語るべきを語らざる罪

「連れ立って映画を見に行った父と娘が、浮かぬ顔で帰宅した。画家である父は、ピカソの生活を写した映画が見たかったが、娘にはつまらぬだろうと思いやり、娘に向きそうな感じの映画に誘った。父がその映画を見たいのかと察した娘は、内心つまらないのを我慢してつきあってきた。ことばを抑制し、思いやりだけにたよって、双方が浮かぬ顔という結果になったのだった。」

もう34年も前に書かれた『失語の時代』(芳賀綏)からの引用である。「ものを尽くして言うべきにあらず」という表現美徳観が日本人の誰にも少なからず刷り込まれている。対照的なのが古代ギリシアで、「人間はロゴスをもつ動物である」と言われていた。ロゴスは多義性の強いことばだが、根源には「ことわり」がある。この伝統を継ぐ西洋社会では、ことばと理(理性や論理)はつながっている。いや、一体である、というのが正しいだろう。

文脈を察したり、行間を読んだり、はたまた言外の言を汲んでやったり……。わが国では聞き手が、ことば少なにつぶやく相手に対してずいぶん物分かりのよい態度を取る。この聞き手側の態度は、自分が話す側に立つときに「貸し」として作用する。これにて、ことば少なの貸借関係、つまり、甘えを許容し合う持ちつ持たれつのコミュニケーション関係の一丁上がり。小説の世界じゃあるまいし、そんな甘えの構造で成り立っていていいのだろうか。ことばによって分かり合おうとする努力を重ねない者が、文学世界の沈黙の妙を味わえるはずもない。


ロゴスを強調すると、「あいつは感性のない奴だ」と決めつけるところに、アンチロゴス派の言語理性の危うさが露になる。ロゴスもパトス(感性・情緒)も一人の人間に共存している。ロゴス嫌いに感性豊かな人間はきわめて少ないのだ。ぼくは若い頃から年長のロゴス嫌いと戦ってきた。「生意気で屁理屈の強い青二才」と言われ続けてきた。たしかに今もその面影は残っているかもしれないが、その抗戦姿勢を貫いたことによって少なくともロゴス嫌いほど馬鹿にならずに済んだと思っている。

思うところに素直になって語り始めるしかないではないか。ある会合があって、手伝いをして欲しければ、「早めに来てください」と言えばいい。それなのに、無理して「会合は午後6時開始」とだけ告げて心に一物を残すことはない。たしか夏目漱石のエピソードだったと思うが、「引越しすることになった。手伝ってくれるなら昼、飯だけ食うなら夕方にお越し願いたい」という手紙を仲間に出した。この文面を読めば、昼に行くしかない。エスプリのきいた「語るべきを語る」一つの方法である。

物言わぬ風土にあって、それなりの人物はちゃんと物を言っている。「口は災いのもと」や「物言えば唇寒し秋の風」というアンチロゴスにしても、それらが金言として今日に残ったのは、言として形にしたからである。ロゴス派であろうとアンチロゴス派であろうと、無言で睨み合うわけにはいかない。語るべきを語らざる姿勢からは何も生まれない。それどころか、誤解という罪を犯してしまう。 

ちょっと言い過ぎた。誤解は必ずしも罪ではないかもしれない。しかし、誤解は、美しくて味わいのある終幕になることもあれば、修復不可能な悲惨な結末を迎えることもある。ただ、どちらにしても誤解がつきものであるならば、黙して生じる誤解よりも、言を尽くして招く誤解のほうをぼくは取るし、そうしてきた。語った言を拠り所にして誤解をほどくほうに希望をつなぎたい。

対話論雑感

二日連続対話について論じたので、ついでに湧き上がるまま雑感を並べ書きしてみることにする。ぼくが対話と言うときのテーマは命題形式を前提としている(ディベートではその命題を「論題」と呼ぶ)。対話にはディベートや二者間論争が含まれる。しかし、話題を拾って語り合う会話、演題について一方通行で話す弁論、議題についてさまざまな意見を出す会議などは対話に含めていない。


先の『防災・社会貢献ディベート大会』は「無差別級」でおこなわれた。高校生、大学生、社会人が総当り的に対戦するのは珍しいケースである。ディベートの本来の姿は老若男女が入り混じることだと思っているので、あの大会を大いに評価している。


