語句の断章(1) 五色絹布

神社の本殿でよく見かける。賽銭箱の上方に本坪鈴ほんつぼすずがあり、そこから鈴緒すずおが下がっている。鈴緒と一緒に、場合によっては鈴緒の代わりに、五色の布がぶら下がっていることがある。

あの布の名称を知りたくて調べたことがある。わからなかったので、実際に神社で一度尋ねてみた。「さあ?」と首を傾げられた。当事者なのに「さあ?」はないだろう。その一言を最後にそれっきりになっていた。

五色が陰陽五行から来ているのは想像できた。木-青、火-赤、土-黄、ごん-白、水-黒というように五行と五色が感覚対比される。この場合、五色は「ごしき」と呼ぶのが適切である。但し、ぼくがよく見るあの鈴から垂れている布に黒色はない。これら五色の上位に最高色としての紫を置いたため、そのしわ寄せで黒がなくなったらしい。黒を含まない五色は「ごしょく」が妥当だろう。なお、七夕の短冊も青、赤、黄、白、紫の五色を使うのが一般的とされる。

確信とまではいかないが、あの布、どうやら「(鈴緒の)五色布」と呼ばれているらしい。「らしい」というのも変だが、鈴と布を売っているメーカーはそのように呼んでいる。しかし、ぼくは自作の「五色絹布ごしょくけんぷ」が気に入っている。たとえ絹製でなくても、こちらのほうが高貴で雅ではないか。

学校の国語、実社会の国語

いきなりだが、次の二つの段落にお付き合い願いたい。「次の文章を読んで、あとの問いに答えなさい」という国語の問題ではないのでご安心を。

英語には、「自然」という言葉がある。ネイチュア nature がそれである。このネイチュアにあたる言葉は、日本語では「自然」という他、何も言いようがない。中国語やヨーロッパ語から借り入れたものではない、もともとの日本語をヤマト言葉と呼べば、ヤマト言葉に「自然」を求めても、それは見当たらない。何故、ヤマト言葉に「自然」が発見できないのか。

それは、古代の日本人が、「自然」を人間に対立する一つの物として、対象として捉えていなかったからであろうと思う。自分に対立する一つの物として、意識のうちに確立していなかった「自然」が、一つの名前を持たずに終わったのは当然ではなかろうか。「申す」と「言う」の観念の区別がない所では、その言葉の区別がない。「自然」が一つの対象として確立されなければ、そこにはその名前がない。

上記は大野晋『日本語の年輪』からの引用である。これらの段落の後に続く6つの段落までをテストとして出題したのが、今年の大阪府立高校の国語の入試問題だった。出題文全体を眺めて、「ほほう、中学三年生がこれを読解させられるとは、学校の国語、まずまずレベルを高く設定しているものだ」と感心した。但し、ぼくたちから見れば――表現やスタイルの好みを別とすれば――上記の大野晋の文章は論理的で明快な「標準的日本語」という見立てでなければならない。つまり、中学生なら少々苦労はしても、「標準的社会人」ならさらりと読み込んで当然のテーマと文章である。


ところで、ぼくの研修テキストも大野晋の難易度で書いているつもりなのだが、よく「難しい」と指摘される。高校入試級の国語を難解だと感じるようなら、ちょっと困った話である。ぼくの文章から寸法を測ると、少なからぬ現役の社会人たちが、大野晋の文章を難しいと感じ、取り上げられているテーマになじめなくなっていると推論できそうだ。高校か大学を離れてから「実用的な国語」に親しみすぎたせいか、安直なハウツー本ばかり読んだせいなのかは知らないが、かつて十代半ばのときに試験問題として出題された文章にアレルギー反応を見せる。興味のないテーマを疎ましい難解文として遠ざけ、「もっとやさしく、たとえば小学生新聞の記事のように書いてくれたら読んでもいい」と言いかねない。

ぼくらの大学受験時代、試験問題の花形は小林秀雄や丸山真男だった記憶がある。難しかった。何度読んでもわからなかった。設問に答えられずに半泣きになっていた。十年後に読んでも相変わらずわかりにくかった。この間、文章・テーマともに手ほどき系の本を多読していたから、国語の成長がなかったのだと思う。こんな反省から、二十年前、仕事に直結するだけの実用書を読むのをやめて、アタマを悩ませる書物や骨のある古典に転向する決心をした。するとどうだろう、しばらくすると、小林秀雄がふつうに読めるようになった。

