名と味の照らし合わせ

まぐろの刺身と天ぷら3品をつまみにして生ビール1杯だけのつもりだった。生ビールを飲み干そうとした時、ふと見た壁の貼り紙に「イカのわた焼き」を見つけた。イカは好物で、わたと絡めた焼いたイカなら言うことはない。追加で注文し、これに合いそうなのを地酒の夏メニューから選んだ。岐阜の「涼」がそれ。

そろりと一口すすり、アルミホイルに包まれた熱々のイカ焼きを一切れ頬張る。二口、三口すすった頃にホールの女性が席に来て、「こちら翠になります」と言う。テレビでも宣伝していて、いま少しはやり始めているジンのソーダ割りだ。注文していない。と言うか、この女性、今しがたぼくに涼を届けたばかりである。

「翠? 注文してないよ」と言ったぼくの声が近くのオープンキッチンに聞こえたのか、厨房の男性スタッフが「そちら涼ですよね?」と確認する。酒を指差して「そう、これは涼」とぼく。ホールの女性は「すみません。間違いました」と謝る。ただこれだけのことだが、注文確認のぎこちない様子を見ていると、これで一件落着とは思いづらい。


ぼくが涼を注文し、ホール担当が「こちら涼です」と言ったから、いま飲んでいるこの酒を涼だと思っている。何かのミスで、仮にこの酒が一ランク下の普通の清酒だったとしても、言われるがまま涼だと思うしかない。かなりの飲み手でないかぎり、味の判別はできそうもない。何よりも涼なる酒を飲むのはこの日が初めてだ(いや、何度か飲んでいたとしても、並の清酒との違いがわかったかどうかは疑わしい)。

この初めての酒をゆっくり味わいながら、何口か飲むうちに、この酒が最近飲んだ新潟の地酒と違うことが少しずつわかってくる。「松○梅」と違うこともわかる。わかるが、だからと言って、この酒が涼という確証はない。別の酒が誤ってぼくに運ばれたとしても、「これは注文した酒ではない」と言えるほどの利き酒はできない。この酒が涼とされるのは、ぼくがそれを注文し、店が涼と告げたからにほかならない。

日本酒は稀にしか飲まないが、これまではほとんどの場合、目の前で一升瓶からグラスに注がれたはずである。注文した銘柄と一升瓶のラベルを照合して飲んでいた。イカのわた焼きは正真正銘のイカだったが、すでにグラスに注がれて運ばれてきた酒が、間違いなくぼくの注文した銘柄であるかどうかはわからない。日本酒よりも少しはわかっている赤ワインでも同じだろう。

この話に結論はない。一つ言えるとすれば、酒の味わいの大部分は名の味わいであり、名と味を照らし合わせて楽しんでいるということだ。ところで、あの地酒は何だったのか? 常連ではないが、行けば安くていい料理を出してくれる。それが信頼というもので、イカのわた焼きに合わせたのは注文通りの酒に間違いなかったと思っている。

酒の嗜みごころ

🍷 コロナ前。杯を持ち上げるジェスチャーをして「今度、飲みに行く?」とよく誘われた。かつて総称的に「酒」と言っていたが、今や酒は多様化した。クラフトビール、白の泡、芋などと具体的に言う人もいる。

🍷 アルコールと総称していた時代もあった。「アルコールはいける口?」というふうに。今やどこに行っても入口にはアルコールが置いてあり、アルコールは消毒を意味するようになった。アルコールと言うと、化合物を飲んで中毒になるイメージがある。

🍺 食を優先して食に合わせることを前提にすれば、酒は嫌いではない。嫌いではないが、つねにほどほどだ。つねにほどほどだが、いろいろ飲むので、割とよく知っている。二日連続飲むと次の日は飲まない。ゆえに、週に23日は休肝することになる。

🍻 ビールだとすぐに顔に出るのでたくさん飲まないし、「とりあえずビール」には異議ありだ。初めから最後までずっと生ビールという連中の気持ちがわからない。お開きの時間が近づくほど酒量が増えていくのがいる。「さあ、そろそろ」という空気を読まずに、「生一丁!」と吠えて一人だけ飲んでいる。苦手なタイプだ。彼らは奢られている時ほどよく飲む。二次会でもずっとビール。

