理系と文系の話

「理系おもちゃ」なるものがあるのを先日テレビで知った。女子に理系への興味を持たせるためだそうである。

人を理系タイプと文系タイプに分類するのは学問体系的な視点であり、大学で学んだ人たちに多い発想だ。大学に入ってからは学科が枝分かれする。ややこしいので、理系と文系に大雑把に分ける。中高卒の人たちはめったにそんな話を持ち出さない。少年少女は理系・文系などと自分を型にはめることはめったにない。あるとしても、「宇宙飛行士になりたい」とか「ケーキ屋さんになりたい」と言うくらい。

動物、草花、空、家々……日々使う道具の類……時事的な諸問題……どこからどこまでが理系で文系なのか。そんな線引きは現実のどこにもなく、架空の概念にほかならない。「女子に理系への興味を持たせる」と言う時の、理系とはいったい何なのか。興味や行為の境界線はどこにあるのか。

希望する学問がいわゆる文系だとしても、本家理系よりも数学が得意というケースがある。工学部だがロボットに不案内の学生がいるし、小説好きの宇宙マニアがいる。医学部出身の小説家には森鴎外、安部公房、北杜夫らがいる(文学部出身の医者は聞いたことがないので、理は文を兼ねることができそうだ)。

ぼく自身、プロ棋士に将棋を教わって、定跡が数理的であることに気づかされた(それが証拠に、定跡を天文学的にデータ処理して学習するAIに対して、昨今一流のプロ棋士でも勝ち目がなくなった)。「棋理にかなう」ということばがあるように、〈9×9の桝目の盤上〉は理系的である。だからと言って、理系が必ずしも将棋に強くて詰将棋が作れるわけではない。人間どうしなら、盤外の駆け引きや所作も関係する。こちらは文系的かもしれないが……。


論理学を指導していたことがある。論理学は理系なのか文系なのか。数日前から講談社ブルーバックスの『鳥! 驚異の知能』という本を読んでいるが、これを読んでいるからと言って、理系の証拠になるはずもない。公園で鳩と戯れて餌を与えているホームレスのおじいさんを文系と言って片づけることもできない。

一杯のコーヒーを淹れるのは生活習慣の一コマだが、本気を出して淹れようとすれば理系的知識への好奇心が欠かせない。豆の成分、焙煎の時間、挽き方、湯の温度など、より美味しく飲もうとすれば科学的でなければならない。しかし、パリの有名カフェでサルトルとボーヴォワールが論争を繰り広げた時は、文芸サロンに薫る飲み物として重宝された。

上記の『鳥……』と併読しているのが“ALL ABOUT COFFEE”コーヒーのすべてだ。ここには歴史、経済、文化、地理、技術、化学、工学のすべてが盛られている。帯文には「本書を読まずしてコーヒーを語るなかれ!」と書かれている。一杯のコーヒーに精通するためには文理両用であることが求められる。

読んだ本の取り扱い

書店巡りをして本を買ったらブックカバーを付けてくれた。次のような宣伝文が印刷されていた。

「読み終わりましたらぜひお売りください」(TSUTAYA)
「家にある本、お売りください」(BOOK-OFF)

新刊であれ古本であれ、本をよく買う。買った本は読むか読まないかのどちらか。読まないのなら買わなければよさそうなものだが、読まなかったというのは結果の話。読む気があったから衝動買いしたのである。買った本はそれぞれおよそ3分の1の割合で分類できる。完読する本、拾い読みする本、まったく読まずに書棚に並べられる本。

読んでいない本を処分しないのは、気になるから置いているわけで、いつかは手に取って読もうという気はある。しかし、もし本を売るとなれば、読んだ本ではなく、読んでいない本だろう。BOOK-OFFの宣伝文句にある「家にある本」で買ったままそのままにしている本のほうが処分の対象になりうる。


文庫本と違って、単行本は置き場に困る。すでに読んだ本をダンボール56箱に収納していたことがある。もう30数年前のこと。大掃除の日に家人が誤って廃棄してしまった。不用だという判断をしたのも無理はない。ダンボールには、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』などのラテンアメリカ小説、ビュトールなどのお気に入りのアンチロマン小説を入れていた。読了した本が手元から消えて、ちょっとした寂寥せきりょう感に襲われたのを覚えている。意図に反しての処分だったが、本を処分したのはこの一件のみ。