かつて読めなかった文章が読めるというのは、実は当たり前の進化にほかならない。古語辞典片手に謎を解くように取り組んだ古典文学も、その後に学習を積み重ねたわけではないのに、辞典がなくても七、八割がた読めるようになっている。「知の年季」が入った分、ご褒美として推量も働くし文脈に分け入ることもできるようになっている。思考受容器の大きさと文章読解力はおおむね比例する。

実社会の国語にわかりやすさだけを求めるのをやめるべきである。中学生や高校生の時に格闘したはずの難文への挑戦意欲を思い出してみるべきだ。骨抜きされたわかりやすさにうんざりしようではないか。アタマを抱えもせず知的興奮もないような文章ばかりで脳を軟化させてはいけないのである。〈学校の国語>実社会の国語〉という構図は、コミュニケーションにとっても思考力にとってもきわめて危うい状況である。耳をつんざくほど警鐘を鳴らしておいてよい。

“Don’t give up”と「がんばれ」

日本人は何かにつけて「ネバーギブアップ」と言う傾向がある。和製英語ではなく、れっきとした英語(“Never give up!”)だから問題はない。しかし、もう一つ、“Don’t give up!” という表現があるのをご存知だろう。313日付の英国紙 The Independent ではこちらのほうを使っていた。

 “Don’t give up!” ではなく、なぜもっと強そうな語感をもつ “Never give up!” のほうを使わないのかと疑問を呈した知人がいた。この記事の英語を見て、同じような違和感を覚えた人は少なくないかもしれない。

The Independent.jpgこれがその記事である。日本に対しても東北に対しても「ドントギブアップ!」と呼びかけている。これを「がんばれ」と訳したのか、「がんばれ」という日本語を「ドントギブアップ!」に訳したのかはわからない。「がんばれ」についてコメントしたいことがあるが、その前に英語のニュアンスの勉強を少々。

「ドントギブアップ」と「ネバーギブアップ」の違いについて、マーク・ピーターセン著『心にとどく英語』の「英語の時間感覚」という項目の箇所に興味深い記述があるので、少し長いが引用しておこう。

とある日、東京でテニスの試合を観ていたとき、相手の速いサーブに圧倒されていて勝負をあきらめてしまいそうな外国人の選手を励ます掛け声として “Never give up!” というのを聞いて奇妙に感じたことがある。当然、いま頑張っているこの試合を「あきらめちゃいかん! がんばれ!」という励ましのつもりだとは分かったのだが、それなら、英語では “Never give up!” ではなく、“Don’t give up!” と言うのが普通である。“Never give up!” “Never” (=not ever)は、この力強い励ましを一般論にしてしまう。「人生は、やることを最後まであきらめずにやるものだ」と、試合中に言われても、選手の方も困るだろう。

いうまでもなく、never は、「いつであろうと~でない」という意味を表わす時間的表現である。“Never” をここで使ったのは、おそらく強調、つまり「絶対に」といったくらいのつもりだったのだろうが、このごく些細な例は、「時」に対する柔軟性に富む日本語と、「時」に対して神経質な英語とのすれ違いを象徴的に現しているように思えるのである。


“Never” にすると普遍的な教えになってしまうというニュアンスがわかるだろうか。「人生、何があろうとも、未来永劫、あきらめてはいけない」という教訓を、いまこの事態の最中で垂れるのは場違いなのである。直近の苦難を受けてのメッセージ、たとえば「おぞましいほど大変なことがあったけれど、あきらめないで! 応援しているから」という気持ちを速やかに伝えるには、“Don’t” のほうがふさわしい。

