お手本の御手並

研修のレジュメを書く。基本的には象徴的なエピソードを踏まえたり引用したりして自論を展開するようにしている。他にも踏み込んで事例を紹介する場合もある。学び手にとってそこに「サプライズ」があるかどうかが、ぼくの事例を選ぶ基準になっている。

来週の私塾のテーマは『ブランド』。小さな会社にとっては、羨ましくもなかなか手にすることができない「品質と信用の記号」である。商品やサービスは大きく分けて「機能的価値」と「記号的価値」から成り立つ。たとえば、喉を潤すだけなら水は機能的価値を有していればいい。無性に渇いているならペットボトルの天然水であるか水道水であるかは問題にはならない。このとき、天然水と水道水の間には飲料水としての機能的価値に大差はない。

ところが、健康や安全や生活スタイル、あるいはボトルのデザイン要素やネーミングやメーカー名などの記号的要素が加味されると、そこに大差が出てくる。ペットボトルに入った天然水なら150円になるが、水道水にそんな値段はつかない。機能的価値に加えて記号的価値が大きくなればなるほど「ブランド力がある」ということになる。

このブランドの話をわかりやすい事例で紹介したい。小さな会社に属する塾生が多いので、小さな会社のブランド事例が身近で参考になる。しかし、そこに意表をつかれる発見や驚きがなければ、ぼくは取り上げない。手を伸ばせば届く範囲のお手本や同規模・同業種の先行事例を学べば確かに「よくわかる」だろうが、学習効果には見るべきものがないのだ。とても参考になりそうもない一流ブランドの事例であっても、そこに想定外の題材があるならば、ぼくは積極的に取り上げるようにしている。


ウィリアム・A・オールコットは『知的人生案内』の中で次のように言っている。

「自分の行動の基準を高すぎるところに置くのは危険だという考え方がある。子供には完璧な手本を習わせるよりも、やや下手な手本を与える方が、ずっと速く字を覚えるという教師もいる。完璧な手本を与えられると生徒はやる気をなくしがちだが、生徒よりちょっとうまいという程度の手本なら、自分もすぐにこのくらい書けるようになると思って、やる気を出すというのである。しかし、その考え方は絶対まちがっている。手書きのものなら、子供にはできるだけ上手な手本を与えた方がよい。子供は必ずそのお手本をまねるはずである。どんな子供でも、少しでもやれる可能性のあることなら、自分でやってみようという向上心をもつはずである。」 

ぼくの意見とはだいぶニュアンスは違うが、できるだけよい手本を目標にすべきという主張には賛同する。ぼくの考えはもっと過激だ。選択肢が二つあるとき、まねできる可能性がまったくなかろうが、手本と自分の実力の差に愕然としてショックを受けようとも、レベルの高いほうを手本にすべきである。自分に少し毛の生えた程度の手本に満足してはならない。なお、二つの手本が同じレベルなら、ぼくは愉快なほうを選ぶ。

初心者だから先輩の素人が描いた絵をお手本にするのがいいのか、初心者といえども古今東西の一流の作品を見せるべきか……。「わかりやすくマネしやすい」をお手本選びの判断基準にしてはいけない。構図であれ色調であれタッチであれ、ある種「太刀打ちできない印象」を与えるものをお手本にするべきだろう。二流を参考にして上達しても一流にはなれない。結果的に一流になれずとも、目指すべきは一流でなければならない。そうでなければ二流にもなれない。

手本に学ぶ。手本通りにいかないし、手本のレベルにも到達できないことが多いだろう。それでもなお、手本を一流のものにしておけば「御手並拝見力」はつく。絵は上手に描けなくとも一流の鑑賞眼を身につけることができる。  

揺れる価値、ぶれない価値

人間世界に比べて動物世界の価値は一定しているように思われる。もちろん、考古学的尺度からすれば、価値は大きくシフトしていくのだろうが、何十年や何百年で一変することは決してありえない。ましてや、ぼくたちが昨日と今日の価値の上下に一喜一憂するように犬や猫が日々を送っているとは想像できない。

難しい話や複雑極まる仕組みはさておき、昨日のルールや常識がここまでも今日通用しないとなると、学習することが意味を成さなくなってしまう。今年の3月、ぼくは160円ほど払ってユーロを手にした。定食18ユーロというメニューを見て、アタマで翻訳して「2,880円か。ランチにしてはいい値段だな」などとつぶやいていた。先週そのユーロが120円を切った。これは2160円に相当する。

