ことばの毒性

ぼくたちは自分が発することばの威力と無力に関して勘違いすることが多い。

軽口を叩いたつもりが、軽妙な話として受け取ってもらえず、わざわいになることがある。舌禍の震源はたいてい悪口や中傷誹謗である。悪意はなかったものの歯に衣着せぬ物言いのために招く舌禍もあるし、無知ゆえについ口を滑らせてしまう場合もある。

二十歳の頃から論争術に染まってきたし、外国人とも激論を交わしてきたから、ことばの毒性については重々承知している。かと言って、この毒性を怖がっていると言語による説得が成り立たなくなるのも事実だ。ことばにはハイリスク・ハイリターンの要素がある。毒性という威力に怯えて甘いことばばかりささやけば、今度はことばが無力化することになる。どうでもいい話を交わしたり関係を潤滑させようとするだけの、無機的なメディアに堕してしまうのだ。ノーリスクだがノーリターン。

さりげないことばのつもりが相手を傷つけ、意気込んで伝えようとしたことばが相手に響かない。メッセージは誤解され、あるいは異様に増幅され、あるいは過小に評価される。舌禍を招く人々には毒舌・極論・断言傾向が強い。

「地位が高くなるほど足元が滑りやすくなる」

つい忘れがちなタキトゥスの名言だが、誰かが転んだ直後に要人たちは口を慎むようになる。骨抜きされた論争に妙味はない。


荀子に「人とともに言を善くするは布帛ふはくよりも暖かに、人を傷つけるの言は矛戟ぼうげきよりも深し」ということばがある。荀子と言えば性悪説で有名だが、ここではそんな先入観なしに素朴に読んでおきたい。ことばはきちんと用いれば衣服となって身体を温めてくれるが、ことばが引き金になる傷はほこよりも深くなる、ということだ。

こんな比喩もある。「コトバは、美しくみごとに心の想いを彫刻するペンテリコン大理石であると同時に、『ピストル』でもある」(向坂寛『対話のレトリック』)。このピストルの比喩は、サルトルの「ことばは充填されたピストルだ」を踏まえている。さて、功罪はことばから派生するのか。いや、ことばを使う者によって大理石かピストルに分岐する。

本音でズバズバとものを言うことと、驕り昂ぶって失言するのは同じではない。激論を交わすことと、相手の人格を否定するのは同じではない。節度とルールをわきまえれば、ことばが矛やピストルになるのを防ぐことはできる。舌禍はよろしくない。しかし、過敏症もいただけない。揚げ足を取られないようにと慎重に表現を選び、やや寡黙気味に差し障りのないことばかりを語るようになるからだ。

重要な意思決定の場面でことばをぼかし意見をぼかす人たちが増えてきた気がする。異種意見間で交流しようとすれば、小さな棘が刺さることくらい覚悟すべきだろう。

語句の断章(15) 一般

つい聞き流し読みとばしてしまいそうな、何の変哲もないことば。「一般」はその最たるものだ。それでもわざわざ取り上げるのは、ぼくなりにささやかな気づきがあったから。

この語は「ごく当たり前」という、普通の意味で使うことが多い。たとえば「このコースなら、普通はデザートがつくはず」と言うように。もしデザートがつかなかったら、それは「特殊」ということになる。特殊は一般の対義語である。

「一般的」や「一般化」という言い方もよくする。「弘法大師は空海という名で一般的に知られている」とか「急がば回れという教えを一般化するのは危ない」という具合だ。広く認知される、あるいはおおむね成り立つというほどの意味になる。

まったく関心などないが、再々婚する大物タレントの相手が「一般女性」であると紹介された。また、つい4日前に引退を表明した大物芸人が「一般人になる」と言い放った。さて、ぼくたちが用いる一般と、芸能人が用いる一般、はたして同じ意味だろうか。ノーである。芸能レポーターは、一般女性を「非芸能界的女性」の意味で使っている。芸能人どうしの結婚の話題性に比べれば、一般女性との結婚は記事ネタとしては妙味がない。「お相手は一般女性」という表現に、彼らのがっかり感を窺い知ることができる。

