文体と表記のこと

二十代の終わりに転職して数年間、その後創業してからも十年間、合わせると二十年近く国際広報に従事したことになる。日本企業の海外向けPRであり、具体的には英文の執筆・編集の仕事をしていた。英語圏出身の専門家との協同作業だが、英文スタイルや細かなルールについては意見がぶつかることが多かった。カンマを打つか打たないか、セミコロンでつなぐのか、この箇所の強調にはイタリック書体を使うのか、一文を二文にするのか……など、最終段階では単なる文字校正以上の調整作業に疲れ果てたものだ。

英語は日本語に比べて、一般的に文型が変化しにくい。中学生の頃に習った、例の五文型を思い起こせばわかる。S+VS+V+CS+V+OS+V+O+OS+V+O+Cの五つがそれである。S=主語、V=動詞、O=目的語、C=補語の四要素のすべてまたはいずれかを組み合わせるわけだが、どんな文型になろうと、主語と動詞がこの順で配列される。目的語と補語も動詞の特性に従属する。動詞が文型の構造を決定するのである。文型が五つしかないのだから、英語は数理的な構造を持つ言語と言ってもいい(と、拙著『英語は独習』でも書いた)。

シカゴマニュアル.jpgのサムネール画像例文紹介を割愛して話を進める。単文の文型なら文章は動詞によってほぼ支配されるから、極端なことを言うと、簡潔に書けば誰が書いても同じ文章になる。にもかかわらず、編集者やライターはなぜ通称『シカゴマニュアル』(The Chikago Manual of Style)という、900ページもの分厚い本を手元に置いて参照するのか。よくもここまで詳述するものだと呆れるほど細目にわたって文体や表記のありようを推奨しているのである。察しの通り、文章は単文だけで書けない。必然複文や重文も入り混じってくる。さらに、記事になれば一文だけ書いて済むことはない。段落や章立てまで考えねばならない。こうして、文体や表記の一貫性を保つために気に留めねばならないことがどんどん膨らんでいくのである。


文体や表現にもっと融通性があるはずの日本文のルールブックは、シカゴマニュアルに比べればずいぶん貧弱と言わざるをえない。一見シンプルな構造の英文に、それを著し編む上で極力準拠すべきルールがこれほど多いことに衝撃を覚えた。ぼくは話し聴くことに関してバイリンガルからはほど遠い。つまり、日本語のほうが楽であり英語のほうが苦労が多い。しかし、こと英文を書くことに関してはさほど苦労しなかった。それでも、スタイル面での推敲にはかなり時間を費やさねばならなかったし、同僚のネイティブらとああでもないこうでもないと話し合わねばならなかった。アルファベット26文字で五文型しかない言語なのに……。いや、そうであるがゆえに重箱の隅をつつく必要があるのかもしれない。

ひらがな、カタカナ、漢字、アルファベットが混在し、縦書きでも横書きでも紙誌面の構成ができてしまう日本文。そこに一貫性のあるルールを徹底的に適用しようと思ったら、すべての文章にひな型を用意しなければならなくなるだろう。際限などあるはずもない。ワープロの出現によって書けない漢字を変換する便利さを手に入れたが、はたしてその漢字を読者が読み判じることができるかにまで気配りせねばならない。マニュアルに基づいてそんなことをしていたら文章など書けなくなってしまうだろう。

日本語にあって英語にないものを列挙すればいくらでもある。それほど二つの言語は異なっている。とりわけ漢字とふりがなの存在が両者の間に太い一線を画する。たとえば“hippopotamus”と英語で書いて、それが読めなくても発音記号を付けることはない。日本語では「河馬」と書いて「かば」とふりがなを付けることができる。いや、本文で「かば」と表記してもいい。このとき「カバ」という選択肢もある。しかも、河馬と書いて「バカ」というルビを振る芸当までできてしまう。そう、まさにこの点こそがスタイルブックにいちいち準拠するわけにはいかず、書き手の裁量に委ねられる理由なのだ。

顰蹙を買う」とするか「ひんしゅくを買う」とするか、ちょっと斜に構えて「ヒンシュクを買う」とするか……。顰蹙などと自分が書けもしない漢字をワープロ変換ソフトに任せて知らん顔してもいいのか。時々神妙になってキーを叩けない状態に陥る。英語では知らない単語は打ち込めない。そして、自力で打ち込めるのなら、おそらく意味はわかっているはずである。ワープロ時代になって困ったことは、書き手自身が書けもせず意味も知らない表現や漢字を文章中に適当に放り込めるようになったことだ。手書きできる熟語しか使ってはいけないという制限を受けたら、現代日本人の文章はかなり幼稚に見えてくるだろう。

