妙薬依存症候群

ドニゼッティに『愛の妙薬』というイタリアオペラがある。観劇したことはないが、ラジオとCDでそれぞれ一度ずつ聴いたことがある。気弱でもてない男が薬売りから「飲めば恋が実るという妙薬」を法外な値段で買う。実はワインなのだが、プラシーボというもので、男はたちどころに陽気になり気も大きくなる……こんなふうに第一幕が始まる。野暮なので、結末を明かすのは控えておく。

妙薬に「愛」がくっつくと、どういうわけか秘薬や媚薬のニュアンスが漂うが、元来、妙薬とは病気に効き目のある薬のことだ。転じて問題のソリューション(解決)という意味で比喩的に用いられることもある。医薬品はもとより、「○○○に効く」というふれこみで次から次へと売り出されるサプリメントも妙薬として期待されているに違いない。
だが、実際に妙薬が効くかどうかはにわかに定まらない。オペラに出てくる男がその気になったように、多分に偽薬効果だろう。たとえば、「アントシアニンを摂取すれば血液がさらさらになる」もこの類。ぼくたちは、アントシアニンという物質の存在も名称も知らなかったはずだが、ちゃんと黒豆を食べてきた。「ようし、アントシアニンを摂取して活性酸素を抑えて血液をさらさらにするぞ!」などと決意して黒豆を食べているわけではない。

現代人は常日頃心身の不安に苛まれている。ドラッグストアを覗けば、対症療法的な医薬品やサプリメントがずらりと並ぶ。それを病の素人であるぼくたちが、自分の体調不良や体調不安、あるいは際立った症状に照らし合わせて買っている。考えてみれば、綱渡りのような選択なのである。もっとも、話は店売りだけにとどまらない。
昨年暮れに喉に痛みがあったので耳鼻咽喉科で診てもらった。「風邪ではなく、炎症でしょう」と診断されて痛み止めを処方された。同時に、「胃はお丈夫ですか?」と聞かれた。「ええ」とぼく。「では、胃薬は出さないでいいですね」と医者。つまり、この鎮痛剤が通常の胃の持ち主にとってはダメージが強いほどの「劇薬」であることを暗に示している。歯医者では、尋ねもせずに、自動的に鎮痛剤と胃薬の両方が処方される。
妙薬だけに、とても奇妙な話である。効き目を期待して飲みながら、その効き目の副作用を消すために別の妙薬を服用するのだ。妙薬にプラスとマイナスがあれば、差し引くと「妙味がない」ことになる。世間と時代はこぞって妙薬を求め依存し、その行為によって症候群に陥ってしまっている。とここまで書いて、月並みな教訓で終わることになりそうだが、経口するものだけが妙薬ではないことを知っておくべきだろう。情報、能率、他力、権威、仲間……これらもすべて毒性を秘めた妙薬なのである。

効果を見極める

一つの原因から一つの結果が生まれるようになれば、分析も予測も誰がやっても同じになるに違いない。たぶんものの見方もアタマの使い方も簡単明快になるはず。科学至上主義への懐疑も霧消して、科学は完璧主義という地位を獲得する。いや、運命決定論的にすべてを支配することも夢ではない。同時にそのことは、ハプニングや意外性やユーモアやジョークのない、さぞかしおもしろくない世界になるだろう。

ぼくのような浅学の身でも、少しでも考えようと頭に鞭打つのは、原因と結果の関係が定まらないからだ。直接・間接の原因があり、遠因と近因があるし、アリストテレスによれば質料因、作用因、形相因、目的因も考慮せねばならない。さらに、これらが混ざり合って一つの結果が生まれているわけではなく、結果も複合的であることがほとんどだ。因と果がぴったり対応しないからこそ、固定観念を反省したり創意工夫をする気になったりもする。原因も結果もよくわからないのは不安定だが、苦労せずによくわかってしまうよりもずっと精神衛生上はいいはずである。

