2018年の年賀状

変わらぬ事業テーマは「コンセプトとコミュニケーション」。見えざるものを言葉にし、形にするのを使命としている。

発想の源やきっかけはいつの時代になっても書物だと考える。
検索すれば誰もが情報にアクセスできるウェブと違い、書物は透徹の選択眼を求める。差異化とは少数派に属すこと。ゆえに、紙の書籍を読まねばならない。

出版界が厳しい状況に置かれて久しい。ベストセラーとされる十万部超えは年に三百冊程度、発行点数全体の〇・三八パーセントにすぎない。読書人口を一億人とすれば、ベストセラーとは千人のうちわずか一人が読む本。ある意味で希少本なのである。

ほとんどの本は売れない、読まれない。企画されたものの世に出ない原稿も数え切れず。《架空図書館》にはおびただしい蔵書が眠る。売れない、世に出ない本には題名や主題の問題があり、著者の動機も独りよがりで、読者層の想定間違いも多い。

『あるもの、ないです』
クラフト・エヴィング商會が著した『ないもの、あります』(ちくま文庫)という渋い本がある。「思う壺」や「転ばぬ先の杖」や「一本槍」など、実在しないものが並ぶ。ないものなのにまるであるような錯覚に陥りそうになる。この本にヒントを得て『あるもの、ないです』を構想した人がいる。しかし、あるものがないのは単に商品の在庫切れのことだと気付いた。今のところ原稿はまだ一枚も書かれていないらしい。

『漫(そぞ)ろ働きのすゝめ』
スローライフやスローフードがあるのだから、スローワークがあってもいい。スローウォークの「そぞろ歩き」に倣えば、スローワークはさしずめ「そぞろ働き」だ。ありえないテーマではない。ところが、大半の富裕層や気楽なフリーターはすでにそのように働いているし、少なからぬサラリーマンも日々そぞろ働きを実践している。本書はサボリを奨励することになりはしないかと懸念され、出版が見送られている。

『あなたは犬ではない』
漱石の『吾輩は猫である』の主題と二項対立関係になる小説。著者は漱石の名作が”I Am a Cat”と訳され、原題の吾輩のニュアンスが出ていないことに失望した。将来英語の出版を視野に入れ、自作を訳しやすい表現にすべきだと考え、『あなたは犬ではない』というベタな題名にした。たしかに”You Are Not a Dog”と自動翻訳は完璧である。

『続・花火』
出版界にもパクリや便乗商法がある。本書はミリオンセラーの『火花』にあやかり、しかも「続」をかぶせた。ベストセラーのにわか読者が勝手に続編だと勘違いしそうだ。夏の風物詩をテーマに小説を書くには一工夫必要だが、日本各地の花火大会の写真集なら編めなくもない。万が一売れたら、『続・花火』の後に『花火』が出ることになる。

『私は一着しか服を持たない』
パリの暮らしの知恵から生まれた『フランス人は10着しか服を持たない』という本が話題になったが、10着は多いほうだから「10着しか」という表現はおかしいとケチがついた。そこで、本書は思い切りよく「一着」とした。着た切り雀の話ではない。新しい洗濯表示がわかりにくいため、一着にすれば混乱はないという提言である。結局、服の話ではなく、洗濯の話になってしまった。

『ダジャレ四字熟語集』
生命保険会社が毎年創作四字熟語を募集している。パロディやダジャレは元の熟語を知っているからこそ笑える。所詮、たわいもない言葉遊びであるが、漢字だけに、発音の一致だけでなく見た目も重要。以心伝心は「異心電信」、経済社会が「軽財斜壊」という具合。だが、一作だけ応募するのとは違って、そう簡単に本一冊分創作できるはずもなく、現在「サ行」で苦闘中。

『やっぱり「やっぱり」ではない』
あまり知られていないが、『偽書百選』なる本が文藝春秋から出ている。著者は垣芝折多(おそらく仮名)。所収されている偽書に『もはや「もはや」ではない』がある。この題名がテンプレートとして優れているという。『今度こそ「今度こそ」ではない』、『きっと「きっと」ではない』、『つまり「つまり」ではない』など、まったく苦労せずに題名ができてしまう。

