語句の断章(49)「須く」

文化庁が2020年に実施した「国語に関する世論調査」。「すべからく」の意味に関して次のような結果が出た。

半数以上が意味を正しく知っているとは……。正直なところ、これには驚いた。なぜなら、漢文訓読調の「須く~すべし」という表現を使った知り合いのほとんどが、「すべて」という間違った意味で使っていたから。「世の中は何もかも、すべからく・・・ですからね」という具合。

正答が誤答を上回った理由はすぐにわかった。須くの意味は「当然、ぜひとも」か、それとも「すべて、みな」かという二者択一でアンケートを取ったからだ。初見の人もすべてという意味だと思っていた人も、逆を選んで正答になったのだろう。

須くは辞書にちゃんと載っている。昔に書かれた本を読むと目にすることがある。現代文ではめったに出くわさない。会話ではぼくよりも若い世代の、いわゆるインテリ系がたまに使う。古い本では正しく使われ、会話では間違った意味で使われる。

わざわざ「青年は須く勉学すべし」などと言ったり書いたりしなくても、「若いうちにぜひともしっかり勉強してもらいたい」でいい。つまり、今の時代、須くにはほとんど実用の出番がない。須くは読み方と意味を尋ねる雑学クイズか漢字検定で使うために生き残っているようなものだ。

なお、読みも意味も知っているが、この歳になるまで須くを一度も使ったことはない。仮に無理して使ったとしても「すべて」という意味に取られるはずである。

あ、アルフレッド!

昨日、『博士ちゃん新春スペシャル』を見た。ある分野にとびきり詳しい小中学生の博士ちゃんたちをクローズアップする番組だ。本物の博士と遜色ない専門性のすごさに驚かされる。知識もさることながら、言語能力が際立っている。

二人目の博士ちゃんは葛飾北斎を目指す14歳の少年。海外に流出したと伝えられる北斎の幻の作品を探し求める構成だ。オランダとイギリスを訪れて専門家の話を聞き、間近で実物の版画を見せてもらう。ぼくが思わず声を発したのは大英博物館での一シーンである。

「あ、アルフレッド!」

アルフレッドは30年前にライターとしてぼくの会社に勤めていた。起業してから国際広報の仕事が忙しく、常時2人の英文ライターがいた。当時は20代の半ばか後半だった彼の風貌はだいぶ変わっていた。しかし瞬時にわかった。アルフレッド・ハフト、大英博物館のアジア部日本セクションの学芸員。

なぜ瞬時にわかったか。実は、10年くらい前だったと思うが、これまで一緒に仕事をしてくれたアメリカ人ライターたちを検索してみたのだ。マイケル・・・、アダム・・・、リサ・・・ら、順番に検索したが、おびただしい同姓同名の人物が出てきて手も足も出なかった。ところが、同姓同名が少なくなかったものの、検索し始めてすぐにある一人のアルフレッド・ハフトにピンときた。

添えられた写真の面影と日本セクションの学芸員という肩書がヒントになった。そして、プロフィール文中にある“Mitate, yatsushi, furyu”(見立て、やつし、風流)が決め手になった。そんな話をしたことを思い出したのである。プロフィールの最後にメールアドレスがあり、「うちの会社にいたアルフレッドか、ぼくのことを覚えているか、元気にしているか……」というありきたりなメールを送った。

返事がきた。やっぱりあのアルフレッドだった。「日本で英文をたくさん書いた経験が今生きている。感謝している」と書いてくれていた。たしかあと一往復メールのやりとりをしたと思う。

あのメールから10年。江戸時代の日本独特の概念や作品の研究をしている旧知の博士と、葛飾北斎を追い求める少年博士ちゃんのツーショットはほほえましかった。アルフレッドの控えめで誠実な話しぶりは当時のままだった。元日の災害と翌日の事故で気分はかんばしくなかったが、いい番組が見れて少し気分が持ち直したような気がする。

