「学問の本趣意は読書のみに非ず」

読書

〈書評輪講カフェ〉と命名した読書会を不定期に主宰している。会合開催の前週や当該週になると操られたように読書について一考する。もう何年もこんな状態が続いている。

ところで、最近あまり本を読んでいない。今年に入って50冊ほど買っているはずだが、本気で読んだのは片手にも満たない。大半の本の取り扱いは、ページを適当に繰って拾い読みするか、目次をざっと走査して狙いすました章だけを読む程度である。冬から春にかけてのこの時期だからというわけではない。読書離れは突然予告なしに起こり、そしてしばらく続く。やがて、ダイエットの後にリバウンドが待ち構えているように、再び読書にのめり込む周期に入る。

「本を読むというのは、私たちの代わりに他の誰かが考えてくれるということだ。一日中おびただしい分量を猛スピードで読んでいる人は、自分で考える力がだんだんに失われてしまう。」

こう言ったのはショーペンハウエルだ。自分以外の誰かがすでに考えたことを無思考的になぞるのが読書行為であるとはやや極論かもしれない。だが、そうではないとも言い切れぬ。本の内容を素材にして考えるほうが、本を手にしないで考えるよりも負担は少ない。もっとも、本を読んでも思考力が衰えるのなら、本を読まないとバカはさらに加速するだろう。ショーペンハウエルの言は、「考える力のある人は読書に依存しない」と読み替えてみるのが妥当である。そう解釈しても、では、考える力の乏しい人がどのように読書に付き合えばいいのかという答えは出てこない。


何にでも関心を示して精進するわけにはいかない。教養はあるほうがいいし、ものは知らないよりも知っているほうがいいだろう。しかし、どれだけ頑張っても、知っていることは知らないことに比べたらつねに一握りにすぎない。「えっ、読書家なのに、あの小説はお読みになっていない? 絶対読まないといけませんよ」と年下の知人に忠告されたと仮定しよう。「先生ともあろう人が……」と追い討ちもかけられ、これは聞き捨てならぬと、ぼくのお説教が始まる。

「あいにくぼくはその作家に関心がない。ペンネームの漢字の読み方すら間違って覚えていたくらいだ。ベストセラーか評判の作品かどうか知らないが、なぜ右にならえのように読まねばならないのか。一億総同本読みか。では、聞くけどね、きみはガルシア・マルケスの『百年の孤独』を読んだかい? ほら、読んでいない。ノーベル賞作家だ。村上春樹がまだ受賞していないあの賞。『百年の孤独』でも他の本でもいいが、ぼくはきみに一度でも絶対読まないといけないと言ったことがあるかね? 断じてない! 本というのは人それぞれ何を読んだっていいんだ。いや、何も読まなくってもいい。世の中に読まねばならぬ本はなく、他人から勧められて半ば強制されるように読むべき本もない。ただ読んでみたい本があるのみ。きみとぼくの読む本の大半が重なるなんて、こんなおもしろくない話はない。重ならないからこそ、ぼくはきみの読んだ本の印象を聞いてみたいと思うのじゃないか……」

説教は、おそらく収まらない。さて、福沢諭吉の『学問のすゝめ』に読書に言及する一編がある。学問ということばを小難しく考えることはない。初歩的な意味は「学び習うこと」にほかならない。つまり、学習。一般的には教師や書物から新しい知識を授かることである。このことを承知した上で、同書の十二編を読んでみる。

学問はただ読書の一科に非ずとのことは、既に人の知るところなれば今これを論弁するに及ばず。学問の要は活用に在るのみ。活用なき学問は無学に等し。(……)学問の本趣意は読書のみに非ずして精神の働きに在り(……)

読書は学問の出発点でもなければ本質でもないということだ。読書によって何かを学んで習っても、インプットだけでは無学と変わらない。学習で重要なのは、活用だ、精神の働きだと言うのである。ショーペンハウエルが指摘したのもたぶんこれだ。本を読むな! と言ったのではなく、書かれていることを覚えるだけでは考えないだろう、生かさないだろう、精神が面目躍如として生き生きとしないだろう……というようなメッセージとして読み取れるのではないか。

読んだら書けばいい。自分の思考の拠り所を基礎として書評をしたためればいい。したためた書評を誰かとシェアすればいい。書評を読み返し思考と精神を時折り更新すればなおいい。このような繰り返しが日々の生き方・仕事の仕方に反映されてくる。机上の読書が現実に降りてくるのである。

時の鐘

釣鐘屋敷跡2 釣鐘

オフィスは大阪市中央区の釣鐘町一丁目。百メートルちょっと西へ歩けば二丁目で、そこに釣鐘の鐘楼がある。現オフィスに移転して26年になる。鐘は定刻に毎日鳴るのだが、オフィスビル群に囲まれ、また窓も閉めているから、こんなに近接していても、よほど聞き耳を立てないかぎり打鐘に気づかない。

