問いと答えの「真剣な関係」

面接でも会議でも対話でもいい。面接ならインタビューアーが、会議ならメンバーの一人が、対話ならいずれか一方が、相手や別の誰かに質問する。お愛想で、たとえば「元気?」などと尋ねる場合を例外として、それぞれがある意図をもって問いを発していることは間違いない。「なぜ当社を希望したのか?」は理由を聞いている。「問い合わせは何件か?」は事実を聞いている。

おなじみの〈5W1H〉は文章を構成したり企画を起こしたりするときの基本。これらWHOWHATWHENWHEREWHYHOWは質問と応答の関係にも当てはまる。これに「PQか?」というイエスかノーかで答える質問と、「PQのいずれか? 」という二者択一で答える質問を加えれば、すべての質問パターンが出揃う。「その愛犬の名前は?」と尋ねたのに、「わたし? ヨーコで~す」と返してしまったら、聞いた方の意図からそれてしまう。但し、その愛犬に付けられた名前が〈わたし? ヨーコで~す〉ならば的確な答えになっている。

PQか?」という二者択一型で問うているのに、「いろんな考え方があって、たとえばですね……」と切り出した瞬間、もはや答えになっていない。「はい(いいえ)」で即答し、許されるなら理由を述べればよい。「Aランチ? それともBランチ?」とご馳走してくれる相手が希望を聞いてくれたのに、「お任せします」は的確ではない。意図があって尋ねたのに、期待通りの答えが得られない―対話習慣に乏しく、質疑応答を御座なりに済ましているこの国では日常茶飯事の体験である。

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今朝のテレビ。民主党の専門家が新型インフルエンザのテーマのもとゲスト出演していた。聞きたいことを街で拾ってきて質問する。「新型インフルエンザのワクチンはどこで・・・打てるのか?」と尋ねる。5W1HのうちのWHEREである。ところが、その議員はWHENを答えたのである――「若干遅れるかもしれませんが、本日から・・・・打てるよう手配をしています」。「いつから」とは聞いていない。場所を聞いているのだ。「場所? 病院に決まっている」とでも思ったのだろうか。「病院で打てるのはわかっているけれど、どこの病院でも、たとえば小さな医院でも打てるのか?」と聞いている意図を汲んであげなければならない。まさか居酒屋や駅の構内で打ってくれると期待して聞くはずがない。

「月曜日と火曜日にどれだけ仕事がはかどったのか?」と尋ねてみた。仕事については暗黙の了解があるので、これはHOWの問いである。しかし返ってきた答えは「水曜日に○○をやるつもりです」だった。この応答は質問に対する二重の「背信行為」になっている。月曜日と火曜日から別の曜日にWHENを転化し、おまけに聞かれもしていないWHATで答えたのである。「最近、社会の動きであなたが特に気づいたことは?」に対して、「先週□□という本を読みまして、社会現象としての△△が書かれていました」と答えてしまう無神経。WHATの意図に答えてはいるが、「あなたが気づいたこと」を知りたいのであって、「本に書かれていたこと」を聞いたのではない。

アタマの悪さも若干影響しているのだろうが、的外れの最大の理由は、(1)集中して質問を聞いていないこと、(2)不都合から逃げることの二つである。つまり、「いい加減」と「ずるさ」なのだ。こんなふうに対話を右から左へと流す習慣がすっかり身についてしまっている。講演会なら適当に話を聞き流してもいいだろうが、少人数の集まりや一対一のコミュニケーションでこんなていたらくでは能力と姿勢を疑われてしまう。質問一つで、答える人間がある程度わかってしまうのだ。質疑応答を真剣勝負だと見なしている硬派なぼくの回りから、厳しい質問を毛嫌いする「ゆるキャラ人間」がどんどん消えていく。それで別に困ったり寂しくなったりしているわけではないが……。

語彙の磁場が動く

語彙のありようについても再考してみた。ことばには聴いたり読んだりしてわかる〈認識語彙〉と、話したり書いたりできる〈運用語彙〉がある。運用を「活用、生産、発表」などと言い換えてもいい。だから語彙を考える時、わかることばと使えることばに分けて論じることができる。

