見聞雑記

備忘録 なぜノートを書くのかと問われれば、「考えるため、考えを明快にするため」と答える。記録していればいつでも読み返せるが、ぼくにとってそれは目的ではなく「おまけ」のようなものだ。備忘録ということばがあるように、忘れないために書く人もいる。

熱心にメモを書く男性がいた。何でも書く。ところが、いくら書いても重要なことはすっかり忘れてしまう。記録するから安心して忘れるのか、それとも書くこと自体が惰性なのか。彼は書いてしまうとほとんど読み返さなかった。読み返すことを忘れてしまった。考えもせず記録するだけで読み返しもしなければ、記憶に残るはずがない。無機的に書いて、書いたものを思い出すきっかけもないから備忘になっていない。“To do list”で仕事やアポを一覧化すればと勧めたが、書いたものを引き出しの奥にしまい込んでチェックしないから、まったく効果がなかった。

一般 しっくりこないことばに一般人というのがある。「芸能人Kのお相手は一般女性」というあれである。一般という表現に意外感のニュアンスが込められている。一般の対義語は「特殊」なので、芸能人なら「特殊女性」と一緒になるのが通念なのだろう。そう言えば、島田紳助も引退時に「明日からは一般人ですから」と言った。一般的な話になるが、一般という表現の使い方は微妙であり、わかったようでわからない。

盗塁 ここ一週間、ワールドベースボールクラシック(WBC)を観戦している。ゲスト解説が原辰徳、しかも盗塁の場面になると、野村克也の揶揄を思い出す。原、当時読売巨人監督。野村、当時東北楽天監督。交流戦の9回裏ツーアウト、ランナー一塁、巨人の攻撃場面。スコアは42で巨人劣勢。原は2点差なのに一塁ランナーを果敢に盗塁させた。セカンドベース前でアウトになり試合終了。試合後、野村は記者団の前に現れ、メロディを付けて「 バッカじゃなかろか、ルンバ」とコメントした。同業者をこのように小馬鹿にするのはなかなかできるものではない。

一番 時々「一番論と唯一無二論」の話題が出る。ご存じ、ナンバーワンかオンリーワンかという話である。一番も唯一無二にも縁がないのでさほど関心はない。「二番じゃダメですか?」というのもあったが、何を戦っているか次第。一番と二番に圧倒的な差異を認める世界もあれば、僅差と見てくれる世界もある。予選上位2名が準決勝進出なら、無理して一等を狙うこともない。数年前のコマーシャルに「一番売れているものが一番おいしい」というのがあった。くだらないし情けない。一人前を作るよりも四人前を作るほうがおいしい料理があるし、大きな樽で熟成させるワインが味わい深いということはある。しかし、量的販売指標と美味には何の関係もない。よく売れるのは人気があることの証明ではあっても、おいしさを保障しているわけではない。

服装 この時期はまだいいが、3月末から4月中旬あたりの装いは難しい。寒暖対応とファッション性を重んじるむきには、何を着るかは悩ましいに違いない。服装にはまったくかまわないのを「無頓着」と言い、かまうのを「頓着」という。頓着とは執着やこだわりのこと。このことばはまるで服の着飾り専用に作られたかのようだ。服装は目に見える。目に見えるものばかりに頓着していてはいけないのだろう。

「そう、確かに、見かけと中身とは往々にして似ても似つかぬ。人はいつでも見た目の美しさに、つい欺かれるもの」
(シェークスピア)。

ブリコラージュ雑記

文化人類学者レヴィ=ストロースは、日頃から寄せ集めてきた材料を使ってものを作ることを〈ブリコラージュ〉と呼んだ。ぼくは日頃からいろんなことを断片的に書いてまかない風に文章を綴っている。言ってみれば、ブリコラージュ雑記のようなものが元になっている。


敬虔な寡黙  寒空のもと、堀の水面にただ影を落として沈黙する城の石垣。ぼくはと言えば、すっかり疲れているにもかかわらず、語りえぬものを今もなお饒舌に語り続けていて、まだ懲りない。やむをえない。居合わせた人間がみんな敬虔な寡黙を貫けば、何も動かないだろう。威風堂々とした巨石は黙って動じないが、ちっぽけなぼくたちは喋って動くのがお似合いだ。

