具のないサンドイッチ

メモがエッセイに昇華することもあるし、レアなまま在庫になることもある。在庫は処分しなければならない。恒例の月一か月二の小さなメモ展。

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雑談中に誰かが「EUの委員長ね……」といきなり言い出したら、もうオチは見え見え。
EUの委員長ね、見た目はかなりのシニアだけど、元気そうだなあと思っていた。それもそのはず、名前見たらユンケルだもんね」
最近知ったのだろう、ユンケルの名前。ぼくはこのギャグは使わない。欧州委員会委員長、ジャン=クロード・ユンケルのこと、前から知ってるから。

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長らくイタリア語を使っていない。先日、ワインショップでイタリア人に会った。初対面。特に喋ることもないので、“Ciao!”と挨拶だけして適当にワインの品定めをしていた。会計を終えた後、再び目と目が合ったが、特に喋ることもなく、別れ際にもう一度“Ciao!”と言った。“Ciao!”は「こんにちは」にも「さようなら」にも使える便利な挨拶。CiaoCiaoの間は無言。挟む具のないサンドイッチみたいで可笑しかった。

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一重の勝負は紙のみにあらず。ひんにもあり。品の上下は隣り合わせ、すなわち品一重なり。その境界にありて下ることなかれ。僅かに上にあろうとするのが人のあるべき姿なり。

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多芸だと褒め倒されてただ仕事 /   岡野勝志

まあ、平均よりは少し芸が多いかもしれないが、「多」が無数であるはずはなく、せいぜい三つか四つ。専門の仕事以外に何かを小器用にこなすと、すぐに多芸と呼ばれる。そうそう、多芸は無芸の類義語である。

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〽 任せ任され うまくは行かぬ ドジを踏んだらぼくのせい /   岡野勝志

時間のこと

ある日突然やってくる。時間のことを考える時間が……。たとえば、時計の針で表わされる時間を過剰に意識した一週間の後の休日に、時計の文字盤で刻まれる時間とは別の抽象的な時間のことを考えることがある。秒針の音が聞こえない、概念的な時間。

「時間が過ぎた」という表現は半時間や一時間にも使えるし、長い歳月を暗示することもできる。先のことを考えるなどと言って、一ヵ月や一年先の話を持ち出すが、そんな時間スパンで物事を考えることはめったにない。したいと願っても、自分の身の丈の先見性では所詮無理である。

一日はあっと言う間に過ぎる。一ヵ月は長すぎる。と言うわけで、一週間が時間の分節としてポピュラーになる。週単位の時間サイクル思考をしている自分に気づく。一度水曜日始まりのカレンダーを自作したことがある。若干発想の転換を図ることができたが、不便このうえなく、すぐにやめた。


カレンダーは日曜日始まりか月曜日始まりと相場が決まっている。始まりが必ずしも重要な曜日とは限らない。

長年親しんできた休息の日曜日。ぼくにとってそれは始まりではなく、週という時間の中心概念。そのイメージを図案化して印を彫ったことがある。太陽系と時計の文字盤の合体。名付けて「週時計」。

よく「時間待ち」などと言う。実際に待っているのは時間ではなく、別の何か。何かのためにやり過ごさねばならない時間。時計を乱暴に扱えば潰せるが、時間を潰すのは難しい。時間は無為に過ごすか、うまく生かすかのどちらかであり、反省したり満足したりの繰り返し。

時間は不思議である。時間のことを考えると余計に不思議になる。やがて面倒臭くなって考えるのをやめる。しかし、時間のことを考える時間は、忘れた頃にふいにやってくる。

冬陽獨言

冬陽獨言ふゆびどくげん」。こんな四字熟語はないが、今日の昼下がりにはぴったりだ。南から射す光が窓越しに熱に変わる。今にも陽炎がゆらゆらと立ち上がりそうな気配。暖房を切る。脳裏をよぎっては消える内言語ないげんごを搦め取って獨言にしてみた。

あの日の古めかしい喫茶店。珈琲が出てくるのがやや遅く、時間は間延びしていた。自分で淹れた今日の珈琲はすぐに出来上がった。やや早過ぎた。時間の加減は珈琲の香りと味覚に作用する。

時間の流れに身を委ねてぼんやりするくらいではアンニュイには浸れない。けだるいとか退屈だと言うのはたやすいが、極上の倦怠感に包まれるには相応の努力が必要なのだ。

今日の最高気温は一月下旬並みらしいが、ガラス越しに冬陽を受けていると、まだ晩秋が粘っているような錯覚に陥る。いや、錯覚などと言うのはおかしい。晩秋だの初冬だのと人が勝手に分節して表現しているだけの話ではないか。