🍶 日本酒党の酒豪の先輩がいた。板わさだけで延々と飲む。「ぼくの奢りだから好きなものを注文したらいいよ」と言われても、主が板わさなのに中トロとは言えない。

🍺 選べるならビールは瓶を注文する。大勢の食事会ではやむなく生中。瓶だとひっきりなしにつがれるからだ。つがれると落ち着かない。箸が動かせない。食べる前に飲まされることになり、酔いのまわりが早くなる。

🍸 食前酒を飲むならギムレットがいいと池波正太郎がどこかで書いていた。ハイボールばかり飲んでいた頃なので、試しに飲んでみた。ジン3に対してライムジュース1という簡単なカクテルなのに、バーごとに、バーテンダーごとに味が違う。カクテルが単純な化合物の混ぜ合わせでないことがわかる。

🍸 食前に自宅でたまにシェリ酒ーを飲む。シェリーはアンダルシアで作られる酒精強化ワインで、普通のワイン約12度に対して、1520度とアルコール度数がやや高め。グラスに氷を入れシェリーを注ぎ、トニックウォーターで割る。ただそれだけ。かなり甘いが、なるべく甘みを抑えたのを選ぶ。

🍾 10年前、バルセロナに滞在した。夜遅く着いても心配なし。彼の地ではレストランは8時や9時にオープンするのが当たり前。食事処には困らない。ホテル近くの垢抜けしたバルに入った。小皿のタパス料理の種類が迷うほど多い。タパス2種類とイカのフリットを注文し、カバ(cava)を合わせた。シャンパンと同じだが、シャンパンと名乗れるのはフランスのシャンパーニュ地方のものだけ。だからカバと名付けた。タパスとカバの合わせ技はこの時の本場体験が初めてだった。

🍾 知人に居酒屋を紹介してもらっていたので、翌々日の夜に行ってみた。狭い通りが入り組んだゴシック地区にある老舗のEl Xampanyetという店。発音しづらいのでノートに「エル・シャンパニェト」とメモしておいた。ここでもカバを飲んだ。

🍾 今年の春先から週に3度ペースでカバを愛飲している。すでに10種類くらい飲んだだろうか。カバは何か月か――場合によっては、12年も――瓶内でゆっくりと二次発酵させるので、シャンパンよりも泡がきめ細かい。口当たりと辛口の度合はわかるようになった。しかし、自宅だと発泡酒を23本開けての飲み比べがままならないから、デリケートな味の違いはまだよくわからない。

切り盛りシェフ

店名に「蕎麦」や「そば処」の文字があったので店に入るとする。メニューを見たら、蕎麦が売り切れていてうどん類しかなかった。やむなくうどんで済ますほど人間ができていないので、ここは黙って店を出るだろう。

一昨日のこと。「昼はポーク」という天啓みたいなものがあり、何が何でもという思い詰めたような気分になった。前に何度か行ったものの、数年ぶりになるフレンチの店Cを思い出す。店名に豚のフランス語cochonコションが付く。この店、ランチは一種類しかない。そうとは知らずに入店したポークの苦手な客は店を出るしかない。常連はポークの専門料理店だと知っており、日替わりの一品に期待する。

店頭のメニューを見たら本日のランチは一種のみ。ところが、食材は、な、なんと若鶏だった。羊頭狗肉ようとうくにくならぬ「豚名鶏肉とんめいけいにく」。ランチ一品主義の店ゆえ他に選択肢はない。若鶏も好きだから別の日なら拒む理由はない。しかし、この日は「豚肉を食べよ」という、非イスラム教的な天啓に導かれていたのだ。無駄な時間を惜しむように店先ですぐに引き返す。引き返したものの、良さそうなポーク料理を出してくれる店が思い浮かばない。とにかく西方向へ歩いた(方角は天啓ではない)。


偶然だが、ビストロLの前に差し掛かった。ランチとディナーで一度ずつ来たことのある店だ。ボードに書かれているランチメニューは5種類で、うれしいことにその筆頭が「フランス産BBCポークのロースト」だ。まるでぼくのために用意されたような料理ではないか。即決して店に入った。

午後1時前。約20席の半分以上が埋まっている。注文を取りに来てくれないので、厨房にいる熟年シェフに注文を告げる。水は自分でグラスに注ぐ。待つこと約10分。半端ない厚みのポークのロースト、スープ、サラダ、小皿、ライスの強力ラインアップがテーブルに運ばれた。良心的にも程がある、900円!