ところで、顰蹙は何度覚えてもすぐに忘れる。ひらがなで書くか別の用語を使うのが無難かもしれない。他に、改竄かいざんも「改ざん」でやむをえず、放擲ほうてきも時間が経つと再生不可能になる。憂鬱などはとうの昔に諦めていて、「ふさぎこむ」とか「憂う」とか「うっとうしい」などと名詞以外の品詞で表現するようにしている。

若者よ、もっと屁理屈を!

屁理屈.jpg二年ほど前に「もう少し議論してみないか」という記事を書いた。「たまにでいいから、大樹に寄らない姿勢、長いものに巻かれない覚悟、大船に乗らない勇気を。同論なら言わなくてもよく、異論だからこそ言わねばならないのである」と結んで、論議にあたっての精神のありようについて触れた。

最近の親もわが子に「屁理屈を言うな!」と口うるさく言うのだろうか。会社の上司は若い部下がこねる理屈に一言注意をするのだろうか。ぼくの幼少期から青年期にかけては、当たり前のように耳にしたものである。半世紀以上生きてきた人なら、子どもの頃に屁理屈を言うなと親からたしなめらたことがあるに違いない。反抗期を迎えて、屁理屈を咎められ、「屁理屈じゃなくて理屈だよ」などと反発したりすると、「それを屁理屈と言うんだ」と浴びせられる……そんな経験を一度ならずしたに違いない。

屁理屈でも理屈でも呼び方はどっちでもいい。もう一歩踏み込んで言うべきところで、言わないほうが無難だと刷り込まれるのは不幸である。社会に出ると、自分の親と同じことを諭す先輩や上司がそこらじゅうにいる。強引な屁理屈は封じ込められるし、喉元まで出てきたまっとうな理屈さえ呑み込んで我慢させられる。これに順応してしまうと、人は寡黙という差し障りのない処世術を身につける。そんな若者たちが今どんどん量産されている。


 ほんの少し論理的に考えてみれば、テーゼという意見があれば必ずアンチテーゼという異種意見がありうることに気づく。論理的に考えるなどと言うと大袈裟に聞こえるかもしれないが、ちょっと冷静になればいいだけの話である。どんな事柄にもイエスとノーという価値判断があって意見が対極に分かれる。人間は多様性の生き物なのだから、イエスとノーの間でもさらに意見がかぎりなく分岐する。

 多様な意見をみんなが好き勝手に言い放つか、言っても仕方がないので黙るか……いずれにしても不器用な対処である。意見を好き勝手に言わない、言うのなら必ず理屈をくっつけようというほうがずっと健全なはずだ。技術の巧拙はさておき、意見の背後にある理屈を述べるのは理由や論拠を持ち出して説得しようとする試みではないのか。「あなたはこの意見についてどう思うのか?」と聞かれて、心底ノーなのに、相手の顔色を見ながらイエスで済ましていれば、理屈を並べる機会を失い、口数が少なくなってしまう。しかし、鬱憤と我慢が限界を超えて卓袱台をひっくり返すのは、たいてい普段屁理屈を言わない連中なのである。

 ディベートの教えに「言いたいこと、言うべきことは先に言っておく」というのがある。だから、「立論」と呼ばれる冒頭スピーチで、意見の全体と理屈と拠り所となる証拠を述べるようになっている。これで論が一応立つわけだ(立ったはずの論は、相手の反駁を受けて倒れるかもしれないが……)。もう一つ、「主張する者に証明の義務がある」というのもある。証明とは、つまるところ、理屈を言うことだ。それゆえに、親であろうと子であろうと、上司であろうと部下であろうと、先に意見を言い出したほうが理屈を述べ、その理屈に対しては「理屈はわからん」とか「屁理屈を言うな!」で片付けてはいけないのである。

