腕組みより読書

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形ばかりのお盆休みの前に古本を10冊買い、仕事の隙間を見つけては形ばかりの読み方をしていた。さっさと読む〈斜読しゃどく〉、適当に頁をめくる〈拾読しゅうどく〉、複数本を同時に見渡すように読む〈眺読ちょうどく〉や〈併読へいどく〉などを繰り返していた。
本をまとめ買いしてから数日後、いつも思うことがある。狙いすまして買った本をろくに手に取りもせずに、ついでに買った本のほうに興味を覚えたりするのだ。今回も、他の9冊よりも、キリよく10冊目に手にした『偽善の季節』(1972年初版)が一番おもしろく、かつ考えるきっかけを作ってくれた。ためになるよりもおもしろいほうが健全な読書だとぼくは思っている。
著者のジョージ・マイクスは「自分を現実以上によく見せようとすること」を偽善と考える。これに従えば、ぼくたちはめったに自分をわざと現実以下に見せることはないから、みんなある種の偽善者だと言える。偽善が極論だとしても、ちょっとした背伸びや上げ底は日常茶飯事だろう。こういう行為のすべてが必ずしも相手を欺くことにつながるとは思えないが、ナルシズムの温床になっていくことは否めない。おっと、買った本の書評をするつもりではなかった。

最近、企画研修で口を酸っぱくして受講生に諭すことがある。腕組みをして沈思黙考しても、アイデアなど出てこないということ。アイデアはどこからかやってくるのではなく、自分の脳内に浮かぶ。だから、考えようと腕組みする態勢を取る瞬間から、アイデアが自然に湧くと錯覚してしまうのだ。仮にそうしてアイデアが浮かんだとしても、脳内のおぼろげなイメージをどう仕留めて仕事に生かすのか。
どんな課題であれ、考えるということは明示化することにほかならない。明示するもっともいい方法は外からの刺激や強制である。誰かと対話をするか、誰かの書いた本を読むか、このいずれかが手っ取り早い方法だ。但し、課題突破を手助けしてくれるような対話相手が周囲にいくらでもいるわけではない。いつでも思い立った時に、思考の触媒となってくれるのは読書のほうである。すぐれた対話のパートナーはめったにいないが、すぐれた本なら苦労せずとも見つかる。
困ったら腕組みするな、考えるな、むしろ本を読め、とぼくは主張する。考えてもひらめかないのなら、活字に目を通してみるのだ。困りごとで相談にやってくる人たちはほとんど、何で困っているのかすら説明できない。つまり、言語の次元に落とし込めていない。それでも、彼らは考えたつもりになっている。実は、思考と言語は切っても切れない関係なのだ。行き詰まりは言語で突破する。読書の他に、書いてみるという方法もある。腕組みをする時間があるのなら、本を読みノートを取り出しておぼろげなものの輪郭をことばにしてみることである。

ネタばらし

目新しいものやアイデアは、ある日突然、「無」のうちから出てきたりはしない。たいていは外部からの刺激や情報に突き動かされている。もし外部ではなくて、内なる触発であるとしても、脳がそれまでに絡め取ってきたことばや経験の知がきっかけになっている。

ぼくたちはいろんな知識を足し算し、場合によっては引き算もして、気づいたり発見したりする。その気づきや発見は独創的かもしれないが、決して無の状態から生まれたのではない。何事にも下地がある。「何でもよく知ってますねぇ」と褒められても、アタマの良さが褒められたわけではない。何でも知っているのは、どこかでひそかに仕入れているからにほかならない。とりわけ、ジョークの大半には出所がある。オリジナルのジョークもいろいろと作ったが、ジョークの構造や類型に関しては無意識のうちに先例を真似ているものだ。