「本日バイトが休みにつき、一人で段取りするため開店時間は未定」などと、あの手この手の言い訳をするあのラーメン店の店主の顔が対照的に浮かんだ。スープが3種類、麺が細麺と中太麺の2種類とはいえ、同じジャンルのラーメンではないか。バイトの休みに対して普段から一人でもできるように段取りしておけば済むではないか。

ビストロLは、夜なら少なくとも10種類のフランス料理を一人で作り、テーブルにサーブし、ワインの注文にも応じ、お勘定もする。切り盛りシェフは何もかも一人でこなし、一切言い訳をしない。若き日にパリの有名レストランで修行した年配の料理人。気さくで謙虚なプロフェッショナルだ。

できることは自分でこなし、ぐだぐだ言わずにいい仕事をすればコストがかからない。他方、言い訳や愚痴や過剰なウンチクはコストとして値段やサービスに跳ね返る。店を出る時、ふとそんなことが頭をよぎった。

ランチ処の現実と空想

🍽  或る中華料理店

この店では昼でも夜メニューが注文できるが、おすすめランチ定食はおおむね5種類。隣りのテーブルに小太りの中年男が座り、悩んだ末に「ラーメン/半チャーハンセット」を注文した。こちらに一瞥してぼくが食べている「上海焼きそば定食」と天秤にかけたようである。

「上海焼きそば定食はめったにメニューに載らない。食べるなら今日だ。ラーメン/半チャーハンなら明日でもいい」。男は一度はそう考えたに違いない。だが、「もし初めての上海焼きそばにがっかりしたらどうしよう。もう二度と立ち直れず、ここへ来なくなるかもしれない」と男は不安になった。こうして、リスクを避けるために常連はいつものランチという安全策を選んだのに違いない。なお、この店の半チャーハンは他店の普通のチャーハンとほぼ同じ量である。男の小太りの原因の一つだと思われる。


🍽 或るスリランカ料理店

アンブラ、ダルバート、ミールス、タ―リーなど、インド/ネパール/スリランカ料理の違いが認識でき、これにビリヤニも加えて、メニューのローテーションが組めるようになった。十数店を巡った結果、行きつけの店も45店に絞れた。メニューと店のマトリックス表がかなり充実してきた。しかし、上には上がいる。カレー通が「碩学せきがく」に至るまでに費やす金と流す汗と試行錯誤のエネルギーの総量は、ランチタイムにうまいカレーを食べたいという程度のぼくの熱量をはるかに凌駕する。

老舗のスリランカカレーの店で見た二十代半ばの男を思い出す。当時、ぼくはアンブラ、ダルバート、ミールス、タ―リーの違いがよくわかっていなかった。男は席に着く前に厨房に向かって「アンブラ」と告げた。つぶやくような小声とスムーズな振る舞いが「通」を感じさせた。テーブルに運ばれたアンブラを横目で見た。まさか、こう来るとは……想像を超えていた。人が食べる料理がおいしそうに見えたら後日必ず注文する。それがぼくの流儀。

アンブラは三度景色を変える。一、バナナの皮に包まれて出てくるアンブラ。二、皮を開けると具材が整然と並ぶアンブラ。そして三、よく混ぜ合わされて美味なるカオスに化けるアンブラだ。どこの誰だか知らないが、朝昼晩にカレーを食べ続けてきた結果、あの男が出来上がったに違いない。店側を緊張させる雰囲気を漂わせる客だった。おそらく昨日のランチもアンブラ、そして今日のランチもアンブラだったのだろう。〈写真〉バナナの皮に包まれて出てくるアンブラ。初めて注文した者は皮を開けてそこに広がっている具の景色に目を見張る。


🍽 蕎麦屋

ざるそばでもかけそばでもトッピングし放題。特にワカメが無料というのがいい。但し、この店は重大な問題を抱えている。券売機がシニアにやさしくないのだ。たとえば、「ざるそば」ボタンを押し、数秒間戸惑ってから「大盛」ボタンを押すと、後者の分は支払処理されず発券もされない。両方を押したという情報はカウンター内にいる亭主には伝わっているらしく、「ざるそば」の券を出すと「お宅の大盛分の料金はここでもらうよ」と亭主が言う。操作に手間取って二つ目のボタンを押すのが遅くなると、券売機は二つ目のオーダーを受け付けないのだ。券売機トラブルがよく起こるこの店をぼくは「みずほ蕎麦」と呼んでいる。

様々な食材に出合う

 

