ローマとラテン語のこと(上)

ローマに関する本.jpgのサムネール画像のサムネール画像〈ローマのパッセジャータ〉というシリーズでフェースブックに写真と小文を投稿している。ローマにはこれまで4回足を運んでいるが、最後の訪問からまもなく5年半。その時はアパートに一週間滞在して街をくまなく歩き、当てもなく同じ道を何度も行ったり来たりした。イタリア語ではこんなそぞろ歩きのことを「パッセジャータ(passegiata)」と呼ぶ。イタリア人にとっては夕暮れ時の日々の習慣だ。

 ところで、西洋絵画に刺激されて十代の頃によく絵を描き、ついでにルネサンスや古代ローマなどイタリアの歴史や美術や言語についてなまくらに独学したことがある。いろんなことを知ったが、とりわけ「すべての道はローマに通じる」や「永遠の都ローマ」などが言い得て妙であることがよくわかった。なにしろローマという街は古代からの「直系」であり、たとえ現代を語るにしてもどこかに歴史のエピソードがからんでくる。過去を切り離しては、たぶん今のローマは成り立たないのだろう。
 

 ローマに関する本を雑多に拾い読みすると、必ずと言っていいほど古代ローマの名言やラテン語に巡り合う。話が少しそれるが、カタカナで表記される外来語に対してぼくは寛容である。わが国では、明治時代から欧米の概念を強引に日本語に置き換え始めた(恋愛、概念、哲学、自由などの術語がそうである)。いま日本語と書いたが、実は、やまとことばへの置き換えではなく、ほとんどが漢語への翻訳だった。現在でも、外国固有のことばを無理に母語や漢語で言い換えてしまうと曲解や乖離が起こる。それなら、最初からカタカナ外来語のままにしておいてもいいとぼくは思うのだ。
 
仕事柄、マーケティング、コミュニケーション、コンセプトなどの用語をよく使うが、手を加えて日本語化することはない。ラテン語源のちょっとした知識を持ち合わせれば、これらのカタカナ語の本質を理解しながら地に足をつけて使うことができる。ぼくたちがふだん使っているカタカナ語の大部分はラテン語に起源をもつ。ギリシア由来のものも少なくないが、それらもラテン語を経由してヨーロッパ諸言語に広がった。だから、ラテン語の語源をちょっと齧っておくとおもしろい発見があったりする。
 
たとえば、英語のマーケット(market)は現代イタリア語ではmercatoであり、ラテン語mercatusにつながっている。「商品を持ち寄って売る」というのがマーケットの意味だったことがわかる。フランス語のマルシェ(marche)もここに由来する。なお、コミュニケーションは伝達というよりも「意味の共有」、コンセプトは別に小難しい用語ではなく、「おおまかな考えやアイデア」というのが原義である。
《「下」に続く》

二字熟語で遊ぶ

二字熟語 上下逆転図.png長い出張中は、講演や研修の合間にテキストの草稿をしたためたり本を読んだりする。いずれも急ぎのミッションではないから、集中力は長く続かない。いきおい、カフェに入ってぼんやりする時間が増える。手元にはいつものノート一冊。

つい先日、ふと目にした文字から連想が始まった。何のことはない、「実現」をひっくり返すと「現実」、というような関係をもつ二字熟語探しである。あっという間に、30ほど書き出したが、そこで終わっては芸がない。気がつくと、おもしろおかしく例文が作れないかと思案し始めていたのである。できれば例文も川柳仕立てでと欲張ったが、それは仕事以上に疲弊しそうなのであきらめた。

【金賞と賞金】
(例)名誉と表彰状だけの「金賞」よりは、何等賞でもいいから「賞金」のほうがいいよね。

現金な話だが、賞を授与してきたぼくの経験からすると、あながちそうでもない。旗とカップの店に注文した千円そこそこの金メダルを首にかけてあげると、優勝者は大喜びしたものである。
【便利と利便】
(例)「便利」な文明の利器のことごとくが社会の「利便」性につながるとはかぎらない。