プラトンとかものはし.jpgのサムネール画像
20096月にサンフランシスコからロサンジェルスへと旅した折りに、サンフランシスコで書店に入り一冊の本を手にした。表紙に“The New York Times Bestseller”というふれこみがある。ページ数200足らずの本なので帰りのフライトで読もうと思い買った。“Plato and a Platypus Walk into a Bar…”というタイトル。プラトンとカモノハシ、何という奇抜な組み合わせだろう。“Understanding Philosophy through Jokes”サブタイトル。
結論から言うと、難解な哲学術語も少なくなかったが一気に読んだ。そして後日、難解と愉快をモットーとする私塾で、同年と翌年にこれぞというジョークを次から次へと紹介して大受けしたのである。ジョークを披露するとき、ふつうは出典まで明かさない。このネタ本についても触れなかった。
旅行の翌年の秋頃だったと思うが、大阪本町の紀伊國屋書店で『プラトンとかものはし、バーに寄り道』という本を見つけた。言うまでもなく、「あれっ?」と気づく。そしてサブタイトルが「ジョークで理解する哲学」ではないか。そう、サンフランシスコで買った本の邦訳版だ。奥付を見て驚いた。200810月である。
さんざんネタを使った後に見つけてよかった。翻訳のほうを先に見つけていたら買わなかったかもしれないし、仮に買ったとしても、誰もが手にできる可能性があるから、これはネタ本にならなかったかもしれない。いずれにせよ、この二年間、ぼくが披露して笑ってもらったジョークの23割はこの本由来であることを告白しておく。なお、当然と言えば当然だが、原書が12ドルなのに対し翻訳本は1800円もする。

アイディエーティングという位置どり

最近、企業コンセプトや広告コンセプトの〈アイディエーティング〉の機会がとみに増えてきた。ぼくが発案したこのアイディエーティングとは、企画のためのアイデアを提供するコンサルティングの一種である。依頼主の企業規模も業種も問わない。念入りな調査もおこなわない。依頼されてから一週間か半月以内に顔合わせをし、事前に提示された課題について半日をかけて集中的議論と二次記憶の棚卸しをおこない、その場でアイデアとアイデアを触発させる。深慮遠謀せず、少々軽薄気味であっても量を求めることを主眼とする。意思決定を急ぎ、いちはやく全体構想を俯瞰する。このプロセスでは日常生活感覚、雑学、賢慮、良識、想像力、それにほどほどの企画ノウハウが求められる。

時間をかけて調査をおこない論理的に精度を高めたつもりが、肝心のアイデアが出なければ話にならない。また、アイデアというものは必ずしもそのようなプロセスを経て醸成されるものでもない。むしろ、集中と脱線、統合と分解、論理とアバウト、ことばとイメージ、ねらいとハプニングなど、相反する作業や精神作用によってアイデアはおびただしく頻繁に生まれる。ある程度の知識と経験にたくましい想像力を融合させれば、〈偶察力セレンディピティ〉のご褒美にあずかることができるのだ。

依頼者の業界についてどれほど詳しいかはあまり重要ではない。常識的に少々知っておかねば箸にも棒にもかからないが、敢えてにわか知識を仕入れるには及ばない。こんなことをあけっぴろげに言うと、「餅は餅屋じゃないか。素人に餅はわからないだろう」と反発を食らう。これに対して「紺屋こうやの白袴」とか「医者の不養生」などと切り返す? いや、それには及ばない。実際のところ、業界を知るために当該業界の専門家である必然性などないのだ。マックス・ウェーバーが言うように、「シーザーを理解するのにシーザーである必要はない」のである(『経験の差は優位性とはかぎらない』参照)。


専門家が専門分野を因数分解するときの危うさを嫌というほど見てきた。餅は餅屋と過信しているかぎり、理解幻想の枠から抜け出すことができないのである。専門家が経験によって理解することと門外漢が想像によって認知することは本質的に異なっている。両者を優劣で計るのは適切ではないが、敢えて想像側から優位性を一点取り上げるなら、対象を対象のエリアだけで捉える経験に対して、対象をより広範な文脈で捉える可能性が大きいという点である。この一点において、いや、まさにこの一点においてのみ、業界の専門家はぼくのアイディエーティングに期待を寄せてくれる。