バルセロナはランブラス通りのボケリア市場。

今日はウサギの話。バルセロナのボケリア市場でそのまま吊るして売っていた。写真も撮っているが肉食観に劇的な影響を及ぼしかねないので、ここでは掲載しない。現地の子どもたちはその吊るしを見てもまったく平気だし、親が買って調理した肉をおいしく食べる。

スペインやフランスの市場に行くと、子豚も鴨もウサギも調理されずにそのままの形で売られている。ウサギは毛皮のまま後ろ足を結んで吊り下げられている。つまり、頭が下で耳が垂れた状態だ。処理された肉もあるが、ほとんど一羽売りだ。ペットとして飼われていたウサギではない。食用に飼育されたかなり大きなウサギで、「ラパン」と呼ばれている。ウシやブロイラーがそうであるように、ウサギもウマもハトも――食材になる動物はすべて――食用として肥育されているものだ。

小さい頃、「♪兎追いし彼の山 小鮒釣りし彼の川」というあの歌はまず耳で聞いた。意味もわからず、聞こえたまま「ウサギおいしい」と思った。食べたことがなかったが、おいしいと歌うのだからおいしいのだろうと思った。「こぶな」もまさか小鮒などとは想像がつかず、「昆布の何か」だろうと思っていた。


小学3年頃、ウサギを飼っていた。当時の大阪市内にはまだ田畑も残っており、その田畑を少しずつ埋め立てて新しい住宅が建ち始めていた。だから、家の前の畑のそばに小屋を作ってウサギを育てていた。首輪をつけて散歩もさせていた。ウサギの好物のオオバコはそこらじゅうに自生していた。

年末のある日、飼っていたウサギが消えた。親が「逃げた」とか「盗まれた」と言っていたので、いなくなったことはつらかったが受け入れた。数年後、今もウサギを常食している地方があることを知り、もしかして大人たちの胃袋に消えたのではないかと疑った。町内の誰かがさばいて、雑煮の具に使ったのではないかと。古来、ウサギをニワトリだと言って食べていた日本人だ、ぼくが可愛がっていたウサギが食材になっていたとしても不思議はない。

小学校の高学年ではウサギ狩りイベント付きの遠足があった。みんなで一斉にウサギを追って捕まえウサギ汁にしようというものだ。小山の下から上へ追いかけるので捕まらない。ウサギは前足が短く後ろ足が長いので、上るのは得意なのだ。結局一羽も獲れなかったが、ウサギ汁と称したそれらしきものが器に入って出てきた。事前に漁師が獲ったものという説明だった。ウサギ肉だったとすれば、あれが初めての実食になる。

スペインではウサギ肉はパエリアに使われる。パエリアは元々農家の料理なので、米と狩猟したウサギの肉をスープで炊き込むのは理にかなっている。想像以上に小骨が多い。東京のフランス料理店では野ウサギのソテーを食した。育てたラパンと違って、クセが強いのでニンニクやハーブが欠かせない。食感は地鶏などとさほど変わらない。

「ウサギを食べるなんて!」と言う人もいるが、そんなことを言い出せば、「ウシを、ブタを、ヒツジを、トリを食べるなんて!」と言わないといけないし、「回転寿司でサカナを食べるなんて!」とも言うべきだろう。魚を誰よりも深く愛するさかなクンは、魚の絵も上手に描くしおいしそうにきれいに食べる。食育の理想形だと思う。なお、好んでウサギを食べようとは思わない。せっかくこの地に来た、しかもたまたまメニューに載っている……これも何かの縁ではないかという感じで注文する。この時期ならイノシシもエゾシカもメニューにあればいただくことになる。

十麺十日

十人十色や十全十美のような「十□十〇」という四字熟語は、その気になればいくらでも発明できる。「十麺十日じゅうめんとおか」も創作例の一つで、「毎日違った種類の麺を飽きることなく食べる」というほどの意味を込めている。

麺はどこの国にもあり種類も豊富だ。ぼくの職住生活圏では和/洋/中/エスニック/創作のどの料理店でもたいてい麺をメニューに載せている。うどん、そば、ラーメン、焼きそば、パスタ、マカロニグラタン、ビーフン、皿うどん……欲する麺料理は何でも揃う。

