語順に関する大胆な仮想

仮説ではなく、「仮想」というところがミソ。間違って仮説とも言おうものなら理論的説明を求められるが、仮想としておけば「想い」だから、「そりゃないよ!」とケチはつかないはず(と都合よく逃げ道を用意している)。それはともかく、本題に入る。

ご存知の通り、欧米語と日本語にはいろんな違いがあるが、何と言っても大きな差異は語順である。語順の中でも決定的なのが動詞の位置。倒置法を使わなければ、日本語の動詞は通常文章の一番最後に置かれる。「ぼくは昨日Aランチを食べた」という例文では「食べた」という動詞が最後。主語と動詞が「昨日」と「Aランチ」という二語をまたいでいる。英語なら“I”の直後に“ate”なり“had”なりが来る。主語と動詞はくっついている。

動詞が最後に置かれる語順の文型を「文末決定型」と呼ぶ。英語なら「私は賛成する、あなたのおっしゃったことに」と文頭で賛否がわかるが、日本語では「私はあなたのおっしゃったことに……」までは賛否がわからない。極端なことを言えば、意見を少しでも先送りすることができる。気兼ねの文化という言い方もできるが、潔さ欠如の表われとも言える。どんどん読点をはさんで長い文章にすればするほど、結局何が言いたいのかは文末の動詞を見定めるまではわからない。


たとえば「私は毎日ブログを書く」という文章。この文章のキーワードは何か? と聞かれれば、ぼくのような行為関心派にとっては「書く」なのだが、目的関心派にとっては「ブログ」になる。頻度の「毎日」をかなめに見定める人もいるかもしれない。ぼくにとっては、毎日もブログも「書く」ほど存在感があるとは思えない。「書くか読むか」の差異のほうが、「毎日か週に一回か」の差異や「ブログか日記か」の差異よりも強い意味を包み含む。もう一歩踏み込めば、ぼくにとってはこの文型は「私は書く」が主題文なのだ。

もう一度例文をよく見てみよう。「私は毎日ブログを書く」。私と書くが離れている。「私は毎日ブログを」までを聞いても見ても、行為がどうなるかは未決定である。まさに「行為の先送り」ではないか。これを「言語表現的グズ」と名づける。奥ゆかしさなどではなく、行為決定のペンディングそのものである。毎日にこだわる。ブログにこだわる。しかし、毎日どうする、ブログをどうするについての明示を一秒でも二秒でも先送りする構文、それは日本語特有ではないか(世界にはこの種の言語もあるので敢えて固有とは言わないが)。

要するに「書く」という行為への注力よりも、毎日とブログが一瞬でも早くクローズアップされる言い回し。ブログでもノートでも日記でも手紙でもいい、毎日毎日いったい「どうしているのか」がすぐに判明しないのだ。動詞という行為表現の先送りと実際行動の先送りが、もしも連動しているのなら……これはなかなか大胆な仮説、いや、仮想ではないか。「私は書く」という構文にぼくは意思表明の覚悟と実際行動へと自らを煽り立てる強さを感じる。かと言って、「私は終わる、今日のブログの記事を」という文章をれっきとした日本語構文にしようと主張しているわけではない。

ツケの大きい先送り

今夜、今から3時間後にマーケティングについて2時間弱の講演をおこなう。この内容についてすでに三週間前に資料を主催者側に送り、準備万端であった。ところが、講演で使用するパワーポイントを今朝チェックしていてふと思った―あまり早く準備するのも考えものだと。

全体の流れや構成は全部アタマに入っている(自作自演するのだから当たり前だ)。しかし、集中して編み出したアイデアやディテールについては、別にダメだなどとは思わないが、時間の経過にともなってピンと来ない箇所があったりする。「これ、何を言おうとしたのかなあ?」という、瞬間の戸惑いだ。それも無理はないと自己弁護しておく。話であれ書いたものであれ、話して書いた瞬間から賞味期限が迫り、やがて切れていくのだから。

しかし、効率という点からすれば、講演なら一週間くらい前に準備してアタマに入れておくのが、ちょうどいい加減なのかもしれない。そんなことを午前中につらつらと考えていた。


「先手必勝」や「善は急げ」や「機先を制する」などという言い伝えと同時に、「急がば回れ」や「急いては事を仕損じる」などの価値が対立する諺や格言が存在する。いずれにも真理ありと先人は教え諭してきたのだろうが、凡人にとってはどちらかにして欲しいものである。つまり、急ぐのがいいのかゆっくりがいいのか、あるいは、早めがいいのか遅めがいいのか―ズバッと結論を下してもらったほうがありがたい。すべての諺を集大成すると、堂々たる「優柔不断集」になってしまう。

だが、ぼくは自分なりに決めている。自分一人ならゆっくり、他人がからむならお急ぎである。講演は他人がからむ、資料は他人に配付する。だから早めに準備しておくのが正しい。二度手間になってもかまわない。できるときにしておくのがいい。善は急げとばかりに、さっき一ヵ月後の研修レジュメをすでに書き上げスタンバイさせた。


膨大な企画書を何10部もコピーしてプレゼンテーションしなければならない。そんな企画書が提案当日の午前にやっと出来上がる。プレゼンテーションはお昼一番だ。一台しかない複写機がフル稼働する。ランチをパスしてホッチキス留めして一目散に得意先に向かう。何とか三十分後に到着し、無事に会合に間に合った。しかし……

企画書を手にした部長が一言。「この企画書、まだ温かいね」。そう、鋭くも的確な皮肉である。「この企画はたぶん熟成していない。したがって、検証不十分のまま編集されたのだろう」と暗に示唆するコメントであった。ご名答! である。ぼくの体験ではない。若い頃に目撃した、ウソのようなホントの一件である(実際にコピー用紙は温かかったのだ)。仕事の先送りは、熟成を遅らせることであり、ひいては検証不能状態を招くことなのだ。

グズだから怠け者だから先送りするのだろう。しかし、生真面目な人間であっても、ついつい先送りを容認して習慣化していくと、グズになり怠け者になっていくのである。ぼくは、その両方のパターンを知っている。その二人とも働き盛りなのに、ツケの返済に日々追われて創造的な先手必勝の仕事に手が届かない。