英国の宰相チャーチルは玄人はだしの絵筆の使い手であった。絵の達人チャーチルならわかってくれるだろうと、ある人物がこう切り出した。「一度も絵を描いたこともないくせに、ただ有名人というだけで美術展の審査員におさまっている連中がいます。これはおかしいですよね」。てっきり「もちろん」という返事をもらえると思っていたが、チャーチルは次のように言ってのけた。

「いや、別にかまわんじゃないか。私はまだタマゴを生んだことはないが、タマゴが腐っているかどうかくらいはちゃんとわかるからね」

ぼくの仕事はまさにこれなのである。依頼主とぼくが共同して考え抜いても、何が最善かはわからない。有力なアイデアや方向性を絞るところまでは到達できるが、その先は決断あるのみだ。しかし、依頼主が従来から独自で実施してきた企画案が功を奏していないこと、少なくともその案よりもすぐれたアイデアがありそうなことは即座にわかるのである。「あなたの業界に一歩も足を踏み入れたことはないし、商品を売ったこともないけれども、ぼくは現状よりも有効なアイデアを捻り出す自信があります。但し、それがベストであると自惚れているわけではありません」――これがアイディエーティングの根底にある姿勢である。対象と距離を置き、依頼主と消費者の中間に立つコンサルティングと言ってもよい。

腕組みよりもペン

諺にはさまざまな含みがあるから、どんな場合にでも「その通り!」と納得するわけにはいかない。たとえば「下手な鉄砲も数打てば当たる」。このセオリーに一理を認めるものの、下手は何度やってもダメだろうとも思う。下手を少しでも改善してから場数を踏むほうがいいような気がする。

同じく「下手」を含む諺に「下手の考え休むに似たり」がある。これにも頷く時と首を傾げる時がある。大した知恵のない者が考えても時間ばかり経つだけだという意味だが、たしかに思い当たることが多い。しかし、それなら下手な者に思考は無用ということになってしまう。よく考えるよう努めれば下手が上手になることもあるのではないか。

ほとんどの諺に対して共感と反発が相半ばする。だが、一種の法則のように容認できる諺も、数は少ないが存在する。その一つが「案ずるより産むが易い」だ。あれこれと想像して心配するくらいなら、さっさと実際にやってみるほうが簡単だというこの教えは、他人を見ていてもぼく自身の経験を踏まえても、かなり信頼性の高い鉄則である。ただ残念なことに、とりとめのない時間が無駄に過ぎてしまった後に、この諺を思い出すことが多い。その時はたいてい手遅れになっている。


案ずると産む。案ずるがビフォーで産むがアフター。失敗したらどうしようと遅疑逡巡していても時間だけは過ぎていく。失敗しようが成功しようが決断を迫られた状況にあれば動くしかない。下手も上手も関係ない。考えてもしかたのない対象に執着せずに、その対象そのものを体験してみる。これは、〈莫妄想まくもうぞう〉に通じる教訓である。

ニュアンスは若干変わるが、案ずると産むを「幻想と現実」や「計画と実行」などと読み替えてもよいだろう。ぼくは「腕組みとペン」に置き換えている。物事は考えてからおこなうものと思っている人が大勢いる。考えてから書くのもその一つだ。アイデアが浮かんでからそのアイデアを書き留めるというわけだ。しかし、考えたからといってアイデアは易々と浮かばない。ほとんどの場合、腕を組んだまま時間が過ぎていく。

一本のペンをハンマーのように重く感じることがある。いや、ペンを手に持つ気さえしないことがある。すぐ目の前の机の上の一枚の紙への距離がはるか彼方の遠景に見えることもある。そこへ辿り着こうとしても足腰が動いてくれない。やむなく腕を組んで、ひとまず考えようとする。しかし、実は、これが逆効果で、苦しさから逃れても重苦しさがやってくるだけ。産むよりも案ずるほうに逆流してしまうのだ。産むとは、軽やかにペンを握り颯爽と紙に向かうことである。そこに諄々と文字を書き連ね付箋紙の一片でも貼れば、脳が刺激を受ける。行き詰まったら「腕組みよりもペン」なのである。

