目指すべき信念や理想や約束をことごとく裏切っている。看板に偽りあり、なのだ。

「偽る座右の銘」とタイトルを付けたが、実際に偽っているのは、座右の銘やスローガンや信条などではなく、これらを掲げている人間どもである。ことばを責めてもしかたがない。ことばの不履行に平気でいる彼らが理想に近づけていないのである。いや、正しく言えば、始めから近づけるなどと思ってすらいない。彼らはことばの欺瞞性には確信的に気づいているのであって、場合によっては、良からぬことや知られては困ることのカモフラージュ効果として使っていることさえある。


座右の銘の通りに、あるいはそれに近づこうと行動しない人々。スローガンを掲げながらいっこうに実践しない人々。口ばっかりで、約束を守らない人々。朝礼で崇高な訓示を垂れながら、本人自身がまったく別の生き方をしている人々。宗教家や道徳論者ほど背任的であったりするから厄介である。お題目は好都合に利用され、行動は遅々として実行されず、いや、それどころか、理念や目標とは正反対の方向に動いている。真なるものはいずれだろうか、掲げたことばか、それとも現実のおこないか。

フィランソロピーに注目が集まった時代、「社会に貢献します」を掲げた企業が目立った。企業として自明の精神をよくもぬけぬけと明文化するものだと呆れ返ったものである。環境コンシャスな時代に入ってからは、「地球にやさしい」。変化形としての「人にやさしい」と「顧客満足」。「社会に貢献します」だの「地球にやさしい」だのと胸を張った企業の数々の不祥事はご存知の通り。「人にやさしい」などは「オレは女性にやさしい」とほざいているようなもので、口にするようなことばではない。「顧客満足」も企業理念としては暗黙の価値指標であって、市場に向けてわざわざ公言するのは品がないのだ。

「国民の生活が第一」の荷は重そうだが、偽りかどうかはだいぶ先にならないとわからない。「第一」というのは清水の舞台から飛び降りるほどの覚悟がいる約束である。民主党も自由民主党も社会民主党も、いずれも「民主」が共通語になっているが、いつになったら実現するのだろうか。「たちあがれ日本」は、日本および日本国民への呼びかけ、鼓舞、命令にすぎず、自らが立ち上がるとは言っていない。ところで、「継続は力なり」を座右の銘にする三日坊主の男がいた。「三日坊主にサヨナラ」のほうが座右の銘にふさわしいのではないかと指摘したら、「いや、三日間でも継続なんです」とけろっと言ってのけた。何をかいわんや、である。

「それはおかしい」の奇怪

今日も誰かが別の誰かの意見に対して「それはおかしい」と言っている。これがしっくりこない。対話に親しむようになってから数十年、ずっとこの感覚がつきまとう。おかしいという表現は「納得できない」や「変調である」や「論理的に正しくない」などの意味を内包しているが、これらのいずれもが単独で発せられるとき、奇怪なものを感知してしまう。誰かの意見を「おかしい」と評するのは、おかしいのだ! ほら、こういう言い方は奇怪に響くだろう。おかしいに異議を申し立てた手前、ここで話を終えるわけにはいかない。

ABのおこないや発言に「それはおかしい」と突っぱねる。こう評する時、Aの脳裡に「おかしくない基準」が浮かんでいなければならない。つまり、自分がイメージしている「まっとうな何か」に照らし合わせてみて、Bの言い分はその基準から外れている、ゆえに「おかしい」、そして「納得できない」とAは言ったはずである。Aは自分の基準がおかしくなく、Bの基準がおかしいと主張しているに等しいのだ。では、いったいそのような基準をAはどのようにして決めているのか。

Aは、常識、通念、論理、共通感覚に適合していると確信できているのか(もしそうならば、Bも同様の確信をしている可能性がある)。それとも、好みや思いなどの主観的基準によって「おかしい」という烙印を押しているのか。基準が常識、通念、論理、共通感覚を反映しておらず、純粋に主観的であるならば、Aに対するBからの反論も、AからBへの再反論も不毛に終わるだろう。なぜなら、双方が異なる基準によって主張を繰り広げるかぎり、議論は接合しないし平行線を辿り続けるからだ。


