人を見て法を説く法則

Marketing→Targeting web.jpg copyright.png 方法や発言が変わることはよくないことなのだろうか。数年前におこなっていたやり方や言っていたことを今翻してはいけないのか。居直るわけではないが、「あなたの言うこと、していることはころころ変わる」と言われても痛くも痒くもない。なぜなら、方法や発言は変わるもの、変わるべきものだからだ。環境や時代によって変わり、付帯状況によって変わり、そしてそのつどの考え方によって変わる。

方法や発言を仮にポリシーと呼ぶことにしよう。ポリシーは、何よりもまず、相手次第で変化する。あのときのぼくのポリシーはAさんたちに向けて発言したものであった。今回はBさんたちに向けてのものである。たとえば、ぼくの研修でもっとも引き合いの多い『プロフェッショナル仕事術』では、対象が五十代と三十代とでは講義ポリシーが変わる。前者には仕事を収束させるスキルが重要であると伝え、後者には仕事を拡散するスキルを磨けと説く。所変われば品が変わるように、相手が変わればポリシーが変わるのである。
冒頭に書いたように、ポリシーは環境や時代、付帯状況、ぼくの考え方の変化に応じて変わるから、同じAさん相手であっても、2ヵ月前のあの時と今とでは違う。ここでお気付きだろうが、変わるポリシーというのは下位概念的なものであって、もとより臨機応変を本質に持つものである。そのようなポリシーの変更を矛盾などと呼んではいけない。矛盾とは今ここで相反する二つの法則が成り立ってしまうことだ。相手が変わり時間が経過していれば、相反する事態は決して生じてなどいない。

繰り返しになるが、方法や発言のような下位概念的なポリシーは変わる。いや、変わらねばならない。しかし、その下位概念的なポリシーをくくる上位の法則までもが変容しているわけではない。AさんにXと言い、BさんにYと言うのは、いったいどういうことなのか。それは、人を見て法を説くことにほかならない。人を見て法を説け、あるいは今という時代を洞察して法を説けなどというのは、万人に通じる普遍法則と言ってもいい。
ビジネス成功のために「売れる商品を作れ」などと言われる。これは、「売れる商品を作れば売れる」という意味になり、明らかにナンセンスな同語反復だ。どの売り手もこのように考えて行動すれば、当該商品が溢れて供給過多になり、熾烈な企業間競合と価格競争が必然になる。こんな混沌状況では普遍法則など成り立つはずもない。もはや「売れるものづくり」などという発想は役立たずなのである。
日米だけに限ってもマーケティングの定義には温度差があるが、いずれにも「顧客」という用語が含まれている。しかし、この顧客はもはや大衆や不特定多数という意味からはほど遠い。今日においては、「人を見て法を説く」ときの「人」と同じく、個別であり、きわめて限られた特定の人々でなければならない。企業は何を作るのかを絞り込むと同時に誰に売るのかを絞り込まねばならない。言い換えれば、その商品からどんな価値をどんな顧客に感じ取ってもらうかということだ。マーケティング(Marketing)という広義の概念をターゲティング(Targeting)という狭義の概念に置き換えることが必然になったのである。

「おかしい」と言うなかれ

携帯電話会社のテレビコマーシャルに「おかしいことをおかしいと言う勇気」というのがある。「そうだ、その通り!」と膝を打ちたくなるか……。まったくならない。「勇気」などと頼もしげに言われても、「ふ~ん」と反応するしかない。いや、正確に言うと、少々苛立ちさえ覚える。

おかしいことをおかしいと言うのに勇気などいらない。ただそう言えばいいだけの話だ。美しい花を美しいと言い、汚い店を汚いと言い、バカな者をバカと言うのと同じである。この国では未だに「自分が感じることをそのまま言に出してはいけない、もし出そうと思えば勇気を振り絞る必要がある」という暗黙の前提があるのか。
おかしいことをおかしいと言うのに勇気などいらない。だからと言って、好きなように言えばいいと主張しているのでもない。これは〈同語反復トートロジー〉の一つになっている。「ダメなものはダメ」と言って話題になった女性政治家がいたが、こういうものの言い方をしているかぎり、論議が前に進む余地はない。ただ堂々巡りするしかない。ちなみに、「売れるものを作れ」というのも類語反復である。

