見えるもの、見えないもの

辞書にはまだ収められていないが、ぼくがよく用いることばに〈偶察〉がある。文字通り「偶然に察知すること」で、観察とは対照的な意味をもつ。注意深く何かへ意識を向け、その対象をしかと見るのが観察だ。偶察とは、その観察の結果、意識を向けた対象以外のものに気づくことである。観察と偶察、決してやさしい話ではない。週末の私塾ではこれをテーマにして「見えざるを見る着眼力」について話をした。

ぼくたちは何かを見ているつもりだろうが、実は、いつもじっくりと見ているわけではない。見慣れた対象における小さな変化に気づかないし、インパクトのある“X”に気を取られている時は、すぐそばの目立ちにくい“Y”が見えていない。体力や気力が消沈すると目線が外部に向かう余裕を失う。まなざしは自分の内面ばかりに向かうことになる。

ところが、さほど意識も強くないのに、心身の具合がいいとよく見えよく気づく。主観的かつ自覚的に観察するぞなどと意気込まなくても、自然体でものが見えてくる。暗黙知を極めたプロフェッショナルはそんな軽やかな観察に加えて、偶察にも恵まれるのだろう。たしかに、ある店の主人は顧客の立ち居振る舞いをよく見ているし、服装や髪型の変化に気づいていそうだ。しかし、逆に、これでよしと主人が考えている店の装いの不自然さに顧客のほうが気づいていることもあるだろう。


どの本に書いてあったのか忘れたが、「森を横切って長い散歩をした時、私は空を発見した」というロダンのことばをぼくはノートにメモしている。いい歳をして、ロダンはその時初めて空を見た? そんなバカなことはない。何度も空を見ていたはずである。この文章は次のように続く。

「それまでは、私は毎日この空を見ていると思っていた。だが、ある日、はじめてそれを見たのだった。」

あることを以前見たつもり、あることを毎日見ているつもり。それでも、ある日突然、それまでの観察はまったく観察の名に値しないことを知る。今見ている空に比べれば、ぼくがこれまで見てきた空など空ではなかったという、愕然としつつも、身体に漲る爽快な感覚。見ることだけでなく、味わうことにも考えることにもわかることにも生じる、「目から鱗の瞬間」だ。そして、見えたり見えなかったりという能力に喘ぎ、見たり見なかったりという気まぐれを繰り返しているかぎり、目から鱗は剥がれ続けるのだろう。