ユニークさの源泉

タイトルを『ユニークさの源泉』と書いてから、はっと気がついた。『日本人――ユニークさの源泉』という書名を思い出したのである(著者グレゴリー・クラーク)。1970年代、比較文化に興味があったのでその種の本をよく読んでいた。他に『人は城、人は石垣――日本人資質の再評価』(フランク・ギブニー著)なども読んだ。当時、アメリカ人による日本文化論がよく書かれ日本でよく読まれた。昨今も日本人論ブームらしいが、いつの時代も日本人は日本や日本人についてどう見られているかに異様な関心を抱いているような気がする。

『日本人――ユニークさの源泉』という書名も著者名も思い出したが、あいにくどんな内容だったかまったく記憶にない。今からユニークさについて書こうと思うのだが、タイトルが必ずしもユニークでないのは愉快でない。かと言って、『ユニークさの理由』や『ユニークさの背景』に変えても、どこかにこれらのフレーズを含んだ書名があるに違いない。ならば、タイトルはこのままにしておこう。但し、これから書くユニークさの源泉は日本人論とは無関係である。

「差別化か、さもなくば死か」(ジャック・トラウト)はのっぴきならない決意表明である。マーケティング戦略史に残るこの一言は極端に過ぎるかもしれない。だが、自他に差がなく、ひいては自分が他者から識別されないのはやっぱりつまらない。ぼくは教育と実際のサービスの両面で企画を実践してきたが、ありきたりであることや二番煎じであることがブーイングの対象になるのを承知している。いや、批判されることなどどうでもいい。それよりも、自分が他者とは異なる固有の存在でなければおもしろくないではないか。ユニークさは生きがいの大きな要因だと思う。


普通でないことや常識的でないことをユニークさと呼んでいるのではない。ユニークさとは他と何らかの差異があることだ。ちなみに、ぼくたちは「とてもユニーク」などと言って平気だが、英語表現に“very unique”はなく、また比較級も最上級にも変化しない。「A君はB君よりもユニーク」などと言わないし、「この商品は当該ジャンルでもっともユニーク」とも言わないのである。このことは、単に「ユニーク」という一語だけで、形容する対象が固有であることを示している。

たとえちっぽけでも固有になりうる。「鶏口となるも牛後となるなかれ」という有名な諺がある。大きな組織のその他大勢の一人になるくらいなら、小さな組織のリーダーのほうがいいという意味だが、ユニークさと重ね合わせてみると何となく似ている。ユニークさはゴールの大小、組織の大小、テーマの大小とは無関係に発揮できる。そのためには、誰もができそうなことや自分でなくてもいいことに長時間手を染めないことである。

なぜ人はつまらない平凡な存在になったり陳腐な発想をしたりするようになるのか。一言で言えば、現環境における安住である。そして、その裏返しとしての、新環境への適応拒絶。もう少し平易に言えば、流れに掉差す無難主義あるいは等閑なおざりな正解探しの姿勢がユニークさを阻んでいる。ユニークさの源泉とは、この世に生を受けておいて固有でない生き方をしてたまるかという「向こう意気」だろう。そして、時にそのエネルギーは、アマノジャク、アンチテーゼ、エスプリなどに変形する。

出る杭とアンチテーゼ

ごくわずかな人たちを除いて、ぼくの回りで「過激発言する人」がめっきり減ってきた。ちょっと過激で「ピー」の音を被せなければならないときは、シモネタ系に限られる。テーマが時事であれ教育であれビジネスであれ、あるいは人物や思想の話に及んでも、なかなかハッとする見方に出くわさない。さらに、意見や価値観の衝突を未然に避けるので、争点の起こりようもなく議論にすらならない。要するに、対話をしていてもあまりおもしろくないのである。

まあ、五十の大台に乗ったのなら意見が少々控え目に傾くのもやむをえないだろう。だが、その意見がこれまた無批判に同調されるとなると、まったくアンチテーゼが出てこない環境に置かれることになる。歳を取れば過激度は自然に薄まるもの。しかし、それでもなお、周囲がそこそこに安全圏に留まろうという気配を感じたら、年配者だからこそ、意に反しながらも〈デビルズ・アドボケート(devil’s advocate)〉として登場せねばならないのだ。敢えて苦言や反対意見を唱える「悪魔の提唱者」、くだけて言えば、アマノジャクの役割のことである。

二十代、三十代でありながら「よい子」に収束しようとする心意がぼくにはわからない。わからないけれども、その世代にしてアンチテーゼの一つも唱えないようなら、四十代、五十代になったら絶望的なほど無思考人間に成り果てるだろう。若い頃に下手に成熟するのではなく、しっかりと若さゆえの役割を演じておかねば、反骨エネルギーはこれっぽちも残らない。そんなもの残らなくていいではないかと反論されるかもしれないが、反骨エネルギーこそが新しい発想やアイデアの源泉なのだ。老齢を避けることはできないが、「老脳」はテーゼに対するアンチテーゼ精神によって遅らせることができる。


古典に属する考え方で申し訳ないが、テーゼとアンチテーゼの関係は弁証法的展開には欠かせない。正統と異端もしのぎを削る。与野党の関係もしかり。すんなりと何かが決まり大勢が一つの色だけで染まるのが組織の老化現象の原因なのである。ディベートにしても肯定側(テーゼ)と否定側(アンチテーゼ)との間の意見交流だ。そのディベートという一種のゲームにおいてさえ、アンチテーゼがきわめて脆弱で腰抜け。ゆえにサスペンスも感動もない。若い人ほど情報に依存するあまり、ありきたりの検証に終始する。

血気盛んとまではいかないが、ぼくのような万年青二才からすれば、ぼくよりも二十も三十も年下の人たちがとてもお利口さんぶっているように見える。人間関係上の衝突を未然に避ける術を身につけている。だから、打たれないと判断すれば杭を出すが、危ないと見るや杭は決して出さない。しかし、こんな小器用な調整作業を繰り返しているうちに、しっかりと出る杭になるチャンスを逃してしまう。「出る杭」とはアンチテーゼ能力である。その能力を凌ぐと自負するテーゼ人間が杭を打ってくれる。大いに打たれて鍛えてもらえばいいのだ。

ところで、何がテーゼで何がアンチテーゼかは一筋縄では語れない。ひとまずぼくは先行発言や先行価値をテーゼと位置づけ、それらに「ちょっと待った」というのをアンチテーゼと呼んでいる。したがって、アンチテーゼのほうがいつも過激というわけでもない。テーゼが過激かつ異端的で、それに穏健なアンチテーゼが絡んでもいいわけだ。とは言え、アンチテーゼはアマノジャクでなければ迫力に欠ける。そう、アンチテーゼの原点にある意気込みは、「丸く収まってたまるか」であり「他人と同じ発想をしてたまるか」でなければならない。