便利がモノについての有用性なのに対して、利便のほうはやや抽象性が高い。便利に利益の意味は小さいが、利便性には便利と同等の利益がともなうかのようである。
【段階と階段】
(例)「階段」を一気に駆け上れば上階には行くだろうが、「段階」を追うことだって大切なんだよ。

この二語は大いに重なっているが、階段は無機的でアナログ的に続く。段階には技術や技能の力量が等級として表現される。「そんなに上を目指しても、きみの今いるところはこの程度の段階なんだからね」という具合。
【体重と重体】
(例)大事故が起きると「体重」の重い人ほど「重体」になる可能性が大きい。

この二語は、それぞれ人体の重さと身体のケガの症状を示す。まったく意味が変わる。しかし、教訓とせねばならないのは、体重の増加はある意味で重体なのかもしれないということだ。両者をつなぐのがメタボリックという概念だろう。
【出家と家出】
(例)彼は勇んで「出家」したつもりだったが、家族からは「家出」捜索願いの届けがあった。

これとは逆に、家出人の安否を気遣う家族は、まさか本人が出家したなどとは考えないだろう。しかし、どんな形であれ、せめてどこかで生きていてほしいと願い続け、出家していたと知れば一安心である。

サッチャー元首相とディベート

討論.jpgジョークにもなっているように、サッチャー元英国首相の傑出したディベート能力は神をも泣かせてしまうと誉めそやされた。首相在位期間は1979年~1990年、11年という長きに及んだ。この間のわが国の首相は、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘、竹下登、宇野宗佑、海部俊樹の六人の顔ぶれであった。

四半世紀近く前のサッチャー・海部の両首脳の会談は印象的だった。企業や行政でディベートに注目が集まり始めた頃であり、その数年後からひっきりなしに研修依頼を受けて全国を飛び回ることになった。会談の要旨をぼくなりにまとめたものをディベートの教材として使った時期もある。亡くなったサッチャー女史を偲ぶと同時に、わが国のリーダーの論拠不足を肝に銘じるために紹介しておこうと思う。
 

 その会談は海部首相が二つの論点を切り出して始まった(傍線は岡野)。
 
〈論点Ⅰ〉 戦後日本の基本は自由と民主主義であった。われわれは英国を手本としていろいろと努力してきた。これは世界の流れの中で正しい選択である。
〈論点Ⅱ〉 サミットでも協議は経済面・政治面で重要であった。われわれは今後とも協力し、いろんな問題を処理していきたい。
 
傍線部のような、現象や事実の上位概念把握だけでは世界を相手に説得不十分である。論拠はどこにも出てこず、ただ「思い」を語っているにすぎない。二つの論点に接合してサッチャー首相が語る。
 
〈論点Ⅰに対して〉 日本の技術は優秀である。なぜなら、日本企業は消費者の需要動向を洞察し、新しい技術を生産に直結しているからである。英国はこうした日本企業の進出を歓迎する。
〈論点Ⅱに対して〉 保護主義の圧力がある中で、サミットは自由貿易体制の維持に有益であった。
 
意見に論拠が内蔵されている。海部の上位概念ないしは総論を、下位へと落として具体的である。海部の二つの論点に物足りないサッチャーは三つのポイントから成る論点Ⅲ「日英関係」を持ち出す。
 
〈論点Ⅲ‐1〉 酒税の改正に感謝するものの、ウイスキーの類似品を懸念している。
〈論点Ⅲ‐2〉 東京証券取引所の会員権解放の早期解決を要請したい。
〈論点Ⅲ‐3〉 航空問題は人的交流を増やすため規制緩和が望ましい。
 
自分が言及しなかった論点に海部は逐一対応しなければならない。さあ、どう言ったか。
 
1〉 懸念される必要がないよう努力したい。
2〉 できるだけ早期に解決するよう引き続き努力したい。
3〉 解消の方向に向かっていると思う。
 
嘆かわしいと言うほかない。〈1〉と〈2〉のいずれも努力という逃げ。努力で解決するなら話は簡単だ。努力ということばは肩すかしである。〈3〉などはまるで天気予報士のようではないか。ぶち切れたくなるほどの無責任ぶりなのだが、サッチャーは冷静であり、英国流のシニカルなトーンで切り返した。
 