肯定側は論題で記述された内容を肯定する立場にあり、否定側は論題で記述された内容を否定するのではなく、当面の肯定側が論題を支持する論点を否定する。ちょっと混乱しそうな表現だが、検証者としての否定側は、「はじめに論題否定ありき」ではなく、肯定側の立論に対する否定の任に当たらねばならない、ということを意味している。

肯定側が評価に値する立証責任を果たしているにもかかわらず、否定側が肯定側の論点にまったく争点接合せずに論題のみを否定しているかぎり、反駁責任を果たしているとは見なさない。


ディベートの質を高めるのは肯定側の立証力にほかならない。他方、ディベートをスリリングな議論にするのは否定側の切り返しによるところが大きい。両者拮抗した場合は、即興性を求められる否定側に分がある。


論題には複数の解釈がありうる。ある一つの解釈によって立論の方向性を打ち出すとき、その方向性にはしかるべき正当性あるいは共通感覚(または通念)へのアピールが求められる。これを基本哲学と呼び、立論の冒頭でしっかりと提示するのが望ましい。

定義には辞書から引用する「辞書的定義」と、論題に充当する範囲で自ら手を加える「操作的定義」とがある。後者の定義をおこなう場合は、基本哲学と連動しなければならない。


否定とは「何か」の否定である。否定や反論は、何がしかの主張に対しておこなわれ、その主張と自論の見解が異なっていることを前提としている。見解の相違がなければ、誰も反駁しようとはしない。また、語られもしていないことを否定したり、不在の主張に反論することはできない。


ディベートの議論の評価は、肯定側立論の評価を基準としておこなわれる。


肯定側が二つの論点を提示したとしよう。そのうちの一つが反駁され、しかも最終弁論まで修復されないとき、立証責任は果たされなかったと見なす。すなわち、否定側は論点のすべてを否定する必要はなく、部分の否定だけで反駁責任を果たすことができる。

肯定側が「Aはすぐれている」と主張するだけで、いっさい証拠も論拠も示さなければ、否定側は「Aはすぐれていない」と反論するだけで十分である。

「なぜAがすぐれているのか?」と尋問するのが否定側の役割であるとする見方もあるが、肯定側は主張と同時に証拠と論拠を示す義務を背負っているから、言いっ放しの主張の面倒を見ることはない。但し、それではあまりにも不親切で人情味に欠けるように見えるから、否定側がカウンセリング的に振る舞っておいて損はない。

肯定側が「Aはすぐれている。それは次の二つの理由による」と主張するとき、否定側は主張への反論だけでは反駁責任を果たせない。二つの理由または少なくともいずれか一つの理由に効果的な検証反駁ができてはじめて主張を否定したことになる。


検証する側が一般的には優位に立ちやすいのは確かである。こう言うと、否定側がずいぶん楽そうに思われるかもしれないが、肯定側立論で想定外の論点が提示されたときは当意即妙で対応しなければならないので、力量互角ならまずまず拮抗するようになっている。

議論を拮抗させるためには、論題の記述に細心の注意を払わねばならない。一言一句の違いが議論の方向性を大きく変える。退屈な定義論争や詭弁の応酬が目立つディベートになるのは、たいてい論題記述の拙さに起因している。

対話からのプレゼント

2010322日。神戸で「第1回防災・社会貢献ディベート大会」が開催され、審査委員長として招かれた。大会そのものについてはニュース記事になっているようだ。一夜明けた今日、ディベートについて再考したことをしたためておこうと思う。


考えていることをことばで表現する。思考していることが熟していれば、ことばになりやすい。おそらくその思考はすでに言語と一体化しているのだろう。考えていることとことばとが一つになる実感が起こるとき、ぼくたちはぶれないアイデンティティを自覚することができる。もっとも、めったに体験できることではないが……。

考えていることがうまくことばにならない。それは言語側の問題であるよりも、思考側の問題であることのほうが多い。「口下手」を言い訳すると、「考え下手」を見苦しく露呈してしまうことになりかねない。どんなに高い思考や言語レベルに達しても、考えをうまく表現できない忸怩じくじたる思いはつねにつきまとう。それでもなお、くじけずに言語化の努力を重ねるしかない。ことばにしてこそ考えが明快になるのも事実である。こうして自分の書いている文章、書き終わった文章を再読してはじめて、考えの輪郭が明瞭になるものだ。

