知ろうとする努力の行く末

あることについてあまりよく知らない。あまりよく知らないが、興味をもったので本を読むなり調べるなり誰かに聞くなりしてみる。この場合、知ろうとする努力によって想定する行き先は、言うまでもなく「少しでもよく知る」であるはずだ。そうでなければ、誰も延々と知る努力を重ねようとはしないだろう。ところが、意に反するかのように、知ろうとする努力が知ることを暗黙的に約束してくれるとは限らない。

どこまで知ろうとするかによって、知に至る満足度や達成感は変わるものである。知りたいことをエンドレスに深く広く追いかければ追いかけるほど、求める知はどんどん逃げていく。いくら知ろうとしても満たされず、目指した極点には行き着きそうもない。逆に、知りたいことを少なめに見積もっておけば、努力はそこそこ程度の知識にはつながってくれる。おそらく「身の程をわきまえ知に貪欲になりすぎるな」という類の教訓はここから生まれてくるのだろう。

しかし、ほんとうにそれでいいのだろうか。それが何事かを知ろうとする基本姿勢であってもいいのだろうか。こんなふうに真摯な問いを投げ掛けながらも、ぼくはさほど悩んではいない。際限なく知ろうとする努力を怠れば、身につけた小手先の知識すら有用にはなりえないだろう。知への努力は「飽くなきもの」でなければならないと自覚している。「何? それでは永久に満足感も達成感も得られないではないか」と考えるのは、努力が足りないからにほかならない。知ろうとする努力に際限はないが、知ることを許された時間は有限である。時間が知の領域を決めてくれるのだ。それゆえに、時間に限りがあることを十分に了解して知ろうとすれば、努力は報われるようになっている。


ここからは、「人間には知ろうと努力する遺伝子が備わっている」という前提で話を進める。第一に、すでによく知っていることを人は知ろうとはしない。せいぜい再認で終わる。第二に、ある程度知っていることなら、足りない分を知ろうとするだろう。なぜなら、「知への努力」という前提に立っているので、ある程度知っていても「もっと知りたい」へと向かうはずだから。第三に(そしてこれが重要なのだが)、知らないことに対する人の振る舞い。微妙だが、「ほとんど知らない」と「まったく知らない」で大きな差が出てくる。

「ほとんど知らない」とは、「わずかでも知っていること」を意味する。同時に、「自分があまりよく知らないこと」をわきまえている状態でもある。たとえば、「彼のこと、知っている?」と聞かれて「ほとんど知らない」と応答できるのは、彼の職業については知っているが、「出身地、趣味、家族構成」などについて知らないということである。つまり、彼について不足している情報があることを認識できている。ところが、「まったく知らない」は箸にも棒にもかからない状態だ。いや、箸も棒すらもない。知らないことすらも知らないし、絶対に知りえない。完全無知。これに対しては、知る努力をするDNAが備わっていてもどうにもならない。

完全無知から脱皮する手立てを自力で創成することはできない。「彼のこと、知っている?」と尋ねてくれる他者の、外部からの刺激がきっかけになって初めて、知ろうとする努力への第一歩を踏み出せるのだ。言い換えれば、ぼくたちは「少し知っている状態」を出発点にしてのみ知ろうとする努力ができるのである。しかし、ここにも遺伝子が機能できない盲点がある。青い空に流れる白い雲を見慣れたぼくたちは、青い空と白い雲についていったい何を知っているのだろうか。見えているからといって知っていることにはならない。仮に知っていると思っていても、何かを省略し別の何かを抽出した結果の知ではないか。つまり、「知っているつもり」の可能性が大きい。

楽観的に見れば、知ろうとする努力には「少し知り、ある程度知り、やがてよく知る」というプロセスと行く末があるのだろう。しかしながら、知ろうとする努力の行く末が往々にして「知っているつもり」であることも忘れてはならない。そして、「知っている」と「知っているつもり」の違いを認識させてくれるのも、ほかならぬ他者の存在である。人は一人では何事も知ることはできない、他者と交わってのみ知が可能になる。

いったい何人の自分がいるのか?