ところで、ぼくには「がんばれアレルギー」がある。つい先日も書いたのだが、ことばを失うほど深刻な状態にいる人々に「がんばれ!」などとは言えないのである。幼い子どもがフーフー言いながら階段を上がろうとするとき、「もうちょっとだ! ほら、がんばれ!」などと励ます。しかし、政治家の「がんばろう!」はしっくりこないし、周囲で叫ばれる「明日からがんばります」の声も醒めて聞いている。なぜだろうかと考えたら、「がんばる」と誓う人ほどあまり頑張ってくれず、また他人に「がんばれ」と声を掛けているわりには本人が頑張っていないことがわかった。要するに、「がんばる・がんばれ」があまりにも空虚なスローガンに終わっているのを見過ぎてきたのだ。

少なくとも、英語の “Don’t give up!” はそのまま「あきらめないで」でいいと思う。口癖のように、社交辞令のように、安易に「がんばれ!」と言う舌を慎みたい。では、ぼくがアレルギーになっている「がんばれ」に代えてどんな表現がいいだろうか。残念ながら、オールマイティな適語が思い浮かばない。ただ、「がんばれ」よりも実体がよく見える、志向的なことばを適時適所で使いたいと思っている。

ダジャレの人々

自分ではダジャレの一つも作れないくせに、他人のダジャレを小馬鹿にする連中がいる。しかし、ダジャレ人間を侮ることなかれ。ダジャレを吐くには語彙力がいる。語彙力だけではない。音と状況をかぶらせるためには、膨大な情報を脳内検索せねばならない。語彙力と検索力。少なくとも、ダジャレを小馬鹿にしながらダジャレを作れない者よりは、下手なダジャレを矢継ぎ早に繰り出す者のほうが頭はいい。ぼくはそう考える。

呆れるくらい下手で場を凍らせる人もいるが、ダジャレが出てくる気さくな場に居合わせていることを喜ぼうではないか。ぼく自身はジョーク大好き人間だが、ダジャレの熱心な創作者ではない。ただ、他人が当のダジャレに辿り着くまでの発想過程にはすこぶる強い関心がある。たとえば、数年前のコマーシャルで、唐沢寿明がエレベーター内でつぶやいた「君、コート裏」。これが「足の甲と裏」のダジャレ。その箇所に膏薬を貼れというわけである。

スポンサーか広告スタッフの誰かが膏薬を足の甲と裏に貼ったらすっきりした。これはいいということになり、そのままストレートに表現してもよかった。しかし、別のスタッフが「甲と裏」を何度か口ずさんでいるうちに、「コート裏」を見つけた。ここから「コートを裏に着ている」シチュエーション探しが始まる。コートを裏返しに着ている人物が遠くから見えているよりも、突然見えるほうがいい。いろんな候補からエレベーターが選ばれ、ダジャレを生かすシナリオが書かれた……まあ、こんな誕生秘話だろう。当たらずとも遠からずだと思う。


注目してほしいのは、ダジャレ人間は「ことばの音」を追いかけるという点である。無音の漢字を浮かべてもしかたがなく、同音異義語をアタマの中で響かせる必要がある。同音異義語が多いのが日本語の特徴だが、無尽蔵にあるわけではないから無理やり音合わせをこじつける。ここがウケるか寒くなるかの分岐点だ。ダジャレ、ネーミング、「整いました」のなぞかけ、語呂のいい金言などの底辺には同じ発想の構造がある。

昔、結婚式を「かみだのみ」、披露宴を「かねあつめ」、二次会を「かこあばき」とルビを振って紹介したら、ウケたことがある。神、金、過去が「か」で始まる二文字、続く動詞が三文字、合計五文字となって、別にダジャレでも何でもないが、語呂が合う。どこで仕入れたか読んだか覚えていないが、「結婚とは、男のカネと女のカオの交換である」というのがあった。単純だが、なかなかの切れ味だ。

結婚ネタついでにもう一つ関心したのがある。「最近、家庭内で夫婦病が流行の兆しです。症状は、熱は冷めるのですが、咳(籍)だけは残ります」。世間には結婚があり離婚がある。他にどんな「◯婚」があるか。ことばの演習問題にもなりそうだ。実体のない「空婚くうこん」、結婚式の日から始まる「苦婚くこん」に「耐婚たいこん」。辛いことばかりではない、いつまでも幸せな「甘婚かんこん」も「恋婚れんこん」もあるだろう。

