旨い魚は旨い

「旨いものは、やっぱり旨いねぇ」と誰かが言い、自分もよくそう言うことがある。どんな商品か店か忘れたが、「旨いもんは旨い」という関西弁のコマーシャルがあったのを覚えている。この種の文章は同語反復文と呼ばれる。英語ではギリシア語源のトートロジー(tautology)という表現を使う。論理的にはまったく意味を成さないものの、主語と述語に同じ用語を使うのだから、どこから見ても完璧に自明になるのは当たり前だ。

けれども、完璧に自明なほど、ただ旨いと言うしかない料理がある。「旨いもんは旨い」の「もん」の箇所は、食べるものなら、肉でも野菜でも中華でも何でもよい。一昨日の土曜日、金沢でいただいた刺身盛はまさに「旨い魚は旨い」であった。五月にご馳走になった、山間やまあいの茶屋でのイワナ会席も絶品だったが、いずれも「旨い」の右に出る形容詞は思い浮かばなかった。

いくらかは表現力もあるつもりだが、旨いものに出合ってしまうと品評のためのことばを失ってしまう。食材を絶賛するときのぼくたちの語彙不足ときたら、何というていたらくだ。「旨い」か、それに近い褒めことばか、あるいは、唸るか無言かのいずれかだろう。グルメレポーターのように「お口の中が宝石箱」のようなコメントは現実的にはありえない。もし「舌が抱腹絶倒の幸福感に浸っています」などと冷静に語れるならば、それは未だ美味に到っていない何よりの証拠である。


しかし、旨い魚は実に旨いのである。ほんの十年ほど前は「旨い肉は旨い」だったのだが、肉の上限は見えてきた。別に最高級の肉を極めたからではない。自分の懐具合における極上にはほぼ出合った気がしている。それには理由があって、ぼくにとっての旨い肉は「とろけそうなほど柔らかい肉」ではないからだ。柔らかい肉が旨い肉ではありえず、むしろ「頼りない肉」なのである。口に入れた瞬間とろける肉を食べるために大枚をはたく気はない。予算内で楽々済ませられ、野趣溢れる肉汁が広がり、しっかりした歯応えのある肉にぼくは十分に満足できている。

ところが、魚ときたら、いくらでも上には上がある。たとえば、「これは究極のブリだ」と感嘆したと思ったら、翌年に別の場所で別のブリを絶賛することになる。刺身が旨いと思ったら、ブリカマがもっと旨かったりもする。年齢のせいかもしれないが、魚のほうに奥行きを感じる今日この頃だ。

ここまで旨い魚を絶賛してきたくせに、少々興ざめなことを書こうとしている。「旨い魚は旨い」というのは不正確で、実は「旨い魚」などないのである。生のままであろうと焼こうと干そうと煮ようと、魚が旨いのではない。旨さは魚側の属性ではなく、人間側の、味覚を含む五感と価値観によって捻出される。昨今用いられることばでは〈知覚品質〉が近い。「旨い」とは、ぼくたちが「認めていて好んでいる価値の表現」なのである。裏返せば、「不味まずい」は、「認めるどころか、嫌っている価値の表現」だ。だから、「旨い魚は旨い」と「不味い魚は不味い」のいずれもが成り立つ。しかも、同じ魚料理について二様に評されるのである。

文字にしてわかること

目を閉じて腕を組み考えている。傍からは考えているように見えるだろう。だが、目を開けて腕組みをほどくと、明瞭な考えを巡らしていた痕跡が何一つないことに気づく。何だか渺茫びょうぼうとした平原をあてもなくさまよってきたかのよう。つかみどころのないイメージはおびただしく現われては消え、消えては現われた。ことばの断片だって見えたり隠れたりもした。一部の語は響きもした。しかし、考えていたつもりのその時間のうちに豁然かつぜんとした眺望が開けていたのではなかった――ということが後でわかる。

考えるということは雑念を払うことではない。むしろ、雑多なイメージや文字の群れを浮かばせては、その中に紛れ込み、そこから何かを拾い出して結んだり、ひょいとどこかへ飛び跳ねたりすることだろう。ぼくは沈思黙考という表現を好むが、現実の思考にはそんな落ち着いた趣はない。もちろん瞑想とはさらに距離が隔たる。雑念を払おうとする瞑想は、ものを考えるという行為の対極に位置すると言ってもよい。