「分類」についていろんな本を読んだし、企画における情報分類や編集の話もよくする。分かるために「分ける」のだけれど、分けても分けても分からないことは分からない。なんだか禅問答のようだが、理解しがたいことを何とかして分かりたいという願いが分類へと人を動かしているようだ。分かりたいのは、おそらく安心したいためかもしれない。全人類を血液型によって4パターンに分けるなど無謀で大胆なのだが、帰属の安心や他人の尻尾をとりあえず押さえておきたい心理がそこにあるのだろう。

誕生月や星座による分類は血液型よりも多くて12である。百人がいれば、平均して1パターンにつき89人の仲間が出揃う。この場合、老若男女や貧富や頭の良し悪しは問わない。指標は誕生月と星座のみである。そんな分かりきったグルーピングをしてもしかたがないような気がするが、ぼく自身もいろんなことを分類しているのに気づく。なぜぼくたちは、多数のいろいろなサンプルをサンプル数をよりもうんと少ないカテゴリに分けたがるのだろうか。ちなみに百のサンプルを百のカテゴリに分けるのは分けないことに等しい。

分類するよりも、一つの事柄に複数の特性を見つけるほうが創造的な気がする。一人の人間に潜んでいる相反する特徴や多重性の人格や様々な表情のペルソナ。そう言えば、小学校の低学年の頃に流行った七色仮面を思い出す。雑誌を読みテレビにも夢中になった。今でも主題曲をちゃんと覚えている。「♪ とけないなぞをさらりとといて このよにあだなすものたちを デンデントロリコやっつけろ デンデントロリコやっつけろ 七つのかおのおじさんの ほんとのかおはどれでしょう」。「七つの顔を持つおじさん」なのである。これはすごい。「本当の顔はどれでしょうか?」と、クイズになってしまうくらいのすごさなのだ。


「ピンチヒッターはなぜチャンスヒッターと言わないんだろう?」と、開口一番、全員に問いかけるA。「そう言えば、そうだねぇ~」と乗ってくれるB。黙って知らん顔しているC。「そんなこと、どうでもいいじゃないか!」と吐き捨てるD。「ちょっと待って」と言って、すぐにネットで調べようとするE。そのEを見て、「調べないで、想像してみようぜ」と持ちかけるF。「オレ、知ってるよ。誰かが怪我すると『危急の代役』が必要になるからさ。ゲームの場面のチャンスとは関係ないんだ」と薀蓄するG

みんな性格の違う、AからGまでの7人。実は、この7人全員がぼくの中にもあなたの中にも棲みついているのである。ぼくたちは人間力学によってテーマによって状況によって、やむなくか都合よくか、意識的か無意識的かわからないが、7人を使い分ける。野球のことならBEGになり、話がファッションになるとCDになり、エコロジーになればAFになるのである。血液型や星座の窮屈さに比べれば、ずいぶんダイナミックな変幻自在ではないか。そう、すべての人は七変化しちへんげする七色仮面。

自分が「何型」ということにいつまでも喜んでいるようでは、幼児的退行と言わざるをえない。そんな一つのパターンに閉じ込められることを素直に受け入れるべきではないだろう。人間が一つの性格・一つの特徴しか持たないならば、それはほとんど下等動物以下ということになる。そんなバカな! 状況に合わせて関係を変化するから環境適応できているのである。一つの型を貫くことを普遍とは言わない。それは偏屈であり、変化に開かれず閉ざすことを意味する。

考えられないことを考える?

時々エッシャーのだまし絵のことを思い出す。高い所から落ちてくる水をずっと辿っていくと、いつの間にか低いところから高いところに上がっていって一回りしてしまう。なぜこうなるのかを考えることはできそうだ。なにしろ絵なのであるから、「もっとも信頼できると勘違いしている視覚」によって確かめられそうなのだ。けれども、だまし絵なのだから、謎解きなどやめてしまって、やすやすとだまされるのが正しい鑑賞方法なのかもしれない。

メビウスの輪または帯にもだまし絵に通じるものを感じる。ある地点から出発して帯を辿っていくと元の地点に戻ってくる。目の前に輪を置かずに頭だけでイメージすると苦労する。しかし、実際に紙で帯を作り、ひとひねりして端どうしをくっつけて輪にすればよくわかる。ボールペンでなぞって確認もできる。ちなみに、ボールペンで記した線の一箇所にハサミを入れて線に沿って切ってみれば、二度ひねられた倍の大きさの輪ができる。