為替変動と無縁でいることはできない。できないが、日本にいる大半の日本人にとっては、欧州のランチの値段に関心などないだろう。同時に、ユーロ圏の人たちが自国でランチを食べるときに誰も円との相場比較などしない。彼らにとって、行きつけのレストランのランチは18ユーロであって、ここ数年は変動していないかもしれない。年に一、二度ちょくちょくユーロ圏に出掛けるぼくは少し気にする。正直に言うと、円とユーロを換算している自分をせこく感じることも多々ある。

景気がよくない。出費は控えたほうがよろしい。こういう風潮にどっぷり浸りながらも、「円高だから海外旅行のチャンス!」となるわけだが、それは昨年に比べて円の出費額が少なくなるということであって、円高であろうが円安であろうが、出掛ければ確実に出費は増える。金融というマーケットが実質価値に目を向けず、価値の差額にばかり注視してきた結果、一般消費者すらもその揺れ動く差額分ばかりに気を取られてしまう。


貨幣価値というものは不思議なものだとつくづく思う昨今である。午前11時頃になると、オフィス近くの沿道にテーブル一つ置いた弁当屋が七つ八つ並ぶ。おかず数品とライスがセットになって280円。これが最近の最安値である。この弁当のあとに350円以上のコーヒーは飲みづらい。カフェチェーンの180円のコーヒーですら割高に見えてくる。

とある飲食店でスーツの内ポケットからボールペンを取り出そうとしたら、そこに入っていたリップクリームのキャップがたまたまいっしょに出てきて床に落ちた。うつむいて探してみたが見つからない。長椅子の下に入ってしまったのか、弾んで数メートル先のどこかに転がってしまったのか……。とりあえずリップクリームの「本体」のほうを出した(放っておくと内ポケットの布地にクリームがべったり)。その後もしきりにキャップの行方を追うぼくを見て、同席していた某企業の代表取締役氏が「リップクリームくらい、また買えばよろしいじゃないですか」と言った。

キャップを探す手間をかけるくらいなら200円くらいの商品を買い直しなさい、何よりもキャップを探している姿はみっともない、という忠告である。相性がよくて親しい男なのだが、ぼくの金銭価値観とはまったく違う。彼は10万円以上のスーツしか買わないが、ぼくは消耗品のスーツに10万円以上出すつもりなどさらさらない。

リップクリームのキャップが惜しいのでもなく、200円で買い換えるのを拒否するわけでもない。それがたとえ安価なものであれ、落としたものを探す努力もせずに即座に諦めて買い直すという発想がぼくの回路にはないのだ。本体とキャップはセットになるのが望ましい。そのキャップが池にポチャリと落ちたら諦める。しかし、探せば見つかる圏内にあるではないか。

探索行為は、落としたキャップの値段とは無関係なのである。うどんを食べるときに一味唐辛子を必死に探すようなものなのだ。で一体ゆえに価値があるとき、をなくしたからという理由でを捨てて買い換えるということを、ぼくは安易にできない性分なのである。数万円もする万年筆のキャップにも、百円のボールペンのキャップにも、同じエネルギーと時間をかけて探す。

たぶん変な奴なんだろう、ぼくは。の研修レジュメ20を一日で書き上げて編集しておきながら、気になる一行一情報のためにさらなる一日を費やすことがある。こんな性向がぼくにとっての「ぶれない価値」なのだが、変動価値の時代にはそぐわないのだろうか。  

縮みゆくマーケット

昔々の話。「隣の村まではどのくらいかのう?」と旅人が尋ねれば、「そうさな、三里ばかりってとこかな」と村人が答えた。時間ではなく、距離で表現した。こんな時代が長く続いたが、今から40年前、突然「距離の破壊」もしくは「距離の短縮」という概念が登場した。

世界的規模の交通網の発達により、距離はキロメートルという単位から時・分・秒という単位で計測されるようになる。国内においても新幹線や特急の高速化に加えて高速道路の整備で都市間の距離が縮まる。「時間地図」なるものも作られた。その地図によれば、大阪のすぐ東側に東京がくっついていて、物理的距離が近いはずの和歌山の新宮が大阪のはるか南方に位置していた。

大阪の市街地から新宮までは距離にして約240キロメートル。他方、東京までは約550キロメートルだ(距離だけを見ても、同じ近畿内の新宮までが東京までの半分近くに達しているのにはあらためて驚かされる)。現在、大阪-新宮間は特急で3時間42分。これに対し、大阪-東京間は新幹線で2時間33分。飛行機を使えば、リムジンバスや待ち時間を加えても2時間程度だ。