もしかすると、常識も通念も論理も共通感覚も主観的に解釈されているかもしれない。ゆえに、明文化されたルールが存在しないかぎり、お互いに取り付く島はない。そもそも「おかしい」の一語で相手の意見を切り捨てようとする者が、しかるべき説明可能な基準を有しているはずがないのである。「それはおかしい」とつぶやいたり声を荒げたりするとき、誰もが「自分はおかしくない」という前提に立っている。そして、ほとんどの場合、その判断基準は「何となく」であって、確たる信念やトポスに支えられているのではない。

ABの二人を再登場させる。Bの発言に対して「それはおかしい」と言い放ったAに、Bが「何がおかしいのか、なぜおかしいのか?」と論拠を尋ねる。基準は何か、何か信念でもあるのか、と聞いてもよい。思いつきで「おかしい」と言っていたのなら、Aはこう答えるだろう、「おかしいものはおかしいのだ」。売り言葉に買い言葉、Bも次のように反論するだろう、「おかしいものがおかしいなどという論法は、おかしいではないか!」 こうして議論は不毛の連鎖を続けてゆく。

おかしいは「可笑しい」と書く。大人げないABのやりとりにぼくたちは失笑するしかない。いや、傍観するぼくたちだって当事者になれば同じように愚昧さを露呈するかもしれない。公の場で論争する立場にあるお偉方でも「ダメなものはダメ」で済まそうとするのだから、小さな仕事や会議にあっては日常茶飯事「おかしいものはおかしい」が噴出するのもうなずける。「可笑しな光景だ」と冗談ぽくシニカルに片付けているのではない。これは、口癖などという甘い話ではなくて、奇怪であり悲劇なのだ。「それはおかしい」を禁句にしなければ、対話など成立しないのである。 

理屈を通すべき時

口うるさいオヤジが見当たらない。なるほど、軽い気持で若者に注意したら、車中やコンビニの前で逆切れされて身に危険が及びかねないご時勢だから、誰彼ともなくやみくもに注意したり説教を垂れたりするわけにはいかない。彼らにも人を諭しにくい事情がある。いまここで言う「口うるさい」とは、そんな見ず知らずの、わけのわからぬ連中への小言のことではない。ここぞと言うときの筋の通し方についての話である。

旧勉強会で幹事を務めてくれたS氏のブログにおもしろい話が載っていた。おおよそこんな話である。ある機構の巡回指導員が会社にやって来て、ひとしきりチェックをした後で「だいたいは出来ているので、特に指導する内容はない。今後も引き続き重点的にコンプライアンスに取り組んでいただきたい」という所感があったという。その会社の代表であるS氏は、「だいたい」ということばに鋭く反応して、「『だいたい』の意味がわからない。判断は出来ているか出来ていないかのどちらかのはずだ!」と少々語気を荒げて、「だいたい」ならばどこかに改善の余地があるはずだから教えてほしいと食らいついたのだ。

「ことばのアヤじゃないか、大人気ない」と言い放つのは簡単である。ぼく自身はS氏のようにアグレッシブには反応しないと思うが、彼の「事は出来ているか出来ていないかのどちらか」という言い分には筋が通っている。なるほど100パーセントなどというものはなかなかないだろう。だから指導員が90点と判断して、それが自分の合格基準を満たしていれば、「よく出来ています」と総括すべきなのである。「だいたい出来ている」という寸評に対して、真面目に取り組んでいる職場であればあるほど、その「だいたい」ということばで示された足りない部分を聞きたくなるのは当然のことである。


指導員の「だいたい」は、責め立てるには気の毒な、あどけないことばの弾みなのか。そうではない。何事に関してもそんなふうに物事を中途半端に片付ける性向をもつ人なのだ。「70点です。足りない30点はこれこれのポイントです」と言うのが良識というもので、「だいたい」ということばは何か奥歯にモノを挟んでいる。実際、このような灰色的言動で御座なりに生きている連中がそこらじゅうにいる。誰かを紹介するときに「こちら、○○さん、一応・・本会の会長です」などと平然と言ってのける者がいる。失礼もはなはだしい。人を「とりあえずビール」のように扱っているではないか。その人を紹介した男に対して、ぼくは即刻「一応などという言い方はやめなさい!」と叱責する。