くどいが繰り返す。おかしいことをおかしいと言うのに勇気などいらない。いや、おかしいことをおかしいと言ってはいけないのである。誰かの意見に異議を唱えるとき「おかしい」という表現などありえないのだ。「おかしい? 何がおかしいのか言ってもらおうじゃないか!」「おかしいものはおかしい!」「おかしいとしか言えないお前のほうがおかしい!」……となって、傍で聞いていると昔の漫才師のボケとツッコミようである。
「おかしい」と感じるのは主観である。その主観を「おかしい」と主観的に表現しているかぎり議論は成立しない。こういう批判は口先だけの、根拠なき反駁であり、人格否定につながってしまう。議論が口論になり果てる。わが国の一流論客と評される人物でも、だいたいこのレベルに止まっている。
「おかしい」と評してはいけないのである。もし「おかしい」と言ってしまったら、理由を述べるべきである。他に、ナンセンス、馬鹿げている、話にならない、矛盾している、意味不明だ、わけがわからん……なども議論におけるタブー表現である。もっと言えば、こうした表現によってコメントしたり批判したりするのは、勇気ではなく、むしろ臆病の表れであり、ほとんどの場合、議論が苦戦に陥っていることの証である。

旨い魚は旨い

「旨いものは、やっぱり旨いねぇ」と誰かが言い、自分もよくそう言うことがある。どんな商品か店か忘れたが、「旨いもんは旨い」という関西弁のコマーシャルがあったのを覚えている。この種の文章は同語反復文と呼ばれる。英語ではギリシア語源のトートロジー(tautology)という表現を使う。論理的にはまったく意味を成さないものの、主語と述語に同じ用語を使うのだから、どこから見ても完璧に自明になるのは当たり前だ。

けれども、完璧に自明なほど、ただ旨いと言うしかない料理がある。「旨いもんは旨い」の「もん」の箇所は、食べるものなら、肉でも野菜でも中華でも何でもよい。一昨日の土曜日、金沢でいただいた刺身盛はまさに「旨い魚は旨い」であった。五月にご馳走になった、山間やまあいの茶屋でのイワナ会席も絶品だったが、いずれも「旨い」の右に出る形容詞は思い浮かばなかった。

いくらかは表現力もあるつもりだが、旨いものに出合ってしまうと品評のためのことばを失ってしまう。食材を絶賛するときのぼくたちの語彙不足ときたら、何というていたらくだ。「旨い」か、それに近い褒めことばか、あるいは、唸るか無言かのいずれかだろう。グルメレポーターのように「お口の中が宝石箱」のようなコメントは現実的にはありえない。もし「舌が抱腹絶倒の幸福感に浸っています」などと冷静に語れるならば、それは未だ美味に到っていない何よりの証拠である。


しかし、旨い魚は実に旨いのである。ほんの十年ほど前は「旨い肉は旨い」だったのだが、肉の上限は見えてきた。別に最高級の肉を極めたからではない。自分の懐具合における極上にはほぼ出合った気がしている。それには理由があって、ぼくにとっての旨い肉は「とろけそうなほど柔らかい肉」ではないからだ。柔らかい肉が旨い肉ではありえず、むしろ「頼りない肉」なのである。口に入れた瞬間とろける肉を食べるために大枚をはたく気はない。予算内で楽々済ませられ、野趣溢れる肉汁が広がり、しっかりした歯応えのある肉にぼくは十分に満足できている。

ところが、魚ときたら、いくらでも上には上がある。たとえば、「これは究極のブリだ」と感嘆したと思ったら、翌年に別の場所で別のブリを絶賛することになる。刺身が旨いと思ったら、ブリカマがもっと旨かったりもする。年齢のせいかもしれないが、魚のほうに奥行きを感じる今日この頃だ。

ここまで旨い魚を絶賛してきたくせに、少々興ざめなことを書こうとしている。「旨い魚は旨い」というのは不正確で、実は「旨い魚」などないのである。生のままであろうと焼こうと干そうと煮ようと、魚が旨いのではない。旨さは魚側の属性ではなく、人間側の、味覚を含む五感と価値観によって捻出される。昨今用いられることばでは〈知覚品質〉が近い。「旨い」とは、ぼくたちが「認めていて好んでいる価値の表現」なのである。裏返せば、「不味まずい」は、「認めるどころか、嫌っている価値の表現」だ。だから、「旨い魚は旨い」と「不味い魚は不味い」のいずれもが成り立つ。しかも、同じ魚料理について二様に評されるのである。