ところで、ダジャレも含め、ことばを遊ぶユーモアを楽しむ集まりを三ヵ月に一度開亭している。その名も〈知遊亭ちゆてい〉。雅号、あるいは笑号と言うべきか、ぼくは「知遊亭粋眼すいげん」を名乗って席主を務めている。昨夜のR-1グランプリを途中から見たが、一度も笑う場面がなかった。あのレベルのピン芸人には負ける気はしない。

言在知成

「イメージとことば」に続く話になりそうである。「なりそう」とはひどい無責任ぶりだが、どこに落ち着くのか、予感の域を出ない。書き始めたいま確かなのは、「言在知成」と書いて「げんありちなり」と読ませる四字熟語が起点になったこと。実は、今日初めて公開するのだが、これはぼくが何年か前に造語したもの。だから、正確には四字の「熟語」などではなく、未成熟という意味で「四字若語よじじゃくご」と呼ぶのがふさわしい(もし言在知成がすでに存在しているのなら、偶然の一致である)。

ことばがあるから、知識も身につくし世の中の様子もわかる。美術の先生が対象を黙って指差して生徒に絵を描かせるのはむずかしい。先生は「今日は自宅からリンゴを二個持ってきたよ。手前と奥に一個ずつ配置するから描いてみなさい」と指示するだろう。イメージ的作業をイメージ的コマンドで動かすには、とてつもないエネルギーを必要とするのだ。だから、口下手なくせに、頭の中でイメージばかり浮かべようとする習性のある人は、あれこれと迷わずに、とりあえず口に出してしまうのがいい。イメージを浮かべてもことばになってくれる保証はないのだから。

「私はリンゴが好きです。でも、イチゴのほうがもっと好きです」。これは意味明快なメッセージ。では、この意味を絵に描いたり、紙や粘土で造形する自信があるだろうか。アートセンスがないのなら、ジャスチャーでもかまわない。試みた瞬間、途方に暮れるに違いない。けれども、悩むことなどない。ワンクッションを置かずに、さっさと言ってしまえばいい。「私はリンゴが好きです。でも、イチゴのほうがもっと好きです」という想いを伝えたければ、ただそう言えばいいのだ。幸いなるかな、ことばを使える者たちよ。


「深めの大振りなカップにコーヒーを淹れてくれた。一口啜った瞬間、体温が二、三度上がったような気がした」。この文章から画像なり動画なりをある程度イメージできる。人それぞれのイメージだろうが、ことばの表現に呼応するかのようにイメージは浮かぶ。しかし、なかなか逆は容易ではない。よほど意識しないかぎり、一杯のコーヒーは見た目通りの一杯のコーヒーである。眼前のコーヒーカップからことばの数珠つなぎをしていくためには、指示や問いのような刺激が不可欠になる。

以上のような話をすると、言語がイメージよりも優位であると主張しているように勘違いされる。ぼくは体験的に言語とイメージの役割を考察しているのであって、優劣など一度だって論じたことはない。以前は、はっきりとイメージ優位・言語劣位の信奉者だった。若い頃は自分のイメージ力、その解像度の質に相当自信があった。浮かんだイメージをことばに翻訳するくらい簡単だと思っていた。ところが、イメージとことばを工程順に位置づけなどできないことがわかってきた。

コミュニケーション理論の本のどこかには、〈A君のイメージ⇒A君による言語化⇒A君の発話(音声)⇒Bさんの聞き取り⇒Bさんの言語理解⇒Bさんのイメージ再生〉などのプロセスがよく書かかれている。A君が何を話そうかとイメージし、最終的にそのイメージと同じようなものをBさん側で再生できればコミュニケーションが成立、というわけである。理論を手順化すれば確かにそうなのだろうが、会話のやりとりはよどみない流れであるから、複数の静止画に分割しても意味がないのである。

話をコミュニケーションから離れて、上記のA君自身における〈イメージ⇒言語化⇒発話〉という部分だけをクローズアップすると、何かが頭に浮かび、それをことばによって伝えるという順が見えてくる。人はこの順番にものを考え話していると、ぼくはずっと思っていた。しかし、今は違う。そんなに都合よくイメージばかりが浮かんでくれるはずがないのだ。それどころか、言語をくするからこそイメージがそこに肉付けされるのだと思う。知の形成の仕上げは言語。ゆえに「言在知成」なのである。

