〈ローマのパッセジャータ〉というシリーズでフェースブックに写真と小文を投稿している。ローマにはこれまで4回足を運んでいるが、最後の訪問からまもなく5年半。その時はアパートに一週間滞在して街をくまなく歩き、当てもなく同じ道を何度も行ったり来たりした。イタリア語ではこんなそぞろ歩きのことを「パッセジャータ(passegiata)」と呼ぶ。イタリア人にとっては夕暮れ時の日々の習慣だ。
カテゴリー: ことばカフェ
二字熟語で遊ぶ
長い出張中は、講演や研修の合間にテキストの草稿をしたためたり本を読んだりする。いずれも急ぎのミッションではないから、集中力は長く続かない。いきおい、カフェに入ってぼんやりする時間が増える。手元にはいつものノート一冊。
(例)名誉と表彰状だけの「金賞」よりは、何等賞でもいいから「賞金」のほうがいいよね。
現金な話だが、賞を授与してきたぼくの経験からすると、あながちそうでもない。旗とカップの店に注文した千円そこそこの金メダルを首にかけてあげると、優勝者は大喜びしたものである。
(例)「便利」な文明の利器のことごとくが社会の「利便」性につながるとはかぎらない。
便利がモノについての有用性なのに対して、利便のほうはやや抽象性が高い。便利に利益の意味は小さいが、利便性には便利と同等の利益がともなうかのようである。
(例)「階段」を一気に駆け上れば上階には行くだろうが、「段階」を追うことだって大切なんだよ。
この二語は大いに重なっているが、階段は無機的でアナログ的に続く。段階には技術や技能の力量が等級として表現される。「そんなに上を目指しても、きみの今いるところはこの程度の段階なんだからね」という具合。
(例)大事故が起きると「体重」の重い人ほど「重体」になる可能性が大きい。
この二語は、それぞれ人体の重さと身体のケガの症状を示す。まったく意味が変わる。しかし、教訓とせねばならないのは、体重の増加はある意味で重体なのかもしれないということだ。両者をつなぐのがメタボリックという概念だろう。
(例)彼は勇んで「出家」したつもりだったが、家族からは「家出」捜索願いの届けがあった。
これとは逆に、家出人の安否を気遣う家族は、まさか本人が出家したなどとは考えないだろう。しかし、どんな形であれ、せめてどこかで生きていてほしいと願い続け、出家していたと知れば一安心である。
サッチャー元首相とディベート
ジョークにもなっているように、サッチャー元英国首相の傑出したディベート能力は神をも泣かせてしまうと誉めそやされた。首相在位期間は1979年~1990年、11年という長きに及んだ。この間のわが国の首相は、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘、竹下登、宇野宗佑、海部俊樹の六人の顔ぶれであった。
ニュアンス違い、読み違い、聞き間違い
牡蠣のむき身を2.5キログラム取り寄せ客人も招いて堪能しようと目論んだ。「牡蠣づくし」と招待メールに書いて、ふと戸惑う。「牡蠣三昧」と書くのとはどう違うのだろう。「づくし」と「三昧」はまるで類語として相互代替的に用いられるようだが、手元の類語辞典では別の項目に収まっている。
“アテンション、プリーズ”は効くか?
交通機関を利用すると、視覚的または聴覚的なアナウンスの洪水に見舞われる。アナウンスが双方向であるはずはなく、すべて一方的だ。とりわけ、注意喚起のメッセージがおびただしい。どのメッセージにも悪意は込められていない。ひたすら乗客の安全を願っての発信であることは言うまでもない。だが、過ぎたるはなお及ばざるが如し、である。
「ドアが閉まる直前の駆け込み乗車をおやめください」というアナウンスもあれば、「開く扉にご注意」というステッカーもある。忘れ物はないか、次の駅で乗り換え、今度は右側のドアが開く……など、次から次へと注意が促される。たまに「注意!」とか「危ない!」と言われるから、我に返ったり身が引き締まったりする。すべてのアナウンスが「アテンション、プリーズ」なら鈍感になってしまう。
ネーミング考
名は実体を表わすようになるのか、いや、もともと実体にふさわしいと思われる名を付けるから名実一体に思えてくるのか……正直なところ、わからない。
「選ぶ」と「引く」
アホらしいと思ったが後の祭り。観てしまったのだからしかたがない。昨夜『マジカル頭脳パワー』なる番組のチャンネルを、ひょんなことからリモコンが拾ってしまったのだ(テレビの調子が悪く、リモコン操作を何度か繰り返さないと画面が映らなくなっている)。それはともかく……。
表現階段は上へと向かう
〈表現階段〉などという術語はない。ぼくの気まぐれな造語である。
続・食にまつわる語義と語源
さて、食養生を強く意識してからおよそ二ヵ月が経つ。ひもじい思いをしているわけではないが、上記のような食糧や食生活にまつわる知識への関心が別次元にシフトしたような気がする。先週、このブログで『知っておきたい食の世界史』からいくつかエピソードを拾って紹介した。読了して別の本を併読しているが、このまま通り過ごすには惜しい話があるので少々書いておきたい。
語句の断章(19) 嫉妬
ずいぶん以前にロブ・グリエの小説『嫉妬』を読んだ。気がつけば、読者は主人公と同じ目線に立って想像をたくましくしていくことになる。とことん行かないと気が済まない嫉妬のしつこさは、消えることのない炎のようである。この小説、再読候補には入っておらず、本棚の上のほうで埃をかぶっている。
嫉妬は「嫉み」と「妬み、妬く」からできている。一般的には「自分と違う何か、自分が良く思う何か、自分が欲しい何かなどを持ったり楽しんだりしている誰かを不快に思う感情」のことである。この誰かが知らぬ者ならいいのだが、知っている者になると悲惨になってしまう。
小学館の『英和中辞典』を覗いたら、“envy”は「人の幸運・能力などを見てあやかりたいと思う気持」、“jealousy”は「それが自分にないのは不当だとして相手を憎む気持」とある。大まかには、envyが羨望で、jealousyが嫉妬と言えるかもしれない。
ところが、三世紀ギリシアの哲学史家ディオゲネス・ラエルティオスは、「自分の望むものを人が手にするのを見て感じる心の痛みを羨望と言い、自分が手にしているものを人もまた手にしているのを見て感じる心の痛みを嫉妬と言う」と唱えている。羨望のニュアンスは『英和中辞典』とよく似ているが、嫉妬の解釈はまったく違う。ラエルティオス流なら、「自分と同じブランドものを持っている別の人を嫉妬する」のが正しい。三角関係における嫉妬はこちらに近いのか。
自分にないものを誰かが持っている、あるいは、自分が持っているものを誰かが持っているなどということは、とてもよくあることである。関与していたらキリがない。一生嫉妬し続ける人生になってしまうだろう。嫉妬深い人は次の一文に目を通しておくのがいい。
「嫉妬とは、不幸の中でも最大の不幸である。しかも、この不幸は、その原因となった人物には、全然憐憫の情を起こさない」(ラ・ロシュフーコー『箴言集』)。
つまり、Aを愛するがためにBに嫉妬するとき、実はAへの憐みなどまったくないということだ。要するに、嫉妬とは、ただ嫉妬の炎を燃やし続けるための情念に過ぎないのである。