一二三カルタ

2016年のわが年賀状のテーマは『いろはカルタ』だった。「を」と「ゐ」と「ゑ」と「ん」以外の「いろは……」を創作して何とか恰好をつけた。いろんな本や辞書に目を通したが、岩波のカルタ辞典が大いに参考になった。

その年賀状は思いのほか評判がよく、「ぜひ続編を」という数人からの励ましがあった。そこで「いろは」に替えて試みたのが「一二三いちにさん」の数字を含むカルタ。数にちなむ諺や故事成語を発展的に解釈したのである。

2016128日付けの「2017年の年賀状(案)」というメモが残っている。いろいろ考えた末の最終候補作」が走り書きしてある。

いの一番、一意専心
二兎追う者……、二番煎じ
三枚目、三人寄れば……
四苦、四十アラフォー
五臓六腑、双六
七福神、七転び八起き、七転八倒
九回裏
十戒
十二1ダース
十五十六十七
十八番おはこ

十一、十三、十四は欠番のつもり。案が出なかったのではなく、単にスペースがないだろうと判断したから。


さて、最終案はどうなったか。「二兎」「双六」「九回裏」「十五十六十七」「十八番」が残り、他はすべて入れ替わった。あれから6年、今の思いをコメントしてみた

一言以て之を蔽う(いちげんもってこれをおおう)……この論語を一番バッターに据えたのは力が入り過ぎ。
二兎を追う者は(にとをおうものは)……やや月並み感あり。「二足のわらじ」にするかどうかで大いに悩んだ。
読書三到(どくしょさんとう)……口到、眼到、心到という知識の見せびらかし。「三度の飯」くらいでよかった。
四面楚歌(しめんそか)……中国古典由来のものは難しく、カルタ遊びに向かない。
五里霧中(ごりむちゅう)……読書三到、四面楚歌に続いて四字熟語が三つ並んだ。
双六(すごろく)……やっと普通のことばで一安心。
無くて七癖(なくてななくせ)……胸を張れる七ではない。この七は「いくつか」という意味だから。
腹八分(はらはちぶ)……数字カルタとしてとてもわかりやすい。
九回裏(きゅうかいうら)……
期待とガッカリを併せ持つ、表ではなくて裏だからこその九。ちょっとした裏ワザだと自負。
十で神童(とおでしんどう)……二十歳で平凡な人になるための条件としてとらえるとおもしろい。
十二進法(じゅうにしんほう)……十二はぜろに次ぐ大発明で、一二三カルタには欠かせない。
十五十六十七(じゅうごじゅうろくじゅうしち)……演歌の世界では人生で特に暗い3年間ということになっているが、カルタ一枚で三役がさばけるならスグレモノ。
十八番(おはこ)……いろはカルタと違って一二三カルタは延々と続く。十八はちょうどよい止め時ではないか。

明るい夕方と陰翳の夕方

大阪市の北区と中央区は、この時期イルミネーションで華やかになる。年々コンテンツも多様化している。3年前までの数年間、御堂筋イルミネーションの業者選定審査員をしていた。立場上、1シーズンに23回足を運んで効果を検分した。その御堂筋イルミネーションは大晦日まで続く。

光の饗宴イベントはもう一つある。「OSAKA光のルネサンス2023」がそれ。こちらは8つのプログラムで構成されている。中之島イルミネーションストリートのみ大晦日まで続く。その他は今夜まで。光のルネサンスの一番人気は「大阪市中央公会堂プロジェクションマッピング」。過去56回鑑賞している。

クリスマスイブの昨日、近くで食事の予定があったので、早めに出て中之島に立寄った。数年ぶりのマッピングだ(何年か前までは「ウォールタペストリー」という名が付いていた記憶がある)。夕方4時半頃に着くとすでにかなりの人が集まっていた。5時から9時まで、7分間の作品が1時間に4回、合計16回上映される。

午後445分頃の中之島公会堂。冬でもまだ明るい。

いつも夕食後に来ていたから、建物の背後は暗闇のスクリーンと化す時間帯。建物に投影されるカラフルな光の絵はくっきりと浮かび上がり、動きもよく見えた。ところが、昨日は5時ちょうどの1回目の上映に立ち会った。ついでに寄ったのだし、たぶん明るすぎてよく見えないだろうと了解してのこと。案の定だった。