繰り返すが、ちょっとしたことばのアヤだとか舌が滑ったのではない。それは口癖であり、口癖は長年の習慣によって形作られた性格、ひいては人間関係の処し方をありのままに反映するものなのだ。何かにつけて「そう、変ですよねぇ~」と言う知人に「何が変?」とぼくが聞き返して、まともに返事が戻ってきたためしはない。それはただの場つなぎ、または同調目的の口癖であって、何かをよく考えた結果の相槌などではない。軽はずみにこのような形骸語をつい洩らしてしまうのは責任感の欠如にほかならない。

しかも、不幸なことに、こういう連中に一言注意しようとする理屈を通すオヤジがめっきり少なくなった。そっぽを向かれたり嫌われたりするのを恐れるオヤジどもが増えたのだろうか。それとも理屈派が棲息しにくい世の中になったのか。ところで、一世を風靡した「だいたいやねぇ~」をトレードマークにしていた評論家がいたが、冷静に考えれば「だいたい」ということばには反論を未然に防ごうとする思惑が隠されている。なにしろ「だいたい」なのだから、反論しようにも狙いが絞り切れない。「だいたいやねぇ~」を怒りではなく笑いの対象にしたのはしたたかな老獪ぶりだ。しかし、S氏の前に登場した男の「だいたい」には笑えない。イエスかノーしかない場面で「だいたいイエス」という発言に怒りを覚えるのは正常なのである。

ただ、理屈を通す側も自制を忘れてはならない。自らの品格をおとしめてまで激昂しないことである。理屈にはエスプリが欠かせない。叱りつけても最終的には笑い話として仕上げるのが小言オヤジの生き残り方法であると思う。「理屈がだいたい通った」と判断したら、さっさと切り上げるのが正しい。

モノローグの中のダイアローグ

T 「ツイッターは、まだ? 岡野さん、時代に取り残されますよ。」
F 「あ、そう。それなら、ぜひ時代に取り残されたいもんだよ。」

T 「怠け者が『来週中に』と言えば、月曜日であることはまずなく、たいてい金曜日の夜中を意味している。」
F 「そいつは未熟な怠け者だな。ベテランの怠け者は約束もしないし守りもしない。さらに怠惰道を極めた師になると、もはやぼくらと同じ浮世にはいない。」

T 「淡々と語り振る舞えば、お前は醒め過ぎだと評される。」
F 「ならばとばかりに、熱弁を振るい活気に溢れた動きを見せれば、テンションだけ高くて空回りとのそしりを受ける。」

T 「あなたの悪口を言っている人がいますよ。」
F 「ありがたいことです。存在意義がなければ誰も悪口すら言ってくれなくなりますからね。」 


わざわざツイートフォローしなくても、上記のようにぼくたちは独白モノローグの中で知らず知らずのうちに一人二役でツイッターをしているものだ。自分がつぶやき、もう一人の自分がつぶやく。主客相対するダイアローグである必要はない。所詮つぶやきだから、そこに主観と客観の対比がなくてもいいだろう。

元来相手を特定せずに、ぽつんと独り言をこぼすのがつぶやきだ。このつぶやきに不特定多数という誰かを想定するのがツイッターである。純粋な独り言なら発信したり公開したりするに及ばないから、どう考えても特定せぬ相手を考えているのはたしかだろう。すると、これはどうやら演劇の舞台のモノローグと似てはいないか。役者が一人で語る台詞せりふは一種のつぶやきで、その心中の思いをことばにした語りは居合わせる観客に向けられている。要するに、聞かれたい知られたいつぶやきなのである。

聞かれたい知られたいと思い、さらにフォローをしてほしいと願い、その結果、何らかのやりとりが成立すれば、それはまさしく初歩的なダイアローグの様相を呈する。モノローグという形式の中でおこなわれるダイアローグ。自分一人でこなすダイアローグは文字も音声もともなわず、思考する内言語として現れる。自分の日常茶飯事のツイートをフォローできていないし、目の前の対話相手のツイートの面倒を見るのに精一杯のぼくだ、大海原のようなツイッターの世界に飛び込むのは容易でない。

こんなことをつぶやいたら、「そんな理屈っぽい世界ではなくて、もっと軽やかですって!」と諭された。「軽やかで理屈っぽくないから、相性が合わないのだよ」と返事しておいた。 