翻訳不能性  年末に贈られたあんぽ柿がちょうど食べ頃になってきた。調べたわけではないが、あんぽ柿は日本の特産に違いない。英語圏に存在しないものは英語に訳せない。「いや、ネットで調べたら、あんぽ柿は“partially dried Japanese persimmon”と書いてありましたよ」。きみ、いちいち「パーシャリィ ドライド ジャパニーズ パーシモン」と言うのかね。長ったらしいから、頭文字をつなげてPDJPとでも呼ぶ? 「部分的に乾燥させた日本の柿」などというのは単なる説明に過ぎないではないか。「では、どう言えばいいんですか?」 きみ、見たことのないものはどう説明しても、どんなに巧妙に訳しても伝わらないのだよ。だから、“anpo gaki”と言うだけで済む。

幸せは少しずつ  先日観た映画『皆さま、ごきげんよう』はシュールなコメディで、ぼく好みだった。パンフレットに「幸せは少しずつ」とあり、これに異議はない。続く文章が「寒い冬の後に花咲く春がやって来るように、明日は今日よりも良いことが待っている」。皆さまの明日がそうなることを願ってやまないが、現実を直視してみよう。そんな都合のよい展開ばかりではない。

『欲望の資本主義』  BSのこの番組は出色の内容だった。とりわけ経済の諸現象をコンパクトにあぶり出す表現に大いに関心した。たとえば「現代は成長を得るために安定を売り払ってしまった」……「見えざる手などない。ないものは見えない」……。拙い詩を書いてみた。

それは明るいのか
それは暗いのか
それは見えるのか
それは見えないのか
それは過去なのか
いや、近くに忍び寄る未来

午前1150  電池の切れている腕時計があるのを思い出し、電池交換しようと引き出しを開けた。とある土曜日、時刻は午前1150分。取り出した時計、きっかり1150分を指していた。「おや、修理したのだったか……」。記憶が危うくなっているのではと少々不安になる。秒針は動いていないが、この時計は秒針を止める省エネ機能付き。なので、分針の動きを1分間じっと見つめた。左手首の腕時計と交互に見比べ、やはり電池切れだと確認できた。記憶に間違いがなかったことに安堵して出掛けたが、電池交換するのを忘れた。引き出しの中から机の上に場所を変え、その時計は今も長期休暇続行中である。

気の向くまま雑記

「気まぐれ雑記」を書く気になったが、先月と同じ題名では芸がないので、今回は「気の向くまま雑記」とした。次に書く時はまた一ひねりしなければならない。


ダリⅠ  「背徳的にして多角経営的、無政府主義者にして超現実主義者であるダリ、ルイス・ブニュエルと映画『アンダルシアの犬』や『黄金時代』を共同でつくったあのサルバドル・ダリをめぐる手紙の公刊は、何にもまして美味であるにちがいない」という一文がある。誰が書いているのか? ダリ自身である。ダリの『ダリとダリ』という本の「はじめに」の冒頭である。他人事のように堂々と書いているのがすごい。

ダリⅡ  二週間前に「日曜美術館」を観た。ダリのことばが紹介されていた。「もっとも写実的な絵がもっともシュールリアリズム」。そうかもしれない。たしかダリ自身が言ったと記憶しているが、コッペパンを精細に描けば描くほどレンガのように見えてしまうらしいのだ。ぼくにもそんな体験がある。写実的に描いたつもりの対象が別のものとして立ち現れてくる。それはまさにシュールだろう。

ヒルガオ  ルイス・ブニュエルと言えば、仏伊映画『昼顔』の監督でもある。主演はカトリーヌ・ドヌーヴ。アサガオしか知らなかった十代半ばの少年は初めてヒルガオの存在を知った。ところで、アサガオはヒルガオ科に属する。昼のほうが朝よりも大きな概念なのである。あのようなストーリーの映画の題名に『朝顔』は清々し過ぎる。『昼顔』のほうがあやしさが出るから、妥当なタイトルであった。

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ブラックフライデー  昨日のこと。遠目に頻繁な人の出入りが見えた。近づくと店内はごった返している。「50%OFF」が目に入る。疎い世界なので、飲み込みに時間がかかった。そうか、これが噂のブラックフライデーか……。しかし、「今日はサタデーではないか」と思いつつ、入ってみることにした。