意見を交わす、理屈を言い合うことを人生一大事のように肩肘張って考えることなどない。議論に馴染んでいけば、それは相互理解のための軽いジャブの応酬だということがわかるようになる。入社式シーズンの今、社長が社員に求める筆頭のスキルはコミュニケーションらしいが、そんなわかったようでわかりにくい言葉を持ち出すのではなく、「若者よ、もっと屁理屈を!」と訓示すればいいのだ。もっとも屁理屈はコミュニケーションなどではないと考えているのなら、社長、あなたこそ勉強し直すべきである。

饒舌と寡黙

「口はわざわいの門」、「もの言えば唇寒し秋の風」、「沈黙は金、雄弁は銀」、「巧言令色すくなし仁」……。

ものを言うかものを言わないかを二項対立させれば、洋の東西を問わず、昔からもの言うほうの旗色が悪かった。今日でさえ、ものを言うから口が滑る、だからものを言わないほうが得策だと考える傾向が強く、話術を鍛えるどころか、訥弁に安住して知らん顔している者がかなりいる。
 
あの雄弁家のキケロでさえ、「雄弁でない知恵のほうが口達者な愚かさよりもましだ」と言った。くだけて言えば、おバカさんのおしゃべりよりは賢い口下手のほうがいいということだ。もっとも、キケロは饒舌と寡黙の優劣について、これで終わらず、一番いいのは《教養のある弁論家》と結論している。それにしても、賢い口下手はありうるのか。口下手と判断された瞬間、賢いと思ってもらえるのか……大いに疑問がある。
 
饒舌について.jpg古代ローマ時代のギリシアの文人プルタルコスは、自身無類の話し好きだったにもかかわらず、饒舌をこき下ろしたことで知られている(『饒舌について』)。これをコミュニケーション過剰への戒めと読みがちだが、話はそう簡単ではない。コミュニケーションのあり方というよりも人間関係のあり方、ひいては当時の処世術への助言としてとらえることもできる。キケロの話同様に、実は単なる饒舌批判などではなく、饒舌ゆえに陥りがちな行為の愚かさを枚挙して教訓を垂れたのである。
 

プルタルコスは饒舌を「沈黙不能症という病気」と決めつけ、のべつまくなしに喋る人間は他人の話をろくに聞かないと断じる。また、沈黙には深みがあるが、戸締りしない口は禍を吐き散らすと指摘する。ことばには翼があってどこに飛んで行くかわからないとも言っている。要するに、おしゃべりによって人は傾聴しなくなり、かつ舌禍をも招く、ということだ。饒舌にいいことなどまったくないように思えてくる。
ことば固有の目的が聞く人に信頼の念を起させることなのに、明けても暮れてもペラペラとことばを浪費していれば不信の目を向けられるとプルタルコスは言う。しかし、これは言語を否定しているのではない。ことばの使い方が適切ではないために、「口数多くして空言多し」を招いているということではないか。実際、プルタルコスは別の箇所で「ことばは大変楽しく、かつ最もよく人間味を伝えるものなのに、それを悪用し、また無造作に使う者がいて(……)人を孤立させるものになってしまう」と言っているのだ。饒舌にも善用と悪用があってしかるべきである。
古代における饒舌懐疑論を真に受けて現代社会に用いないほうがよい。当時は、よりよいコミュニケーションよりも失態しないことが人生訓として重視されたのだ。現代においても、失態をしないという観点からすれば、寡黙が饒舌の優位に立つだろう。しかし、寡黙を続けていればいざという時に滑舌よろしく語ることなどできない。
饒舌家は礼節さえわきまえれば黙ることができる。著名な饒舌家の舌禍を見るにつけ、内容が空疎になればなるほどことばが空回りして暴走しかねないことを学ぶ。同時に、よく弁じる者ほど舌禍を避けるリスクマネジメントもできるわけだ。めったに口を開かない者がたまに発言すると禍を起こす。日常的にはこのケースのほうが圧倒的に多いのである。

口癖とワンパターン

白身フライ.jpg人は自分の口癖には気づきにくいが、他人の口癖には敏に反応する。過去、数え切れないほど耳にタコができてしまったのは「……の形の中で」という口癖。その男性の語りから「……の形の中で」を抜いて聞くと、ほとんど何も言っていないのに等しかった。出現頻度は10秒に一回くらいだった。

若い頃、説得表現力が未熟だったせいか、「絶対に」とよく言う自分の口癖に気づき、意識して使うのを控えるようにした。そんな意識をし始めると、今度は他人の口癖が耳に引っ掛かるようになる。そして、ついにと言うべきか、口癖の多い人たちのうちにいくつかの類型があることを発見した。

