今日も二字熟語で遊ぶ

シリーズ〈二字熟語で遊ぶ〉は、二字の漢字「AB」を「BA」としても別の漢字が成立する熟語遊び。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になる場合がある。その差異を例文によってあぶり出して寸評しようという試み。なお、熟語なので固有名詞は除外。

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石庭せきてい庭石にわいし
(例)「庭石」と呼ばれても、必ずしも庭に置かれているわけではない。他方、「石庭」に石は欠かせない。石の配置なくしてはていを成さない。

枯山水の石庭は庭なのに、そこに庭木はなく、石と岩と砂で造園されている。石庭からは禅を連想する。庭石と言えば、父がどこかの川岸から持ち帰った一塊を思い出す。置き場に困って、実家の玄関前に今もある。

【栄光と光栄】
(例)幸いにして、決勝戦で勝利の「栄光」に輝けたことをとても「光栄」に存じます。

栄光も光栄もほとんど同じ意味じゃないかと指摘する人がいる。そうではない。他の表現との相性があるのだ。栄光の誉れとは言うが、光栄の誉れとは言わない。光栄の極みか光栄の至りである。栄光の架け橋はあるが、光栄の架け橋はない。「栄光に存じます」はなく、「存じます」と言うなら光栄だ。栄光には他者が関わるが、光栄は自分がそう思っているだけである。

【部局と局部】
(例)以前、ある「部局」のお偉いさんが、女子寮の前で「局部」を露出して逮捕された事件があったね。あれ、どこの省庁だったっけ?

局部とは全体の中の一部を示す、何の変哲もないことばだが、部局長クラスを登場させた瞬間、それはもう特別な“陰の部分”を意味するようになる。陰の部分とは、そう、あの部分である。

色男いろおとこ男色だんしょく
(例)ルネサンス時代の画家たち。ラファエロ・サンティは「色男」で、よくモテた。一方、レオナルド・ダ・ヴィンチも美男子だったが、「男色」の人であった。

今ならイケメンと呼ぶ男性を、昭和の年配者らは色男と言っていた。色男必ずしも男色ではないが、ギリシア時代は男色が当たり前で、特に少年愛に溺れた男どもが多かった。ソ、ソ、ソクラテスもプラトンもそうだったらしい。少年への精神愛は“プラトニック”。これはプラトン由来である。

【蜂蜜と蜜蜂】
(例)「蜂蜜」は英語で”honeyハニー“。逆さ読みしてニーハとしても「蜜蜂」に変化しない。蜜蜂は”beeビー“だから。

日本語(と言うか、漢字)は、こうして二字熟語の遊びができるように、同じ漢字を使って「作られるもの」と「作る側」を表現できる。【牛乳と乳牛】もしかり。

もっと二字熟語遊び

シリーズ〈二字熟語で遊ぶ〉は、二字の漢字「AB」を「BA」としても別の漢字が成立する熟語遊び。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になる場合がある。その差異を例文によってあぶり出して寸評しようという試み。なお、熟語なので固有名詞は除外。

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【内室と室内】
(例)他人様ひとさまの「内室」についてとやかく言う立場ではないが、ずっと「室内」で過ごされているとしたらお気の毒だ。

内室と言うと、大きな屋敷内のずっとずっと奥の方の部屋を想像してしまう。かつての奥方はあまり外へ出ずに引きこもっていたのだろうか。室内というのは妙な空間で、ずっといるとストレスがたまるが、ほどよい時間ならとても居心地がよい。

【品名と名品】
(例)日本刀と言ってしまうと単なる「品名」になるが、正宗と呼んだ瞬間、「名品」の誉れ高いブランドに変わる。

「ピカソの絵画」ではなく、「ピカソの『ゲルニカ』」と言えば、モノがアートに昇華する。普通名詞の品名では、それが何であるかを特定できない。固有名詞の名品だからこそ他とは違うアイデンティティがはっきりする。