平日は仕事場の近くでランチを済ませる。毎日のことなので何を食べるか悩ましい。迷ったらとりあえず麺である。この一週間も上海焼きそば、肉うどん、パスタ、胡麻担々麺などのラインアップ。店もだいたい決まっている。その一つが、秋口から通い始めた自宅とオフィスの中間点にできた中華料理店。この店にはこの街オンリーワンの麺料理がある。

中国陝西省せんせいしょう生まれの幅広い麺を使った一品。もやしとチンゲン菜といっしょに唐辛子とラー油と酢でスパイシーに炒めた焼きそばだ。見た目はホウトウに似ているが手打ちならではの歯ごたえがある。注文時に「かなり辛いですよ」と中国人オーナーに念押しされ、食べ終わると「大丈夫?」と尋ねられる。

辛いが、急いで飲み込んで誤嚥しないかぎり咳き込むことはない。金八百円也。ミニチャーハンとセットにすればちょうど千円。この店ではユーポー麺と呼んでいる。一般的な呼び名は「ビャンビャン麺」らしい。ジャージャー麵ならぬビャンビャン麺。ジャージャー麺は漢字で「炸醬麺」と表わす。では、ビャンビャン麺は? 気になって調べてみて仰天した。

これ一文字で「ビャン」。だから二文字並べて「ビャンビャン」。ワープロソフトにこの文字が搭載されているはずもなく、画像を拝借してコピーした。オンリーワン料理にふさわしいオンリーワンの漢字である。昨夜文字を凝視して頭にインプットしたが、朝にはすっかり忘れてしまっていた。

飲食の連想と手順

去る1118日はボジョレ・ヌーヴォーの解禁日。普段たしなむワインと違ってボジョレは特別な新酒。通常のワインとボジョレにはいろいろな違いがあるが、飲むまでの手順も違う。

買い置きしているワインの中から「今夜はこの赤ワイン」と決めて一本取り出す。朝に抜栓し、抜いたコルクにラップフィルムを巻いて再び栓を差し戻しておく。夕方帰宅してから飲む。空気に触れてから8時間以上経っているので酸化は進んでいるはずだが、経験的には開けてすぐよりもおいしく飲める。

ボジョレは飲む直前に抜栓するのがいい。重厚感はないが、ボジョレの特徴は新酒ならではのさわやかな香りと喉越しにある。出荷前に濾過されているが、ボジョレにおりはつきもの。したがって、グラスに注ぐ前にして雑味を取ってやるとすっきり感が増す。

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まぐろの目玉が売られていた。生で食べるシーンは連想しない。すぐさま浮かぶのは皿に盛られた煮付けである。鮪の生の目玉を煮付けに化けさせるには、「酒と砂糖と水と生姜を合わせて沸騰させ、熱湯でアクとヌメリを落とした目玉を中火で10分ほど煮る。濃口醬油を加えて弱火にしてさらに10分煮る」という調理手順が必要だ。書いてしまえば〈食材→調理→完成〉という単純な流れだが、完成形が浮かぶから調理の手順と方法が工夫されるのである。

ちなみに、料理における手抜きとは〈食材→X→完成〉の“X”の数を増やさないことだ。手数をかけないからと言って、急いで安っぽく作るわけではない。たとえばパテなどは、一から自分で作るよりもフランス製の缶詰を使うほうが数段すぐれている。上手に手抜きしてまずまずの味に仕上げるのが手料理の要領である

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川面かわもに浮かぶ鴨を見て鴨南蛮そばや鴨鍋を思うか。ぼくには、そんな連想以上に強く記憶に残るエピソードがある。〈鴨→デパ地下で200グラム買ったが、虫が付いていた→苦情を申し入れたら、担当者が謝罪のために自宅にやって来た→お詫びのしるしにと出されたのがずっしり重い鴨肉〉。測ったら1キログラムあった。鴨南蛮そばのつもりが、鴨鍋にグレードアップした望外の晩餐。

別のデパートで買った鴨肉にも虫が付いていた。「売場までお持ちいただければ交換します」という対応だった。以来、鴨と言えば、虫に注意することとデパートのクレーム対応の差を連想する。

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出されたらすぐに食べるべしという料理の代表格は天ぷら。会話中に出てきたら話を中断してでも箸を動かす。一瞥だけくれてすぐに口に放り込むから、味覚が視覚に優先する。他方、「食べるのがもったいない」とか「インスタ映えする」とか「形を崩しにくい」とか言って見つめるばかりで、なかなか口に入れない場面がある。斬新な季節のデザートやメガ盛りなどがそうだ。

