食にまつわる語義と語源

知っておきたい食の世界史 web.jpg数日前、食に関する本を10数冊そばに置いて、気の向くままにページをめくっていると書いた。まだ途中だが、昨夜はこの本の第一章と第二章を興味深く読んだ。

食の話が楽しいのは言うまでもないが、ことばの由来に並々ならぬ関心を抱くぼくとしては、著者の語義と語源の薀蓄に何度も「へぇ、なるほど」を繰り返していた。知っていて損はないので、いくつか紹介しておくことにする。

【塩】 英語でsalt、ラテン語でsalである。ソーセージ(sausage)もサラミ(salami)もsal語源で塩漬けを意味している。なお、サラダ――フランス語でsalade――も塩なんだそうである。
【ピラフ】 トルコ語で「一椀の飯」を意味する炊き込みご飯である。この変形がイタリアのリゾットであり、スペインはバレンシア地方ではパエリャに変化した。
【サーロイン】 この知識はぼくの雑学に入っていたが、エピソードがおもしろい。17世紀の英国のジェームズ1世がある宴で風味豊かな牛肉を口にして感激した。「どの部位か?」「腰の背側の肩からももにかけてのロインloin)でございます」「ようし、その部位に貴族の称号サー(sir)を与えよう」……いうことになり、サーロイン(sirloin)。
【ポタージュ】 人類の食文化を一変させたのが加熱。粘土で壺を作って水分と食材の加熱が可能になった。これを「セラミック革命」と呼ぶ。壺を意味するポット(pot)から濃厚なスープ「ポタージュ(potage)」が派生した。

「説明」ということ

地下鉄案内表示 パリ web.jpg写真はパリの地下鉄の行先案内表示である。この下に立つぼくの前には上りの階段があるのみ。階下への階段もエスカレーターもない。階下がないからである。

 一段目の〈〉の箇所。○で囲まれたMはメトロ。は地下鉄の路線番号と終点が書いてある。二段目の〈〉は切符売場と案内所。三段目の〈〉は出口。ぼくたち日本人の感覚からすると、この状況では、下向きの矢印は地下へ行くか後戻りするかを意味するような気がする。実は、「このまま前方へ進め」である。前方と言っても、階段なので「上がれ」ということだ。下向きなのに「上がれ」なのである。矢印など常日頃安易に使うが、この記号一つで意図を伝えるのは決してやさしくない。
 
何を今さらというテーマである。そうではあるが、説明を要しないほど「説明」ということは自明ではない。『説明・説得』というテーマでお呼びがかるので、年に数回話をさせていただく。あれこれと意見交換していても、「説明とは何か」に明快に答えられる人はめったにいない。
辞書的な意味で言えば、とても簡単だ。それは、「あることの本質や意味や背景や事情などを、まったく知らない、またはあまりよく知らない人にわかるように言うこと」である。説明の定義は何となくこれでよさそうだが、「どのように」という説明の方法に関しては不十分。ふつう、説明とは「論理的に順序立てて包括的におこなうもの」と思われている。しかし、必ずしもそう断言できない。「印象的に要点のみ拾う」という方法もあるからだ。

ここで、問題を提起する。「わかっていることなら説明できるのか?」 イエスは楽観的に過ぎるし、ノーは悲観的に過ぎる。

二十代の頃、友人が「たこ焼き」を見聞きしたことのないアメリカ人に説明するのを傍で聞いていたことがある。英語力のある男だったが、そんなことはあまり関係ない。見たことのないもの、知らないことについて相手に理解させるのは、説明者だけの力でどうにかなるものではない。「それ」について輪郭のディテールまでわかるかどうかは、その説明を受ける張本人の知的連想力によるところが大である。

他方、ろくにわからないからこそ説明できるということがある。専門家がこだわって一部始終語らねば気が済まないことを、ちょっとだけ齧ったアマチュアがかいつまんで説明できることがある。専門家のかたくなな説明手順を嘲笑うかのように、飛び石伝いに喋って理解させてしまうのだ。自身わかっていることを専門家が説明できず、非専門家があまりわかっていないのに説明できたりする。

説明の技術は、知識の豊かさや専門性と無関係ではないが、決して比例もしない。知っていても説明できないことがあり、さほど知らなくても説明できることがある。そして、説明がうまくいくためには、説明者だけの技術だけでは不十分で、説明を受ける者の背伸びという協力が欠かせない。説明の上手な人とは、相手をよく理解して、何を説明し何を説明しないかを判断できる人と言えるだろう。