まだある。ヘビが自分の尻尾を噛んでいる様子である。いや、噛んでいるだけではなく、尻尾の先から順番に胴体を飲み込んでいくところを想像してみる。途中まではイメージしていけるのだが、首あたりまで飲み込んだ時点から、まるで追跡していた車が忽然と消えて見失うように、想像停止状態になってしまう。それ以上見えにくくなってしまうと言うか、考えられなくなってしまうのだ。飲み込んでいった尻尾の先から胴体部分はいったいどこに行ってしまったのだろうか。尻尾を噛み始めた時に比べて、ヘビの体長は縮んでしまっているのだろうか。


もちろん素人考えである。どんなジャンルの学問になるのかよく知らないが、その道の専門家ならいくらでもイメージし、なおかつ説明できるに違いない。ところで、素人でも、目の前に絵があったり手で触れたりできれば、想像するのは大いに楽になる。だから仕事中も腕組みをして下手に考えるよりも、いっそのこと紙とボールペンを用意して、とりあえず何かを書いていけば小さな突破口くらいは開けるかもしれない。視覚や聴覚や皮膚などの身体じゅうの諸感覚は考えることを助けてくれる。

ところが、ことばや概念でしか考えられないこともある。時間は過去からずっと流れているのか、それとも瞬間の連続なのか。人類はいつから人類になったのか。カジュアルな哲学命題には「ハゲはどの時点からハゲなのか」というのもある(これは純粋の概念思考ではなく、人体実験が可能かもしれない)。いずれにせよ、ことばや概念の領域だけで抽象命題を考えるのは精神的にも肉体的にも負荷が大きい。要するに、ものすごく疲れるのである。「そんな考えられないことを考えて何になる?」とも思う。ただ、考えられないこと、考えてもしかたのないこと、考えればわかるかもしれないこと――これらの違いを「どう見極めるか、どう考えればいいのか」がわからない。

でも、ぼくは思うのだ。知っている漢字や地名をふと忘れたとき、すぐに辞書やウェブで調べるのではなく、たとえ思い出せなくても、ひとまず自力で思い出してみようとするべきだと。思い出せないことを思い出すことはできないのだろうか。いや、そんなことはない。思い出せないのは今であって、そこに時間経過があれば思い出す可能性は出てくる。結果的に思い出せなくても、思い出そうと努力したことに意味がないとは思えない。ならば考えることにも同じことが言えそうか……残念ながら、そうはいかない。なぜなら、思い出すことと考えることは同じではないからだ。

「考えられないことは必ずある。考えてもしかたのないことも必ずある」――少なくとも今はそうだ。しかし、考える時間と努力が報われるか報われないかも知りえない。そして、「何が何だかよくわからないから考えない」と「何が何だかよくわからないから考える」のどちらにも一理あるように思えてくる。明日の私塾ではこんなテーマも少し扱い、頭を抱えてもらおうという魂胆である。 

ロゴスによる説得

今月の私塾大阪講座では、『言論の手法』を取り上げる。現在テキストの仕上げに入っている。構成は8章、その一つに「ロゴスによる説得」が入る予定だ。えらく難しそうなテーマだが、表現の威圧にたじろぐことはない。この種の勉強を少しでも齧った人は、「説得の『説』は言偏ごんべんであり、ロゴスというのもたしか言語とか論理だから言偏になる。これは当たり前というか、単なる重ねことばではないのだろうか」と思うかもしれない。なかなかの炯眼と言うべきである。

弁論や対話に打ち込んでいた二十歳前後の頃、ぼくもそんな疑問を抱いたことがある。説得というのは、何が何でも理性的かつ論理的でなければならないと思っていた。ところが、アタマが説得されても心情的に納得できない場合があることに気づく。また、儲け話を持ちかけられた人が、たしかに理屈上は儲かるメカニズムを理解できたが、倫理的に怪しくなって説得されるまでには至らなかった。どうやら説得が〈理〉だけで成り立たないことがわかってくる。そんなとき、たまたま手にしたアリストテレスの『弁論術』を読んで説得される。

言論を通じておこなう説得には三種類あるとアリストテレスは言う。一つ目は「人柄エトスによる説得」である。語り手自身が信頼に値する人物と判断してもらえるよう言論に努めれば、説得が可能になるというもの。二つ目は「聴き手の心情パトスを通じての説得」。語り手の言論によって聴き手にある種の感情が芽生えるような説得である。そして、三つ目が「言論ロゴスそのものによる説得」なのである。あれから35年、ぼくもいろいろと経験を積んできた。現実に照らし合わせてみて当然のことだと今ではしっかりと了解できる。