「一般人」も異様に響く。知名度抜群の大物芸人がある日突然一般人になれば、芸人ゆえに差し控えていた訴訟も辞さないというのは奇妙な論理だ。一般人になってもなお中傷誹謗に巻き込まれることを前提にしている。そもそも芸能界に君臨した人物が一般人へとUターンできるのか。「普通の女の子になる」と言ってもなかなか戻り切れないのが現実だ。てっぺんから転落したと本人が言い、明日から一般人であると言った。明らかに落ちぶれるというニュアンスである。天上界の人よ、ようこそ下界へ。

言うまでもなく、特殊が優位で一般が劣位などという決め事はない。一般席、一般職、その他一般、一般教養、ソシュールの『一般言語学講義』、アインシュタインの『一般相対性理論』……。一般、大いに結構ではないか。一般には、等しくすべてのケースに当てはまるという普遍価値が見い出せる。

「座右の銘」考

二ヵ月ほど前に、本ブログで座右の銘について一行だけさらりと書いた。「忍耐と寛容は、三、四番目にランクしているぼくの座右の銘……」というのがそれだ。明らかに複数の座右の銘を想定している。ところが、この直後に「これはキーボードを打った勢いだ」と反省した。座右の銘が複数あると辻褄が合わなくなるのである。

そこで、フェースブックのクエスチョン機能を使って、さほど多くない友達に聞いてみたのである。「座右の銘は一つでなければならないのか、それとも複数あってもよいのか?」という問い。回答は18人。このうち10人が「一つ」、さらに、うち4人が「一つだが、変わってもよい」と答えた。残りのうち6人が「複数でもオーケー」、あと二人が「ケースバイケース」であった。念のために記しておくと、『新明解』には「常に自分を高めようと心がける人が、折に触れて思い出し、自分のはげまし・戒めとする言葉」とある。この定義によれば、一つでも複数でもよさそうなので、ケースバイケースも含めて全回答が妥当ということになる。

三方よしで終わらせてしまうとせっかくのクエスチョンが生かされない。というわけで、初出とされている『文選もんぜん』に再度あたってみた。いにしえのお偉方たちは、新明解が定義するようなことばを鐘や金や石碑などの器物に「刻んだ」のが由来である。簡潔な一文の銘もあれば、一篇の詩句体裁の場合もあった。座右であるか「座左」であるかは、この際あまり重要ではない。


さて、銘は唯一不変か、唯一可変か、それとも種々あってよいものか。単純に考えれば、器物に刻むのは終生変わらないと覚悟したからに違いない。そうでなければ、メモ用紙か何かに書いておけばいい。もっといいのは鉛筆で書いておけばいつでも消せる。しかし、この時点ですでに銘の精神に反している。ある人に座右の銘を揮毫したものの、数年後に人生観が変わったという理由で別の銘を揮毫していては、「いったいどこが座右の銘なのか」と茶化されてもしかたがない。

相手に応じてそのつど座右の銘を変幻自在に書き分けたり唱え分けたりするのも奇妙である。複数の座右の銘を掲げていれば、揮毫を求めてきた相手に応じていずれかを選択することになる。まるで日替わりであるから、良識ある他人は言うだろう、「いったいあなたの正真正銘の座右の銘はどれか?」と。いや、他人の意見などどうでもいい。座右の銘は己への言い聞かせだ。銘として刻もうと心に誓ったのならば、そう易々と取り替えたりキャンセルしたり品揃えしたりしていいはずがない。

もし座右の銘を変えるとなれば、結果的にそれは座右の銘に値しなかったことになる。また、複数あれば銘どうしの間で諸矛盾やニュアンスの相違も起こるだろうから、それらは流動的な好きなことばの域を出ていない。どうやら人生道半ばの若輩にとっては、座右の銘などは不変的に定まりそうもない。「もうオレの人生の教訓は、ただ一つ、これしかない。何が何でも生涯これで生きるぞ」と覚悟を決めた者こそが、座右の銘を刻み謳うことができるのではないか。まだ変わるかもしれぬ、一つに絞り切れぬという状況では、座右の銘は時期尚早なのだ。