一人で考え表現し、その表現を読み返してみて、新たな思考のありように気づく。たとえ一人でも、思考と言語がつながってくるような作用に気づく。ならば、二者が相まみえる対話ならもっと強い作用が働くだろうと察しがつく。そうなのだ、弁証法の起源でもある、古代ギリシアで生まれた対話術〈ディアレクティケー〉には、自分一人の沈思黙考や言語表現で得られる効果以上の期待が込められた。すなわち、曖昧だったことが他者との議論を通じて一段も二段も高い段階で明らかになる止揚効果である。対話によって、自分の思考に気づき、思考のレベルを上げるのである。対話が授けてくれる最上のプレゼントは思考力だ。


「対話」の意義を説くのはやさしい。しかし、現実的には、対話は後味の悪さを残す。聴衆を相手にした修辞的な弁論術では見られない、一問一答という厳しいやりとりが対話の特徴だ。相手の意見に反論し、自論を主張する。主張すれば「なぜ?」と問われるから理由を示さねばならない。必要に応じて、事例や権威も引かねばならない。

教育ディベートには詭弁的要素も含まれるが、当然ながらディアレクティケーのDNAを強く継承している。命題を定めて、相反する両極に立って議論を交わす。人格を傷つけず、また反論にへこたれず、さらにまた遺恨を残さないよう意識することによって、理性的な対話に習熟する絶好の場になってくれる。だが、相当に場数を踏んでも、「激昂しない、クールで理性的な対話術」を身につけるのはむずかしい。

ディベートでは、相反する立場の相手と議論するものの、相手を打ち負かすことによって勝敗が決まるわけではない。マラソンややり投げやサッカーのように数値の多寡を競うのではないのだ。いや、ある基準にのっとって数値化はされるのだが、点数をつけるのは第三者の、聴衆を代表する審査員である。主観を最小限に抑えるために客観的指標を定め、先入観のない白紙状態タブラ・ラサの維持に努めるものの、主観を完全に消し去ることなど不可能である。

実力や技術だけでディベートの勝敗が決まらないことを心得ておこう。第三者評価型の競技に参加するかぎり、それは必然の理なのだ。ゆえに、審査員のフェアネスと眼力が重要になってくる。そして、審査が終わり判定が下されたら、ディベーターも審査員もその他すべての関係者も素直に結果に従わねばならない。そうでなければ、ディベートなど成り立たない。ディベートには「諦観」が求められる。ぼくがディベートという対話からもらったもう一つのプレゼントは虚心坦懐の精神である。

心の琴線に触れる

誰だったか忘れたが、「心の琴線きんせんに触れる」を口癖にしていた人がいた。何かにつけて感動しては心の琴線を持ち出す。顔も思い出せないが、耳に何度も響いた慣用句だったので、表現をよく覚えている。琴という楽器を見かけることはめったになくなった。ぼくが中学生になった頃、近所に大正琴のお師匠さんが住んでいて、町内のおやじ連中がこぞって習いに行ったものだ。ちょっとしたブームになっていたのだろう。そう言えば、当時は民謡も流行っていた記憶がある。

琴線と言えば琴の弦ゆえ、心の琴線という言い回しは比喩である。比喩ではあるが、琴の奏者とは違って、ぼくたちは比喩表現のほうにより親しんでいる。「心の琴線」と来れば、続く動詞は「触れる」である。浅学だからかもしれないが、これ以外の組み合わせを見たり聞いたりしたことはない。心の琴線を爪弾つまびいたり奏でたり調べたり掻き鳴らしたりなどとは言わないようである。

『「心」はあるのか』(橋爪大三郎)という問題提起があるくらいなので、もし心がないと仮定するならば、心の琴線がありうるはずもない。もし心があるのならば、どんなふうに琴線は心の中にしつらえられているのか。あるいはまた、心というのは結局は脳のことだと解釈する場合には、脳の中で琴線はどのように張られているのか。いずれにしても、心か脳の奥深いどこかには感動したり共鳴したりする感情の弦があって、それに外部から何かが触れると反応して音を出すようなのだ。


しかし、音の響き方は人によってだいぶ違うだろう。大仰に響く人があると思えば、微かな音すら立てない人もいるだろう。同じ対象を前にして琴線は鳴ったり鳴らなかったり、あるいはまったく異なった音色を立てる。そもそもこの慣用句は「触れる」までしか面倒見ていないので、音色がどんなふうに鳴るかまでは聞き届けることができない。共鳴の具合はそれこそ千差万別、人それぞれと想像できる。