2〉 今回で四人目の首相になるので、早期結論を期待する。
3〉 一般的な規制緩和について、さらに事務レベルで話し合いたい。
「あなたの前任者三人にも同じようなことを要求してきたが、進展しなかった。何人替われば気がすむの?」という声が聞こえてくる。「事務レベルでの話し合い」とは、「あなたではダメ。もっと具体的に解決策を出してもらわないと」という意味なのだろう。
 

 結局、海部のせいで期待したような論戦には到らなかった。それはわが国の弁論術スピーチチャンピオンと鉄の女の論争ディベート能力の格の違いによるものだった。打てど響かぬどころか、のれんに腕押しの会談ではさぞかし物足りなかっただろう。まるで他人事のような海部首相の情けなさだけがクローズアップされたのである。やれスピーチだやれ感性だとほざく前に、世界に通じる言語理性を鍛えなければ日本人の生きる道はない。グローバル化した現在でも、世界に通じるディベート能力はいまだ道険しだ。

ニュアンス違い、読み違い、聞き間違い

2013 じごぜん牡蠣.jpg牡蠣のむき身を2.5キログラム取り寄せ客人も招いて堪能しようと目論んだ。「牡蠣づくし」と招待メールに書いて、ふと戸惑う。「牡蠣三昧」と書くのとはどう違うのだろう。「づくし」と「三昧」はまるで類語として相互代替的に用いられるようだが、手元の類語辞典では別の項目に収まっている。

旅行代理店や温泉旅館のパンフレットには、「づくし」もあれば「三昧」もある。蟹づくしvs蟹三昧、松茸づくしvs松茸三昧など、拮抗している。ここで、どちらが正しいかなどという追究をしても始まらないが、いったいどんなニュアンスの違いがあるのか興味津々になってきた。こうなると、今宵の牡蠣を食べる前に「気持ちの整理」をつけたくなるのがぼくの癖だ。
「花づくし」はあっても「桜づくし」とはあまり言わないはず。概念として、花にはいろんな種類があり、それらをことごとく並べ上げるのが「づくし」。類の一つに桜があり、その場合は「桜三昧」のほうがいいのではないかというのがぼくの推論。冬の「味覚づくし」を絞り込んでいくと「蟹三昧」になる。では、牡蠣の場合はどうか。貝類に対して牡蠣はすでに一つの類なのであるから、「牡蠣三昧」になる。牡蠣だけに集中して他の貝類には見向きもしないさまだ。もし「づくし」にしたいのなら、「貝づくし」と言うべきなのだろう。いろんな貝類を堪能するといニュアンスだ。今宵は「牡蠣三昧」と呼ぶべきだという結論に落ち着いた。
 

 先日、ある人が「邁進まいしん」と書いていたのを、ぼくが早とちりして「遭難そうなん」と読み違えた。もちろん、文脈を追っているから、すぐに読み違いだと気づいたが、この両者、似ていなくもない。別のときに、ぼくが「徒弟とてい」と書いたら、誰かが「従弟いとこ」と読み違えた。たとえば「あの先生には徒弟はいなかった」などという文章では、「いとこ」と読んでしまっても意味が通ってしまう。
 
同様に、「この時期、昼下がりの紅茶を堪能するのも悪くない」という文中の紅茶を「紅葉こうよう」と読んでも、これまた意味に支障をきたさない。じっくり読めば、「茶」と「葉」を間違えようもないが、「茶葉」という表現もあることだし、スキャンするように目を流したりすれば、起こりうる読み違いではある。
 
こんしゅういよいよオープン」というアナウンスを夏場に耳にしたことがある。春なら「今週」と理解しただろうが、暑さにうんざりしている身だから気分は秋を待望している。だから、ぼくは「今秋」と聞き間違った。このケースでは、責められるべきはぼくではなくアナウンスのほうである。では、今週をどのように表現すべきであったのか。生アナウンスでなく、録音して毎日流すのなら、「今週○曜日」と言うしかないのだろう。同音異義語や類似する漢字がおびただしいのがわが日本語のおもしろさ。同時に意思疎通不全の原因でもある。

“アテンション、プリーズ”は効くか?

