よい知らせと悪い知らせ

good news, bad news

“Good News”(よい知らせ)と“Bad News”(悪い知らせ)は、英語の定番ジョークに欠かせないテーマだ。よい知らせが先で悪い知らせが後でも、またその逆であっても、うまくオチがつくように仕組まれる。


交通事故で重傷を負った男の話。難手術の後に麻酔から目が覚め、執刀した医師と会話を交わす。「先生、どんな具合ですか?」と男に問われ、「いい知らせと悪い知らせがあります」と医師が答える。

不安に苛まれながら男は尋ねる。「悪い知らせを先に聞かせてください」。「お気の毒ですが、命を救うためにあなたの片脚を切断しました」と医師が告げる。地獄の底へ突き落され、絶句する男。長い沈黙の時間が過ぎた。

(そうだ、いい知らせが残っているぞ。諦めるな! と男は自分を慰める……) 「先生、では、いい知らせのほうをお願いします」。「それは……」と医師は少し口元を緩め目を細めて言った。「あなたが履いておられた靴を譲ってほしいと言ってきた人がいるんですよ」。

かなりのブラックコメディである。では、生死にまで踏み込む、もっとすごい「暗黒の諧謔」を披露しよう。

医者 「あなたに悪い知らせとよい知らせがあります」。
患者 「覚悟はしています。悪い知らせからお願いします」。
医者 「あなたは余命いくばくもなく、近いうちに死ぬことになるでしょう」。
患者 「(淡々と)やっぱりそうでしたか。(……)その悪い知らせを相殺するようなよい知らせがあるはずもないでしょうが、念のためにお聞きしておきます。で、よい知らせとは?」
医者 「これでもう一度死なずにすみます」。

これはぼくの創作であると自覚していたが、「今年死ぬ者は来年死なずに済む」というシェークスピアの言を知って以来、なんだか二番煎じのような気がしている。

アルベロベッロの一日

イタリアの地図を開けると、アドリア海に面した下の方がかかとの形に見える。その踵のちょっと上に世界遺産の街アルベロベッロがある。BSの番組で時々特集が組まれるから、ご存じの方もいるだろう。この街を訪れたのは11年前。一泊だけの滞在だったが、一泊すればたぶん十分である。

イタリア語で“Alberobello”と綴る。「美しい樹木」という意味だ。こぢんまりした街に「トゥルッリ」と呼ばれるとんがり屋根の白い家が立ち並ぶ。「まるでおとぎの国みたい」と観光客に言わしめるが、ちょっと観光地化し過ぎたのではないかというのが偽らざる印象である。

土産物店を少し覗いたものの、特に目を引くものはなかった。めったに余計な土産物を買わないが、自分用に忘れないように買うものがただ一つだけある。街の名所をかたどる小さな置物がそれ。アルベロベッロでも一つ記念に手に入れた。

その置物をコンテで素描し、街の名にふさわしく樹木を添えてみた。実物の住居をスケッチするよりも「おとぎっぽい」雰囲気が出たかもしれない。

IMG_5620Katsushi Okano
Trulli, Alberobello

2004
Conté

三ヵ国同時体験スポット

ローマからフィレンツェ、ボローニャへと列車で巡る9泊の旅。その直前にウィーンに滞在していたので、ウィーンからローマへ飛んだ。時は20043月、あれから8年半が過ぎたが、今でも鮮明に覚えているシーンと体験がある。
三度目のローマはわずか二泊。前二回の旅で訪れた場所とは違う見所を、当時現地に住んでいた知人が車で巡ってくれた。まず、ジャニコロの丘から見渡すローマ市街地の光景に目を奪われた。しかし、ぼくがもっとも愉快がったのが、アヴェンティーノの丘に位置する「マルタ騎士団広場(Piazza dei Cavalieri di Marta)」でのひとときだった。何が愉快だったのか、写真を紹介すれば済むのだが、あいにく撮り収めていない。というわけで、文章で綴るしかない。
この広場の塀の向こうはマルタ騎士団団長の館。そこには植木が美しく刈り込まれた庭園がある。館はマルタ共和国に属し、治外法権域であるから入館はできない。だが、扉があり、その扉には覗き見してもいい鍵穴があるのだ。警備にあたる兵は鍵穴から館内を覗いても文句は言わない。
ぼくの立ったこの場所はローマ。つまりイタリア共和国。そして館のある場所はマルタ共和国。鍵穴に目を付けるようにして覗いてみた。庭園のずっと向こうに映し出された光景、それはサンピエトロ大聖堂のクーポラだった。サンピエトロ大聖堂はバチカン市国にそびえるカトリックの大本山だ。ということは……そう、ぼくの目線は「イタリア発マルタ経由バチカン着」と横断し、きわめて稀な三ヵ国同時体験をしてしまったのである。