愉快な名言格言辞典

レストランのメニューは勝手に決まらない。何がしかの意図に基づいて決まっている。その意図を〈編集視点〉と呼んでみると、同じようなことが辞典にも言える。辞典のコンテンツも適当に決まるのではなく、特殊な知識や文化などを背負った編集者が、ある種の編集視点からコンテンツを取捨選択している。
名言や格言、ことわざの類に大いに関心があったので、若い頃からいろんな書物や辞典を読みあさってきた。ただ、箴言しんげんというものはおおむね単発短文であるから、覚えてもすぐに忘れてしまう。記憶にとどめようとすれば、文脈の中に置いたり他の概念と関連づけたりする必要がある。しかし、別に覚えなくても、手元に置いて頻繁に活用していれば、自然と身につくものだ。

国語辞典の定義や表現にも編者の視点が反映されるが、名言格言ではさらに顕著になる。「世界」と銘打てばなおさらで、日本人が拾ってくる名言格言はフランス人のものと大いに異なる。写真の辞典はフランス人が編集したもの。索引を拾い読みするだけで、ぼくたちの発想との類似と相違が一目瞭然である。
まずギリシア、ラテン、聖書由来がおびただしい。中国・インド・アラビアがたまに出てくるが、この辞典の世界とは「西洋世界」と言っても過言ではない。それはともかく、おもしろいのは「各人は自己の運命の職人」というような長たらしい見出しが独立しているという点。名言格言をこの見出しにするとは、かなり主観的な視点と言わざるをえない。
「神」にかかわる名言格言はきわめて多い。「神」と「神々」を分けてあるし、「神の正義」という独立の項目もある。「ぶどう酒」に関する名言もさすがにいろいろと収録されている。「前払いをする」という項目は日本の辞典ではありえないだろう。
見出しの項目だけでも、日本人と西洋人の編集視点の特徴が見えてくる。ぼくたちにとって後景と思えるものが前景になっている(その逆もある)。世界というものへの視点がきわめてローカルだということも勉強になる。

語学学習に学ぶ習得のヒント

『英語は独習』という本を20年前に書いた。初版のみで増刷はない。出版社としては妙味のない企画に終わったが、ぼくとしては語学学習の正論を著したつもりだった。ものを学び頭と身体に叩き込んで自動化するには、〈これ〉しかないと言い切ってもいいだろう。書名は『英語は独習』だが、学習論一般としても成り立つと今でも思っている。

〈これ〉とは「只管音読しかんおんどく」だ。ただひたすら声を出して読むのである。音読ができるためには、英語なら英語の、(1) 発音・イントネーション・リズムの基本が身についていて、(2) 読んでいる文章の意味がある程度わかっていることが前提となる。

何の取っ掛かりもない外国語を朝から晩まで聴いても、一生話せるようにはならない。イメージと結びつかない言語は意味を成さないのである。目の前にモノがありイメージがあり、ジェスチャーがあってシーンがあるからこそ、想像をたくましくしてことばがわかるようになる。母語ですでに概念を形成している成人なら、ふつうに英語の発音ができて文章の意味がわかれば、集中的に大量音読をおこなうと早ければ数ヵ月である程度のことは話せるようになる。


アルファベットを用いる言語のうち、日本人が文字面で発音しにくい筆頭は、実は英語である。英語はほとんどの人が最初に接する外国語、しかも何年もやっているから文字を読めるようになっているが、スペルと発音の関係はきわめて不規則なのだ。フランス語もそのように見えるが、これは英語を先に学んだからそう錯覚するだけで、先にフランス語をやっていると英語の不規則性はなおさら際立つ。

その英語を数年間ふつうに勉強してきた人なら、中学程度のテキストを何十回と声を出して読みこなせば、単語単位ではなく動詞を中心とした構文単位で意味がつかめるようになる。だから文章が話せるようになるのである。とはいえ、どんなに力説しても、「あなたはもともと英語ができたから、早々と話せるようになっただけで、例外ではないか!?」となかなか信じてもらえない。

イタリア語入門テキスト.jpg
イタリア語の教本。只管音読すると、一年も経たないうちにページも剥がれてこのくらい痛ましい姿になる。

ぼくは英語以外では、イタリア語をまずまず話し、スペイン語を聴いて少しわかり、フランス語も少々読める。それぞれ異なったスキルだが、まさに学習方法と費やした時間を反映した結果にほかならない。イタリア語はほんの少しの基礎知識をベースに、誰にも教わらず、ただひたすら音読した。特に1冊目の入門書はおよそ半年間続けた。英国で発行されたイタリア語教本である。この後、むずかしいCDや教本も勉強したが、ほとんど音読はしていない。つまり、最初に只管音読さえしっかりしておけば語学の土台はできるのである。

その一言はいるのか?