未熟なぼくなどは目先の金言格言にのべつまくなしに目を奪われるので、めったなことでは座右の銘などと口走ってはいけないことがわかった。これまで座右の銘だと思っていた教えの数々を、今日から「座周辺のお気に入り」と呼ぶことにする。座右の銘、未だ定まらずである。

語句の断章(14) 業界用語

どの世界にもその世界内でよく知られる共通言語がある。それを業界用語という。専門用語と業界用語には重なりがあるのだろうが、專門ではなく敢えて「業界」と呼ぶことに注目したい。時に「ギョーカイ」と表記されるように、專門よりも軽くて俗っぽいニュアンスが込められる。

ぼくは二十代のほとんどを語学研究業界で過ごし、その後広告宣伝業界に転身した。今は企画と相談と教育に従事しているが、警察や芸能のギョーカイ度に比べれば、コミュニティ特有の用語も少なく、さほどギョーカイっぽくない。ちなみにウィキペディアの業界用語の項目にはおびただしい例が掲載されている。

「市乳」。これまで耳にした異様度ナンバーワンの業界用語がこれである。発音からして異様である。なにしろ「しにゅう」だ。

平成126月、内部告発された雪印事件をきっかけにこの表現が知られるようになった。酪農業界や乳製品加工業界では、飲料として出荷される牛乳を「市乳」と呼んでいる。詳細は省くが、その市乳が工場で汚染されたまま市場に出て食中毒を起こしたのがあの事件。大阪生まれのぼくにとっては、雪印は小学校の社会見学コースの一つであった。一人に一個アイスクリームをくれた。だが、好意的なイメージは一気に失墜したのである。

しかし、「こりゃダメだ」と思ったのは、むしろ市乳というネーミングのほうである。市民に飲ませる乳だから市乳か? 一般市場向けの乳だから市乳か? いずれにせよ、ミルクをお前たちに配給してやっているぞという、横柄な腹の底が見透けてしまった。飲料なのにスマートさを欠く。

飲食業だけにかぎった話ではない。民生商品や特需や業務用などと平気で使っているが、これらの用語も、業界の都合で命名した一種の隠語ではないか。すっかり市民権を得た「顧客満足」にしても業界側の用語である。もう慣れてしまって鈍感になっているが、不遜な物言いではある。羊の皮を借りた顧客満足や社会貢献や環境保全などの四字熟語に、ちらちらと狼の尻尾を見てしまうのはぼくだけか。

ところで、当時の雪印の社長は、記者会見の時間を限ったことに対してマスコミから批判された。その時のあの反論、覚えているだろうか。「そんなこと言ったって、わたしは寝ていないんだ!」がそれ。これで悪評の波紋を広げてしまった。最近の焼肉チェーンもこれに倣ってしまった。挑発してくるマスコミと闘ってはいけない。マスコミを通じて世間が見ている。非を反省する者はつねに世論を見なければいけないのである。

語句の断章(13) 逆説

「パラドックスについて、知っている?」と聞けば、「はい」と答える。次いで、「では、ジレンマとの違いは?」と続けると顔が曇る。ぼくも若い頃はこんなふうだった。何となく違いはわかるが、いざ説明する段になると困惑したものだ。

ジレンマは両刀論法と呼ばれ、陥ってしまうと決断に右往左往してしまう。「ぼくは生涯独身を貫くべきでしょうか、それとも結婚すべきでしょうか?」に対して、「独身は不幸だ。結婚も不幸だ。しかし、きみは結婚しないかするかのいずれかを選ばなくてはならない。ゆえに、いずれにしてもきみは不幸になるだろう」と推論を立てるのがジレンマである。この推論を立てたのはソクラテスらしいが、あくまでも論理学上の三段論法の一つの見本に過ぎない。こんな人生不幸観は現実的ではないのだ。

パラドックスはジレンマとは違う。パラドックスとは「逆説」のことである。当然、何もないところに逆説は生まれない。広く受容されている通説があるからこそ、逆説に出番がある。逆説ばかりを言う人間をアマノジャクとさげすむ傾向があるが、数えきれないほどの定説や正説が逆説によって覆されてきた。それが歴史というものだろう。

