“Fixed match”

時事的には少々旬が外れたが、ちょうどよい振り返り頃ではある。英字新聞には ” fought a fixed match with (against) ……” などと表現されている。他に “fixed game” という言い方もあるし、レースなら “fixed race” と呼ぶ。スポーツ全般、古今東西で存在してきたのが、この “fixing” という行為である。英語で表現すると何だかスマートに見えてしまうが、ずばり「八百長」のことだ。八百長は八百屋と囲碁に由来するが、子細は省く。

昭和30年代のスポーツと言えば、大相撲にプロレスにプロ野球だった。大阪市内の「ディープな下町」で8歳育ったが、当時町内でテレビを置いていたのは金物屋の爺さんの家だけだった。爺さんは大の相撲好きで、足の踏み場もないほど隣近所を集めては一緒に観戦するのだった。場所中は連日の十五日間、人が集まった。サラリーマン家庭が少なかった地域だったから、夕刻の早い時間でもテレビの前にやって来れたのだろう。駆けつけるのが遅いと玄関から遠目に見なければならなかった。

今にして思えば、爺さんたちはぼくたちにわからぬよう賭けていたのかもしれない。それはともかく、千秋楽の日には、力士のどちらが勝つかよく当てていたものだ。自前の星取り表を見ては、「七勝七敗のこっちが八勝六敗のあっちに勝つ」などと一番前に予想する。時には「この二人は同部屋みたいなもんだからな」とも言っていた。最近の千秋楽もそうらしいが、当時も、勝ち越しのかかった力士が大負けしている相手や優勝争いから脱落しているが星のいい相手に見事に勝つケースが多かった。子どもだったが、何かがありそうなことに薄々気付いていた。


「フィックスされたマッチ」とは、戦う前から結果が仕組まれている試合のことだ。「出来レース」とも言う。八百長に語弊があるのなら、単純に「出来」と呼んでおこう。閉じた勝負事の世界に出来はある。『侠客と角力』という本にも博打と相撲世界での出来について書いてある。出来はある意味で環境適応の本能かもしれないと思う。15歳やそこらでその道に入り、世間一般とは異なるルールやしきたりを刷り込まれる。当然、適応のための知恵もつく。ルールの中に反社会的な要素があることに気付くためには、入門前に社会の常識をわきまえておかねばならない。天秤の一方の台座に「世間の常識」、他方の台座に「土俵の常識」を載せれば、ふつうは世間の常識が重いはずだが、あいにくそちらの台座が空っぽだから、つねに土俵の常識(=社会の非常識)側に天秤が傾くのである。

ところで、強者がこの一番でどうしても勝ちたい時、通常の力関係で勝てそうな相手にわざわざ大枚をはたいて負けてもらう必要があるのだろうか。ふつうに考えればありそうにない。大人が幼児に小遣いを渡して腕相撲をすることはないのである。だが、万が一に備えて、念には念を入れて、優勝や昇進のかかった大一番では出来が仕組まれることもあながち否定できない。

「もし大相撲がなくなったら……」と聞かれたら、「そりゃ困るよ」と言うほど身近だった時代があったし、誰もが熱狂した時代があった。しかし、時代は変わった。スポーツは多様に人気が分布し、スポーツ以外のエンタテインメントも何でもありだ。文化や伝統を盾にしても、相撲でなければならない理由は見当たらないのである。消失して困る人よりも困らない人のほうが多くなれば、やがて慈悲に満ちた救済の声も消え入るだろう。人気とはよく言ったもので、対象を取り巻く人の気が弱まれば対象の存在価値も失せるのである。

さあ、どうする、大相撲? 階級制にするのか、部屋を解体するのか、ハンデ戦にするのか。あくまでもスポーツとしての道へ向かうのなら、儀式性や旧態依然としたしきたりと決別しなければならないだろう。いやいや、伝統的芸能ないしは興行的見世物としての要素も残すのか。いま、こんなふうに問うても、論争の対象にすらならないほどの死に体なのかもしれない。どうやら「業界の、業界による、業界のための存在」が最善の選択になりそうである。