よく考えてみれば、心の琴線に触れるというのは「待ちの姿勢」ではないか。己の琴線の感度が悪ければ、どんなに対象が迫ってきてもうんともすんとも共鳴しない。誰かがやさしく声を掛けてくれたり感動的な話を披露してくれても、ぼくの心の琴線に触れないかもしれない。心の琴線に触れないのが、ぼく自身の鈍感な感受性の問題ゆえなのか、他方、対象そのものが感情を揺さぶるほどの域に達していないからなのかはわからない。

どうやら、「私の心の琴線」という捉え方に据え膳に甘える目線がありそうだ。心の琴線に触れる何かを待つかぎり、感動を他力にすがっているような気がしてくる。むしろ、まず「他者の心の琴線」に触れるべく振る舞うことが、やがて自分自身の琴線にも触れることになるのだろう。それこそが共振であり共鳴であり共感である。人や言や物に感じて心を動かせるには、それら外界の存在に備わっている琴線に触れてみるべきなのだ。「感応かんのう」という表現がそれをぴったり表してくれる。あてがわれた感動ばかりで、自発的な感応がめっきり少なくなった時勢を最近よく嘆いている。

ことばの解釈ということ

ディベート大会が322日に神戸で開かれる。ぼくにとってはおよそ二年ぶりの出番だ。名称は『第1回防災・社会貢献ディベート大会』。同名の実行委員会が主催し、兵庫県や大学関係が共催で名を連ねている。去る117日は阪神・淡路大震災から15年目を刻んだ。かくあるべしという唯一絶対の防災対策は定まっていないし、定まることもないだろう。ゆえに、今回の論題『自主防災組織の育成は最も優先すべき防災対策である』という価値論題が成り立つ。現実的には白黒はつかないが、論理思考的に白黒をつけるべく大学生や社会人ら16チームが議論を繰り広げる。ぼくは審査委員長を仰せつかった。

ディベーターは論点を構築するにあたって、論題の背景をにらみながら論題文中の用語をまず解釈する。上記の例では「自主防災組織」「育成」「最も優先」「防災対策」が対象となる。しかし、都合よく解釈して好きなように定義をしていいというわけではない。「自主防災組織」についてはすでに《災害対策基本法第52項》に示されている。また、防災対策もすでにいくつかの既成概念がある。したがって、残る「育成」と「最も優先」をどうとらえるかに意を凝らすことになる。「育成」のほうをそっとしておいて――つまり、辞書の定義に任せ――「最も優先」に価値基準を見い出したい。いずれにせよ、論題解釈次第で争点の領域や肯定側立論の論点構成が決まってくる。


一つのことばだけなら解釈もさほど難儀ではない。ところが、文中にある複数のことばを解釈しようとすると、主と従の関係も出てくるし、解釈そのものが矛盾をはらんでしまうことがある。用語Xをこう解釈したら、用語Yがもはや自在というわけにはいかず、Xの解釈によってある程度規定されてしまう。別にディベートの論題だけにかぎらない。たとえば広告の見出しを読んで、どの用語がテーマに絡んでいるのかを見極めるのも同じことだ。

旅をすれば経験するが、「老朽化した古い新館」があり「新しく改装した旧館」があったりする。別館が本館よりも大規模であることも稀ではない。なぜその館に「本」や「別」や「新」がつくのか。そう言えば、館には東西南北もよく被せる。建物が一つしかなければ「○○館」でおしまい。あらたにもう一つ増えると、その「新館」に対して最初の館に「本館」という解釈と名称が生まれる。ことばおよびその解釈は相互関係で成り立っているということがわかるだろう。ソシュール流に言えば、言語は差異の体系なのである。

1997年頃の企画研修で「一人っ子が何世代も続くと、どんな未来になるだろうか?」というシミュレーション型の演習時間を設けていた。シミュレーションなどの思考作用はことばの解釈から始まるというがわかる。一人っ子って何だ、何世代とは? 未来とは? ということばをきっかけとしてぼくたちは推論したりイマジネーションをたくましくしたりするのである。ちなみに両親がいずれも一人っ子ならば、「私」にはいとこもおじもおばもいない。