正しいと見なされている通説が危なっかしい時に逆説は唱えられる。たとえば、「疲れたらアタマを休めよ」にぼくたちは納得する。ずっとそう言われてきたしそうしてきたからだ。しかし、さほど疲れが取れないことにも気づく。そこで、「疲れたらアタマを使え」という逆説を実践してみる。実際、こうして成果を上げている人が大勢いるのも事実なのである。正確に言うと、「仕事Aで頭が疲れたら、仕事Bに頭を使え」。疲れたら何もしないのではなく、疲れたら対象を変えるという発想だ。

「負けは負け」なのに、「負けるが勝ち」と敢えて逆説を立てる。するとどうだろう、どう考えても表現的に奇妙な説からふつふつと真なるものが浮かび上がってくるではないか。「急がば回れ」も「急がば急げ」に対する逆説だったに違いない。一見真理に反するようだが、こちらも真理っぽいぞというのが逆説である。発想法の一つとして、頭が疲れたら逆説を唱えてみたらどうだろう。

一行と一冊の比較

読みやすく、すうっとアタマに入ってくる本は心地よい。文章表現が大いに関係する。けれども、どんなに平易な文章で書かれていても、不案内の事柄は難解である。読んでいてわかりやすいと感じるのは、書かれている内容にすでに精通しているからにほかならない。

「知っている」という確認だけに終わる読書であっても、記憶の強化には若干役立つだろう。しかし、知を広げるためには「知らないこと」に挑まなければならない。知らないことが書かれている本は、読んでも内容がアタマに入ってこないし、なかなか辛抱して読み続けることができないし、すぐに眠気も催してくる。これらの本は悪書かもしれないので、「さっさと読むのをやめてしまいなさい」という読書の専門家もいる。

しかし、少々読んでもわからないのは、その方面の知識に弱点があるからだ。ギブアップしていたら、永久に縁も取っ掛かりも生まれない。取っ付きにくいという理由だけで書物のセレクションをしていれば、永久に知らないことは知らないままである。時には、わからないのは自分のせいであると、己の識見に警鐘を鳴らしてみることも必要ではないか。


ところで、ぼくは本をよく買う。買った本のすべてに目を通すような精読をしているわけではない。基本は拾い読みで、多読と併読である。多読・併読を経て再読に値する書物だけを月に一冊ばかり取り上げてじっくりと読む。そのときはノートも取るし批評もする。できるかぎり自分の過去の、ちっぽけかもしれない知の体系に照らし合わせて縦横無尽に読む。但し、これは多読・併読という分母の大きさがないとうまくいかない。

こうして読書をしているうちに、一冊の書物中に一冊全体の重みと等価と思える一行の文章なり箴言に出くわすことがある。一つの文章、一つの語句との邂逅が〈知軸の転回〉を生じさせたり〈知圏の磁場〉を動かせたりする。重々承知していることであっても、たとえばフランツ・カフカの「人間のあらゆる過ちは、すべて焦りから来ている。周到さを早々に放棄し、もっともらしい事柄をもっともらしく仕立ててみせる、性急な焦り」ということばによって、認識がさらに深まる。

しかし、短文テクストを読み解くときは注意せねばならない。ぼくたちは自分の都合に合わせて「勝手読み」するからだ。ことわざや格言や座右の銘の本意を理解するのは、案外手間暇のかかることなのである。場合によっては、一冊の本を文脈コンテクストとして絡め取らねばならない。点は付き合いやすい一方で、点ゆえに位置取りを見極め、他の点と繋ごうとする努力も怠れない。一行の読み方と一冊の読み方には関与の仕方に大きな違いがあるように思う。

語句の断章(12) 腰

「重要」という文字を書くたびに「腰」という文字が浮かぶ。そこに「かなめ」があるからだ。人の身体部位のうち、重さと軽さ、強さと弱さ、高さと低さという特徴をすべて比喩的に使えるのは頭と腰だけではないか。つまり、腰は豊かな表情を備えた〈かなめの文字〉なのである。