由緒のある鐘である。寛永十一年(1634年)に大坂町中時報鐘として設置された。「おおさかまちじゅう じほうしょう」と読む。鐘は高さ1.9メートル、直径1.1メートル、重さ3トン。この場所はかつて釣鐘屋敷と呼ばれていた。屋敷はとうの昔になくなっている。

釣鐘屋敷跡1 鐘楼

釣鐘を包む鐘楼はマンションに紛れるように佇む。1660年、1708年、1724年、1847年と四度も焼失したが、鐘そのものは焼けずに無事だった。しかし、1870年以降は、これまた四度、保管場所を転々とした。近くの小学校、大阪商工会議所の前身の地、大阪城の前の府庁屋上などを経て、百有余年後の1985年に〈時の鐘〉として現釣鐘町二丁目についに里帰りを果たした。毎日朝八時、正午、日没の三回鐘が鳴る。人の手ではなく、コンピュータ制御による打鐘だ。大晦日にも除夜の鐘打ちがおこなわれている。


四度の火災にもかかわらず、音色はかつての美しさを失わず、名鐘の一つとして誉れ高い。釣鐘を守る鐘楼も五度目の建造になる。五度目の正直というわけでもないだろうが、屋根は五つの輪で意匠を凝らし、〈自主、自立、自由、活力、創造〉という、かつての大阪町人の精神を象徴しているという。現代の大阪人がどこかに置き忘れてきた気概である。

平屋やせいぜい二階建ての住居が当たり前だった時代、この鐘が街の四方八方に時報を告げたというから、音色の響き渡りのほどが想像できる。実は、この釣鐘の鐘の音、近松門左衛門の『曾根崎心中』のここぞという場面で「音響効果」を受け持っている。遊女お初と徳兵衛の情死を題材にしたこの浄瑠璃の道行みちゆきの場面の書き出しは、荻生徂徠もべた褒めした名調子の名文だ。

此世このよ名残なごり夜も名残 死にに行く身をたとふれば あだしが原の道の霜 一足づつに消えて行く 夢の夢こそあはれなれ あれかぞふれば暁の 七つの時が六つ鳴りて 残る一つが今生こんじょうの 鐘の響きの聞き納め 寂滅為楽じゃくめついらくと響くなり

見事な七五調。お初と徳兵衛の耳に響いた七つの時の鐘の音、それが釣鐘の時報だったとは感慨深い。釣鐘町から心中の現場であるかつての曾根崎天神の森まで約2.5キロメートル。よくぞ鳴り響いたものだと感心する。その鐘とたぶん同じ音が今も生きている。

この柿の木が庵らしくするあるじとして

小郡に来ている。今年で四年か五年連続になる。ホテルと研修会場をタクシーで往復という味気なさ。今年は何が何でも種田山頭火の其中庵ごちゅうあんを訪れてみようと思っていた。滞在ホテルからだと徒歩で半時間近くかかるからタクシーはどうかとフロントで言われた。しかし、車だと情趣は半減すると思い、坂道を歩くことにした。ぎょうとはほど遠いぶらぶら歩きだったが……。

己の存在を自立させんと漂泊放浪した。歩くことは、山頭火にとって「ぎょうずる」ことだったからだ。
     ほととぎすあすはあの山こえて行かう
山頭火の内なる荒涼たる哀歓は、側側として人間の人間への問いに美しいことばをもって答えてくれる。(上田郡史『山頭火の秀句』)

自由句の俳人、僧侶、袈裟姿、放浪、酒等々で象徴される山頭火を知らなくても、福山雅治がコマーシャルでこの句をつぶやいていたのを覚えている人はいるだろう。続編は「雪へ轍の一すぢのあと」と「雪がふるふる雪見てをれば」だった。

其中庵

山頭火が其中庵に定住し始めたのは昭和七年九月。それまでは壮絶な放浪と作句の日々だった。逆説的だが、安住しないことが自立することであると心得てのことだった。ところが、この地にすみかを得て六年間、不便もなく不安もない生活を送ることになる。それまでの生き方に背くこと、精神が濁ることは承知の上、ただもう安らぎたいという一心ゆえの決断だったのである。


先の書物の中に山頭火自身が綴った文が紹介されている。

かうしてゐると、ともすれば漫然として人生を考へる、そしてそれが自分の過去にふりかへつてくると、すべてが過ぎてしまつた、みんな死んでしまつた。何もかも空の空だ。といつたやうな断見に堕在する、そしてまた、血縁のものや、友人や、いろいろの物事の離合成敗などを考へて、ついほろりとする。今更、どんなに考へたつて何物にもならないのに――それが山頭火といふ痴人の癖だ。

いやはや、わが身を振り返れば耳が痛いなどという程度では済まない。人生をろくに考えずに、過ぎし日々を指をくわえてぼんやりと回顧してほろりとするのは誰もが備えている性癖ではないか。悔悛の念に駆られるときはつねに手遅れである。

其中庵近くの邸宅の庭に柿がたわわに実っているのを見て、ふと柿の木の句を思い出した。

あの柿の木が庵らしくする実のたわわ   (壱)
この柿の木が庵らしくするあるじとして  (弐)