イメージとことば

禅宗に〈不立文字ふりゅうもんじ〉ということばがある。二項対立の世界から飛び出せという教えだ。無分別や不二ふじは体験しなければわからない。不二とは一見別々の二つのように見えるものが、実は一体であったり互いにつながっていたりすること。分別だらけの日々に悪戦苦闘していては、人は救われない。無分別、不二へと踏み込むことによって、人は悟りへと到る――こんなイメージである(いま、ことばで綴った内容を「イメージ」と呼んだ。この点を覚えておいていただきたい)。

ところが、悟ってしまった人間が言語分別ともサヨナラしたら、もはや現実の世界を生きていくことはできない。なぜなら、現実世界では二項が厳然と対立しており、ああでもないこうでもないと言語的分別によって意思決定しなければならないからだ。何もかも悟ってみたい(そのために学びもしている)、しかし、それでは実社会とかけ離れてしまう。このあたりのジレンマを鈴木大拙師は次のようになだめてくれる。

「人間としては、飛び出しても、また舞い戻らぬと話が出来ぬので、言葉の世界に還る。還るには還るが、一遍飛び出した経験があれば、言語文字の会し方が以前とは違う。すべて禅録は、このように読むべきである。」

ぼくたちにとって、悟りの修行に打ち込むような機会はめったにない。と言うことは、言語と分別に浸る日々のうちに脱言語・無分別の時間を作り出すしかない。はたしてそんなことができるのだろうか。


冷静に考えれば、イメージとことばを二項対立と見なすこと自体が勘違いなのだ。広告業界にしばらく身を置いていたが、「コピーとデザイン」を分別する場面が目立った。文字とビジュアルが別物だと錯誤しているクリエーターが大勢いたのである。「今は言語だ、次はイメージだ」などと作業の工程と時間を割り振りすることなどできるはずがない。このように言語をイメージから切り離してしまえば、さすがに過度の言語分別に陥る。戒められてもしかたがない。

「右脳がイメージをつかさどり左脳が言語をつかさどる」などという脳生理の知識も、イメージとことばを対立させたように思う。脳科学的にはそんな役割があるのだろうが、イメージ一つも浮かべないで文章を書くことなどできないし、ことばが伴わない絵画鑑賞もありえない。ことばは脳内で響き、イメージは脳内に浮かぶ。右脳の仕業か左脳の仕業か、そんなこといちいち調べたことはない。ただ、ことばもイメージも同時に動いていることは確かである。

人は言語なくして絵を描くだろうか。ことばが生まれる前に人類は絵を描いただろうか。「テレビを見てたら、チンパンジーが絵を描いていたよ。ことばがなくても描けるんじゃないか」と誰かが言っていたが、チンパンジーは絵など描いていない。与えられた筆と絵の具で、人の真似よろしく戯れているだけだ。絵を描くのは非言語的行為などではない。大いに言語作用が働かねば、対象も題材も何も見えず、鉛筆で一本の線すらも引けない。

ラスコーの洞窟壁画は24万年の間で諸説あるが、クロマニョン人は当然ことばを使っていた。言語的に処理されていない絵やイメージなどがあるとは到底思えないのである。もっとも、イメージから独立した話す・書くもありえないだろうし、聴く・読むとなるとイメージとことばが協働していることがありありと実感できる。イメージはことばに変換されるし、ことばもイメージに塗り替えられる。そもそも言語とイメージはコインの裏表、不可分の関係にあるのだ。これが冒頭段落の最終文の意味。極論すれば、ことばはイメージであり、イメージはことばなのである。

普遍的ということ

ぼくは定義原理主義者ではないけれども、〈普遍〉などという概念について書こうと思ったら世間一般に流布している定義を避けて通るわけにはいかない。それに、定義に手を抜くと、小うるさい連中から問い詰められたりもする。煩わしいが、まずことばの定義から始めることにする。