広場も館も絵にしにくい題材だったが、ラフなスケッチと写真をもとに帰国後にペンと色鉛筆と水彩で描いてみた。それがこの一枚である。

Piazza dei Cavalieri di Marta-thumb-240x163Katsushi Okano

Piazza dei Cavalieri di Marta
2004
Pigment liner, felt pen, color pencil

青色の魅力

敢えて一色ということになれば、ぼくは青色を好むが、身に着けるときはさほどではない。と言うか、芸能人でもあるまいし、青に執着していては日々の衣装や仕事着に困る。青を好む性向はおおむね青を基調とした風景や絵画に対してであって、カーテンや調度品が青いのは願い下げだ。但し、水性ボールペンや万年筆のインクはすべて青色である。まあ、こんなふうに何から何まで好き嫌いを貫き通せるものではない。

上記は2年前に書いたブログの一説である。

「何色が好き?」と聞かれて即答する人がわが国には多いが、現実的に言えば、ものと色は切り離せるものではない。それでもなおかつ、ぼくは青の変幻自在なまでの多様性に憑りつかれてきた。

たとえば街の光景にカメラを向ける。建物のレンガの壁色は茶色である。その茶色にもいろんな変化形があるが、写真を見て少々濃く写っていたり薄く写っていてもあまり気にならない。実際の壁色と若干違っていても、街の景観全体を邪魔してしまうような影響を感じない。

しかし、青になると話が違う。濃淡の微妙な差が気分を大いに変えてしまうし、色合いにしても、たとえばウルトラマリンかプルシアンブルーかコバルトかによってまったく変わってしまう。青いインクを7種類ほど持っているが、紙に滲みこませればみんな違う。写真であれスキャナーであれ、再現した時点ですでに現実から離れている。青はじかに見るしかなく、再現もむずかしいし、ことばではなおさら表現不可能である。青だけにこう感じることが、ぼくの青贔屓の証なのだろう(つまり、緑が好きな人は緑に同じような感覚を抱く)。


ラピスラズリ色のインクを探しているが、なかなか見つからない。この紙にあの色で文字を綴れたらなあと願うが、未だに実現していない。

ところで、ナポリ沖のカプリ島にあまりにも有名な「青の洞窟」がある。十年程前にたまたま洞窟を体験する機会があったが、あの青は想像しにくい青である。見る角度や空気や天候も違うから、訪れた人の数だけの青があるに違いない。デジカメも持っていなかったし、洞窟内で少々揺れもあったので、記憶には残っているが、記録にはない。

ぼくとしては、島周辺の海の青――イタリア語でいうazzurroアッズーロ“――だけで十分堪能していた。そして、単行本サイズくらいの一枚の絵を帰国してすぐに描いた。現実の青を再現する気もなければ技術もないので、アッズーロよりもスカイブルー寄りの色になっている。その絵がこちらだが、色も光景もほとんどフィクションである。

Capri.jpgKatsushi Okano
Capri
2004
Pigment liner, pastel

生レバーの行方

「厚生労働省は6日、飲食店が牛肉の生レバーを客に当面提供しないよう求める通知を都道府県に出した。(……)厚労省の食中毒・乳肉水産食品合同部会が、食中毒発生の多い『レバ刺し』などについても法的規制を含め検討することを決めたため。生食用牛レバーの提供が禁止される可能性もある」(77日付 毎日新聞)。


ホル男 「また! 不粋というか野暮というか、余計なことをしてくれるもんだな」

モン太 「オレにとっては、生レバーのない焼肉店はクリープのないコーヒーみたいや」

ホル男 「比喩が古いね。要するに、焼肉を食べに行っても、いきなり肉を焼き始めない。まずは、ユッケかレバ刺し、それにキムチで生ビールだろ」

モン太 「なんで牛ばっかり責めるんや!」

ホル男 「生食用の牛レバーが原因で発生した食中毒は、1998年から2010年の13年間で116件らしい。牛刺しやユッケはわずか5件だった。厚労省は牛レバーの食中毒が多すぎると判断した」