冬である。オフィスのぼくの席はエアコンの位置から遠い。暖房を入れても寒いのである。だからスーツの上着を着たままデスクワークをする。カーデガンを置いていたこともあるが、どういうわけかしっくりこなかった。そんなこんなの思いがよぎって、オフィス用にこの一着を選んだ。定価12,900円の半額ということは……と暗算していたら、この商品は3,900円だった。なんと70%OFFだ。定価との差が大きい。そうか、それで“GAP”なのか。

ハピネス  ここまでの小見出しに合わせてカタカナで表記する。幸せは英語で“happiness”だが、昔から「ハピネス」の語感にあまり幸せを感じたことがない。たまに「ハッピネス」とも発音するが滑稽味が出てしまう。なお、「はっぴねす」と入力してもカタカナ変換してくれない。

いつもの寺の今月の標語に「幸せとはご恩を見つけること」とあった。幸せの代わりに「ハピネス」と書けば有難味が薄くなる。さて、幸せとはご恩を見つけることなのか。そうではないと思う。幸せは見つけるものではなく、感じるものではないか。幸せを感じる人が幸せになれるのではないか。

アメ  机の上にスーパーメントールののど飴がある。置いているだけでめったに口に放り込まない。喉が痛まないようにというおまじないみたいなものだ。机の上にアメ、外もアメ。外で用事があったが断念して引きこもることにした。音楽でも聴くか。どんな音楽を聴くか。雨の曲はどうだろう。

雨は歌詞になりやすく曲を付けやすそうである。調べてみればきっと雨をテーマにした歌はいくらでも出てくるに違いない。しかし、晴天はどうか。歌にしにくいのだろうか。青々とした空の歌は思い浮かばず、洗濯機の「青空」しか出てこない。青空が出てきたら「からまん棒」である。知っている人は知っている、知らない人は知らない。

気まぐれ雑記

週に3日も出掛けると、出先でまとまった文章を書けない。文章は書けないが、頭はいくらかでも働いているので、いろいろなことに気づき考えもする。ほとんどはメモするにも値しない、どうでもいいことばかり。それでも長年の習性ゆえ、走り書きをする。そんな気まぐれ雑記が溜まる。吐き出しておかないと、何だか仕事をサボったような気になる。


記憶 自転車を漕いでいる時にあることがひらめいた。ひらめいた瞬間、自画自賛するほどのアイデアだと思った。そこまでの記憶はあるのだが、そのアイデアが何だったのかは思い出せない(自転車を止めてでもメモしておくべきだった)。

季節 風が爽やかな夕方だった。「秋の宵」が頭に浮かび、「風爽やかに」と続けたら句ができそうな気がした。だが、あることに気づいたので断念した。断念して、こう書いた。「秋の宵風爽やかにダブル季語」。秋の宵も爽やかも秋の季語なのである。

駅弁 駅でない所で買ったのに、その弁当を駅弁と呼び、いつまでも駅弁を食べたという事実を引きずっている。

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速乾 「すぐ乾く超速乾性」というふれこみの水性ボールペンを買った。使わずにしばらく置いていた。先週、たまたまチャンネルを合わせたテレビの番組でこのペンを取り上げていた。速乾性に自信満々である。買っていたペンでペンの名前を書き、指でこすってみた。こんな具合である。そもそも、ほどほどの速乾性があればいいと思うのは縦書きの場合だ。横書きでは書いた文字の上を小指球でこすることはない。

説明 仕事柄何事にも説明を加える癖がある。一種暗黙知化したこの癖ゆえに仕事を委託してもらっている。しかし、この癖は曲者だ。美的感覚を損なうからである。もともと美的感覚には不条理の要素がある。説明は不条理を許さない。ゆえに、過度になると人間も文章も粋でなくなり、つまらなくなる。気をつけたい。

喫茶 カフェよりも長居が似合う喫茶店 /  岡野勝志

割烹 ぐるなびや食べログの上位にランクされ、自らも大々的に宣伝している、自称「隠れ家的割烹」。全然隠れていない。丸見えである。

ノート拾い読み

「モーニング散策」と言ったら、「朝の散歩」と思われた。
「ぼくはあまり朝歩きはしないんですよ」
「じゃあ、モーニング散策って何?」
「自慢するほどのことではないんですがね、『モーニング』の良さそうな喫茶店を探し求めることなんです。歩くのは二の次」


若い頃からかなりの時間を割いていろんな表現を覚えてきた。覚えたものを使いこなすにはさらに時間がかかる。ことばには熟成が欠かせない。それに、使ってやろうと思っても使えるものでもない。場違いな使い方は無様である。