最初壱の句が作られ、その後弐の句に書き換えられた。この変化のうちに心境の一端が読み取れそうな気がする。壱の句ではまだ山頭火はあるじだったのだろう。しかし、脇役のはずの柿の木が弐の句で主役になる。あるじの座は柿の木に取って代わられた。「あの柿の木」が「この柿の木」に変わっているのも見逃せない。軽妙で滑稽味さえ感じさせるが、放浪時代から一変した庵での営みは、本人にとっては怠慢に過ぎる日々だったのか。自由句に示された自覚は諦観的につぶやかれているかのようである。

喜劇と悲劇

喜劇と言うと、バカ笑いのように思う向きがある。喜んで笑うだけが喜劇ではない。喜劇を観て涙を流すこともあるのだ。同様に、泣いて悲しむのが悲劇でもない。悲劇を観て満足すれば、それはある意味で喜びでもある。喜劇にせよ悲劇にせよ、観劇者の泣き笑いに本質があるのではない。同じ主題を喜劇的にも悲劇的にも仕立てることができる。演出の喜劇性、悲劇性という話なのである。

劇から離れて現実に立ち戻っても、ぼくたちは喜劇的、悲劇的という表現をよく使う。この時、喜劇的とは「高尚な笑い」ではなく、もっぱら低俗な滑稽だと見なす傾向がある。そして、悲劇的という形容のほうに道徳的なものを、人生に真摯に向き合う姿勢を感じ取る。講師が自らの悲劇的体験を語る講演会の訴求力は侮れない。悲しかったことを悲しく脚色し悲しく語る話に聴衆は共感し涙を流す。このステレオタイプを傍観して滑稽に思う。逆説のない生真面目だけの悲劇はぼくの目にはパロディとしてしか映らない。

(……)人間は自分の親をはなれたときに、はじめて親一般についての理解をもつことができる。失恋は恋愛についての知識を深め、死は生の意味を教え、絶望は希望への道を開き、歴史は今日に価値を与えているのだ。真の知識を得ようと思えば、人はまずその対象のもとを立ち去るのがいい。道徳は二宮金次郎であらわすようなこだわりからは、早く抜け出さねばならない。道にこだわりすぎるものは、かえって道を失う。そうした道徳的偶像をすすんで破壊することのほうが、いつもはるかに道徳的な行為なのである。
(安部公房『砂漠の思想』)

このエッセイが書かれてからまもなく半世紀。何も状況は変わっていない。ある価値を学ぶのに相反する価値を重ね合わせるのが有効なことは分かりきっている。にもかかわらず、相反価値に目をくれないのが人のさがある。特定の価値観だけを信奉すれば想像力に乏しくなる。そんな人間は、自ら意見を語ることよりも過去の偶像に手っ取り早く代弁させる、いや、突然ポツンと偶像をそこに置いて、自分の思いを安上がりに象徴させる。


一見オープンな社会のように見えながら、同調者が群れる閉鎖的気密性の高いグループが随所に形成されていく。これらの集団に共通するのは、ユーモアとエスプリの絶対的な欠如である。彼らは褒め合い、慰め合い、馴れ合い、悲しみと道徳を共有し、外部に対してはつねに排他的である。メンバーたちはその小グループの価値観に染まるから、自らの滑稽さに気づきにくい。要するに、自己検証の手段すら持ち合わせていないのである。類が類を呼んで同病相憐れむ集団に進化はない。そんな集団が現代でも泡沫のように結ばれては消えていく。何度も歴史で繰り返されてきた失望と失意の終幕しかないと言うのに。

“Life is a tragedy when seen in close-up, but a comedy in long-shot.” (人生は近づいてみれば悲劇、遠くから眺めれば喜劇)。

チャップリン

チャールズ・チャップリンのことばである。まったく個人的な経験になるが、映画、脚本、小説を問わず、若い頃はよく悲劇系のものを読んだ。やがて、ただでさえストレスの溜まる仕事に従事し、人間関係でも苦労し、異種意見間で論を交わさねばならない立場になって、本来慰みものであるはずのエンターテインメントになぜわざわざ悲哀を求めなければならないのか懐疑し始めた。悲しみを悲しげな表現で描くのは短絡的な写実主義だ。悲劇的な物語にこそ人生のエッセンスがあると考えるのは一つの主観にすぎない。

チャップリンは喜劇の中に悲劇を描いた。あるいは、悲劇の中に喜劇を持ち込んだと言ってもよい。人間行為の中には笑い飛ばすしかない愚かさが垣間見えるのであり、それは遠映しという冷徹な目線によってのみあぶり出される情景である。接写してありのままに悲しみだけを描いても、そんな常套手段で悲しみの本質が伝わるものではない。近づいて見る時点で、すでに感情が優勢になり対象に移入されている。他方、遠巻きに見ているかぎり、人は冷静さを失っていない。世間一般の思惑に反して、喜劇のほうが悲劇よりも理性的であるというぼくの根拠がここにある。どちらがいいとか正しいとか言うつもりはない。悲しい話が好きか、ひょうきんな話が好きかという違いである。そして、悲しい余韻だけを残す悲しい話などには付き合ってはいられないというのが正直な心情なのである。