エトスやパトスによる説得がある。ロゴスによる説得も説得の一つの型なのである。弁論術における説得とは、正確に言うと「説得立証」と呼ばれ、その論証の鍵を握るのが〈トポス〉ということになる。トポスとは通常「場所」を示すが、アリストテレス的弁論術においては、思想や言論の「拠り所」、すなわち「論拠」を意味している。もっと簡単に言えば、理性的・論理的説得を成功させるためにはしかるべき理由づけが欠かせない、ということなのだ。

では、どこに理由づけというトポスを求めるのか。トポスのありかは、善と悪、正と不正、美と醜などに関する世間一般の共通観念にこそ見出せる。悪よりも善を、損よりも利を、不正よりも正を、醜よりも美を、悪徳よりも徳を論拠とする言論は、いかなる命題のもとでも説得立証力を秘めることになる。押し付けたり行き過ぎたりする善行や正義や道徳は鼻持ちならずブーイングしたくなるが、後ろめたさのない言論――ひいては生き方――ほど強いものはない。ぼくは真善美派からだいぶ逸脱した、アマノジャクな人間ではあるが、さすがに善や正が悪や不正によって論破されるのを見るのは耐え難い。

善と悪や正と不正など一目瞭然、誰にでもわかりそうだ。ところが、そうはいかない。人々の通念やコモンセンスが、時代ごと、いやもっと近視眼的な状況に応じても微妙に変化するのである。ゴルフは「正」、接待も「正」、しかし接待と偽って平日サボれば、そのゴルフは「不正」になる。殺人は「悪」であるが、是認されている死刑は「善」と言い切れるのか(「必要悪」という考え方もある)。騙したほうが悪いのか騙されたほうが悪いのかなどは、通念が二つに分かれてしまう。トポスを通念やコモンセンスに求めても絶対という説得立証がない。だからこそ賛否両論の討論が成り立つのである。ここがまさに好き嫌いの分岐点になっている。  

時間の不思議、不思議の時間

時計を見て、「午後3時」と確認する。別に何時でもいい。毎日何度か時計を見る。いったい何を確認しているのだろうと思う時がある。そうなると少しまずいことになる。

二十歳前後を最初に、数年に一度の割合で「時間とは何か」に嵌まってしまう。誰もが一度は宇宙や人生に思いを巡らすらしいが、考えているうちに脳に何がしかの異変が起こるのを感じるはず。若い時に脳のキャパシティ以上の難しい命題を多く抱え込まないほうがいい。とか言いながら、若気の至りのごとく、ぼくはかつてその方面に足を踏み入れてしまった。そして、宇宙や人生以上にぼくの頭を悩ませたのが、この時間というやつである。しかも、宇宙や人生とは違って、時間を意識することなしに日々を過ごせない。

時間は曲者である。歴史上の錚々たる哲学者が軒並み「不思議がった」のだ。ぼくの齧った範囲ではカントもフッサールもハイデガーも時間の不思議を哲学した。ずっと遡れば古代ギリシアのヘラクレイトスが、「時間が存在するのではなく、人間が時間的に存在する」と言った。少し似ているが、「人間が存在するから時間が存在する」とアリストテレスは考えた。そして、時間特有の自己矛盾のことを「時間のアポリア」と名づけた。アポリアとは行き詰まりのことで、難題を前に困惑して頭を抱える様子を表わしている。それもそのはず、時間という概念は矛盾を前提にしているかもしれないからだ。

〈今〉はあるのだが〈今〉は止まらない。感知し口にした瞬間、〈今〉はすでにここにはない。では、いったい〈今〉はどこに行ったのか、どこに去ったのか。それは過去になったと言わざるをえない。では、過去とは何なのか、そして未来と何なのか……という具合に、厄介な懐疑が次から次へと思考する者を苦しめる。途方に暮れるまで考えることなどさらさらない。だからぼくたちは疲れた時点で思考を停止すればよい。だが、世に名を残した哲学者たちはこの臨界点を突き進んだ。偉いことは偉いのだが、思考プロフェッショナルならではの一種の「意地」だとぼくは思っている。