「多々益々弁ず」という成句を使う絶好のタイミングがあった。しかし、「話すこと言うべきことがどんどん増える」という意味に取られた。「弁」という字から連想するのか、弁術や弁論のことだと思われる。この表現、言や話のことではなく、「事」である。仕事や家事が多くなればなるほど巧みに処理する様子を表わしている。

せっせと身に付けてきた表現群の半分も通用しない時代になっているのかもしれない。


ノートのおよそ四分の一は読書の際に書き写した「引用文」である。引用文には出典を記す。しかし、たまに忘れてしまって、後で厄介なことになる。突き止められないのである。

「ヴィトゲンシュタインは理性的な判断は行動になって現れると考えた。そして説明というものは、記述で終わる必要があると。そうでないと終わりというものがないからだ。(……)」

一年半前のノートだが、最近読み返して下線部がえらく気に入ってしまった。前後を再読してみたいと思うものの、出典がわからない。ここ一年半以内に読んだ本を本棚から探し当てるのは難しい。しかし、おもしろいもので、微かに残っている記憶の糸を手繰っていき、ついにニコラス・ファーン著『考える道具』を突き止めた。デジタル万能に見える時代だが、手書きノートや本などのアナログも侮れない。記憶はバックグラウンドで働いているから、脳内検索を諦めてはいけない。


大海原

他方、きちんと出典を書いている文章もある。そこには後日再読して気づきを書き加えていることが多い。引用文は考えるきっかけになってくれる。

(……)「太平洋」は江戸時代まで我が国では何と呼ばれていたのだろうか。
じつは、「伊豆沖」「江戸沖」「宮城沖」などそれぞれの地域の「沖」という名前で呼ばれていたのである。
(山口謡司『日本語通』)

大西洋は「大」なのに、太平洋は「太」。もちろん「太い」という意味ではない。パシフィックオーシャンをほぼ直訳した「太平の海」のことである。それにしても、太平洋などという概念があったわけではない。村人にとっては村という「クニ」がまずあって、その後に大きな概念である国家という「クニ」が生まれた。海際に住む人々も同じだった。目の前の海を太平洋などとは呼んでいなかった。地元にとっては沖であり、そこに地名を冠して親しんだのだった。山も川も里も田もみんなそうだったに違いない。


ロシアの最東端に位置する山脈がある。チュコート山脈がそれ。日本列島から右上に目線を延ばすとカムチャッカ半島があり、その先に山脈の名が書かれている。そして、何度見ても、いつも「チョコレート山脈」と読んでしまう。


書きっぱなしで読み返さないノートほど無駄なものはない。書くことに意味があるのではなく、書いてからが勝負なのである。だから、ノート習慣を続ける人は時折り在庫管理をして更新する必要がある。それが脳内検索力と相互参照力を高めてくれる。要するに、自分で書いたノートを愛読書にしてしまえばいいのである。

バカバカしいけど書いてみた

不思議なもので、好奇心のおもむくまま気に入りそうなものを追いかけていると、モノであれ情報であれ光景であれ、自分の圏内にすっと入って来る。まるで砂鉄が磁石に引き寄せられるように。心身の調子がよい時に散歩すると「氣」が漲ってきて、意識を強くするまでもなく、波長の合うものがどんどん視界に飛び込んでくる。

ところが、いったん波長が狂い始めると、とんでもないものばかりが見えたり聞こえたりしてくる。「バカバカしい」と内心つぶやくものの、目に焼き付き耳にこびりつき、気がつけば、見過ごせない、聞き流せない状況に陥っている。そんなこんなをバカらしいけど書いてみる。


青汁になんと乳酸菌が100億個!!
くだらない情報である。なにしろ100億個なのだ。「えっ、90億個じゃなくて、100億個!?」 まさか、そんなふうに驚くはずもない。そもそも、想像の域を超える数字に「すごい!!」などと言ってはいけないのである。「ふ~ん、だから?」というのが正しい。次に、「従来品は100億個でしたが、新商品にはなんと108億個の乳酸菌が入りました」と聞かされても、知らん顔しておけばいい。