あの一言は余計だったと思うことがある。他方、もう一言添えるべきだったと後悔することもある。料理の匙加減に似て、あと一言の有無の判断はやさしくない。悩んで悩んで結論が出なかったらどうするか。この場合は、お節介精神を発揮して一言を加えるようにしている。不足よりは過剰のほうが責任を取れそうな気がするし、経験的にもおおむねそうだった。

この前の日曜日、小ぢんまりとしたショッピングモールでエレベーターを利用した。貼紙がしてあった。「改修(調査)のため、屋上は17:00に閉まります」というお知らせの文面である。8Fから1Fへ降りるまでの間、ことば遣いをずっと睨んでいた。この文章を書いた人、どうして「改修」の後に括弧して「調査」としたのか、えらく気になってきたのである。

「改修のため」では何かしっくりこなかったのだろう。かと言って、「調査のため」でもズレているような気がしたのだろう。書いた本人には「何のために屋上を17:00に閉めるのか」がはっきりわかっている。そして、おそらく「改修のため」と書いて、説明不足が気になったに違いない。「改修は改修なんだけれど、主として調査を主眼としているんだよなあ」と思い直して、調査という言い換えを括弧付きで補足した――こう推理する。


しかし、このお知らせを読む人たちにとっては、改修イコール調査ではない。いや、それどころか、改修なら工事含みだし、調査なら点検はあっても工事はないだろうから、「改修(調査)」には対立感も漂って、どうもしっくりこない。

こんな文面になった経緯を読み解いているうちに、この文章が「屋上が閉まる理由」を「屋上が閉まる時間」以上に過剰に意識していることに気づいた。理由などどうでもよかった。「屋上は17:00に閉まります」。これでいいのである。ぶっきらぼうと感じるのなら「◯月◯日まで」と添えればよろしい。これでお知らせの役目は果たせている。

以前、オフィス近くの居酒屋のドアに「店主腰痛のため、しばらく休業します」という貼紙があった。「店主腰痛」は余計な一言である。一部の常連にとってメッセージ性が高いのかもしれないが、一般的には休業の理由などよりも「いつまで休むのか」のほうが意味があるはずだ。迷ったらお節介の一言というぼくのセオリーが崩れるのは、その一言が自己弁護や言い訳に用いられる場合のようである。

ところで、その居酒屋、ずっと休業が続き、やがて別の店に変わった。気の毒なことに、店主の腰痛は治らなかった様子である。

語句の断章(18) 散髪

「散髪」のことなど、ちょいちょいと検索すればすぐにわかるのだろうが、別に真実を知りたいわけではない。ただ勝手な推理推論を楽しもうと思うだけである。何かにつけて自分勝手に振る舞えない当世だ、想像するくらい意のままにしても罰はあたらない。

このことば、東日本ではあまり使わないと聞いたことがある。東の「床屋」、西の「散髪屋」という構図だが、そんなに鮮やかに東西に分かれているのかどうか知らない。

子どもの頃からずっと思っていた。今も不思議でならない。なぜ、「髪を整えようとしているのに、髪を散らかす」と言うのか。どう考えたって不思議である。「散」という文字は、散乱や散逸や離散と言うように、まとまりがない様子を示す。決して好ましい意味とは思えない。実に「散々」である。散歩や散策は良くも悪くもないが、気まぐれ感は漂っている。

にもかかわらず、手元の国語辞典は散髪を「髪の毛を刈り整えること」と定義し、「理髪」とも書いている。ちょっと待てよ。理髪や調髪なら「きれいにする」だから納得もする。整髪もおそらく「乱れた髪をきちんと整えること」だろう。ぼくには散髪は乱髪と同類のように響く。いずれも見映えのよい髪の様子の正反対に思えてしかたがない。