只管音読という「素振り」

只管しかん〉ということばがある。禅の一宗派では「ただひたすら座禅すること」を只管打坐しかんたざと呼ぶ。只管ということばそのものはどうやら仏教語ではないらしい。「只管○○」と複合語にすれば、「○○のことだけに意識を集中し、もっぱら○○だけをおこなうこと」を意味する。ぼくが大学生の頃に、著名な英語教育界のリーダーが「只管朗読」を独学のエッセンスとして提唱した。「ただひたすら英文を音読する」のである。

もちろん、この種のトレーニングは独学に限定されるわけではない。英語圏には古くから”トータル・イマージョンTotal Immersion)という語学メソッドがあり、日本でも本場から進出して久しい老舗語学学校の看板教授法になっているほどだ。トータル・イマージョンにも「ただひたすらどっぷり浸かる」というほどのニュアンスが込められている。かつてはライシャワー駐日大使ら日本語に堪能なアメリカの高官たちが、本国で日本語トータル・イマージョンの日々を送っていたという話を聞いたことがある。

英語学習において、中学程度の英語をほぼ正しく音読できる成人という前提付きで、上記のような只管音読はきわめて有効な学習方法だと思う。今のようにヒアリング教材がほとんどなかった1970年前後にぼくは毎日欠かさずに何時間も英文を音読していた。「英語圏の人々と対話なり論争なりをする」という無謀な企みがあったので、手当たり次第にいろんな英文を声に出して読んだ。かなり高度なテーマも含まれていた。四ヵ月後には、抽象的な思考も伝えたいことはほぼ言語化することができるようになった。

なお、外国語学習における母語の役割については議論が分かれる。母語禁止と母語活用だ。ぼくはいたってシンプルに考えている。成人の知のほとんどが母語の概念で形成されているから、大いに母語を活用すればよろしい。語学学習者にはさまざまな学習目的があるだろうが、全員に共通する究極着地点は「母語並みの語学力」である。これは、裏返せば、母語以上に外国語に習熟するのはきわめて稀ということにほかならない。


美しい日本語を声に出して読むというのが一時的にブームになった。だが、ブームで終わるのは、それが「美しい」と称するほど生易しいものではないからだ。毎日毎日どっぷりと、ただひたすら音読を続けるのは過酷であり、たとえ母語である日本語であっても、日常会話に堪能なステージから縦横無尽な対話を繰り広げるステージへはなかなか達しない。日々生活を送る中でことばに習熟するだけでは、知的な対話をこなすことはできないのだ。

儀礼的な報告・連絡・相談ばかりで、少しでも骨のあるテーマについて意見交換することができない。来年還暦を迎えるぼくの周囲には年下が圧倒的に多いから、彼らも一目を置いて聞き役に回ってくれる。ぼくとしてはスリリングで挑発的な対話や討論を楽しみたいのだが、彼らの遠慮ゆえか、こちらが一方通行の主張ばかりしていることが多い。愚痴をこぼしてもしかたがないが、対話向きの言語不足、ひいては思考不足も原因の一つである。

言語は幼少期に苦労なく身についてしまうので、成人になると特別な練習をしなくなるのである。対話は何も特別な能力でもないし、数学者のように緻密を極めることもない。アリストテレスも言うように、「弁論家に厳密な論証を要求するのは誤っている」のだ。弁論家の部分を対話者に置き換えればいい。少しは励みになるかもしれない。何はともあれ、母語においてもう一段上の対話力を目指そうとするならば、対話そのものを実践するのが一番。しかし、その実践機会の少ない人にとっては只管音読という素振りが効果的だと思う。

注の注の注

本質的にはいいことが書かれているのだが、注釈や弁疏べんそが多くて面倒になる本がある。この傾向は入門書においておおむね色濃くなる。話しことばになると、本題から逸れるノイズはさらに増える。字義や由来や行間説明をしているうちに注が注を呼び、それがまた別の注を招くのだ。そんな「メタ注」に出くわすたびに「これが言語の限界というものか」と呟く。後日、原典を読んでみると、入門書よりももっとわかりやすかったことを知る。

冗長度が増すのは親切心かもしれないと同情する余地はある。しかし、厳しい言い方になるが、ある事柄を単刀直入に説明せずに迂回してしまうのは、その事柄を十分にわかっていないからなのだろう。あるいは、聞き手や読者とは無関係に、「字義の積み木や工作」を話者や筆者が楽しんでしまうからなのだろう。ぼくにもそんな性向がある。凝り始めると、プロローグにプロローグを被せたり、そのプロローグのための序章を書いたりしてしまう。プロローグならまだましで、これがエピローグになってしまうと、話が終わらない。