☆    ☆    ☆

腰が重い 疲れから腰あたりが何となく重く感じる。そんな症状ならマッサージである程度改善できる。深刻なのは、無精ゆえに機動力がなくなるという意味での腰の重さのほうだ。ぐずぐずして腰が重くなる症状は、中国整体でも指圧でも鍼灸でも治せない。

腰が軽い では、機動力をつけようと腰を軽くするとどうなるか。今度は落ち着きがなくなってしまう。身の軽やかさという意味がなくもないが、軽率というニュアンスが強くなる。「腰軽こしがる」は決して褒めことばではなく、「尻軽」に近づいて淫らになってしまう。

腰が高い 「足が長い」と言う代わりに、「腰高である」と遠まわしに足の長さを自慢する人がいる。とても図々しく響く。それもそのはず、腰が高いとは他人に対する態度が尊大で横柄なことを意味する。「が高い」の類義語である。

腰が低い 腰の位置が低い人は、身体特徴的には足が短いということになる。しかし、性格態度的には低姿勢となり、謙虚さをうかがわせる表現になる。なお、念のために付け加えておくが、短足の人が謙虚だという証明はまだ成されていない。

腰が強い 白鵬は腰が強い。しかも、強敵相手にも易々とは屈しない。肉体としての腰の強さだけではなく、氣が横溢する強靭さすら思わせる。これが転じて餅やうどんの粘りやアルデンテを意味するようになった。

腰が弱い うどんなら、ふにゃふにゃで粘りや腰がないさま。人好き好きだから、この種のうどんも好まれる地域がある。但し、腰の弱い人間はいただけない。信頼性に乏しいからだ。外圧に抗うすべもなく、意気地がなくうろたえる。

☆    ☆    ☆

あらためて腰という文字を眺めてみる。にくづきに要、つまり「身体のかなめ」。上半身と下半身のくびれている部分を、その昔はこしと呼んでいた。と言うことは、くびれのない身体には腰がないことになる。腰が腹に吸収合併されることを、現代では「メタボ」と呼ぶ。

語句の断章(10)脱衣

もう二ヵ月前だろうか、テレビで珪藻土から足マットを作った左官屋さんが紹介されていた。梅雨の季節、風呂から上がって布か樹脂のマットに濡れた足を置く。脱衣場のじめじめしたマットは決して気持のいいものではない。その代替に珪藻土を固めたマットを作った。「マットは柔らかいもの」という固定観念へのチャレンジだ。

それにしても、「脱衣場」とは奇妙な表現である。銭湯でも家風呂でも、服を脱いでから湯に入る。脱衣とはまさにこのことを指し示すことばである。しかし、風呂から上がれば、そこはもはや脱衣場ではない。一糸まとわずに風呂に入っていたのだから、それ以上脱ぐものは何もない。ゆえに、風呂から上がれば、そこは「着衣場」でなければならない。着衣せずに銭湯から帰ってくると猥褻行為で逮捕されてしまう。

着衣の場でもありながら、なぜ脱衣の顔だけを立てるのか。おそらく、こと風呂に関するかぎり、着ることよりも脱ぐことに注意が向けられている証拠だ。あるいは、かつて番台が客の着衣行為よりも脱衣行為に大いに関心を寄せた名残りかもしれない。

ところで、アパレルの店では「試着室」という。ここでは、関心が着ることに寄せられている。着るのを試してもらい買ってもらわねばならない。しかし、あの狭い空間でいきなり試着することはない。まず身につけているものの一部を脱がねばならない。脱いでから試着するものである。

脱いだからには着なければならず、着るためには脱いでいる状態が前提になる。したがって、銭湯も洋装店も、これからは「脱着衣場」あるいは「脱着衣室」と呼ぶべきだろう。

語句の断章(11) 観照

何となくわかるので、わかったつもりになって何十年も放っておいた単語、それが「観照かんしょう」である。

現象学の哲学者がよく使う。美術の本にも出てくるし仏教関係の本でも何度か見ている。一番理解に苦しんだのが、『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』の一節、「感性は地上のものである。理性は観照するとき感性の外に立つ」だ。「観察して照らしている」から、本質をよく捉えることだろうくらいの理解で済ませていた。