考えているプロセスは、実はぼくたちにはよくわかっていない。また、考えたことと紙の上に書いていることはまったくイコールではないのである。腕を組んで考えたことのある部分は漏れこぼしているし、いざ書き始めたら考えもしていなかったことを綴っていたりする。考えたことを書いていると思っているほど、考えたことと書いていることが連動しているのだろうか。むしろ、書いている今こそが考えている時間であり、次から次へと現われる文字の群れが思考を誘発している気さえする。


あることばや漢字がなぜこのように綴られ発音されているのかが急に気になり出すことがある。さっきまでふつうに使っていたのに、ふと「ぬ」という文字が変に見えてきたり、「唐辛子」が人の名前のように異化してきたりする(「変」という文字が変に見えてくる話を以前書いた)。今朝は「一」が気になり、これを「いち」と読むことがさらに気になり、その一に「人」や「品」や「点」や「匹」がつくことがとても奇妙に思えてきた。それで、目こそ閉じはしなかったが、ぼんやりと「一」について考えていたのである。

ふと我に返れば、まっとうなことを考えてなどいなかったことがわかった。考えているつもりの大半が「ぼんやり時間」なのだろうと思う。試みにノートを取り出して「一人」と適当に書けば、何となくその文字に触発されて「一人でも多くの人」という表現が浮かんだので、そう書いた。そして、「一人でも多くの人に読んでほしいと語る著者の本心が、一人でも多くの人に買ってほしいであったりする。読まれなくても買ってもらいさえすればいいという本心。では、ぼくたちは、一人でも多くの人に本心からどうしてほしいと思い、どうしてあげようと思っているのか。明文化は一筋縄では行かない」と続けた。

ペンを持って紙の上を走らせるまではそんなこと考えてもいなかった。いや、考えていたかもしれないが、言語的には何一つ明快ではなかった。おそらく、「一」という対象に意識が向けられて、かつて考えたり知ったり経験したりした脳内のことばやイメージが起動したのだろう。そして、リアルタイムで書き、その書いている行為がリアルタイムで考えを形作ったと思われる。「下手の考え休むに似たり」に通じるが、文字化せずに考える時間は凡人にとっては無駄に終わる。とりあえず書く。書くという行為は考えるという行為の明快バージョンと見なすべきかもしれない。

コロケーションの感覚

誰かが話すのを真剣に聴いているものの、注意が内容にではなく、「ことばのこなれ具合」のほうに向いてしまうことがないだろうか。ぼくはしょっちゅうそんな体験をしている。話の中身を聴いてもらえない人やことばの表現と流暢さに悩んでいる人には、今日の話は参考になると思う。少々難しいかもしれないが……。

ことばのこなれ具合に関連して、連語〈コロケーション〉の話を二年前の『ことばの技法』という講座で少し取り上げたことがある。そのニューバージョンのためにおもしろい演習を作ってみようと思い立ったのが週始め。直後、塾生Mさんのブログで「コーパス(corpus)」についてのくだりを見つけた。Mさんは日本語の専門家だから、この方面の言語習得理論によく精通している。

来月の私塾大阪講座のテーマが言語なので、記事中の反チョムスキーやピンカー贔屓の話も興味深く読ませてもらった。ぼくの講座の半分はソシュールがらみだが、ほんの少しだけチョムスキーとピンカーにも言及するつもりだったので、よい参照ができた。私塾では最後の15分間を一人の塾生のコメントタイムに充てている。そして、来月のそのクローザー役を務めるのが彼なのである。きっと別の視点からぼくの生兵法を補足してくれるだろうと勝手に期待している。

さて、コンピュータ処理機能の高度化によってコーパスが加速していることは想像できる。ただ、ぼくのコーパス観は相当に古くて陳腐化しているかもしれない。なにしろ最初にコーパスに関心を抱いたのが、27年前に発行された『現代米語コーパス辞典』。1,200ページの分厚い本だが、共著ではなく、坂下昇が一人で書き下ろして編んだもの。アメリカではコーパスが当時以前から重要視されていた。