『架空人名大辞典』
『世界文学にみる架空地名大事典』(講談社)からヒントを得た本である。架空だと思って人名をせっせと収録したのだが、ほとんどが実名として存在していることを初稿段階で指摘され、企画が頓挫している。

『モノガタリスギテ』
飽和の時代をテーマにした「モノが足り過ぎて」という物語。全文カタカナ表記が奇抜だが、「カタカナ・漢字照合表」を別冊付録にして読みづらさを緩和した。しかし、それなら最初から漢字仮名混じりでよかったのではないか。出版取次が嫌う本である。

AIに負けない生き方』
人間の仕事が人工知能に脅かされている。勝てないまでも、負けないためのハウツーを網羅したのが本書。第1章「アルゴリズムvsアドリブ」、第2章「ディープラーニングvs軽めの学習」など、人間らしい対抗策を説く。決め手はあとがきだ。「本書通りに実践しても負ける時があります。しかし諦めてはいけません。いざとなればAI搭載機器の電源を切ればいいのです」。

男の作法「知性」

池波正太郎『男の作法』の書評、最後は知性と生き方のことをアラカルト風に。

本とメモ  企画術や仕事術の話をした後に、受講生から読書の方法についてよく聞かれる。義務教育で教えられていないから、いい歳になって他人に聞く。「好きなものを好きなだけ読んで自分流の読書をすればいい」と伝える。そっけない返事だが、それ以上でもそれ以下でもない。読むべき本を推薦するなどもってのほかである。

「本を読むのは千差万別ですよ。あらゆるものを読んでますよ。(……)本をたくさん読んでいくうちにね、おのずから読みかたというものが会得できるんですよ。」

この通りであり、これしかない。ぼくの経験から言うと、十代・二十代のある時期に二、三年間手当り次第に数百冊を読めばだいたいわかってくる。やがて趣味や仕事が明確に絞られるようになると、何をどう読むべきかがおのずから見えてくる。読書の質を云々する前に、かなりの冊数を読破せねばならない。中年には手遅れで申し訳ない処方箋だが……。

メモについてはさほど熱心ではなく怠け者だと池波は言うが、やったほうがいいと勧める。メモやノートの類いは単なる備忘録ではなく、文字を連ねることによる知の劣化防止だ。覚えようとしなくても、自ら書いた文章を読み返せば記憶が再生される。最近ぼくは覚えることよりも、覚えたことを思い出すことに意義を見出すようになった。「愛読書は?」と聞かれたら、躊躇せずに「ぼくの書いたノートやブログ」と答える。

小道具  若い頃から万年筆に憧れていた。大した稼ぎもないのに、なけなしの金をはたいて買っていた。一本あれば十分なのに、店頭で見るたびに垂涎の思いに駆られたものだ。それほど万年筆には愛着があるので常時使うようにしている。だから、次の考えに異論はない。

「万年筆だけは、いくら高級なものを持っていてもいい。(……)そりゃあ万年筆というのは、(……)男の武器だからねえ。(……)高い時計をしてるより、高い万年筆を持っているほうが、そりゃキリッとしますよ。」

時計と万年筆なら万年筆に決まっている。池波の言う「高級」は五万や十万やそれ以上の値段のことだから、誰にでも当てはまるものではない。数千円から十万円超の万年筆を各種持っているが、高級であることと書き味、握り具合、見た目は比例しない。インクや紙や、もっと言えば、字の巧拙も関係する。使わずに見せびらかすだけの高級な万年筆が武器になるはずもない。長年使い込み、しかもよく手入れをしている万年筆が値打ちを漂わせるのである。革の手帳にも同じことが言えると思う。

生き様  「他人の休日に働き、他人が働いているときに休む……というのが、ぼくの流儀なんだ。」

ぼくがサラリーマンを辞めた理由の一つがこれだった。仕事の中に、ほんの少しでもいいからマイペースと自分流が欲しかった。生き様というのは個人が決めるもの。混雑や群れを避けて一人のプライムタイムを持つのは固有の生き様にとって必然である。