数年前に『百年の孤独』を再読しようと思い書店に行った。まだ文庫化されていなかった。今も文庫になっておらず、間違って廃棄したのと同じ単行本しかない。しかも、当時よりも値段は上がっている(ちなみに、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』もまだ文庫化されていない。世界的ベストセラーになった小説はなかなか文庫にならないのである)。

以上のことからわかるように、ぼくは読み終わった本は捨てないし売りさばかない。気に入った本は二度読みするにかぎる。読んだからこそ、手元に置いて再読機会を待つのである。

記憶の方法

同輩だけでなく一回りや二回りの年下が「物忘れがひどくなった」と嘆く。覚えたことが出てこない。では、揮発しないように知識を脳内に格納するとしよう。たとえば、広辞苑に収録の25万語のUSBを脳につなぐ。これで記憶は万全になるか。検索はできるかもしれないが、記憶されたことばが再生できる保証はない。ことばは使うことによってより強く記憶されるからだ。

なぜ人は記憶しようとするのか。いつか再生するためである。再生の必要も機会もないことを覚える必要はない。たとえば賃貸契約書。丸暗記などせずに、いつでも参照できるように記録する。たとえば長編の小説。将来再生することはないから事細かに覚えない。しかし、どこかで使うかもしれない名調子の文章なら覚えておこうとするかもしれない。

うんと昔に読んだ夏目漱石の『草枕』など、あらすじはほとんど覚えていないが、冒頭の「智に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ。とかくに、人の世は住みにくい」という名調子だけはよく覚えているし、いつでも再生できる。「これは使えるぞ」と直感する。そういう意識のアンテナが立って、『草枕』の知情意がアリストテレスの『弁論術』に関連づけられたりもする。


記憶力の強化について、脳研究者の池谷いけがや裕二が次のように書いている。

脳は入ってきた情報を「記憶すべきかどうか」と品定めします。このときの判断基準は「出力」の頻度です。
脳は「この情報はこんなに使う機会があるのか。ならば覚えておこう」と判断します。「こんなに頻繁に出会うのか。ならば覚えておこう」ではないことに注意してください。
(『自分では気づかない、ココロの盲点 完全版』、下線は岡野)

よく出てくるから覚えようという時は「入力インプット」に軸足を置いている。入力の行き先が定まっていない。他方、使えそうだと判断する時はすでに「出力アウトプット」を意識している。「これを覚えておけば使えるぞ」という魂胆をさもしいと片づけるむきもあるが、ひとまず使ってみることで記憶は強化される。池谷は「繰り返し学習して頭に叩き込むよりも、テストを解く」ことを推奨する。テストを解くというのは、覚えたことを使ってみるということにほかならない。

インプットしたものをアウトプットするという考え方はインプット主導型。空っぽの脳ならそれでいい。知識を仕入れなければ話にならないから。しかし、何十年も生きてきて脳内には知識も経験も言語の在庫もある。いくらでも出荷できるのだ。

加齢にともなって記憶力が衰えると言うが、実は脳の問題ではない。定年になり他人との交流機会が減ってアウトプット量が激減するのが原因だと睨んでいる。同輩と雑談したり後輩に蘊蓄したり……喋ることに関しては生涯現役を続けることが理想的な記憶の方法なのである。

反復という習慣

風土を決定する要因は数えきれないが、風土という文字が示すように「風」と「土」が主要因になりそうだ。食は風土によって決定される。人類は好きなものを食べてきたのではなく、風土に育まれた食材を口に運んだ。環境に食性を決定されてきた。今は何でもありになったのでこのことを忘れがちだが、われわれの祖先は日々ほぼ同じものを――好きとか嫌いとかつべこべ言わずに――繰り返し糧にしてきたのである。

何度同じことを言い、同じことを書いてきたことか。そうこうしているうちに、言語は脳で記憶するだけでなく、身体、とりわけ筋肉と同化する。母語も外国語も反復によって習熟度が高くなる。只管朗読、只管筆記、侮るべからず。

来年2月に本ブログは1,500回に達する見込み。約11年半、月平均10回、1回の記事は原稿用紙に換算すると平均34枚。特別な才能も大いなる努力もいらない。ある種惰性のような執拗さとただひたすら繰り返すことだけが求められる。