パラグラフ感覚

親しい知人が助言してくれた。「岡野さんのブログを読んでいます。内容はむずかしいですが、とても啓発されます。ただ、もっと改行して行間をたくさん空けられたほうが読みやすくなっていいと思うのですが……」

余計なお世話だと言い放つほど自分のスタイルを過信していないので、ありがたく拝聴した。もちろん愛読にも感謝した。ただ行間を空けたり頻繁に改行したりするほうがいい文章とそうでない文章があり、あるいはそうしたほうがいいテーマとそうでないテーマとがある。ぼくは当該段落で言いたいことを言い終えるまでは改行しないようにしている。ちょっと長くなったなあ、そろそろ改行して新しい段落にするか、などとは考えないのである。やれやれ、こんなふうに記事体裁に関する助言があったこと、そしてその助言について考えたことをあれこれと書いているうちに、この段落はすでに10行の長さに達しようとしている。この段落だけで、四百字詰め原稿用紙一枚に相当しているだろう。

行間を空けるとは段落パラグラフを増やすということだ。しかも、段落のブロックが重くならぬよう文章を少なめにするということでもある。このような助言をありがたく拝聴しておいたと言いながら、まるで逆らうように書いているのを反省する。しかし、反省することと変革することは別物だ。長年親しんできた自分のパラグラフ感覚をある日突然変えることはできそうもない。いや、このようなテーマについて書かなければ、ぼくだってどんどん改行し、一段落23行のブロックで見た目にやさしくすることもできる。実際、話題を雑記風に書くぼくのノートはそんなふうになっている。そのように書けば、たしかに読みやすそうには見える。しかし、文章が間断することがしばしばで、流れは悪い。要するに、目に訴える見た目の「快読感」と脳に訴える内容の「可読性」は違うのである。


そもそも段落は文章全体のテーマに従って構成されるものである。テーマが段落に小分けされて落とし込まれ、さらに個々の段落で長短さまざまな文章に分解される。理屈はそうだが、この説明はあまり現実的ではない。実際は、個々の文章を書いていくうちに、ひとかたまりの段落ができ、それがテーマの一断面についてのメッセージとなり、最終的にはすべての段落を通じてテーマの軸が一本通ってくるのである。

日本語の文章しか書かなかった20代半ばまではアバウトなパラグラフ感覚しか持ち合わせていなかった。前後して英語教育に携わり、その後海外広報の仕事に就くようになってから、英文を書く機会が一気に増えた。A4判シート30ページくらいの英文を一日で書いたこともある。その折に、ぼくは英語のスタイルブック(通称”シカゴマニュアル”なるもの)を中心に文章作法を徹底的に独学した。以来、日本語を書くときにもその習性を引きずっている。先にも書いたが、気まぐれに改行するのではなく、段落内の論理的帰結や内容の可読性を、見た目の体裁よりも優先させようとする習性である。うまくいっているかどうかは読者の判断に任せるしかないが……。

英文を書いていた時代の同僚にカリフォルニア州出身のアメリカ人がいた。その彼とパラグラフ感覚について話をしたことがある。「テーマに沿って書く。何行か書いて、気が向けば改行する。一行だけ書いて次の文章が浮かばなければ新しい段落を起こす。ただそれだけ。深呼吸したいときにも改行するね」と、彼は言ってのけた。彼には文才があった。正確に言うと、一行単位で読むと輝きを放つ瞬発力のある文才。だが、論理を追いかけるスタミナには決定的に欠けていた。この彼の、言わばスプリンター的文章作法を反面教師とした。これも、ご覧のような段落構成になっている理由の一つである。

正しいとか間違いとかの話ではない。書き手のスタイルである。スタイルだから、全文章を改行する「一文一段落」で書くハウツーライターもいれば、ぼくの段落のひとかたまりが可愛く見えてくるほど長い段落を諄々と書き綴る著者もいる。最近目を通した本では『啓蒙の弁証法』(ホルクハイマー、アドルノ著)のパラグラフが窒息しそうなほど長かった。段落が23ページにわたるのは当たり前、随所に56ページに及ぶ箇所もあるからたまげる。何よりも論理思考のスタミナに驚嘆してしまう。  