聴き取りにくい発音や判別しにくい手書き文字などの例外を除けば、自ら口頭や文書で使えることばなら、通常は聴いたり読んだりもできるはずである。「私はブログを書いています」と話せる人は、誰かが「私はブログを書いています」と言うのを理解する。また、「拝啓 貴下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます」と、文例を丸々引用するのではなく、自筆で書いた人ならば他人が書くその冒頭の挨拶文を難なく読み取るだろう。つまり、認識語彙は表現語彙よりも多い。

したがって、仮に難解とされている一冊の本を読了できたとしても、そこに書いてある用語や表現のすべてを読者が使えることは稀である。いや、正確に言うと、著者自身はその一冊の本の中で書いただけの用語や表現を運用できた。そして、おそらくその著者はそこで用いた用語や表現の34倍の認識語彙を有しているはずなのである。わが国の大半の成人の認識語彙力が35万語の間に分布しているようだが、実際に使えるのはそのうちの3分の14分の1とされている。

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語彙の体系はそれまでの学習、環境、文化、専門、職業などによって決まる。クイズの得意・不得意分野などの性向とよく似ていて、社会一般は得意だが科学や工学は苦手、政治経済には詳しいがスポーツ音痴などのように偏っている。いろんなジャンルが均等に散らばっていることは逆に珍しいかもしれない。〈スキーマ〉と呼ばれる、会話・文章を理解するときに用いる知識体系がそこにあり、同時に階層構造状に〈フレーム〉が広がっている。得意分野になると、場面設定と行為がさらに詳細になって〈スクリプト〉を形成している。

語彙体系においては、その時々のお気に入りのことばが主導的になる。同義語を緻密かつ精細に使いこなしていた人でも、たとえば「人生いろいろ」や「ぶっ壊せ」のような大雑把な用語が気に入って多用し始めると、ことば遣いもアバウトになり偏ってくるものだ。ある分野の語彙の使用頻度が高まれば、相対的にその他の分野の語彙の出番が少なくなってしまう。

とりわけ要注意なのが、口癖や常套句である。口癖はその直後に続く表現を固定させてしまう。たとえば、「やっぱり」と言った後に「重要です」と続ける知り合いがいる。「雨降って地固まる」や「貧乏暇なし」などの常套句は使用文脈を限定してしまう。使う本人たちはほとんど気づいていないが、常套句を境にしてステレオタイプな方向へと話が展開していく。何万語の語彙を誇っていても、一つのことばが語彙体系の磁場をそっくり変えてしまうのだ。宝の持ち腐れにならないためには、多種多様なことば遣いを意識し、時には少々冒険的な新しい術語にも挑んでみるべきだろう。

言論を軽やかに楽しむ

今になってわかること。今年の1月に予告したときは『言論の手法』でいいと確信していた。なにしろ、2009年度私塾大阪講座の共通テーマが「手法」である。第1講から第6講まで順番に、解決に始まり、情報、言論、思考、構想、市場へと展開する。一昨日の講座が第3講にあたる『言論の手法』であった。年初から9ヵ月後を睨んだときは「これでよし」、しかし講座が近づくにつれ、「ちょっと硬派の度が過ぎる」と首を傾げるようになっていた。

言論と言えば「言論の自由」が浮かぶ。言論を封じられるのはつらいことである。また、弁論家やソフィストらは「言論の技術」を開発し、今にも通用するテキストを残してきた。言論は、権利と技量両面において、軽視できないヒューマンスキルであることは事実。ところが、これはロゴス主義者からの見方であって、「言論なんて重要ではない」という意見も相変わらず底辺では根強いのだ。このような、言論のできる人間を「饒舌家」や「口達者」などと皮肉る認識不足を批判することもできる。と同時に、偏狭な言論至上主義者たちも詭弁と隣り合わせにいる自らの危うさに気づいておかねばならない。

「口はわざわいの門」、「もの言えば唇寒し秋の風」、「沈黙は金、雄弁は銀」、「巧言令色すくなし仁」……アンチ言論の諺はいくらでもある。黙っているのが徳であり、なんだかんだと喋ったり言い訳するのは品性を欠くのみならず失態につながることを暗示している。「言わぬが損」と反論しても焼け石に水、わが国の風土にはロゴス過剰を戒める体質が備わっている。