さて、そのコーパス。「ことばの素材大全集」という意味だ。もう少し説明すると、一定期間に発行された書物からありとあらゆることばを拾い集めて収録し、コンピュータ処理によって言語の推移や特徴を統計的に分類する、膨大な標本データベースということになる。現在のコーパスの認識もこんなふうでいいのだろうか。いや、高度な技術の恩恵を受けて、想像外の分類や検索が可能になっているに違いない。


前掲の辞典に続き、翌年に同じ著者が『現代米語慣用句コーパス辞典』を出した。ちょうどその頃、ぼくは国際広告・海外広報の仕事で英文を書いていたので、こちらの本をよく活用した覚えがある。慣用句とは「決まり文句」のこと。見方を変えれば、ことわざや金言などを含む定番的な表現は、耳にタコができそうな常套句でもあるのだ。しかし、頻繁に使われてきただけによくこなれているし、文化や精神の共有基盤に根ざしてもいる。そんな慣用句を適材適所的に使いこなす人には「ことば巧者」という印象を抱く。

少し迂回したが、やっと冒頭のコロケーション(collocation)に戻ってきた。コーパスという、膨大なことばの標本から、時代ごとにどんな慣用句の頻度が高いかということがわかる。そして、慣用句というのはおおむね二語以上で表現されるから、ことばとことばのつながり、すなわち「こなれた連語」の事例があぶり出されてくる。手元の日本語コロケーション辞典を適当にめくると、【調子】という項目があり、相性のよい動詞と連語になった「調子が出る」「調子が外れる」「調子に乗る」「調子を合わせる」「調子を崩す」が挙がっている。

広告の見出しや実験小説の表現、それに新商品の命名などでは、時折りコロケーションを崩す冒険を試みる。新しい語の組み合わが注意を喚起しアヴァンギャルドな効果を出すからだ。しかし、ふだんのコミュニケーションになると話は別で、スムーズに二つ以上の語がつながるほうが文意がよく伝わるのは当然。だから、こなれ具合が悪いと耳障りで、肝心のメッセージに集中できなくなってしまう。

二つ三つの語が慣用的に手をつなぎ、一語のように機能するのがコロケーション。形容詞と名詞あるいは名詞と動詞の組み合わせをそのつど考えていては話がはかどらない。だから、ぼくたちはコロケーションを身につけて言語活動を省エネ化しているのだ。コロケーションセンスを磨く近道は、アタマで覚えるのではなく、口慣らしによる身体への刷り込みに尽きる。自分が気に入っていて波長の合う、よくこなれた文章を音読するのがいい。必ずしも名文である必要はない。

指し示して伝えるということ

「どれ?」「これだよ」「えっ、どっち?」「こっち」……ゲームをしているのではなく、よくある現実の場面。少し離れたところにいる人に、こちらにあるものを指し示したら、その人差し指がどこを向いているのかがよくわからない。「これ」と指し示した箇所の名称を知らないので指を使っているのだが、ピンポイントで対象を確定できない。指(☚)や矢印(➡)は対象に近接していればうまく機能するが、これらと対象との距離が長くなればなるほど、いったい何が対象であるのかわかりにくくなってしまう。

では、今度はゲームをしてみよう。遵守すべき条件は、左手を使えない、話すことが許されない、絵や文字にしてはいけないの三点。さて、あなたが相手に伝えたいのは「親指」である。左手で指し示さず、「おやゆび」と発話せず、絵や文字で表わさずに、はたしてどのように伝えればいいだろうか。

人差し指で隣りの親指の爪あたりを指すと、お金のサインになってしまう。かと言って、第一関節の腹あたりに人差し指の指先を当てれば、数字の69、あるいはかたつむりの形に見えなくもない。相手は、人差し指が示す対象を親指だとわかってくれるだろうか。人差し指を使わずに、仮に親指だけを単独で立ててみればどうか。すると、相手はそれをオーケーのサインと見てしまう。

親指でなくてもいい。小指、薬指、中指と順番に人差し指で指し示していくと、二本の指で「造形」されるものが何らかの記号的意味を相手に与えてしまう。同時に、残りの三本の指も「地」として意味を付加する。あなたの右手の動きを見て、相手は「きみは、人差し指で他の四本の指を示しているのだね」と勘を働かせてくれるだろうか。あるいは、あなたは何が何でも相手に伝えられると胸を張れるだろうか。