【席次と次席】
(例)学校時代の「席次」はずっと首席だったが、社会に出てからは職場でも儀式でも「次席」にすら就いたことがないんだよ。

このようなキャリアを辿った知人がいた。小学校入学から東京大学法学部を首席卒業し大手銀行で課長に昇進するまで、誰の後塵も拝したことのない超エリートだった。しかし、四十過ぎを境にして坂を転がり始めた。
ぼくらの世代の高校時代、学年席次の上位50人が貼り出されたものである。500人中の50番だから優秀なのだが、50番だといじられることもあった。

【数字と字数】
(例)パスワード設定にあたっては、アルファベットと「数字」で8桁以上の「字数」にしてください。

銀行のATMの暗証番号は今も数字4桁で、脆弱ながらも覚えやすくて便利だ。アルファベットと数字を組み合わせて、ID15字、パスワードが12字で入るアプリを使っているが、いつも手帳に挟んだメモをカンニングしている。

【太極と極太ごくぶと
(例)「太極」拳の教室の申込用紙の横に置いてあったサインペンは「極太」で、とても書きにくかった。

太極とは、その字の通り「太い極」で、あらゆるものの存在の根元のこと。握りもペン先も極太の筆記具はコントロールしがたく、画数の多い漢字だと線が重なって文字が判読しづらくなる。

久々の二字熟語遊び

シリーズ〈二字熟語で遊ぶ〉は、二字の漢字「AB」を「BA」としても別の漢字が成立する熟語遊び。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になる場合がある。その差異を例文によってあぶり出して寸評しようという試み。

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『二字熟語で遊ぶ』『続・二字熟語を遊ぶ』『二字熟語を遊ぶ、再び』と題して掲載したが、在庫が増えてきたので、久々に復活しようと思う。

【野分と分野】
(例)その昔、台風は「野分」(のわき/のわけ)と呼ばれていた。現在の気象予報の「分野」では台風と言っている。

野分は強風が野の草を吹き分ける様子を見事に描写している。ところで、台風を野分1号、野分2号などと告げたら、のんびりしてしまって、まったく危機感を感じなくなるだろう。

【日当と当日】
(例)出張に伴う費用は「日当」で計算しますが、そのつど「当日」払いはしません(経理担当)。

サラリーマン時代、出張が一週間にわたっても費用を立て替えるのが常で、精算は後日になることが多かった。申請漏れすると自腹を切ることになる。日当は前もって仮払してもらうにかぎる。

【名人と人名】
(例)世界「人名」辞典をひも解いても、必ずしもわが国の「名人」の名が見出し語で出てくるとはかぎらない。

世界を対象にした人名辞典にわが国の将棋や囲碁の名人も宮大工の名人棟梁も見当たらないが、水タバコ長時間喫煙記録保持者のトルコ人は収録されるかもしれない。それが名人に値する功績かどうかはともかく。

【球速と速球】
(例)「速球」を投げ込んだつもりだったが、軽々とレフトスタンドに運ばれてしまった。思ったほど「球速」が出ていなかったようだ。

速球にもいろいろな球速がある。剛速球の投手は150km以上出すだろうが、120kmの速球でのらりくらりという技巧派もいる。急がば回れなどと言うが、一般的には速いほうが遅いよりも褒められる。

【高座と座高】
(例)おれを見て観客が「座高」が高いと言ったけれど、「高座」に座れば誰だって座高が高く見えるのだ。

高座で噺家が一席披露している位置は、想像以上に高いのである。前列に陣取ると、まるで1階から2階を見上げるような感じになる。大袈裟ではない、実際に寄席へ足を運んでみればわかる。

ヒューマンスキル再考

2020年の年賀状を転載します。


二〇〇八年六月から綴ってきた当社のブログ《オカノノート》は、まもなく一、五〇〇回。歳月を経て風化した駄文も少なくない一方で、「名言インスピレーション」と題したカテゴリーに、いつの時代も心に留めておきたい引用文を再発見できました。
テクニックとしては役立ちそうもないですが、ヒューマンスキル再考の一助になればと考え、ここに再掲することにしました。