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とは言え、雄弁・強弁の自信をちらつかせる輩だけを責めるわけにもいかない。言論エンジンを動かさない、見た目は物分かりのよさそうな黙認者や「みなまで言わぬ人々」にも責任がある。彼らは理屈を嫌う。「それはともかく」だの「ところで」だの「まあ、いいじゃないか」だのとすぐに話の軌道を変える。「言わぬは言うにまさる」のような埃まみれの価値観にしがみつくロゴス嫌いが、上滑りの強硬言論を了解してしまう結果をもたらしている。

鮮やかな論法を駆使して口達者に説得する――こんな言論がよさそうに見えた時代に、愚か者の烙印を押された連中も大勢いた。それは、無知だったからにほかならない。無知な弁論家ほど始末に悪いものはない。まだしも「知のある沈黙」のほうがましではないか。実は、キケロが同じようなことを書いている。キケロは「雄弁でない知恵」のほうが「口達者な愚かさ」よりもましだと言う。しかし、そう言った直後に、「どっちもダメ」と否定し、「いいのは教養のある弁論家」だと断言する。

教養ある弁論家をプロフェッショナルととらえる必要はない。知識を背景に、論理だけを振りかざすのではなく人間味や感性の風合いをもつ説得を心掛け、必要に応じてきちんと意見を述べる。ここにユーモアと軽やかさも付け加えたい。もっと言論をカジュアルに扱うべきなのだ。小さくノーと思ったら、その場でノーと言っておく。先の先で一事が万事という無様な状況を招くくらいなら、いま言論を交わしておくべきなのだ。『言論の手法』などと難しい看板を掲げてしまったけれど、本意は「言論の楽しみ」に目を見開いてもらうことにあった。

話すことと考えること

シネクティクスという創造技法がある。本格的な実施方法について語る資格はない。おおよそ説明すると、あるテーマについてコーディネーターが数人のメンバーを対象に質問を投げ掛け、「イメージ優先」でアイデアを引き出していく。まるで何のよう? と尋ねたり、それと反対のものは? と聞いてみる。参加者は前言者の意図を汲んだり思い切ってジャンプしたりと縦横無尽……。精度の高さを求めるような深慮遠謀を極力避けて、やや軽薄気味にアイデアの量を求める。

この技法を実践するにあたって「考える前に話せ」という心得がある。〈話す前に考えるのは批評のモットー、考える前に話すのが創造のモットー〉というのがそれだ。もちろん、この話はシネクティクスだけに限らない。どこかの国の大臣のように、無思考で舌を滑らせるのは論外だが、「下手の考え休むに似たり」という謂もある。よい知恵もなくムダに考えるくらいなら、とにかく話してみようではないか――これがシネクティクスの精神。「下手なトークも数打てば当たる」に近い。

「話すと考える、どっちが先?」というテーマについては以前も取り上げた。このことに関しては定期的に書いて考えている。そうせざるをえない状況に最近よく遭遇する。そもそも話すことと考えることを切り離すことはできないし、「後先の関係」に置くことすらできない。ことばに結晶化していないうちは、考えはボンヤリとしてつかみどころのないものであって、ことばにして初めて概念や意味や筋道の輪郭がはっきりしてくる。つまり、ことばにするからこそ思考が体感できると言い換えてもいい。もちろん異論、異見はあるだろう。

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クオリアのような鮮明な感覚とは違って、脳内で生起しうごめいている思想や概念はなかなかあらわになってくれない。たとえば、ぼくは今キーボードを叩いて文章をしたためている。すでにタイトル欄には「話すことと考えること」と書き入れた。だから書くべきテーマはわかっているつもりである。上記の三つの段落もだいたいイメージしていた通りに綴ってきて、この段落に至っている。但し、論理・筋道は、書く前よりも書き上がってからのほうが確実にはっきりしている。全文書き終わってから推敲してみるので、さらに自分の考えていることを明瞭に確認できるかもしれない。

話し書くことに高いハードルを感じている人たちがいる。能力があるのにもったいないと思う。話すことでも書くことでもいい、中途半端に考えている暇があったら、とにかく話し始め書き始めればいいと助言したい。少々の粗っぽさや言い間違い・書き間違いくらい構わないではないか。まず話し書くことのフットワークを軽くしてみるのだ。音声にしても文字にしても不思議なもので、口をついて出る情報やペン先から滲み出す情報が思考を触発してくれる。それが稀ではなく、頻繁に起こる。