空澄みわたり
季節は深まる。
色づいた葉は
微風になびき、
枯れ尽きては
やがて落ちる。
落ちたところが
遊歩道プロムナードになる。
冬空は誰かの
移ろう心のよう。
窓外の冷気は
冬陽に溶ける。

(岡野勝志作)

うなずきマンの話

 「とにかく彼は首をヨコに振らず、タテに振る。つまり、いつもうなずくのだよ」

 「それは聞き上手の人の特徴だね」

 「ところが、聞いているかどうかはわからない。『聞かない上手』かもしれない。見ざると言わざるとをセットにした聞かざるみたいな……」

■ 「見もしない、言いもしない、聞きもしない?」

 「見る・言う・聞くが3点セットだから、見ない・言わない・聞かないも3点セット」

■ 「聞き上手ではなく、うなずき上手というわけか……」

■ 「うなずくからと言って、イエスとは限らないんだな。英語に“Yes-disagreement”という表現がある。異存はあるけれど、口先ではイエスと言っておくこと。まあ、ある種のうなずく振りだね」

 「振りができるのはなかなかの業師わざしだな」

 「ある意味でしたたかだね。人の話を聞かずにうなずくなんてかなり大胆さ。ぼくにはそんなマネはできない」

 「うなずく振りをしながら、何も言わないわけ?」

■ 「ぼくが『あのね』と話しかけた瞬間、首がちぎれるほどうなずき始める。ずっと黙っているわけではなく、時々合いの手を入れるんだ」

 「どんな合いの手?」

■ 「『うんうん、そうそう』が多い。とどめは『はいはい』。はいじゃなくて、はいはい。はいを重ねるから化けの皮が剥がれる。そこまで面倒くさいこと言わなくてもわかってますよ、という意味だからね」

 「ホンネは他人と交わりたくないのだけれど、処世術的にはやむをえない。その種の人たちならではの知恵だな。実際、使ってみると便利だもの」

 「おいおい」

雨の日の手紙

雨の日に手紙を書かないほうがいい?
いや、そんなことはない。
晴耕雨読があるのだから、晴耕雨書があってもいいはず。
そう考えて、雨の日の昨日、手紙を書いた。

雨の日に万年筆で手紙の宛名を書かないほうがいい?
いや、そんなことはない。
手紙も宛名も同じ万年筆でいいはず。
傘を差して、雨粒が封筒に落ちないように注意して投函すればインクは滲まない。

雨の日に万年筆で宛名を書くのはいいとして、手紙を投函するのはなるべく雨が上がってからのほうがいい?
いや、郵便ポストの投函口が濡れていたら、ハンカチで水滴をぬぐい、狙いすましたように差し出せば心配はない。

雨の日に、青いインクの万年筆で手紙を書き、ついでに宛名も同じ万年筆で書き、雨の降る中、ポストまで歩いて投函してもいいのだ。
そこに問題はない。
ただ、雨の日に手紙を水溜りに落としてはいけない。

窓と窓的なもの

ある日のオフィス。窓を拭く清掃人と目が合った。ガラスを隔てて寒い側に清掃人がいて、こちらが暖房が入った部屋の中にいるという構図。ぼくは目くばせもせず、声も掛けず、相手から目をそらした。視線を清掃人の作業する手元へ移し、机の方へ向き直った。

翌日、大通りで信号待ちしていた。所在なさそうに正面のビルの高層階に目を向けると、壁にへばりつくようにして清掃人が窓を拭いていた。命の安全を保障するロープが風で揺れているような気がした。信号が変わって道路を渡る。ビルの真下を歩きながら、ロープが切れる光景が浮かんだ。清掃人は窓枠にしがみつき命拾いした。想像の世界だったが息詰まりそうな時間だった。


窓は、開けて採光したり風を入れたりする以外にも役割を担う。十年以上前のこと。場所はフィレンツェのジョットの鐘楼。ガラスのない明かり窓が塔の階段の踊り場にあり、街並みを枠の面積の内に切り取っていた。とても鮮やかな仕掛けだった。ここから中世の面影を覗き見よ、と窓が命じた。

窓はどこかに通じる起点になる。開けたり閉めたりできるが、開閉の権利は建物内に帰属する。どこかに通じる窓の外に出た瞬間、その権利を放棄することになるが、建物から解放されれば、どこかには行けそうな期待が生まれる。窓は内と外の世界を分け隔てながら、しかし二つの世界を繋いでいる。