豊かなアイデアコンテンツ

見聞きし思い浮かべることを習慣的に綴ってきて約30年。ノートをつけるという行為はある種の戦いだ。だが、無理強いされるようなきつい戦いはせいぜい一年で終わる。習慣が形成されてからは次第に具体的な戦果が挙がってくるから、戦う愉しみも徐々に膨らむ。

これまで紛失したノートは数知れないが、ここ十数年分は連続したものが残っている。誰しも休みなく戦い続けることはできないように、ぼくのノート行動にも断続的な「休戦期間」があった。それでも、しばらく緩めた後には闘志がふつふつと湧いてくる。そして、「再戦」にあたって新たな意気込みを書くことになる。次の文章は16年前に実際にしたためた決意である。

再び四囲にまなざしを向けよう
発想は小さなヒントで磨かれる
気がつくかつかないか それも縁
気づいたのならその縁を
しばし己の中で温めよう

決意にしては軽やかだが、ともすれば情報を貪ろうとして焦る自分を戒めている。縁以上のものを求めるなという言い聞かせであり、気づくことは能力の一種であるという諦観でもある。この頃から企画研修に本腰を入れるようになった。人々はアイデアの枯渇に喘いでいる。いや、アイデアを光り輝くものばかりと勘違いをしている。ぼくは曲がりなりにもアイデアと企画を生業としてきた。実務と教育の両面で役に立つことができるはずだと意を強くした。


アイデア勝負の世界は厳しい世界である。だが、何事であれ新しい発想を喜びとする者にとっては、アイデアで食っていける世界には天井知らずの可能性が詰まっている。そして、人は好奇心に満ちた生き物であるから、誰もが新しい発想に向かうものだと、ぼくは楽観的に考えている。

アイデアは外部のどこかから突然やって来て、玄関でピンポーンと鳴らしはしない。ドアや窓を開け放っていても、アイデアは入って来ない。アイデアが生まれる場所は自己の内以外のどこでもない。たとえ外的な刺激によって触発されるにしても、アイデアの誕生は脳内である。ほとんどの場合、アイデアは写真や動画のようなイメージあるいは感覚質クオリアとして浮かび上がる。こうした像や感じはモノづくりにはそのまま活用できることが多い。

ところが、アイデアの最終形がモノではなく計画や企画書の場合、イメージをそのまま書きとめるわけにはいかない。ことばへのデジタル変換が不可欠なのである。いや、イメージの根源においてもことばがある。ことば側からイメージに働きかけていると言ってもよい。したがって、アイデアが出ない、アイデアに乏しいと嘆いている人は、ことばを「遊ぶ」のがいい。一つのことばをじっくりと考え、たとえば語源を調べたり他のことばとのコロケーションをチェックしたりしてみるのだ。

言い換えパラフレーズもアイデアの引き金になる。よく似たことばで表現し、ことばを飛び石よろしく連想的にジャンプする。こういう繰り返しによって、文脈の中でのことば、すなわち生活世界の中での位置取りが別の姿に見えてくる。適当に流していたことばの差異と類似。ことばが繰り広げる一大ネットワークは、イメージのアイデアコンテンツに欠かせない基盤なのである。

拠り所は出典不詳の知識

出典を承知している知識とそうでない知識を天秤にかける。言うまでもないが、圧倒的に後者の知識のほうが重い。ぼくなど、どこで仕入れてきたかわからない雑学的知識が生命線になっている。学者と呼ばれている友人や知人は20人やそこらいるが、彼らでも同じだろうと推理する。とりわけ知識が格言や名言である場合、手元に書物やノートがなければ、典拠を明らかにしたうえで正確に引用することなどままならないだろう。

しかし、論文を書いたり本を著そうと思えば、精度が問われる。当然どうにかして調べ上げねばならない。「どこで知ったか覚えていないし、正確に引用はできないが……」などという文章を学者が綴ることは許されないのだ。いや、ぼくだって適当であっていいはずはないと自覚しているが、学者のように神経質になる必要はない。不確かな、詠み人知らずの知識を軽いトーク調で紹介することが許される。