耳障り、気障り

創造的な表現への試みには寛容なつもりである。二十代後半から数年間は広告コピーの仕事に携わっていたし、もっと若い頃は論理無視、意味不明の詩を書いたりもしていた。既存の表現体系ではどうにも伝えきれない心情やメッセージがあるから、造語や用法の変形もやむをえない。創造のつもりが、結果的には乱雑や破壊につながることもあるだろう。ある程度割り切るしかない。

それでも、耳に障り気に障る表現がある。いや、正確に言うと、表現が苛立ちを招いているのではなく、話者の「心理的目線」と文脈の構図が耳障りの原因になっている。それが証拠に、別の状況にあって使い手が変わればまったく気にならないし、それどころか逆に、快く響くことさえある。

言い換えれば、立場や意見とことばの表現との不釣合いによる違和感だ。それを語る立場にふさわしくない言の軽さや重さ、あるいは意見や実体と同期しないことば遣いである。たとえば、クロマグロの議決・交渉に敗れたアメリカ代表の「保護が経済に負けた」。デリケートな問題を上位概念で一括りにしてしまう無謀な捨てぜりふではないか。欧米的二項対立発想の息苦しさをつい感じてしまう。ブッシュ前大統領の「アメリカ側につくか、それともテロの側につくか」なども、重いテーマに軽い言い回しの典型だった。他にもっと別の表現選択があってしかるべきだろう。


つい最近、「痛いところを衝かれました」というつぶやきに過剰反応してしまった。高尚なデリカシーではないが、ぼくの言語感性からすると、この表現は同一事項、同一人間関係において最初に気づいたそのとき一度しか使えないはずである。過去に何度も弱点をとらえられ責められてきた状況にあって、何度目かの「痛いところを衝かれました」を繰り返すのはありえない。これまで痛いところを度重なるほど衝かれながら、何事もなかったようにあらためてつぶやけば、耳障りに変じてしまう表現なのである。

もっと言えば、本人が意味した「痛いところ」が、ぼくにとって「腐ったところ」あるいは「どうにもこうにもならないところ」であったなら、あまりにも軽々しいではないか。こっちが神妙なのに、本人が「いやはや、痛いところを衝かれましたね」などとにんまり顔で応答するのは反省がない証拠である。「いやはや」から始めるくらいだから、余裕綽々、まるで他人事を扱うような我関せずの趣がここにはある。

日常語が変異しているのではなく、心情や現実を何とかして言い表そうとする意思がひ弱になっている。頭が高いくせにことばへの情熱が希薄なのだ。「はい」にも「わかりました」にも「やってみます」にも苛立つことがある。繰り返すが、表現そのものが耳障りなのではなく、二重文脈でその場を通り過ごそうとする発言者が気に障っている。彼らの「はい」は「聞くだけ聞いておきます」であり、「わかりました」は「一応検討はしてみます」であり、「やってみます」は「やれるとはかぎりませんが」なのである。アイデンティティのあることば遣いへの道は遠く険しい。    

語るべきを語らざる罪

「連れ立って映画を見に行った父と娘が、浮かぬ顔で帰宅した。画家である父は、ピカソの生活を写した映画が見たかったが、娘にはつまらぬだろうと思いやり、娘に向きそうな感じの映画に誘った。父がその映画を見たいのかと察した娘は、内心つまらないのを我慢してつきあってきた。ことばを抑制し、思いやりだけにたよって、双方が浮かぬ顔という結果になったのだった。」

もう34年も前に書かれた『失語の時代』(芳賀綏)からの引用である。「ものを尽くして言うべきにあらず」という表現美徳観が日本人の誰にも少なからず刷り込まれている。対照的なのが古代ギリシアで、「人間はロゴスをもつ動物である」と言われていた。ロゴスは多義性の強いことばだが、根源には「ことわり」がある。この伝統を継ぐ西洋社会では、ことばと理(理性や論理)はつながっている。いや、一体である、というのが正しいだろう。

文脈を察したり、行間を読んだり、はたまた言外の言を汲んでやったり……。わが国では聞き手が、ことば少なにつぶやく相手に対してずいぶん物分かりのよい態度を取る。この聞き手側の態度は、自分が話す側に立つときに「貸し」として作用する。これにて、ことば少なの貸借関係、つまり、甘えを許容し合う持ちつ持たれつのコミュニケーション関係の一丁上がり。小説の世界じゃあるまいし、そんな甘えの構造で成り立っていていいのだろうか。ことばによって分かり合おうとする努力を重ねない者が、文学世界の沈黙の妙を味わえるはずもない。