まず、次の言葉が見つからないときに、空白を作らないための「時間つなぎ」として使われるノイズがある。「あのう~」とか「ええっと」の類だ。ノイズなので、そこに意味はない。ぼくの知り合いに、「皆さん、あのう、今日は、あのう、お忙しい中、ええっと、この会場まで、あのう……」という調子で話す人がいる。本人は自分が話下手であることに気付いている。必死なのだが、適語がなかなか見つからない。「失語」しているのではなく、おそらく話の内容がしっかりと見えていないことからくる問題なのだろう。

二つ目は、決して話下手ではないが、脈絡がつながりにくくなったときに「要は」とか「やはり」とか「実は」で強引に筋を通そうとするケース。説得や説明を意識するあまり特定の言葉で調子をつけているのである。三つ目は、相手の話に調子を合わせるときに「なるほど」とか「でしょうね」とか「あるある」などのワンパターン表現を繰り返すケース。相手の話を左から右へ流しているだけなのだが、「聞いていますよ」という振りで共感のポーズを取る。


口癖は接続詞の機能も持つので、だいたい単語一つと相場が決まっている。ところが、マニュアル社会になって長文の「口癖」があちこちで聞かれるようになった。「お勘定は一万円からでよろしいでしょうか?」などもその一つで、もはや本人はその意味も噛みしめず、いや、その表現を使っていることにすら気づいていない。調子や相槌だけではなく、メッセージも口癖化しつつあるのだ。

過日、東京に出張した折、ホテルで朝食ビュッフェ会場に入って席を取った。丁重な立ち居振る舞いのホテルマンが会場の入り口に一人いて、客を迎え見送っている。ぼくはトレイを手に取り料理の品定めを始めた。サラダを皿に盛ってドレッシングをかけ、別の皿にスクランブルエッグとソーセージを取ってケチャップを添えた。白身魚のフライの前に来たとき、ふいにホテルマンが近づいてきて「白身フライにはそのウスターソースをスプーンでおかけください」と言うではないか。フライを盛った皿の横にウスターソースの入った器があり、スプーンが浸かっている。要するに、そのスプーンでウスターソースをすくってフライにかけろと言っているのだ。

とても奇異に思えた。ドレッシングもケチャップも同じことではないか。そのときには一言も発せず、なぜ白身魚のフライに一言添えるのか。見ればわかるし、そんなことは助言してもらわなくても「朝飯前」にできてしまう。しかも、その助言はぼくだけに聴かせたものではないことがわかった。相次いで会場にやってくる宿泊客の一人一人に、ホテルマンは「白身フライにはそのウスターソースをスプーンでおかけください」とやっているのだ。

なぜ、こんな言わずもがなの一言を他の仕事よりも優先していちいち告げるのか……食事をしながら、朝からこのワンパターンメッセージの必要性を考えさせられることになった。コーヒーをすすっていて、はは~んとひらめいた。このホテルマン、きっと「ある光景」に出くわした。その光景とは、串カツとウスターソースに慣れ親しんだ関西人が、白身魚フライを箸でつまんでウスターソースにドボンと漬けてしまったシーンだ。ホテルマン、二度漬けならぬ一度漬けに仰天! 以来、ワンパターンな助言を殊勝に繰り返しているに違いない。

柿とバナナ

あんぽ柿.jpg好物の干し柿をいただいた。水分がほどよく残っていて深い甘みのあるあんぽ柿である。柿は日本人にとってなじみのある果物なので、日本原産だと思われているが、どうやら奈良時代に中国から伝わったというのが真説のようだ。この起源説を知ると、「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」(子規)という句によりいっそう親近感を覚える。

201111月にバルセロナに旅した。その折に、有名なランブラス通りに面したボケリア市場で軽食を取り、店を冷やかして場内を歩いてみた。そこで、一杯たしか1ユーロほどの柿ジュースが売られているのを見つけた。他の果物とブレンドしていたのか、それとも何か別のものを添加していたのか、ちょっと柿らしくない鮮やかな色の甘い汁を困惑気味に飲み干したのを覚えている。
スペイン語でも発音は「カキ」で、kaquikakiと綴る。イタリア語でもcachikakiの両方の綴りがある。英語とフランス語はいずれもkakiだ。ぼくの知識が正しいなら、ラテン語系の言語ではカタカナの「カ」はcaで綴ることが多く、外来語の「カ行」の音にはkを用いるようである。柿の90パーセント以上がアジアで生産され、なかでも中国が最大の生産量を誇るが、日本語の発音であるkakiが世界中で標準の名称になっている。