「他人に時間の上において迷惑をかけることは非常に恥ずべきことなんだ。(……)自分は何をやったっていい。だけど他人との接触においては一人の社会人としてふるまわなければならないわけだ。」

その通りである。約束は守るべし。半時間待たされるということは半時間失うことに等しい。不可抗力で約束を破らざるをえなくなったり遅刻したりしても言い訳をせず、詫びて謝るのが作法である。

「現代の若い人たちを見ていて感じることは、(……)プロセスによって自分を鍛えていこうとか、プロセスによって自分がいろんなもんを得ようということがない。」

またまた同意する。結果主義の時代、人はつまらなくなってしまった。プロセスが鍛錬の場でありゴールそのものであるケースは稀ではない。旅などはまさしくそれだろう。旅先よりも旅路そのものに意義がある。

「どんな仕事だって(……)努力だけじゃ駄目なんだ(……)一種のスポーツのように楽しむ。」

一所懸命は愉快だからできるわけであって、愉快のない仕事は長続きしない。仕事にコミットすること自体が楽しくなくてはいけない。ぼくの仕事はワークシェアとあまり縁がなく、たいていのことは自分に始まり自分で完結する。孤独であり厳しいが、自助自力でする仕事の楽しみは格別である。

さて、池波作法のあるものはアンチテーゼ、別のものはアマノジャクのように響くかもしれない。この本が書かれてから四十年以上経った今、無粋にして男気のない男どもがいっそう増えたからにほかならない。

男の作法「身だしなみ」

池波正太郎『男の作法』。以前書いた書評から、前回の食に続いて、今日は身だしなみ。

「身だしなみとか、おしゃれというのは、男の場合、(……)自分のためにやるんだね。根本的には、自分の気分を引き締めるためですよ。(……)自分自身のために服装をととのえるということが大きな眼目なんだな。」

若い頃に教えられたのはズボンの折り目。学生時代からアイロンがけは自分でしていた。母親に頼んだことは一度もない。実際、ズボンのしわは今も気になる。最近のスーツのズボンはパーマネント加工されていてしわがつきにくく、あまり熱心に手入れしなくなった。

クールビズが定着して以来、男どもは5月から10月頃までネクタイをしなくなった。男ができるおしゃれは一番目につくネクタイくらいなのに、夏場のおしゃれ機会が失われた。それどころか、年中ノーネクタイで通す業界人やサラリーマンも少なくない。それが個人や企業の主義なら徹底すればいいのに、冠婚葬祭になるとネクタイを着用する。中途半端な主義だ。冠婚葬祭の作法とコードが気になるなら、得意先の作法とコードにも従うべきだが、仕事になると自分のコードで押し通す。世の中にはノーネクタイをだらしないと考える硬派な経営者もいるのだから、気遣う必要がある。

「自分の締めるネクタイを他人まかせにしてるような男じゃだめですよ。」

ぼくは古くなったネクタイを頃合いを見て処分するが、スーツの色に合いそうなものは解体してポケットチーフにしている。それでも常時数十本吊るしてある。ほぼすべて自分で選び買ったものだ。一本3,000~5,000円がほとんど。それ以上払っても質はさほど変わらないことを経験的に学んだ。高級ネクタイの値段の70パーセントはブランド代なのだから。

一本2、3万もするようなネクタイを飲み屋でもらったことはあるが、一度も着用したことがない。誰かにあげた。ネクタイはスーツに合わせて買うもので、ネクタイ単体だけで色がいい、柄がいいなどと言えるものではない。第一、好みというものは他人にはなかなかわからない。

「色の感覚というのを磨いていかなければならない。絵心とまでいかないまでもね。(……)自分に合う基調の色というのを一つ決めなきゃいけない。」

付け加えると、二色でカラーコーディネートしていれば、センスはさておき、一応落ち着いて見える。池波は「ネクタイ、ベルト、靴」の色系統を合わせろとうるさい。この縦三点の色の系統が合ってさえいれば、スーツは薄いベージュや紺やチャコールグレーでもいいと言う。もっとも男の靴とベルトは茶か黒と相場が決まっているから、神経質になるとネクタイも茶か黒になってしまう。正しく言えば、茶系統とその他(紺系統やグレー系統)という感覚である。