ロゴスを強調すると、「あいつは感性のない奴だ」と決めつけるところに、アンチロゴス派の言語理性の危うさが露になる。ロゴスもパトス(感性・情緒)も一人の人間に共存している。ロゴス嫌いに感性豊かな人間はきわめて少ないのだ。ぼくは若い頃から年長のロゴス嫌いと戦ってきた。「生意気で屁理屈の強い青二才」と言われ続けてきた。たしかに今もその面影は残っているかもしれないが、その抗戦姿勢を貫いたことによって少なくともロゴス嫌いほど馬鹿にならずに済んだと思っている。

思うところに素直になって語り始めるしかないではないか。ある会合があって、手伝いをして欲しければ、「早めに来てください」と言えばいい。それなのに、無理して「会合は午後6時開始」とだけ告げて心に一物を残すことはない。たしか夏目漱石のエピソードだったと思うが、「引越しすることになった。手伝ってくれるなら昼、飯だけ食うなら夕方にお越し願いたい」という手紙を仲間に出した。この文面を読めば、昼に行くしかない。エスプリのきいた「語るべきを語る」一つの方法である。

物言わぬ風土にあって、それなりの人物はちゃんと物を言っている。「口は災いのもと」や「物言えば唇寒し秋の風」というアンチロゴスにしても、それらが金言として今日に残ったのは、言として形にしたからである。ロゴス派であろうとアンチロゴス派であろうと、無言で睨み合うわけにはいかない。語るべきを語らざる姿勢からは何も生まれない。それどころか、誤解という罪を犯してしまう。 

ちょっと言い過ぎた。誤解は必ずしも罪ではないかもしれない。しかし、誤解は、美しくて味わいのある終幕になることもあれば、修復不可能な悲惨な結末を迎えることもある。ただ、どちらにしても誤解がつきものであるならば、黙して生じる誤解よりも、言を尽くして招く誤解のほうをぼくは取るし、そうしてきた。語った言を拠り所にして誤解をほどくほうに希望をつなぎたい。

対話論雑感

二日連続対話について論じたので、ついでに湧き上がるまま雑感を並べ書きしてみることにする。ぼくが対話と言うときのテーマは命題形式を前提としている(ディベートではその命題を「論題」と呼ぶ)。対話にはディベートや二者間論争が含まれる。しかし、話題を拾って語り合う会話、演題について一方通行で話す弁論、議題についてさまざまな意見を出す会議などは対話に含めていない。


先の『防災・社会貢献ディベート大会』は「無差別級」でおこなわれた。高校生、大学生、社会人が総当り的に対戦するのは珍しいケースである。ディベートの本来の姿は老若男女が入り混じることだと思っているので、あの大会を大いに評価している。


肯定側は論題で記述された内容を肯定する立場にあり、否定側は論題で記述された内容を否定するのではなく、当面の肯定側が論題を支持する論点を否定する。ちょっと混乱しそうな表現だが、検証者としての否定側は、「はじめに論題否定ありき」ではなく、肯定側の立論に対する否定の任に当たらねばならない、ということを意味している。

肯定側が評価に値する立証責任を果たしているにもかかわらず、否定側が肯定側の論点にまったく争点接合せずに論題のみを否定しているかぎり、反駁責任を果たしているとは見なさない。


ディベートの質を高めるのは肯定側の立証力にほかならない。他方、ディベートをスリリングな議論にするのは否定側の切り返しによるところが大きい。両者拮抗した場合は、即興性を求められる否定側に分がある。


論題には複数の解釈がありうる。ある一つの解釈によって立論の方向性を打ち出すとき、その方向性にはしかるべき正当性あるいは共通感覚(または通念)へのアピールが求められる。これを基本哲学と呼び、立論の冒頭でしっかりと提示するのが望ましい。

定義には辞書から引用する「辞書的定義」と、論題に充当する範囲で自ら手を加える「操作的定義」とがある。後者の定義をおこなう場合は、基本哲学と連動しなければならない。


否定とは「何か」の否定である。否定や反論は、何がしかの主張に対しておこなわれ、その主張と自論の見解が異なっていることを前提としている。見解の相違がなければ、誰も反駁しようとはしない。また、語られもしていないことを否定したり、不在の主張に反論することはできない。