写真でも動画でもカラフルなぬり絵という感じ。夕方5時だとこれが精一杯。

期待して来た大勢の人たちはどう思ったのだろう。もう少し暗くなるのを待ってもう一度見た人はいいが、後に予定があればどうしようもない。おそらくがっかりして去った人も少なくなかったはず。いつぞやの上映ではどよめきが起こりフィナーレで拍手もあったが、昨日はシーンとしていた。

陰影あってのプロジェクションマッピングだ。まだ明るい5時にスタートする意味がない。6時か7時始まりにして10時までやればいい。人の夕方感覚は冬場で4時から7時、夏場で5時から8時ではないか。冬とは言え、5時台に上映しても作品は真価を発揮できない。

さて、今日が最終日。関係者でないから案ずることはないが、すっかり日暮れた時間帯にもう一度見てみるのも悪くないと思い始めている。それでがっかりなら、明暗の問題ではなく作品自体の問題になる。

目的のない、気まぐれな散歩

自宅を出て歩き始める。しばらくして知り合いにばったり会う。面倒な人だと足止めを食らう。案の定、聞いてきた。

「いい天気ですねぇ。どちらまで?」(別に知りたいわけでもないくせに……)
「近場でちょっと散歩です」(と言って、しまったと後悔する)
「散歩……健康にいいですなあ」(ああ、食いつかれてしまった。健康のために歩いてなんかいないけど、そうとも言いにくい)
「少し冷えていますが、歩くと温まりますからね」(あ、また余計なことを口走った)
「身体を冷やすのはよくないですから」(よくないのはこの会話だ)
「そうですね。では、失礼」(軽く会釈して、応答を待たずに立ち去る)
「健康的でうらやましい。行ってらっしゃい!」(離れていく背中に声が届く)

「健康のための散歩」を唱える人がいるが、散歩に目的はいらないだろう。散歩とは漫歩まんぽや遊歩である。そぞろに歩けばよく、難しく考えることはない。身体と相談して調子がよければ速歩すればいいし、歩数も増やせばいい。

散歩は空間移動である。変化する光景や風景への適応行動だ。散歩を散歩たらしめるのは、適当に歩を休める時間だと思う。疲れを感じたら、誰かに遠慮するまでもなく、どこでもいいから腰掛けて足を伸ばす。適度に休息もせずひたすら懸命に歩く人がいるが、あれは散歩ではない。

仕事ではないのに、まるで仕事に精を出して任務を果たすかのように歩く人がいるが、そうなると、散歩と名付けた歩行トレーニングになってしまう。まったく楽しそうに見えない。

よく歩けば筋肉がほどよくつくし、仕事も頑張れる。昨日、Eテレで料理の鉄人の道場六三郎が、料理は数時間連続の立ち仕事だから、よく歩くようにしている、と言っていた。後付けで説明すれば「仕事で頑張るため」という目的があるようだが、習慣化された散歩に目的はない。散歩するから「いろいろといいこと」が生まれる。いろいろといいことを目的として歩いているのではない。

散歩を健康に結び付けられるのが嫌なので、最近は「街歩き」と呼ぶようにしている。街歩きが目的なのではない。散歩も街歩きも気まぐれな一つの行動なのだ。

ずいぶん以前に勉強会の目的を聞かれて「ない!」と答えたら、その場にいた人たちにおかしいと言われた。そんな批判は意に介さない。目的のない勉強会が楽しいのだ。同様に、散歩に目的を置かなければ束縛されることはない。歩くことくらい自由気ままにしておきたい。無目的と気まぐれが散歩の本質である。

年賀状レビュー〈2023年版〉

新年の年賀状が刷り上がるこの時期、前年暮れに差し出した年賀状をレビューすることにしている。したためた時の思いと今の心境を照らし合わせて自己検証するために。あるいは、手前勝手な心変わりがあったなら自己批判するために。