あまり知られていないが、パスカルが〈定義〉について遵守すべき3つのルールを次のように示している(原文をアレンジした)。

1.定義しようとしている用語W以外に明快な用語がないならば、Wを用いればよい(つまり、定義の必要なし)。

2.少しでも不明なところがあり曖昧な用語なら、そのままにしてはいけない(つまり、必ず定義すること)。

3.用語を定義する時は、完全に知られているかすでに説明されていることばだけを使うこと(つまり、定義しようとしている用語Wを、WまたはWの一部で定義してはならない)。

1.は問題ない。「餅」を「米を蒸してつき、粘りのあるうちに丸や四角に形を整え、そのまま食べることもできるが、固まったものを保存して後日調理して食べる食品」などと懇切丁寧に定義しても、何が何だかさっぱりわからない。餅は「もち、モチ」でいいのである。餅を知らない人はそれをどのように理解すればいいのか。餅に出合って何度も食べて体験的にわかってもらうしかない。

議論や会議をする時の出発点で共通認識が必要だから、2.のルールも納得できるはず。簡単なようで、とても厳しいルールが3.である。なぜなら、空腹を「腹がすくこと」と新明解国語辞典のように定義すれば、ルールに抵触してしまうからだ。利益なども「利」や「益」という漢字抜きで定義しづらいし、「社会適応力」という表現を定義しようものなら、「社会」や「力」を重複して使わざるをえなくなる。


さて、本題の〈普遍的〉である。辞書には「広く行き渡るさま」とあり、転じて「きわめて多くの物事に当てはまること」を意味する。「普遍的な性質」と言えば、若干のニュアンスの相違はあるものの、「共通の性質」と言い換えてもよい。しかし、「共通」に目ぼしい対義語は見当たらないが、「普遍」には「特殊」または「個別」というれっきとした反意語が対置する。要するに、普遍的とは特殊でも個別でもないということだ。

ぼくはあまり深く考えて普遍的などと使っているのではないが、おおざっぱに「いつでも、どこでも、誰にでも当てはまること」をそう言っている。では、「これは世界に普遍的な現象である」などと言う時、一つでも例外があってはいけないのか。まさか、そこまでストイックである必要はない。そんな厳密な意味で使っているわけがないのである。ならば、どんな状況を普遍的と形容すればいいのだろうか。

一例を示そう。「私は食べることにおいて量ではなく質を重んじる」という文章において、主語の「私」を「あなた」「彼」「彼女」などと置き換えることができ、なおかつ「わたしたち」や「あなたがた」や「彼ら」に置換してもおおむね原文が成立するようなら、その文章のメッセージを普遍的と見なしてもよいと思われる。但し、「おおむね」であってもよい。一部の例外があるからと言って普遍が成り立たないわけではない。そこまで杓子定規で寸法を測ることはない。「ケースバイケース論」が大手を振らず、影を潜めるようなら、その事象を普遍的と称してもいいのである。

二項対立と二律背反

一見酷似しているが、類義語関係にない二つの術語がある。誰かが混同して使っているのに気づいても、話を追っているときは少々の表現の粗っぽさには目をつぶってやり過ごすので、その場で指摘することはない。つい最近では、〈二項対立〉と〈二律背反〉を混同する場面があった。この二つの用語は似ているようだが、はっきりと違う。

二律背反とは、テーゼとアンチテーゼが拮抗している状態と覚えておくのがいい。たとえばディベートの論題を考えるときに、論題を肯定する者と否定する者の立場に有利不利があってはならない。現実的にはどちらかが議論しやすいのだろうが、ほぼ同等になるように論題を決め記述するという意図がある。「ABである」に納得でき、「ABでない」にもうなずけるとき、両命題が同等の妥当性で主張されうると考える。

これに対して、二項対立は、本来いろんな要素を含んでいるはずの一つの大きな概念を、たった二つの下位概念に分けてしまうことである。人間には様々な多項目分類がありうるにもかかわらず、たとえば「男と女」や「大人と子ども」のように極端な二項に分ける(老若男女とした瞬間、もはや二項ではなくなる)。方角は東西南北と四項だが、世界は「西洋と東洋」あるいは「北半球と南半球」と二項でとらえられることが多い。「先進国と発展途上国」でも二項が対立している。