近畿一円をマーケットとしてとらえるよりも、大阪と東京を一つのマーケットとして見るほうが理に適っているだろう。だが、こんな解析はほとんど意味を持たない。なぜなら、以上のことは人の移動や物流に限られた話であって、ウェブではいつでもどこでも無形ソフト財をバーチャル移動させることが可能だからである。ウェブ上では、距離は完全に破壊され、時間もゼロに向かって縮む。そこには底無し沼のようなたった一つのマーケットが存在するだけである。


このような現象はマーケットの広がりと呼べるのだろうか。実は、マーケットは広大になったのではなく、凝縮されたのである。これまで広範囲にあちこちに点在していた店や商店街が一ヵ所に集められ、空恐ろしいほどの密度で商売をしているような状況だ。高密度集積回路のようなマーケットにあって、売り手と買い手の遭遇はほとんど偶然のごとき様相を呈する。

効率よくマーケットにアクセスできる売り手側ではあるが、買い手もオプションを増やした。従来なら購買の検討の余地すらなかった遠隔地の売り手と縁組ができるのである。売り手にとっては、かつて競合しえなかった同業者もライバルになった。少々派手な露出をしても目立たなくなった。

この縮みゆくマーケットは、ウェブ世界が初めてではない。その昔、都心部にはおびただしい数の店舗が集積した。商店街や公設市場は賑わっていた。そのマーケットのど真ん中あるいは周辺に大型店が参入し、過密化に拍車をかけた。顛末はご承知の通り。商店街はシャッター通りと化し、市街地の空洞化が始まったのである。焦った商店主たちはマーケティングの基本原則を置き去りにしてしまった。

縮みゆくマーケットの渦中でビジネスを展開するとき、負け組へと墜ちた商店主たちを教訓にするべきだろう。彼らは、真の顧客を忘れて不特定多数を相手にし、品質よりも便利を売り物にした。これではコンビニに勝てるはずもない。奉仕よりも儲けを優先し、店の個性をかなぐり捨てた。まるでセルフサービスのカフェや立ち食いうどん店と同じだ。品質と個性に支えられたプロフェッショナルの誇りこそが過密マーケットを生き残る差異化ではないか、とぼくは考えている。

学び学でリテラシーアップ

手っ取り早く役に立つハウツーばかりに目を向けずに教養を身につけよ。いや、社会に出れば教養なんぞよりも実践的ハウツーだ。このテーマは議論伯仲すること間違いない。しかし、生意気なようだが、ちょっと一段高いところから見れば、どっちも正しいのだ。

精読か速読かという本の読み方にしても、いずれかが他方よりすぐれているわけではない。どちらにもそれなりの意義がある。読書という一種の学習行動は、青二才的に言うと、自己を高めるためである。精読だけが自己鍛錬の手段ではなく、即席ハウツーをスピーディに読みこなしていっても何がしかは身につくものだ。

良し悪しは別にして、ぼくは独学主義者である。ここで言う独学とは、本や人から学ばないということではない。本や人から初歩的な手ほどきを学んだら、あとは自力で学ぶという意味である。独学の必要性は英語学習を通じて身に染みた。高度なレベルに達するには、早晩鍛錬の方法を自己流にシフトしなければならない。それならば、初心者の頃からその志で進めるほうがいい、と考えたのだ。

先日このブログで紹介した拙著『英語は独習』もそんな動機から書き綴った。英語は独習できる、いや独習しかないという信念は今も健在である。強気なようだが、たいていのテーマは独習できると断言してもいい。

拙著の出版当時、友人の一人に献本した。「なかなか読み応えがあるし、勉強になったよ」とうれしいコメントをしてくれたが、続けて「でもなあ、独習と言いながら、独習の方法を教えているのは矛盾じゃないか」と批評された。う~ん、これは微妙な感想なのだが、決して矛盾ではない。学び方を知らない人に学び方を手ほどきしたとしても決して独習論とは対立しない。独学のスタートを切るには、動機づけと初動のための方法が欠かせない。


ここ数年、ぼくは「まながく」というテーマを強く意識している(ほんとうは「学学」と表したいのだが、「ガクガク」と読まれては困る)。これは「手ほどき学」でもある。根底にある考え方はリテラシー。しかも、どちらかと言えば、言語能力と活用スキルを重視する、読み書き算盤的な「古典的リテラシー」だ。大仰なものではない。ちょっとした一工夫でその後の学びの成果が天と地ほど違ってくる。成果が天の方向になるように、学びの出発点で背中を押して初動エネルギーを集中させてあげるのだ。昔の人たちは、これを「指南」と呼んでいた。あくまでも手ほどきであり、一生面倒を見てあげるというものではない。