ここで紹介する2023年版が創業以来35年続けてきた、文字まみれの年賀状スタイルの最後となった。年賀状をやめるか続けるかをしばし思案して、とりあえず来る2024年の新春のお慶びをこれまでと違うスタイルで申し上げることにした。それ以降のことはわからない。


一九八七年十二月一日創業、翌年に年賀状を差し出して以来、本状が数えて35葉目になります。過去の年賀状にしたためたメッセージを元に、その時々の象徴的な思いを綴り直してこれまでの35年を振り返ってみました。

一九八九年  出会いはいつも、偶然と必然を背中合わせにして喜怒哀楽の表情を見せる。ひとたび人と人が出会えば談が弾み、風がそよぎ始め、熱い渦を巻く。談は「言葉の炎」なり。

一九九〇年  知らぬがゆえに新しい発見に恵まれるという逆説。忘れ去ることにも意味がある。忘は「心、亡きがごとし」。手垢のついた知識を捨て、空想の中に心を解き放とう。

一九九一年  自ら動けばエネルギーが沸き起こる。動は「重い力」。変化を生み出す重力を受け止めたい。

一九九二年  先が見えない時代の渦中にあって、何かにつけ「?」の多い年になるらしい。不確実な「?」に好奇心の「?」で勝負を挑んでみよう。

一九九三年  こうと決めた自らの仕事を今一度振り返る。上げ底や見かけの飾りを捨て、「足を地に着ける味」、すなわち「地味」に回帰する。

一九九四年  「企画業、七年目の背伸び」。フィクションとノンフィクションというジレンマを克服するのが企画。

一九九五年  仕事と肩書を無数に組み合わせれば守備範囲はいくらでも広がる。敢えて二、三足の草鞋を履く。

一九九六年  人は人からもっとも多くを学び、人に励まされ、互いに触発し合う。今年、〈談論風発塾〉という人間交流実験に取り掛かる。

一九九七年  一見できそうもないことをやらねばならない時がある。できそうもないことをやり遂げるには身体を張る覚悟をしなければならない。

一九九八年  アイデアが二つ以上あって採択に迷ったら、是非や成否のことを考えずに、愉快なほうを選ぶ。愉快は情熱と継続力の源泉である。

一九九九年  「学力から力学へ」。学校時代の力の尺度は成績に表れる学力。社会に出ると、仕事力が学力よりも優勢になり、力学の勝負になる。

二〇〇〇  睨む、想う、狙う、考える、分ける、組む、離れる、絞る、明かす、書く、叩く、結ぶ……企画は動詞的であり、形容詞的ではない。

二〇〇一年  習慣は第二の天性なり。「アイデアを捻り出すのが癖でして」と言えるようになれば申し分ない。

二〇〇二年  世の中、注文や仕事は「ついで」に発生する。眼鏡のクリーニングのついでに新しい眼鏡を買い、一皿二百円の小鉢の注文ついでに一杯千円の大吟醸を二杯飲む。

二〇〇三年  一枚の紙、鉛筆、車内広告、ぼんやりの時間、雑談、接頭語、手紙、散策、頭など、知的発想作業のための非流行的小道具を見直す。

二〇〇四年  世間は読むほうがいい本を推奨してくれるが、読んではいけない本を教えてくれない。

二〇〇五年  コンセプト訴求失敗の原因は、平凡、焦点ボケ、時代錯誤、専門性、思い入れ、下手のいずれか。

二〇〇六年  アイデア、エスプリ、コンセプト、シナリオ、ダイアローグ、パラダイム、ファンタジーなどは訳さずに、カタカナで使うほうがわかりやすい。

二〇〇七年  独学向きの学問として、愉快学、乱学、不思議学、話題学、問学、隙間学、回遊学を推奨する。

二〇〇八年  時代が「どんだけぇ~」変わっても、流行など「そんなの関係ねぇ」。これからもよき仕事、高い技術を目指して「どげんかせんといかん」。