なお、二項対立と二律背反には共通点が一つある。それは、多様性に満ちているはずの主張や議論や世界や対象を、強引に二極に単純化して考えることだ。明快になる一方で、二つの概念がせりあがって鋭く反発し合い、穏やかならぬ構図になってしまう。とはいえ、二項対立の二つの概念は対立・矛盾関係にあるものの、もともと一つの対象を無理やり二つに分けたのであるから、支え合う関係にもなっている。「職場と家庭」や「売り手と買い手」には、二項対立と相互補完の両方が見えている。

金川欣二著『脳がほぐれる言語学』では、「ステーキと胡椒」も二項対立扱いされている。「おいしい焼肉」の極端な二項化と言えるが、少しコジツケっぽい。傑作だったのは、「美川とコロッケ」。両者が属する上位概念も対立もうかがえないが、相互に補完し合っているのは確かである(美川憲一が一方的に得をしているという説もあるが……)。

二項対立は、ある視点からのものの見方であり定義なのである(だから、人それぞれの二項があってよい)。また、いずれか一方でなければ必ず他方になるような概念化が条件である。たとえば、「日本と外国」において、「日本で生まれていない」が必然的に「外国で生まれている」になるように。ところで、知人からのメルマガに「情緒と論理」という話があった。日本人は情緒的でロジックに弱いという主張である。日本人は同時に情緒的にも論理的にもなりえるから、両概念は二項対立していない。同様に、「感性と知性」や「言語とイメージ」なども、つねに併存または一体統合しているので、二項対立と呼ぶのはふさわしくない。

以上の説明で、二項対立と二律背反を混同することはなくなるだろう。但し、これで一安心はできない。難儀なことに、二項対立は「対義語」と区別がつきにくいのである。この話はまた別の機会に拾うことにする。

人を象徴するもの

ここ二、三年、目線がリテラシー、思考、言語に向いている。仕事上の場数のお陰で、ずいぶんいろんな人たちと付き合ってきて、ようやく他人の発想メカニズムが見えるようになってきた。少し話せば、ものの見方や考え方の特徴がある程度わかる。もうしばらく付き合えば、頭の使い方の上手・下手までも診断して処方してあげられる。さらに、その人の長所を減殺している固着観念が何であるかもだいたいわかる。

別に予言者であるかのように自分を持ち上げているのではない。よく他人を観察することの意味、他人のどこを見るかというコツがつかめれば、将来の予言は無理だとしても、「おそらくこんな人だろう」と言い当てることくらいは誰だってできるようになる。占いの専門家には悪いが、人間というものは、手のひらや水晶やトランプや生年月日や星座にではなく、ことばの使い方や仕事ぶりや日々の暮らし方により強く象徴されると思う。

「あの人は背が高く、ハンサムであり、金回りがいい」などというのも、その人の形容である。いろいろある特徴から目ぼしいものを引き出したという意味で、この表現は彼を「抽象」したものと言える。しかし、こんな特徴はまったく個性的ではない。希少なようで案外そうではなく、「背が低く、不細工であり、金がない」と象徴される人たちと同数かそれ以上いるような気がする。身長や美醜や貧富ごときで人を知ろうとするのは甘い。この意味で、雑誌によく掲載されている心理テストの類も胡散臭い。


人間は「言語的動物」という表現によって象徴される。鳥類が「飛翔的動物」であり、魚類が「泳流的動物」であるように。ぼくたちはことばで羽ばたき、ことばで泳いでいる。どこを? 人間関係が複雑に入り組んだ社会環境を。ことばをよく用いないということは、鳥が羽ばたくことをやめ魚が泳ぐことをやめることに等しい。ことばを鍛錬することは環境適応のための必須要件なのである。

言語は思考に先立つ。このことをリテラシー能力でつまずいている人たちに何度も伝えている。外部環境から遮断された状況で、書きも語りもせずに、沈思黙考することなど不可能なのである。沈思黙考という四字熟語はお気に入りの一つではあるが、これは多分にイメージ的であって、現実的に考えることとは違う。むしろ脱言語的世界に没入して、「思索よりは詩作」するような感じではないか。

その人が何を考えているか。一つの質問に対する答え方でわかる。その人の書くこと、語ること、意見を交わすこと以外のどこに、その人の思考の痕跡を見い出すことができるのか。どこにもない。人間が言語的動物であるかぎり、言語のありようを見れば人がわかる。