よくよく考えたら、ダ・ヴィンチ自身が観照という日本語を使ったわけではない。だから翻訳文の理解に悩むくらいなら、原典にあたるのがいい。まさか原本が手元にあるはずがないので、英語版の『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』(Notebooks of Leonardo da Vinci)を調べたら、「観照する」に相当する用語が“contemplate”となっていた。「凝視する」とか「注意深く観察する」という意味だ。英和辞典には「熟視」と訳しているのもある。

この動詞は現代イタリア語では“contemplare”で、辞書にはちゃんと「観照する」という訳も掲げられている。「瞑想する」という意味もあるが、これはダ・ヴィンチの手記の一節の訳としては当てはまらない。そして、この動詞からラテン語に遡ってみると、「吉凶を占う場所で十分に観察する」というのが原義であることがわかった。吉凶を占う場所とは「天空が開けている場所」を指す。

するとどうだろう、「感性は地上のものである。理性は観照するとき感性の外に立つ」と言ったダ・ヴィンチの真意が何となく理解できるではないか。感性の外とは地上ではなく天空のことなのに違いない。「理性は感性の限界を補う俯瞰や見晴らしをもたらす」というような意味のように思われる。

なお、ぼくはことば遊びをしているだけであって、衒学的追究をしているのではない。念のために付け加えておくと、このように執拗に単語の意味を追い求めても文章の意味がわかる保証などないのである。個々の単語が文意を担うのはたしかだが、それ以上に文章や段落が単語の意味を変容させる。これはまるで個人(単語)と組織(文章)の関係にそっくりだ。

語句の断章(9) 知見

わざわざこんな単語を使わなくても他のやさしい類語でいいのではないかと感じる時がある。いぶかしんで意図を突き止めたくなる。「知見ちけん」もその一つだ。

別に意見や見解や見識でもいいのではないかと言いたくなるが、意見と見解を分別できている自信はない。〈意見⊃見解〉、つまり意見が見解の上位集合らしきことは何となくわかる。見解のほうがフォーカスしている感が強い。見識は、見解に質の高い判断力を足したようなイメージだろうか。

少々小難しい本を読んでいると、著者が「私の知見では」などと言う。「私の意見では」とするのはダメなのか。辞典を調べて本の文脈にあたってみると、「なるほど、ここは知見でなくてはならない」と納得する。そんな著者は適語を選択しており語感もすぐれているのだろう。そうでない著者はたぶん「見せびらかし」に酔っている。

知見は「見聞に裏打ちされた意見」のことである。必ずしも体験でなくてもよさそうだが、実感が漲っていて「よく身につけている自信」を感じる。意見と知見を対比させると、意見は私見に近くて揺らぎそう。それが証拠に、発言直後にすぐ取り消されるのが意見の常だ。知見には筋金が入っていそうである。以上はぼくの”愚見”である。

なお、愛用している類義語辞典では、〔意見――ある物事について持っている考え〕を共通の性質として、次のような単語が列挙されている。

考え、論、意見、けん、所見、見方、観、見解、知見、了見、見識、一見識、一家言、私見、私意、貴意、高見、卓見、達見、達識、愚見、卑見、管見、浅見、探見、定見、偏見、僻見へきけん僻目ひがめ謬見びゅうけん臆見おっけん、創見、先入観、先入主、成心、色眼鏡、異見、異存、異議、異論、故障、主観、人生観、世界観、史観、政見。

どうだろう、知らなかった、知っていたが使えそうもないのがかなりの数あるに違いない。驚いたのは「故障」だ。故障とは「異議や反対意見」のことらしい。たしかに、「機械の故障」は機械による異議申し立てであり持ち主に対する反対意見ではある。

上記の中では「創見」が新鮮に見えた。「独創的な新しい考え」のことである。さっそくどこかで使ってみようと思うが、話しことばで使うと「総研、送検、壮健、双肩」などと同音異義語が多いからまず伝わらない。「爽健美茶」の略語と思われる可能性すらある。