二〇〇九年  二元的に時代を見る。有無、方円、真偽、需給、上下、内外、清濁、伸縮、縦横というふうに。

二〇一〇年  誰もが「何か変」と感じているが、「変」の一部が自分にも起因していることに気づいていない。

二〇一一年  思惑があると遊びにならない。ふざけるだけの遊びもない。俗世間を気にせず三昧するのが遊び。

二〇一二年  弱い犬はかまびすしく吠えたて、三流芸人は芸を誇張する。

二〇一三年  「次の角を曲がれば、その向こうに新しい景色が見えるはず」という予感と希望を構想と呼ぶ。

二〇一四年  仕事には普段の知の習慣形成が反映される。無為だと奇跡は起こらない。都合のよい魔法もない。

二〇一五年  本の読み方は環境(人・時代・世界)の読み方の縮図である。

二〇一六年  腕を組んで考えても苦悶は増すだけ。素直に紙に書いてみる。これを「苦しい時の紙頼み」という。

二〇一七年  縁と機会に恵まれて今ここに到れたのは感慨深い。他人様に期待され、その期待に応える相応の努力を重ねる日々は濃密である。

二〇一八年  変わらぬテーマは「コンセプトとコミュニケーション」。見えざるものをことばとイメージに変える。

二〇一九年  「一つの正解を探せ」、「あらゆる要素を考えろ」、「ことば遊びをするな」、「深く掘り下げよ」。どれもあまり信用しないほうがいい。

二〇二〇年  「星に手を差し伸べても、一つだって首尾よく手に入れることなどできそうもない。だが、一握りの泥にまみれることもないだろう」。レオ・バーネットの至言に耳を傾けたい。

二〇二一年  旅がままならない今、本と読書との縁を結び直して、希望、快癒、愉快、幸福の修復を祈りたい。

二〇二二年  当たり前の穏やかな日々と小さな幸せを感受できる時間が早く取り戻せますように。

語句の断章(48)「中待合」

なかまちあい・・・・・・に呼ばれて」と音で聞いたら、中町愛さんに呼ばれたと思うか? ぼくは思わないが、思った人がいる。ある日、その人は初めて「中待合なかまちあい」を耳にした。

よく見聞きする待合は「待ち合う」から派生して、誰かと誰かが――または誰かが何かを――待つ場所を意味する。たとえば客が芸者さんを呼んで遊興する場とか。待ち合うという行為よりも待ち合うという場、すなわち駅や病院などの待合室を指すことが多い。

待合も待合室もどんな辞書にも収録されている。ところが、中待合は『新明解国語辞典』にも『広辞苑』にも載っていない。広辞苑をめくった時、「なかまち……」を見つけて、「あ、あるぞ」と早とちりしたが、「なか」ではなく「なが」で、長町裏と長町女腹切だった。いずれも浄瑠璃の話。

ある病院のホームページに中待合の説明を見つけた。「診察を受ける前に、リラックスしてもらうためのスペースであり、診察室の声が待合室に聞こえないための空間」という記述。中待合についてホームページで説明するのは、知らない人が多いからではないか。

定期的に検査してもらっている病院では、採血場に中待合がある。数十人が座れる広い待合室、そこから数メートル向こうに採血カウンターがあり、看護師が常時5人はいる。数メートルの距離の間に6人が座れる中待合がある。待合室では随時23人の番号が表示され、当該番号の人が中待合へ移る。待合と中待合、中待合と採血カウンターの間には仕切りも何もない。注射嫌いの人はリラックスしていないし、看護師の声は待合まで聞こえる。

中待合。実に不思議な場だ。受付を済ませ、指示された番号の診察室前に行くと、そこに中待合がある。名前を呼ばれて診察室に入ると、そこに椅子が何脚かあって、それもまた中待合空間なのである。そう、中待合のための中待合があったりする。