何事かを完璧に知ろうとすれば、必然その何事かを説明する定義の完璧をも期そうとする。こうなると、字義が字義を呼び起こし、延々と注釈の注釈が続く。はたしてこれが言語が抱える決め手不足なのか。たしかにそうかもしれない。しかし、畢竟言語を操るのは人間なのだから、言語の限界は人が直面する限界でもある。仮に言語が完璧でありうるとしても、人のほうがオールマイティではない。ことばのみならず、感覚にも思考にも観察にも限界点がある。注の注の注というリダンダンシーは言語の限界を証明しつつも、その限界を打ち破ろうとするせめてもの努力なのかもしれない。


定義や注釈は固定化した説明である。少しずつ劣化する以外に大きな変化の可能性がない標本のようなものだ。もともと定義や注釈は誰かのためにおこなわれる「サービス」なのだが、その性格はきわめて静態的である。ところが、情報は流動する。情報が匂わせる意味は刻々と変化するのだから、定義には向かない。情報には可動性が必要なのだ。「誰かに何かを伝える機能」を担うのが情報。それは、定義ではなく、表現すべきものなのである。表現には度胸がいる。度胸がないから注釈がどんどん膨らんでしまうのだ。

緊急でないテーマの注の注の注を否定しているわけではない。文化的遊びとしてあってもいいだろう。しかし、そんな遊びとは無縁の状況にあっても、注釈癖が顔を出す。くどくなるのは、誰かに伝えようと表現する前に自分自身に説明しようとするからである。極論になるのを避けるために、ああだこうだの注釈がモラトリアム的に発生するのである。一言一句の揚げ足取りという悪しき慣習のせいで、揚げ足を取られる恐怖から定義を固めようとするのか。あるいは単なる衒学趣味なのか。

ともあれ、定義や注釈がおびただしくなるのは、矮小なリスクマネジメントの表れである。それらが何重にも外堀を形成していて、いつまでたってもテーマの本陣に近づくことができない。定義や注釈の完成度がいくら高かろうと、絶対的な表現不足であるかぎり何を言いたいのかはさっぱりわからないのである。情報はなまくらな結束でもいいし脱編集的であってもいいから、もう少し表現の方向へとメッセージを誘導する冒険が欲しい。

年賀状、ちょっといいメッセージ

年賀状のほとんどすべてが、ろくに目も通されずにはがきホルダーに収められるか、輪ゴムか何かで束ねられてどこかにしまいこまれるのだろう。そして年末になって、住所録の更新や新年の年賀状を出す際に引っ張り出されるのだろう。それでもなお、その一年ぶりの再会の折りにきらっと輝く文章に目が止まったりもする。一年後などと言わず、今年の賀状からちょっといいメッセージを拾ってみた。


Aさん(男性、東京)
どんな決断に際しても、最善は正しいことをすること、次善は間違ったことをすること。そして最悪は何もしないことである」。
米国26代大統領セオドア・ルーズベルトのことばを英和併記で書いてある。

Fさん(女性、大阪)
この歳になってからの大学の学びはとっても興味深くおもしろいです」。
ふつうのことばだが、多忙な仕事人なのに五十歳を越えての勉強はえらい。

Hさん(男性、大阪)
超不況という大きな河の流れには逆らえず、21年間使い慣れた広い事務所から安価な家賃のワンルームに移転しました」。
親友の一人だが、なかなかここまで率直に吐露できるものではない。

Kさん(男性、大阪)
何ものにも打ち勝てるものは、ただ頑張りと決断力だけである」。
これも米国大統領のことば。ぼくは頑張り主義者ではないのだけれど、ダメなやつを見ていると「その通り!」と思う。

別のKさん(男性、大阪)
やりたいこと やりましょ」。
やりたいことが十分にできていないぼくへの励ましのように書いてあるが、実は自分に言い聞かせていると思われる。

Kさん(女性、大阪)
三適合一為」。
「三(身と足と心)の適、合して一と為る」という意味。白居易のことばだ。

Nさん(男性、滋賀)
ユーモアセンス、なかなか光りません」。
ものすごいいい人なのだが、笑いがすべる人である。二年ほど前にボケとツッコミの極意とすべらない話のコツを教えてあげたのだが、未だにうまくいかない様子らしい。 