窓は光の比喩だ。雪が光を反射すれば「窓の雪」になる。窓の雪は勉学を暗示させる。ある朝カーテンを開けて窓が目になっていたら驚くが、確かに窓は目に似ている。

「入口の左右の壁には、煤竹を二本横に渡した楕円形の小窓が開けられていたが、その窓はあたかもこの家のふたつの眼のように見えた」
(加能作次郎『世の中へ』)

窓は開閉の比喩でもある。社会の窓と言えば、ズボンの前のファスナーのことだ。布で隔てたすぐそこが社会であり、しかも一日に何度か社会に開かれる……もっと責任と緊張感を自覚せねばならない。

Katsushi Okano
Something like a window
2018

Pastel

都会から「まち」へ

(……………………)

都会の断片のほとんどが意味を失ってしまったかのようだ。
都会は意味を示さないまま生き長らえていくつもりのようだ。

断片を必死に繋いでも全貌を現わす気配はない。ぼくは苛立つ。
苛立ちに呼応して、都会も焦燥感を募らせながら鈍い輝きを放つ。

今住むこの都会とどのように折り合えばいいのか、ずっと考えてきた。
折り合えばその正体がうまく暴けるのだろうか、ずっと自問してきた。

いったいどうすれば都会を知ることができるのか。
アスファルトを引き剥がせばその姿は見えるのか。

人工的な覆いの下に眠る土はもはやかつての土ではない。
空気に触れても土が懐かしい匂いを放つことは決してない。

ブラタモリのように地形を現場で検証しながら歩いてみるべきか。
ピースを組み合わせたら都会のジグゾーバズルは完成するのか。

歩くだけならいつも数千歩や一万歩は歩いている。
そぞろ歩きしながら見えざるものを見ようとしている。

(……………………)

ある日、雑居地帯のように扱ってきた都会を「まち」と呼び変えることにした。
その日から、都会は手招きするように親しげな表情を浮かべるようになった。

「ふわっ」

昨日からいろいろ考えていたが、初硯はつすずりにこれという漢字が見つからなかった。朝から奈良に出掛けて、興福寺、春日大社、東大寺を廻ってきたので何かありそうなものだが、まったく思い浮かばない。小学生のように「春日大社」と書き初めする手もあるが、大社に筆をふるうほどの思い入れがない。今日もあまりの人の多さに途中で引き返したほどだから。

書き初めに代えて彫り初めすることにした。消しゴムに「ふわっ」を彫った。「ふわっと」ではなく「ふわっ」。「ふわっと」だと「何が?」と問われそう。いったい何が浮かんだのだ、何がやわらかく膨らんできたのだと聞かれても困る。具体的な何かをイメージしたのではなく、ただ「ふわっ」。何となくの「ふわっ」なのである。

しかし、そんな「ふわっ」がありえるのか? たぶんありえない。敢えて言えば、気分や場面や人の性格のことになるのだろうか。なごませるような雰囲気、気持のよさ、温かいさま。それなら「ほんわか」でもよさそうだ。いや、辞書に載っていない「ふわっ」のほうが面白味がある、と判断した次第。

「ふわっ」が苦手な性分である。意識すると、力が入って「ふわっ!!」になる。無理している感が漂う。「ふわっ」な感じの生き方をしている人が羨ましい。いい感じに生きているなあと思う。「ふう」と息を吐いて、少しでも「ふわっ」に近づけるようになりたいものだ。

水のまちに降りそそぐ白い太陽の光を見た

ひょんなことから昔話が出て、過去を遡る機会があった。珍しく自伝的な話を書こうと思う。

父親に手習いを勧められ、10歳の時に書道塾に通い始めた。好きなのは絵のほうだったが、逆らう理由もなかったので、言われるまま続けた。中学に入る頃に近所の師範の手ほどきを受けることになった。中学3年になってまもなく五段になり、最高ランクの特待生の認定をもらった。それを最後に筆を置いた。

ぼくと入れ替わるようにして父親が書を始めた。三十代後半、かなり遅いスタートだ。もともと器用な人なので、書芸院、日展に入選し、あっと言う間に師範格になった。書道から離れたぼくは、高校受験を控えていたにもかかわらず熱心に絵を描くようになった。

好きこそものの上手なれ。中学時代の美術の成績はつねに5段階の5。中学3年の時の女性教師は「過去何十年も美術を指導してきて、きみが一番センスがいい。絵の道に進めばどうか」とまで言う。この先生は、絵であれ工芸品であれ図案であれ、ぼくのどんな作品も高く評価してくれた。自分では凡作だと思ったのに、いつもべた褒めしてもらえた。ある作品が先生に気に入られ、それを機にある種のブランドができたのだろう。学校内外の賞をいろいろもらったが、いま流行りの「忖度」もあったに違いない。


