人の企て、人の営み

講師ばかりが集う年一回の会合があった。「業界」の集まりにはほとんど顔を出さないが、例の事業仕分けで仕分け人を務めた方の講演があると聞いて出席した。子細は省略するが、舞台裏の話も聞けて大いにためになった。「予算は事業につぎ込むのではなく、人に託すもの」とぼくは常々考えている。どんなに崇高な理念を掲げ緻密に練り上げられた事業であっても、資金運用の才覚がない人材が担当していては話にならない。事業が金を食い潰すのではない。金をムダに遣うのもうまく活用するのも人である。こんな思いをあらためて強くした。

人と金の関係のみならず、この地球上で生じる自然現象の一部も含めた出来事や生業なりわいは人が企てるものだ。そして、人が営んでいるものでもある。一人一人は自分を非力だと思っているが、非力の集合と総和は想像を絶するエネルギーとして世界の動因になっている。社会や国家をうまく機能させているのも人なら、危うくしているのも人である。ここでの人とは、匿名の人間集団なのではない。個々の人間のことだ。個人の企て、個人の営みが成否の鍵を握っている。

「企業は人なり」の主語と述語を入れ替えて、「人が企業なり」とするのが正解なのだろう。「人間は万物の尺度である」とプロタゴラスが語ったとき、人類全般ではなく、一人一人の考え方や生き方が念頭にあったはずである。幸せも不幸も、仕事の成否も、社会の良し悪しも、すべて個人の仕業なのだ。このように考えるのでなければ、ぼくたち一人一人は当事者としての自覚もせずに、無責任を決めこんで生き続けていくだろう。


リーマンショックも自分のせい、長引く不況も一人一人のせい。こう思いなしておかないと個人としての対策も行動も取りようがない。理不尽を批判するのは大いに結構だが、同時に他人事ではなく己にも責任の一端があることを肝に銘じておかねばならない。自分のせいではなく他人のせいなのだと誰もが信じていたら、いったいどこの誰が有効な対策を立ててくれるのか。他力を過大評価しすぎることなく、また自力を過小評価しすぎることなく、企て営む。

過ぎ行く年を大いに振り返り反省はするが、来年の抱負について多くを語らない。来年こうしようと雲の上の可能性のようなことを決意表明したものの、叶わなかったときの後悔とマイナスエネルギーが大きすぎるからである。理想が低くて夢のない人間なのか? いや、そうではない。理想や夢の前に、確実にできそうなことを日々着実にこなそうと思うばかりである。この延長線上にしか理想も夢もない。

誰もが知っているにもかかわらず、日々流されて忘れてしまう古典のことばがある。ほとんど真理とも思える二つの箴言は二千数百年も前に語られた。生活と仕事をすっぽりと包み込んでいる市場経済を、ぼくたち一人一人がどのように生きるかのヒントになってくれるはずだ。デルフォイの神殿に祀られたアポロンの神に捧げた箴言、それはソクラテスが終生強く唱え続けたものであった。

汝自身を知れ。

身の程を超えるな。

縁あって知る、ちょっといいことば

先月の下旬にぶらぶらと歩いていたら、寺の壁に黒白の幕が張ってあった。興味本位で近づけば吉祥寺とある。黒白幕は1212日の義士祭に備えてのものだった。播州赤穂だけでなく、浅野家ゆかりということから大阪下町のこの寺にも墓があるわけだ。詳しくもなく調べもしていないが、内蔵助良雄の座右の銘が碑に刻まれていた。「全機透脱」がそれ。全機も透脱も『正法眼蔵』に出てくる熟語だが、合成した四字熟語は見当たらないから、内蔵助の造語かもしれない。大きな辞書にも載っていなかった。

『正法眼蔵第二十二』を少し読んでみたら、難解でよくわからない。前後の文脈にこだわらず、「全機現に生あり、死あり」という、一番わかりやすかった箇所だけ都合よく注目する。「すべてのものの働きに生と死がある」という意味だ。透脱のほうは、「諸仏の大道、その究尽するところ、透脱なり、現成なり。その透脱といふは、あるひは生も生を透脱し、死も死を透脱するなり」という文で冒頭に出てくる。透脱は「縛られることのない、完全な自由」のように思われる。