人差し指で、たとえば耳を示せば、相手は「耳が指によって示されたこと」をわかってくれるだろう。まさか、「人差し指を耳によって示した」とは思わない。なにしろ、人差し指は「インデックスの指」なのだ。人差し指をおもむろに対象に近づけて、対象のすぐ近くでピンと伸ばせば、たいていの場合、爪先で示した箇所は相手に伝わる。但し、頭と毛髪、顔と頬などでは誤伝達が起こる可能性がある。

では、伝えるべき対象が「人差し指」のとき、あなたはどのようなジェスチャーをするだろうか。人差し指の関節は内側にしか曲がらないから、曲げて示そうとすれば「鍵」のように見える。真っ直ぐ立てれば、人差し指というよりも「一本」という意味合いが強くなる。他の指で示そうとも、他の指はインデックス指として認知されていない。ならば、口で人差し指をくわえてみるか。残念ながら、それは「指しゃぶり」か間抜けなジェスチャーにしか見えないだろう。

以上のようなことをイメージしていると、不思議なことに気づく。人差し指そのものが人差し指を的確に指し示せないように、PP自体を示すのはむずかしいのではないか。PはどうにかこうにかQRを示したり伝えたりできても、Pそのものを明確にするのに苦労する。そして、実は、ことばも人差し指や矢印と同じ機能を持っているのではないか。指や矢印で対象を示せない時、つまり、近くにないモノや目に見えない概念をことばで描く時、ぼくたちはきわめて高度な技術や知識を駆使せねばならないはずである。

昨日、NHKニュースで「日本のはるか南……」と耳にしたとき、ぼくは「はるか南」の指し示す距離に一瞬戸惑い、「マリアナ諸島で……」とキャスターが続けても、イメージと知識が起動しなかった。伝える側の指示内容が伝えられる側の参照を的確に促すということは、信じられないくらいすごいことなのだろう。

寡黙化する人々

「人は商品を買うのではなく人を買う」と豪語したジョー・ジラードは別格としても、カリスマと称されるセールスパーソンなら誰しも自分自身を売り込んでいるはずである。売る人そのものが売り物ではないにもかかわらず、商品価値のほぼすべてを人が決定しているというこの考え方は、実は決して珍しいことではない。むしろ、誰が携わっても同じという「セールスの匿名性」のほうが少数派なのである。

商品の購入にあたって顧客は売る人を買っている。これは、彼らが信頼を、説明を、笑顔を、経験などを求めているからである。極端な話、顧客が買っている商品はコミュニケーションに満ち溢れた環境で売られているのである。したがって、ジラードをもじって、「どんな商品を扱うにせよ、私が売っているのは、実はコミュニケーションなのだ」というセールスパーソンがいても決して不思議ではない。

「コミュニケーション上手」イコール「口達者な売り手」ではない。コミュニケーションとは相手を納得へと導くマメな情報共有をも意味する。だから、たとえばエドワード・T・ホールの「非言語的コミュニケーション」であってもかまわない。手まねや身振りも、文化的・文脈的パターンにのっとっていれば、十分に機能すると思われる。とはいえ、ビジネスシーンにおける非言語的コミュニケーションの影響力は失態時に強く出る。立ち居振る舞いが反文化的に働いたり無礼に捉えられたりというケースだ。ビジネスを牽引する主導的役割を果たすのが言語的コミュニケーションであるのは言うまでもない。


ホールの唱えた“silent language”は「沈黙のことば」と訳される。言うまでもなく、沈黙のことばは有言のことばとセットである。言語的コミュニケーションに怠慢な者が、いくら張り切ってジェスチャーをしても空しいばかりだ。それなのに、公の場での人々の静けさはいったいどういうわけだろう。しかも、寡黙な彼らは、沈黙のことばによる表現も不器用なのである。彼らの手まね身振りはほとんどの場合、携帯やパソコンの操作に限られているかのようだ。

稀に発話しても単語がパラパラと撒かれるだけで、ことばが文章の体を成していない。一語か二語話しては止まり、「あの~、ええっと」などのノイズが入り、そしてまた一語か二語が続く。単語どうしが相互に結びつかず構文が形成されない。とりわけ、動詞なきメッセージには面喰ってしまう。動詞がなければ、結局何を意図しているのか判然としないのである。これではまるで、カラスの「カァーカァー」やネコの「ニャーニャー」とほとんど同じではないか。仕事の現場での饒舌なやりとりを懐かしく思ってしまう今日この頃だ。