鯖は煮付けにしてよし焼いてよし。足が早いので刺身は産地近くに限るが、酢じめという知恵で鯖は日持ちするようになった。料理をおまかせで頼んだ店でしめに甘酢漬けのかぶを乗せた鯖の押し寿司が出てきたことがある。その分厚さに息をのみ見とれた。食べるのを忘れそうになった。視覚が味覚になかなかバトンタッチしない最たる例だった。

昼ごはんに出掛ける

休みの日も仕事の日も昼ごはんを食べる。当たり前だ。よほど急な用事が入らないかぎり食べる。ここ一年半以上晩ごはんの外食を控えているので、その代わりと言うか息抜きのためと言うべきか、休みの昼に外食することが多くなった。

最後に晩ごはんを外食したのは昨年の10月下旬だった。人数制限のクラシックコンサートに招かれ、その後にジビエ料理店に向かった。万が一密になっていたら入らずに引き返す覚悟だった。あれから一年か。ずっと自宅で晩ごはんを食べてきたことになる。先週出張があり、ほぼ一年ぶりの晩ごはんを外食した。何もかもお任せの至れり尽くせりはありがたい。

仕事の日のランチは弁当やテイクアウトが多い。ずっと続くと息詰まるので、週に二日ほどは混んでいない時間帯に外に出る。麺類の店が多い。蕎麦ならざる。うどんはかけと別皿の天ぷら、時々ぶっかけ。中華は上海焼きそばやあんかけフライ麺。ラーメン店では担々麺かつけ麺。


休みの日は午前中に散歩に出る。散歩のルートが定まると、昼ごはんのメニューと場所の候補がある程度決まる。寿司や何でもありの定食屋にも行くが、生来の麺好きなので和洋中の麺料理を目指すことになる。休みの日は町内から離れて片道半時間以上は歩く。

この前の土曜日は、散歩ルートの前に昼ごはんをイメージした。手打ち細麺のうどん店。もっちり、のどごし、コシの三拍子揃ったお気に入りの店。肉うどんにしてゴボウのササガキ天ぷらをのせる。行ってみたら、緊急事態宣言が解かれているのに店が閉まっている。定休でもなく今だけしばらく休業でもなく、この先ずっと休業または廃業の雰囲気があった。

何か食べたいものがあってそれにありつけない時、ジャンル違いの料理では思いに反する。ひいきの店のうどんの代わりは次にひいきの店のうどんか、せめて麺類で思いを叶えたい。食べログやぐるなびを頼りにせず、麺類の店を求めて歩く。半時間弱ぶらぶらしたら看板が目に入った。店名よりも「刀削麺」の文字が大きい。迷わず決めた。

お気に入りのうどんに劣らないうまさだった。「欲しいものにすぐにありついてはいけない、ありつくまでにギリギリ待つのがいい、迷ったりさまよったりするのも悪くない」などと思いなせば、昼ごはんも日々新たになる。

食卓に着く愉しみ

🍽 16世紀フランスの「食卓では歳を取らない」という諺がある。長くても2時間の晩餐中に加齢を実感することはないと思うが、生命科学的もしくは生理化学的に厳密に見れば、たとえわずか2時間の内でも歳は取っているはず。ともあれ、歳を取ろうが取るまいが、食卓に着くのは愉しい。

🍽 雨の合間の暑い日に、さてランチに何を食べるかと少々思案し、ガツンとくる肉料理が思い浮かんだ。辛い四川風牛肉煮込みか、黒酢の酢豚か、羊肉炒めか。そうか、中華料理を欲しているらしい。メニューの多い中華料理店に入る。席に着いて少々悩み、羊肉のクミン炒めと小ライスを注文する。

羊肉と言えば、昔はマトン、今はほぼラム。食卓の「ぜん」に羊が潜み、羊には「えん」が隠れている。お勘定、¥1,400ほど。

🍽 希少食材のご馳走を自分一人で食べる場面が時々ある。誰にもお裾分けせずに食べると天罰が下るかもと思わないわけではないが、そんな恐れなどは独り占めという愉楽を微塵も揺るがさない。

🍽 「冷や酒、一合」と注文したら、店員に「カウンターのお客さま、冷やの小」と言い換えられた。人物も小さく扱われたような気がした。二合が大、一合が小と呼ぶならわし。二杯目はハイボールにした。