ネタがなければ考えられない。そう、思考の源泉は情報である。見たり聞いたりして外部から入ってくる情報が刺激を与えてくれる。しかし、情報のことごとくが外部からやって来るわけではない。自分のアタマの中にだって大量の情報がストックされている。だから、音声を発したり文字を書いてみれば、その行為が内なる情報を起動させ、その情報からことばが派生して思考を形づくってくれるものなのだ。無為に考えても時間が過ぎるばかり……。そんなとき誰かに話しかけてみる、あるいは紙にペンを走らせてみる。中毒症状が出てくるほど、「考える前に話し、考える前に書く」を実践すればいいのである。

曲解と虚偽の一般化

昨日のブログで「典型的な牽強付会けんきょうふかいの例を斬る」と意気込んだ。念のために、インターネットも含めていろいろ調べてみたら、「その例」をしっかりと斬っておられる方が少なくないのを知って驚いた。正確に言うと、引用されるその権威者および実験内容に批判的な意見は少なく、ほとんどの批判は「引用に関しての曲解と虚偽の一般化」に向けられていた。おおむねぼくの意見も一致する。

多数派だからホッと一安心などという「長いものに巻かれろ」のスタンスはぼくの性に合わない。世間の誰がどのように唱えていようと、ぼくはある種の確信と良識的な見方によって、権威を引用してこじつける狡猾さを指摘しようと思っていた。その例とは、アルバート・メラビアン博士が実験を通じて導いた〈メラビアンの法則〉の都合のいい解釈のことだ。

マナー、コミュニケーション、コーチング、ファシリテーションなどを専門とする複数の講師が、メラビアンの法則を曲解してジェスチャーや表情の優位性を強調する一方で、言語を見下すような発言をしたのを何度か目撃している。この法則は、一対一のインターパーソナル・コミュニケーションに限定して、話し手が聞き手にどんな影響を与えたかを実験して導かれたものである。

実験によって、影響に占める割合は、表情やジェスチャーが55%、声のトーンや大きさが38%、話す内容が7%ということがわかった。こう説明して、講師たちは「ことばはわずか7%しか伝わらない。コミュニケーションにおいてことばは非力なのだ」というような趣旨を、さも真理のごとく説く。これは、目に余るほどのひどい一般化なのであり、メラビアン博士を冒涜するものである。もちろん、こんな虚偽に対して免疫のない、無防備で純朴な受講生はものの見事に説得される。そして、講師によって引き続きおこなわれる、取って付けたような身振りやマナーや表情の模範例に見入ることになるのである。

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アルバート・メラビアン博士自身は、ちゃんと次のように断っている(要旨、原文は英語)。

この法則は「感情や態度が発する言行不一致のメッセージ」についての研究結果に基づく。実験の結果、「好感度の合計=言語的好感度7%+音声的好感度38%+表情的好感度58%」ということがわかった。但し、これは言語的・非言語的メッセージの相対的重要性に関する公式であって、あくまでも「感情と態度のコミュニケーション実験」から導かれたものだ。ゆえに、伝達者が感情または態度について語っていない場合には、この公式は当てはまらない。 (*inconsistentを「言行不一致」と意訳した)

ぼくも曲解しないように気をつけて書くが、下線部から、言語的メッセージを伝えることを目的としたコミュニケーション実験ではないということがわかる。だから、回覧板には適用しない。読書にも適用しない。会議や対話にも当てはまらない。携帯電話で「明日の夕方5時に渋谷でお会いしましょう」という簡単なメッセージも対象外だ。要するに、ほとんどの伝達・意見交換場面には法則が当てはまらないのだ。ある種の顔の表情とジェスチャーを伴って単発のことばを発した場合のみ有効という、きわめて特殊なシチュエーションを想定した実験なのである(たとえば、コワモテのお兄さんがどんなにやさしいことば遣いをしてきても、顔ばっかりが気になってことばが耳にはいらないというような場合)。

もし本気でコミュニケーションに果たす言語の役割が7%だと信じているのなら、講師はずっと顔と身振りで思いを伝えればよろしい。それで93%通じるのだから楽勝だ。パワーポイントやテキストも作らなくていいではないか。いや、そんな皮肉っぽい批判をするのが本意ではない。言語理性の危機が叫ばれ、ボキャブラリー貧困に喘ぐこの社会をよく凝視し、「言語7%説」が日常化するのを案じて、「これはいかん、もっと言語の比重を高めなければ」と一念発起するのが教育者ではないか。