但し、現代人は私事の、つまらぬことに関しては大いに雄弁なのである。この雄弁がパブリックスピーキングに生かされない。現代人にとっての母語は、発話されない「沈黙のことば」と化し、話しことば自体が第一外国語になったかのよう。まさに、口を開いて日本語を話すこと自体が、十分に精通していない外国語を話すことのように重くなってしまったのである。これは母語の退行現象にほかならない。

軽はずみな一言

幼少の頃の写真を見ると、ほとんどがモノクロ写真ではあるものの、ぼくが色白であったことがわかる。中学時代に少々剣道をしていたが、室内競技。だから、中学を卒業するまではたぶん褐色系の風貌とは無縁であったと思われる。高校に入ってから自分が日焼けをする体質であることがわかった。ふつう色白肌だと赤く焼けるのだが、そうはならない。真っ黒にもならないが、少しアウトドアで運動するだけでほどよい褐色に焼けた。

ある時期からやや脂性へと変態したのかもしれない。あるいは単に、わずかな陽射しですぐに焼ける潜在的な体質だったのかもしれない。いずれにしても、この歳になってもすぐに日焼けしてしまうのだ。真夏日は別として、土・日にはよく散歩するものの、長時間アウトドアスポーツをするわけではない。平日出張ではほとんど陽に当たらないし、大阪にいる時も自宅と事務所の間を往復30分弱歩くだけである。

しかし、問題はその半時間にある。あいにく朝は東の方向へと歩き、夕方に西日を受ける方角へと帰ってくる。朝夕のどちらもまともに太陽に向かって歩いているのである。日焼けしやすい体質にとって10分は褐色を重ねるのに十分な時間なのだ。この時期はだいぶ濃さを増すので、ぼくの趣味をあまり知らない人に「よく焼けてますねぇ。ゴルフですか?」と聞かれること常である。その瞬間、キッとなって「ゴルフなんか、、、しませんよ!」とつい言ってしまう。そのあと「あっ」と思うのだが、もう「なんか」と言ってしまっている。手遅れだ。


さぞかし、この「なんか」はゴルフ好きにはとても失礼に響いていることだろう。「なんか」はそれ自体大そうな意味もないただの助詞なのだが、「○○なんか」と言えば、○○が望ましくないものを漂わせる。「なんて」と言い換えればカジュアルだが、軽視の感度は同じだ。「お前なんか」も「あなたなんて」も、いずれも低い価値のものとして見下している。相手が気分を害することは想像に難くない。なぜなら、「きみもビジネススキルばかりじゃなくて、哲学の一冊でも読んだほうがいいよ」と助言して、「哲学なんか役に立たないでしょ?」と反問されたら、ぼくだって心中穏やかではない。

ぼくはゴルフをしない。大学生の頃によく練習したし模擬コースのような所も何度か回った。先輩にはセンスがいいと褒められたりもした。けれども、アマノジャクな性分なので、やみつきになって身を滅ぼすかもしれないと察知し、二十歳できっぱりとやめた。だから、未練なんか、、、まったくない。この心理が「なんか」と言わせるのか。かつてよくカラオケに通った頃はカラオケに「なんか」を付けたことなどなかったが、いま誘われたら「カラオケなんか行かない」と言ってしまいそうである。

昨日のブログのM氏に「プーケットに一緒に行こうじゃないか?」と誘われた時も、たしか「プーケットなんかに行くくらいなら、ヨーロッパを旅しますよ」と憎まれ口を叩いた。たった一つの助詞を通じて心情がありのままに吐露される。そのM氏も奥さんに「お前いい」と口を滑らせたことがある。ここは「お前いい」でなければならない(「お前いい」は相当まずい)。多弁なぼくだ、口の禍の確率が大きいから、心しておかねばならない。「なんか」なんか、もう使わない。

遅れてやってくる珠玉の素材

研修用のテキストが完成すると一安心する。ただ、編集エネルギーの余燼が十分に冷めていないので、その後もテーマに関連した本をちらほらと読む。不思議なもので、そうしているとテキストで用いたものよりも「魅力的で適切な素材」を見つけてしまうのだ。その素材を「足す」だけで済むならテキストを手直しするが、構成自体に地殻変動をもたらすようなら諦めるしかない。しかし、見過ごすのはもったいないという気持から、口頭で紹介するかパワーポイントに組み入れたりすることになる。