「ぼくはずっと思っているんだ。きのうになればよくなるだろうって」
よく言ってくれた、チャーリー・ブラウン。その通り!
何の根拠もないのに、明日が今日よりもよくなると信じている人がいる。「今日はダメだった、でも明日があるさ」とつぶやいてリセットした気になれるとは、ノーテンキにも程がある。
チャーリーは覚めた目で昨日、今日、明日を見ている。今日の次にもう一度昨日が来たら、少しはましにやり直せるはず。但し、後悔と反省を織り込んだ上手な学びができればの話。


問題がうまく解決できない。問題がそもそも何であるのかを簡潔に言い表せないのが原因の一つである。課題と言い換えてもいいが、課題の表現が拙いと解決すべきことが明快にあぶり出されない。発明家としてよく知られたチャールズ・ケタリングのことばに耳を傾けたい。
「問題をそつなく表現できれば、問題は半ば解決されたも同然」


専門スキルやノウハウは生活習慣と無関係ではない。仕事と生活はほぼ写像関係にあって、この二つは決して切り離せない。それゆえ、プロフェッショナルとしての能力は、生活スタイル、癖、繰り返しによって培養される。
「習慣は第二の天性なり」(ギリシアのことば)
「成果をあげることは一つの習慣である。習慣的な能力の集積である。習慣的な能力は修得に努めることが必要である」 (ピーター・ドラッカー)
いずれも「習い性と成る」ことを教えている。身についた習慣は無意識のうちに身体に浸み込む。まるで生まれつきの性質のような暗黙知の才能になる。


「人間のあらゆる過ちは、すべて焦りから来ている。周到さを早々に放棄し、もっともらしい事柄をもっともらしく仕立ててみせる性急な焦り」
フランツ・カフカのこの指摘は、様々な場面に当てはまる。焦りから結論を急いで判断すると早とちりする。早とちりは先入観として刷り込まれる。いったん刷り込まれてしまうと判断を見直すチャンスを失うのである。


近世イタリアの哲学者ジャンバッティスタ・ヴィーコは言う。
才能インゲニウムは言語によって形成されるのであって、言語が才能によって形成されるわけではない」
言語が才能に先立つと考えるのが自然である。何がしかの思考と人それぞれの才能、その他ありとあらゆる資質は言語を源泉とする。才能がなくても何とかなる場面はあるだろうが、言語を放棄しては人間関係も生きることも立ち行かなくなる。


あの柿の木が庵らしくする実のたわわ   (壱)
この柿の木が庵らしくするあるじとして  (弐)
最初壱の句が作られ、その後に弐の句に書き換えられた。この変化に心境の一端が読み取れそうな気がする。壱の句では種田山頭火はまだあるじだったのだろう。しかし、脇役のはずの柿の木が弐の句では主役になる。あるじの座は柿の木に取って代わられた。「あの柿の木」が「この柿の木」に変わっているのも見逃せない。主客は転倒する、望むと望まざるとにかかわらず、やがて変わる。


「始めなんてものはない。到着した所からやりたまえ。最初君の心を惹いた所に立ち止まりたまえ。そして勉強したまえ! 少しずつ統一がとれて来るであろう。方法は興味の増すにつれて生まれて来るであろう。最初見た時は、諸君の眼は諸々の要素を解剖しようとして分離させてしまうが、それらの要素はやがて統合し、全体を構成するであろう」(ロダン)
経験の程度に応じて、分析から統合、部分要素から全体へとシフトするのは、ほぼすべての学習において真である。企画という仕事は一言で表現しようと試みてもしっくりこない。あれこれ考えた挙句、〈ことばとアイデアで画を企む過程〉に落ち着く。成否には言及しない定義だが、これで仕事の過程は実感できる。