 日本名の産物がそのままの発音で諸外国で使われていることに誇りを持つほどのことはないが、おもしろい現象ではある。もっとも、その逆は枚挙にいとまがないほど例がある。17世紀頃に日本に入ってきたポテトにはジャガイモや馬鈴薯という和製語があるものの、トマトはトマトだし、セロリはセロリ、バナナはバナナと外来語をそのまま使っている。発音こそ若干違っても、特に言い換えをしていない。外国で柿をkakiとそのまま流用しているようなことは、わが国ではごく普通にあることだ。中国語に始まって、ぼくたちの先祖は外来語を拒絶することなく、巧みに日本語内に同化させてきたのである。
 
ぼくの知る欧米語では特定の柿やバナナに言及しないときは、原則複数形で表現する。ところが、単数と複数を語尾変化として峻別しない日本語では「柿が好物」とか「バナナが好き」で済む。その代わり、単複同型ゆえに、いざ個数を表現しようと思えば助数詞を複雑に操らねばならない。柿は一個、二個だが、バナナは一本、二本である。猫は一匹、二匹で、犬も小型犬ならそれでいいが、大型犬になると一頭、二頭。鶏は一羽、二羽だが、ウサギもそう数える。鏡は一面、二面、箪笥は一棹、二棹、イカなどは一杯、二杯だから、これはもう覚えてしまうしかない。
 
複数にするとき、たとえば英語やスペイン語では基本は単数に-s-esをつける。イタリア語はちょっとややこしく、-aで終わる女性名詞は-eに、-oで終わる男性名詞は-iに変化する。名詞だけでなく、形容詞も男女単複で変わる。たとえば、おなじみの「ブラボー=bravo」も、すばらしいと称賛する対象によって、bravo(一人の男性)、bravi(複数の男性または男女混合)、brava(一人の女性)、brave(複数の女性)という形を取る。
 
そこで、イタリア語の柿であるcachiだ。偶然だが、発音も綴りもすでに複数になっている。ならば、彼らは一個の柿をどう表現するか。なんとcaco(カコ)という単数形を発明したらしいのである。ぼくの辞書には載っていないが、『歳時記百話 季を生きる』(高橋睦郎著)にはそう書いてある。興味深い話である。ぼくたちはバナナを一本、二本と呼ばねばならないが、バナーナーズと言わなくていいのはありがたい。

盤上の関係

chess.png「盤上」などと書くと、ソチの冬季五輪も近づいているから銀盤の舞を連想するかもしれない。実は、チェスや将棋などの盤上の駒の話である。フィギュアスケートの華麗さとは違って地味なテーマだが、言語の比喩として見直してみると気づきが多い。

一つのことばを、他のことばから切り離して単独で眺めてみると、これほど非力で無味乾燥なものはない。ある言語における単語Xは、それ自体何の意味も持たない。それなのに、受験勉強という名のもとに、なぜ英単語を部品を扱うかのように丸暗記しようとしたのだろう。不幸なことに、ほとんどの英語教師はあのような学習の代案を創造的に示してくれなかった。

先日、古本屋でソシュール研究者の丸山圭三郎の本を偶然見つけた。『欲望のウロボロス』という書名だ。ウロボロスについて書き始めると別のテーマになるので省略するが、この本に所収の小文「チェスと言葉」をとても興味深く読んだ。「ソシュールが指摘したチェスと言葉の共通性は(……)その価値を関係という基盤においている」、つまり、相互依存という関係性においてチェスの駒と単語は類似しているのである。