危険.jpg交通機関を利用すると、視覚的または聴覚的なアナウンスの洪水に見舞われる。アナウンスが双方向であるはずはなく、すべて一方的だ。とりわけ、注意喚起のメッセージがおびただしい。どのメッセージにも悪意は込められていない。ひたすら乗客の安全を願っての発信であることは言うまでもない。だが、過ぎたるはなお及ばざるが如し、である。

「ドアが閉まる直前の駆け込み乗車をおやめください」というアナウンスもあれば、「開く扉にご注意」というステッカーもある。忘れ物はないか、次の駅で乗り換え、今度は右側のドアが開く……など、次から次へと注意が促される。たまに「注意!」とか「危ない!」と言われるから、我に返ったり身が引き締まったりする。すべてのアナウンスが「アテンション、プリーズ」なら鈍感になってしまう。


日本全国から変てこな看板や標識ばかり集めた本に、「触るな! 触るとやばいです」というのがあった。禁止系の呼びかけに対して、人にはアマノジャクな反応をする性向が少なからずあるらしい。「どれどれ、どんな具合にやばいのか」と思って、恐々手を出したくなる衝動に駆られるというわけだ。もっとも、遅刻厳禁と書いても時間厳守と書いても、守れない人は守らない。「遅刻死刑!」はただの冗談になるし、「時間に遅れないようにお願いします」のような意気地なしでは、強制力が働かない。
このポスターの「飲酒後の転落事故多発!!」というメッセージは事実を語っている。しかし、「ここは交通事故多発地点」というのと同じではない。「ここ」という具体性は少なからぬ注意を引き起こすが、「飲酒後」というのは一般的に過ぎるので「ふーん」という程度に軽くあしらってしまう。「シラフの自分」とは無関係であるからだ。
では、「転落にご注意ください」はどんな機能を果たしているのか。誰も好きこのんで転落しようなどと思わない。シラフの人間は転落リスクなどよほどのことがないかぎり考えない。このメッセージは酔っ払いに向けられている。しかも、ほどよいお酒で足元もしっかりしている乗客にではなく、ホームと線路の見境もつかないほど泥酔している乗客に向けられている。だが、かろうじて改札口を通り、やっとこさホームに辿り着いた泥酔客にこのポスターが見えるはずもない。
正しくは、「シラフの皆さん、酔っ払いが転落しないように注意してあげてください」でなければならない。もっとも、この趣旨を一行スローガンで表現するのは至難の業だろう。結局、外部からの十のアテンション忠告よりも内なる一つのアテンション意識が勝るのだ。仕事にも同じことが言える。

ネーミング考

牛屋のテント.jpg名は実体を表わすようになるのか、いや、もともと実体にふさわしいと思われる名を付けるから名実一体に思えてくるのか……正直なところ、わからない。

「薔薇の花を別の名で呼ぼうと、香りに変わりはない」ということばをシェークスピアが残している。シェークスピアだから“rose”と言ったに違いないが、それを「ズーロ」と呼ぼうが「クサヤニンニクフナズシバナ」と呼ぼうが、芳香は変わらないということだ。人はそこまで名と実を合理的に分別できるとは思わないので、香りに変化が出るような気がする。少なくとも「クサヤニンニクフナズシバナ」を嗅ぐ気にはなれそうもない。
ぼくたちはいろんな実体とそれぞれに付与された名前も目にしてきている。名と実の違和感に意表を衝かれもするし、よくマッチして耳に快く響くこともある。山を「ウミ」と呼び、海を「ヤマ」と呼ぶのに慣れる自信はない。それほど、山も海も発音に代替がないほどピッタリくる。もっとも、ソシュールによれば、山をヤマと呼び海をウミと呼ぶことに必然性はなく、恣意的ということになる。
 