「スーツでもっともむずかしいのはストライプなんだ。」

恰幅のよくない日本人にストライプのスーツは向かない、どうしても着たいなら、縞のシャツに縞のネクタイだけは避けろと言う。ストライプのスーツならシャツは無地。ネクタイも無地がよく、せいぜい曲線の地味な柄になる。ストライプもそうだが、チェック柄もこなしにくい。シャツは白で決まりだが、合わせるネクタイが悩ましい。

普段着は難しい。普段着のTPOが多様だからだ。いつ頃からか、洋服に迷ったらスーツを着ることにした。普段着よりもスーツのほうがわかりやすい。スーツがまずまず着こなせればシニアの身だしなみとしては一応合格ではないか。

男の作法「食」

時代劇を好まないので小説は読んだことがない。作家としてではなく、玄人はだしの画人のほうに関心があった。だから、自筆の挿絵入りエッセイはだいたい読んでいる。先日のこと。雑談の中で作法の話が出た。流れで男の作法にも展開した。「いい本がある」と勧めた直後にふと思い出した。「そうそう、以前まとめた書評があるので、まずそれを読んでみたら」とプリントした。自分でももう一度読み返してみた。

池波正太郎の『男の作法』がそれ。インタビューに応じた語り下ろしで、十年前まで愛読書の一冊だった。何しろ池波正太郎(1923~1990)である。彼の生きた時代の男の作法である。「男というものが、どのように生きて行くかという問題は、結局、その人が生きている時代そのものと切っても切れないかかわりを持っています」と池波は語る。それでもなお、心しておいていい作法がないわけではない。歳相応の「いき」のヒントが見つかるかもしれない。

そば、てんぷら、鮨など食の薀蓄が切れ味よく披露される。

 「そばは二口、三口かんでからのどに入れるのが一番うまい。唐辛子はそばそのものの上に振っておく。」

日本全国にそば処がある。山形の箱そばを食べる際には、ワサビをそばに塗りつけて、つゆにつけずに二、三口食べるのがいいと言われた。そもそもうまいそばはアルデンテだ。そして、噛み過ぎてはまずくなる。中部・関東以北のつゆは濃いからつけ過ぎない、関西では淡泊だからたっぷりつけてもいい。

「てんぷら屋に行くときは腹をすかして行って、親の敵にでも会ったように揚げるそばからかぶりつくようにして食べなきゃ。」

強く同意する。てんぷら屋に数人で行って打ち合わせするなどはもってのほかだ。会合には向かない。彼女と二人で行っても話などせず、黙々と揚げたてを食べるべし。

酒やビールを飲みながらてんぷらをつまむのもよくない。お通しを前菜にして酒かビールを先に済ませる。その後はてんぷらに集中するのがいい。食べたらさっと店を後にする。最近はデザートを出す店がちらほらあるが、そんなものはいらない。

鮨屋の作法は何歳になっても難しい。行きつけの店ならいいが、一見だと店の仕切り方と値段が気になる。テーブル席のある店はさほど値が張らない。常連はカウンターに座るから、そういう店ではテーブル席について、 「おつまみ少しとビール。その後に一人前お願いします」と注文すればいいと池波は言う。銀座あたりだと、それでも1万円超になるかもしれないが、それが気に入らないなら銀座に行かなければいいだけの話。

なお、格のある寿司屋は“通”ぶる客を喜ばない。醤油のことをムラサキ、お茶のことをアガリなどと、鮨屋仲間の隠語を客が使うことに異議ありと池波は言う。客が「お茶ください」と言い、店主が「はい、アガリ一丁」が自然である。本来店側のことばである「おあいそ」をぼくは言わない。「お勘定してください」である。

わかりやすさの限界

根がやさしいことは理解できるし、わかりやすく説明もできる。しかし、本来難しいことやわかりづらいことをわかりやすく説明することには限度がある。いまチンプンカンプンなことが、わずか数分間の説明だけで謎が一気に解けるようにわかるのは稀だ。

難しい話を池上彰がやさしくわかりやすく説明する。ずっとわからなかったことが一瞬にして腑に落ちたとゲストのタレント連中が口を揃える。しかし、時事問題も含めて世界の事象には一朝一夕でわかるようなものはほとんどない。わかるためにはかなりの知識の下地が求められる。