どんな仕事をするにしてもリテラシー能力が問われる。そして、人間というのは頼もしいことに、リテラシーを高めようとする本能を備えている。知への好奇心、これをぼくは「知究心ちきゅうしん」と呼ぶ。一から十までそっくり誰かから学んでどうなるものか。最初の一つだけ学び方の手ほどきを受けたら、知究心を逞しくしてさっさと二からは独学に励む。機を見て、リテラシーアップにつながるヒントを本ブログで紹介していこうと思う。 

刺激を与え刺激を受ける

先週末の私塾で「閾値」の話をしたら、塾生の一人が早速自身のブログで取り上げていた。閾値を知らない塾生が大半なので話をしたのだが、彼にとってはこのことばは初耳ではない。これまでも何度か考察をしてきたはずである。

 初めて聞くとわかりにくい概念だが、何度か自力で考え経験に照らしてみると理解できるようになる。彼は自身の経験をいくつか振り返り、閾値突破の過程を描いている。「テーマ選び、深い悩み、継続」が重要な条件だとしたうえで、次のように続けている(以下引用)。

「閾値を超え、当該分野におけるプロフェッショナルと言われる職業人になるためには、これらの条件を満たさなければならない。(中略)閾値とは、一種のコツを習得する瞬間であり、プロフェッショナルの条件でもある『再現性』を保証する瞬間である。」

どうやら閾値に関する理解の閾値を超えたようである。「プロフェッショナルの条件でもある『再現性』」とは、身体で覚えたスキルが黙っていても何事かを正確に何度も何度もやり遂げてくれることだ。これは「暗黙知」に似通っている。「ことばではうまく理屈を言えないが、勘や身体や指先の技能などが創造的に働いてくれるような知」を暗黙知という(たとえば、折り紙の折り方をことばで説明することはできないが、勝手知った指先がものの見事に形を仕上げていくような技能的知識)。


ちなみに、閾値という漢字は「いきち」または「しきいち」と読む。「閾」単独でも「いき」や「しきい」だが、敷居にも通じる意味をもつ。敷居のこちら側と向こう側を隔てるのはわずか数センチだが、この差がきわめて大きい。

さて、15年前に拙著『英語は独習――自己実現に迫る英語カウンセリング塾』の中で、閾についてぼくは次のように書いた。

いき」という言葉があります。「刺激がだんだんと増えて、ある点に達すると、そこを境にして感じたり感じなくなったりすること」です。

これを英語学習に当てはめるとどうなるか。

まず、初心者の場合。苦労に苦労を重ねて勉強する。いくらやっても、なかなか上達感がわいてこないが、ある日突然、手応えを感じる。いったんこの手応えをつかむと、あとはトントン拍子で伸びていく。努力が達成の喜びとして「感じられるようになる」のです。

次に、少し力がついてきた人の場合。単語や構文を意識して覚えていく。しゃべるときにも、頭のなかであれこれと単語を組み合わせる。しかし、あるところから無意識に使えるようになってくる。基本的な事柄はある程度機械的に口をついて出てくる。こうなると、もはや英語を「感じなくなる」のです。(中略)

グラスに水を注ぐ。当然のことですが、なみなみと注がないと水はあふれません。ギリギリまで注いでも、表面張力の仕業でなかなかこぼれない。そろりと一滴を加える。それでも水は踏んばる。もう一滴。まだこぼれない。しかし、こうしているうちに、何滴目かの一しずくが一気に水をあふれ出させます。

ほとんどの英語ダメ人間は、あふれるほど水を注ぐ前にあきらめたり頓挫してしまっているのです。少し注ぐだけでは、次に注ぐまでに前の分が蒸発してしまう。グラスが一杯に満たされるまで、集中して、真剣に、しかもある程度一気に注がないとダメなのです。


長い引用になってしまった。まずまず説明できていると思う。英語学習を他のテーマに置き換えても通用する。一点補足すると、閾値とは「最低限(最小限)これだけのことをしないと一皮むけない」という変化反応点である。昨日までにっちもさっちもいかなかったことが、ある境界線を越した瞬間、みちがえるほどうまくいくようになる。数年間まったく変化がなかったのに、ある日の一時間で何段階も一気に昇り詰める。「読書百遍意自ずから通ず」や「只管朗読」にも通じる現象だ。

適性やセンスやそれまでの経験というものもあるから、最小限どれだけのエネルギーを注がねばならないかは人によって違う。時間量が重要なのではない。だらだら時間を費やしても閾値には達しない。時間とエネルギーの集中度こそが鍵をにぎる。