ちっぽけな知恵で考えた結果、今のところ(と書いて、すでに今でなくなったが)、未来に刻まれる時間を感覚的にわかることはできないと考えるようにした。未来を見据える時と過去を振り返る時を比べたら、やっぱり後者のほうが時間を時系列的に鮮明に感知できているからである。そして、どんな偉い哲学者が何と考えようと、ぼく自身は「時間は〈今〉という一瞬の連続系」と思っている。〈今〉という一瞬一瞬が積まれてきたのが現在に至るまでの過去。過去を振り返れば、その時々の〈今〉を生きてきた自分を俯瞰できるというわけだ。未来にはこうしたおびただしい〈今〉が順番に並んで待ち構えていると想像できなくもない。

もちろん、感知できている過去は脳の記憶の中にしかない。記憶の中で再生できるものだけが過去になりえている。記憶の中にある過去に、次から次へとフレッシュな〈今〉が送られていく。時間の尖端にあるのは現在進行形という〈今〉。それは、一度かぎりの〈今〉、生まれると同時に過去に蓄積される〈今〉である。ぼくたちは、過去から現在に至るまでの時間を時系列的に感知しながら生きていると言える。なお、記憶の中にある過去は体験されたものばかりではない。知識もそこに刻まれている。

もうこれ以上考えるとパニックになりそうなので、都合よくやめることにする。まあ、ここまでの思考の成果を何かに生かそうと思う。人生における〈今〉は一度しかなく、誕生と同時に過去になる――これはまるで「歴史における人生」の類比アナロジーではないのか。こう考えてみると、月並みだが時間の価値に目覚めることになる。いや、煎じ詰めれば〈今〉の意味である。つまらない〈今〉ばかりを迎えていると、記憶の中の過去がつまらない体験や情報でいっぱいになる、ということだ。 

直観は有力な方法か

「直感」と「直観」という表記を使い分けるのはやさしくない。正しく言うと、これは表記の問題ではなく、そもそも意味が違っている。意味が違うから、わざわざ二つの用語がある。ぼくなりには使い分けているつもりだが、人それぞれ。読み方、聞き方は一様ではない。

ぼくなりの使い分け。「直感」の場合は、「直」を「ぐに」と解釈する。つまり、「直ぐに感じる」。現象なり兆候を見て、瞬時に感覚的に何かを見つける――これが直感。他方、「直観」は哲学用語でもある。こちらの「直」は「じかに」ととらえる。観察や経験の積み重ねにより、何かの本質を直接的に理解すること――これが直観。直感を「ひらめき」と言い換えてもさしつかえないが、意地悪く「思いつき」と呼ぶこともできる。直観は、ひらめきでもなく思いつきでもない。

もう一つ付け加えると、直感で気づいたことはいくつかの選択肢からポンと飛び出してきたのではなく、それ自体独立したものだ。だから、「なぜ?」と問われると理詰めでは答えられない。「何となく」と返すしかない。「直感ですが、Aはどうですか?」に対して、「他に何かない?」と聞いても、BCを吟味した上でのAという選択ではないので、聞き返された人も途方に暮れる。


他方、直観には観察や経験を通じて培われた暗黙知が働く。直観で決めたことには、直観で決めなかったことが対比される。直観にはなにがしかの選択がともなう。複数の選択肢からもっとも本質的なAを取り上げている。直観で選んだAにオンのスイッチが入り、その他の選択肢BCDEにはスイッチが入らずオフのままなのだ。では、その直観作業ではBCDEも実際に検討したのか。いや、検討などしていない。暗黙知が機能するので、検討対象から外しておけるのである。

スポーツであれ将棋や囲碁であれ、プロフェッショナルは「ありそうもないこと、おそらくなさそうなこと」をわざわざ思索して排除しなくても、「勝手に」除外できるようになっている。その結果、押し出され式にあることを直観的に選ぶ。その直観によって選択したことが、だいたい理にかなった行動や手になっているものなのだ。

行動パターンや手の内が豊富だからこそ直観が可能になる。本質を洞察するためには、観察や経験の絶対量が欠かせない。もし直観したことに問題があっても、暗黙知には別の選択肢が蓄えられているから、論理的検証をしたり再選択したりすることもできる。プロフェッショナル度とすぐれた直観力はほぼ比例する。ゆえに、直観は単なる一つの方法などではなく、きわめて有力な方法になりえるのである。