中待合は、待合と診察室をつなぐ緩衝地帯バッファーゾーンのようである。茶室の入口のつくばいに似た、いきなりを嫌う日本独特の小空間なのではないか。

碑の文字を読めたふりして峠道

奈良県生駒市と大阪府東大阪市の境にある暗峠くらがりとうげ。奈良街道まではまだ2キロメートル弱の地点で眼下に広がる大阪市を眺望した。高層ビル群が高密度に聳える様子がよくわかる。その向こうは大阪湾、そして神戸。

元禄七年(1694年)の五月、松尾芭蕉は江戸を立って郷里の伊賀に帰省した。同年の九月、伊賀を出て奈良に入り、暗峠を越えての道すがら一句を残した。これから向かう大阪の街も一望したに違いない。翌十月、芭蕉は花屋仁左衛門の宿の裏座敷で亡くなった。終焉の地は今の御堂筋界隈である。

大阪を見下ろした地点からすぐの所、峠道の脇に碑が建つ。最初の「菊の」と最後の「哉」は読めたが他がわからない。書家だった父は石に刻まれた崩し字をよく判別した。崩し字を自らも筆で書いていたから読めたのだ。書きもせずに読めると思うのは厚かましい。最近は碑のすぐそばに説明板がある。カンニングするから解読力もつかない。

菊のにくらがり登る節句かな

重陽ちょうようの節句、旧暦の99日に詠まれた一句。帰宅してから、明治二十二年(1889年)に俳句結社の有志が再建したものだと知った。野ざらしで約130年も経っていれば、石の碑面が劣化も進み判読しづらいのもやむをえないと自分を慰めた。

およそ100メートルほど下ったところに勧成院かんじょういんという寺がある。ちょっと覗いてみたら、狭い境内の端っこに短冊形状の句碑を見つけた。こっちは劣化がひどくて手も足も出ないが、最初の文字だけ菊と読めた。掃除をしていたボランティアの女性に尋ねたら、一枚の紙を取りに行って手渡してくれた。これも帰宅してから目を通した。

この句碑は、もと峠の街道筋にあったが、いつしか埋没、行方不明になっていたものが大正二年八月の大雨で出現、勧成院の境内に移し建てられた。

この一枚と先の説明板に目を通して碑のエピソードがようやくわかった。行方不明だった碑は寛政十一年(1799年)だから、峠の碑よりもさらに90年古く、傷みも激しい。碑面に彫られた句は峠の句と同じ。ところで、芭蕉は同じ日に別の一句の「菊の香」を詠んでいる。

菊の香や奈良には古き仏達

この句碑には出合わなかったが、出合っていても菊と奈良以外は読み解ける自信はない。

抜き書き録〈2023年12月〉

今月の抜き書き録のテーマは「消える」。馴染んだものが消えそうになるのは耐え忍び難い。時代に合わなくなって使われずに消えるもの、もったいないとまでは言えないが消えると寂しく思うものなど、いろいろある。ものだけでなく、ことばが消えてなくなってもいくばくかの寂寞感を覚える。

📖 『わたしの「もったいない語」辞典』(中央公論新社編)

「もったいない」とは、本来あるべき姿がなくなってしまうことを惜しみ、嘆く気持ちを表した言葉。「今はあまり使われなくなって”もったいない”と思う言葉=もったいない語」(……)

本書の冒頭で上記のように書名の意味を告げ、次いで150人の著名人が一人一つの言葉を惜しんだり偲んだりして一文をしたためている。その中から川本皓嗣こうじ東京大学名誉教授の『黄昏――楽しみたい魅惑の時』を抜き書きする。

ヨーロッパにあって日本にないものの一つに、黄昏たそがれがある。ただし、夕方うす暗くなって、「かれ」(あれは何だろう)といぶかるような時間帯がないわけではない。日本にないのは黄昏を愛し、存分に楽しむという文化であり、これはまことに勿体もったいない。