繰り返し(あるいは反復)はマンネリズムと安心(あるいは油断)を生む。いちいち考えなくてもよくなる。同時に、ある事柄に精通し、熟練度が進む。功罪相半ばする。さあ、どうしたものだろう。

反復しながらも、意識的に何かを少し変えてみると、いつもの景色が少し変わる。昨日と違う緊張感と新鮮味が出てくることがある。飽き性の凝り性だからそこに期待するしかない。ここ10日間ほど、どちらかと言えば機械的な作業をずっとやってきた。最初は愚痴をこぼしながらやっていたが、完了間際にして楽しんでいることに気づいた。仕事は……たとえそれがマンネリズムに満ちることがあっても、選んだ以上は楽しむに限るのである。

コンセプトの現実と想像

コンセプト(concept)は好き勝手に解釈され定義されてきた。一般的には「概念」や「考え」の意味で使われる。それならわざわざコンセプトと言う必要がない。概念や考えやアイデアとは微妙に違うから出番が与えられている。「ことばで表される大まかな想い」という意味を基本として、「他とは違う固有の差異を表す表現」としてとらえてみよう。

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「コンセプトの発見」とか「コンセプトを探す」などと言われるが、コンセプトはどこかにすでに存在するものではない。モノや考えに付属しているのではなく、モノや考えをとらえる人の頭で湧き上がる。つまり、そのつど想像するものであり、想像の結果、新たに「創造」される。

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タカとワシは峻別されている。発音も違うが、漢字も「鷹」と「鷲」と書き分ける。誰もがタカとワシが別の鳥だと認識している。では、実物のタカとワシを見て、正しく見分けられるか。タカもワシも「タカ目タカ科」であり、そもそも個体識別ができないと専門家は言う。

見分けられないのなら、一つの呼び名、一つの漢字だけで良さそうなものなのに、わざわざ二つの別の呼び名、二つの別の漢字で表そうとした。それがコンセプト。発見したのではない。想像によって、ことばによって、コンセプトを創造して種を分化させたのである。

コンセプトは必ずしも現実を反映するわけではない。生態的にも観察的に区別がつきにくいにもかかわらず、慣習的に取り決めたコンセプトを創ったのである。やや大型のものをワシと呼ぼう、人が訓練でき狩りをさせることができるのをタカと呼ぼうという経緯があったと思われる。

足し算と引き算

煩雑ではないこと、わかりやすいこと。言うのは簡単だけど、そんな表現や形や手法をうまく編み出せそうにない。シンプルに考えよと言われても、シンプルな思考がシンプルな出来を約束するとは限らない。

あれもこれもと欲張り複雑に考え統合的に構想し、悩みに悩んでようやく満足のいくシンプリシティに近づける。その過程では足し算づくめの試行錯誤が繰り返された後に、引き算された姿が現れる。

足し算を続けていくと、オーバーフローしオーバースペックになる。そこから〈かなめ〉が抽出される。ある要素の抽出は別の要素の切り捨て、つまり引き算。引き算には取捨という決断が求められる。


森を見る、マクロに見る、中長期的に見る、じっくり見る……こういう見方は大局的で魅力的なのだが、いろいろ見えてしまって、つい「あれもこれも」と足し算しがち。そのままでは混沌とした状態のままだから、いずれ「あれかこれか」の決断を迫られる。

枝葉を見る、ミクロに見る、近視眼的に見る、瞬発的に見る……こういう見方が引き算につながる。あれかこれかの決断には潔さが欠かせないが、シンプリシティを求める思いがテコになる。

月見うどんはシンプルな一品か否か。微妙である。かけうどんに生卵を落としたのなら足し算である。かけうどんに比べるとシンプルではない。しかし、あれもこれもトッピングしたいとイメージした後に落ち着いた月見うどんは引き算の形にほかならない。同じ場所に到達するにしても、足し算発想で終わるか引き算発想で終わるかで、過程は全く違う。

立地という個人的な都合

自宅からオフィスまでは徒歩で10分ちょっと。自転車なら5分もかからない。気分に応じて歩いたり自転車に乗ったりしている。自宅の蔵書をほぼオフィスの図書室に移しているので、休日に本を読もうと思えばオフィスに行く。通勤時間往復3時間という知人からすれば至極便利なのだが、さらに近い場所に引っ越そうと考えている。