盤上の駒の価値はチェスのルールに支配されると同時に、それぞれの位置に相互に依存している。個々の駒にはさほど価値はなく、盤上の駒どうしのネットワークにこそ意味がある、というわけだ。単語の意味も同様で、文脈の中で相互にもたれ合い関係し合って意味を生む。チェスのプレイヤーがルールや駒どうしの関係をにらみながら手を指すように、言語の使い手であるぼくたちも文法やそのつどの状況、ひいては社会や文化の枠組みの中でことばを選んでいる。
「右」という単語は「左」に依存し、左は右に依存する。左という概念がないときに誰も右などとは言わないのである。同じく、父、母、兄弟姉妹、祖父、祖母、おじ、おば、いとこなどの表現も親族関係全体の中でこそ意味を持つ。池、湖、海、沼などもそうである。そして、このような関係のネットワークは言語ごとに固有の特徴を示す。ある国で生まれ、その国で使われている母語を習得していく過程で、無意識のうちに構造の縛りを受けるのだ。
日本語では「水」と「湯」は別のことばである。しかし、英語では“water”しかなく、それに“hot”を付けて湯を表現する。ぼくたちは兄弟や姉妹を表現するとき、年上か年下を強く意識するから「兄弟は何人?」と聞かれて「兄が一人」とか「弟が二人」と答える。他方、英語圏の人たちは“brother”“sister”でそれぞれ兄弟と姉妹を表現してしまう。ジョンがトムの兄であるか弟であるか、またベティがメアリーの姉であるか妹であるかにはぼくたちほど強い関心を抱かないのだ。
だからと言って、何事においても日本人のほうがデリケートに言語表現をしているわけではない。魚の種類や部位の名称の細分化にこだわる風土ではあるが、ほんの半世紀か一世紀ほど遡れば牛肉の部位の名称などには無頓着だったのである。

二字熟語遊び、再び

オセロ 二字熟語.png「平和と和平」のような関係が成り立つ二字熟語を探し、昨年本ブログで二度遊んでみた(『二字熟語で遊ぶ』『続・二字熟語で遊ぶ』)。

二字熟語「○●」を「●○」にするとまったく意味が変わってしまうものもあれば、類語として成り立つものもある。欲情と情欲の違いは何となく分かる程度であって、言を尽くして差異を明らかにするのは容易でない。勉強ではなく遊んでいるのだから、辞書に頼らずに熟語を対比させてみるのがいい。自分自身の語感の鋭と鈍にも気づかされる。

【期末と末期】
(例)決算の「期末」になって経営が「末期」症状になっていることに気付いたが、手遅れだった。

中高生の頃、期末試験のたびに絶望的になった。いずれ忘れてしまう年号や固有名詞を、ただ明日と教師のためだけに今日記憶せねばならないという、不可解にして不条理な現実。期末という術語には悲観が漂い、末期には絶望が内蔵されている。
 
【所長と長所】
(例)さすが「所長」だけのことはある。短所はほとんどなく、「長所」ばかりが目立つ。

自分のことを描写した例文ではない。ちなみに、ぼくは三十代半ばで創業した。社長と呼ばれるのに違和感があったけれど、社名に「研究所」が付くから「所長」と名乗れた。所長には商売っ気をやわらげる響きがある。
 
【手元と元手】
(例)「その事業を始めるには『元手』がいるぞ」「ああ、わかっている」「ちゃんと『手元』にあるのか」「一応」。

この例のように、元手は手元にあることが望ましい。他人のところにある資金を当てにしていては元手と呼べないだろう。なお、元手はスタート時点での資金である。この資金を生かして手元に残したいのが利益というわけだ。
 
【発揮と揮発】
(例)彼は持てる力を「発揮」して挑んだが、努力の一部は水泡に帰し、あるいは「揮発」してしまった。

かつてはガソリンの類を揮発油と呼んだが、衣服のシミ抜きに用いるベンジンなどもそう呼ばれていた。独特の匂いが鼻を刺激するが、シミ抜きで威力を発揮したら後腐れなく揮発する。疾風はやてのようにやって来て用事を済ませ、疾風のように去って行った月光仮面もよく似ている。
 
【事情と情事】
(例)すべての「情事」にゆゆしき「事情」があるとはかぎらない。また、事情が何であれと言う時、その事情に情事を想定することもまずないだろう。

小学生の頃に初めて「情事」ということばを知った。ご存じゲイリー・クーパーとオードリー・ヘップバーンの『昼下がりの情事』という映画の題名がきっかけだった。英語の“information”かドイツ語の“Informationen”かに「情報」という訳語をつけたのは森鴎外だと何かの本で読んだことがある。こちらの情は「じょう」ではなく「なさけ」のほうだったと思われる。
 