全機透脱。メッセージに重厚な意味が込められた、揮毫向きの四字熟語ではある。三十年以上も前の話だが、勝海舟の『氷川清話』の中で「虚心坦懐」に出合った。ずいぶん気に入って筆で書いたりもし、わけのわかった顔して話したりもした。ところが、例の劇場系首相が頻繁に使うようになってから、縁遠くなってしまった。はしゃぐ人には合わないことばだからだ。あの人には「人生色々」という四字熟語のほうが似合っていた。心にわだかまりがない様子を現わす虚心坦懐には、どこか全機透脱に通じるものを感じる。


『氷川清話』を読んだ頃の蔵書は手元に一部しか残っていない。十数年前に本が増えてしかたがないので、要らないものを処分しようとした。ところが、間違って不要でないものまで処分してしまった。再読したい本は買うが、価格がまったく違う。当時150円ほどで買った文庫本が800円くらいになっている。しかし、思想系の叢書などは古本をバラ買いすると安い。先週買ったスピノザの『エティカ』など100円だった(中央公論社の世界の名著シリーズで、ライプニッツの『モナドロジー』も入っていて、お買い得だ)。

『エティカ』は大部分定理という形で書かれていて、一見すると難解そうに見える。しかし、実際はやさしく読める。箴言集として読めばいい。次から次へと共感する名言が現れてくる。この種の本をよく読んでいた若い頃、目的もなく、将来使ってやろうという野望もなく、お気に入りのことばをせっせとノートに書き写していた。まったく記憶の片隅にもないつもりだったが、再び通読してみると覚えているものだ。何年経過してもよい、本はやっぱり二度読むべきなのだろう。ちょっといいことばをいくつか紹介しよう。

「喜びとは、人間が小さな完全性からより大きな完全性へ移行することである。」

「自由な人間は、けっしてごまかしによって活動せず、常に誠実に行動する。」

「人があれもこれもなし得ると考える限り、何もなし得る決心がつかない。」

文字通り読んでもいいし深く読んでもいい。最後の一文には大いに共感する。「何でもできる」という思いが、強い意志の表れではなく、単なる「意地」であったりすること。あれもこれもは結局どれにも手をつけないということ。実行可能性の高いことよりも、成功しそうもないことを人は掲げようとすること。

レオナルド・ダ・ヴィンチを語る

一昨日の夕方、熱気あふれる書評輪講会を主宰した。数えて3回目。今回は10人が参加した。語ることばや想いから熱気はほとばしったが、テーブルからも立ち上がった。と言うのも、場所が鉄板焼の店だったからである。今回は書評会と食事会を同じ場所で開催した次第だ。

一応6月まで続ける予定で1月から始めた。そのうち一度はルネサンスがらみの書物を書評するつもりにしていた。ルネサンス全般を取り上げると持ち時間10分や15分ではきつい。そこで、さほど思案することなく人物をテーマに選び、さも必然のようにレオナルド・ダ・ヴィンチに落ち着いた。そこから先で少し迷った。最近読んだ『モナ・リザの罠』(西岡文彦)にするか、『君はレオナルド・ダ・ヴィンチを知っているか』(布施英利)にするか、はたまただいぶ前に読んだレオナルド本人の『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』にするか……。

結果的に『君は・・・』を取り上げることにした。レオナルドに関する知識の少ない人には、著者の言わんとすることがよく伝わりそうな気がしたからである。宇宙をかいま見た男、宇宙マクロコスモス人体ミクロコスモスを関係づけ対応させた話、生前は音楽家としての名声のほうが画家よりも上だったというエピソードなどは興味をそそる。


中高生の頃に絵画に打ち込んだ時期があって、何もわからぬままレオナルドやルネサンス期の絵画に魅せられた。とりわけ輪郭線を引かずに絵の具の明暗のコントラストだけで描いてみせる〈スフマート技法〉には目を見張った。何年か前に水彩で試みたが、人に見てもらえる出来上がりにはほど遠い。

レオナルド自身の手記を読めばわかるが、絵画技法にとどまらず、この天才は新しいテーマを次々と追究していった。手記の冒頭にはこう書かれている。

先人たちはことごとく有用な主題を選んでしまった、だから自分に残されたのは市場の値打ちのない余りものみたいなテーマばかりだ、だが、それらを引き取って何とかしてみよう。