理念不履行の人々

何らかの理念を標榜するかぎり、その理念で謳っている目的なり善行なり約束なりを日々実践することが期待される。たとえば、「顧客に最高のおもてなしを」と記述された理念は目的であり善行であり、そして約束であるだろう。目的を遂げること、善行をおこなうこと、ひいては公言した理念の約束を守ることのすべてを平気で怠るのなら、そもそも理念など標榜することはない。理念と現実は完全一致することは稀だが、少なくとも現実がたゆまなく理念に近づくよう仕向けなければ、理念の意義はない。

プラトンのイデア論はさておき、ひとまず強調しておきたいのは、ぼくたちが理想世界と現実世界の両方を同時に生きているという点である。もし理想世界を描かないのなら、現実世界のありようを定めるすべはない。理想と現実の間に横たわる隔たりはつねに現実側から埋めるべく対処せねばならないのである。さもなくば、理想の高みを諦めてかぎりなく現実に落とすしかない。それは理屈抜きに現実を生きることを意味する。

死刑廃止を理念とする論者は、わが国にあっては死刑制度の維持という現実に対峙する。死刑廃止が自身の揺るぎない人生哲学なら、制度廃止への努力を不断に続けなければならない。したがって、ふつうに考えれば、その論者が現実に死刑執行を命じる立場にある法務大臣の任に就くべきではないということになる。しかし、変な喩えだが、ダイエットを理想としながら食を貪ってしまう現実があるように、あるいは、一流のプロフェッショナルを理想としながら一・五流のプロフェッショナルとして当面の仕事をこなさねばならないように、死刑廃止論者にもかかわらず死刑執行の命を下さねばならない現実は当然ありうる。しかも、死刑制度を維持する国家の法務大臣という現実の中にあってさえ、執行命令を下すべき「理想」を回避して、見送るという「現実」を選択したお歴歴も大勢いたことは事実である。


中村元の『東洋のこころ』に次の一節がある。

かれら(アーリヤ人)は民族的自覚が弱かった。今日に至っても宗教が中心になるので、ヒンドゥー教徒であるとか、イスラーム教徒であるとか、宗教的自覚に基づいて行動します。(……) これに対して日本人は宗教意識が弱くて、むしろ人間的結合、組織というものを重んじます。この違いは、遠く民族の原始宗教の時代までさかのぼることができます。
(括弧内および下線は筆者の補足)

少々強引だが、宗教的自覚ないし宗教意識を「理念」に置き換えてみたらどうだろう。新年に寺に参り、神社の夏祭りに興じ、友人の結婚に際して教会で賛美歌を歌う。合格祈願の鉢巻をして祈り、神棚に手を合わせる。無神論者が御守を携え縁起をかつぐ。必要に応じて都合よく神や祈りを使い分けるご都合主義は、国家や経営の理念を掲げながらも現実の人間関係や組織の状況を優先するのに酷似している。皮肉まじりで嘆いているのではない、理念通り哲学通りにまったくぶれないで現実を生きることには覚悟がいると言いたいのである。

かつて「日本人には原理原則がない」と『タテ社会の人間関係』で主張した中根千枝が、世界の人々に大いなる誤解を与えたと一部の識者に批判を浴びたのを思い出す。この四十年余り、とりわけ昨今の政治的リーダーシップや企業倫理を見るにつけ、原理原則の不在に反論する気は起こらない。まったくその通りなのである。タテマエでは理念を崇高な善として祭り上げながら、ついつい現実に流されて都合よく理念を棚上げにする風潮は廃れていない。いや、中村元によれば、「遠く民族の原始宗教の時代までさかのぼる」のだから、もはやDNAレベルと言うほかない。

理念不履行の人々が最大派閥を形成するこの社会。時には理念に反する現実にやむなく迎合せねばならないという都合――よく言えば、柔軟性――は、ぼくたちの行動や約束ぶりに内蔵されている。理念は形式であって、現実が内容なのである。理念と現実を天秤にかけること自体がもはや理念主義ではないのだが、その天秤はいつも現実のほうが重くなるようにしつらえられているようだ。理念不履行の人々を糾弾する気はないが、切羽詰まった挙句に理念を軽く扱うのなら、最初から現実主義で生きればいいのである。この国の風土で形成される理念はきわめてもろい。「できもしない、やる気もないことをつべこべ言う前に、さっさと仕事をしろ!」と乱暴にぶち上げた昔気質のオヤジの一理は渋くて強い。