本読みのモノローグ

これまで拙い読書論を本ブログで20編以上書いてきた。その延長線上にある断片メモを拾い読みしながら今一度書いてみる。最近、読書――いかに読むか、何を読むか、どのように記憶するかなど――について二十代、三十代の人たちに尋ねられる機会が多い。彼らは「正しい読み方」を知りたがっている。そんな方法があるはずもないし、しかもぼくごときに聞くこともないと思うが、「正読」を求める動機には同情の余地がある。なにしろ本の読み方について義務教育はろくに指導していないのだから。

まず、何を読むかに対するぼくの考えは「必読書考」と題してすでに書いた。あっけないが、「読みたいものを読めばいい」というのが結論。次に、どのように記憶するかであるが、こんなハウツーに躍起になることはない。読書とは本に書かれたことを自分の脳へ移植することではないと割り切るべきだ。忘れたら読み返せばいい。記憶すべき材料ではなく、考えるきっかけを提供するのが読書である。知が統合されれば儲けものだが、それを最初から目指すべきではない。読書による知のネットワーク形成には読書以外の経験や技術が求められる。それは別の機会に書く。いまここで書きたいのは、考えるきっかけを前提とした場合の「いかに読むか」である。

年賀状2015年

2015年版年賀状で読書をテーマにして28種類の本の読み方を書いた。半分ギャグなのでまじめに読むと馬鹿を見るが、半分は本気で書いたから少しは参考にしてもらえたかもしれない。

さて、十代から現在に至るまで、いろんな読み方を試してきた。そして、「いかに読むか」の前に「何のために読むか」を置いてみると、読書行為が自分の経験や知識に行き着くことがわかった。読書とは読み手の経験や知識と照合することである。そこに書かれていることと自分とを照合せずに読むことなどはできない。照らし合わせることによって、知らないことやすでにわかっていることを新たに考えるようになるのである。

考えることに迷いや苦しみはつきものである。だから本を読みながらも時には迷い苦しむ。楽しもうとしているのだけれど、読書は決して楽ではないのだ。スポーツ選手は好きな競技を楽しもうとしているのに、試合中はずっと迷い苦しんでいる。一瞬たりとも楽はできない。それと同じ感覚が読書にも現れる。


迷い苦しみ考えること、そのことがやがて楽しみになること――苦痛ゆえに楽しいという被虐的な読み方がぼくの理想である。このことさえ可能になるなら、拾い読み、速読、精読など、どんな読み方であってもいい。たとえば米国の哲学者であり心理学者であるウィリアム・ジェイムズは「読書のコツは拾い読み」と言い切っている。同感である。これで十分に思考の刺激になってくれる。

では、速読はどうか。先に書いた「どのように記憶するか」という点に関して言えば、速読はほとんど役に立たない。すでにある程度内容がわかっている以外の本には無力だ。「私は速読コースを受講し、『戦争と平和』を20分で読めるようになった。あれはロシアに関する本だ」と、ウッディ・アレンは速読を小馬鹿にして言っている。但し、脳のパターン認識力を粗っぽく刺激したければ少しは役に立つかもしれない。

速読自慢の誰かに未読の哲学書、たとえばハイデガーの『存在と時間』を手渡してみる。数時間で速読してみせると豪語しても、ほとんど何も記憶に残らないだろう。それはいいとしても、考えるきっかけにすらならないはずである。ちょっと齧ってみればわかるが、一つの術語の理解だけでもそのくらいの時間がかかる。このような、「本を読む」ということばが適切でない書物があるのだ。「本を考える」と言うべき書物である。たまにはそんな本に出合って思考をレベルアップしてみる。そのときに読書への認識も深まることは間違いない。ハイデガー研究者で知られた木田元は「ハイデガー自身が舐めるようにアリストテレスを読んだ」と書いている。しかも「テキストの伝統的な読み方を根底から覆すような読み方をしてみせる」と言う。精読主義者が精読しなければならない本を書いたというわけである。ともあれ、考える行為として読書に向き合えば、おそらく精読するしかないだろう。

あれもこれも読みたい本は日に日に膨れ上がる。かと言って、読んでどうなるのかと自問するとき、別に急いで読むことはない、どうせ速く読んでも何も残らないと諦観する。そして、文学作品を除くかぎり、とりあえず一読・通読などという強迫観念を捨てて、潔く拾い読みしながら精読すればいいというスタイルに落ち着く。ある主題があってまとまりのある数ページ――場合によっては段落単位――をじっくりと読む。それだけで十分に立ち往生して苦しみ考え抜かねばならなくなる。その後の浄化作用は格別なのである。書棚の本を再読する。傍線や欄外メモを眺めていると、年月が経って読む箇所、考えるきっかけとなる箇所が変わっていることに気づく。