オカノの法則 「講義中、居眠りをする受講生に対しては、言語・音声・表情のすべてのメッセージ効果がゼロになる。」

オカノの法則 「パワーポイントのプレゼンテーションにおいて、掲示資料と口頭説明が合わないとき、人々は掲示資料に集中し、耳から入ってくる説明を聞き流す。」

都合よく感性に逃げる

十数年前になるだろうか、二部構成の講演会で、ぼくが第二部、「偉い先生」が第一部ということがあった。本来ぼくが前座だったのだろうが、先生の都合で入れ替わった。礼儀かもしれないと思って、先生の第一部を聞かせてもらった。「ことば・・・じゃない、こころ・・・なんだ」が趣旨で、要するに「理屈じゃなくて感性」という話である。ちなみに、ぼくのテーマは対照的なディベートであった。

どんな主張をしてもいいと思う。けれども、「偉い先生」なんだから、理由なり論拠は付け足しておくべきだろう。講演中、ぼくの素朴な「なんでそう言えるんだろう?」という疑問は一度も解けなかった。「理屈じゃなくて感性」という理由なき主張は、「理屈を言いながらも感性的であることができるのでは……」と考える聴衆に道理を説いていない。しかも、先生、いつの間にかことばと理屈をチャンポンにしてしまった。さらに、先生、「ことばじゃない、こころなんだ」というメッセージをことばで伝えているのだ。ことばと感性を二項対立的にとらえていること自体が理屈ではないのか、とぼくなんかは考えてしまう。

「ことば vs 感性」というふうに対立の構図に置きたがるのが感性派に多いのも妙である。どっちを欠いても人間味がなくなるのでは? とぼくは問いたい。ことばが先で感性が後か、感性が先でことばが後か――大した論拠もないくせに拙速に「感性」に軍配を上げないでいただきたい。なぜなら、ことばのない動物に感性があるのかどうかは証明しえないし、彼らに聞くわけにはいかない。明白なのは、ことばを使う人間だけに感性という概念が用いられているという事実だ。つまり、ことばを切り離して感性だけを単独で考察するわけにはいかないのである。ましてや、優劣論であるはずもない。少なくとも、「ことばじゃない、こころなんだ!」という趣旨の講演会に来ている人は、ことばを自宅に置いてきて感性だけで聞いているわけではない。

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一昨日、高浜虚子の『俳句の作りよう』を通読した。俳句は「感じたことをことばに変える」ものなのか。ここで言う「感じたこと」はもはや感性というよりも「感覚」というニュアンスに近いのかもしれないが、では、感覚が先にあってことばが後で生まれるのか。ぼくの俳句経験は浅いし、どんな流派があるのかも知らないが、俳句において「言語か感性か」などと迫ることに意味はないと思う。俳句を「添削と推敲の文学」とぼくは考えているが、ことばと感性は「和して重層的な味」を出すのだろう。感じるのとことばにするのは同時かつ一体なのではないか。虚子はその本の冒頭で次のように言っている。

「俳句を作ってみたいという考えがありながら、さてどういうふうにして手をつけ始めたらいいのか判らぬためについにその機会無しに過ぎる人がよほどあるようであります。私はそういうことを話す人にはいつも、何でもいいから十七文字を並べてごらんなさい。とお答えするのであります。」

素直に解釈すれば、ことばを十七文字並べることを、理屈ではなく、一種感性的に扱っているように思える。むしろ、「何かを感じようとすること」のほうを作為的で理屈っぽい所作として暗に示してはいないか。ことばを感性的に取り扱うこともできるし、感性をいかにも理屈っぽくこねまわすこともできる。

一番情けないと思うのは、ことばの使い手であり、ことばを使って話したり書いたりしている人たちが、ことばを感性の下位に位置させて平然としていることである。「ことばはウソをついたりごまかしたりする」などと主張する人もいるが、このとき感性だって同じことをするのを棚に上げている。このように都合よく主張を正当化していくと、やがて権威の引用をも歪曲してしまう。と、ここまで書いてきて、そうだ、あのエビデンスの濫用を取り上げなくてはいけないと正義感が頭をもたげてきた。明日、典型的な牽強付会の例を斬る。 