調べていないので、実存するかもしれないが、「そば処 手打うどん亭」、「割烹 マルゲリータ」、「喫茶 飯島善衛門」などはどうだろう? 違和感は強いが、いずれ慣れるようになるのか。ネーミングも嗜好品のようなものなので、人それぞれの好みもある。それでもなお、同時代を生きるぼくたちには共通感覚のようなものがあるはずだ。想像を逸脱するほど、名と実が乖離していたり整合していなかったりすると、不快感を催す。
もう長らく足を運んでいないが、大阪の日本橋に馬刺しの老舗「牛正ぎゅうしょう」がある。もともと牛肉を食べさせていたらしいが、馬肉専門店になった。そして、創業時の名を変えずに現在に至っているらしい。違和感もあり、牛肉もメニューにあるような印象を受けるが、いったん慣れればそれまで。「馬正」に変えられるほうが異様に響いてしまうから不思議である。
巻頭の写真の店名。この店には行ったことがないので、ぼくには「慣れ」が欠けている。テントには「Beef Steak ビフテキ / 牛屋 ushiya / とんとんびょうし」とある。どこにでもあるわけではないだろうが、「とんとんびょうし」などはありえない名ではない。それはともかく、ビーフステーキ店なのに「とんとん」とポークっぽく響かせるのはどういう理由なのだろうか。テントの上の看板には、小さく「牛屋」とあり、大きく「とんとんびょうし」と書いてある。後者が店名に違いなさそうだが、「ビフテキの牛屋」で十分なはずである。いろんな事情があるにしても、潜在顧客を惑わせるネーミングに首を傾げざるをえない。

「選ぶ」と「引く」

アホらしいと思ったが後の祭り。観てしまったのだからしかたがない。昨夜『マジカル頭脳パワー』なる番組のチャンネルを、ひょんなことからリモコンが拾ってしまったのだ(テレビの調子が悪く、リモコン操作を何度か繰り返さないと画面が映らなくなっている)。それはともかく……。

番組中、「この行為は何をしているのか?」という出題があり、行為を示す動詞が順番に出てきて、わかったところで答える。「払う」に始まり、「選ぶ→取る→開く→読む→たたむ→結ぶ」と続く。あるグループはたしか「開く」の時点で正解を出した。ぼくはと言えば、最後の「結ぶ」でやっと「もしかして、おみくじ?」と推論した次第。
どちらかと言うと、勘がいいほうなのだが、ぼくの推理推論では「おみくじ」はありえない。「選ぶ」という行為からはおみくじは導出できないのだ。なぜか? おみくじは、あらかじめ分かっている複数の対象から好みや条件に見合ったものを選ぶものではなく、何かわからないものを「引く」ものだからである。手元にあるすべての国語辞典やコロケーション辞典は、おみくじと結ぶつく動詞を「引く」としている。

不可解で不機嫌になっていたら、正解を裏付けるための映像が示された。お金を払ったあと、よく見かけるくじ引き箱の中に手を入れておみくじを指でつまみ上げているではないか。中身が見えない状態で取っているから、選びなどしてはいないのである。出題の二つの動詞「選ぶ」と「取る」を一つにして、「引く」にするのがふさわしい行為であった。
ぼくが年始に行く神社では、番号の付いた棒を「引く」。引いて番号を巫女さんに告げる。巫女さんは同じ番号の引き出しからおみくじを取り出す。そのおみくじは一枚の紙で、すでに「開かれている」。見てから、棒状に紙を巻くか折ってから、どこかに用意されている竹柵に結ぶ。おみくじ代は引いてから支払ってもいい。つまり、「(棒を)引く→(番号を)告げる→(代金を)支払う→(おみくじを)受け取る→(運勢に)目を通す→(吉や凶に)一喜一憂する→(おみくじを)巻くか折る→(竹柵を)探す→(竹柵に)結ぶ」という一連の行為がおみくじに当てはまる。
冒頭の写真は、基本語彙――とりわけ動詞――の細かなニュアンスを確かめるときにぼくが使う辞典である。【選ぶ】には、「複数の対象の中から、ある条件を満たすものを捜す」と書かれている。例として、「多くの応募作の中から優れたものを選ぶ」「卒業生の中から総代を選ぶ」などを挙げている。おみくじにおいては、条件(たとえば大吉や吉)を満たすものを自分の意志で捜すことはできない。偶然に委ねられるのだ。ゆえに「引く」なのである。選べるのなら、ぼくだって三年連続、好んで「凶」をもらいなどしない。