リアルとバーチャルの逆転

駅のコンコースなどにある小さな書店を想像してほしい。規模は小さいが大手書店が出店している。そこでは文庫にしても新書にしてもビジネスパーソンに向けた売れ筋の本と新刊本が平積みになっていたりする。あとは店頭に雑誌類を買い求めやすく並べてあったりする。昨日、そんな書店をいくつか覗く機会があって、気づいたことがある。高度情報化社会などと相変わらず世に喧伝されているにもかかわらず、表題に「情報」ということばを含む本がほとんど見当たらないのである。

大きな書店のITコーナーへと出向けば、おそらく話は別なのだろう。しかし、ノンカテゴリーの一般書のタイトルから、もしかして情報というキーワードがきれいさっぱり消えようとしているのではないかと思えなくもない。もしそうだとしたら、ちょっと待てよ、今月の私塾の大阪講座のテーマは『情報の手法』なのだ。ぼくは情報の読み方・選び方・使い方・結び方をいつも気に止めながら仕事をしているのである。そして、なんだかんだと情報をうまくこなす趣向を凝らしているのである。こんなことは、もはや時代遅れなのではないか。

情報と言えば、「希少」と「貴重」によって修飾される概念に思えるような時代があった。その頃の若き証人だったぼくの世代には特有の情報観がある? そうかもしれない。それを否定することはできない。今となっては、いちいち情報などということばを振り回さなくても、そこらじゅうを飛び交っている。バーチャル空間の情報が、日常茶飯事の情報のやりとりを凌駕してしまっているのは間違いない。いや、すでにwebでの情報がリアルで、ぼくたちがアナログ的に操作している「微量情報」こそがバーチャル化あるいはバーチャル視されているのかもしれない。


初めてグランドキャニオンに旅した女子大生たちが、実物を見て「わぁ~、絵葉書みたい!」と叫んだという。この話を何かで読んだ20年程前、すでに絵葉書がリアルで眼前のグランドキャニオンがバーチャルになって逆転してしまっていたのか。かつて間接的に見たものが目の前の実景を支配している? その意識はいったい……何がなんだかわからない、まるで映画『マトリックス』のよう。いや、この類比の仕方すらが、適切なのかどうかも判然としなくなってくる。

そう言えば、ぼく自身の中でもリアルとバーチャルの逆転体験が起こることがある。たとえば、世界遺産のテレビ番組で高画質な映像を見る。その遺産をローマのコロッセオだとしよう。ハイビジョン映像は周囲をくまなく舐め、遠近微妙に調整しながら、人間の眼では体感しえない光景をあたかも実像のごとく映し出す。カメラの目線が俯瞰になれば、鳥にはなれないぼくたちの視力・視界・視線を無力化するように、上空からのパノラマが広がる。

そんな映像を何度も何度も視聴して、実際にローマに旅立ってコロッセオに対面する。あのアングルはどうすれば得られるのか。あの一番上の色褪せた外壁はどこから見るのか。ましてや、あの上空からの雄大な競技場跡の全貌はヘリコプターをチャーターしないかぎり拝むことはできない。眼前にしているコロッセオに失望しているのではない。がっかり感などもさらさらない。しかし、自力では見ることができない映像のほうがリアルで、いま自分が体験していることがバーチャルに思えてくる。見えないイデアが真で、実際に見えているものが偽のような感覚……。プラトンは正しかったのか。


リアルとバーチャルの逆転現象をある程度認めざるをえない。だが、旅の光景に関するかぎり、ぼくたちに適わないのは「構図体験」だけである。たしかに鳥瞰図には太刀打ちできない。高速で光景の中を走り抜けることも無理である。しかし、どうだろう、テレビで見る映像が絶対にできないことがある。映像は、光景を目の当たりにしている自分をそこに含めることができないのだ。旅に出る。その場所に行く。それは自分自身が光景の一部になることを実感することなのである。リアル体験がバーチャル体験に屈しない唯一の方法は、対象に近づくことなのかもしれない

打たれ強い無難主義

先週末の私塾のテーマは『解決の手法』。そのテキストの第2話「現実、理想、解決型思考」の冒頭を次のように書き始めている。

漠然と考えたり意識が弱かったりすると、問題に気づくことなく、無難に日々を過ごしてしまう。ゆえに、そういう人は問題解決の経験が少ないため、方法を変えることもない。現代人は目先にとらわれた、単発で短期的な思考に偏重している。時代を象徴する新しい問題や状況に対して、人間らしく対応することができない。(後略)