【水力と力水】
(例)「水力」は電気エネルギーとなって文明に寄与し、「力水ちからみず」は精神的エネルギーとなって力士に元気を与える。

力水は浄めのものである。力水は負けた力士ではなく勝った力士につけてもらう。これで気分が一新する。但し、力水は所詮水である。力水で風呂は沸かないし量も少なすぎる。他方、水力は力である。他の力同様に、水の力も善悪両用に働く。

十店十色のメッセージ

2008年 140
2009年 226
2010年 203
2011年 120
2012年   51
2013年   33
20131227日現在)

本ブログ“Okano Note”の過去の更新回数である。ちなみに初年度の2008年は実質7か月だからかなり頑張っていたのがわかる。年々逓減、半減して今日に至る。最近は更新頻度が低く、一か月近く開くこともあった。知の劣化なのか、発想の貧困なのか、多忙だからなのか……。自己分析すれば、いずれでもない。マメさと凝り性が人並みに落ち着いたということだろう。
当然ながら、ブログを更新したり管理したりするダッシュボード上のお知らせをしっかり読んでいない。一昨日、「現システムのサポートがまもなく終了します」と未来形で出ていて、ちょっと慌てた。そして、今日、「▲重要:ご利用の製品のサポートは終了しています」と完了形になっていて、焦った。サポートが終了したからといって、すぐに使えなくなるわけではないらしいが、過去のブログを保護するには、早晩、別のシステムに移行しなければならない。見積もりをしてもらったら10万円くらいかかるとのことである。

それはさておき、このお知らせはとてもわかりやすかった。ぼくの注意を喚起して対策を取るべく行動へと駆り立てた。メッセージは、注意、情報、案内、訴求、説明、説得、言い訳などのために書かれ掲げられる。ねらいはいろいろあるが、他者と関わる必要性から生まれる。二十代後半から三十代前半に広告関係の仕事に身を置いたので、メッセージの表現には目配りする習性がある。おびただしい広告コピー、看板、注意書きが毎日目に飛び込んでくる。上記のお知らせのように簡潔でピンポイント効果の高いものもあれば、さっぱり訳のわからないもの、戸惑ってしまうもの、単にウケだけをねらっているものなど様々だ。店や当局が伝えるメッセージはまさに十店十色の様相を呈している。
トイレに入ると「人がいなくても、水が流れることがあります」というシールが貼ってある。男性トイレで小用を足すとき、便器の前に立つとセンサーが人を感知し、小用を終えてその場を離れた直後に水が流れる。このことを男性諸君が承知しているという暗黙の前提に立って掲げられたメッセージだ。だが、「人がいなくても水が流れること」をなぜ人に知らせているのか、とても奇妙である。
横浜の中華街では「不法な客引き・ビラ配り。栗の押し売りにはご注意ください」が目を引く。なにしろ「栗」に特化した呼びかけだ。押し売りされた後で気づく場所にあるので、後の祭り。同じく横浜で「大麻入りビール」と大きく看板を掲げた店を見かけた。かなりヤバイ。ヤバイと言えば、別の所に「さわるな! さわるとヤバイです」というのがあった。ヤバイに反応する者も少なくないので、さわってみたいという好奇心を刺激する。
 
古着屋の看板.jpgこの写真は大阪の天神橋商店街の古着屋の看板である。「古着屋はギャグまで古い!」に続けて「3枚でレジがアホになる!」と大きな見出し。今となっては懐かしいナベアツ(現桂三度)の「いち~、に~、さ~ん」のもじりである。ウケねらい、店主が楽しんでいる。大阪以外の方々は「さすが大阪」と感心するが、この手口は日常茶飯事で見慣れているから、さほど驚きはしない。

続・二字熟語で遊ぶ

理論-論理.png『二字熟語で遊ぶ』を書いた直後に、読者から「こういうのもあります」と123の例が寄せられた。「高座と座高」「事故と故事」「女子と子女」などは案外気づきにくく、意味も変化するので、個人的には愉快に感じた。

その時以来、ぼくも新たに20いくつかの上下変換可能な二字熟語を見つけたので、文例とともにいくつか紹介しておくことにする。

【論理と理論】
(例)「理論」は体系的な知識、「論理」は前提から結論に到る筋道。机上だけでは役に立たないという共通点がある。

論も理も昨今あまり人気がないが、かと言って、なくてもいいのかと突き詰められるとちょっと困ってしまう。
 
【背中と中背】
(例)すべての人に「背中」らしきものはあるが、みながみな「中背」であるとはかぎらない。

かつて中肉中背が理想とされた時代があったが、ここで表現されている中肉と対比されるのは太さ・細さなのだろうか。「中背」は高さ・低さなのだろうか。太肉低背とか細肉高背に当てはまる人間はいるが、未だかつてこのような表現を見聞きしたことがない。
 