ぼくが与えた刺激をしっかりと増殖・増幅してくれた塾生。それがターンする波動のごとく新たな刺激となってぼくのところにやって来る。このような知的切磋琢磨が、閾値突破の一助となること、間違いない。 

背伸びと踏み台

過去10年分の研修レジュメを整理していると、「あれ、こんなこと書いたり喋ったりしていたかな?」という項目に出くわす。無責任だ! と咎められてもしかたがない。言い訳をするならば、底辺に流れる考え方が同じであっても、なるべく今という時代にシンクロする話題やエピソードを盛り込みたいという願望がある。それゆえ、たとえば『企画力』や『マーケティング』の研修はほぼ毎年バージョンアップすることにしている。

というような次第だから、数年以上経ってしまうと、自分が書いたにもかかわらず「あれ!?」というネタに遭遇することになる。もちろんたいていは覚えている。「これはリメークすることができるのではないか」というネタを再発見することもある。その一つが「背伸びと踏み台」というテーマ。学習と固定観念にまつわる話だが、気に入った別の切り口が見つかったので、この話はもうだいぶ前にお蔵入りになっていた。しかし、学び下手な人には役に立つ話である。


ところで、大学在学中、ぼくは英語研究部に所属していた。入部してきた新1年生を3年生が指導する仕組みになっていた。根っから英語を苦手とする学生は数少ない。ほとんどが、三度のメシよりも英語が好きか、高校時代に英語を得意科目にしていた連中である。ぼくの世代がいきなり与えられた教材は中級編であった(習得すれば英米人と対等に会話や対話ができるほどの高度な内容である)。

ところが、当時の2年生は1年生時に初級教材から学習を始めていて、まだ終えていなかった。つまり、一年上の2年生は初級の後半を学習していたが、ぼくたち新入生は中級からスタートを切ったのである。一年後、それぞれ3年生、2年生となったが、実力においてはすでに逆転していた。つまり一年後輩たちのほうが英語力をよく身につけていたのである。

その後、二十代の数年間、実社会の英語教育の現場で指導と研究に携わってきた。その経験から確実に一つ言えること。それは、たとえ〈入門→初級→中級→上級〉と段階を踏んで学んでも、成果はその順番で獲得できないということだ。さらに言えば、高いレベルを目指すのであれば、いつまでも入門や初級あたりをウロウロしていてもダメなのである。


ぼくの研修や私塾の内容に対して、受講生や塾生は「難しい」と感じる傾向が強い。「入門」と銘打っていても、「どこがいったい入門なんですか?」と問われることさえある。それもそのはず、レベルを高く設定しようと意識して「難解だが愉快」を講義の特徴にしているからである。なぜか? 学び手が社会人だからである。さらには、すでにわかっているレベルの事柄をわざわざ学んでもらうのは、エネルギーと時間と費用のムダになると考えるからである。

自分の今のレベルより一段でも二段でも高いところを目指す。これを「自力による背伸び」と呼ぶ。そのレベルに達するための支援を「他力による踏み台」と呼ぶ。題材や教材を工夫して踏み台よろしくジャンプしてもらい、現在の自分を精一杯背伸びさせてより上級の領域に指先をタッチさせる。

いくらでも上達できるチャンスがあるのに、今の自分が余裕で理解できるレベルに止まっている人たち。難しいとか役に立ちそうもないといつも不満をこぼしては、未知の領域への挑戦を拒んでいる人たち。こういう人たちに対して、ぼくは講義を通じて次のようなメッセージを送り続けている……。

「すでにクリアできている高さのバーではあるけれど、もう一度越えることができたら、それはそれでうれしいでしょう。しかし、実際は、学んだ気になっただけで、新たな学びにはなっていません。」

「今のあなたがもう一段階スキルを伸ばして一皮むけるためには、バー自体を跳んだことのない高さに設定したほうがいいのです。」

「つま先を立てて背伸びをすれば届くかもしれないのに、じっとしている。いや、すぐに届かなくてもいい。背伸びという自助努力をしていれば、成長を促してくれるぴったりした踏み台が見つかるものなのです。」

「あなたが現在到達している実力。その記録を塗り替えるのはあなた自身です。確実に越せるバーにいつまでもこだわらないように。越したことのないバーを越そうとすることが真の学びなのです。」

パラドックスと表現のあや

この壁に貼紙を貼らないでください」という注意書きの貼紙はパラドックスである。この注意書きそのものが言語表現的に矛盾した内容を含んでいて、論理的に成り立たない。つまり、貼紙を貼るなと主張しながら、それ自体が貼紙になっているという点がパラドックス。