ジュエリー工房のベテラン彫金師が言った。
「こんなものが欲しいのだけれど、作ってもらえますか? こう言われる時が一番幸せな時だ。自分にしかできない仕事を頼まれているのだからね」
固有名詞で指名される職人にはめったにお目にかかれないし、「あなたでなければいけない」と言われる存在に誰もがなれるわけではない。しかし、かけがえのない存在を目指すのはすべての仕事人にとって最大のテーマである。もちろん、そうだとしても、不特定多数に指名されようと欲を出しては幸せが逃げていく。


できるとかできないとかの結果にこだわることをやめた瞬間、「やれば」が意味を持ち始める。
「星に手を差し伸べても、一つだって首尾よく手に入れることなどできそうもない。だが、一握りの泥にまみれることもないだろう」
レオ・バーネットのこの至言を励みとしたい。


2020年 年賀状

両手ふさがり

ある日のこと。

雨が降っていた。出掛けねばならない。傘がいる。井上陽水には傘がなかったが、幸い傘はあった。右手に傘、左手に鞄というち。両手がふさがる。

前を知り合いの後期高齢者の女性が歩いている。右手に傘、左手に少し大きめのキャスター付きバッグ。濡れた車道で足を滑らせそうで、冷や冷やする。追いついて話しかける。「どちらまで?」「センターです」。センターが何か知らないが、関心はそこにはない。「両手がふさがっているので、転ばないようにお気をつけて」とお節介した。人は、転びそうになっても、傘を握りしめたまま、バッグも手放そうとしないものだから。


両手ふさがりという、ある種の「無武装」を強いられるのは、決して雨のせいではない。傘と鞄を持たねばならない己の必要性ゆえの出で立ちである。

傘と鞄で両手がふさがったまま某所に出掛けて帰ってくるだけならいいが、切符を買う、ICカードを使う、財布を出し入れする、濡れた手をハンカチで拭いてスマホを取り出す……などの動作が伴う。雨の日に傘の置き忘れが多いと聞くが、あれはビニール傘よりも重要なものを守ろうとするあまりの結果だと睨んでいる。

人は「雨の日の傘と鞄」という出で立ちに似た生き方を標準とする。両手がふさがって、片手の余裕のない生き方。もう一つ荷物が増え、もう一つ外的変化を考慮すべき状況になると、それこそ「手に負えなく」なる。

今のところ、両手ふさがりが「八方ふさがり」になると断言する確証はないが、持たねばならないもの、しなければならないものを常日頃見直しておくのがよさそうだ。

色彩、すなわち色の彩

ここ数年、「情報誌の編集技術」というテーマで研修をおこなう機会がある。文章の書き方、デザイン、紙面づくりなど、必要最小限の知っておくべき技法を網羅して講義する。講義だけでは十分理解できない話なので、プロジェクターを使って事例を見せる。

パワーポイントであらかじめ作成した色合いが、研修会場に設置されているプロジェクターで忠実に再現されないことがある。それで致命的なまでに困ることはないが、稀に部屋の明るさによって文字が見えづらくなることがある。今までで一番困ったのは、繊細に再現しないと意味を成さないカラーコーディネーションの見本を使った時だ。

再現性が悪く、キーワードとして掲げた「シック」「抑制」「味わい深さ」「円熟味」などがさほど感じられない色味になってしまった。思わず、自分のノートパソコンを持ち上げて画面を見せたが、後ろの席の受講生からはパソコンの画面は見えづらい。この一枚は消化不良のスライドになった。


パソコンの色合いを精細に再現できるプロジェクターの開発に取り組む技術者の話題を、先日のテレビで見た。デジタル技術なのだが、工芸職人の手業てわざそのものである。恐ろしく手間暇がかかる色合わせの作業だった。徹底的に凝ろうと思えば、そんなプロジェクターを自ら携えて会場入りするしかない。