医者に行く。「どうされましたか?」と聞かれ、「ちょっと熱があるんです」と答える。「咳は?」「時々出ます」などのやりとりの後に胸と背中に聴診器が当てられて、やがて「どうやら風邪ですね」と所見が下されて納得する。だが、なぜ風邪を引いたのかまで深く顧みることはない。仮にここ数日間を振り返ってみたところで、原因はわかりそうもないし、一つともかぎらないだろう。二、三日して体調が戻る。よくなった原因が薬だったのか、よく睡眠を取って休息したからか、あるいは自然治癒したのかは不明である。


一度でもお試しサプリメントを注文すると、その後しばらくDMが送られてくる。以前、そんなDMの一つにグルコサミンとコンドロイチン配合のサプリメントやサメのコラーゲンの案内があった。「足首や膝に痛みを感じたり階段を上り下りしたりする時に思うように動けない、脚力や関節に不安がある、そんな方にぜひ」というふれこみである。無料お試しを申し込んだのも、たしか同じような文言に反応してのことであった。

テレビにもDMにも折り込みチラシにも消費者の声が紹介されている。「歩くのも階段の上り下りも楽になった」と異口同音の摂取体験談。足に「何だか」力が入るようになり、痛みも「気にならなくなってきた」と言う。はたしてサプリメントは効いたのか。それとも、サプリメント摂取を機に、よく歩くようになり軽い運動すら始めるようになったからか。関節の痛みが改善されたのが、健康食品か新しい生活習慣なのかはわからない。

サプリメントや薬物には自己暗示を促す効果があるのかもしれない。プラシーボ効果である。ところで、こんなことを考えていくと、落ち込んでいたので買物をしたら気分がよくなったという因果関係にも同じことが言えるかもしれない。ふと、ぼくの研修もプラシーボなのではないかとの思いがよぎる。おっと、とんだヤブヘビになってしまった。残念ながら、直接効果のほどは証明のしようがない。ただ、改善や向上に努めようとするきっかけの一つになっていてほしいと願うばかりである。

サプリメント依存症候群を嘆く

依存までは至らなかったが、仕事や出張で多忙な時期に体調を気遣ってサプリメントを用いていたことがある。特にビタミンとミネラル系、それに宴席の後に肝臓によさそうなもの。なければないで何ともなかったが、常備していたので必然習慣的に常用することもあった。効能実感はほとんどなかったと思う。現在は、思い出したように時折りビタミンやウコンを摂るが、一種のまじないである。もちろん、まじないすら信じてはいないが……。

昨年6月渡米した折りに、土産代わりに総合サプリメントを二箱買ってきた。結果的に土産にならずに自家消費していて、まだ一箱目の途中である。個包装になっており、その一袋に大小様々な固形の粒が10種類ほど入っている。そのうちの半数がふつうの人では飲みづらいほどの大きさだ。この個包装の品目すべてを喉から胃に送り込むには訓練が必要だろう。アメリカ人は何でも大きなものを好むものである。

ちなみにサプリメントは英語で“supplement”と綴り、「サプラムント」のように発音する。よく使われる形容詞が“supplementary”で、こちらは「サプラメンタリ」と発音する。この形容詞は後に“toを伴って「~を補足(補充、追加)する」という意味になる。つまり、サプリメントとは「主なるもの」に対する副次的存在なのである。今さら強調するまでもなく、「不足を補う」という基本概念が転じて、書籍や雑誌などの「補遺、付録」に使われることが多い。たとえば正規の主教材に対して、副教材などをサプリメントと呼ぶわけだ。


日本では自明のようにサプリメントを栄養補助食品や健康補助食品の意味で使っているが、英語はもっと汎用的である(常用の昭和55年版と古い英和中辞典にも新しいオックスフォード英英辞典にも、“supplement”に栄養や健康のサプリという定義は見当たらない)。栄養や健康のサプリという場合は“dietary supplements”、具体的に“vitamin supplements”と言う。但し、コストコなどの売場で「サプリメントを探しているが、どこに置いてあるか?」と聞けば通じるだろうし、実際にぼくはそのように尋ねて教えてもらった。