想像を超えて空想、いや、妄想してみることにする。散髪というのは、どうやら頭上の髪の毛の状態を示す用語ではなさそうだ。刈っている途中に髪が落ちていく様子、もしくは刈った後の床に散乱した毛髪のことを散髪と呼んだのに違いない。理髪は頭上でおこなわれ、そのマイナスされた分が床の上に散らばる。ヘアスタイルをきれいにすると言うよりも、きれいにした結果の、後片付けに力点が置かれたことばなのではないか。

しかし、じっと見ていると、この「散」という用法がなかなか魅力的に思えてきた。気を整えるために邪気を捨てるという意味で散気さんきと使えなくもない。実際にあることばだが、散語さんごなら表現を練り上げるために無駄なことばをそぎ落とす意味で使ってみる。散食さんしょく散読さんどくなども新鮮味がある。余分を捨てて、整食、整読するというニュアンスが漂う。いいかもしれない。

外国語のこと

議論・交渉・教育と、英語に関しては二十代からかなり高密度に接してきた。併行して20年以上英文ライティングのキャリアを積んだので、書くことと話すことにはあまり不自由を感じることはない。但し、読むことになると、現地で生活しながら学んだわけではないので、慣用句てんこもりの文章やディープな文化的テキストは苦手である。もちろん、知識のないテーマについて書かれた文章には相当手こずる。但し、これは英語に限ったことではなく、日本語でも同様である。精通していないことは類推するしかない。

『英語は独習』という本を書いた手前、外国語独習論を撤回するわけにはいかない。単なる意地ではないことを証すために、その8年後にイタリア語を独習してみた。イタリア語には若干の素養があったものの、五十の手習いである。凝り性の飽き性なので、短期集中あるのみ。一日最低1時間、多いときは56時間欠かさずにCDを聴き音読を繰り返した。文法は英語の何十倍も難解で嫌になってしまうが、ほとんど文字通りに発音できるので音読には適した言語だ。

だいたい3ヵ月の独習でおおよその日常会話をこなせるようになった。現地に行くたびイタリア語で通すことができる。しかし、イタリア語から遠ざかってからおよそ3年後に中上級レベルの物語のCDを取り出して聴いてみたが、だいぶなまっていた。語学のブランクはリズム感から錆び始める。取り戻すためには、原点に戻ってスピード感のあるCDを聴き音読に励むしかない。


学生時代にほんの少しドイツ語とフランス語を勉強した。旅の直前に半月ほど頻度の高いフレーズを読み込み、現地で必要に応じて使う。貧弱な語学力であっても、少しでも郷に入っては郷に従いたいと思うからである。けれども英語やイタリア語のようなわけにはいかないので、結局ほとんどの場面を英語で穴埋めすることになる。

覚えたての外国語を教本のモデル会話のように使えば相手に通じる。通じてしまうと、つい質問の一つもしてみたくなる。すると、相手は流暢に答える。今度は、その答える内容が聴き取れないのである。聴き取るのは話すよりもつねにむずかしい。「これいくらですか?」などの表現はどこの言語でもやさしい。使えば通じるが、数字がよく聴き取れない。「最寄りのバス停留所はどこ?」とフランス語で通行人に聞いたら、場所を指差してくれると思いきや、聞き返されている。やっとのことで「あなたはどちら方面に行きたいのか?」と聞かれていることがわかった。

と言うわけで、レストランに入ってもめったに尋ねない。「これとこれをくれ!」と言うだけ。「お薦めは何?」などと聞くと、さっぱりわからない料理の名前を言われるからだ。あまり得意でないドイツ語やフランス語ではぼくの使う疑問文は「トイレはどこ?」だけである。たいていの場合、「突き当りの階段を降りて右」などと言いながらも、トイレの方向も指差してくれるのでわかる。

11月にバルセロナとパリに行くことになったので、スペイン語をざっと独習し、フランス語をやり直している。イタリア語からの連想でスペイン語は何とかなりそうだが、フランス語のヒアリングは難関である。昔からずっとそうだった。あと一ヵ月少々でどこまで行けるか。

語句の断章(17) 似合う

「どう、このドレス、似合ってる?」「ああ、とてもよく似合ってるよ」などというやりとりの場面は昔の映画やドラマでよく見かけた。現実の若い二人はユニクロの試着室のあたりでこんなやりとりをしているのだろうか。もしそうなら、ほとんどの場合、女子が聞き男子が褒めているに違いない。