論理的にはそうかもしれないが、現実の話としては、注意書きとそれに背いて貼られる紙を同列扱いにしなくてもよい。「矛盾だ!」という指摘に恐れおののいてはいけないし、及び腰になる必要もない。

年末に執行を迎えた死刑囚。「お前もそろそろだ。最後に願いを叶えてやろう。但し、死刑を免れたいという願いは聞き入れないぞ」と申し渡された。「何とか生き延びたい。何かいい妙案はないものか」と死刑囚は考えた。あくる日、「さあ、願いは何だ?」と執行人が聞いてきた。「来年のボジョレヌーヴォーが飲みたい」と死刑囚は訴えた。

「なかなかアタマのいい奴だな。ボジョレヌーヴォーが出るまであと11ヵ月か。要するに、11ヵ月でも生き延びたいというわけだ。可愛いもんだ」と内心つぶやき、「よし、わかった。来年の新酒のワインを飲ませてやろう」と約束した。

翌年の11月になった。執行人は約束通り、グラスになみなみと搾りたてのワインを注ぎ、「さあ、思う存分飲め。お代わりしてもいいぞ」と言った。しかし、死刑囚は首を振った。「わたしが飲みたいのは来年のボジョレヌーヴォーです。注いでくださったのは、今年のボジョレヌーヴォーじゃありませんか」。今年から見た「来年」は、来年になると「今年」になってしまう。つまり来年のボジョレヌーヴォーは永久に飲めない代物なのである。巧みなパラドックスを使った死刑囚はこうして無期懲役になったとさ。

「来年のボジョレヌーヴォーが飲みたい」に対して、「よし、2009年のボジョレヌーヴォーだな」と念を押しておけばおしまい。一年後には死刑を執行できた。


汚染米の検査も薬物使用の人体検査も、「来週検査をします」と予告してはいけない。当然「抜き打ち」でなければならない。しかし、ここにも古典的パラドックスがある。「来週中に抜き打ちテストをする」と先生が予告した。アタマのいい生徒がパラドックスに気づいた。

もし木曜日までにテストがないと、自動的に金曜日に実施ということになる。木曜日の下校時点で生徒全員に「テストは明日」ということがわかるので、これでは抜き打ちにならない。というわけで、テストは木曜日までに実施せねばならない。ということは、水曜日までに実施していないと、木曜日も抜き打ちではなくなる。以下同様。結局月曜日に実施しなければならないことになり、それでは抜き打ちテストではなく、月曜日指定テストだ。

賢い生徒がパラドックスを逆用して先生をやり込める。論理学のテキストでおなじみのパラドックスだが、先日新聞でも紹介されていて、このパラドックスを「やっかい」と評していた。さて、ほんとうに「やっかい」なのだろうか。

表現のあやの揚げ足を取られるのは、告げるほうが矛盾をしてしまっているからである。「抜き打ち」とは「予告なしに突然おこなうこと」であるから、ごていねいにも前の週に抜き打ちテストを予告することが間違っているのだ。「抜き打ちテスト」は存在するが、「予告する抜き打ちテスト」はありえない。抜き打ちの背景にある思想はたぶん性悪説なのだろうが、それはそれ。疑わしきものに対しては、黙って抜き打ちでよろしい。

足し算のようで実は引き算

取り込んだり蓄えたりした情報がそっくりそのまま活用できたら言うことはない。そんな奇跡的なことができたら、誰も知的活動に苦労などしない。いや、情報を10アイテム仕入れてでも使えれば御の字だろう。だが、現実的には活用確率はもっと低い。バランスシート的に言えば、仕入れ過剰で売上お粗末。ぼくたち個人の「情報ビジネス」は間違いなく赤字である。情けないほどの累積赤字で、企業ならば倒産しているはず。

講座で使ったパワーポイントのスライドの何枚かを三ヵ月後の関連講座に流用する。一度見てもらっているので、「記憶にあるでしょうが、確認のために……」と切り出して解説するのだが、塾生はポカンとしている。記憶にないのだ。覚えているのは塾長をさせてもらっているぼく一人。三ヵ月前の内容でこうだから、「昨年取り上げたけれど……」なんて断らなくても、まず覚えていない。

教育業においてはもっともすぐれた学び手は「記憶力の悪いお客さん」である。毎回毎回新しいネタを駆使して講座を工夫する必要などないのだ。極端なことを言えば、毎年同じ内容の話をしても通用する場合が多い。商売として考えればいいのだろうが、そうはいかない。学習効果のない講座は塾長として敗北感が強い。何とかならないものか。