☆     ☆     ☆

万事が人知を超える難物なのである。わかったという場合、たいていは砂浜に近い海辺の浅瀬に足を踏み入れた程度にすぎない。わかりたいという情熱に突き動かされることは重要だが、わかりやすさを求めているかぎり、どこまで行っても入門程度の理解にとどまる。所詮自己満足なのだ。それどころか、わかりやすさの甘い味を一度覚えてしまうと、その後に遭遇する難しさが増幅することになる。

わかることは大変なことなのだと再認識しよう。もっと言えば、そうやすやすとわかってたまるもんか……他の誰かがわかるようなわかり方に満足してたまるもんか……と意地を張ってみようではないか。一見逆縁のように見えるかもしれないが、そんな姿勢が順縁として学習哲学に反映する。

やさしい説明や実用的にすぐにわかるような方法に手を染めてはいけないのである。近場の水遊びで満足してはいけない。浅瀬でわかっても、少し岸から離れた次の段階ではわからなくなる。理解への道は永遠に大海原をさまよう旅に似ている。大海原の難しさを知れば知るほど、浅瀬のわかりやすさのつまらなさに気づく。

読書という難問

他人が連ねた文字列を読んで意味を解する。実は、驚嘆に値する行為である。もう慣れてしまったから平然とこなしているが、はたして文字に込められた誰かの意図を意味としてあぶり出しているか、かなり怪しく、心細い。読むという行為は人それぞれ、読書論も十人十色。読んだ気になるのも読んだ振りをするのも、とりあえず読了にしておける。

本と読書にまつわる名言を集めたことがある。すべてに納得し実践しようとすれば矛盾にまみれてしまう。ノートからいくつか書き出してみる。

「反論し論破するために読んではならない。信じて丸呑みするためにも読んではならない。話題や論題を見つけるためにも読んではならない。ただ熟考し熟慮するために読むのがいい」(フランシス・ベーコン)

「君の読む本を言いたまえ。君の人柄を言い当ててみよう」(ピエール・ド・ラ・ゴルス)

「書物から学ぶよりも、人間から学ぶことのほうが必要である」(ラ・ロシュフーコー)

「新しい書物の最も不都合な点は、古い書物を読むのを妨げることだ」(ローラン・ジューベール)

「地上の楽園は、女の胸と馬の背中と書物の中にある」(アラビアの諺)

一つにまとめると、「読書は考える素材であり……本は人柄を作り……しかし、人から学ぶことが先決で……仮に読書するにしても、新刊書ばかり読んでいると古典を読まなくなり……などと言うものの、書物の中に入ればそこは楽園である……」ということになる。

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手に入れる書物には本陣の本と外濠そとぼりの本があるとかねて考えてきた。本のテーマが自分と何らかの関わりがあると判断したり直観したりして買うのが本陣の本、他方、自分との接点を感じることがないままに、好奇心にそそのかされて衝動買いするのが外濠の本である。

夏場に古本屋でまとめ買いした本はすべて外濠だった。たとえば、動物や昆虫に関する本は仕事の守備範囲ではない。しかし、書棚に並ぶその数は十冊や二十冊では済まない。そういう類いの本を意外と読んできたのだ。では、別の日に本陣の本をせっせと買い込んでいるのかと言えば、決してそうではない。本陣がいったい何なのか、ぼくは未だよくわかっていないのだ。冷静に読書人生を振り返れば、何もかもが外濠だったかもしれない。

読書の秋と世間で言う。最近は拾い読みばかりで、熱が入らない。さて、ルノワールの『読書する女』のように読み耽ってみようと書棚から数冊取り出したが、読書への意識が些事への意識を封じることはできるだろうか。

語彙と意味のつながり

単語を増やせば語彙を増強したことになるか。残念ながらノーである。孤立した単語をいくら集めても活用はできない。言語は単語が集まって運用されるのではなく、「ことばのネットワーク」として初めて機能する。ことばのネットワークとは、正確に言うと「意味のネットワーク」なのだ。