モン太 「おいおい、ちょっと待って! それマジで!?」

ホル男 「驚く数字だったかい?」

モン太 「驚くも驚かんも、牛刺しにユッケはほとんど安全牌やないか。おまけに生レバーも、年に9件やろ。そんなもん、生ガキより安全と違うか!?」

ホル男 「証拠のないことを言わないように。でも、きみに理ありだな。豆腐でも牛乳でも魚でも、生ものに食中毒はつきものだからね。ちょっと不注意すると、生野菜でも起こりうる」

モン太 「フランスでは牛肉のタルタルステーキを食べとるぞ! ニュージーランドは羊のタルタルや!」

ホル男 「フランスのタルタルはユッケよりだいぶどす黒かったよ。ともあれ、大腸菌が内臓に付着しやすいことぐらいわかっている。それでも、素人考えでは、新鮮なものをしっかり咀嚼していたら問題ないような気がするな」

モン太 「絶望的……。これからどないして生きていったらええんや!?」

ホル男 「大袈裟な! お上が決めたら仕方がない。レバ刺しの代わりに上等の牛刺しにすればいいじゃないか」

モン太 「あかん、生レバーがないと焼肉屋に行く意味あらへん。あんたは平気か?」

ホル男 「ここだけの話、馬のキモのほうが血生臭くなく、コリコリしていてうまい。馬に鞍替えするよ」

モン太 「牛がダメなら、馬に乗るって? ダジャレ言うてる場合やないわ。宣誓書を書くから、オレだけ自己責任で牛の生レバー食べさせてくれ!」

最高と最低の話

えー、毎度ばかばかしいお話でございますが、今日もいつもの連中の談義を一つ。いやー、談義なんてほどのもんじゃありません。ていやんとコーちゃんと流行はやらない居酒屋の主人がぐだぐだ言う、ただの与太話です。


主人     いつものやつ、やらないの?

ていやん    やれと言われりゃ やってもいいわー。

コーちゃん   なんだそれ、どっかで聞いたことのある演歌だな。

主人    ていやんから行きますか?

ていやん      はいはい、では……。FAで巨人に行くアニキ金本!

主人    わあー、そりゃ最低だわ!

コーちゃん   安いトレードマネーでダルビッシュを獲得する阪神!

ていやん      それ、めっちゃ最高やん! ついでに斎藤もつけといたれ。

主人    二人とも、ただの阪神ファンじゃないの。

ていやん   東京から新幹線を乗り継いで鹿児島まで視察に行く国会議員!

主人    最低だね! この時期、特に最低! でも、実際にいそうだな。

コーちゃん   国会議事堂と議員宿舎を避難所に!

ていやん   その通り! それ最高! ええこと言うなあ。

コーちゃん  大将も一つ、最高のやってよ。

主人      いきなりですねぇ……ええっと。はい、京都で花見!

ていやん  あかん、それふつうや。感動ないわ。

コーちゃん  大将ね、ていやんはそんなので、はしゃがないよ。ていやん好みは……喫茶店でモーニングを頼んだら、厚切りトーストにゆで卵2個!

ていやん  ツボ知ってるなあ。そんなんあったら、最高に決まってるがな。ほな最低をもう一つ。喫茶店の優待券持っていったら、コーヒー代が倍になった。

主人     最低に決まってるじゃないですか!


主人      いつも思うけどね、最高と最低という具合にやれば案外あるもんですね。逆に、オレの言った京都で花見のような、ふつうのほうがあまりないんじゃないの?

コーちゃん   そんなのいくらでもあるさ。阪神に来ないダルビッシュ。これふつう。

主人      さっきの裏返しただけ。

ていやん     薄切りトーストにゆで卵1個のモーニング。

主人     それも同じ! ほら、二人ともふつうに苦戦してるじゃないっすか。ふつうがなかなか見つからない時代なんだなあ。

コーちゃん     ちょっと作戦タイム。

ていやん    ふつうなんか、なんぼでもあるで。朝起きてメシ食べる。蛇口から水出る。それで顔洗う。電車に乗って会社に行く。もよおしてきたからトイレに行く。昼は安いうどんを食べに出る。機嫌の悪い上司に怒られる。怒られるけど、こましな仕事したら褒められる。夕方になって、「一杯行こか?」と聞かれて、「いや、今日はやめとくわ。明日の朝は早いねん。子どもとな、山登りに行くねん」て言う。山に行って、おいしい空気を吸う。歩いたら汗が出る。野鳥が鳴いてる。それから……