迅速に意思決定をしたり問題解決をしたりするのは「ある種の戦闘」だと思う。もちろん戦闘には規模とリスクの大小はある。たとえば、洋服のボタンが一つ取れた程度の「マイナスの変化」を迅速な意思決定の対象とし、なおかつその変化を「ゆゆしき問題」と見なしてタックルすることはない。だが、理不尽なクレームを突きつけられたりしたら本能的に戦うべきだろうし、負けないための戦術も練らねばならない。意思決定から逃げてペンディングにしても問題は勝手に解けてはくれない。


巣立ちをして社会に飛び出すのを躊躇したり遅らせる人たちをモラトリアム人間と呼んだ時代があった(1970年代後半)。この頃に大学生をしていた連中がいま五十歳前後である。彼らがモラトリアム世代と呼ばれたフシもあったが、わが国ではいつの時代のどの世代でもモラトリアムは多数派を占めている。ぼくよりほんの三歳ほど上の団塊の世代にだってモラトリアム人間が大勢いる。世代ごとに特徴はあるのだが、日本人には無難主義の精神が備わっており、その精神はすべての世代に浸透している。

企画研修で演習をおこなう。現実離れをしてもいいから、思い切った企画案(問題解決案)を期待するが、十中八九無難に終わる。やさしいテーマと難しいテーマがあれば、ほぼ全員が前者を選ぶ。問題と向き合わない、睨み合いしない、したがって戦うことはない。まるで「かくあらねばならないという絶対的な知の法則」に支配されているかのようだ。

学校時代に一つの正解を求めなければならない難問に苦しめられたために、実社会では〈アポリア〉という、解決不可能に思える超難問を避けようとする。あらゆる妙案も打たれ強い無難主義の前では無力の烙印を押されてしまう。誰もが無難であることに気づいていないから、その無意識の強さは鉄板のごとしだ。「マイナスの変化」にプラスのエネルギーを注いでやっとプラスマイナスゼロなのに、無難主義はマイナスの大半を受容してしまう。その変化の次なる変化は次世代へと先送りされる。

差異は類似によって成り立つ

類似は「よく似ていること」を表わす。「違いがわからないほどとてもよく似ていること」を酷似と言ったりもする。さて、了解しておくべきことがある。類似や酷似ということばを使うかぎり、いくら頑張っても「同一」ではないのである。似ていることは認めるものの、ごくわずかながらも差異があるということだ。

自社の商品が他社の商品と同一視されたり混同されないために、特徴に固有の工夫を凝らしたりマーケティング上の訴求点を変えたりすることを〈差異化〉という。言うまでもないが、誰も好んで短所によって差異化しないだろう。他商品にない優位性によって差異をつけなければならない。

しばし商品から離れて、ことばの差異を考えてみる。ことばの差異はもはや古典的な哲学命題になるのだが、いま存在して使われていることばの間には差異がある。いろいろな概念や事物も、それらが存在しているのは別の何かで代替できないからだ。ことばには同義語や類義語がおびただしいが、たとえ言い換え可能な表現があっても、意味もニュアンスも重なることはない。仮に二つのことばが完全に重なり、いずれかの頻度が異様に高くなれば、もう一方が存在している必要はない。やがて消滅することになるだろう。ことばはこのようにして生成消滅を繰り返してきたはずだ。


商品の差別化に戻る。ある洋菓子店〔A〕のケーキが優位で、同じ町内の別の洋菓子店〔B〕が苦戦しているとする。わざわざ想定しなくても、実際によくある話である。B店がケーキで競合するのをやめて、和洋折衷の新しい菓子を作れば、これは差異化と言うことができる。しかし、この差異化、勝負を避けた差異化である。そして、類似点のきわめて少ない差異化なのだ。これも差異化には違いないのだが、カテゴリー違いの差異化で競合はしないかもしれないが、ケーキでの劣勢は相変わらず続く。

なぜ差異化ということばでなければならないのか。カテゴリーはもちろんのこと、商品もA店とB店で酷似しているからこそ、差異に意味があるはずだ。類似したり共通したりする特徴が多いからこそ、ほんのわずかな差異が優劣を決するのである。

B店が和洋折衷の菓子で地元の市場を創れれば、それはそれでよし。しかし、A店が類似商品でその分野に参入してくるかもしれない。結局は逃げることができないだろう。同じ洋菓子店として、生きるか死ぬかは大げさだとしても、日々一喜一憂の勝ち負けを体験し続けなければならない。