笑えない話の後始末

笑いをとらねばならないのはお笑い芸人だけではない。笑いでメシを食うプロと、そうではないアマ。比較すれば、前者が厳しいと誰もが言うかもしれない。ところがどっこい、アマチュア間の笑いがらみのシーンは想像以上に過酷なのである。テレビのお笑い番組を見ればわかるが、プロには逃げ道が用意されている。「受けない」のを売りにする芸人。「すべる」のを期待してもらえる芸人。空気を凍らせてしまっても、助け舟を出す同業者もいる。

言うまでもなく、売れる芸人もいれば売れない芸人もいる。序列のある業界だから、スターもいればアマチュア以下もいる。人気はどう転ぶかわからない。明日は我が身だ。売れなくなっても、「売れない」のを売る手だってある。親しい仲間は救いの手を差し伸べてくれるかもしれない。まあ、さしたる業界通でもないぼくの推測なのだが、「同病相憐む」のことわりがそこでは生きているようだ。

講演の冒頭でジョークを仕掛けたある講師。絶対に受けると確信しての「つかみ」であった。はやる気持をなだめながらも、内心おもしろくてしかたがない。演壇に上がる前から自分自身が笑いを押し殺さねばならない状況である。講師紹介があって、拍手で迎えられて演台に向かう。つかみの効果を最大化するには余計な挨拶は無用、寸法を測ったように計算通りにジョークで端緒を開いた……。だが、クスッとも笑い声が起こらない。会場の笑いと同時に破顔一笑しようと目論んでいた講師の顔だけが、笑う直前のスタンバイモードで引きつったまま。聴衆は時に残酷である。

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技と芸があるからか、仕込みと仕掛けがいいからか、それとも単に聴衆に恵まれ続けたからなのか……理由はよくわからないが、ぼくが会場を凍らせたことはかつて一度もない。期待したほど笑ってもらえなかったことはあるものの、大すべりした経験はない。講師業においても、笑いは本題と同程度に重要になってきた。そこにはリスクもある。「笑えない話」の責任は、もちろんその話をした人間にある。そして、万が一のための保険をかけるのを忘れては、消沈した空気の後始末は不可能である。

どんな保険か? ややハイブローにジョークを設定しておくのである。こうしておけば、笑いが起こらなかったとき、一部の聴衆が「笑えないのは自分の能力とセンスの問題ではないか」と懐疑してくれる。さらに、誰よりも高尚なジョークを解せるという自信家が何人かいるものなので、少数ではあるが、見栄を張ってそこかしこで笑い声を発してくれる。こうなると、笑わなかった聴衆たちもやや遅れ気味に同調するように笑い始める。ジョークを終えてから数秒という不自然な時間差が生じるのはやむをえないが、これはこれで場が沈んでしまうことはない。

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昨夜読んでいた英書にこんなジョークがあった。

若い新婚さんがアパートに引っ越してきた。食堂の壁紙を張り替えることにした。同じ広さの食堂がある隣人宅へ行き、尋ねた。
「壁紙を張り替えたとき、お宅では壁紙のロールを何本買いましたか?」
7本ですよ」と隣人は答えた。 

新婚夫婦は高級な壁紙を7本買い、張り始めた。ところが、4本目のロールを使い切った時点なのに食堂の壁紙作業が終わってしまった。二人は隣人の所へ行き、不機嫌をあらわにしてこう言った。
「お宅の助言通りにしたら3本も残ってしまいましたよ!」
隣人は言った。「やっぱり……。あなたのところでも、そうなっちゃいましたか」

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笑える話? 笑えない話? どっちだっただろうか。もし笑えない話だったら、その責任は、読者、ぼく、それとも原書の著者? もし笑えたのなら、その手柄は原書の著者、訳したぼく、それとも読者? ジョークを笑うのはむずかしい。ジョークのネタを仕入れて披露するのはさらにむずかしい。一番安全なジョークの伝え方は文字である。笑いが不発のときに後始末を取らなくて済むからだ。

【注】余計なお世話だが、「何ロール使いましたか?」とは聞いていない。「何ロール買いましたか?」と聞かれたから「7本」と答えた。おっと、ジョークの説明ほど野暮で無粋なものはない。  