主人     わかりました。ふつうがいいなあ。ある種感動的。

コーちゃん  ふつうはいくらでもあるけどさ、オレたち、気づいてないよな。

ていやん    よっしゃ、終わろか。食い逃げという最低もせえへんけど、チップという最高もないで。大将、ふつうのお勘定して。

主人    はいよ。それで、コーちゃんは週末どうするの?

コーちゃん    そりゃ、京都で花見でしょ。

ダジャレの人々

自分ではダジャレの一つも作れないくせに、他人のダジャレを小馬鹿にする連中がいる。しかし、ダジャレ人間を侮ることなかれ。ダジャレを吐くには語彙力がいる。語彙力だけではない。音と状況をかぶらせるためには、膨大な情報を脳内検索せねばならない。語彙力と検索力。少なくとも、ダジャレを小馬鹿にしながらダジャレを作れない者よりは、下手なダジャレを矢継ぎ早に繰り出す者のほうが頭はいい。ぼくはそう考える。

呆れるくらい下手で場を凍らせる人もいるが、ダジャレが出てくる気さくな場に居合わせていることを喜ぼうではないか。ぼく自身はジョーク大好き人間だが、ダジャレの熱心な創作者ではない。ただ、他人が当のダジャレに辿り着くまでの発想過程にはすこぶる強い関心がある。たとえば、数年前のコマーシャルで、唐沢寿明がエレベーター内でつぶやいた「君、コート裏」。これが「足の甲と裏」のダジャレ。その箇所に膏薬を貼れというわけである。

スポンサーか広告スタッフの誰かが膏薬を足の甲と裏に貼ったらすっきりした。これはいいということになり、そのままストレートに表現してもよかった。しかし、別のスタッフが「甲と裏」を何度か口ずさんでいるうちに、「コート裏」を見つけた。ここから「コートを裏に着ている」シチュエーション探しが始まる。コートを裏返しに着ている人物が遠くから見えているよりも、突然見えるほうがいい。いろんな候補からエレベーターが選ばれ、ダジャレを生かすシナリオが書かれた……まあ、こんな誕生秘話だろう。当たらずとも遠からずだと思う。


注目してほしいのは、ダジャレ人間は「ことばの音」を追いかけるという点である。無音の漢字を浮かべてもしかたがなく、同音異義語をアタマの中で響かせる必要がある。同音異義語が多いのが日本語の特徴だが、無尽蔵にあるわけではないから無理やり音合わせをこじつける。ここがウケるか寒くなるかの分岐点だ。ダジャレ、ネーミング、「整いました」のなぞかけ、語呂のいい金言などの底辺には同じ発想の構造がある。

昔、結婚式を「かみだのみ」、披露宴を「かねあつめ」、二次会を「かこあばき」とルビを振って紹介したら、ウケたことがある。神、金、過去が「か」で始まる二文字、続く動詞が三文字、合計五文字となって、別にダジャレでも何でもないが、語呂が合う。どこで仕入れたか読んだか覚えていないが、「結婚とは、男のカネと女のカオの交換である」というのがあった。単純だが、なかなかの切れ味だ。

結婚ネタついでにもう一つ関心したのがある。「最近、家庭内で夫婦病が流行の兆しです。症状は、熱は冷めるのですが、咳(籍)だけは残ります」。世間には結婚があり離婚がある。他にどんな「◯婚」があるか。ことばの演習問題にもなりそうだ。実体のない「空婚くうこん」、結婚式の日から始まる「苦婚くこん」に「耐婚たいこん」。辛いことばかりではない、いつまでも幸せな「甘婚かんこん」も「恋婚れんこん」もあるだろう。

ところで、ダジャレも含め、ことばを遊ぶユーモアを楽しむ集まりを三ヵ月に一度開亭している。その名も〈知遊亭ちゆてい〉。雅号、あるいは笑号と言うべきか、ぼくは「知遊亭粋眼すいげん」を名乗って席主を務めている。昨夜のR-1グランプリを途中から見たが、一度も笑う場面がなかった。あのレベルのピン芸人には負ける気はしない。