表現階段は上へと向かう

〈表現階段〉などという術語はない。ぼくの気まぐれな造語である。

あるすぐれた事物にふさわしい表現をひねり出したとする。事物がさらによくなれば、その表現よりも一段上に上がる表現が必要になる。比較級的な何か、である。そして、必然最上級を求める。しかし、事物の質がさらに良化すれば、その最上級でさえ物足りなくなる。こうして、表現階段はエンドレスに上を目指していく。
ロハスなどに顕著な近未来ライフスタイル現象の一つに「質の追求」がある。もちろん、今に始まった概念ではない。いつの時代も、昔に比べて少々手持ちに余裕ができれば、人はおおむね量の拡大から離れて質の深化へと向かうものだ。質の高いもの、つまり俗っぽく「本物」と呼ばれるものへの志向性……。本物とは何かということはさておき、そこへ向かいたがる。
デパートの地下を一周してみればよろしい。上質の~、一流の~、極上の~、~な逸品、名門の~、本場ならではの~……キリがないほど本物の仲間表現が目白押し。これ以外にも、ぼくたちにはらくしたい、自分らしくありたい、ゆったりと快適でありたいなどの生き方願望があるが、クオリティ・オブ・ライフ志向として一くくりにできるだろう。

とあるカフェに入った。ブレンドが税込280円。ご承知の通り、「ブレンド一つ」と注文すると、カウンター内の店員は即座にカップを取り出して機械にセットし、ボタンを押して「すでに出来上がっているコーヒー」を注ぐ。トレイごと受け取ったぼくはセルフでそれを運んで席につく。この店では、そのブレンドを、なんと「幻の逸品」と名付けポスターとして貼り出してある。
別の日。ブレンド料金にプラスすること20円で「ロイヤルブレンド」にグレードアップできることを知った。こちらは注文してから淹れるのである。おまけに、番号札を渡されて席に座っていれば、店員が出来立てのコーヒーを運んでくれるのである。
ブレンドが幻の逸品なのだから、ロイヤルブレンドにはどのような最上級の表現が与えられているのか……興味が湧いてきた。カウンター内の大きなメニューパネルや店内のあちこちにポスターらしきものを探してみた。だが、ロイヤルブレンドを訴求する表現らしきものは見当たらない。それはそうだろう、先に「幻の逸品」と命名してしまったら、そう簡単にそれ以上の表現は思いつくものではない。「特上・幻の逸品」など鰻丼みたいで違和感が強い。いっそのこと「幻想の逸品」にしてみるか。これも変だ。
表現階段の一段目に足を踏み入れた瞬間から、人はさらなる上の表現を目指す宿命を背負う。しかし、語彙には限度がある。表現したい気持ちが高ぶる一方で、言い表せぬもどかしさに苦悶するのだ。最近の若者たちが何にでも「めっちゃ」や「すっごく」や「超」をつけざるをえないのはこういう事情によるのだろう。

続・食にまつわる語義と語源

今年に入ってからのテレビ番組だったと思う。分子生物学者で農学博士の福岡伸一が「もし宇宙人がはるか彼方から地球を眺めたら、地球の最大勢力をトウモロコシだと推論するだろう」というような話をしていて、強い興味を覚えた。コメやムギ同様、トウモロコシはイネ科の穀物だ。そして穀物の中で最大の生産量を誇る。地球外生命からすれば、トウモロコシこそが人類や家畜を支配しているという構図である。

さて、食養生を強く意識してからおよそ二ヵ月が経つ。ひもじい思いをしているわけではないが、上記のような食糧や食生活にまつわる知識への関心が別次元にシフトしたような気がする。先週、このブログで『知っておきたい食の世界史』からいくつかエピソードを拾って紹介した。読了して別の本を併読しているが、このまま通り過ごすには惜しい話があるので少々書いておきたい。