【貴兄と兄貴】
(例)「貴兄」には尊敬の念が込められ、「兄貴」には親しみの情が込められる。

貴兄と呼んだ瞬間、ちょっと身を引き締める振りをしなければならないが、兄貴と声を掛けるときは頼りにしているか甘えているのだろう。おごってもらいたければ「アニキ」と呼び掛けるのがいい。
 
【転機と機転】
(例)ちょっと「機転」を働かせていれば、あの時が人生の「転機」だということがわかったはずだ。

転機は勝手にやってくることがあるが、機転は自発的である。だから、機転のきく人間になるのは、転機を迎えることよりもむずかしいのである。
 
【落下と下落】
(例)望めば人間は「落下」することができるが、「下落」することはありえない。

人間であれモノであれ、落下できるのは物体である。下落するのは価値である。肉体としての人そのものは下落せず、人の評判や値打ちが下落するのである。
 
【分子と子分】
(例)原子が結合して「分子」になるが、親にくっついて手下になると「子分」になる。

なお、分子には分母という親の影もちらつくから、ある意味では子分なのかもしれない。異分子にならぬように保身的に振る舞う今時の組織人は、思想なき子分と言い換えてもいいだろう。

ローマとラテン語のこと(下)

ローマ名言集に編まれている諺のほとんどは古代に起源をもつ。ラテン語で書かれているが、これを日本語対訳で読んでみて驚く。かつて英語で覚えた諺や格言の多くと見事に一致するのである。
 
セネカの『人生の短さについて』で紹介されている“Ars longa, vita brevis.”はヒポクラテスのことばとして有名だ。「芸術は長く、人生は短し」という意味である。英語にも同じ表現があって、“Art is longlife is short.”として知られている。「少年老い易く学成り難し」を「人は老いやすく芸術は成りがたい」と言い換えて見れば、ほぼ同じ意味になる。
 
おなじみの「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」(英語では“A sound mind in a sound body.”)は風刺詩人ユウュナーリスのことばで、こちらも元はラテン語だ。“Orandum est ut sit mens sana in corpore sano.がそれ。余談になるが、下線部のmensは精神という意味。これを類義語のanimaに変えればAnima Sana In Corpore Sanoとなり、5つの単語の頭文字をつなげば靴メーカーのASICSになる。同社の社名はここに由来している。
 

 ところで、いま紹介した二つの格言、実は長い歴史の中で曲解され意味が変わってしまった。
 
「芸術は長く、人生は短し」は、「芸術(作品)が長く歴史に名を残すのに比べて、人(アーティスト)の生は短い」と解釈されることが多い。しかし、ラテン語のarsは、芸術という意味に転じる前は「技術」だった。英語でもartには「技」という意味が根強く残っている。しかも、医学の祖であるヒポクラテスの言であることも踏まえれば、「技術(医術)を習得するには年月を要するのに、われわれの人生は短い」というのが原義に近かったことが類推できる。
 
「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」のほうは、原語の前の数語を省いて引用したために意味が変わった。身体を鍛錬して健康になるほうが精神の健全さに先立つかのように都合よく解釈されされるようになったのである。肉体派が「ほら見てみろ」と薄ら笑いを浮かべて、精神派や知性派を小馬鹿にしているかのようだ。元はと言えば、「願わくば」という話である。思い切り意訳するならば、「欲望に振り回されるくらいなら、せめて身体の健康を願いなさい。きみたちはおバカさんなんだから、つつましく『元気な身体にこましな知恵が生まれること』をよしとしなさい」ということになるだろう。
 
ローマの格闘競技場コロッセオの博物館に碑文が展示されている。この碑文の言語は現代言語と大いに異なっている。現代のアルファベット26文字に対して、当時は21文字しかなかった。また、子音と子音の間に“V”の文字が頻繁に出てくる。これは“U”に近い発音なのだが、古ラテン語のアルファベットには“U”の文字がなかったのである。この伝統を意識的に守っているのが、例のBVLGARIだ。