ウサギとカメ、再戦

「イソップ寓話のウサギとカメのかけっこの話、知っているよね」

「もちろん。能力のあるなしよりも努力の大小のほうが成功にかかわるという教訓と理解している。それがどうかしたの?」

「もう十年も前になるけれど、『ウサギとカメが再戦したら、今度はどっちが勝つか?』というテーマでディベートをしてもらったことがあるんだ」

「おもしろいねぇ。で、どうなった?」

「今度はウサギが勝利すると主張した者は、かけっこの絶対能力を持ち出した。ウサギは走るが、カメは歩く。①居眠りさえせずに一気に駆け抜ければウサギが勝つ。そして、②凡ミスに懲りたウサギは必ず巻き返す、というのが論点だった」

「多分に期待が込められているね。と言うか、居眠りイコール凡ミスが例外だったのか、それとも染み付いた属性だったのかがわからないから、『居眠りさえせずに』という条件はあくまでも仮定にすぎない」

「まあまあ、慌てずに。今度もカメに軍配が上がると主張した者は、どう反論したと思う?」

「かけっこは単に俊足対鈍足の勝負ではなく、他にもメンタルな要因もあるということだろうか。いや、ウサギのカメを見下す態度は変わらないから、やっぱり油断をする。だから、何度勝負をしてもウサギに勝ち目はない。こんなところかな」

「ウサギが今度は居眠りしないという証明もできなければ、きみが今言った、他にもメンタルな要因があるということも証明しにくい。したがって、結局のところ、このディベートではウサギが前回の失態を改善できるか否かというのが主要争点になったんだよ」

「要するに、カメにとっては自力勝利はないわけだ。カメはひたすらウサギが居眠りしてもらうことを祈るしかない。これに対して、ウサギは意地でも眠ってはいけない。自力勝利の目は自分の采配しだいなのだからね」

「いかにも。ちなみに、そのディベートではレトリックにすぐれたカメ派が勝ったけどね」

「それで、審査員であるきみはどんなコメントをしたんだい?」


「その前に一言。このディベートのテーマは『ウサギとカメが再戦したら、今度はどっちが勝つか?』だっただろ。これって論題形式の記述になっていない。だから、前回カメが勝ってウサギが負けたという事実から、必然『再戦したら、今後はウサギが勝つ』という論題として読み替えられた。立証責任を背負ったウサギ派が『今度は絶対眠らない』と言い張っても説得力はないよね」

「どうやら、ウサギ派の『三度目の正直論』とカメ派の『二度あることは三度ある論』の言い合いに終ったようだね。もっともこれは二度目の勝負ではあったけれど……」

「ぼくは最後にこう締め括ったんだ。寓話によれば最初のかけっこを挑んだのはカメだった。お前はのろまだと小ばかにされたカメから申し出たのだから勝算があったはずだ。そして、実際に勝利した。だから、ウサギがリベンジを誓う挑戦もきっと受けて立つだろう。おそらくカメはウサギの変わらぬ性向を見抜いているのだよ」

「う~ん。それだって、ウサギ派が導いた推論の蓋然性とそんなに変わらないよな」

「いや、そうではない。この戦い、ウサギという種とカメという種の戦いではないのだよ。これは、ある特定のウサギとある特定のカメとのかけっこだったんだよ。米国対日本という戦いではなく、一米国人対一日本人の戦いのようなものだった。そのウサギは居眠りする怠け者だったうえに、もしかすると仲間内で一番鈍足だったかもしれない。他方、そのカメは仲間内でもっとも俊足で試合巧者だったかもしれない」

「ウサギが種の競走ととらえ、カメは個体間競走と見た。なるほど。間違いなく詭弁だろうけど、おもしろい分析だね。賢いアキレスにも追いつかれないカメだから、ウサギに負けるはずもない」

「あっ、それはなかなかの論点だ。詭弁ついでに言えば、居眠りをした時点でウサギはおそらく狩人に捕まっていただろうから、再戦はありえなかったと思うけどね」

その概念が見えてこない

あるゲストが企業訪問に誘われた。「企業経営の現場をご覧になりませんか?」「会社とは無縁なんで、ぜひ見学してみたいです。」

案内人は会社の正面玄関から順番にガイドをしていった。「こちらが守衛室です。こちらは受付ですね。そちらに小さな作業場があります。この大きな部屋が事務室になっています。大半の従業員はここで仕事をしています。この廊下の奥に食堂とトイレがあります。では、2階にまいりましょう。こちらが会議室です。その隣りがトイレですね。はい、トイレは2階にもあります。右手が資料室です。そして、こちらが応接室。一日に数人の来客があります。最後に、ここが社長室です。あいにく社長は本日不在です」