ビジネス脱毛――昨日よりイケてるビジネスマンに
自宅のポストに入っていたチラシの見出しである。毛深い男が小ぎれいに変身して仕事ができる男というイメージを醸し出す(つもり)。それを「ビジネス脱毛」と呼ぶことにした。何という表現だ。ビジネス脱毛がありなら、プライベート脱毛、パーティー脱毛、合コン脱毛……何だっていい。ついでに、円形脱毛やミステリーサークル脱毛もメニューに加えてみればいい。まじめなつもりのコンセプトなのだろうが、結果はギャグを演出することとなった。

新聞の見出し「パナ子会社社員を逮捕……」
パナが「パナソニック」であると認知する前に、不覚にも「パナ子」と読んでしまったではないか。えっ、パナ子が会社社員を逮捕!?  パナ子は婦人警官か。

ボクシングダブルタイトルマッチの新聞記事

これも新聞記事。見出しに「ほぼ互角」とあり、「そうなんだ」と思ったのも束の間、見出しの後半には「井岡優位」と書いてある。互角なのか優位なのか決められない、優柔不断な記者。ところが、右端の縦書きを読めば「あすダブル世界戦」とあり、本文に目を通せば、何のことはない、「ほぼ互角 激戦必至」は一試合目の予想、「速さと技 井岡優位」が二試合目の予想だった。そんな勝手な「スラッシュ」の使い方はルール違反。文章だけでなく、文字の配置にもロジックというものがあるのだ。

1点リードされていますが、焦ることは――あと45分ありますから――ないですね」
NHKアナウンサーの気まぐれ挿入句。文字を読めばわかるかもしれないが、テレビの音声なのだ。「あと45分ありますから、ないですね」と聞いたのである。あるのかないのか、ありそうでないのか、なさそうであるのか。「焦ることはないですね、あと45分ありますから」と言えばいいものを。なでしこジャパンが豪州に負ける予感がした。予感通りの結果。

保育園落ちた 日本死ね!
黙殺されるだろうと思いきや、想像以上の注目を集めている。正直、驚いている。いかに正論であろうと、暴言的表現に包まれたメッセージは訴求力を失うものだ。匿名で声を荒げる証言はエビデンスにはなりえない。コワモテの萬田銀次郎が、たとえまっとうな話をしても、品性や知性を欠いて怒鳴れば、世論が共感するはずもないのである。

壊れた公衆電話

堂島で見かけた公衆電話の貼り紙
雨風にさらされた痕跡がありありの薄汚い公衆電話。受話器を触るのに少々勇気がいる。貼り紙にはこう書かれている。

大変、ご迷惑をお掛けしております。只今、この電話は調整中です。お手数ですが、他の電話をご利用下さい。 

調整中って何だろう。「故障」を体裁よく言い換えているのか。NTT西日本では「故障」は禁止用語なのかもしれない。まあ、そんなことはどうでもいい。「大変、ご迷惑……」とはなんと大仰な! 携帯・スマホの時代、公衆電話が一台故障して迷惑をこうむる者はいない。仮にこの電話が気に入っている常連さんがいるとしても、全然大変であるはずがない。実にバカバカしい。バカバカしいけど書いてしまった。

続々・大笑いするほどではないけれど……

シリーズ化するつもりはないが、『大笑いするほどではないけれど……』と題して書き、その後に『続・大笑いするほどではないけれど……』を書いた。タイトル通りのよもやま話やエピソードである。長文を紡ぐほどではない小さな話をいくつかまとめて書くという、ただそれだけのことであって、大それた意図があるわけではない。前回が「続」だったので、今回は「続々」である。気まぐれなので番号を付ける気はない。ふと、作曲家でエッセイストの團伊玖磨の『パイプのけむり』シリーズの題名について、以前このブログでも書いたことを思い出す。まずはその話から。

パイプのけむり  読んだ人よりも読んでいない人のほうが多いに決まっている。ぼくの周囲では、團伊玖磨のことも『パイプのけむり』と名付けられたエッセイのことも知らない人ばかりである。このエッセイは『パイプのけむり』に始まって、その後26冊も続いた。

続パイプのけむり、続々パイプのけむり、又パイプのけむり、又々パイプのけむり、まだパイプのけむり、まだまだパイプのけむり、も一つパイプのけむり、なおパイプのけむり、なおなおパイプのけむり、重ねてパイプのけむり、重ね重ねパイプのけむり、なおかつパイプのけむり、またしてもパイプのけむり、さてパイプのけむり、さてさてパイプのけむり、ひねもすパイプのけむり、よもすがらパイプのけむり、明けてもパイプのけむり、暮れてもパイプのけむり、晴れてもパイプのけむり、降ってもパイプのけむり、さわやかパイプのけむり、じわじわパイプのけむり、どっこいパイプのけむり、しっとりパイプのけむり、さよならパイプのけむり。