私塾の第4講のテーマ『行動規範のメンテナンス〈東洋の知〉』は8月上旬にテキストを脱稿している。ところで、このテーマを選んだのはほかでもない。十代の終わりから漢詩に親しんできて、その流れからか、老子、孔子、孟子、禅、さらに釈尊、それに空海や親鸞などの有名どころをざっと勉強したことがあった。二十代前半に職場の先輩であったM氏が偶然その方面に明るかったから、よく教わったり意見を交わしたりもした。東洋の知への関心にはそんな背景がある。

さて、そのテキストが仕上がってから、講義のためではなく興味本位で関連書を読んでいた。すると、「あ、これ、忘れていた」という好素材がどんどん出てくるのである。行動規範と東洋の知を結んだのはわれながらあっぱれと自画自賛したくなるほど、ブッダのことばや禅語録には行動規範のヒントが溢れている。しかも、そうした珠玉の素材は、もう一歩踏み込まねばなかなか姿を現してくれないものなのだ。


読み残して放っておいた本の後半に出てきたのが、「無可無不可かもなくふかもなく」。今でこそ「良くも悪くもなく、まあまあ」というように使うが、元来は先入観で物事を決めつけないという意味。ぼくたちは十分に検証もせずに事柄や状況の良し悪しを判断する。多分に主観的、と言うか、独我的に。一見良さそうに見えるあれも、どう見ても悪そうに見えるこれも、ひとまず白紙の状態で眺めてみなさい。これが無可無不可の諭すところで、つまるところ、極に偏らずに中道の精神状態を保つべしということになる。

次に見つけたのが、道元禅師の「他是不吾たはこれわれにあらず」。他人がしたことや他人にしてもらったことは、自分でしたことではないという意味である。あなたの腹ペコを満たすのはあなた自身であって、誰かに食べてもらってもあなたは満腹しない。仕事も習慣もすべてそう。自分の仕事を誰かに代わってもらえば、その仕事は片付いたことにはなる。しかし、決して自分でしたことにはなっていない。他の誰でもない、この自分がやらねばならない、よしやるぞと決めたら自分でやり切るしかないという教えである。たしかに、今やるべきことを一番よく心得ているのは、この自分である。ふ~む。耳が痛い。

以上、偉そうに書き連ねたが、見て思い出したまでで、かつて頭に入れたはずのこれらのことばはすっかり記憶から抜け落ちている。再会すれば思い出す、しかし自然流では思い出せない。そんな知識やことばがいったいどれほど眠っていることか。実にもったいない。だからこそ頻繁な再読なのだろう。私塾や研修のテキストを書いて編集するのはとても疲れるが、そういう仕事に恵まれているからこそ、忘れた旧聞に再び巡り合える。実にありがたい。

ロジカルの程度

論理的という意味と同等に「ロジカル(logical)」が使われ定着するようになった。まずロジカルシンキングが目立つが、ロジカルリスニングにロジカルライティングというのもある。ロジカルスピーキングやロジカルコミュニケーションも研修タイトルとしてよく耳にする。実際、ぼくもロジカルシンキングとロジカルコミュニケーションという名称の研修を実施するが、以前も書いたように、シンキングよりもコミュニケーションに力点を置く。

上記のカタカナで呼称される研修は、思考力と言語の認知・伝達力の強化を主たる目的としている。しかし、論理的思考が成されているかどうかを直接的に知ることはできない。「きみは論理的に考えているかい?」と尋ねて、「はい、以前に比べてより論理的に考えることができるようになりました」と答えが返ってきたから、論理的思考ができている? そんな馬鹿げたことはないわけで、彼が論理的に考えているかどうかは、少々対話をしたり問答を交わしたりして判明する。思考と言語は論理的に同期するから、だいたい言語による説明や伝達ぶりを観察すればロジカルであるかそうでないかが明らかになる。