お通し:かわ和え
生もの:レバーとムネ身とずりの刺身盛り合わせ
焼き物:ハツ、もも、つくね、さんかく、手羽先、合鴨、うずら
揚げ物:もも軟骨の唐揚げ

地鶏焼き鳥のメニュー。焼き鳥屋は昼に営業していない。今、ぼくは夜に出歩かない。ずいぶんごぶさたしているが、続けているのだろうか。再訪できることを祈るばかり。

🍽 夏向きのパスタ「トンナレッリのカーチョ・エ・ペペ」

二人前を作る。手打ちパスタ160グラム、ペコリーノチーズ50グラム、粗挽き黒胡椒30グラム。いつものようにたっぷりの湯にひとつまみの塩を入れてパスタを茹でる。トンナレッリはローマ伝統の手打ちパスタ。太めでコシが強い。材料の妥協案:ペコリーノは値が張るので、パルミジャーノの粉チーズで代用可。トンナレッリが手に入らなければ太めの乾麺で。

いろんな作り方があるが、一例は次の通り。

茹で上がったパスタを皿に盛り、熱々の茹で汁を大匙2杯まわしかける。チーズを振り、ダマができないように軽くすばやく和え、胡椒をたっぷり振りかける。完成。彩りが欲しくても、ハーブを添えたり厚切りベーコンを足したりしないこと。カーチョ・エ・ペペ、すなわち「チーズと胡椒(だけ)のパスタ」は素朴を食すもの。

料理の呼び名

ずいぶん前に、フランス料理の名称がよくわからないので調べたことがある。ソテー、グリエ、ポワレ、ロティは火の使いかたが違う。その調理のしかたが料理の名称になっている。豚のしょうが焼き・・、豚の角、豚のニラレバ炒め・・、トンカツ・・などと呼ぶのと同じ。

フライパンに少量のバターをひいて強火で肉や魚と野菜を手早く炒めるのが「ソテー」。ぼくたちがよく作っている肉野菜炒めなどがそれだ。ガスであれ炭火であれ、「グリエ」は直火に網を置いて肉や魚を焼く。

ランチによく利用していたオフィス近くのビストロでは、スズキや舌平目の「ポアレ」がよく出た。フライパンで焼くのはソテーと同じだが、表面をカリッと、身をふんわりと焼き上げる。具材から出る脂と汁をすくってはかけて丹念に焼く。「ロティ」はオーブンを使ったロースト料理。これも外側を香ばしく、身をジューシーに仕上げる。


ぼくの職住の場は関西随一のカレー激戦区である。和製も本場系も入り混じって競合している。インド/ネパール/スリランカ料理店が徒歩圏内で10店は下らない。知る限りの店には足を運んだ。カレーに詳しいわけではないが、よく通ったという点では「通」である。

長粒米のバスマティライスがベースで、盛り付けの見た目もよく似ているし、どの店でもすべてのカレーと具をよく混ぜて食べるようにすすめられる。しかし、名称が違う。アンブラ、ギャミラサ、ミールス、タ―リー、ダルバート、ビリヤニ……。このうち、混ぜるという点では同じだが、ご飯を炊き込んでいるビリヤニだけが他と違う。

ヤギ肉を使ったビリヤニ(カレーと混ぜ、ヨーグルトソースをかけて食べる)

あるスリランカ料理店で「アンブラ」を注文した。プレートの上に乗って出てくるライス、カレー、具をすべてよく混ぜて食べる。別のスリランカ料理店でも見た目は同じ料理だったが、そこでは「ギャミラサ」と呼び、スリランカのおふくろの味だと言う。アンブラとギャミラサは基本的に同じのようである。

スリランカ料理のアンブラ(別の店では「ギャミラサ」)
小皿に盛ったタ―リー(南インドでは「ミールス」と呼ぶようだ)

ネパール料理店では「ダルバート」という名で出てくる。最近のカレー店はほとんどがインド/ネパール店という看板を掲げていて、店の数はたぶん一番多い。「ダル」が豆スープ、バートが「米」なので、カレーの他に必ず豆スープがついている。これも、おかずと漬物を混ぜて食べる。

日本人が経営する店のラム肉カレーのダルバート(混ぜる前)

インド通の日本人が書いた豊富な写真入りの本も読み、行く店々でも尋ね、いろいろ情報を仕入れてきた。結論から言うと、カレー料理の呼び名と料理の内容は「異名同実いみょうどうじつ」という関係のようである。