立地。単独でそのまま使われることはめったにない。たいてい「立地」とか「立地がいい・・」という具合に使われる。絶対的な立地条件などない。立地には個人的な都合が反映される。よく通う目的地に近い所に住んでいれば便利で、そこから遠い人には不便。遠近感も人それぞれ。立地の良し悪しに万人共通の条件はありえない。

四十代前後の働き盛り稼ぎ盛りの頃に「東京にもう一つオフィスを持てば」と助言されたことがある。「あなたの仕事は東京のほうが多いから」という理由。月のうち何日か東京にいれば何かと便利で仕事も増えるかもしれないが、その便利と活動機会を享受できる東京は大阪からは遠い。助言者であるその東京都民は東京の立地が大阪よりも優れているという前提に立っていた。


この話を奈良県民の知人に言ったら、「いや、新幹線や空港のないうちに比べればずっと便利」と大阪を羨んだ。奈良に住んでいたこともあるのでわかるが、羨むほどの差があるとは思えない。五十歩百歩である。

大阪の中心街で住み働いているが、自宅を出て伊丹空港から飛んで東京都心まで4時間かかる。新幹線を使ってもほとんど同じ。この4時間をどう見るかで立地の好悪が決まる。4時間というのは労働時間的には半日である。東京以外にも数時間以上かかる各地へ出張してきたが、ほぼ前泊だった。仕事とは言え、前泊しなければならない点で出張先は好立地ではない(自分にとって)。

大阪の玄関口の梅田まで自宅から3駅。所要時間わずか10分。「便利ですねぇ」と言われるが、映画を見る以外にあまり用はないので、そうは思わない。車に乗らないから、メトロの3路線の駅が徒歩5分以内にあるのは都合がいい。大規模書店が歩いて10分以内の場所に2店舗あるが、これは面倒くさい。10かかるのは5分に比べて立地が良くない。贅沢だと思われるかもしれないが、個人の都合だけが立地の決定要因なのである。したがって、話は大きく飛ぶが、「世界のどこが一番立地が良いか?」という問いにほとんど意味はない。


「こまめ」のチカラ

「まめ」も「こまめ」もよく似ている。どちらもマジメで几帳面で細かいところに心を配るさまだ。若干ニュアンスは違う。その違いは何となくわかるが、文では示しづらい。「筆まめ」とは言うが「筆こまめ」とは言わないし、「こまめに水分を取る」の少しずつ感・・・・・は「まめに水分を取る」からは消える。この少しずつ感を残したいので「こまめ」を選んだ。

気になることを先送りしたり放置したりせず、面倒臭がらずにこまめに動いてみる。これが案外チカラになる。きわめて小さなチカラなのだが、長い目で見ると仕事のリテラシーを下支えしてくれる。人間関係において、こまめな共有や提供を意識してみる。たとえば、自分がおもしろいと思う話は積極的に披露する。自分がおいしいと思う料理は作ってもてなす。ウケや見返りを期待すると躊躇してしまうが、良かれと思えばすぐにできる。

秋冬の旬である牡蠣を注文する。たいていの白ワインは合う。どれほどマッチしているかまで味覚できる人はそう多くないから、メニューに白と書けば済む。しかし、できれば固有名詞で23の銘柄を挙げるのがこまめ。これはもてなす側がもてなされる側にリスペクトされる一つの条件。プロフェッショナルがアマチュアと差異化できるのは、立ち居振る舞いのみならず、こまめな用語遣いであったりする。



わからないこと、気になることはその時点で調べる。時事的な情報のチェックならインターネットでもいいだろう。一般的な教養的知識や用語や言い回しなら辞書を引き、しかるべき図書にあたりたい。知らないから調べるのは、何も知識や教養だけのためではない。人前で知りもせず、経験もしていないことを軽はずみに話す、
知ったかぶりのリスクを防ぐためでもある。

わからないことをそのままにしておいて発酵を待つのも稀に功を奏す。ただ、うまく熟成発酵が進むとはかぎらない。たいていの場合、わからないことは先送りせずに、すぐに考えてみて、ひとまずカタチにしておくのがよい。先送りした結果、散々痛い目に合ってきた。他人のルーズな先送りに巻き込まれたこと、数知れずである。