もちろん許されるからと言って、平気な顔して事足りるわけではない。ノートにきちんと引用して出典も書いておくべきだった後悔すること、絶えずである。たとえば、とても気に入っている、アイデアに関する古いメモ書き。

「アイデアは小声で話すので、喧騒の中では聞き取りにくい」

「期限が近づくと、つまらないアイデアを使い回ししなければならなくなる」

この二つの文章の出典はわかっている。本ではなく、ジム・ボーグマンのイラストに添えられたものだ。それはあるアメリカの大学の卒業記念に配られたファイル一式のうちの2枚である。ところが、出典である、その肝心のファイルがどこにあるのかわからない。だから、英語の原文と照合できない。上記の文章はぼくが訳してメモしたものだが、きちんと訳したのかどうか、今となってはうろ覚えなのである。


もう一つ。こちらは数年前までは研修のテキストにも使っていた。「発明は頭脳と素材の融合である。頭脳をうんと使えば素材は少なくてすむ」という、チャールズ・ケタリングのことばだ。ケタリングは生涯特許1,300件とも言われるエジソンほど有名ではないが、特許300件を誇る、知る人ぞ知る発明家であった。ここまでは確かだと思うのだが、どこでこの情報を仕入れたのか判然としない。ロボット工学博士の森政弘の著書で読んだような記憶があるがわからない。残念ながら、調べる気力がない。

出典を不確かなままにしながらも、ぼくは「発明は頭脳と素材の融合である」という、方程式のようなこのことばを名言だと思っている。そして、〈創造性=思考×情報〉という公式を勝手に作ってしまった。信憑性のほどはいかに? いろんな人に出会うたびに、その人の創造性指数をひそかにチェックするが、この公式は生きている。但し、「思考×情報」としているが、これら両要素を同時に大きくするのはきわめて難しい。この公式では、情報大のとき思考が小、情報小のとき思考が大になる傾向があるのだ。極論すると、創造性においては〈思考≒1/情報〉が成り立ってしまう。

「頭脳をうんと使えば素材は少なくてすむ」というケタリング。この文脈には、「知識や情報ばかり集めていると頭を使わなくなるぞ」という警鐘が隠れている。考えないから本を読んだりネット検索ばかりしなければならなくなるのだ。もっと言えば、簡単に情報が手に入らない、どこにもヒントがないという状況に追い込まれたら、人は必然的に頭を使うようになる。ろくに考えもしていないくせに、調べているだけで創造的な気分になることもあるから気をつけよう。

アイデアの鉱脈はどこにある?

塾生の一人が『アイデアは尽きないのか?』というタイトルでブログを書いていて、しかも記事の最後に「結論。アイデアは尽きない」と締めくくっている(ブログの更新が滞り気味なので、もしかするとアイデアが尽きているのかもしれないが……)。とにかく、師匠筋としてはこれを読んで知らん顔しているわけにはいかない。もちろんイチャモンをつけるために沈黙を破るのではない。その逆で、この種のテーマが常日頃考えていることを整理するいいきっかけになってくれるのだ。なにしろ、ぼくのブログには〈アイディエーターの発想〉というカテゴリがある。当然これから書くこの記事はそこに収まる。

アイデアは尽きないのか? 「アイデアは尽きない」という意見に同意したいものの、正しく言えば、この問いへの答えは不可能なのだろう。アイデアは誰かが何かについて生み出すものである。そのかぎりにおいてアイデアが尽きるか尽きないかは、人とテーマ次第ゆえ結論は定まらない。当たり前だが、アイデアマンはどんどんアイデアを出す。しかし、その人ですら不案内のテーマを与えられたらすぐに降参するかもしれない。