かつて「ロジカル度テスト」なるものを実施していたが、これは純然たるお遊び。論理学習を食わず嫌いしないようにと配慮したものだった。研修の冒頭でロジカル度を自己採点して、各自の点数に苦笑いしたり胸を張ったりしてもらったまでである。言うまでもなく、ロジカルに程度などない。ロジカルかロジカルでないかのどちらかしかない。デジタル的な「10」である。「あの人は彼女よりもロジカルだ」と言えなければ、「この文章はとても論理的である」とも言えない。ロジカルに比較級も強調もない。あの人(あの文章)は論理的であるか非論理的であるかのいずれかなのだ。


ロジカルと同じように、比較級変化せず、また形容詞の修飾を受け付けないのが、固有を意味する「ユニーク(unique)」。「とてもユニーク」や「きわめて固有の」などは日常会話では当たり前になっているが、よくよく考えれば、ユニークにも程度はない。ユニークかそうでないかである。「この作品はあの作品よりもユニークだ」とつい言ってしまいそうだが、「この作品はあの作品よりも固有だ」がありえないことは何となくわかってもらえるだろう。

ロジカルを「筋が通っている」に置き換えれば、「半分筋が通っている」という状態が奇異であることがわかる。あるいは、「一部脱線したり寄り道していたりするが、おおむね筋が通っている」も矛盾を抱えている。筋が通ると断言するかぎり、横道に逸れたり途切れたりしてはいけない。筋が二本通ってもいけない。通る筋は一本のみ、しかも真っ直ぐでなければならない。これこそがロジカルの本質なのである。

繰り返すが、人は少しだけロジカルになったりだいたいロジカルになったりできない。ある言説が前提と結論という構造をもつとき、その文章は論理的か非論理的かのいずれかである。「ぼくは生卵を手にしている。床は硬い大理石である。手を高く掲げて卵を床に落とせば割れるだろう」という推論はロジカルであり蓋然性も高い。但し、ロジカルであることと蓋然性があることはイコールではない。後者は現実に起こるかどうかの話である。もしその生卵が割れなかったとしても、上で成された推論がロジカルであることに変わりはない。

何も聴かない、何も読まない

有名な酒造メーカーの高級ブランドウィスキーの広告に「何も足さない、何も引かない」というのがある。ご存知の方も多いだろう。「純」であることを訴えるのに純粋という陳腐な言い回しをしないのがいい。足しも引きもしないという表現からぼくたちは自然をイメージしてしまう。なかなか秀逸なコピーだと感心したものである。

けしからぬミート加工業者が数年前に摘発されたとき、ぼくはこのコピーを本歌にして「何でも足す、何でも挽く」なるパロディーを創作した。表示された食肉以外の肉を足し、何でもかんでもミンチ状に挽いたありさまを諷刺してみたのである。それをきっかけにもう一丁とばかりにひねったのが「何も聴かない、何も読まない」である。音楽も聴かなければ本も読まないという見たままの文意ではない。実は、もう少し意味深長のつもりである。

作意を披露する前に、もったいぶって伏線を張っておこう。先日、書店で平積みしてある『日本人へ リーダー篇』と題された本を手にした。著者は、全三十数巻の大作『ローマ人の物語』の塩野七生。平積みの最新刊を求めることはめったにないが、携行した本を出張先で読み切った時には、その種の本を買うことがある。いきなり「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと思う現実しか見ていない」というユリウス・カエサル(英語名ジュリアス・シーザー)のことばが紹介される。著者はこのことばが気に入っているようで、『ルネサンスとは何であったのか』の中でも使っている。そこでは、「人間性の真実を突いてこれにまさる言辞はなし」というマキアヴェッリの賞賛も添えている。


ここで注目すべきは「多くの人は、見たいと思う現実しか見ていない」という後段である。見たいという行為だけにとどまらず、「したいことしかしない」や「考えたいことしか考えない」や「欲しい情報しか求めない」などへ敷衍することができる。これらの性向を説明してくれるのが、〈認知的不協和理論〉だ。人は自分の考えに合っていることや自分の都合によくなる情報だけを使い、都合の悪いことから目線を逸らす。すなわち、人は欲求するところを中心に推論する癖を持つのである。