勉強と言うと、覚えることだと思っている向きが少なくない。決してそうではない。何を学んでいるか。決して知識ではない。とりわけ、熟年世代になると、将来に備えて実用的な何かを覚える必要などほとんどない。むしろ、これまで学び考えてきたことの整知・・作業のほうが重要になる。身体における整体や整骨と同様に、脳内記憶を整えるのである。覚えるよりも日々のこまめなメンテナンス。これがチカラになる。

まずうま讃歌

まずうま・・・・とは複雑な概念である。ほどよいうまさのことではない。まずくてうまい、あるいは、まずいがゆえにうまい、なのである。うまいものが氾濫している現在、過ぎたるはなお及ばざるがごとしにしたがえば、度を越してはうまさも裏目に出る。

一口入れて「うまい!」と感嘆するものの、もう少しまずければもっと「らしく」なるのにと思うことがある。そんな料理や食品があるのだ。

カフェ専門店でのランチにナポリタンを注文する。チーズがたっぷりかかっていて洗練された味。しかし、もはや想定内のナポリタンではない。昔懐かしい喫茶店の、少々ゆるっとした麺を使った、味に起伏のないあのレベルでいいのにとつぶやくのはアマノジャクな願望か。

京都七条の場末のパン屋で売っている酒饅頭のようなパンは見た目以上にまずい。一つのパックに56個入っている。一個50円ほどのやけくそのような値段設定。食べているあいだは「う~ん、よくもこんなに上手にまずく作ったものだ」なのに、食べ終わると「まずいがクセ・・になる、もう一個」となる。クセになるのは食後感に快さがあるからにほかならない。


粉ものにはクセが欠かせない。穀物倉庫の匂いがするリングイネなどは最たるものだ。ミラノで食べたピザの粉っぽいまずさは呆れ返るほどだった。しかし、クセやまずさと折り合い、うまさに昇華させるには大人の舌が必要。食する者がクセやまずさをイマジネーションで補填してやらねばならない。ホウトウや団子汁もまずうまである。

うま過ぎるものに対して「もうちょっとまずくてもいい」というのは、美食の怪しさへの懐疑であり、一つの抵抗でもある。美食に飽きた人間が日常的な普通の〈実食〉に回帰する時、まずうまの良さを実感する。

ところで、へたうま・・・・というのもある。技術が未熟で下手なのだが、味があるという意味。以前よく似顔絵を描いていたが、絵は我流、ただ思うに任せてペンを動かすだけだった。へたうまと評されて気分は複雑だったが、うまへた・・・・と言われるよりはよほど褒め言葉であることがようやくわかってきた。まずうまに目覚めたお陰である。

体感についての雑感

こっちはさほど暑さを感じていないのに、挨拶かわりの「暑いですね」が耳に入ると体感温度が上がる。余計なことを言わないでほしい。温度計が示す数字とは異なる体感温度がことばやイメージによって上下する。

星を見る目から涼しくなってくる

センスのいいシュールリアリズムな句。小四男児の作品であることに驚く(『小学生の俳句歳時記』)。

窓際の温度計を見て大きくため息をつく。肌はどう反応するのか。窓を開けてみた。尋常ならぬ熱風が瞬時に入ってきた。急いで窓を閉める。家族連れがつらそうにアスファルトの舗道を歩いている。他人事ではない。まもなく出掛けなければならないのだ。


灼熱の外気から逃れて地下街に潜れば一瞬ほっとするが、ほとんど通行人がいない。人気ひとけがないと通路は長く見える。まるで無限通路のよう。潜った手前、地上に出なければならない。不幸なことにエスカレーターもエレベーターもない。心理的な無限階段が立ちはだかるが、回避するすべはない。

変幻自在に形を変えて流れて行く雲。空の青も刻々と移ろう。空と雲が提供してくれる題材はおびただしい。しかし、夏場のメンタリティは鈍感である。一篇の詩を編むのが億劫。それどころが、ことばにする軽やかさが欠けている。小四男児の感性がうらやましい。

身体を少し反らせて空を見る。低い雲あり、高い雲あり。陽射し強く、熱を帯びた風が暑さを増幅する。リアルな視覚を封じ込めて、緑の涼を精一杯イメージしてみる。ふとことばが紡がれたような気がしたが、雲のように散り、風のように止んで消えた。忘れられたことば? いや、気づきも覚えもしていないことを忘れることはできない。