「きみ、よく考えているか?」
「はい」
「じゃあ、その考えていることを、一つぼくに聞かせてくれないか?」
「できません」
「なぜ?」
「うまく表現できないのです」
「……」。

これを、考えているがうまく話せない状態と勘違いしてはいけない。「考えていないから話せない」のであり、「話さないから考えられない」のである。思考の活性度は言語の活性化によって高まる。大江健三郎に『「話して考える」と「書いて考える」』という本があるが、言語と思考の関係をとらえて言い得て妙である。

寡黙から失語へ

「ことばの実感」。少し奇異な表現だけれど、どんなものだろうか。ことばを使っているという実感。「読む・聴く」は認知系なので受け身のように思われるが、獲物を追うように読んだり聴いたりすることもある。そんな時は、こちらからもことばの矢を放ちことばの網を張っている。反応的ではあるが、かぎりなく「ことばを使っている」という状態に近い。とは言え、その状態が可能になるのは、「書く・話す」という主体的・能動的言語活用があってのことだ。

少々背筋が寒くなる話だが、丸々一ヵ月間一人で暮らし、まったく言語を使わない状況を想像してみる。実際にやってみてもいいのだが、おぞましい人体実験になるような予感がする。新聞や本を読んでもいいし、テレビを観たりラジオを聴いたりしてもいい。しかし、ことばを書いたり発したりする行為は一切禁じられる。誰かと話すというのもダメである。この時、わずか一ヵ月ではあるが、ぼくたちにどんな変化が起こるだろうか。実は、パソコンに向かう日々はかぎりなくこれに近い。

文字を読んだり音声を聴いたりしているので、完璧に非言語的環境に隔離されるわけではない。しかし、日記やメモを書いたり独り言を喋ったりすることができないのである。つまり、読んだり聴いたりすることに対してリアクションが許されない。ただ読みっぱなし、聴きっぱなしである。こんな状況で、ぼくたちはことばの実感を持ち続けることができるのだろうか。「考えるという行為にはことばの使用実感がある」と思いたいが、残念ながら、ことばを使用するからこそ思考実感が起こるのである。ことばを書き話すことが制限された状況で、はたして考えることができるのだろうか。


直前の段落で「~だろうか」と二度問いはしたが、答えが「できない」であることくらいはわかっている。一人だったら、人はことばを使わなくなる。使わないからことばが磨かれることもない。デリケートな意味合いも徐々に失われていくだろう。読んだり聴いたりするだけでは、自分に向かってくる道の意味は形成されるが、こちらから世界に出て行く道の意味は生まれてこない。ことばは、インプットとアウトプットという頻繁な出入り、自他間の活発な意味の往復運動によって鍛えられる。そうして、やがて思考も強靭になっていく。

寡黙が美談だったのも今は昔。そんなことでは、情報化社会を生き抜けるはずがない。いや、いつの時代も、人間関係の第一要件は「おしゃべり」だったのだ。言語と思考の不可分な一体性を思えば、語ることをおろそかにしてはならないのである。空理空論に雄弁であっても、日々のコミュニケーションに手を抜いてダンマリを決めこんでいては行動が伴わない。日々の寡黙は失語を招く。ちょうど、毎日歩かないとやがて歩けなくなるように。

話さない者は話せなくなる。現実の世界を無批判的に生き、疑念の一つも抱くことなく、時間を流し時間に流されて生きていく。こうしてことばの実感が失われていく。ことばの実感とは自己の実感である。自己が感じられなくなれば、いっさいの可能性も消失する。いや、可能性が残るとしても、その有無を誰かと論争する必要があるだろうか。昨日と同じ今日、今日と同じ明日でいいのなら、言語は影に隠れ、やがて不在となる。そして、言語に不要のラベルを貼った瞬間、もはや思考は起動しなくなる。

人が話さなくなるきっかけはいろいろある。成人の場合は、都合が悪くなったりジレンマを抱えたりしてうろたえ、やがて口を閉ざすようになっていく。遅疑逡巡するとことばの出番が少なくなるのである。