ところで、「似合ってる?」と聞かれて「似合ってるよ」と答えるのが不思議でならない。無責任と言ってもいいほどだ。

「このドレス、似合ってる」を文法にのっとって書き換えると、「このドレスは私に似合っている」になる。ぼくたちは高頻度のことばほどぞんざいに取り扱う。この「似合う」も例にもれない。似合うとは「釣り合いがとれている」という意味だが、話は洋服と本人だけで片付かない。「赤は私に似合う」と自信満々になられて困るのは、時間・場所・状況というTPOを踏まえていないからである。似合うには「ふさわしい」という意味もある。葬式にふさわしくない赤は、実は本人にも似合っていないのだ。

「和服がよくお似合いのあなた」を「あなた」を主語にして動詞表現を加えたら、「あなたは和服によく似合っている」となるか。ならない。モノが人に従属するのであって、人がモノに似合うのではない。「あなたはそのTシャツにぴったり合っています」と言えば嫌味に聞こえる。さらに、「お前はその安物のTシャツに似合っているんだよ!」と下品に書けば、この構文自体が侮蔑を含んでいることが明らかになるだろう。

似合うからどうってことはない。よくよく考えれば、「そのネクタイ、似合っているよ」は必ずしも褒めているわけではない。分相応という意味もある。「きみにはその程度かな」というニュアンスなきにしもあらず。ちなみに、英語では“You look nice in red.”のように言う。これは明快である。「赤を着ると映えるね」。似合うということは、そのモノによってよく見えなければならないのだ。

語句の断章(16) 自由

仕事柄出張が多く、新幹線や特急に乗車する際は必ず事前に席を取る。ここ数年はインターネットで予約している。同業の友人にはいつも行き当たりばったりという猛者もさがいる。指定がいっぱいなら自由車輌に乗るらしい。現地に行ってこれから講演するという時に、1時間も2時間も立つ勇気と体力はぼくにはない。

ところで、かねがね不思議に思っていたのが自由席と指定席ということばである。ふだんぼくたちは自由を求めている。「何が欲しい?」と聞けば「自由が欲しい」と言うこともある。逆に、指定されるのは窮屈だと思う。だが、自由席に乗ろうと思えば早くから並ばなくてはならず、ある意味でこれは自由ではない。自由席を確保するためには競争も覚悟せねばならない。これも自由ではない。競争に敗れてずっと立ち続けるのは、どう考えても不自由である。英語の“non reserved”は「無予約」だからよくわかる。わが日本語はなぜ「自由」と呼んでいるのだろうか。

翻って、たくさんある席からたった一つ、そこに座ることを強制されるのが「指定」である。指定席を求めたのは確かにこのぼくではあるが、実際、その一席を指定したのはJRだ。条件の付けられた指定席にもかかわらず、こちらのほうが気分は自由になれる。

柳父章の『翻訳語成立事情』に自由という語の厄介さが紹介されている。明治時代になって、英語で言えば“liberty”“freedom”に「自由」という二文字を当てた。もちろん造語ではなく、それまでも知識階級では自由ということばが二種類の意味で使われていた。ふつうは「勝手気ままに振る舞うこと」を自由と呼んだ。決して好ましいニュアンスではない。他方、仏教では、「自らにる」と読めるように、独立自存ないしは自律的、ひいては「とらわれない境地」をも意味した。こちらには好ましい語意が備わっている。

翻訳語としての自由は権利と結びついて独自の意味を醸し出すようになった。但し、独自と言いながらも、たかだか百年ちょっとの歴史しか担っていないから、ぼくたちはまだ十分に使いこなしていないようなのだ。先の書物の著者は「(自由ということばの)意味があまりよく分っていないのである。そして、意味がよく分らないことばだからこそ、好んで口にされ、流行するのである」と述べている。

広辞苑では「自由」に、手元の英語の辞書では“free (-dom)”という単語にスペースを割き、多義性を象徴するような解説を延々と連ねている。辞書編纂者の苦労が読み取れる。自由席とはどうやら「特別料金の負担のない」という意味のようである。「わたし、自由になりたい」はどうやら「わがまま三昧」のようである。身近な語句でありながら、未だに用いる人の間に語感のズレのある自由。さて、あなたの求める自由とは何か、あなたはほんとうに自由になりたいのか? “Free(暇)な折りに一度考えてみる価値がありそうだ。