Oさん(男性、栃木)
先生と又、ゲテモノを食べるのが夢です」。
十年ほど前に大阪で美味な馬の刺身やレバーを一緒に食べたのだが、この人にとってあの高級食材はゲテモノだったのだろうか。

Tさん(男性、京都)
明るい、意志、運、縁、大きな夢」。
五つのフレーズの頭文字が「あいうえお」なんだそうである(意地悪く言えば、それがどうした? なのだが)。この人、五十を越えているのだが、少年のように純粋な性格の持主である。

別のTさん(男性、福岡)
ITで24時間連絡が取れるようになりましたが、じかに会って話をすると得るものが全然違います」。
何年間もつらい日々を過ごした彼だが、久しぶりに大阪で会ったらとても元気になっていた。

Wさん(男性、大阪)
フランス語の勉強は進んでますか? フランスへの旅ではどこに行きましたか?
フランス語で書いてあった。二十代前半に在籍していた語学研究所時代の元同僚で、フランス語のスペシャリストである。

Yさん(女性、京都)
魔法のランプから出てきた ほがらかカードです」。
絵柄といっしょに読めば少しはわかるが、だいたいこの人はメルヘン系の異能人アーティストなので、どこかで「飛ぶ」。

Yさん(男性、香川)
「(……)美を犯す者は、美によって滅亡させられる。グラナダの夜、私は夢の中で、ライオンの咆哮を聞いた。いや、それはアルハンブラ宮殿を追われるイスラムの公達の嘆きの声だったかもしれない。 ―スペイン・グラナダにて」。
毎年最上の文章を綴るのは一回り年上のYさん。全14行のうち前の10行を省略したのをお許し願いたい。


文章の一言一句に注視して吟味することはできないが、縁あって出合った人が選んだり書いたりしたメッセージにも縁があるに違いない。安易に見過ごさないよう心しておこう。 

標語の読み方

オフィス近くの寺の外壁にガラス張りの掲示板がある。そこに住職の筆になる平易な標語が収まっている。毎月一回新しい短句がお目見えするが、通りすがりにしばし足を止めて見るのが習慣になっている。よそ行きにね回した文言ではなく、さりげない日常語でしたためられているので、瞬時にメッセージがわかる。先月から張り出されていたのが、「言いあうより話しあい 話しあいより聞き上手」という標語。

わかりやすい。わかりやすいが、文字面だけを読んではいけないと感じた。言いあい、話しあい、聞き上手を比較話法で示しているのだが、コミュニケーションの心得として読むか、人間関係のあり方として読むかによってだいぶ解釈が変わってくる。言いあいとは「言い争い」のことなのだろう。言い争いよりも話しあいのほうが人間関係上は好ましい。その通りである。そして、話しあえるためには双方ともに相手の声に耳を傾ける聞き上手であるべきだ。これにも異論はない。

ところが、たとえば対話でも会議でもいいのだが、実際のコミュニケーション状況で「言いあい<話しあい<聞き上手」という比較級的な格付けは可能だろうか。これでは聞き上手どうしが一番いいということになってしまう。コミュニケーションにあっては、激論、談論、会話、傾聴、質疑応答など、どんな局面も現れる。何かが別の何かの上位などではなく、すべての要素を孕んでいる。「~より」ではなく「~も~も」が現実であって、「現実はまずい、だから聞き上手という理想を求めよ」と言い切ってしまえないのである。なぜなら、聞き上手が必ずしも優位の理想ではないからだ。


論理の世界の推論にもこれとよく似た見損じが生じる。ぼくたちは当たり前のように慣れてしまっているが、「Aである。Bである。ゆえにCである」という推論がつねに「ABC」の順次で成されると思っている。これは、他者に説明したり客観化するときの手順であって、実際には並列的にABCを処理していることが多いのだ。たとえばマーケティングミックスの4Pにしても、一つ一つ順番に、または個別に製品(product)、価格(price)、流通(place)、プロモーション(promotion)を画策していくわけではない。仮に局所戦術を立てるにしても、すべての要素に目配りしておかねばならない。