とても滑稽な台詞

もうギャグとしか言いようがない。どうしようもなく滑稽なのである。あまりにも滑稽なので、もはや笑うことすらできない。油断すると呆れることも忘れる。いや、下手をすると息をするのも忘れてしまいそうだ。何とも言えない感情に襲われて、ただただ冷ややかに「こ、っ、け、い」とつぶやくしかなかった。

政治家という職業人の舌がすべることに関しては、あまり気にならない。勢い余っての失言や無知ゆえの失言や厚顔ゆえの失言は、ギャグにもならず滑稽とも形容できない。気にならないというよりも、強いアテンションの対象にならないというのが当たっている。ある意味で、政治家という職業人に失言はとてもよくお似合いだから、不自然なミスマッチとは思えないのである。

 政治家の〈話しことばパロール〉は独自の体系をもつ。つい昨日まで普段着のことばで喋っていたあの人もこの人も、まさかあなたは絶対に言わないだろうというその人も、政治家になったその日から「~してまいりたいと存じます」と、言語ギアをセピア色した前時代バージョンへと切り替える。そして、誰かの不可解な発言や納得のいかない対応を取り上げて、ついに彼らは、「いかがなものか?」という常套句の常習者になる。

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職業とパロールは密接な位置関係にある。ナニワ商人の「まいど!」やサムライの「拙者」と同じくらい、政治家の「いかがなものか?」が定着してしまった。これほどではないが、政権奪取を目指す側の前党首の「なんとしてでも」というのも、あの人にはよく合っていたような気がする。しかし、真性のどうしようもない滑稽は、似合ってるとか似合ってないという次元を超越する。

ユーモアセンスがあっておもしろい知人の男性が、ある会合の開会の冒頭で大真面目に式次第を読み上げたとしたら、それが、「まさか!?」と同時に湧き起こる「どうしようもない滑稽」である。あるいは、ぼくをよく知る人たちが、ぼくの「ただいまご紹介いただきました岡野と申します」を聞いて、「まさか!?」と耳を疑い、「どうしようもない滑稽」を感じるだろう。残念ながら、この種のパロールがぼくの口からこぼれることは絶対にない!

さて、冒頭の話に戻ろう。政権党の重鎮が発した「男の花道を飾る」というパロールのことだ。一瞬、ぼくは清原だと思ってしまったくらいである。前の前の前の首相時代に「劇場」とよく形容されたが、政治の舞台は時代劇色だとかねてから思っていた。だが、「男の花道を飾る」と聞けば、出し物は時代劇から演歌ショーに変わったと考えざるをえない。いやはや、盛夏を迎えて、連日暑苦しい演歌を聴かねばならないのか。はたして新曲は聴けるのか。音程は大丈夫なのか。えっ、そんなデュエットあり? まさか! どうしようもない滑稽だけは勘弁願いたい。 

考えが先か、ことばが先か

「考えること」と「ことばにすること」の関係についてはテーマとしてずっと追いかけている。「考えている?」と尋ねて「はい」と返ってきたからと言って、安易に「考えている」と信じてはいけないなどの話も2月に一度書いた

「考えていることがうまく表現できない」「想いを伝えられない」などの悩みをよく耳にする。この発言は、間違いなく「考えていること」を前提にしている。私はよく考えている、思考も意見もある、ただ残念なことに「話す」のが下手なんです――ぼくにはそんなふうに聞こえる。皮肉った解釈をすれば、「高等な思考力はあるのだけれど、ペラペラと喋る下等なスキルと表現力が足りない」と言っているかのようだ。

冷静に考えてみればわかるが、発話したり書いていない時の頭の中はどんなふうになっているか。考えの輪郭ははっきりしているか、思考はことばとしっかりと結びついているか、筋道や分類や構成は明快か、すべての想いが手に取るように生き生きとしているか……。決してそうではない。断片的なイメージや単語や文節が無秩序にうごめき、浮かび上がったり消えたり、互いに結びついたり離れたりしているものだ。少なくともぼくは、誰かに喋ったり書いたりしないかぎり、自分がいったい今何を考えているのかよくわからない。

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もし考えることがことばよりも先に生まれており、明快かつ精度が高いのであれば、わざわざ言語に置き換える必要はないではないか。思考それ自体が何らかの対象を認識して十分に熟成しているのならば、なぜ思考が表現の力を借りなければならないのか、その理由が説明できない。こんなふうに哲学者のメルロ=ポンティは「言語が思考を前提にしていること」に異議を唱える(『知覚の現象学』)。