広辞苑にはおよそ20万の見出し語が掲げられている。そのすべてをUSBに取り込むとしよう。そのUSBを脳に埋め込めるとして、はたしてこれで明日から思うままに単語を使いこなせるようになるだろうか。そうはならない。ことばは勝手にネットワークになってくれない。結局、脳に搭載された単語を並べ立てるだけに終わり、意味を形成することはできない。

生半可な覚悟では語彙は増えない。いろんな表現を使ってみたい、もっと思いに近いことばを見つけたいというのは素朴な願いだが、願いを叶えるのは、強い動機と並々ならぬ情熱にほかならない。

☆     ☆     ☆

意味のネットワークを構築するように語彙を増やすにはどうすればいいか。まず、ぼんやりとした思いや考えをひとまず書いてみる。拙くてもいいから書く。喋る時に比べて書く時のほうが工夫をするものだ。次に、おそらく書いた文章に満足できないだろうから、表現を言い換えてみる。類語辞典を参考にすればいいが、置き換えてもなおすっきりするとは限らない。

個々の単語単位で置き換えても、依然として単語は文章の中の部品に過ぎない。冒頭で書いたように、ことばは意味のネットワークである。文脈の中で他の単語との関係において適所に収めなければ、なかなかこなれてこないのである。文中において語彙がこなれるためには、コロケーションという連語に精通しなければならない。たとえば、耳ということばとしっくりくる動詞は「耳をつんざく」「耳を傾ける」「耳をすます」という具合。

また、単語はオリジナルの意味から転移して、文章内で比喩的に使われる。たとえば、富士山の山はご存じの山だが、「山を越す」と言うと、比喩的に「仕事のピークを終える」ことを意味する。山にはすでに比喩が埋め込まれているのである。諸々の単語はこのように、他の単語とつながってネットワークの中で多様な意味を持つ。

今使おうとしている単語と、それとつながる別の単語との相性関係に目を凝らす。これができてこその語彙力である。英語の受験勉強の時のようにいたずらに語数を増やすだけではいかんともしがたい。一つの単語を追い掛けるのではなく、単語と単語が織り成す意味を理解して表現オプションを増やさねばならないのである。

説明の加減

加減とは調ととのいとしつらえの状態を表わす。あることの具合が快ければ「良い加減」と言い、プラスの意味になる。しかし、「いい加減」となると意味はマイナスに転じる。おざなりで、でたらめで、中途半端なさまでだ。

昨今将棋の人気が高まっている。おびただしい将棋ソフトが開発され公開されている。最上級のソフトは最先端の人工知能を搭載し、プロをも脅かすほどのレベルに達した。そのレベルには到らないものの、アマ上級者が太刀打ちできない無料ソフトがいくらでもある。先日、アマ二級~初段レベルのソフトを見つけ、指してみたら余裕で何連勝かした。将棋のルールが3ヵ条に要約されて説明されている。

1  王を取ったら勝ち
2  取った駒は好きな場所に打てる
3  敵陣に入ったら成ることができる

☆     ☆     ☆

将棋を嗜む者にとっては、上記の3つのルールは説明されるまでもない。こんなルールよりもパソコン上での駒の操作のほうが重要だろう。他方、将棋の入門者はこの3つのルールを知っても将棋は指せない。何ヵ月か熟達者の指導を受けないと、このソフトが使るようにはならない。

1  たしかに王を取れば勝ちだが、王の取り方がわからない。自陣の駒の動かし方がわからなければ、王を取るどころか、敵陣にも入り込めない。
2  取った駒は好きな場所に打てる? いや、好きなマス目に必ずしも置けないのだ。飛車と角と金銀はどこにでも打てるが、敵の駒がある所に重ねて置けない。歩と香車と桂馬は盤の最上段には置けない。
3  敵陣に入ったら成ると言うが、この「成る」という意味が初心者には理解しがたい。成るとは駒が裏返って本来の能力をアップすること。なお、王は敵陣に入っても成ることはできない。

以上のように補足しても将棋は指せない。良い加減の説明が難しい。駒の動かし方は基本の基本だが、覚えてから将棋を指せるようになるまでの道のりが長いのである。そんな将棋を4、5歳までに覚え、小学生でアマ高段者の大人と互角に戦うようになるプロのタマゴの天才ぶりは驚嘆に値する。