ニッチ志向に到った趣旨が書かれている。シニカルな謙遜であり孤高の精神が滲み出る。

文章の切れ味にもこれまた感心させられる。哲学的メッセージあり、斬新なアイデアあり、鋭い視点あり。しかも、ほとんどが自信を漲らせた断定調なのだ。拾い出すとキリがないが、ぼくを反省させ、しかるべき後に心強くしてくれた箴言が二つある。その一つ。

権威を引いて論ずるものは才能にあらず。

若い頃、引用文だらけの書物にコンプレックスを抱いたものだった。「よくもこれだけ調べたものだ」と感心し、根拠のない自分の勝手気まま思考を責めたりもした。しかしだ、「偉い誰々がこう言っている」などという引用そのものは、努力と熱意ではあるだろうが、才能なんぞではない――レオナルドはこう言ってくれているのである。そんなことよりも自力で考えて論じなさいと励ます。

もう一つの章句もこれと連動する。

想像力は諸感覚の手綱である。

きみはいろいろ見聞したり触ったりするだろうが、そうして感知する物事や状態の大きさ、形、色や味、匂いや音・声などをつかさどっているのがイマジネーションなんだ、それなくしてはきみの感覚なんてうまく機能しないぞ、というふうにぼくは解釈している。観察や体験なども想像力でうまくコントロールしないと功を奏さない。ぼくが企画の研修のプロローグで想像力や発想についてかたくなに語り続けるのは、このことばが大きな後押しになっているからだ。なお、ぼくが出会った経験至上主義者で想像力が逞しかった人は一人もいない。

満悦厳禁。レオナルド・ダ・ヴィンチという権威を引いても、これはゆめゆめ才能ではない。いや、もしかしたら、天才レオナルドならこう言うかもしれない。「わしをそこらに五万といる権威と同じにせんでくれ。わしが綴ったことばで使えるものがあれば何でも使ってくれたらいい。五百年後もまだ光が失せていないのなら……」。 

ないもの探し

頭痛を紛らわせようとして就寝前に読書をしてみた。そんなバカな! 余計にアタマを苦しめてしまうではないか。だが、必ずしもそうなるとはかぎらない。意外だろうが、今朝はすっきり目覚めたのである。頭痛はない。「知の疲れは別の知で癒せ」は、思いのほかしっかりとした経験法則になっている。酒飲みが自分の都合で発明した、二日酔いを酒で治す「迎え酒」よりもずっと信頼性の高い処方箋と言ってもいい。

その本、自宅に置いてきたので正確に引用はできないが、ある章で「幸福は不幸が欠けている状態であり、不幸は幸福が欠けている状態」というようなテーマを扱っていた。あるものが成立している背景には別のものが欠けている。つまり、いま町内の居酒屋で飲んでいるとしたら、車を運転している状況が欠如している。いや、それどころか、会社にいることの欠如でもあるし、自宅で子どもと遊んでいることの欠如でもある。三日月が見えるためには、9割ほどの月の面積が欠けなければならない。

ところで、「彼は幸福ではない」と「彼は不幸である」は同義か? 幸福・不幸という概念は難しいので、わかりやすく、「この弁当はおいしくない」と「この弁当はまずい」は同義か? で考えてみる。おそらく、「まずい弁当→おいしくない」は成り立つだろう。だが、「おいしくない弁当→まずい」はスムーズに導出しにくい。「おいしい」を5点満点の5点とすれば、「おいしくない」は4点かもしれないし、1点かもしれない。

不幸な状況であっても、小さな一つの出来事で幸せになれるかもしれない。一万円を落として嘆いていたら、五千円札を拾った。収支マイナスだけれど、なんだか少しは心も晴れた。不幸に欠けている幸福を探すのはさほど困難ではないかもしれない。問題は、幸福を成立させるために欠落させねばならない不幸のほうだ。数え上げればキリがない。ゆえに、幸福になるよりも不幸になるほうが簡単なのである。


いみじくも、上記のテーマは今週土曜日の私塾で取り上げる一項目と一致している。その項目の見出しは「不足の発見――自分に足りない情報探し」である。

人間においては、「ない(不在・不足)」は「ある(存在・充足)」よりも圧倒的に多い。だから、どんなに「ある」を獲得しても「ない」の壁にぶつかって悩むのである。企画や編集の仕事をするときも、いま見えているもの・存在しているものばかりに気を取られるが、それでは凡人発想の域を出ることはできない。調べもの好きな人のエネルギーには感服するが、導かれるアイデアにはあまり見所がない。