あまり似ていない兄弟だが、たとえば眉毛の形がそっくりという類似を発見したことがあるだろう。但し、こういうのをあまり差異化とは言わない。むしろ、うり二つで見分けのつかない双子の間に、一点決定的な違いを見つけるほうが真性の差異化なのである。   

選択の向こうにある選択

別に難しい話を書くつもりはないが、難しい話になりそうな予感もある。

出張に行く時、2冊の本のどちらを持っていくか。悩むほどではないが、少し迷う。しかし、そんな迷いに意味がないことがすぐにわかる。文庫本ならどちらも鞄に入れればすむからである。次に店に入る。A定食かB定食か。まったく内容が違っていれば迷うことはない。しかし、焼鳥店のランチで8種類も鶏料理の定食があると選択は容易ではない。それでも、迷わない方法がある。メニューの最上段のみがこの店の定食であって、残りの7種類を「なかったこと」にすればよい。


一昨日松江で講演して、夜遅くに米子に入り深夜まで気心の合う人たちと談笑した。翌日、午前10時前にスコールのような集中豪雨があり、駅に行けば特急が20分遅れているという。岡山で乗り継いで新幹線で新大阪へ帰るつもり。岡山での乗り継ぎ時間が10分ほどなので、手持ちの切符ののぞみには間に合いそうもない。

ここで一つ目の選択の岐路に立つ。どうすればいいか? この米子駅で駅員に尋ねるか(A)、それともそのままにしておくか(B)。特急が遅れているから時間がある。〔A〕を選択した。「岡山発ののぞみには間に合わないが、別の列車の指定に変更してもらえるのか」と尋ねた。若い駅員は「はい」と答え、「特急が何分遅れるかわかりませんから、とにかく岡山に着いてから変更手続きしてください」(C)と付け加えた。そうすることにした。

名物あごの竹輪を2本買ったものの、手持ちぶさたなので改札を通ってホームに入った。ホームの最後列に行くと、遅れている特急にこの駅から交代する車掌が立っていた。念のためにこの人にも聞いてみた(この人に聞くか聞かないかも選択の一つ)。同じような答えならそれでよし。ところが、「支社が違うので連絡や調整に時間がかかる。岡山での乗り継ぎ列車もすぐには決まらない。まだ特急が来ないから、今すぐ「岡山-新大阪間」の切符を変更されたほうがいい」(D)と、まったく別のアドバイスが返ってきた。

ここで二つ目の二者択一の岐路。岡山で手続きするか(C)、それとも今すぐに変更するか(D)。〔C〕だと変更を先送りすることになる。〔D〕なら余計な心配は無用だ。しかも、さらに遅延するようなことがあっても、もう一度岡山で変更することもできる。〔D〕は〔C〕の対策をも含んでいる。ゆえに〔D〕を選択した。改札を出させてもらい、みどりの窓口で変更手続きをした。もちろん、同じ特急に乗車する人たち全員がその選択をしたわけではない。

結論から言うと、どっちの選択でもまったく問題はなかったのである。倉敷あたりで車内放送があり、乗り継ぐ新幹線の列車が告げられた。その列車はぼくが変更したのと同じであった。新大阪には当初予定よりもおよそ30分遅れで到着した。


別に命にかかわるようなことでもないのに、いったい何を選択しようとしていたのかと、ぼくは考えたのである。あることをを選択して別のことを捨てるのは、何か根拠があってのことだ。切符変更を今すぐにするのか、あるいは乗り継ぎの時点でするのか――この選択にあたっての根拠は何だろう。安心? 面倒回避? 時間があるから? いや、そもそもこの二つの選択に対峙するのは、いったい何のためなのか。この選択の結果、ぼくは「どんな未来を選択」しようとしたのか。気恥ずかしくなるような表現だが、ちょっとでも先の未来を考えるからこそ人は選択するのだろう。

実は、「遅れるのはやむをえないが、なるべく早く大阪には戻りたい」という目的をぼくは選んだのだ。そんなことは当たり前のように思えるかもしれないが、「遅れてもいいか。岡山でメシでも食って帰ればいい」という、表に出てこなかった選択だってありえたのである。そして、「なるべく早く大阪に戻りたい」という選択の向こうには、おそらく何らかの思惑なり目的があって、その思惑や目的も別の選択肢を捨てて選ばれたものに違いない。こうして、選択の連鎖は続く。ちょっと先の視点からぼくたちは現在を選んでいるのである。