ディベートの議論の評価は、肯定側立論の評価を基準としておこなわれる。


肯定側が二つの論点を提示したとしよう。そのうちの一つが反駁され、しかも最終弁論まで修復されないとき、立証責任は果たされなかったと見なす。すなわち、否定側は論点のすべてを否定する必要はなく、部分の否定だけで反駁責任を果たすことができる。

肯定側が「Aはすぐれている」と主張するだけで、いっさい証拠も論拠も示さなければ、否定側は「Aはすぐれていない」と反論するだけで十分である。

「なぜAがすぐれているのか?」と尋問するのが否定側の役割であるとする見方もあるが、肯定側は主張と同時に証拠と論拠を示す義務を背負っているから、言いっ放しの主張の面倒を見ることはない。但し、それではあまりにも不親切で人情味に欠けるように見えるから、否定側がカウンセリング的に振る舞っておいて損はない。

肯定側が「Aはすぐれている。それは次の二つの理由による」と主張するとき、否定側は主張への反論だけでは反駁責任を果たせない。二つの理由または少なくともいずれか一つの理由に効果的な検証反駁ができてはじめて主張を否定したことになる。


検証する側が一般的には優位に立ちやすいのは確かである。こう言うと、否定側がずいぶん楽そうに思われるかもしれないが、肯定側立論で想定外の論点が提示されたときは当意即妙で対応しなければならないので、力量互角ならまずまず拮抗するようになっている。

議論を拮抗させるためには、論題の記述に細心の注意を払わねばならない。一言一句の違いが議論の方向性を大きく変える。退屈な定義論争や詭弁の応酬が目立つディベートになるのは、たいてい論題記述の拙さに起因している。

対話からのプレゼント

2010322日。神戸で「第1回防災・社会貢献ディベート大会」が開催され、審査委員長として招かれた。大会そのものについてはニュース記事になっているようだ。一夜明けた今日、ディベートについて再考したことをしたためておこうと思う。


考えていることをことばで表現する。思考していることが熟していれば、ことばになりやすい。おそらくその思考はすでに言語と一体化しているのだろう。考えていることとことばとが一つになる実感が起こるとき、ぼくたちはぶれないアイデンティティを自覚することができる。もっとも、めったに体験できることではないが……。

考えていることがうまくことばにならない。それは言語側の問題であるよりも、思考側の問題であることのほうが多い。「口下手」を言い訳すると、「考え下手」を見苦しく露呈してしまうことになりかねない。どんなに高い思考や言語レベルに達しても、考えをうまく表現できない忸怩じくじたる思いはつねにつきまとう。それでもなお、くじけずに言語化の努力を重ねるしかない。ことばにしてこそ考えが明快になるのも事実である。こうして自分の書いている文章、書き終わった文章を再読してはじめて、考えの輪郭が明瞭になるものだ。

一人で考え表現し、その表現を読み返してみて、新たな思考のありように気づく。たとえ一人でも、思考と言語がつながってくるような作用に気づく。ならば、二者が相まみえる対話ならもっと強い作用が働くだろうと察しがつく。そうなのだ、弁証法の起源でもある、古代ギリシアで生まれた対話術〈ディアレクティケー〉には、自分一人の沈思黙考や言語表現で得られる効果以上の期待が込められた。すなわち、曖昧だったことが他者との議論を通じて一段も二段も高い段階で明らかになる止揚効果である。対話によって、自分の思考に気づき、思考のレベルを上げるのである。対話が授けてくれる最上のプレゼントは思考力だ。


「対話」の意義を説くのはやさしい。しかし、現実的には、対話は後味の悪さを残す。聴衆を相手にした修辞的な弁論術では見られない、一問一答という厳しいやりとりが対話の特徴だ。相手の意見に反論し、自論を主張する。主張すれば「なぜ?」と問われるから理由を示さねばならない。必要に応じて、事例や権威も引かねばならない。

教育ディベートには詭弁的要素も含まれるが、当然ながらディアレクティケーのDNAを強く継承している。命題を定めて、相反する両極に立って議論を交わす。人格を傷つけず、また反論にへこたれず、さらにまた遺恨を残さないよう意識することによって、理性的な対話に習熟する絶好の場になってくれる。だが、相当に場数を踏んでも、「激昂しない、クールで理性的な対話術」を身につけるのはむずかしい。