もちろん「PQはどちらがより重要か?」という問いもそれに対する答えも成り立たないわけではない。そのように問うのもいいし、答えるのもかまわない。しかし、「PよりもQ」と言えるためには文脈の指定が必要なのである。ある状況を特定してはじめて、カルシウムがビタミンCよりも重要という比較話法が成り立つ。そのような付帯状況を示さなければ、つまり一般的には、「カルシウムとビタミンCはいずれも重要だ」としか言えない。

さて、言いあい、話しあいよりも聞き上手を上位に置く標語。比較話法の読み方もさることながら、「聞き上手」の読み方にも気を遣いたい。これを「聞き役に回る」と受け取っている人たちが圧倒的に多いのである。熱心に人の話を傾聴しているように見えても、実は頷いているだけ、調子を合わせているだけという場合が目立つのだ。「聞き上手」のポイントは「聞く」にあるのではなく、「上手」にある。つまり、コミュニケーション上手だから聞けるのである。単に聞くだけで上手に程遠いのがぼくたちの常なのだから、やっぱり言いあいも話しあいも併せてやらねばならないのである。

はい、いいえ、わかりません

きわめて限られた場面での話である。どんな場面かと言うと、仕事の現場や会議での意見のやりとりである。たとえば誰かが何かを主張する。その主張へはおおむね「同意する」「同意しかねる」「何とも言えない」の三つのリアクションがある。あるいは、誰かがその主張に対して「~ですか?」と質問する。この場合も、「はい」「いいえ」「わかりません」の三つの応答が考えられる。話をわかりやすくするため、後者の応答パターンを取り上げる。

「あなたは仕事をしていますか?」への応答は「はい」か「いいえ」のどちらかである。「わかりません」は考えにくい。「シゴト? ワカリマセン」と外国人が答えるケースは無きにしもあらずだが、質問の意図がわかる人なら「はい」か「いいえ」で答える。「わかりません」が返されるのは、「あなたは仕事が好きですか?」の場合。「仕事はしているが、好きかどうかがわからない」または「仕事をしたことはないので、好きかどうかがわからない」のなら、「わかりません」と答える以外にない。

問いかけが、たとえば「以上の私の提案に対して、賛否と理由を聞かせてほしい」という、少々議論含みになってはじめて三つの反応の可能性が生まれる。そして、答える人は「はい」「いいえ」「わかりません」と方向性の表札を示し、しかるのちに理由を述べる。意見交換のあとに表札を変えてもいいが、理由も明かさないまま表札を「いいえ」から「はい」へ、「はい」から「いいえ」へところころと変えるのはよろしくない。なお、「わかりません」には理由はいらないという意見もあるが、そうではない。「わからない」だけで済ますのは「関与しない」と受け取られかねない。「わからない」と答えても、「何がわからないか」を説明する責任を負うべきだろう。


現時点でわからないことは、どうあがいてもいかんともしがたい。だから、「わからないこと」を素直に「わかりません」と答えるのを躊躇することはない。むしろ、下手に見栄を張ったり背伸びしたりしてまで「はい」や「いいえ」で答えてしまうと逆に問題を残してしまう。但し、何かにつけて「わかりません」を繰り返していると、「なんだ、こいつは! バカの一つ覚えみたいに……」ということになり、頼りないプロフェッショナルとの烙印を押されてしまう。もちろん、意見のやりとりを前提とする会議のメンバーとしての資格もやがて失うことになるだろう。

誰だって、プロフェッショナル度が高まるにつれ、「はい」か「いいえ」かの二者択一のきつい局面で決断することを求められるようになる。かと言って、毅然とした空気を全身に漲らせて「はい! いいえ!」と力むこともない。決死の覚悟になるから、意見撤回できなくなるのだ。軽やかに「はい」または「いいえ」を明示して、思うところを素直に語ればいいのである。  

三つのリアクションの他に、実はもう一つ、どうしようもない、論外のリアクションがある。それは「無言」だ。無言は「いいえのひねくれた変形」。黙秘も法律上はれっきとした権利だが、共通感覚的には印象が悪い。ぼくの経験では、ダンマリを決め込む人間のホンネは「ノー」である。ホンネが「イエス」ならば、ふつうは「はい」と表明するものである。もちろんイエスマンもいるし、儀礼的な「うなずき」もあるが、黙っている者はそのいずれでもない、「陰のあるレジスタント」だ。なお、複数回繰り返す「はい」と「わかりました」には注意が必要だ。ともに「承っておきます」というニュアンスに近い。