たとえば「世界」についてアイデアを出す。これなら無尽蔵に出せそうな気がする。世界という要素以外にいかなる制約も制限もないからである。時間が許されるかぎりアイデアが出続ける予感がする。但し、ここで言うアイデアには単なる「観念」も多く含まれ、必ずしも「おもしろい」とか「価値ある」という条件を満たすものばかりではない。


世界というテーマはあまりにも大きすぎるので、身近な例を取り上げよう。たとえば「開く」。「開く」からひらめくアイデアは、「開閉する」についてのアイデアよりも出やすいだろう。「ドア」という具体的なテーマになると、「開閉する」にまつわるアイデアよりも少なくなってくるだろう。「ドアのデザイン」まで絞り込むと、アイデアはさらに少なくなることが予想される。「アイデアは尽きないか否か」という命題は質にはこだわっていないようだから、量だけに絞って論じるならば、テーマが具体的であればあるほど、また要素が複合化すればするほど、アイデアは出にくくなると言えそうだ。

10-□=3の□を求めなさい」というテーマで、□に入る答えをアイデアの一種と見なすなら、「7」が唯一のアイデアとなり、これ一つで「尽きてしまう」。極端な例でありアイデアという言い方にも語弊があるが、テーマが小さく具体的になり制約する要素が増えれば増えるほど、アイデアは尽き果てることを意味している。つまり、下流に行けば行くほど、求められるのは「11」のアイデアのように、量でも質でもなく、「正しさ」のみになってしまうのだ。最近の企画術や発想法はかぎりなくこの方向に流れている。つまり、おもしろくない。

テーマを提示する側が、自分が評価しうるレベルに命題表現を設定してしまう。アイデアを出そうと張り切っても、大胆なアイディエーションへの冒険をさせないのである。「何かいいアイデアはないか?」と聞くくせに、尋ねた本人がすでに「正解の方向性」を定めているのである。こういう状況では「アイデアは尽きる」。「アイデアが尽きない」という結論を証明するためには、テーマの上流に遡らねばならない。そこで、時間のみ制限枠にして、ただアイデアの量だけを目指して知恵を蕩尽とうじんしてみるのだ。いいアイデアは、このようにして出し尽くされたおびただしいアイデア群から生まれるものだろう。

企画と表現のリノベーション業

アメリカ大統領のスピーチ原稿ライターで思い出した。看板は一度も掲げたことはないが、ぼく自身も企画書の代筆をしたりプレゼンテーションの代行をしたりしたことがある。

どんな提案項目を含めればいいのか、どのように構成すればいいのかがわからないという外部のプランナーが助言を求めてくる。但し、助言でどうこうなるものではないので、場合によっては「一から書きます」ということになり、小一時間ヒアリングをして資料をもらって書き上げる。まだパソコンを使っておらず、書院というワープロでペーパーを仕上げていた。もう二十年も前の話である。

もちろん報酬はいただいた。その報酬が菓子の詰め合わせやディナーのこともあった。関西ではよくあることだ。報酬が金銭であれ菓子であれ食事であれ、れっきとした「企画書代行業」であった。注意していただきたい。これは「企画書」の代行業であって、「企画」の代行業ではない。

そもそも企画と企画書は似て非なるものである。企画は発想や教養や情報や才覚などの総合力だが、企画書のほうは純然たるテクニックだ。そして、不思議なことに、企画よりも企画書のほうが金額設定はしやすいのである。企画は下手をするとタダにさせられてしまうが、企画書をリライトしたり編集したりすれば、値切られたり菓子で賄われたりするものの、報酬は期待できる。


世間は企画書という「型と形」を有するものには予算を用意するが、企画という「無形のアイデア」への出費を渋る。以前大手薬品会社の研究所長が「ディベート研修の相談」でアポイントメントを取り、わざわざ来社された。しこたまヒアリングされ、気づけば3時間経過。その所長の大学ノートにはメモが何十ページもびっしり。「当社でぜひ研修を導入したいと思う」とおっしゃってお帰りになった。それっきりである。アイデアはミネラルウォーターよりも安い。というか、タダになることさえある。