【オリーブ】 ジェラート専門店でバニラを注文した。店主が「オリーブオイル」を垂らしてみませんか?」と言うから、好奇心のおもむくままうなずいた。経験上明らかなミスマッチだが、悪くはなかった。イタリア料理でもスペイン料理でもふんだんにオリーブオイルを使う。健康オイルとしてのイメージと相まって、ぼくたちの食生活にもずいぶん浸透し和食に用いられるのも珍しくなくなった。
ギリシア語でオリーブは“elaia”、油は“elaion”という。ほぼ同じ語根もしくは語幹である。オリーブオイルこそがオイルだったという証だそうだ。英語の“olive”のほうはラテン語の“oliva”から派生した。オイル(oil)はこれが訛った呼び名という説がある。そうすると、オリーブオイルは「オリーブオリーブ」または「オイルオイル」という冗長な言い回しをしていることになる。
なます】 なますと言えば、大根と人参の酢の物というイメージが強い。魚へんの「鱠」という漢字もあって、この場合は細く切り刻んだ魚の身も入れた。しかし、通常、なますを漢字にすると、にくづきの「膾」である。「あつものりて膾を吹く」というとき、この膾は生の肉を意味している。熱いスープで痛い目に遭ったから、冷たいものでもふぅふぅするという意味だから、生の肉でなければならない。
膾はもともと肉だったのである。その名残が韓国の「肉膾ユッケ」だ。古代中国では生の細切りの焼き肉が人気で、誰もがよく食べた。よく食べるということはよく知られたということだ。ここから、広く知れ渡るという意味の「人口に膾炙する」という表現が生まれた。この熟語の膾炙は「炙り肉」のことである。

語句の断章(19) 嫉妬

ずいぶん以前にロブ・グリエの小説『嫉妬』を読んだ。気がつけば、読者は主人公と同じ目線に立って想像をたくましくしていくことになる。とことん行かないと気が済まない嫉妬のしつこさは、消えることのない炎のようである。この小説、再読候補には入っておらず、本棚の上のほうで埃をかぶっている。

嫉妬は「そねみ」と「ねたみ、く」からできている。一般的には「自分と違う何か、自分が良く思う何か、自分が欲しい何かなどを持ったり楽しんだりしている誰かを不快に思う感情」のことである。この誰かが知らぬ者ならいいのだが、知っている者になると悲惨になってしまう。

小学館の『英和中辞典』を覗いたら、“envy”は「人の幸運・能力などを見てあやかりたいと思う気持」、“jealousy”は「それが自分にないのは不当だとして相手を憎む気持」とある。大まかには、envyが羨望で、jealousyが嫉妬と言えるかもしれない。

ところが、三世紀ギリシアの哲学史家ディオゲネス・ラエルティオスは、「自分の望むものを人が手にするのを見て感じる心の痛みを羨望と言い、自分が手にしているものを人もまた手にしているのを見て感じる心の痛みを嫉妬と言う」と唱えている。羨望のニュアンスは『英和中辞典』とよく似ているが、嫉妬の解釈はまったく違う。ラエルティオス流なら、「自分と同じブランドものを持っている別の人を嫉妬する」のが正しい。三角関係における嫉妬はこちらに近いのか。

自分にないものを誰かが持っている、あるいは、自分が持っているものを誰かが持っているなどということは、とてもよくあることである。関与していたらキリがない。一生嫉妬し続ける人生になってしまうだろう。嫉妬深い人は次の一文に目を通しておくのがいい。

「嫉妬とは、不幸の中でも最大の不幸である。しかも、この不幸は、その原因となった人物には、全然憐憫の情を起こさない」(ラ・ロシュフーコー『箴言集』)。

つまり、Aを愛するがためにBに嫉妬するとき、実はAへの憐みなどまったくないということだ。要するに、嫉妬とは、ただ嫉妬の炎を燃やし続けるための情念に過ぎないのである。