さて、「何も聴かない、何も読まない」に話を戻そう。これは、聴いているようで実は何も聴いておらず、読んでいるようで実は何も読んでいないという意味なのである。「聴きたいことだけを聴き、読みたいことだけを読む」のならまだしも、多くの人は、聞き覚えのあることや読み覚えのあることにはあまり集中しようとはしない。いや、わざわざ意識して集中しなくても、聞き流し読み流すだけで十分とタカをくくっているのである。困ったことに、すでに知っていることに対してはきわめて御座なりに済ませてしまうのだ。

では、聴いても読んでも難解な事柄に対してはどんな態度をとるのか。今度は、聞き飛ばし読み飛ばす。要するに、わかっていることにはいい加減に相槌を打ち、わからないことには聞かざる見ざるを決め込むのだ。こうして、「何も聴かない、何も読まない人間」が出来上がってしまう。事柄が既知であろうと未知であろうと、聴く・読むという認知は集中を要する。集中を怠れば、聴ける範囲内で聴き、読める範囲内で読むという惰性に流れる。聴けたり読めたりするはずの事柄すらうわの空という状態だ。好きなものばかり食べていたら、やがてその好物の味そのものがわからなくなるのである。

考えることと語ること

だいぶ前の話になるが、コミュニケーションの研修のたびにアンケートを取っていた。いくつかの問いのうちの一つが「コミュニケーションで悩んでいることは何か?」であった。そして、二人に一人が「考えていることをうまくことばにできない」や「思っていることを他人に伝えることができない」と答えたのである。これらの答えの背景には「自分は何かについて考え、何かを思っている」という確信がある。その上で、そうした考えや思いを表現することばに欠けているという認識をしている。はたして言語はそのような後処理的なテクニックなのだろうか。

「思考が言語にならない」という認識はどうやら誤りだということに気づいた。ほんとうに考えているのなら、たとえ下手でも何がしかの兆しが表現になるものだ。幼児は、バナナではなくリンゴが欲しいと思えば、「リンゴ」と言うではないか。それは、バナナと比較したうえでの選択という微妙な言語表現ではないが、思いの伝達という形を取っている。「リンゴ」と言わないうちはリンゴへの欲求が、おそらく不明瞭な感覚にとどまっているはずだ。子どもは「リンゴ」と発すると同時に、リンゴという概念とリンゴへの欲望を明確にするのである。

「言葉は思考の定着のための単なる手段だとか、あるいは思考の外被や着物だなどとはとても認められない」「言葉は認識のあとにくるのではなく、認識そのものである」(メルロ=ポンティ)

「言語は事物の単なる名称ではない」(ソシュール)。

「言語の限界が世界の限界である」(ヴィトゲンシュタイン)。

粗っぽいまとめ方で恐縮だが、これら三者はそれぞれに、言語と思考の不可分性、言語とモノ・概念の一体性、言語と世界観の一致を物語っている。


ぼくたちは何度も繰り返して発したり書いたりしたことばによって思考を形作っている。未だ知らないことばに合致する概念は存在しない。いや、不連続で茫洋とした状態で何となく感覚的にうごめきはしているかもしれないが、それでも語り著すことができていないのは思考というレベルに達していない証しである。先のヴィトゲンシュタインは、「およそ語りえることは明晰に語りうるし、語りえないものについては沈黙しなければならない」とも言っている(『論理哲学論考』)。語りえることと考えうることは同じことだとすれば、語っている様子こそが思考のありようと言っても過言ではない。

以上のような所見が異様に映るなら、相手が想像すらしていないことについて質問してみればいい。相手は戸惑い沈黙するだろう。これではいけないとばかりにアタマの中に手掛かりを求めるが、白紙の上をなぞるばかりでいっこうに脈絡がついてこない。ますます焦って何事かを話し始めるが、明晰からは程遠い、無意味な単語を羅列するばかりだろう。あることについて知らないということはことばを知らないということであり、ことばを知らないということはことばにまつわる概念がアタマのどこにもないということなのである。

芸人のなぞかけが流行っている。「○○とかけて□□と解きます。そのココロは……」という例のものだ。まず「○○」が初耳であれば解きようもない。仮に「○○」が知っていることばであっても、かつて思い巡らしたことすらなければ、整わせようがない。たわいもないお遊びのように見えるが、実は、あの技術は言語力と豊富な知識を必要とする。そう、明晰に語ることと明晰に考えることは不可分なのである。ことばが未熟だからと言い訳するのは、思考が未熟であることを告白していることにほかならない。