デジカメでもスマホのカメラでも実物と写真には誤差がある。誤差は思いのほかいい方向に出ることがあるが、赤が奇抜に出たり青の深みが足りなかったりというのは毎度である。色の素人だが、色の再現がいかに難しいかは想像できる。

「思うに、色彩の模倣こそ最も困難な問題である。なぜならそれは、賢い者をも欺いて、見せかけと本物とを間違えさせるからである」
(エル・グレコ)

光学のスペシャリストだけの悩みではない。色彩の専門家である画家にとっても終生つきまとうテーマである。と言うわけで、今後も粛々とパワーポイントを作成していくことには変わらないが、色のあやまで深入りしない程度に講義内容を収めておくのが無難なようである。

理系と文系の話

「理系おもちゃ」なるものがあるのを先日テレビで知った。女子に理系への興味を持たせるためだそうである。

人を理系タイプと文系タイプに分類するのは学問体系的な視点であり、大学で学んだ人たちに多い発想だ。大学に入ってからは学科が枝分かれする。ややこしいので、理系と文系に大雑把に分ける。中高卒の人たちはめったにそんな話を持ち出さない。少年少女は理系・文系などと自分を型にはめることはめったにない。あるとしても、「宇宙飛行士になりたい」とか「ケーキ屋さんになりたい」と言うくらい。

動物、草花、空、家々……日々使う道具の類……時事的な諸問題……どこからどこまでが理系で文系なのか。そんな線引きは現実のどこにもなく、架空の概念にほかならない。「女子に理系への興味を持たせる」と言う時の、理系とはいったい何なのか。興味や行為の境界線はどこにあるのか。

希望する学問がいわゆる文系だとしても、本家理系よりも数学が得意というケースがある。工学部だがロボットに不案内の学生がいるし、小説好きの宇宙マニアがいる。医学部出身の小説家には森鴎外、安部公房、北杜夫らがいる(文学部出身の医者は聞いたことがないので、理は文を兼ねることができそうだ)。

ぼく自身、プロ棋士に将棋を教わって、定跡が数理的であることに気づかされた(それが証拠に、定跡を天文学的にデータ処理して学習するAIに対して、昨今一流のプロ棋士でも勝ち目がなくなった)。「棋理にかなう」ということばがあるように、〈9×9の桝目の盤上〉は理系的である。だからと言って、理系が必ずしも将棋に強くて詰将棋が作れるわけではない。人間どうしなら、盤外の駆け引きや所作も関係する。こちらは文系的かもしれないが……。


論理学を指導していたことがある。論理学は理系なのか文系なのか。数日前から講談社ブルーバックスの『鳥! 驚異の知能』という本を読んでいるが、これを読んでいるからと言って、理系の証拠になるはずもない。公園で鳩と戯れて餌を与えているホームレスのおじいさんを文系と言って片づけることもできない。

一杯のコーヒーを淹れるのは生活習慣の一コマだが、本気を出して淹れようとすれば理系的知識への好奇心が欠かせない。豆の成分、焙煎の時間、挽き方、湯の温度など、より美味しく飲もうとすれば科学的でなければならない。しかし、パリの有名カフェでサルトルとボーヴォワールが論争を繰り広げた時は、文芸サロンに薫る飲み物として重宝された。

上記の『鳥……』と併読しているのが“ALL ABOUT COFFEE”コーヒーのすべてだ。ここには歴史、経済、文化、地理、技術、化学、工学のすべてが盛られている。帯文には「本書を読まずしてコーヒーを語るなかれ!」と書かれている。一杯のコーヒーに精通するためには文理両用であることが求められる。

票数と点数

ある種のコンペティションでは、審査員の採点の合計点数で最優秀を決める場合が多い。入札や評価型スポーツ(スキーのジャンプ、フィギュアスケート、体操など)は点数方式だ。スポーツの場合は個々の技術に関して細かな基準があるが、イベントや作品などのコンペでは審査員の主観的な評定に依存する。