最後の『さよならパイプのけむり』の翌年だったか、團は亡くなった。そして、パイプのけむりは消えた。

倍率  この一週間でぼくがひときわ愉快がったのが職員募集に対して応募者が殺到したインドの話。ウッタルプラデシュ州が雑用担当の職員を368人募集したところ、なんと230万人(!!)が応募してきたのである。この数字は州人口の1パーセントに相当する。倍率は6,250倍。ぼくが志望した大学の倍率は36倍で、受験前から絶望的であったが、そんな比ではない。書類選考ではなく、面接をするとなれば4年かかるそうである。雇用戦線はいずれの国も厳しいが、もはや「厳しい」などという表現では間に合わない。

アイスコーヒー

アイスコーヒーの注文  ホットコーヒーを飲もうと思ってカフェに入ったものの、注文したのはアイスコーヒーだったという経験は誰にあるだろう。その日のぼくもカウンターで予定変更した。一人だったので「アイスコーヒー」とだけ言った。そう言ってから、サイズが「ショート、レギュラー、ラージ」と3種類あるのに気づいたので一言添えようとした瞬間、店員が先に「アイスコーヒーのほう、ショートで大丈夫ですか?」と聞いてきた。「大丈夫」と来たか……。何が大丈夫なのか知らないが、困ることもなさそうなので、反射的に「はい、大丈夫です」と答えた。

縁起のいい姓  五年前のノートを繰っていたら、宝くじツアーの話を見つけた。宝くじを買う前にバスで吉兆名所を巡るという企画だったような気がするが、確かではない。このバスツアーの運転手の姓が見事で、金持かねじさん、三宝さんぽうさん、御幸ごこうさんだった。「縁起がいいかもしれないけれど、みんなバスの運転手をしているじゃないか」と誰かが皮肉ったが、それを言ってはいけない。宝くじバスツアーの運転手になれる可能性の高い名前であると言うべきだろう。

風と凪  「ぬ」と「め」が似ていて、「ね」と「れ」と「わ」が似ているなどと思った幼い頃。あの時の感覚がよみがえることがある。なぜ「ぬ」をnuと発音し、「め」をmeと発音するのかと詮無きことを考えたりもする。

強い風が吹いた先日、「風」という漢字に不思議が沸々と湧いた。風が止むと「なぎ」になる……風の中には「虫」がいる……虫は鳴く……鳴かない虫は「さなぎ」……さなぎの中に「なぎ」がある……。こんなことを連想してどうなるわけでもないが、どこかで愉快がっている自分がいる。

続・大笑いするほどではないけれど……

“It”の話  今年のゴールデンウィーク、キャサリン妃に女の子が生まれた。あの「街の告げ人」であるおじいさんは“It’s a girl!”と言った。赤ん坊と言えども人間だ、なのに“it”(それ)とは失礼な、とネイティブでない人たちは思ったらしい。女の子だから“She’s a girl.”ではないのかと。いやいや、赤ん坊は“it”でいいのである。この主語に特に意味はない。“It rains.”(雨が降る)の“it”みたいなもので、「それ」と言っているわけではない。だいいち「それは女の子!」だと言うはずもないだろう。「彼女は」とか「彼は」と言えば、もう性別は明らかになってしまう。“He’s a boy!”などは「一見、女の子に見えるけど、実は男の子なんだ!」というニュアンスになる。あのおじいさんは「赤ん坊は女の子!」と告げたのである。

ミニホットうどん (2)

定食屋の話  仕事柄いつどこにいても文字や表現を真剣に見る。看板も店員の名札もメニューも。注文の品が出てくるまでは壁に貼ってあるポスター類に目を配る。ある定食屋で壁に掲げたお品書きに気づいた。コロッケセット、いいだろう。ミニ冷しうどん、いいだろう。では、その下のミニホットうどんって何なのだ!? ふつう「うどん〈温・冷〉」と表記するが、「ミニホットうどん」なのである。「温」ではなく「ほっと」でもなく、カタカナで「ホット」なのである。これはおそらく日本初のアヴァンギャルドではないか。