書道と違って、誰からも絵画を教わったことがない。だから、基本のできていない我流である。もとより上手に描こうという感覚すらなかった。出来上がった絵は同級生が描きそうもない構図であり、風変りな色遣いであり、とりわけ題材そのものがわけがわからない。本であれ絵であれ、作品のタイトルは作品と同等に重要な要素だと今も考えているが、当時もそうだった。絵を描く以上の時間とエネルギーをタイトル案に注いだのだった。

先生に絶賛された作品に『水のまちに降りそそぐ白い太陽の光を見た』というのがある。「作品A」や「無題」や「静物」と名付け、画題の風景の固有名詞をタイトルにしていた同級生の作品と違って、いつも長ったらしいタイトルを付けていた。絵だけで表現できないもどかしさと拙い技術を文章で補ったようなものだ。先生は、絵のみならず、多分にタイトルも評価したのだろうと今も思っている。タイトルは写真のキャプションと同じような役割を担う。情報誌の編集にあたって見出しとキャプションには並々ならぬ工夫をすることがある。

絵描きではなく、元来が企画人であり編集者なのだろう。美術の世界に行かなくてよかったとつくづく思う。ところで、『水のまちに降りそそぐ……』という作品は手元にも実家にもない。子どもの頃の作品は、絵も書もすべて自ら処分したか、処分されてしまった。構図も色もよく覚えているが、再現不可能である。先日、デジタルペインティングの単純な機能を使い、タイトルを再解釈して遊んでみたところ、こんな一枚ができあがった。原作のほうがよほど恣意的で出来はよかったはずである。

アート感覚

自然を切り取り縮図化して再生すれば街や庭園や諸々の造形物になる。創作の根底には自然に学び模倣する精神がありそうだ。一見非自然的に見える作品であっても、じっくりと鑑賞すればどこかに自然の形状や摂理が潜んでいることに気づく。刀剣にも土器にも、あるいは幕の内弁当にすら、自然を感知する時がある。

サグラダファミリアも自然からのインスピレーションだという。アントニ・ガウディは、「美しい形は構造的に安定している。構造は自然から学ばなければならない。自然の中にこそ最高の形が存在しているではないか」と信念を語っている。

アートという創作に携わる人たちは、程度の差こそあれ、自然に対して畏敬の念を抱く。そういう念がぼくたちの目に映ることがある。同時に、自然への対抗意識も見え隠れする。慎み深く敬虔になることと負けず嫌いが相反的に創作意欲を支えている。アートは勝負魂と無縁ではないと想像すると愉快だ。

超一流の芸術家や工芸家らのきめ細やかさと凝りようにはいつも驚嘆する。自然を師匠として崇めながらも、師匠を追い越して暗黙知に磨きをかけて恩返しをしようとする精神性を窺い知る。これは人工知能(AI)と人間が対置する図に似ている。人間から得た教師データを頻繁かつ大量に反芻し、挙句の果ては自らディープラーニングしてしまう人工知能。アーティストは自然に対して、人工知能と同じことをやってのけようとしているのかもしれない。


プラトンによれば、線には長さはあるが、太さも厚みもない。紙に引いた線はぼくの目に見えるが、それは真の線ではない。線は観念的な別次元である〈イデア界〉にしか存在しない。線を引いているのは、イデア界とは異なる現実世界に生きる人間の苦肉の策、もしくは方便にすぎない。点も同様である。点には位置はあるが、長さも太さも厚みもない。要するに、線も点もイデア的には見えざるもの。見えないものによって長さと位置を示す、ゆえに観念的なのである。

スーパーリアリズムのイラストを見て、「これなら写真でいいのではないか」と言った人がいる。そうではない。スーパーリアリズムに線を描き加えることはできるが、写真で線に見えているのは実は線ではない。写真の被写体は自然や都市や人や道具などであり、これらの被写体にふちマージンはあっても、線はないのだ。もし線が見えたのなら、それはすでに手を施された線らしきものであって、正真正銘の線ではない。

 

レオナルド・ダ・ヴィンチも自然界に線はないと考えた。そして、〈スフマート〉というぼかし・・・の描写技法を編み出したことはよく知られている。自然界の山や海がそうであるように、色彩の層を上塗りしてグラデーション効果を表現する。輪郭を示すのに、線を引かず、形状を認識させる工夫である。

線を引く画材をライナーと言う。以前、ライナーで輪郭をかたどらずに、いきなり絵具で面を描いたことがある。腕前の問題もあるが、ぼかしと言うよりもぼんやりした一枚になってしまった。ボローニャのホテルに滞在した折りに描いたロビーの絵。捨てずに記念に取ってある。