審査員によって見方や点数の付け方は様々なので、1位と2位の採点が大差になる場合も僅差になる場合もある。全審査員の採点を単純に合計する方法では、たった一人の審査員が大差を付けてしまうと残りの審査員の採点がまったく反映されないことがある。このやり方を是正するために、採点結果から最高点と最低点を除外して合計点を算出する方法が採られる。

しかし、審査員が誰に投票するかという票数方式でもなく、また最高点・最低点除外という方式でもなく、単純に採点を合計して最高得点者を最優秀とするコンペが慣習的におこなわれている。5人の審査員によるABという二者コンペの採点結果をシミュレーションしてみよう。

審査員① A=90点 B=60
審査員② A=82点 B=85
審査員③ A=71点 B=80
審査員④ A=81点 B=83
審査員⑤ A=88点 B=89

単純合計すると、A=412点、B=397点となり、ABを上回る。審査員①の大差採点がかなりのウェイトを占めた結果だ。ちなみにABの最高点(それぞれ90点と89点)とABの最低点(それぞれ71点と60点)を除外した後の合計点は、A251点、B248点となり、これもABを上回る。ここでは除外のメリットが出ていない。いずれにせよ、票数では上記の赤色で示す通り、A1票に対し、B4票を獲得している。大差であろうと僅差であろうと、Bの方が審査員団に支持されていることになる。


上記のような単純合計方式でおこなわれる審査を数十回依頼されてきたが、最高点・最低点除外方式に変えたとしても同じ結果になることが多い。したがって、上記のシミュレーションは例外的ではない。ただ、点数を合計してしまうと、個々の審査員の一票に託した意思は弱められる。自分の意思が合計点の中で掻き消され、極端な採点をした審査員一人の採点が結果に反映されてしまう。

と言うわけで、票数で決めたこともある。しかし、審査員数を偶数にしたため問題が起こった。4者コンペで2者に2票ずつというケースが生じたのである。協議しても誰も自分の1位指名を譲らなかった。結局、全員が2位指名していた参入者で妥協せざるをえなかった。後味が悪かった。

議論を2者対抗でおこなうディベートの試合の勝敗判定は合理的である。審査員は3人、5人、7人などの奇数。審査用紙は様々な項目を点数評価するが、全員の採点を合計しない。各審査員の採点が大差であろうと僅差であろうと、各審査員は自分の採点で点数が上回ったサイドに1票を投じる。引き分け判定はなし。だから、必ず3票対0票、4票対1票、5票対2票という具合に勝敗が決着する。負けたサイドに投票しても、それは決して死に票にならない。点数と違って、票の痕跡が残るからである。自分が票を入れた側が勝とうが負けようが、潔く結果を受け入れることができるのである。合計点方式では、審査員①の存在によって「自分がいてもいなくても同じではないか」という空しさだけが残る。

スローフードの2月

コロナで明け暮れた2月。コロナの2月ではつまらないから、足早の2月をちょっと足早に振り返ってみる。


節分の恵方巻は罪作り。どこかの方角に向かって巻き寿司を食らう。言われるまま、丸かぶりすると喉を詰めかねない。噛み切った断面は美しくなく、みつばだけがずるっと抜けて口元から垂れる。縁起がよくても美しくない。だからカットして上品にゆっくり食べる。

そんなふうに味わっても、売れ残った恵方巻は大量廃棄される。儲けようとして多めに作っては捨てる。早食いも過剰もよくない。不足気味のほうが健全である。何でも欲張らないのが本来の〈人間の格〉ではなかったか。

一人一本が恵方巻に贅沢感を付与する。そう言えば、板チョコは兄弟で分け合った。いつか一人で一枚を食べたいと思っていた。独り占めという願望と罪悪感。もし幼い頃に一本や一枚丸ごと手にしたら、黙々と、しかしガツガツと平らげた違いない。