傾聴力の話  傾聴力の話をしていたのに、誰かが「盗聴力」と言い間違えた。最初明らかに言い間違いだと思ったが、彼は傾聴と盗聴が同じだと思っていたかもしれない。両者には一所懸命に聴くという共通の意味がある。

ディベート活動をしていた頃、ホテルの会場を予約してくれた女性は電話口で「関西ディベート交流協会」と言った。「念のためにファックスしたほうがいいよ」と助言したが、彼女はそうしなかった。開催当日、会場前には「関西リベート協会」という貼り紙があった。以前、薬局で「眼精疲労」と言ったら、「男性疲労?」と聞き返された。欲しいのは目薬、精力剤ではない。言い間違いに聞き間違い、結構ある。

まさかと思うだろうが、従弟いとこ徒弟とてい紅葉もみじ紅茶こうちゃ落葉おちば落第らくだいなどの読み間違いも少なからずあるらしい。ワープロ全盛の今、手書きの書き間違いは枚挙にいとまがない。

鮨屋の話  今日ランチタイムのピークを過ぎた鮨屋に入った。店内25席だが、誰もいない。あいにくお目当ての海鮮丼は売り切れ。十貫の並にぎりを注文してしばし待つ。耳に入ってくるのは鮨屋らしくないBGM。曲が変わり、次はトワ・エ・モワ。♪ 今はもう秋 誰もいない海 ……。タイミングが良すぎる。「今はもう昼過ぎ、誰もいない店」と即興替え歌の一丁上がり。ちなみに、この曲を引き継いだのは加山雄三。茶化すネタはなかった。

翻訳の話  英仏伊の文章を読む時には面倒でも辞書を引くようにしている。自動翻訳システムが文法に弱いことを知っているので、決して頼ることはない。しかし、馬鹿げた日本文に苦笑することになるのだが、たまに腕前を見てやろうと思うことがある。先日、m(_ _)m という顔文字の下に「翻訳を見る」という表示があったので、クリックしてみた。初めて自動翻訳の完璧な訳にお目にかかった。訳された結果は m(_ _)m だった。

大笑いするほどではないけれど……

発想のヒントになるエピソードはどこにでも転がっている。エピソードのほとんどはことばを介してやって来る。だから、ことばへの好奇心のアンテナを折り畳みさえしなければ、意識のほうが勝手に拾ってくれるものだ。別の見方をすれば、愛用のノートに採集したエピソードの数がその時々の意識の強弱に正比例する。この一か月、線の加工を施さねばならない硬派なテーマ――たとえばギリシアや国立競技場など――には何度か立ち止まったが、点のまま書き出せるようなレアな小ネタとの縁は希薄だった。それでも、そのいくつかを書き出してみることにする。


魚の話  テレビの番組でハマフエフキという魚が紹介された。こいつが何目の何科かを調べようと思って魚の分類表をネットで調べようとした。「ハマフエフキ」でよかったのに、どういうわけか、「サカナ」と入力して検索ボタンをクリックした。おびただしい魚介類を尻目に、あの「サカナくん」が一番最初に出てきた。もうハマフエフキのことなどどうでもよくなるほど驚いた。

けれども、めげずにハマフエフキを調べた。鯛の種で、鯛はスズキ目。ついでに、イワシはニシン。マグロはスズキ目のサバ科……。目、科、属などのレベルで、これとあれが仲間だと初めて知る。魚だけに「目から鱗」が落ちる。

回文の話  〈知遊亭〉というオンラインの大喜利のイベントで「回文づくり」を出題した。回文とは上下同読のことば遊び。「たけやぶやけた竹藪焼けた」の類い。出題者のぼくもエキシビションとして長文の作品を投稿した。回文づくりにいそしむと、数日間は尾を引く。後日、「ちじのじち知事の自治」や「さんかんびはびんかんさ参観日は敏感さ」などが勝手に浮かんできた。高じてしまうと知恵熱が出たりする。

エッフェル塔

エッフェル塔の話  今では間違いなくパリ観光の集客の目玉であるエッフェル塔だが、建設当時は賛否両論で火花が散った。モーパッサン(1850-1893)は嫌悪していた。それでもパリで生活するかぎり、嫌でも巨大な塔は目に入ってくる。モーパッサンは考えた挙句、ついに塔を見なくてもいい場所を見つけた。「エッフェル塔のレストランで食事をしていれば醜い鉄塔を見なくてすむ」。こう言って、毎日エッフェル塔で食事をしたという。