落語にも登場するが、「代書屋」というれっきとした商売があった。識字率の低い時代、口頭で伝えて書いてもらう。おそらく字が下手な者にとっては「清書屋」の役割も果たしただろうと想像できる。ぼくに関して言えば、講演や研修の閑散期に、提案書やカタログやパワーポイントの資料をチェックして欲しいと依頼されることがある。これまで無償でおこなってきたが、考えようによっては、看板を上げてもいいのではないか。たとえば、「企画修繕屋」とか「文書推敲屋」はどうだろう。

アイデアのある企画で食えないのなら、誰かの企画を修理するほうが手っ取り早いのではないか。自分でオリジナルの文章を工夫して書き下ろすよりも、下手な表現や壊れた文法を見直すほうが報われるのではないか。もちろん本意ではないが、そういう可能性も検討するのが自称「アイディエーター」の本分である。    

アイデアが浮かぶ時

「アイデアはいつどこからやって来るかわからない」と教えられたジャックは、その夜アパートのドアも窓も全開にして眠った。アイデアはやって来なかったが、泥棒に侵入されて家財道具一式を持ち出された。ジャックは悟った。「いつどこからやって来るかわからないのはアイデアではなく泥棒だ。アイデアはどこからもやって来ない。アイデアは自分のアタマの中で生まれるんだ。」

アイデアは誰かに授けられたり教えられたりするものではない。アイデアの種になるヒントや情報は外部にあるかもしれないが、実を結ぶのはアタマの中である。アイデアと相性のよい動詞に「ひらめく、浮かぶ、生まれる、湧く」などがある。いずれも、自分のアタマの中で起こることを想定している。アイデアを「天啓」と見る人もいるが、そんな他力本願ではジャックの二の舞を踏んでしまう。


デスクに向かい深呼吸をして「さあ、今日は考えるぞ!」 あるいは、ノートと筆記具を携えてカフェに入り「ようし、ゆっくり構想を練るぞ!」 時と場所を変え、ノートや紙の種類を変え、筆記具をいくつか揃え、ポストイットまで備えても、アイデアは出ないときには出ない。準備万端、「さあ」とか「ようし」と気合いを入れれば入れるほど、ひらめかない。出てくるのはすでに承知している凡庸な事柄ばかりで、何度も何度も同じことを反芻して数時間が経ってしまう。

ところが、本をニ、三冊買ったあとぶらぶら歩いていると、どんどんアイデアが浮かんできたりする。まったく構えずにコーヒーを飲んでいるときにも同じような体験をする。だが、そんなときにかぎって手元にはペンもメモ帳もない。必死になってアイデアを記憶にとどめるが、記録までに時間差があると大半のアイデアはすでに揮発している。

意識を強くすると浮かばず、意識をしないと浮かぶ。なるほどアイデアは「気まぐれ」だ。しかし、気まぐれなのはアイデアではなく自分のアタマのほうなのである。

ノートと筆記具を用意して身構えた時点で、既存の発想回路と情報群がスタンバイする。アタマは情報どうしを組み合わせようと働き始めるが、意識できる範囲内の「必然や収束」に向かってしまう。これとは逆に、特にねらいもなくぼんやりしているときには、ふだん気にとめない情報が入ってきたりアタマの検索も知らず知らずのうちに広範囲に及んだりする。つまり、「偶然と拡散」の機会が増える。

アイデアは情報の組み合わせだ。その組み合わせが目新しくて従来の着眼・着想と異なっていれば、「いいアイデア」ということになる。考えても考えてもアイデアが出ないのは、同種情報群の中をまさぐっているからである。新しさのためには異種情報との出会いが不可欠。だから場を変えたり、自分のテーマのジャンル外に目配りすることが意味をもつ。

ぼくはノートにいろんなことを書くが、アイデアの原始メモはカフェのナプキンであったり箸袋であったり本のカバーであったりすることが多い。つまり、身構えていないときほどアイデアが湧く。というわけで、最近はノートを持たずに外出する。ボールペン一本さえあれば、紙は行く先々で何とかなるものだ。