記憶力の良し悪しは人それぞれである。熱意や集中力や好奇心の度合も影響するだろうし、個々人の当面の課題範囲に話が絡んでくれば情報もよく定着するだろう。記憶した事柄を再生し、あわよくば別の情報と組み合わせて生産的に活用したい―そのヒントを記憶の検索トレーニングに見い出すことができる。

たとえば「りんご」ということばから思いつくかぎりの連想をしてみる。

リンゴ、林檎、アップル、apple、ふじ、ゴールデンデリシャス、青りんご、アップルパイ、津軽、青森、長野、小岩井、apple polish(ゴマすり)、医者いらず、白雪姫、ウィリアム・テル、ミックスジュース、皮むき、すりおろし、歯茎から血、……

これはシナプス回路を使って記憶情報を探った結果である。関連するアイテムを「記憶の大海」に潜って拾ってくる所作だ。つながっているものを拾ってどんどん増やしていくので足し算のように思えるが、実は、つながっていないものを引き算しているという見方もできる。

こんな演習もすることがある。キーワードを伏せておいて、ヒントを一つずつ与える。いくつかのヒントを組み合わせて、キーワードを発見するのである。

たとえば、最初のヒントが「洋服」。当然絞りきれず、大海での検索が始まる。しばらくして二つ目のヒント、「リサイクル」を与える。この時点で、何人かは「フリーマーケット」や「寸法直し」などを見立てる。当たっているかどうかはわからないが、大海が閉じられた湖くらいにはなってくれる。次いで「兄弟」というヒント。すでに見当をつけていた人は軌道修正をし、まだ何にも浮かんでいない人はさらに狙いを絞る。湖が小さな池くらいになる。さらに「節約」というヒントを出し、勘のいい人、つまり検索によって情報をうまく組み合わせることができた人はここでキーワードを発見したりする。池は岸辺の水たまりくらいになっている。最後のヒントは「順繰り」。これで、ほぼ半数以上の人が「おさがり」という、伏せられていたキーワードにたどり着く。茫洋としていた大海が一滴にまで凝縮したわけである。

ヒント、つまり情報が増えるにしたがって検索領域が狭まっていく。情報どうしのあの手この手の組み合わせは、実は創造的な一つの事柄をピンポイントで発見することにつながるのである。上記の「おさがり」の例は事前に取り決めた一つの正解探しだが、未知なる何かを求めるときも検索と組み合わせのプロセスは同じである。情報の足し算は記憶の引き算なのだ。

解決策を講じるのがプロの仕事

すべての職業のすべての仕事に当てはまる話でもないし、少々極論めくかもしれない。来週の金曜日に「仕事の手法」について私塾で講義する。テキストのプロローグで次のような一節を書いておいた。

仕事の振りをする、仕事をした気になる―これほど生産性の悪い態度・空気はない。「原因を分析」してほっと一安心しているから、官僚の仕事はいつまでたってもよくならないのだ。仕事の真価は「解決策を講じること」にある。

かねてから、仕事における本分は、調査よりも解決に、情報よりも提案に、ひいては分析よりも創造にあると考えてきた。もちろん、よく調査をしなければ解決策が出せないことも、情報収集なくして新しい提案ができないことも、分析力に基づかなければ創造もままならぬことはわかっている。わかったうえで敢えて指摘しておきたい。調査、情報収集、分析だけで仕事が終わった気になっている人々がいかに多いことか。


ずいぶん前にある調査結果が新聞で発表された。「設立10年未満の会社に倒産が多い」という大手銀行の発表である。時間と費用をかけて調べたものだが、「わざわざ調査したのか?」と記事をにらむ自分の目を疑った。

世の中にはこんなことすら調べないとわからない連中がいるのである。昨今企業寿命が縮まっているだの、かつての7年が今では1年というドッグイヤー説だのがはびこっているのは知っている。それでもなお、創業して10年未満の企業と10年以上存続した企業を比較してみれば、後者に安定感があるのは当たり前だろう。ぼくのオフィス近辺の居酒屋やレストランの新陳代謝は驚くべきものだが、店じまい組は開店3年以内に集中し、何とか10年以上続いている店は潰れずに頑張っている。

「設立10年未満の会社に倒産が多い」というありきたりの結論に異論はない。わざわざ調査という、ほぼ無意味な仕事をしたことに呆れ果てているのだ。いや、譲歩して調査したこともオーケーとしよう。だから、どうすればいいのだ? 何でもいいからヒントの一つでも示唆したらどうなんだ? と、言いっ放しを咎めたくもなる。創業してから10年以内に会社を潰さない解決策を示してこそ、仕事が完結するのではないか。