比喩や類比の使いどころ

メタフォーやアナロジーなど、カタカナの魅力にほだされて、ことばの表現は修辞にあると錯覚したことがあった。弁論術や説得術を学んだ人たちにもよく似た経験があるに違いない。比喩は楽しいし、見事にはまれば効果的である。比喩は直喩や換喩や隠喩などに分類されるが、とりわけ隠喩の芸が細かい。この隠喩がメタフォーと呼ばれるものだ。

「うちには手足がいないんだよねえ」とこぼす経営者は隠喩を使っている。経営者が語るから手足は社員のことである(自分は「頭」のつもり)。社員は社員でも、おそらく機動力ないしは実働部隊を意味しているのだろう。なるほど、比喩はわかりやすさを目指すが、テーマとは別の〈参照の枠組み〉を使うので、意図に誤差が生じる場合も当然ありうる。隠喩と似ているのが、類比アナロジーである。類比は〈ABCD〉という構造を持つ。「サル:木=弘法:筆」という具合だ。「サルも木から落ちる」と「弘法も筆の誤り」が類比されている。

「可愛いお子さん」と言いにくいときに「元気なお子さん」、「美人」と言いがたいときに「気立てのよい娘さん」と言うのも、ある種の比喩である。あまりにも使い古されたので、婉曲のつもりで「気立てがよい」と言ってしまうと、「不細工」が暗示されてしまう。気をつけなければいけない。比喩や類比を総称して弁論の世界や文学では〈修辞法レトリック〉と呼ぶ。古代ギリシアから受け継がれてきた伝統的な言論技法である。効果的だが適材適所の技もいる。つい最近、新総理がいきなり「比喩のデパート」と形容したくなるほど三連発したので、正直驚いた。


まずは「ノーサイドにしましょう、もう」から始まった。ラグビーをよく知らないぼくでも一応わかる。しかし、「もう終わりにして握手をしましょう」という表現に比べて、どれほどわかりやすくなったのか、疑問が残る。「ノーサイド」という語感に何となくスマートさを覚えた知り合いもいるが、これがラグビーの試合終了のことであり、試合が終了した時点で敵味方は関係ないという知識を持ち合わせている老若男女は多くない。仮に意味がわかるにしても、党内に敵味方を想定しての比喩を国民に聞かせるべきではない。

この比喩に続いて登場したのが「泥臭いドジョウが金魚のまねをしてもしょうがないじゃん」である。相田みつをにそれらしい一文があると本人が言った。相田みつをの作意は知らないが、これも自身とドジョウの類比に惚れ込んだ結果の勇み足と言わざるをえない(勇み足は相撲の比喩)。ドジョウは泥の中に棲んでいるが別に泥臭くはないし、金魚を食糧にする気はないがドジョウなら食ってもいい。

ドジョウが金魚よりも下位もしくは劣等という意味で使っているようだが、それなら金魚が誰なのか、どんな存在なのかを明らかにしないと、比喩は完結しない。つまり、金魚を特定しないのならわざわざ金魚を引き合いに出す必要はなかったわけで、単に「私はドジョウのように泥にまみれるつもりで政治に責任を取っていく」という、直喩一本で十分だった。

最後に繰り出した比喩が「党幹事ミッドフィルダー論」である。ノーサイドを使ったのだから、ずっとラグビーで押し通せばいいのに、今度はサッカーだ。攻守兼備のミッドフィルダーにたとえていてほんとうにいいのだろうか。「局所ばかりでなく全体を見渡せる政治手腕を発揮してもらいたい」とストレートに表現すればすむ。野球の監督が「土俵際でうっちゃりました」と相撲用語を使うのに違和感があるように、政治家がラグビーだの、ドジョウだの、サッカーだのとたとえるのは場違いだ。もしかすると、党内にラグビー好き、ドジョウ鍋好き、サッカー好きがいたため、党内融和のためにバランスよく比喩を使ったのかもしれない。

新総理はレトリック過剰な弁論術を学んだのだろう。だが、政治は比喩の前に現実であることを強調しておこう。なお、本ブログは政治論ではない。あくまでもレトリックの適材適所の話である。念のため。