先週、哲学者中村雄二郎の『読書のドラマトゥルギー』の一節に刺激を受けた。その一節を引用して本読みのモノローグを終えることにする。

ときに迷路に入ってしまうこともあるだろう。迷路に入りこんで出られなくなっては困るけれども、まったく迷うおそれのない道というのは、歩いていて愉しくない。迷うことをとおして、私たちの惰性は揺るがされ、あらためて自分と世界との関係を見なおすようになる。そういう仕掛けが、読書という人間経験のうちにあるのである。

企画の愉しみ

長年従事してきたので、企画についてある程度わかっているつもりである。しかし、仕事は多岐にわたり対象領域も広いため、「企画とは何か?」を簡潔に言い表わすのは容易ではない。ある業界ではプロモーションや広告のことを指し、別の業界では商品や政策がらみだし、また他の業界ではずばりイベントだったりする。つまり、「何々の企画」という具合にいちいち何々をトッピングをしないと中身が見えない。ありとあらゆる業界の様々な対象に共通するような企画をつまびらかにするのはかなり厄介なのである。

コンセプトだの立案だの、あるいは編集だの構成だのという術語――場合によっては広告業界から借りてきた専門用語など――を振り回しても、企画の輪郭は見えてこない。いや、むしろ、そんな常套語彙を使えば使うほど本質から遠ざかってしまいそうだ。と言うわけで、自分が扱っている企画の仕事を象徴的に描くことしかできない。ぼくにとって企画とは、文字通り〈くわだてる〉ことである。画とは近未来の図とシナリオであり、企てるとは、調べることではなく、考えることであり、ひとまず言語的に表現する仕事である。目指す成果は、現在の問題や機会損失を解決し、将来の課題や目標を実現すること、今日よりもベターな明日を叶えること、そのためのアイデアを捻り出すこと……。

企画の全貌は企画書によって明らかにする。話が複雑になるので、企画書の体裁や見栄えのことは棚上げしておくが、企画書とは「書きもの」だ。意図や内容がわかりやすく記述されていなければならない。わかりやすさは必要条件だが、できればハッとするような巧みな言い回しや新鮮味のある表現などの十分条件も備えたい。極論するなら、駄文が綴られた企画書は駄作の企画と見なされる。企画が優れているなら、必ずそれに見合った文章がしたためられてしかるべきである。「新しいワインは新しい皮袋に」をもじれば、「優れた企画は優れた文章で」ということだ。企画とその伝達手段である企画書には意思疎通性が求められる。


100 leo's

広告代理店の経営者として著名だったレオ・バーネット(1891-1971)はコピーライター出身である。稀代の書き手であった。バーネットの広告作法のエッセンスは企画とライティングにも当てはまる。遺された名言に目を通すと、広告や広告代理店の経営に関するものが多いが、底辺に横たわる仕事人の精神を見損じてはいけない。仕事の愉しみ、アイデア、創造性などについて、名言からインスピレーションを受けた時期があった。たとえば次の一文がそうである。

“Creative ideas flourish best in a shop which preserves same spirit of fun. Nobody is in business for fun, but that does not mean there cannot be fun in business.”
(愉快な精神がいつも育まれている仕事場では創造的なアイデアが次から次へと出てくる。決して愉しみのために仕事をしているのではないが、だからと言って、仕事が愉快であってはいけない道理はない。)

仕事の目的は成果であって愉しみではない。しかし、成果を出すのにしかめっ面しなければならない理由はない。大いに愉しめばいい。愉快精神は遊び心に通じる。経験上、アイデアのほとんどは遊び心から生まれてきた。企画研修では毎年何十、時には何百という数の企画に触れ企画書を見せてもらうが、趣旨や案がよくできていても、おもしろいものにはめったにお目にかかれない。企画者自身が愉しんでいないのである。成果を急がず、下手なりに愉しもうとすれば、対象と一つになるような力が漲ってくるものだ。

“Keep it simple. Let’s do the obvious thing the common thing but let’s do it uncommonly well.”
(凝らなくていい。わかりきったこと
――普通のこと――をすればいい。但し、普通じゃないやり方で。)

不肖ながら、普通じゃないやり方で文を綴ることは何とかできるようになった。しかし、下手に凝ってしまう習慣が抜けない。この歳になると文体がある程度固まっている。一つの単語が勝手に別の単語を呼び込み、あれもこれもと欲張り始め、結果的にはシンプルさを欠いてしまう。自分なりにはシンプルなつもりなのだが、ある人たちからすれば少々難解で冗長なのだろう。ぼくのやり残している課題の一つである。

ぼやくのをやめて話を戻す。企画力はつまるところ言語力に比例する。そして、できるかぎり陳腐な常套語に安住せず表現の意匠を凝らすべきである。もし伝統的なことばを使うのなら、文脈の中で新鮮の気を与えるべきである。十二分に構想してから書くか、書いては何度も推敲しながら考えを煮詰めていくかはこの際問わない。いずれにせよ、書くことに精進しなければ企画の愉しみを味わうことはできないだろう。