いや、そんなことはないと異議を唱える向きもあるかもしれないが、ぼくは著者に同意する。フィレンツェやパリで黄昏時にそぞろ歩きして、同じ印象を受けた。

日本には黄昏ということばはある。しかし、人と黄昏の間には距離がありそうだ。「黄昏」という文字と「たそがれ」という発音から詩情を感じているだけで、自らが黄昏に溶け込んで楽しんでいるとは思えない。わが国の黄昏はロマンチストたちの概念の中にとどまっているのではないか。黄昏と言うだけで、黄昏に身を任せないのは「もったいない」。

📖 『イラストで見る昭和の消えた仕事図鑑』(澤宮優=著/平野恵理子=イラスト)

「消えた」であって、「消えそう」とか「消えつつある」ではない。したがって、本書に収録された仕事のうち、質屋、紙漉き職人、畳屋、駄菓子屋、チンドン屋、靴磨きは今も時々見かけるので消えていない。子どもの頃によく見かけたが、今は絶対に見かけないものの筆頭に「ロバのパン」を指名した。

ロバに荷車を引かせてパンを売る方法は、昭和六年に札幌で(……)石上寿夫が(……)営業したのが始まりだった。たまたま中国から贈られてきたロバをもらった石上は、愛くるしいロバにパンを運ばせると人気が出るのではないかと考え、移動販売を行った。

昭和30年の半ばまでロパのパン屋が大阪の下町の町内にやって来ていた。あの生き物がロパだと見極めたわけではないが、ロバと名乗っているのだからそう思った。しかし、次のくだりを読んであれがはたしてロバだったのか、怪しくなった。

昭和二十八年夏には(……)浜松市、京都市で馬(木曽馬)に荷車を引かせてパンを売るようになった。実際は馬に引かせているが、「ロバのパン」としてイメージされ人気を呼んだ。昭和三十年には『パン売りのロバさん』(後のロバパンの歌)というテーマソングが流れるようになる。

昭和28年や30年ですでにロバではなかったようだ。ぼくが町内に流れてくる歌を耳にして家を飛び出し、物珍しがったのはその数年後であるから、あの生き物はすでにウマだったのである。パンは生き残ったが、ロバは早々に消えた。そして、ロバからバトンを渡されたウマもとうの昔に消えているのである。

他人の口癖を拾って数える

自分の口癖に本人が気づくことはめったにない。口癖は他人の耳に胼胝たこを作る。口癖というものは他人に気づかれ、本人には知らされない。わずか23分の話の間に10回以上「めっちゃ」を繰り返した女性がいたが、高揚した本人はそのことをまったく自覚していない。

語彙不足気味の評論家や講師には口癖の多い人が目立つ。言いよどみかけたら「やはり/やっぱり」を挟む。理由もないのに「だから」を多用して、筋が通っているように見せかける。「要は、要するに、つまり、言い換えれば」と転じたものの結論めいたものはなく、何を言っているのかよくわからない人もいる。

政治や行政の関係者には微妙な違いを「温度差がある」と言い、最優先課題という意味の「1丁目1番地」が気に入っている人が少なくない。また、「~するところでございます」や「~してまいります」という時代がかった常套句もよく耳にする。口癖は形式であって、ほとんど意味を持たない。

一対一の会話の中の口癖は一人で一手に引き受けなくてはならず、リアクションのしかたに困ることがある。大げさに「ウソ!? ホント!?  マジで!?」と合いの手を入れる人。以前、何を言っても、ワンパターンな「でしょ!?」で同意する強者つわものもいた。「はい」や「そうです」と軽やかでいいのに、「左様でございます」と応じた人よ、あなたは武士の末裔か。

どんなことを尋ねても、「全然大丈夫です」という店員もいる。「有料のレジ袋はご入用ですか?」や「○○アプリはお持ちですか?」も耳に付く。どちらも口癖ではなく、教えられたマニュアルトークだ。「バッグ持ってます。ポイントはないです」と機先を制すれば聞かれずに済む。 

1分や2分の短い間に同じことばが繰り返されるから口癖だと認識する。他人の口癖を拾ってしまうのは話の中身が薄く手持ちぶさたになるからだ。退屈な話をする話者のせいで、口癖を数える癖がついてしまった。逆の立場にならぬよう気をつけたい。