足早に、それでも小一時間ほど説明を受けたゲストは、最後にこう尋ねた。

「よくわかりました。ところで、肝心要の『企業経営』はどこにあるのですか?」


この話はぼくの創作なのだが、種明かしをすれば、これは哲学的命題の一つの変化形なのである。ゲストが案内されたどの場所にもどの仕事にもどの従業員にも「企業経営」というものは見えない。企業経営は仕事の場所や作業や人材を束ねた概念でありながら、企業経営そのものがどこかに存在しているわけではない。ぼくたちは企業経営というものを見学することはできないのである。

企業と無縁なゲストが目の当たりにするのは、企業経営ではない。社是や理念や経営方針を文字として感知することはできても、それらの実体は容易に認識できない。ゲストは部屋を見る。廊下や壁を見る。整理整頓状況や清潔や汚れを見る。従業員の働きぶりや立ち居振る舞いを見る。けれども、企業経営を見ることはない。

誰も彼もが経営評論家であるわけではない。ソニーやサントリーの商品を広告で知り、売場で見て買う。企業経営をつぶさに調べて買うのではない。顧客から見えない概念構築にいくら躍起になっても、それは明示的世界には現れてこない。具体的な事柄を統合して上位の概念にまとめてみても、結局は個々の具体的な事柄がはじめにありきなのである。

『カリメア帝国』――終りの始まり

「今日ね、学校の社会の授業でカリメア帝国のことを勉強したよ。昔、栄えていたって、ホント?  おじいちゃんは詳しい?」

「ああ、少しはね」。ため息まじりだった。小学校高学年の孫に尋ねられ、おじいさんは若い頃から見聞きしてきたカリメア帝国の話を聞かせ始めた。


わしがお前の歳の頃、カリメア帝国は大きくて強くて立派な国だと教えられた。カリメア人に生まれてきたらよかったと思っていたさ。あの帝国からやってくる文物のすごいこと、すごいこと。大人になって金持ちになったら手に入れたかった。だからカリメア語も懸命に勉強した。文化も歴史も社会もすべてカリメアのことばかりだった。

そうして、その後の何年も帝国とその人々を尊敬して生きてきたし、そのことに何の疑いも抱かなかったよ。でもな、たしか、あれは今世紀に入ってまもなくの頃だったと思う。わしはカリメア帝国が身勝手な国だと感じ始めたのさ。もしかすると、幸福の種よりも災難の種を世界中にばらまいているのかもしれんと……。

とうとうわかったのだ。カリメア人は自分たちのことしか知らない。彼らは自分の帝国が好きで好きでたまらないが、他の国のことなど眼中にはない。世界の地理に無知だった。そう、わしらの国の地図上の位置すら知らなかったのさ。彼らが外国へ旅しても、どこの国でもカリメア語が通じるので、世界のすべての人間がカリメア語を話していると信じていた。ルドという通貨もどこに行っても使える。足りなくなったら帝国が紙幣を印刷すればよかった。

帝国はお金と銃と車をこよなく愛した。心やさしくて善良なカリメア人もいたよ。でもな、帝国が世界の中心だといううぬぼれが広がっていった。だって、おかしいだろ、在位四年の王様を選ぶのに二年もの歳月を費やすのだよ。おじいちゃんが憧れていた文物もあまり作らなくなり、お金をあっちへこっちへと動かすだけで儲けようとした。やがて帝国の神が厳罰を下された。カリメア人は都合のよいときだけ神頼みしていたけど、最後は「オー、マイゴッド!」と叫ぶことになった。あっ、もうこんな時間か。はい、これでおしまい。


「おじいちゃん、その話の続きが聞きたいよ」と孫はねだった。

「カリメア帝国の災いは世界に広がったさ。当時はな、カリメアがくしゃみをすると世界でインフルエンザが流行すると言われた。だがな、わしらの国の民はバカではなかった。それが証拠に、今お前がここにいるじゃないか」。