視覚とエッシャー

滝、上昇と下降、反射球体と手、メタモルフォーゼ、メビウスの帯、空の城、解き放ち、モザイク、鳥で平面を埋めつくす、バベルの塔、相対性、凸面と凹面、メタモルフォーゼ、爬虫類、魚とうろこ、蝶、蟹のカノン、三つの世界、露滴、もうひとつの世界、メビウスの帯、昼と夜、表皮片、水溜り、さざ波、ラーメスキータ、三つの球体、立方体とマジックリボン、蟻のフーガ、秩序と混沌、上と下、龍、カストロバルバ、描いている手と手、プリント・ギャラリー、言葉。

以上はエッシャーの版画やスケッチに命名されたタイトルである。

エッシャー2

ここに拾ったタイトルの図版は、ダグラス・R・ホフスタッター著『ゲーデル、エッシャー、バッハ――あるいは不思議の環』に収録されている。これは750ページを超える大作で、いったい何についての書物かを説明するのに戸惑う。一応科学に分類されるのだろうが、かなり多岐にわたっている。お勧めする気はまったく起こらない。それにしても、エッシャーの絵画には、まるで短編小説を思わせるようなタイトルが並ぶ。

エッシャーは版画家である。しかし、「だまし絵」と称される一連の作品は、科学や哲学など芸術以外の分野の考察対象にもなっている。自然法則上の構造に対して独創的なアンチテーゼを呈したのがエッシャーだ。彼の作品には空間の有限世界を無限化してみせるというテーマが横たわっている。


エッシャー

エッシャーの図録を何冊か持っている。ページを繰って眺めていると、ありきたりだが、視覚の不思議に気づかされる。視覚はおそらく知覚の代表格である。人は長きにわたって「一見いっけん」の力を信じてやまなかった。しかし、視覚は「錯視」という誤動作をしばしば起こす。手品のネタを明かされても手さばきの鮮やかさに見惚れてしまうように、エッシャーの版画の構成の正体を承知してもなお、何度見ても錯視が生じてしまうのである。

エッシャーの作品には幾何学や物理学の法則が本来あるべき姿として存在していない。だから、不安定で不気味で落ち着かなくなるはずである。しかし、なじんでしまうと、しかるべき現実の空間のほうにむしろ違和感を覚えることがある。うまく表現しづらいので、『共通感覚論』から中村雄二郎の視点を拝借する。

「(……)一面幾何学的な冷やかさをもちながら、同時に人間くさく、宇宙的感覚に充ちている」
「(……)視覚の逆理が単なる知的遊戯として示されているのではなく、作者のうちに内面化され、いわば触覚化されている(……)」

この文章からぼくが想起するのは、バルセロナで眺め、そして会堂に佇んだ、ガウディのサグラダ・ファミリア教会である。それはまさに〈人間的ミクロコスモス〉であり〈宇宙的マクロコスモス〉であった。作意が鑑賞者の内面にも響き、視覚の限界を超えてしまうのである。エッシャーの作品も同様だ。視覚の逆理を遊ぶ「だまし絵」というジャンルに振り分けられているが、騙されることを了解した上で鑑賞しているのである。こうしてみると、今ぼくたちが目の前にしている現実が――そこにあるモノや構造物が――「だましのない、見えるがまま、あるがままの存在」と言い切れない気がしてくるのである。

諺に関する諺

諺、金言、格言、箴言しんげん……いろいろな類義語がある。このようなことばで呼ばれる名言は無尽蔵だ。知らないことばが多すぎるとこぼすに及ばない。知らなくても困ることはないのだから。

句に出合えば考えのヒントになり気づきを促してくれるきっかけになる。下手な考え休むに似たり。オフィスにも自宅にもそれぞれ十数冊の辞典や書物を備えていて、よくひも解いている。最近ではウェブでもかなりの程度まで検索できるので、わざわざ座右に本を揃える必要もなさそうである。

それにしても、諺、金言、格言、箴言などのニュアンスの違いが鮮明ではない。諺がおよそ土着的で日常生活的な教訓だということは承知しているが、金言と格言の線引きがむずかしい。たいていの辞典では生き方や真理や普遍らしきものを唱えるものとしており、金言と格言の意味がかなり重なっている。格言のうちゴールドメダル級を金言と呼んでおくことにするか。なお、箴言は、金言や格言のうち、戒めの意味合いの強いものと考えればよい。

諺と石碑

古代に遡ってみれば、石に刻まれた文言にもいろいろあって、公的なメッセージ性の強い内容もあれば、PRや宣言文もあるし、当時の時事記録もある。ひっくるめて呼ぶなら「碑文」と言うしかない。石に刻まれてこそ、パピルスに書いてこそ、格言・金言となって後世に伝えられた。口伝くでんのみのリレーではこぼれ落としてしまっただろう。わが国にも稗田阿礼と太安万侶以前に名言もあったと推測するが、いかんせん、そらんじるだけでは記録は残りづらかった。


適当に辞典を繰って「諺に関する諺」を調べてみた。金言、格言、名言などをキーワードにするとかなり増えるが、諺だけに限定したら、ぼくの検索の技では十指にも満たなかった。いくつか抜き書きして少考してみた。まずはポジティブなもの。