いま見えていないもの、いま自分に足りないものへの意識。あと一つで完成するのにそれがないということに気づく感受性。その足りないものをどこかから安易に調達してくるのではなく、意気軒昂として編み出そうとしてみる。いや、編み出さなくてもいい、「ないもの」が目立つことによって新しいコンセプトが生まれることだってある。

“Sesame Street”というアメリカの子ども向け番組が一時代を画すヒットになった。日本で放送が開始された当時、アメリカ人の番組担当者が語ったことばが印象的である。

“Teachers are conspicuous by absence.”

「不在によって先生が目立つ」。つまり、「先生が登場しない、だから余計に先生が感じられる」ということだ。情報編集の時代、足し算ばかりでなく、「ないことによって感じられる」という引き算価値にも目を向けたい。

本読みにまつわる雑感

初回の書評会が終わって、大いに成果のある試みだったと評価している。同じ本を読んで「同感、同感」と納得するのではなく、みんなが違う本を読んで臨むのがミソである。書評会の後の食事会でも軽く質問したりジャブを打ち合うとさらにおもしろい。

準備のために、本を買い、本を読み、本を選び、抜き書きし、まとめたり再編したりし、検証し、書評を書く。これだけの作業がある上に、当日に発表し、他人の書評に耳を傾け、書物間に対角線を引く……。まあ、思いつくだけでこのくらいの多彩な知的活動が伴うわけだ。ある意味、仕事より負荷がかかる。自分が選んだ一冊の書評開示もさることながら、他に6冊の書評を吟味する。わずか2時間。これは高密度な脳活性であると同時に、とても効率のよい啓発機会なのではないか。

口頭説明としては大阪の地名について書評したK氏がすぐれていたが、書評会は話術の会ではない。読書の内容と所感を書いてプレゼンテーションすることに意義がある。ペーパーに記録が残っているから、評者さえ間違いなく引用して的確にコメントしてくれていたら、そのまま使えるし、いかにもその本を読んだかのように振る舞うこともできる。

K氏の話はおもしろかったが、一ヵ月後には忘れてしまっているかもしれない。だが、よき教訓になった。ぼくは、研修でも講演でも配付資料・掲示資料ともに質量両面で充実させ、つねに最新の話題を盛り込んで刷新するよう努めている。だが、時間との格闘に疲れ果てると、資料を一切使わずに「喋りオンリー」でやってみたいと思うことが時折りある。実際、そういう時代もあったし、今でもやればできると思っている。しかし、聴きっぱなしはやっぱり効果に乏しいのである。一回きりでは深い記憶領域まで情報は届かないのだ。後日資料を振り返ることによって刷り込みが可能になる。K氏の愉快でわかりやすい話しぶりは、逆説的に言えば、かなりアタマのいい聞き手かメモ魔によってのみ成立するのである。


読書にまつわるおびただしい格言がある。手元の名言・格言辞典を覗いてみた。思想的背景とは無関係にことばだけ拾うので、誰の弁かは伏せておく。

読書は量ではなく、役に立つように読むことが問題である
本はくまなく読んでも不十分で、読んだことを消化するのが必要である

そうそう、教養だけでなく、どこかで活用しようと企んでいるのならば、自分の不足を埋めるように読まねばならない。

君の読む本を言いたまえ、君の人柄を言おう

読書好きの知人も同じようなことを言っていた。「誰かのオフィスに行くだろ。応接室か会議室に通される。書棚の背表紙をざっと見れば、思想から性格まで見通せるよ」。同感である。但し、書棚を埋め尽くしている書物は複数の人間が読んだものを並べているかもしれないので、勇み足をしないよう。

書物から学ぶよりも、人間から学ぶことが必要である。
新しい書物の最も不都合な点は、古い書物を読むのを妨げることだ。

上記は書物に対する批判的な教えである。ぼくは常々「人は人からもっとも多くを学ぶ」と思っているので、前者に賛成である。ただ、人からの学びは偏愛や畏敬の念をベースにすることがあるので、幅広く書物を読んで偏りを是正することも必要だ。後者は、目先のベストセラーや話題・時事を追いかけすぎて、読もう読もうと思っている古典に親しめないということ。最近は痛切にそう感じている。