考えている(つもりの)あなたは、その考えを自分に向かって表現する、あるいは誰かに語ったり紙に書いたりする。その時点で、思考がことばに翻訳されたと思うかもしれない。あるいは、あることばが口をついて出て来ないとき、それが単純に度忘れによることばの問題だと思ってしまうだろう。しかし、実はそうではないのである。話したり書いたりする瞬間こそが、考えを明快にし輪郭をはっきりさせるべく一歩を踏み出した時なのである。話す前と話した後、書く前と書いた後の頭の思考形成の状態を比較すればよくわかるはずだ。

ことばが思考を前提にせず、思考もことばを前提にしているのではないかもしれない。もしそうだとすれば、「想いがことばにならない」という言い訳は成り立たない。敢えて極論すれば、話す・書くことが思考の醸成につながるのである。思考を騎手とすれば言語は馬である。しかし、この人馬一体においては騎手が馬を御しているのではなく、馬のほうが騎手を乗せて運んでいるのかもしれない。そう、思考は言語によって遠くへと走ることができる。だからこそ、馬を強く速く走れるように訓練しておかねばならないのだ。 

分母と分子で考えている?

広辞苑第六版の編集方針。最初の項目は次のように書かれている。

一、この辞典は、国語辞典であるとともに、学術専門語ならびに百科万般にわたる事項・用語を含む中辞典として編修したものである。ことばの定義を簡明に与えることを主眼としたが、語源・語誌の解説にも留意した。収載項目は約二十四万である。

 中辞典にして24万語だ。あいにく手元に大辞典はないが、日本国語大辞典では見出し項目は50万になるそうである。方言も含めればいったいどれだけの語彙が存在しているのだろう。言うまでもなく、収載された見出し語はありとあらゆる文献から拾われたもの。文献に出てこないことばを見つける手立てはない。もっと言えば、ことばというラベルを未だ付けられていない抽象的・物理的事象や現象について、ぼくたちはその定義を知ることはできない。いや、仮にそういう事象や現象が存在していても認識できていないのかもしれない。新しいものを見つけたら命名するのが人の習性だからだ。

テストや受験、資格のための検定などに対してはDNAレベルで嫌悪してきたし、今もDNAは変異していない。やむなくすることが少なくないが、原則として採点側や評価側に立つのも好まない。だいたい分母に満点を置いて分子に採点された点数を配分するのが気に入らない。100分の70って一体何なのだ? その満点の100は当然出題者の意思で決まる。しかも、その100はこれまた何千か何万かから抽出された分子でもある。合格者を多く出したいかゼロにしたいかは、抽出作業過程での出題者の裁量でどうにでもなる。

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任意に設定された満点に向けた学習は功利的かつ便宜的である。そんな学習ばかりしてきたから実社会でろくに役に立たないのだ。それを反省して一から勉強し直している。にもかかわらず、目標を失いたくないから検定や単位などの「合格」を目指す。生涯、満点への飽くなき学びが続くというわけである。

のべつまくなしに分母と分子で物事を測っていると、本気の学習などできなくなる。本気の学習とは、今の自分の能力を、「設定された満点」に向けるのではなく、際限なく高めていくものだ。日本語の50万語分の5万語しか知らないという思いなどまったくどうでもいい。あるいは語彙力判定テストを受けて、2万語と評価を下されても落ち込むことはない。森羅万象の知恵の前では何人も無知なのである。そう、分母などいくらでも小さくしたり大きくしたりするなど自由自在だ。

いま認識できている力、いま運用できている力――それを着実に高めればいいのである。満点という到達点などまったく意識する必要などない。それが実社会での本物の学習のはずだ。その過程で、自分が従事している仕事において「閾値越え」が生じる。

もちろん分母と分子をしっかりと意識するほうがよい場面もあるだろう。一例としては、財布に一万円札があって消費していく過程は、分母(所持金)と分子(支出額)の関係。分子が大きくなって分母に追いついたとき、財布の中が空っぽになっている。たぶん経済感覚には分母と分子が欠かせない。分子を使いすぎないという節約と、分母を欲張りすぎないという節度という意味で……。