まったく話にならないのもあるが、一部のコンビニの100円コーヒーは侮れない。一部のビストロが提供するディナー後のコーヒーでは太刀打ちできない。コーヒー味のぬるいお湯なら一気飲みするしかない。前菜もメインも台無し。コンビニコーヒーのほうがゆっくり味わえる。

とは言え、うまいコンビニコーヒーにしても、紙の容器にプラスチックの蓋をするうちに喫茶店のスローな時間に及ばないことを感じる。古めかしい喫茶店の隅に座り、その店自慢のブレンドを注文する。「すする」とは言い得て妙である。ゆっくりの時間に浸ると、タイルの壁が古代ギリシア・ローマ色に見えてきたりする。しめて金450圓也。

コーヒー好きは蘊蓄する。蘊蓄などせずに一杯を堪能すればいいのに……。しかし、蘊蓄の語りは実は自分に向けられている。蘊蓄は蘊蓄者自身に気づきをもたらし、記憶を整理してくれる。聞かされる方は犠牲者かもしれないが、コーヒーをおごってもらえるという見返りのために耳を傾ける。


イタリアで始まった〈スローフード〉。ドリンクも含む。「偽りがない、栄養がある、本物」が基本理念。早食いではこれが実感できないから、ゆっくり食べる。いろんな解釈が可能だが、好き嫌いをつべこべ言わず、なるべく旬のものをふつうに食べ、作り過ぎず残さずというふうにぼくは捉えている。そんな食事ができたスローフードの2月に感謝する。

都市との出合い

〈都市〉は多義語である。国によって多様な形成の背景がある。地方や山村の対義語だが、地方や山村に比べて人が多いからという理由だけで、都市と言えるわけではない。増田四郎の『都市』によれば、「人数だけでは都市が成立している決定的な条件にはならない」のである。同著には「自分らでつくり上げた自治体」「市民、つまり都市の原理が国家の原理」などのキーセンテンスが出てくる。

「自分はこの国の国民だ」などと普段は思わない。国は見えない。見えない国でたみの一人であると感じることは稀だ。国民は抽象的な上位概念。ぼくたちは国民である前に、市民として日々暮らし働いている。都市では市民感覚が根を張っている。

10年前までよくヨーロッパへ旅していた。ぼくの旅は今住む都市から別の都市への移動だった。フランスに来た、イタリアに来た、スペインに来たなどという感覚ではなく、パリにいる、フィレンツェにいる、バルセロナにいるという感覚だった。旅とは国との出合いではなく、都市との――ひいてはその都市の人々や歴史との――出合いにほかならない。


ホテルやアパートに泊まる。窓の外に目をやる。街歩きの前に、窓外の光景へのまなざしは欠かせない。都市に投宿すれば、美しい自然が窓外に広がることはない。承知の上だからそれを残念がることもない。広場の様子をじっと眺める。広場が見えなければ裏通りに視線を落とす。都市では建物が主役の趣がありそうだが、行き交う人々と歴史という遠景こそが絵図のテーマになる。

新しい都市と出合うたびに、自分のまちが対比される。見知らぬ都市の人々や歴史に触れるたびに、自分とまちの過去の残像が見えることがある。

「新しい都市まちに着くたびに、旅人はすでにあったことさえ忘れていた自分の過去をまた一つ再発見する。もはや自分ではなくなっている、あるいはもう自分の所有ではなくなっているものの違和感が、所有されざる異郷の土地の入口で旅人を待ち受けている。」(イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』)

旅で一番よく気づかされるもの、それは忘れてしまった自分とまちの過去である。このことは、自分のまちで旅人を受け入れる時にも当てはまる。ぼくのまちでは、大勢の外国人旅行者の〈不在〉によって、つい最近までの賑わいが遠い過去のように思い出され、架空の人の群れが想像の中で浮かび上がる。入口で旅人を待ち受けようとも、しばらくは待ちぼうけが続きそうな気配がある。