ディベートでは、相反する立場の相手と議論するものの、相手を打ち負かすことによって勝敗が決まるわけではない。マラソンややり投げやサッカーのように数値の多寡を競うのではないのだ。いや、ある基準にのっとって数値化はされるのだが、点数をつけるのは第三者の、聴衆を代表する審査員である。主観を最小限に抑えるために客観的指標を定め、先入観のない白紙状態タブラ・ラサの維持に努めるものの、主観を完全に消し去ることなど不可能である。

実力や技術だけでディベートの勝敗が決まらないことを心得ておこう。第三者評価型の競技に参加するかぎり、それは必然の理なのだ。ゆえに、審査員のフェアネスと眼力が重要になってくる。そして、審査が終わり判定が下されたら、ディベーターも審査員もその他すべての関係者も素直に結果に従わねばならない。そうでなければ、ディベートなど成り立たない。ディベートには「諦観」が求められる。ぼくがディベートという対話からもらったもう一つのプレゼントは虚心坦懐の精神である。

心の琴線に触れる

誰だったか忘れたが、「心の琴線きんせんに触れる」を口癖にしていた人がいた。何かにつけて感動しては心の琴線を持ち出す。顔も思い出せないが、耳に何度も響いた慣用句だったので、表現をよく覚えている。琴という楽器を見かけることはめったになくなった。ぼくが中学生になった頃、近所に大正琴のお師匠さんが住んでいて、町内のおやじ連中がこぞって習いに行ったものだ。ちょっとしたブームになっていたのだろう。そう言えば、当時は民謡も流行っていた記憶がある。

琴線と言えば琴の弦ゆえ、心の琴線という言い回しは比喩である。比喩ではあるが、琴の奏者とは違って、ぼくたちは比喩表現のほうにより親しんでいる。「心の琴線」と来れば、続く動詞は「触れる」である。浅学だからかもしれないが、これ以外の組み合わせを見たり聞いたりしたことはない。心の琴線を爪弾つまびいたり奏でたり調べたり掻き鳴らしたりなどとは言わないようである。

『「心」はあるのか』(橋爪大三郎)という問題提起があるくらいなので、もし心がないと仮定するならば、心の琴線がありうるはずもない。もし心があるのならば、どんなふうに琴線は心の中にしつらえられているのか。あるいはまた、心というのは結局は脳のことだと解釈する場合には、脳の中で琴線はどのように張られているのか。いずれにしても、心か脳の奥深いどこかには感動したり共鳴したりする感情の弦があって、それに外部から何かが触れると反応して音を出すようなのだ。


しかし、音の響き方は人によってだいぶ違うだろう。大仰に響く人があると思えば、微かな音すら立てない人もいるだろう。同じ対象を前にして琴線は鳴ったり鳴らなかったり、あるいはまったく異なった音色を立てる。そもそもこの慣用句は「触れる」までしか面倒見ていないので、音色がどんなふうに鳴るかまでは聞き届けることができない。共鳴の具合はそれこそ千差万別、人それぞれと想像できる。

よく考えてみれば、心の琴線に触れるというのは「待ちの姿勢」ではないか。己の琴線の感度が悪ければ、どんなに対象が迫ってきてもうんともすんとも共鳴しない。誰かがやさしく声を掛けてくれたり感動的な話を披露してくれても、ぼくの心の琴線に触れないかもしれない。心の琴線に触れないのが、ぼく自身の鈍感な感受性の問題ゆえなのか、他方、対象そのものが感情を揺さぶるほどの域に達していないからなのかはわからない。

どうやら、「私の心の琴線」という捉え方に据え膳に甘える目線がありそうだ。心の琴線に触れる何かを待つかぎり、感動を他力にすがっているような気がしてくる。むしろ、まず「他者の心の琴線」に触れるべく振る舞うことが、やがて自分自身の琴線にも触れることになるのだろう。それこそが共振であり共鳴であり共感である。人や言や物に感じて心を動かせるには、それら外界の存在に備わっている琴線に触れてみるべきなのだ。「感応かんのう」という表現がそれをぴったり表してくれる。あてがわれた感動ばかりで、自発的な感応がめっきり少なくなった時勢を最近よく嘆いている。