好事家的薀蓄という悪い癖が出た。「主あっての副」が忘れられつつという主張が本旨である。主の足りないところを補うのがサプリメントであるはずなのに、「主なき副」に依存するとはどういうことか。飽食の時代にサプリメントなる副食は不要だろう。いや、偏食気味だから補うのだと言うのか。それならば、主食において偏食を是正するのが筋である。セサミンよりもゴマを、DHAよりも青魚の全食――アタマからシッポまでを日々実践すれば済むことなのだ。

サプリメントの話は生き方や学び方全般に通じる。主が「ケ」という日常生活に根ざし、副が「ハレ」という非日常行事に現れるのである。たとえば、日々仕事をしているからこそ「仕事術」というサプリメントの学習に意味がある。自力で何事かを成そうとし、それでも足りない何かをほんの少量、外部から調達するのが学びのまっとうな姿なのではないか。ろくに仕事もせず仕事をしようともしない連中を集めて職業訓練を施しても、主なき副だけの成果など期待できない。過剰摂取したサプリメントは放出されるか内臓に沈積して副作用をもたらす。決して日常生活世界の活動にうまく取り込めないのである。

ヒューマンスキルの核

「ノリヒビ」ということばを聞いたり読んだりしたことがあるだろうか。「海苔ひび」。海中に立てる竹や粗朶そだという木の棒のことである。この棒に胞子を付着させて海苔を養殖する。最初は遅々として目立たないが、やがてしっかり定着すればみるみるうちに海苔が繁殖していく。

何かが大きく成長するためには、この棒のような核が必要で、学んだことがどんどんまつわりついていかなければならない。ノリヒビはそんなたとえにも使われることがある。では、ヒューマンスキルにとって、ひびや胞子に相当するのは一体何だろうか。


学び手と学習メニューの関係は、身体とサプリメントの関係に似ている。毎日の食事さえバランスよくきちんと摂り、ほどよく運動して筋肉を鍛えていればおおむね問題無しとは、良識ある専門家が異口同音に唱えている。しかし、栄養に過多や偏りがあると体力に不安を覚え体調異変を感じる。そうなると、中高年には手っ取り早くサプリメントに依存する傾向がある。

ぼくも例に漏れなかった。ウコンに卵黄ニンニク、納豆キナーゼにノコギリヤシ、マルチビタミンや各種ミネラルを試してみた。通販で買ったためにしつこくフォローの電話攻めにも遭った。やがて主客転倒していることに気がついたのである。栄養源は水で流し込むのではなく、よく噛まねばならないのではないか。きちんと食事をして年齢相応に身体を動かし、歩き、ストレッチをする。そういうふうに生活スタイルをシフトして現在に到っている。


ヒューマンスキルのサプリメントには何がいいのか。世の中には学習メニューが目白押し。摂取しても摂取しても効き目を実感していない人たちも多い。摂取後は何らかの効果を実感できたとしても、効き目は持続しない。何日かすれば元の木阿弥状態になってしまう。学習メニュー提供側のぼくとしても、大いに反省しなければならないと思っている。

食事同様、学習サプリメントはあくまでも副である。サプリメントとはもともと「補足」という意味だ。不足を補うものであって、主たる存在ではない。毎日の食事が主であるように、もっともよく使うスキルこそが主ではないか。そう、ヒューマンスキルの主食はことばというリテラシーなのだ。リテラシーこそがノリヒビであり、ぼくたちは幼少の頃から「ことばの胞子」をずっと養殖してきた。

日々振り返れば、生活も仕事も読み・聴き・話し・書くで成り立っている。言語の四技能というリテラシーを駆使して一日を過ごしている。いかなる専門スキルも言語の核にまつわりつく。肝心要の言語力が乏しければ、知識や情報を大量に取り込んでも定着しないのだ。そして、レベルアップするにつれて、とりわけ読むことと書くことの重要性が高まってくるのである。