「競合他社はこういう取り組みをしている」「中間管理職に問題がある」「この街の景観はイマイチだ」「新たな市場にアプローチしてみよう」……このあたりから出発するのを否定はしない。仕事の前段階に調査や情報収集や分析を置くのは常套手段である。だが、ここまでが主たる仕事と化し、解決策を講じる仕事が付け足しになってしまっている。

診断上手の処方下手という医者は困る。設計上手の建築下手も勘弁願いたい。線路抜群で車輌お粗末という鉄道も遠慮する。仕事の真価は、最終顧客の満足、すなわち顧客が自ら解決できないことを見事に解決してあげることにある。それでこそプロの仕事だ。 

連なりと繋がり

情報・知識・経験などは同類項でつらなる一方で、まったく別の群とつながっている。この「連繋」に対して、あるときは偶然を感じ、またあるときは必然を感じる。

916日に私塾があった。講座の「ことばのゲーム」で出題する難解な漢字を、その数日前に選定していた。食べ物一般や野菜・果物のセクションの問題作成時に、「りんご、ぶどう、そば」を外し、「こんにゃく」は残した。このゲームは6班の対抗でおこない、全体の正答率はだいたい60パーセントだったろうか。

塾の終了後、塾生が経営する焼肉店で有志15名による懇親会を開いた。食事も半ば過ぎた頃からまたまたお遊び演習タイム。一切メモせずに記憶だけで47都道府県を一人一つずつ告げていく。既出のものをダブってはいけない。しかし、1015くらい出てくると、もはやどの都道府県がすでにコールされたのか記憶が薄れてくる。ダブった時点でアウト、また10秒以内に答えられなければアウト。

一人ずつ脱落していき、メンバーは四人、三人にまで減っていったが、3県を残して全員アウトとなった。そこで、ヒントを与えながら敗者復活戦を続行し、どうにかこうにか47都道府県がすべて出揃った。最後にコールされたのは山形県であった。


翌日からぼくは兵庫県で23日の研修に入った。最近体重が増え気味なので、ここ二、三週間は朝食はジュースだけにしていた。駅近くのコンビニで「りんごジュース」を買ってホテルの冷蔵庫に入れた。出題から外れた「りんご」の「ご」の漢字が気になって紙パックの容器を見つめるも、アップルとは書いてあっても、漢字は見当たらない。

この週、テレビで久々にダニエル・カールを見かけた。流暢な山形弁を喋るタレントである。また、「噛む」というそばの新商品をコマーシャルでも見た。

921日伊丹から山形へ向かった。翌22日は、美容業経営者を対象とした、ひらめき脳をつくるセミナーである。偶然だが、セミナーの演習に「山のつく都道府県をすべて検索しなさい」というのがあり、日本地図の北から順番に、山形、富山、山梨、和歌山、岡山、山口と6つ見つければ正解。さすがにご当地の方々は山形をもらすことはない。

セミナー終了後、お昼に「こんにゃく番所」でこんにゃく懐石をご馳走になった。読めることができても、「こんにゃく」を漢字で書くのはたやすくない。「蒟蒻」をしっかりアタマに叩き込んだ。空港へ送っていただく途中、天童に寄りそばを食べることになった。ここで「蕎麦」という漢字を確認。出てきたざるそばは、十割にもかかわらず、すするのではなく「噛む」がぴったりの歯ごたえであった。

そばを食べながら聞き耳を立てていると、店主がハングル語を話している……。しばらくそう思っていた。しかし、ご当地ことばであった。地元の人どうしの山形弁がさっぱりわからない。ダニエルがすごいと思った。


伊丹に着いて帰阪。休日の翌日の昼にテレビをつけたら、みのもんた司会で難解な漢字の覚え方というコーナーがあった。憂鬱を皮切りに、りんご=林檎、ぶどう=葡萄などの書き方を語呂合わせで簡単に覚えられるというのだ。一応マスターした。今は語呂合わせの文言そのものを覚えていない。

さらに昨日の昼。お手頃なフレンチを食べに出掛けた。値段は手頃だが、前菜、スープ、パン、主菜、デザート、コーヒーがちゃんとした味で勢揃い。主菜はなんと山形産三元豚さんげんとんであった。

山形づくしや漢字づくしをこじつけているのではない。山形や漢字というアンテナがここ二週間ほど他の情報群よりもピーンと立っていた結果の連なりと繋がりである。情報のネットワークはかくのごとく広がっていくのを身をもって体験した次第だ。こんなおいしい情報の数珠つなぎをしないで放置しておくのはもったいない。