ニュースの話  ほとんど毎日のように聞くNHK7時のニュース。「7時になりました」という言い方を奇妙に感じた83日(別にその日に意味はない)。どういう経緯で7時になったのか。勝手になったのか。いやいや、人間が便宜上7時にしているだけだ。しかし、ニュース番組のイントロは「7時です」ではなく「7時になりました」で始まる。英語では”It’s seven o’clock.“と言い、形式主語の”it“で暗に時刻を示す。つまり、「時刻は7時です」と言っている。それでいいはずなのに、「7時になりました」なのである。

わが国では(そして、たぶん日本語の特質でもあるのだろうが)、「何々はこれこれである」のように言うよりも「何々はこれこれになった」のほうが共感性が高い。学会でも「こういう結論を導きました」よりも「こういう結論になりました」と言うほうが収まりがいいと言われる。居酒屋の「こちら、焼酎のお湯割りになります」というのもこの亜流だろうか。

インド人の話  同じマンションの5階にインド人が住んでいる。一昨日の朝、エレベーターに彼が乗ってきた。「おはようございます」と挨拶を交わした後、彼のほうからぼくに声を掛けてきた。長年日本に住んでいるから流暢な日本語で「今日も暑くなりそうですなあ」と言う。「この時期の日本はインドより暑いんじゃないですか?」とぼく。「そうそう! インドはこの暑さの七、八分どまりですわ」と彼。「七、八分どまり」という達者な表現に感心した。なお、彼は大阪弁も堪能である。「今日はえらい暑うおまんなあ」とひねることもある。

バッハから……ブッダまで

今日のことば、あれこれ。ただ書くがまま思うがままである。他意はない。

バッハのすべて編集

『バッハのすべて』を読む。もちろん、この一冊でバッハのすべてがわかるはずもないし、わかってやるぞと思うわけではない。バッハは作曲家であり演奏家であり教育者であった。すべてに超のつく「めい」がつく。加えて、楽器、とりわけオルガンの名鑑定家としても知られていた。18世紀当時、オルガンと言えば教会。響きには北ドイツ系、オランダ系、フランス系などがあったという。オルガンは製作されるものではなく、「建造」されるものであった。そんなプロジェクトにバッハは関わってもいたのである。

「音楽は精神の中から、日常の生活の塵埃じんあいを除去する。 」
ヨハン・セバスチャン・バッハ)

三年前の今頃、パリはサン・ジェルヴェ・サン・プロテ教会。そこで最古のパイプオルガンの響きを体感した時、音楽の奇跡的な浄化作用を確信した。塵埃が積もり過ぎてしまう前に、精神、つまりは脳の自浄作用が働くように音楽サプリを摂取しておくのがよい。


柿が好きだ。昨夜も京都でほどよく熟した柿のデザートを堪能した。今夜も食後に柿を食した。酸味のある果物が苦手と思われているのだが、そんなことはない。ただ、口あたりのよいほどよく甘い果物のほうが好きだというだけのことである。それにしても、果物はえらいと思う。八木重吉にこんな短詩がある。

 果物

秋になると
果物はなにもかも忘れてしまつて
うつとりと実のつてゆくらしい


昨日花園大学に行った際に『ブッダのおしえ  「お経」のことば』という小冊子が廊下のテーブルの上に置いてあった。「自由にお持ち帰りください」とは書いていなかったが、持って帰っていけないわけがない。と言うわけで、今手元にある。

八正道はっしょうどうの話が書いてある。煩悩の根本を滅ぼして執着しゅうじゃくを離れれば苦しみがなくなる……そのために修めるべき八つの正しい道がある。

正見  (正しい見方)
正思惟    (正しい考え方)
正語        (正しいことば)
正業        (正しいおこない)
正命        (正しい生活)
正精進    (正しい努力)
正念        (正しい思い)
正定        (正しい心の統一)

実は、数年前からぼくの企画の演習の中にも取り入れている。上記の八正道を紹介した後に「八正道を九正道にしたい。あと一つ何を付け加えるか?」という演習。やさしそうだが、すでに存在している八正道との折り合いもあるから、やや骨が折れる。正食、正縁、正聴などが加わってもよさそうだ。正笑や正遊も候補に挙がるかもしれない。