諺は一人の才知、万人の知恵。(ラッセル)
諺は民衆の声、ゆえに神の声。(トレンチ)

多くの諺を発信源まで遡ることはできない。無名の誰かがつぶやいた後に広まったか、民話のように人々の間で語り継がれたか、そんな感じなのだろう。二つの諺には帰納推理という共通点がある。おそらく個別で特殊だったものが一般普遍としての価値を得た。万人の知恵、神の声とは力強い。他方、ネガティブなニュアンスのものもある。

諺は言い訳にならない。(ヴォルテール)
諺は蝶に似ている。蝶を幾匹か捕らえても、他のは飛び去ってしまう。(ヴァンダー)

「急いでくれと言ったのに、遅かったじゃないか!?」と文句を言ったら、相手が「急がば回れを忠実に実行したんですがねぇ」と諺を盾に取って言い訳をする。遅くなったのは諺の仕業じゃないから、当然本人を咎めるしかない。諺は万人の知恵か神の声かもしれないが、社会規範の上に君臨する法ではない。それに、複数の諺を対比してみれば、相容れないものが必ず出てくる。ある諺に従うと別の諺に背くことになるのである。ヴァンダーの言う通り、いくつかの諺を座右銘扱いすると、他の諺への意識が希薄になることもある。

時機にかなえば、諺はいつも耳を傾ける値打ちがある。(プラウトゥス)

古代ローマ時代の作家のこの諺がもっとも古い。条件付きでポジティブ、条件が落ちたらネガティブという例である。耳を傾ける値打ちがあるのなら、行動指針にしてもいいはず。但し、チャンスやタイミング次第というわけだ。いつでもどこでも誰にでも絶対ではない。時機にかなっているかどうかと自分で斟酌しなければならない。

明けても暮れても「石の上にも三年」などと胡坐をかいたり、「酒は百薬の長」とほざいて連日飲み明かすのも考えものである。諺は字句通りに実践するものではなく、己の言行や考えをチェックする素材と見るのがいい。ケースバイケースの付き合いをする分には、諺は味わい深いと言っておこう。

ここはぼくの場所だ

大きな世界地図を手に入れた。かなり精細に作られている。この一枚をトイレの壁に貼ることにしたわが家は狭いが、トイレの壁面積はまずまずなのである。その地図の、陸地ではなく、大西洋、インド洋、太平洋の海に浮かぶ小さな島々を目で追った。島と島を空想的に巡っていくと、点と点が結ばれ、地図上には引かれていない線が浮かび上がってくる。

Outre-mer_en

フランス領の島々がかなりあるので、インターネットで調べてみたら《フランスの海外県・島々》と題した地図が見つかった。フランス領の島々が他国領の数を凌いでいるように見える。これは新しい発見だ。南太平洋、インド洋、北大西洋のメキシコ湾に仏領の島々が点在している。もちろん、スペイン領の島……イギリス領にアメリカ領の島……オーストラリアやニュージーランドにも島が多い。

大航海時代に遡ってみる。これらの島々の一部は無人島だったかもしれない。しかし、アメリカ大陸発見と同じ経緯も多々あったと推測できる。つまり、航海者や探検家にとっての「発見」であって、たいていの島では原住民が古来住み続けていたはずだ。領土と宣言するに到る過程の血生臭いシーンが浮かぶ。先住権よりもよそ者の横領による占有権がものを言った。「ここはオレの国の島だ!」


と、ここまで書いて、パスカルの警句を思い出した。

ぼくのもの、きみのもの。
「この犬はぼくのだ」と、あの坊やたちが言っていた。
「これは、ぼくが日向ひなたぼっこする場所だ」
――このことばに地上のすべての簒奪さんだつの始まりと縮図がある。

(パスカル『パンセ』295

既得権のある者が領域侵犯者に告げるのではない。簒奪ということばが示すように、のこのこ後からやって来た者が既得権者に対して「そこはオレの場所だ!」と縄張り宣言をして横領したのである。日向ぼっこというたわいもない習慣で終わらないのが強欲な人間の常であり、覇権をねらう国家の魂胆も別のものではない。日向ぼっこの席がベンチ一つ分へ、ベンチの周辺へ、さらには公園、地域へと拡張していく。

「オレの、私の、ぼくの、われわれの」という一人称所有格は厄介である。かと言って、「みんなの」と言い換えたところで共有意識が高まるとはかぎらない。その名を持つ政党が崩壊したのは記憶に新しい。人間生来の欲望だろうか、自分のものは自分のものであり続けて欲しい。そして、垣根を一つまたいだところにある誰かのものも、できれば自分のものにしてしまいたい。ギャグめいた常套句、「ぼくのものはぼくのもの、みんなのものもぼくのもの」がこうして生まれる。