新しさと古さと

古色蒼然とした歴史的建造物が修復されてよみがえる。たいてい新しい建築素材が使われ壁などは見違えるように美しくなる。美しくなるとは真新しくなることだ。真新しいのに歴史的。複雑な気持ちになる。真新しさが歴史の情趣をいくばくか減じるのはやむをえない。

それでも、壊して建て替えるよりはいい。歴史に敬意を表するがゆえの修復である。築地市場がなくなって豊洲市場として一変し、名も形も消えたのは無念である。少なくとも名か場所のいずれかは残るべきだった。建て替えるにしても、かつての場所に建つのなら記憶に残る。移転しても、歴史を背負った名を継承して何がまずかったのか。

かつての面影を残しながらリニューアルした街並みにずいぶん足を運んだ。金沢や飛騨高山の歴史的街並みは、出来立てのテーマパークのように思えた。建築と街並みの修復後の真新しさに失望し、そういう方法以外に何かないものかと素人ながらに思った頃がある。

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今はちょっと見方が変わった。目に見える建築と街並みの背景にある無形の歴史とエピソードが鮮やかに感受できるなら、少々目新しくてもいいと思うようになった。新しくなって歴史が薄まる遺産は、それだけの器、それだけの価値ということだろう。他方、新しくなっても歴史が色褪せない遺産がある。

先週末、鳥栖に出張したついでに長崎へ小さな旅をした。大浦天主堂は白粉を塗ったように白かった。出島のオランダ商館跡も昔とは色合いも風情もかなり違うのだろうが、17世紀の歴史シーンを炙り出してくれたし、いくつかのエピソードが手招きしてタイムスリップをさせてくれた。大した想像力ではないが、新しく修復された建物を見、生活や商売が営まれた跡地を歩いているうちに、古い物語の一編や二編が紡げたのである。

写真とキャプション

編集が行き届いた情報誌では、掲載写真に必ず一行か二行のキャプション(説明文)が付いている。キャプションのない写真が並ぶ誌面は落ち着かない。「ここスペースが空いたね。写真でも入れておくか」とつぶやきながら、本文とあまり関係なさそうな写真を適当に置いたに違いない。

『情報誌の編集』という研修では、写真とキャプションがワンセットであることを強調する。写真あっての本文記事ではない。記事を書いて、しかる後に写真やイラストなどのビジュアル素材を選ぶのである。例外的に写真が起点になって記事を書くことがあるだろうが、写真が希少であり、すでにテーマ性を帯びている場合に限る。

写真はそれ単独で目の前にポツンと置かれても、逆にイメージが伝わりにくい。トイレに貼ってありそうなカレンダーの写真を、説明もないままに飽きずに見続けることはありえない。絵なら画家の、写真なら写真家の、その一枚のコンセプトなり、込めた作意をことばとして表現すべきだというのが持論である。

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昨日、古本を二冊買って会計しようとしたところ、あと一冊買えば安くなると告げられ、もう一度均一コーナーを渉猟し直し、厚さ3センチ、全ページがモノクロ写真の『街の記憶』という写真集を買い足した。ページ番号すらない。よく見ると、写真の下に56ポイントの小さな文字で、“Napoli, Italy 1965”というふうに地名と年号だけが申し訳程度に書かれている。

ぼくのポリシーに反する本だが、敢えて手に入れることにした。そして、フラッシュカードのようにページをめくり、数百枚もの写真を次から次へと眺めていった。大半がピンと来ない。しかし、ピンと来ないままページを繰り続ける。時折り、実際に旅した街の記憶を甦らせてくれる写真が現れた。しばし凝視する。

一枚の写真に関しては持論は間違っていない。説明のない写真からはエピソードも感じないし、物語性も浮かび上がらない。しかし、これだけの枚数を次から次へと編集した本になると、もはや写真説明に意味がないのではないか。全ページに目を通した後、書かれざる説明文があぶり出されてきた。写真家の『街の記憶』という簡潔なタイトルが、キャプションの役割を果たしている。説明を排除する記憶なのである。