小さく威張ることに慣れると、やがてエスカレートして大きく威張るようになる。小さな権利を手に入れれば暴走気味に大きな権利を欲しがるようになる。ぼくの小学生の頃、教室の机は一卓二人掛け。机の中央に線を引く男子がいた。その線を消しゴムが越境すると、「ここはぼくの机だ」と主張した。やがて、「こっちに入ったら返さない」と言い始めた。中央に引く線が引き直され、男子は机上の領土を広げた。これが簒奪の始まりであり縮図であるなら、その後の人生で彼はかなりの数の消しゴムや鉛筆、その他諸々の物品や土地を手に入れたに違いない。

『出発』とランボー

飛行機雲1

鮮やかに直線を引く飛行機雲を目にした。飛ぶ機体も、背景に青をいただく白という図も何度も見上げてきた。しかし、いつも同じようには見えない。季節の空気で気配は変わるし、しばらく続く残影も気分によって変わる。すべての飛ぶ飛行機は「着陸」を目指す。つまり、ある地点に到着する。高空にある飛行機を見るたびに「どこへ行くのだろう?」と素朴に思う。けれども、すでに離陸したからこそ着陸がある。「どこから来てどこに向かうのだろう?」と想像すれば、出発と到着が一つにつながる。

若かりし頃に読んだアルチュール・ランボーの一篇を連休中にふと思い出した。もちろん、半世紀近く前の詩を丸暗記しているはずもない。だが、偶然とは不思議なもので、この飛行機雲を見上げる直前に、古本屋で懐かしいランボー詩集に巡り合い手に入れていたのである。買ってはいたが、数冊のうちのついでの一冊であり、ページすらめくっていなかった。飛行機雲を見たその場では「離着陸」を連想し、もう一度写真を見てランボーのイリュミナシオンの中の『出発』がよみがえり、そして詩集を買ったことを思い出したのである。早速その一篇を探した。フランス語と日本語の併記で紹介されている。

DÉPART

Assez vu. La vision s’est rencontrée a tous les airs.
Assez eu. Rumeurs des villes, le soir, et au soleil, et toujours.
Assez connu. Les arrêts de la vie. ―― O Rumeurs et Visions!
Départ dans l’affection et le bruit neufs!

出発

いやほど見た。幻はどんな空気にも見つかった。
いやほど手に入れた。夜ごと、町々のざわめき、陽が照っても、いつもかもだ。
いやほど知った。かずかずの生の停滞。 
――おお、ざわめきと幻よ!
新たなる愛情と響きへの出発!


フランス語は話すのは苦手、聴くことはさらに苦手である。苦手なのはほとんど口と耳を使って学習してこなかったからだ。それでも、辞書があれば、英語とイタリア語からの連想も交えて、ある程度は読み取れる。まったく偉そうなことは言えないが、この詩のフランス語はさほど難しくない。しかし、この訳で原詩のニュアンスが伝わっているのだろうか。上田敏ならどんなふうにこなれた日本語で紡いだだろうかと想像した。好奇心から他にどんな訳があるのか調べてみた。『ランボオ』について書いている小林秀雄の訳を見つけた。

見飽きた。夢は、どんな風にでも在る。
持ち飽きた。明けて暮れても、いつみても、街々の喧噪だ。
知り飽きた。差押えをくらった命。――ああ、『たわ言』と『まぼろし』の群れ。
出発だ。新しい情と響きとへ。

これはどうなんだろう。先の訳よりも切れ味があるような気はする。しかし、こうして二つの訳を比較してみると、同一の原詩を訳したとはとても思えないほど感じるものがかけ離れてしまう。もう一つ別の訳がある。

見あきた あるだけのものは もはや見つくした
聞きあきた 夜となく昼となく いつもお定まりの町々の騒がしさ
知りあきた 生命もたびたび差し押さえられた ――ああ やかましい雑音と仇な幻
出発だ 新たな情緒と新しい雑音のうちに

どの訳に最初に出合うかによって詩人に抱く印象が変わる。そして、もし最初に読む訳詩だけしか知らずにいたとしたら、決定的である。詩には小説の翻訳以上に訳者の思いが反映される。詩人と訳者の合作を読んでいるようなものだ。


ランボーの署名が残っている。その直筆に幼さを感じる。それはそうだろう、37歳で生涯を終えたランボーが詩作したのは156歳からのわずか数年間だけだったのだから。誰もが認める早熟の天才。そのサインの筆跡が示す通りの幼さを見せながらも、ランボーは奇跡的に現れて、「不思議な人間厭嫌の光を放ってフランス文学の大空を掠めた(……)」(小林秀雄)、そして、不気味な空気を詩編に残して、彼は消えた……。

早逝の詩人ゆえ当然寡作である。全詩を読み尽くすのに、念には念を入れて仏和で味読したとしても、一日あれば十分である。ぼくらの世代のちょっとした文学青年なら十代か二十代前半に読んでいる。とうの昔のことだからすでに本を処分しているかもしれない。ぼくもそんな一人だ。半世紀近くを経て偶然手元にあり、今ページが繰られる。そう、あの飛行機雲から『出発』を思い出した偶然の成せる業である。ところで、最近の若い人たちはランボーを読むのだろうか。